マクシム・ゴーリキイの発展の特質
宮本百合子



 一九三六年六月十八日。マクシム・ゴーリキイの豊富にして多彩な一生が終った。ちょうどソヴェト同盟の新しい憲法草案が公表されて一週間ほど後のことであった。ゴーリキイはこの新憲法草案の公表によって引き起されたソヴェト同盟内のよろこびと、世界のそれに対する意味深い反応とを見て生涯を終った。それより前に、ゴーリキイが重病であるという記事を新聞で読み、毎朝新聞を開くごとにその後の報知が心にかかっていた。新しい憲法草案公表のことが、報道された時、私はその事から動かされた自分の感情のうちに、ゴーリキイが自分の生涯の終りに於てこの輝かしい日に遭遇したということを思い合せ、ゴーリキイは出来るだけ生かしておきたい、しかし、もし死んだとしても、彼は歴史の一つの祝祭の中に葬られる、これは美しいよろこびにみちた生涯の結びでなくて何であろうか。そう思い、そしてゴーリキイのなじみ深い、重い髭のある顔と、広い肩つきとを思い浮べるのであった。

 一九三二年以後のゴーリキイ、芸術に於ける社会主義リアリズムの問題がとり上げられるようになって後のゴーリキイは、世界の文化にとって独特の影響を与えていた。五ヵ年計画の達成と、それによって引き起されたソヴェト同盟の社会的現実の変化は、さながら一つの強大な動力となって、マクシム・ゴーリキイが六十有余年の間に豊かに蓄えた人間的経験、作家としての鍛錬、歴史の発展に対する洞察力と確信などのすべてを溶かし合わせ、すべての価値を発揮させ、世界の進歩的な文化を守るために活動させたと観察される。「どん底」を書いたのは四十年近く前であり、その頃から各国語に翻訳されて読まれるという意味ではゴーリキイは若い時から世界的な作家であった。しかし、最近数年のゴーリキイが世界的であったという意味は、それよりもっと深まったものであったと思う。多くの人の興味を引くという意味で世界的であった彼は、晩年に於て人類の文化の正当な発展のために、今日の地球になければならない楔の一つとして、われわれ文化の進歩を確信するものすべてによって愛し、尊敬される存在となっていたのである。

 私がゴーリキイに会ったのは一九二八年であった。彼が五年ぶりに、イタリーからソヴェト同盟へ帰って来た時のことで、当時ゴーリキイは、ソヴェト同盟に自分が永住するかどうかということについても、はっきり心を決めていなかったようであったし、彼としては予想したよりはるかに盛大な、心からの歓迎に感動しつつ、今日から考えると、日の出前の空が、とりどりな暁の色で彩られているような、ある複雑な不決定と、期待、歓喜が彼の感情を満していたように察せられる。

 静かな朝の十月大通りを見下す方角に大きな窓が開いている。赤っぽい、そう新しくない絨毯が敷いてある。その部屋の隣室へ通じるドアの近くにゴーリキイが腰かけている。シャツも上衣も薄い柔かい鼠色で、それは深い横皺のある彼の額や、灰色がかって、勁さと同時に感受性の鋭さを示している瞳の表情、特徴のある髭などとよく調和して感じられた。彼は、低い平凡なホテルの肘掛椅子にかけて、大きいさっぱりと温い手を自然に組み合わせている。斜向いのところに丸テーブルがあって、その上には、もうさめ切った一片のトーストが皿に入ってのっている。私が細い赤縞の服を着てそのテーブルに向い、わきに立って私の上にかがみかかっている友達に、時々綴りを訊きながら、本の扉にロシア語を下手な字で書きつけている。私はゴーリキイに、自分の小説を一冊贈るために持って行った。その扉に「予想されなかった遭遇の記念のために。マクシム・ゴーリキイへ」と、日本字で書いてそれをゴーリキイに見せたらば、彼は、日本字が読めなくて残念だと云い、その意味をロシア語でわきへ書いておいてくれと云った。私はそれを書いているのであった。書きあげて、子供より下手だと笑いながら見せた。するとゴーリキイは真面目な、親密な調子で、「なに、結構読める」と、別に笑いもせず答えた。その云い方と声とが今も心に残っている。

 あのゴーリキイがもういず、彼の残した沢山の蔵書に交って何処かに、私のあの本もあるのかと思うと、何か一口に云い現せない心持が私をみたす。何故なら私の記憶の前には、中川一政氏によって装幀された厚い一冊の本と、ゴーリキイの如何にも彼らしい「なに、結構読める」と云った声とがまざまざと結びついて生きていて、その思い出はゴーリキイという一人の大きい作家の生涯の過程を私に会得させるために、驚くほど微妙な作用を残しているのである。

 ソヴェト同盟の文学史において、マクシム・ゴーリキイは、たとえて見れば最後の行までぴっちりと書きつめられ、ピリオドのうたれている大きい本の一頁のような存在である。私たちは、自分たちの頁の数行をやっと書いたに過ぎない。ゴーリキイの生き方、作家的経験から若い時代の汲みとるべき教訓は実に多いと思われる。今日までに刊行されているゴーリキイの作品の全集や、最近の文化・文学運動に対する感想集等の外に、今後はおそらく周密に集められた書簡集、日記等も発表され、ますます多くの人にゴーリキイ研究の材料と興味とを与えることであろう。

 ゴーリキイは、全く新しい歴史的内容において世界的な意義をもつ大作家にまで完成した一典型である。ゲーテを従来の理解に従って天才者の一典型と見るそれとは本質的に異った意味で、人類の歴史が現段階に於て出現させた大才能の社会的完成の注目すべき一典型なのである。下層階級出身のゴーリキイが、そこに到るまでの道ゆきに於て、顕著な特色の一つが、今私の探求心を刺戟している。それは、ロシアのそれぞれの時代の社会的背景の前に鮮かに記録されているゴーリキイと、当時のインテリゲンツィアとの相互関係の消長である。

 マクシム・ゴーリキイが五つで父に死なれて後、引取られて育った祖父の家の生活は、無知と野蛮と、家長の専制とで、恐るべく苦しいものであった。農奴解放は行われたが、その頃のニージュニ・ノヴゴロドの下層小市民の日常生活の中心では、まだ子供を樺の枝でひっぱたくことはあたり前のことと考えられていたし、大人たちが財産争いから酔っ払って血みどろの掴み合いをしたりすることはザラであった。小さいゴーリキイの心臓はそういう暗さ、残酷さ、絶え間なく投げ交されている悪口などによってその皮をひんむかれるように感じていたのであったが、その貧と喧騒との中で、彼は一人の風変りな男となじみになった。祖父の家の台所の隣りに、長い、二つの窓のついた部屋があった。一人の痩せた猫背の男で、善良そうな目をもち、眼鏡をかけた下宿人が暮していた。何か祖母から云われる度にその男は、「結構です」と挨拶するので、「結構さん」というあだ名がついていた。小さいゴーリキイは、この下宿人の暮しぶりに非常な好奇心を動かされた。彼は物置きの屋根の上に這い上って、中庭ごしにその下宿人の窓の中の生活を観察するのであった。そこにはアルコール・ランプがあった。いろいろの色の液体の入った罎、銅や鉄の屑、鉛の棒などがあった。これらのゴタゴタの間で「結構さん」は、朝から晩まで鉛を溶かしたり、小さい天秤で何かをはかったり、指の先へ火傷をしてうんうんとうなったり、すり切れた手帳を出して、何かしきりに書き込んだりする。

 ゴーリキイは、興味を押えられず、お祖母さんに聞いた。

「あの人は何してるの?」

 するとお祖母さんはこわい声で、

「お前の知ったこっちゃない、だまっていな」

と言い、おばあさんが警戒するばかりでなく、家中の者が揃ってこの毛色の変った下宿人を愛さなかった。みんな「結構さん」をかげではわらって、贋金つくりだの、魔法師だの、背信者だのと噂している。荷馬車屋、韃靼人の従卒、軍人とジャム壺をもって歩いてふるまいながらおしゃべりをすることのすきな陽気なその細君などという下宿人の顔ぶれの中で、この「結構さん」は何という変な目立つ存在であったことか。

 ゴーリキイはだんだんこの「結構さん」と仲よくなった。ある晩、有名な物語上手である祖母の話を聞いているうちに、この「結構さん」は激しく涙を落しはじめ、興奮して長くしゃべったあげく、いきなり恥かしそうに、そっと部屋を出て行った。人々はきまり悪るげに見交しながら苦笑した。荷馬車屋が、「旦那方はみんなあんな風じゃ。」不機嫌に、毒々しく云い放った。翌日その「結構さん」が祖母の傍へぴったりよって、驚くほどの単純さで「僕は恐ろしいほど一人ぼっちです」と云っているのをゴーリキイは聞いた。その言葉がゴーリキイの幼い心につきささった。家中で、幼いゴーリキイのいうことに耳を傾けてくれるのはこの「結構さん」ばかりであった。祖父はゴーリキイを怒鳴りつけた。

「無駄口しゃべるな。悪魔の水車め!」

 だが「結構さん」は、ゴーリキイの話を注意深く聞いてくれるばかりでなく、微笑しながら、しばしば彼に云った。「ふむ、そりゃ兄弟、そうじゃないよ、そりゃお前が自分で思いついたのさ。」或は、二つの優しい打撃で「嘘つけ兄弟!」そして、ゴーリキイの話の中に織り交る、すべての余計な不信実なものを切り去るのであった。又この「結構さん」は、極くありふれた云い方で、しかも野蛮な環境の中で暮している幼いゴーリキイの智慧の芽生えを刺戟するようなことを云った。例えば、彼は云う。

「あらゆるものを取ることが出来なくちゃならない──分るかい? それは非常にむずかしいことだ、取ることが出来るということは……」

 字もまだ書くことを知らない小僧であるゴーリキイには何も分らなかった。しかし、そういう言葉は心の中に残っていて、何か特別な心持で繰りかえし思い出された。何故なら、この簡単な「結構さん」の言葉の中には彼に忘られない秘密があった。石っころだの、パンのかたまりだの、茶碗、鍋だのをとるだけのことであるならば、何も「結構さん」のむずかしがる特別な意味はある筈はないのだから。

 祖父の家の中庭の隅に、誰にも見捨てられた苦蓬にがよもぎの茂った穴がある。小さいゴーリキイは「結構さん」と並んでその穴に腰かけている。ゴーリキイは「結構さん」に訊いた。

「何故あの人達は誰もお前を愛さないの?」

「結構さん」はゴーリキイを自分の温い脇腹に抱きよせ、目くばせしながら答えた。

「他人だからさ──分るかい? つまりそれだからさ。ああいう人達でないからさ」

 彼等とは異った一人の者、「他人」として、「結構さん」はゴーリキイの騒々しくて、悪意がぶつかり合っているような幼年時代の生活の中に現れた最初のインテリゲンツィアなのであった。が、ついにこの「結構さん」が祖父の家から追い出される時が来た。それは、或る家畜の群の中に一匹たちの違う動物がまぎれ込んだあげく、やがていびり出されるのに似ていた。はっきり説明もつかないような憎悪が、「結構さん」を追ったのであった。ゴーリキイは深い悲しみの感情をもって「幼年時代」の中に書いている。「自分は故国にいる無限に多い他人──その他人の中でもよりよい人々の中の最初の人間と私との親交は、このようにして終った。」

 この物語はゴーリキイにとって記憶から消えぬものであったと共に、今日の読者である私たちの心をも少なからず打つものがある。一八六〇年代の終り、七〇年代の初頭にかけての民衆生活の重い暗さと、そこへ偶然まぎれ込み光の破片となって落ちこんで来たのは「結構さん」のような知識人のタイプ、「おお、他人の良心で生きるものではない」と嘆く一種の敗残者であったということ。しかも、同じ貧窮と汚穢の中に朝から晩までころがされながら、尚民衆は「結構さん」の中に「旦那」「他人」を嗅ぎわけて、本能的に仲間はずれに扱ったということ。それらが、幼いゴーリキイの知性の目覚まされてゆく生活の過程として、私共の心を打つのである。

 更にこの「結構さん」とのことで、はからずゴーリキイの全生涯の方向を暗示するまことに面白いエピソードが「幼年時代」に語られている。

 或る日、「結構さん」の部屋で、「結構さん」は煙の立つ液体をいじって部屋中えがらっぽい匂いで一杯にしている。ゴーリキイはボロのしまってある箱の上に腰かけている。そして、二人は話している。

「お祖父さんは、お前はもしかしたら贋金を拵えてるんだって云ってるよ」

「お祖父さんが?……うむ、そう。──それはあの人がいい加減をいっているんだ! 金銭なんぞというものは、兄弟──下らんものさ」

「じゃ何でパンの代払う?」

「うむ、そうだね──パンの代は払わなくちゃならない。まったくだ……」

「そうだろう? 牛肉代だっておんなじさ」

「牛肉代だってか……」

 彼は静かに、驚嘆するほど可愛く笑い、まるで猫にするように私の耳を擽って云う。

「どうしても僕はお前と口論は出来ない──お前は私を参らせるよ、兄弟。それよりも、さあ、黙ってよう……」

 読んでここへ来ると、私たちは思わず身じろぎをして快い笑いに誘われながら、ああ、ゴーリキイ! と思わずにはいられない。この短い、小さい逞しい人生についての問答は、私たちに後年チェホフが云った一つの言葉を思い起させる。二十四歳で、ロマンティックな作家として世に出たゴーリキイに向って、チェホフが「知っていますか? 君はロマンティストじゃない、リアリストですよ。知っていますか?」と云った。そのことを思い起させる。更にそれから後、「哲学の害」を書いたゴーリキイ自身を、そして、その晩年に於て、新しい人類的見地に立つリアリズムの理解によって六十八年の全蘊蓄の価値を傾けて民衆の歓びとなったマクシム・ゴーリキイの終曲フィナレの美しさに思い到らせるのである。

「結構さん」と、泣くことのきらいな小さいゴーリキイとの間に交わされたこの問答の中からは、ゴーリキイを通して民衆的なものの見かたの本質と、旧時代のインテリゲンツィアの特性の一面とが、鋭い対立を示して現れている。この注目すべき性質の対立は、ゴーリキイが十五歳になり、カザン市へ出かけて当時の急進的学生たちとの交渉が始まるにつれ、一層その社会性、歴史性に於て複雑な内容をもって深められ、発展するに至ったのである。

 十五歳でもゴーリキイは既に自分を年よりだと感じる程重く生活からの雑多な印象に満たされていた。

 学校で受けた教育と呼ぶことの出来るのはマクシム・ゴーリキイの全生涯を通じて小学校の五ヵ月のみである。祖父は急速度に零落し、七歳の彼も「銭」を稼がなければならなくなった。彼は屑拾いをした。オカ河岸の材木置場から板切や薪をかっぱらった。「盗みということは場末町では決して罪悪とされていなかった。それは習慣であり、又半ば飢えている町人にとっての殆ど唯一の生活方法なのであった。」

 靴屋の見習小僧。製図師の台所小僧兼見習。辛棒のならないそれ等の場所の息苦しさから逃げ出して、少年ゴーリキイはヴォルガ河通いの汽船の皿洗い小僧となった。到るところで彼は「ぼんやりする程激しく労働した。」そして、彼の敏感な感受性と自分の生活、人々の生活を熟考せずにはおけない気質とは、人々の中にあって益々多くの疑問にぶつかった。

 例えば、汽船の皿洗い小僧として、十三歳のゴーリキイは朝から晩まで皿を洗う。鉢を洗う。ナイフを磨き、フォークと匙を光らせていなければならない。だが、一方には、そうやって洗った皿を一つ一つまたよごし、鉢を使い、ナイフや匙をきたなくしてゆく人々がいる。それらの人々は全く平気に、全く当然なこととしてやっているのだが、何故これは当然なのだろう? 朝は六時から夜半まで働いているゴーリキイの少年の心には疑問が湧いて来る。何故、一方に何でもしなければならない人々があり、もう一方にはそれらの人々に何でもさせた結果を利用することの出来る人々が存在するのであろう。彼の周囲の生活の中には、泥酔や喧嘩や醜行やが終りのない堂々めぐりで日夜くりかえされているのだが、それらすべては何のために在るのだろう。

 当時、ゴーリキイは、汽船の料理番スムールイに読むことをおそわった。初めはマカロニ箱にこしかけて、『ホーマー教訓集』『毒虫、南京虫とその駆除法、附・之が携帯者の扱い方』などという本を音読させられた。が、だんだん『アイヷンホー』を読み、『捨児トム・ジョーンズの物語』を読み、「知らず知らずの間に読みなれて」彼にとっては「本を手にするのが楽しみになった。本に物語られていることは、気持よい程生活とかけ離れていた。そして、生活の方は益々辛くなって行った。」スムールイは、どこか普通の子とちがうゴーリキイを愛し、時々無駄に過ぎてゆく自分の一生に腹を立てたように怒鳴った。

「そうだ、お前にゃ智慧があるんだ、こんなところは出て暮せ!」

 然し──何処へ?

 愈々深く大きくなる「何故」という疑問、社会の矛盾に対する苦悩が、ついにマクシム・ゴーリキイを古いニージュニの場末町から押し出した。ゴーリキイは、カザンへ出た。彼はカザンで大学へ入ろうと決心したのであった。ニージュニで知り合った彼より四つ年上の中学生が美しい長髪をふりながら彼のその計画を励ました。

「君は生れつき科学に奉仕するために作られているんだ。──大学はまさに君のような若者を必要としているのだ。」

 ところが、カザンに到着して三日経つと、ゴーリキイは、自分が大学なんぞへ来るよりはペルシャへでも行った方が、もう少しは気が利いていただろうということを知った。彼独特な「私の大学」時代がはじまった。ゴーリキイは、その時代のことをこう書いている。「飢えないために、私はヴォルガへ、波止場へと出かけて行った。そこで一五、二〇カペイキ稼ぐことは容易であった。」と。

 これらの波止場人足や浮浪人、泥棒、けいず買い等の仲間の生活は、これまで若いゴーリキイがこき使われて来た小商人、下級勤人などのこせついた町人根性の日暮しとまるでちがった刻み目の深さ、荒々しさの気分をもってゴーリキイを魅した。彼等が、極端な無一物でありながら、貧と悲しみの境遇の中で自分たちの何にも拘束されない生きかたを愛していること、この人生に対して露骨な辛辣さを抱いていること、それらがゴーリキイの好奇心と同情をひき起したのであった。ゴーリキイは、この群のうちにあって「日毎に多くの鋭い、焼くような印象に満たされ」「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望を呼び醒され」た。けれども、屑拾い小僧であり、板片のかっぱらいであった小さいゴーリキイを、かっぱらいの徒党のうちへつなぎきりにしなかった彼の天質の健全な力が、この場合にも一つの新しい疑問の形をとってその働きを現わした。これらの連中は、いつ、何を話してもとどのつまりは「何々であった」「こうだった」「ああだった」と万事を過去の言葉でだけ話す、その事実にゴーリキイの観察と疑惑がひきつけられた。この彼等の意味深い特性の発見は次第にゴーリキイの心に或る恐怖を感じさせた。ゴーリキイの若い精神は、社会の汚辱と矛盾に苦しめば苦しむ程激しくよりよい人生の可能を求めた。彼は未来を、これからを、よりましな「何ものかであろう」ところの明日から目を逸すことが出来ない。ゴーリキイは彼等のように生きてしまった人々の一人ではなかった。ゴーリキイは生きつつある者、しかも熱烈に生きんとしているものの一人なのである。「このことが、彼等から私を去らしめた。」マクシム・ゴーリキイは、その自伝的な作品「私の大学」の中で活々と当時を回想している。「私は外部からの助力を待たず、幸福な機会というものにも望みをかけなかった。が、私の中には次第に意志的な執拗さが発達し、生活の条件が困難になればなる程、それだけ堅固な賢くさえある自分を感じた。私は非常に早くから人間を作るものは周囲の環境への抵抗であるということを理解した」のであった、と。

 こういう心で、ゴーリキイはカザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部屋に、大学生プレットニョフと生活しているのであった。彼の全心に「ぼんやりとした、しかし、これまで見たすべてよりももっと意義のある何物かへの欲求」を抱きつつ。

 ゴーリキイとプレットニョフとは、「どん底」の一室にたった一つの寝台をもって暮していた。ゴーリキイはそこへ夜眠った。プレットニョフは、交代に昼間。貧しいこの大学生はカザンの新聞社へ夜間校正係として働き、一晩十一カペイキずつ稼いで来た。ゴーリキイに稼ぎがなかった日は、この心を痛ましめる睦しい同居者たちは四片のパンと二カペイキの茶、三カペイキの砂糖だけで一日を凌ぐことも珍しくない。ゴーリキイは波止場稼ぎをしばしばやすんだ。プレットニョフのすすめで科学にとり組む仕事をはじめた。小学教師の試験をうけるようにというのであった。

 独習者の新鮮、真面目な努力で、どんなに若いゴーリキイが、この科学の克服に熱中したかということは想像される。そして、このむずかしい仕事の中でも手に負えないのが、ゴーリキイにとっては文法であったというのは面白い。彼は、幾分極りわるげに、しかし或る誇りを潜めて書いている。「私はその中に、生きた、困難な、気儘で柔軟なロシア語をどうしてもはめこむことが出来なかった。」この科学との取組みは案外早く終りを告げた。小学教師の試験を受けるにゴーリキイはまだ若すぎることがわかったのであった。

 ところで、この朝、この「過ぎ去った人々や未来の人々の騒々しい植民地」の一隅に変ったことが起った。そこの住人であった一人の廃兵と労働者とが憲兵に引っぱられた。プレットニョフはこのことを知ると、興奮してゴーリキイに叫んだ。

「おい! マキシム、畜生! 走ってけ、兄弟、早く!」

 ゴーリキイは、合図の言葉を知らされて、「燕のように迅く」或る場末町へ走って行った。そこは小さな銅器工の仕事場であった。そこには異様に青い眼をもった縮毛の男がいた。ゴーリキイは、社会の下積の者の炯眼で、一目でこれが真実の労働者ではないことを観破したのであった。

 この端緒から、当時のカザンに於ける急進的な学生、インテリゲンツィアとゴーリキイとの接触がはじまった。ゴーリキイは、墓場の濃い灌木の茂みの中でもたれる彼等の集りにいった。すると、彼等は波止場稼ぎの若者であるゴーリキイが「何を読んだかということを厳重に問いただした上で」彼等の研究会でゴーリキイも勉強するように決定した。そこでは、チェルヌイシェフスキイの註解附のアダム・スミスの書物を研究するのであった。アダム・スミスの読解は、ゴーリキイをひきつけなかった。

「よその小父さん」の幸福と安逸とのために自分のすべてを消耗しているものにとっては実に明らかな事実について、むずかしい言葉でこんな大きい本を書く必要はなかったという風に、ゴーリキイには考えられた。スミスが提出する経済学の命題は、生活から直接獲得されたものとしてほかならぬ彼自身の皮膚の上に書かれている。──

 然しながら、マクシム・ゴーリキイはその退屈をこらえ、「絶大な緊張をもって、草鞋虫の這っている窖の壁を見つめ、坐りつづける。」彼の内心に疼いている数限りのない「何故?」がそこから彼を去りかねさせるのであった。マクシムは、抑え難い感動をもってゲルツェン、ダーヴィン、ガリバルジなどの肖像を眺めた。そして、息苦しい室内に集って真理を擁護しながら議論をわき立たせるこれら一団の人々が、よりよい人間の生活の招来のために献身していること、彼等の言葉の中には彼の無言の思いも響いていることを感じ、自由を約束された囚人のような狂喜でこれらの人々に対したのであった。同時に、かつて経験したことのない妙なばつわるさ、居心地わるい瞬間が、ゴーリキイの生活に混りこんで来た。これらの学生達は目の前へ彼を置いて、「まるで指物師が並々ならぬものを作ることの出来る木の一片でも見るよう」な眼付でゴーリキイを眺めた。「子供が道傍でひろった大きい銅貨でも見せ合うように、誇りをもって」彼を皆に紹介し合った。これは、ゴーリキイの気質にとって工合わるかった。更に彼等は、ゴーリキイを「生えぬきだ!」「まったくの民衆の子だ!」と褒める。これもゴーリキイの気を重く考えぶかくさせた。学生達は民衆を叡知と、精神美と善良との化身のように話すのであったが、ゴーリキイが物心つくとからその日までその中に揉まれ、それと闘って来た現実生活の下で、彼は「このような民衆を知らなかった」のである。

 一八八〇年代のロシアにおける急進的な学生達の姿は、ゴーリキイの思い出をとおして、髣髴と我らの前に立つ思いに打たれるのであるが、彼等はゴーリキイを生えぬきの民衆の子として珍重しつつ、ゴーリキイを、彼等流の教育で鍛えようとした。教師たちは、ゴーリキイに自由な本の選択を許さなかった。読んだものについてのゴーリキイらしい批評を評価しなかった。彼らは云うのであった。

「君はこっちからやる本を読めばいいんだ。君に適しない領域には──首を突込むなよ」

 こういう粗暴さはゴーリキイを焦立てた。

 ゴーリキイが波止場稼ぎをやめ、パン焼工場で働かねばならなくなると、状態は一層彼にとって複雑なものとなった。パン焼工場の地下室は、一日、十四時間の労働を強いた。とても学生達と会うことが出来なくなった。彼等は、既にゴーリキイの旺盛な青年の生活にとって必要なもの、会ったり、聴いたりせずにはいられないものとなっているのに、パン焼工場の地下室へ下りて行かなければならなくなった時、その人々と彼との間には「忘却の壁が生い立った。」学生等は、生活のためにパン焼工場へ入った二十歳のゴーリキイが、彼等に会わなかった前のゴーリキイではなくなっているという重大な事実及び暗愚と無恥との中に入って精神的に孤独な境遇に暮すことがゴーリキイにとって、従前とは異った苦痛となっていることなどを、不幸にしてちっとも洞察し得なかったように見えるのである。

 彼の生涯の中でも意味深い苦悩の時代がはじまった。ロシアの民衆の中に蔵されている健康な人間性、大きい才能の強力な発芽として歴史の上に登場した若いゴーリキイが、計らずも当時の情勢に制約され、苦しんだ内的過程の有様は、今日の私達をもさまざまの示唆によってうつものがある。もし、無智と屈従とを意味する名称として解釈するその時代の習俗に従えば、ゴーリキイは既に盲目な民衆ナロードの一員ではなくなっている。さりとて、当時の急進的インテリゲンツィアたちが自身を指導者として外部から民衆に接触して行った考え方に従えば、ゴーリキイはそういう内容でのインテリゲンツィアとしてうけ入れることも出来ない。そんなに近いところで、デレンコフのパン焼工場の窖で日頃彼等の夢想している民衆の本質的な一典型が発育しつつあるという驚くべき現実の豊富さを、その時は学生達も知ることが出来なかった。もとよりゴーリキイ自身は知りようがない。ゴーリキイにとって切ない精神上の板ばさみが続いた。

 ゴーリキイの地下室仲間は、一般に、当時のインテリゲンツィアのもっている進歩性の値うちを、素直にうけ入れられない程生活に圧しひしがれていた。例えば、パン職人たちの唯一の歓びは、給金日に淫売窟へ出かけることであった。すると、そこの「喜びのための娘たち」は酔っぱらいながら彼等に、学生や官吏や「一般に小綺麗な連中」に対する悪意のある哀訴をした。それをきくと、「教育のある人達に対する片輪の伝説」で毒されているゴーリキイのパン焼仲間は不可解なものへの嘲笑と敵対心を刺戟され毒々しい喜びで目を閃かせながら叫ぶのであった。

「ウー。教育のある連中は俺達よりわるいんだ!」

 こういう仲間に、ゴーリキイは祖母ゆずりの、聴きての心を誘い込むような魅力のこもった話しかたで、よりよい人生への可能の希望を目醒まそうとするのであった。

 この時代から、ゴーリキイの心が溢れて詩になりはじめた。それが重々しくて、荒削りなのはゴーリキイ自身にも感じられた。けれども、自分の言葉で語ることによってのみ「自分の思想の最も深い混乱を表現出来るように思われ」しかも、ゴーリキイは、その詩を、彼を「いらだたせる何ものかに抗議する意味で殊更粗暴なものにした。」この生々しく切迫した若者の心持を、彼の教師である数学の学生は、さて、どう理解したであろうか。学生はこう云って非難した。

「言葉じゃないよ、錘だ!」

 ゴーリキイは、自分がいかに彼等の意企の正しさを理解し、その点で自分を解くことが出来ぬ力で彼等と結びついたものと感じていようとも、やはり自分に対しては彼等が「かなり厳格な態度」をとっていることをも感じずにはいられない。夕方の六時から真夜中まで働き、昼は寝、捏粉の発酵するのを待つ間とパンが炉の中で焼けるのを待つ間しかゴーリキイは本が読めなかった。書けなかった。彼はその間でしばしば考えた。「一体、俺はこれからどうなるのだろう。」

 この重い時期に、彼にとって生活の明るさと愛の源泉であった祖母が死んだ。だが、その悲しみを語り、優しい思い出を話す対手は一人も彼の周囲にはいない。巡査が鳶のようにゴーリキイのまわりをめぐり始めた。

 学生の集りへ出かけても、本読みは退屈なほど長くつづき、生来論争の好きでないゴーリキイには「興奮した思想の気まぐれな飛躍を追うことが困難であり」、いつも論争者の自愛心が彼をいら立たせるのであった。

 今日の歴史によって顧れば、ゴーリキイにとって苦しかったこの一八八〇年代の後半は、ちょうどロシアの解放運動が一転期に際した時代であった。以前の「人民の意志」団が分裂して、新たな「労働解放団」などが生れた時代であり、プレハーノフの書いた「我等の対立」などが、ゴーリキイの出る学生の集りでも読まれ、討論された。しかし、歴史的な意味でも若かったこれ等の学生達は、「加工を必要とする素材」として自分達が眺めていたゴーリキイに対して、時代の意義の重要性をのみ込ませるだけのゆとりがなかった。当面彼等が興味を持っていることでないことをゴーリキイが話しはじめると、彼等は忠告した。

「そんなものはやめてしまえ」

 だが、ゴーリキイにとって話したい、打ちあけたい生活の苦痛そのものはやまらない。減りもしない。当時夥しく現れたトルストイアン達の嘘偽の多い生活態度は、慈悲とか愛とかいう問題についても、突きつめた、勤労者らしい鋭い疑問をゴーリキイの心に捲き起した。彼は思うのであった。「もしも、生活が地上の幸福のために絶間ない闘争であるならば徒らな慈悲と愛とはただ闘争の成功を妨げるだけではないか」と。いわゆる温和な人々が余りにも多すぎた。卑俗なものへ適応する彼等の巧妙さ。精神のたわいない移り気、柔軟性、「蚊のような彼等の痛みを観察しつつ」二十一歳になったマクシム・ゴーリキイは自分を「馬蠅の雲の中へ脚をとられた一匹の馬のように」感じるのであった。

 折からカザン大学に学生の騒動が始った。パン焼の窖につめこまれているゴーリキイにはその意義がはっきり分らなかったし、原因も漠然としていた。パン焼職人の仲間たちは、大学へ学生を殴りに押しかけようとしている。

「おお、分銅でやっつけるんだ!」

 彼らは嬉しそうな悪意で云う。たまらなくなって、ゴーリキイは彼等と論判をはじめた。が、結局自分に学生を護り得るどんな力があるというのであろうか。

 ゴーリキイの全心を哀傷がかんだ。夜、カバン河の岸に坐り、暗い水の中へ石を投げながら、三つの言葉で、それを無限に繰返しながら彼は思い沈んだ。

「俺は、どうしたら、いいんだ?」

 哀傷からゴーリキイはヴァイオリンを弾く稽古を思い立った。劇場のオーケストラの下っ端ヴァイオリンを弾いているその先生は、パン店の帳場から金を盗み出してポケットへ入れようとしているところを、ゴーリキイに発見された。彼は唇をふるわし、色のない目から油のように大きい涙をこぼしながら、ゴーリキイに訴えた。

「さあ、俺を打ってくれ」

 この堪え難かった年の十二月の或る晩、ゴーリキイは雪の積ったヴォルガ河の崖によりかかりピストルを自分の胸にあてて、発射した。弾丸が肋骨に当ってそれた。彼は生きた。

 翌年の春、この出来事によってかえって生活に対する溌剌さをとり戻したゴーリキイは、学生仲間で知り合ったロマーシという、シベリア流刑から帰ったナロードニキと、ヴォルガ下流の或る村へ行った。ロマーシはそこで「人間に理性を注ぎ込む仕事」をし、ゴーリキイはそれを助けたのであったが、この村の生活で、二人は富農のために店をやかれ、危く殺されそうになった。農民、特に富農が「理性的に生活しようとする人をいかに執拗に憎悪する」かということ、及び、解放運動に参加する一勢力として持っている農村の複雑性、非社会性を、極めて現実的に(トルストイが「イワンの馬鹿」に神を認めたのとは違った風に)ゴーリキイが把握するに至ったのはこの期間の緊張した経験が役立っているのである。

 一八九〇年代に入っては、ニージュニの情勢も移った。急進的なインテリゲンツィアのグループは、今やマルクスの著作を読んでいた。「唯物論者」となった人々の間には、相も変らず盛んに討論が行われている。ロシア全土は、歴史に著名なポベドノスツェフの辣腕によって窒息させられ、チェホフが友人への手紙に「ロシアは専制によって滅亡に近づいている」と書いた時代であった。多くの有能な生命が監獄とシベリヤとで滅ぼされている。しかし坐って論じている人々は、歴史の必要性というものを自身の偸安の便利な云いわけにつかった。この時代、ゴーリキイはコロレンコに近づき、コロレンコに於て、信頼するに足るインテリゲンツィアのタイプを見出したのではあったが、当時の不健全な傾向として現れていた理論の遊びは、ゴーリキイをついに放浪の生活に誘惑した。処女作「マカール・チュードラ」は実にこの放浪の旅の終りに彼が落付いたチフリスで(一八九二年)書かれたものなのである。

 チェホフが、彼の敏感と人間らしい良心によって、当時一部のロシア・インテリゲンツィアに対して抱いていた忌憚ない反撥と、ゴーリキイが勤労者としての本性によってインテリゲンツィアの中に、有用なものと不用なもの──むしろ有害なものとを嗅ぎわけようとしていたことは、それぞれの価値で非常に教えるところがあると思う。チェホフが、当時の一部のインテリゲンツィアに対して抱いた憎悪の最大な原因は、彼等の頭脳の怠惰さであった。「彼らは、いつも不平をこぼし、躍気になって何も彼にもを否定します。怠惰な頭脳には、主張することよりも否定する方が容易だからです。」そして、更に、如何にも彼自身がインテリゲンツィアであること、インテリゲンツィアが彼自身の怠け者の同族に向って感じる厭悪と憤懣とを制せられぬ口調で云っている。「あの手合いのようなお喋りを読む時、露骨に嫌悪を感じます。熱のある患者は食物を摂りたがらず、何か酸っぱいものという漠然とした要求をします。私も亦何か酸っぱいものが欲しい、そしてこれは単なる偶然ではありません」と。

 この要求がチェホフに「桜の園」を書かせたのであったろう。然し、チェホフは自身の誠実な生活の全体で、当時の優秀な知識人が渇望していた「酸っぱいものへの要求」を、漠然としたものなりに歴史の進歩に向って声明し得たに止った。

 若いゴーリキイが深い苦悩と歓喜とをもって経験したインテリゲンツィアとの相互関係の歴史は、チェホフの場合と本質的に異る。いわば新世界の創造の暁に、民衆が半ば目醒め、半ば暗さに置かれながら切実な要求に衝き動かされて熱心に餌じきを求め、直感的にその腐った部分とそうでない部分とをよりわけたのと似ている。「あの人の心の中には、何か調子はずれなものがあってよ。……人間の中にそういうものの在るのに気がつくと、私はその人が肉体的に不具なような気がして来るの。」これは、ゴーリキイがインテリゲンツィアを書いた戯曲「別荘の人々」の中でカレエリヤという女が云う言葉である。ゴーリキイ自身がこのように感覚的に、而も彼の持前である鋭い、生活的な観察、熟考に裏づけられつつ、既成の文化から、発展的なものを吸収して行ったと思われるのである。

 一八九八年、社会民主労働党が結成された年、既に「光栄の峰」へ向いはじめていたゴーリキイは政治的活動をしたという理由で逮捕された。「小市民」の上演が禁ぜられ、「どん底」でゴーリキイの名は世界的になっていた。そのおかげで、一九〇五年のかの日曜日の後、ペテロパヴロフスクの要塞監獄に投獄された彼が命を全うしてイタリーへ政治的移民として住むことが出来たのであった。

 ほぼ二十五年に亙るレーニンとの友情が結ばれたのは一九〇七年のことであった。「母」を書いて後、「敵」がもう数年前書かれているのに、マクシム・ゴーリキイが一九〇八年から三四年の間にはいろいろ動揺して、召還主義の連中とカプリの労働学校を創立したり、創神派の弁護者としてレーニンに彼らとの妥協を求めたりしたことは、我々の注目をひきつける。この時代ゴーリキイは、ロシアを離れていたことからも一九〇五年後の民衆の成長のテムポと方向とを十分掴めなかったと同時に、今日の目で観察すれば、彼は或る意味で「私はそれを知っている」と確信をもって云い得るものが陥り易い一つの誤りに陥っていたことが理解される。ゴーリキイが、ロシアの民衆を最もよく知っているのは自分であると思っていたことは自然なことであろう。彼は一九〇五年の失敗を、大衆が十分組織をもっていなかったからであると知らず、外部からの力の不足を認識するにつれ、民衆は民衆の中の独自な力、神によって解放され得ると希望を求めたのであった。ゴーリキイの素朴な的をはずれたこの心痛を、創神派の連中は利用した。彼等のインテリゲンツィア的理論づけ、組立ての外観が、当時に於て一過渡期にいたマクシム・ゴーリキイを一時からめ込んだのである。四十歳になり、世界の作家ゴーリキイになっていた彼は、この時、二十代の生一本さを失っていたとともに、知識で装った敵を破るだけに力強い真の民衆としての世界観をも未だ確立させていなかった。レーニンがゴーリキイに、噛んでふくめるようにその誤りを説いている書翰集は、今日に於ける尊い遺産として忘られぬ価値をもっているのである。

 こういう興味あり且つ重大な動揺を、生涯にゴーリキイは一度ならず経験している。一九一六年にロシアの警保局が莫大な金をつかって『ロシアの意志』という、殆ど革命的な新聞を発刊し、アンドレーエフや、ブーニン、クープリン、ソログープなどを動員したことがあった。その時、極く少数の作家がそれへの参加を拒絶したのであったが、ゴーリキイも自分の文筆の意味を全く正しく評価し、当時としては格外に高い原稿料を払ってその作をのせるという誘惑的な申出に勝った。

 この場合、ゴーリキイが作家の価値及び一般急進的インテリゲンツィアの任務に加えた評価は、褒むべきであったが、彼のその気持は一九一七年の一大画期に於て、再びレーニンと対立するような結果を導き出した。

 ゴーリキイは、「十月」の震撼的高揚の後にも「大衆の理解力は依然として外からの指導を必要とする力として残るであろう」としか考えられなかった。過去百年の間にロシアのインテリゲンツィアがなした準備、「彼等が労働者の心に社会的ヒロイズムと教養とを与えたから」こそ今、「十月」を招来せしめたと見るゴーリキイには、レーニンが、インテリゲンツィアを新社会の指導力の中心に置かぬことを理解しかねたのであった。彼がこの点について、自身の判断が誤っていたことを実感をもって理解したのは、おそらく一九二八年、ゴーリキイが五年ぶりでソヴェト同盟にかえって来た時ではなかったろうか。その晩年に於て彼が「過去に於て勤労階級の有能な才能は実にしばしば彼らを低く止めて置くところの力に奉仕させられた」と実感をこめて云っている短い言葉の中には、卓抜な人間的・文学的才能にめぐまれつつ民衆の一人として経て来なければならなかったゴーリキイの、すべての時代的な真価と誤りとが率直に含蓄されていると思う。

 マクシム・ゴーリキイは「錯雑した歴史の事件の中に自分自らを見出し、そして全人類的なもの、善なるものを創造しつつある意志に自分の意志を沿わせ、人生の意義をその中にふくむ偉大な創造に障害を与える意志に対立すること」が、作家にとって一番大切なことであることを身をもって示した作家であった。マクシム・ゴーリキイは歴史の正しい進展のために文学の仕事をもって献身し、その歴史の輝やかしい達成のうちに彼自らをも成り成らした。歴史性と才能との関係について稀有な典型を示しつつ彼の六十八年の生涯を終ったのである。

〔一九三六年八月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年1220日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房

   1952(昭和27)年10月発行

初出:「改造」

   1936(昭和11)年8月臨時特大号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年116日作成

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