「或る女」についてのノート
宮本百合子
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有島武郎の作品の中でも最も長い「或る女」は既に知られている通り、始めは一九一一年、作者が三十四歳で札幌の独立教会から脱退し、従来の交遊関係からさまざまの眼をもって生活を批判された年に執筆されている。
「或る女のグリンプス」という題で『白樺』に二年にわたって発表されたらしい。私共がそれを読んだのはそれから足かけ七年後、作者が題を「或る女」と変えて著作集の一部として発表した頃であった。一九一七年、一九年に出たから作者は既に四十二歳になっていた訳であろう。
今度読み直して見て、私は作者がどうしてこれほどの執着をもって、この題材にあたったのであろうかという好奇心を感じた。何故なら、率直に言ってこれは菊判六百頁に近い程長く書かせる種類の題材でなく感じられたし、長篇小説として見ればどちらかと言えば成功し難い作品であるから。しかも、作者は一種の熱中をもって主人公葉子の感情のあらゆる波を追究しようとしていて、時には表現の氾濫が感じられさえする。
葉子というこの作の主人公が、信子とよばれたある実在の婦人の生涯のある時期の印象から生れているということはしばしば話されている。
作者が二十六歳位の時分、当時熱烈なクリスチャンであった彼は日記をよくつけているが、その中にこういう箇所がある。
「余は去りて榊病院に河野氏を訪ひぬ。恰も Miss Read、孝夫、信子氏あり。三人の帰後余は夫人の為に手紙の代筆などし少しく語りたる後辞し帰りぬ。
神よ、余は此の筆にするだに戦きに堪へざる事あり。余は余の謬れるを知る。余は暫く信子氏と相遭はざりき。而して今日偶彼女と遭ひて、余の心の中には嘗て彼女に対して経験せざりし恐しき、されど甘き感情満ちぬ。彼女の一瞥一語は余の心を躍らしむ。余は彼女の面前にありて一種深奥なる悲哀を感ず。彼女のすべては余に美しく見ゆ。余は今に至るまで彼女を愛しき。されども今日は単に彼女を愛すてふそれにては余の心は不満を感ずるなり。さらば余は彼女を恋せるなるか。叱! 神よ、日記は爾が余に与へ給へる懺悔録なり。余はこの紙に対して余の感情をいつはり記すこと能はず。故に余敢ていつはらずして此事を記しぬ。嗚呼。神如何なれば人の子を試み給ふや。如何なれば血熱し易き余を捕へ給ひて苦き盃を与へ給ひしや。如何なれば常に御前に跪き祈りし夫れを顧み給はざるや。余の祭壇には多くの捧物なせる中に最大の一なりし余が laura を捧げたる夫れなりき。而して余は神の供物を再び余のものたらしめんとするなり。汚涜の罪何をもつてかそゝがれんや。ヒソプも亦能はざるなり。苦痛、苦痛、苦痛。神よ、願くば再び彼女と相遭ふを許し給はざれ。願くば余の心に彼女を忘れしめ給へ。彼女の心に余を忘れしめ給へ。彼女に祝福あれ。彼女によき夫あれ。彼女によき子女あれ。而して彼女の天使の如き純潔何時までも地の栄たれ光たれ。直かれ。優しかれ。美しかれ。神よ、余の弱きを支へ給へ。余をして汝の卑きながら忠実なる僕たらしめ給へ。若輩は徒事に趨るもの多し。願くば余を其道より引き戻し給へ。余は彼女を恋せず。彼女は依然として余の愛らしき妹なり。愚者よ何の涙ぞ。」(下略)
「頭痛堪へ難し。今日又余は彼女に遭ひぬ。然り彼女と共に上野を歩しぬ。余は彼女に遭はざらん事を希ふ。余の頭は今克く其戦に堪へず。」云々。
同じ頃、まだ生活の方向をも定めていなかった若い有島武郎は信仰上の深い懐疑を抱いたままアメリカ遊学の途に上った。一九〇三年の九月にシカゴに着いた。そこで森という一人物に会って信子について物語をしていることがやはり日記に残されている。
「……兄と余とは交る〴〵信子君につきて見聞したる所、並に余等の彼女に就きてかくと信じたる事を語りぬ。彼の胸の屡々波打ちて涙睫に逼らんとせしは、余之を見逃す事能はざりき。余も幾度か涙に破れんとせり。森は曰く『余今に及びて彼女を娶らんとは云はず。されども初めて彼女と約する時、余はよく彼女の性質素行の如何なるものかを知り、彼女が世上に種々なる風評を伝へらるゝとも決して之を以て煩ひとなす事なく永く相信ずべきを以てせり。而して此度の事、事甚大にして既に疑惑を挾むべき余地なきが如きも、未だ動かす可らざる証左を得たりといふにあらず。軽々しく人と世との評する所を信じて妄動せんは余の極めて堪へる能はざる所なりしなり。然れども余は他の方面より、余の此事あるが為に老年の両親を苦しましめ、朋友に苦慮を増さしむるを思へば、自己一身の為に他者を損ふの苦痛をなすに堪へず。遂に彼女に送るに絶交の書を以てせり。されども余の素願は、固より彼女の内部に潜める才能を認め、願くば其外部の附属物を除かんとするにありしが故に、自今と雖も若し嘗て余の行為にして彼女をいさゝかなりとも苦しましめしものありとせば、余は甘んじて是を除去するに勉めざる可からず』と。是れ実に美しき覚悟なり。余は彼が何処までも彼の面目を失ふことなく、其恋を終始せんとするを見て今更に云ふ可からざる感慨に入らんとするなり。嗚呼彼女の堅き頑なゝる皮殼を破りて中心に入り、彼女が聖愛によりて救はるゝの時来らん事を見るは如何によき事なる可きぞ。余は主の摂理願くば彼と彼女との上に裕かにして、嫉みによりて破られし総てが愛によりて酬はれん事を望むや切なり。……」
後年、有島武郎が客観的に見れば平凡と云い得る女主人公葉子に対して示した作家的傾倒の根源は既に遠い昔に源をもっていることを理解し得るのである。
作者が独立教会からも脱退し、キリスト教信者の生活、習俗に対して深い反撥を感じていた時、「或る女」が着想されたことは私どもにとって興味がある。作者は葉子を環境の犠牲と観た。日清戦争の日本に於けるブルジョア文化の一形態であったキリスト教婦人同盟の主宰者として活躍した葉子の母の、権力を愛し、主我的な生き方に対して自然の皮肉な競争者として現われた娘葉子が、少女時代から特殊な環境の中で驚くべき美貌と才気とを発揮させつつ、いつしか並はずれな生き方をするようになった、その女の苦痛と悲しみを理解しようとしている。頭も気も狭い信徒仲間の偏見と、日本の重い家族制度の絆と戦おうとする葉子を、作者は彼女の敗戦の中に同情深く観察しようとしている。人間の生活の足どりを外面的に批判しようとする俗人気質に葉子と共に作者も抵抗している。それらの点で作者の情熱ははっきり感じられるのであるが、果して作者は葉子の苦痛に満ちた激情的転々の根源を突いて、それを描破し得ているということが出来るであろうか。
私の感想では、作者は葉子と共に、あの面、この面、と転々しつつ、遂に葉子の不幸の原因は掴み出すことが出来なかったように思える。葉子が自分の死の近いことを知った時、自分の二十六年の生涯を顧みて、それは間違いであった、だが、誰の罪だか分らないけれども後悔がある、出来るだけ生きてる中にそれを償わなければならない、という意味の述懐をしている。そして、木村との関係、倉知との関係が何れも間違っていたということを言っている。最後には凡てを思い捨てた形で、許すことも許されることもない、凡ての人に水の如き一種の愛を感じるような心持に置かれている。
葉子は自分の生活を間違っていたとだけ云っているが、葉子と共に作者もそこで止まってしまっているように見える。何が葉子の中で間違っていたのだろう。それが今日「或る女」を読む読者の心に湧く当然の疑問であると思う。しんでは極めて物質的な葉子が、女の幸福、この世に於ける女の喜び、誇りの全部をかけて、ただ男とのいきさつの間にだけその解決を求めていたことに対して、それが葉子のみならず、現実に女の不幸の最大原因であることを、作者は明確に観察して描き出していない。経済的なよりどころとして葉子の生活においては次から次へ男が必要であったこと。葉子自身がただの一度も自主的に何とか経済的な面を打開しようと思っても見なかったこと。それは、日清戦争前後のロマンティックな文学的雰囲気に触れ、非常に才気煥発で敏感な葉子にあっても、やはり環境的にもたらされてそこから脱ける意力ははぐくまれていなかった不幸の最大の原因であったということを、葉子が理解しないと同時に、作者もはっきり作品の中にこの点を描き出していない。
「或る女」では、男に対する女の官能の面も鋭く忌憚なく描こうと試みられている。心が愛すばかりでなく女も男のように肉体で男に引かれるという点も作者は語ろうとしている。作者としては一歩踏み出した作家的境地においてこの決心をしているのである。だが残念なことに、経済的な理由、肉体的な理由をひっくるめての複雑多岐な男との交渉をもその一部としてもちながら、女の全生活は立体的に成り立つものであるという理解を、作者は葉子の生き方とその悲劇を語る広い背景として頭に置いていないように見える。それ故「或る女」全篇の読後感は、作者が非常に熱心に目を放さず葉子の矛盾の各場面に駈けつけてそれを描いているが、葉子という一箇の女と当時の社会的な事情との相互関係から生じる深刻な摩擦については、比較的常識的な見方で終っている。葉子の悲劇を解くためには、葉子が倉知をあのように愛し、自分がこれまで待っていた人が現われた、待ちに待っていた生活がやっと来た、と狂喜しながら、何故、妹や、或は古藤に向って、噂が嘘であるかのように、いわゆる潔白な自身というものを認めさせようとするような小細工をする気になるか。その点こそ十分に作者によって解剖されなければならないところであったと思う。遺憾ながら作者の眼光はそこまで徹しなかった。作者は、ただひたすら「昔のままの女であらせようとするものばかり」かたまっている周囲の社会に対して戦っている葉子を理解している。作者としてそれを支持している。しかし、ではどのような新しい道が葉子のためにあったろうか。葉子の時代はその新しかるべき道が女のために未だはっきりとは示されていなかった。キリスト教の文化から背を向ければ、芸術的気質のない葉子には、擡頭しようとする日本の資本主義の社会、その社会のモラル、いわゆる腕が利く、利かぬの目安で人物を評価する俗的見解の道しか見えなかったことは推察される。
作者は一九一七年に再びこの作に手を入れている。そして婦人に対して作者は道徳よりも道理を重んずることを求めている。このときに到っても、やはり葉子の中にあって彼女を一層混乱させ、非条理に陥らせている封建的な道徳感への屈伏を作者は抉り出すことに成功してはいないのである。
葉子の恋愛の描写の中に感銘を与えられることがもう一つある。それは作者が、恋愛というものに、消極的な性質を帯びたものと、積極的なものとあり、ある人の一生の時期の微妙な潮のさしひき、社会と個人との結合の関係などによって、恋愛のそれぞれの性質が発端において何れかに決せられると共に、発展の過程で恐ろしい作用を生活の上に及ぼすものだという事実を、無邪気に或は溺情的に見落している点である。葉子は最後に、倉知と自分とはお互に零落させ合うような愛し方をしたが、それもなつかしい、と云っている。作者もそれ以外には何も云っていない。恐らくこの蔭に有島武郎という人の情緒の感傷的な性格が潜んでいたのであろう。作者自身がそれによって最後を終った恋愛も、激しく震撼的ではあったであろうが、本質的にはある零落と呼び得る方向へ向って行く性質を帯びたものであった。しかし、当事者はそう思わず、主観的な歓喜と平安とを主張して終ったのであった。
「或る女」の第二章はその部分だけを取扱って十分一つの長篇を描き得るものである。この部分の価値を若し作者が十分理解して少くとも前篇を構成していたら、「或る女」は一つの古典として読まれるに堪えるものになったであろう。
葉子が自分の乳母のところで育てさしている娘定子に執着し、愛している情は筆をつくして描かれている。葉子の優しい心、女らしさ、母らしさの美を作者はここで描こうとしている。
定子を見ていると、その父であった木部に対して恋心めいたものさえ甦える場面は、ある種の読者を魅するであろうが、真にある男を愛し、やがてそれを憎悪したという痛烈な経験をもっている女の読者がその部分を読んだとしたら、果して共感を胸に感じるであろうか。
木部に対して、葉子はその貧弱な肉体と一人よがりの気質を軽蔑憎悪している。定子が生れた時、葉子は自分が木部のような者の子を生むという屈辱に堪えないで、他の男との間に出来た赤児であると母にさえ話した。そのような劇しい憎しみを持っている男の俤を伝えている定子が、無条件に可愛いということがあるだろうか。まして葉子のような気質の女である場合。──
母性は非常に本源的なものであるが、それだけに無差別な横溢はしないものであると感じられる。しんから打込んだ男の子こそ生みたいのが母性の永遠の欲求である。過去の日本における結婚が女の生涯を縛りつけた重みの中には、生まされた子を育てるという悲しむべき受動性も勘定に入れられなければならないだろう。
葉子の鋭い感情の中でこの生々しい部分は何か安易にまとめられて描かれている。葉子自身が母の心というような通俗的な定形に従って解決していたのであろうか。作者は「或る女」の広告として「畏れる事なく醜にも邪にもぶつかって見よう。その底には何があるか。若しその底に何もなかったら人生の可能は否定されなければならない。私は無力ながら敢えてこの冒険を企てた。」といっている。その「人生の可能」の一つとして定子に対する葉子の曇りない愛情を押したてているのであろうか。
作者は性は善なりという愛の感情を人間の全般に対して抱こうとした人であった。それ故葉子の定子に対する愛をもあのように描いたのであったろう。しかし今日の眼で真に人生の可能を探ろうとすれば、却って軽蔑を押えられない木部の俤を伝えている定子に対する自身の女として堪え難い苦しい感情、子供には告げることの出来ない複雑な愛憎の陰翳を勇気をもって突きつめて自身に究明することによって、葉子の人生には苦悩を通しての新たな可能性が見出されたのであったろうと思われる。
直接「或る女」には関係ないことであるが、書簡集の中に、ある親密な若い女の人に宛てて作者が送った手紙がある。こう書かれている。「とにかく張りのあるあなたにお会いするのが気持がよい。(中略)張り……それはあなたの身上です。ピンと来るようなところが全く気持がいい。あれであなたから都会人の感傷性とをマイナスすれば当然ソシアリストになる人柄です……と云うと胸が悪くなりますか。」
女の掠があった時代の書簡であるから、胸が悪くなる云々の言葉は今日にあっては、その時代の背景の前に解釈されなければなるまい。けれども、水野仙子氏の遺著の序文に書かれている文章を見ても、作者が婦人の生活力の高揚ということについては、唯心的に内面的にのみ重点を置いて見ていたことが感じられる。私には、作者有島武郎が自身の内にあった時代的な矛盾によって、一見非凡であって実は平凡な葉子の矛盾に興味を引かれながら、まぎれもないその理由によって芸術の対象としての葉子の現実を徹底的には解剖も解決もし得なかったということを感じるのである。
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸」
1936(昭和11)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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