私の会ったゴーリキイ
宮本百合子
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私がマクシム・ゴーリキイに会ったのは、ちょうど今から足かけ八年前の一九二八年の初夏のことであった。
知られているとおりにゴーリキイは一九二三年にその頃まだ生きていたレーニンのすすめによって、持病の肺病の療養のためにイタリーへ行ってそこで暮らしていた。
五年ぶりでゴーリキイがソヴェトへ帰ってくる。このことはソヴェト同盟の大衆にとって一つの大きい興味と感動の中心であった。五年の間に非常なテムポですすめられたソヴェト同盟の社会的建設の成果を、文学的・文化的前進の姿をこの馴染みふかい大衆からの作家であるゴーリキイは何とみるであろうか。
ゴーリキイが帰ってくるということがきまった春、モスクワ、レーニングラードその他の主な都会では特別にゴーリキイ歓迎のための展覧会をひらいた。それには当時のラップをはじめ、アカデミーの文学部、人民文化委員会の芸術部等が共同的に参加して、まことに有益な催しをもった。
ゴーリキイの原稿、それから一九〇五年にゴーリキイが宣伝文をかいたというために検挙されたペテロパヴロフスクの要塞監獄の監房の写真、さらにトルストイやチェホフなどとあつまっている記念写真、レーニンと西洋将棋をさしている写真など興味ふかいものが並べられた。
この展覧会で私の心をうった一つのことは、ゴーリキイの幼年及び少年時代の写真というものが一枚もなかったことである。レーニンの三つくらいの時の愛らしい写真はソヴェト同盟の幼稚園の壁にかけられている。しかしゴーリキイは一枚も子供時代の写真をもっていない。つまり写真なんか撮ってもらわなかったそういう幼年・少年時代が伝記的な作品「幼年時代」「人々の中」「主人」「私の大学」等に描かれているのであるが、この写真のないことでも幼いゴーリキイが子供心にそれと闘いつつ成長してきた野蛮な暗い愛情のない環境が想像されるのであった。
この展覧会はロシアの若い人々の間にどの作家がもっとも多く愛読されているかという統計をかかげていた。外国の作家で一番愛読されていたのはジャック・ロンドンであったと思うが、ロシアの古典作家ではトルストイ、現代作家ではゴーリキイが最高であった。
ゴーリキイが困難な生活の間からこの人生に対してさまざまな深い印象をうけ、どうしてもそれを語りたい心持ちをおさえられなく小説をかき始めたのは、かれの二十三の歳であった。以来三十有余年の間にゴーリキイの作品は世界の人々に読まれ、また次から次へと新しく成長して文化の担い手となってくる若い人々にこの社会の発展の可能性を信ずる心と、屈辱とたたかってゆく勇気とを与えているのであった。
ゴーリキイがイタリーからモスクワへついた時、あまりのまごころからの歓迎に感動して、暫くは挨拶の言葉も出ず、殆んど涙をおとすほどであったということは誰知らぬものもない。
モスクワはもちろん南ロシアの方までも巡遊した後、ゴーリキイはレーニングラードへやってきた。かれが宿ったヨーロッパ・ホテルにちょうど私も泊りあわせた。だいたい私は名士訪問ということはきらいであるが、このゴーリキイにだけは会ってみたかった。
そこで小さい紙片に下手なロシア語で、一人の日本婦人作家があなたに面会したいと思うが時間はあるだろうか、若し会ってくれるのなら都合のよい時間を教えてくれとかいてやった。ゴーリキイは簡単に明日九時頃に待っていると答えてよこした。
その時間に私はゴーリキイの宿っていた部屋の扉を叩いた。窓の二つあるさっぱりしたその室内には何も特別なものがなく、ただ私より先にきた誰かと話しながら食べて、そのままそこに忘れられているようなトーストが一ときれ皿にのってそこのテーブルにある、それが印象にのこった。
隣りの部屋から息子と一緒にゴーリキイが出てきた。実に背の高い肩幅のひろい年寄り。写真でなじみのあるあの髭、薄いねずみいろのフランネルのシャツ、その上に楽に羽織られているやっぱり灰色のような単純な上衣。握手した手は温かく大きく、そしていかにもさっぱりしている。私は、これは日向の立派な樅の木だ、とそういう感じに打たれた。
私たちは簡単にソヴェトの文学のこと、日本の文学のことなどを話し、私はピリニャークが日本にきて後かいた「日本印象記」のことについて短い感想を述べた。つまりピリニャークの文章は気取っていて面白いかも知れないが、日本という国の実際はあれには描かれていないし、女である私からみればピリニャークが芸妓というものを他のヨーロッパの作家でもそう思うであろうように、大変幻想的な美しさにみちたものとしてかいている点は、ソヴェトの作家として不満を感じるといった。
何しろそのころの私のロシア語でそれをいうのであるからゴーリキイとしても要点をつかむのに困っただろうが、彼は持ち前の注意ぶかさ、老年になってもちっとも衰えることのない集注的な眼つきで私の話をきき、フムフムとうなずき、私があなたはピリニャークをどう思うかと訊いた時、彼は全く素朴な、しかもきわめて痛切な表情でもって、たった二た言、
「ふーン、あれか」
というような意味の言葉をいい、それだけで決定的な評価が感じられるようないい方をした。決して個人的な軽蔑をしめしているのではないが、ながい階級的な文学的な訓練によって鍛えられた一箇の大きい人格がはっきりこの世の中に現われてくる才能の大きさ、誠実さを洞察している明徹な力をその言葉に感じたのであった。
なお日本の話が出て、ゴーリキイは私に、日本では婦人が自由に本を出版することが出来るのかときいた。私はそれは出来ると答えて、なぜそのことを訊ねたかということを逆に問い返した。
ゴーリキイは、ムッソリーニは婦人に出版権を与えていない。婦人の作家たちはイタリーで本を出す時、夫或いは父親、その他の法律上の親権者に許可を求めてやっと本を出すということを説明し、「かの女らは美しいイタリーの空の下で、そういう生活をしている」といった。
私が会って話した時間はたかだか一時間に充たず、それはゴーリキイの生涯にとって或いは殆ど間もなく忘れられたような瞬間であり、私の一生にとっても時間的にはまことに短い一刻であった。しかし、彼の風貌が直接私にあたえた深い信頼の感じ、さまざまな歴史の断面をつねに変らぬ努力と誠実さとをもって生きぬいて今日に至っている一箇の人間的チャムピオンの感銘は、終生私の心から消えることがないであろう。
昔から偉大な作家の例としてひかれるのは、シェークスピアであり、ゲエテである。しかし、シェークスピアは或る時代あれだけの演劇的活動をやったが、彼を贔屓にしたエリザベス女王が亡くなると、前から心がけよくためておいた貯金と土地と家とをもって、昔かれが若く貧乏であった時、領主の鹿を売ったということでいたたまらなくした故郷の村に帰って、楽隠居の生涯をおくった。またゲエテはあれほどの大きな才能の所有者であったが、晩年はフランス革命に対してそれを嘲笑する詩をかいた。
だが、ゴーリキイはこれらの人々とは全くちがう晩年をおくった。かれが一九三二年の文学生活四十年祝祭を記念として、ついに大衆の党の組織に結びつけられたこと、それから後の四年間にゴーリキイがおこなった文化・文学的活動のひろいこと、確信にみちていること、若々しい新社会への期待と愛に輝いていることはどうであろう!
ゴーリキイはシェークスピア、ゲエテなどと決定的にその本質を異にした完成をとげた。一八九〇年代のロシア文壇に初めて大衆の中に蔵されている人間的精力、文学的能力の可能性の強大さを印象づけながら立ちあらわれたゴーリキイは重苦しい反動時代、かれにとっていろいろの点で理解が困難な点をもふくんでいた「一九一七年」等を経て、どこまでも大衆の発展・建設とともに自分を拡大し、晩年のゴーリキイはまったく大衆の最も尊敬すべき代弁者となった。
かれの才能はかつてその個人的な豊富さで世界に注意を促したが、晩年のゴーリキイはソヴェト同盟という歴史に新たな人類の社会的地盤の上において、個人的才能というものが如何ほどの社会性・国際性において実りうるものであるかという典型をしめした。これは、文学の世界においてゴーリキイによって始めて達せられた輝かしい見本である。
ゴーリキイの文学的成果は非常に豊富である。一九三二年前後に邦訳で出版された全集だけでも二十四冊あり、なおその後の文学的活動は更に数冊の本となって現われるであろうと思う。彼から学ぶべきことは非常に多い。中でも彼の全生涯を回顧してわれわれに大きい暗示を与えると思うのは、彼の初期の作品に現われていた誰知らぬものもないロマンティックな要素と、それの発展の過程である。
ゴーリキイが沢山かいている自伝的要素の多い諸作品でよくわかるように、ゴーリキイがものごころついてから一九〇一年頃に至るまでの期間は、彼にとって実に苦しい、まだ方向のはっきりきまらない闘争の時代であった。生れつき屈辱に対して敏感であり、人間生活の明るさ美しさをもとめていた若いゴーリキイが現実生活の中で日夜自分の周囲にみるのは当時のロシアの民衆がおかれていた無智と泥酔と、おびただしい才能の浪費とであった。
彼はそれらのものとその性根において妥協することが出来なかった。また或る種の人々のように工合よく屈辱に自分を馴らすために物わかりのよい人間に自分を作りなおすことも出来なかった。さりとて当時の若いゴーリキイには一人の青年としてすぐ周囲の環境を変更するだけの力のなかったことは当然である。高まろうとする心、よりよい生活に向おうとする情熱は、それかといって眠らされてはいない。
そこでゴーリキイは自分の描く作品の中に、いろいろな人物の性格の中に、苦痛でおしまげられず日常の狭苦しい平安のためにあくせくすることを軽蔑する心、人類に約束されている偉大なことに憧れる心持ちを歌ったのであった。
ゴーリキイのロマンティシズムというものはその社会的な発生において、以上のような性質をもっていた。ゴーリキイは後年自分のその時代の作品及び創作の態度を追懐して、
「あの時分、私はこの堪えがたい人生の苦痛について、せめてそれを輝かしい調子でもの語ろうとした。私は愚痴をいうのがきらいだった」
という意味のことをいっている。当時にあってゴーリキイが周囲の重圧と闘い、内心の火を守り、自分を腐らせないためには、彼の旺んな生活力から生じるロマンティシズムが必要であった。若しゴーリキイが自分の心の中におさえることの出来ない情熱を、全人類的なよりよい生活への希望、その達成のために努力する意志と結合させなかったならば、作家としてゴーリキイは単なる一箇のロマンティストであり、或いは色彩豊富ではあるが、われわれを教える何ものをも持たない一人の大言壮語する饒舌な作家として、やがて忘れられただけであったろう。
ゴーリキイをここから救ったのは彼の溢れるような文学的才能を常に正しい道にひきとめ、それを押しすすめた独特の正直さ、現実をあるがままに勇気をもって直視する能力であった。その力によってゴーリキイはながい歴史の波瀾の間に自分自身の結合せらるべき意志はどういうところにあるかということを理解した。
この力によってゴーリキイは若い時代に彼の血を清く保つ力となっていた自身のロマンティシズムを、歴史のもっとも積極的な現実の可能性をはっきり見透し、そのために献身的な努力を惜しまないという点で、翼を持たぬ日常主義者には或いはロマンティックであるといわれるかも知れぬ一つの力に融合させたのであった。
今日のような時代に生きるわれわれにとってゴーリキイの歩んだこの道は無限の含蓄をもっている。ゴーリキイが若い労働者の文学志望者に与える言葉の中に「私はロマンティシズムを支持する、しかし、ロマンティシズムに対して極めて本質的な条件つきのもとに」という意味のことをいっているのは以上の消息を語るものであると思う。
また、なぜ彼が小説をかくようになったかという問いに対してこう答えている。
「困難な生活は多くの印象を私に与えた。私はそれを語らずにはいられなかったのだ」と。
彼は自分のところへ作家志願の希望をのべて寄越した二つの手紙をわれわれに比べてみせ、それを批判している。一人の労働者はこういう意味をかいた。
「ああ、実に私の生活はくさくさします、せめて小説でも書かねばいられません、私は作家になりたいのです」
ところで、もう一人の労働者からの手紙は以下のようなものであった。
「親愛なゴーリキイ、私は自分の過去において経験したさまざまの闘争、その間に得た印象について小説をかきたいという心持ちを制することが出来ません」
ゴーリキイがこの二つの作家志望の動機のどちらを、健康なものとみとめているかということは、説明を要しないであろう。文学は現実からの逃避ではないのである。ゴーリキイはこういった。
「文学は神々さえも創造したところの人類への奉仕である」そして作家として「一番大切なことは錯雑した歴史の事件の中に自分自らを見出し、そして全人類的なもの、善なるものを創造しつつある意志に自分の意志を結合させ、人生の意義をその中に含むこの偉大な創造に障害を与えている意志に対立することである」と。
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文学案内」
1936(昭和11)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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