窪川稲子のこと
宮本百合子
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窪川稲子に私がはじめて会ったのは、多分私がもとの日本プロレタリア作家同盟にはいった一九三〇年の押しつまってからのことであったと思う。私はその頃本郷の下宿にいて、そこで会ったように思う。最初の印象は、今日もう思い出せなくなってしまっている。そのときも彼女らしく、どこといって変に目立つようなところを外見にもっていなかったのであったろう。
次の年の寒い時分、大阪に『戦旗』の講演会があって徳永直、武田麟太郎、黒島伝治、窪川稲子その他の人々が東京駅から夜汽車で立った。私は次の日出かけることになっていてステーションまで皆を送りに行ったら、丁度前の日保釈で出たばかりの小林多喜二が、インバネスも着ず大島絣の着物の肩をピンと張って、やっぱり見送りに来ていた。待合室の床の上にカタカタと高く下駄の音をたてて歩きながら小林は大きい声で秋田訛を響かせつつ何か話していた。
大阪と京都との講演会の間、稲子さんと私とは或る友人の家に泊った。大阪ではひどい雨に会って、天王寺の会場へゆく道々傘をもたない私共は濡れて歩いたのであったが、稲子さんは、宿をかしてくれた友達のマントを頭からかぶって、足袋にはねをあげまいと努力しながら、いそいで歩いた。私は洋服を着て、その不自由そうな様子を大変劬る心持であった。私が何かいうと「ありがとう、大丈夫です」と稲子さんは笑顔をした。夜おそくなって友達のところへかえると、稲子さんはああお乳が張った、御免なさいと、立てた膝の上に受けるものをおいてお乳をしぼった。今五つの健造がまだお乳をのんでいた。その子を置いて講演会に出て来ていたのである。私は並べて敷かれている自分の寝床の方から稲子さんのお乳をしぼっているところまで出かけてゆき、プロレタリア作家としての女の生活を様々の強い、新鮮な感情をもって考えながら、やっぱり一種心配気な顔つきで稲子さんのお乳をしぼる様子を謹んでわきから眺めた。まだその頃、稲子さんの過去の生活にどんな階級的な蓄積があるかということなどについて私は殆ど全く知らなかったから、ごく普通に考えて、私は自分が稲子さんより年上だし劬って上げなければならないという気がしていたのであった。そのことを考えると、私は今何だかいい意味でだが笑えて来る。稲子さんの方は、私がまるで新しい活動に入って来たのだからと、却ってそれとなくいろいろ気を配ってくれたのであったろう。その講演会のとき撮った写真がある。この間もそれを二人で見て、私が「この私!」と云って笑ったら、稲子さんも「ねえ!」と云い、声を合わせ、そのときから今日までの二人の生活に対し深い感慨を覚えながら、大いに笑った。
一九三二年窪川さんが獄中生活にうつるまで稲子さん一家は下十條にいて、私はよくそこを訪ね、次第に作家同盟の仕事や、『働く婦人』という雑誌の編輯の仕事やらで、会わずにいられないようになった。
その時分でも、私は十分稲子さんがわかっていなかった。窪川鶴次郎の妻というような面が家庭内の日常生活のうちでは自然押し出されていたし、又無口な性質で、何かにつけても結論だけ感想風な表現で云うという工合であったから、稲子さんが文学についても生活についても大変鋭いそして健全な洞察力をもっていることははっきり感じていたが、勁い力、一旦こうときめたら動かぬというところの価値などは、階級的な鍛錬の浅い当時の私に分らなかったのである。
一九三二年の春から一九三三年の冬まで窪川鶴次郎が他の多くの仲間とともに奪われ、その間プロレタリア文化運動全般に益々困難が加わり、「ナルプ」は遂に一九三四年二月解散するに到った。経験に富んだ活動家を失ってからの仕事は内外とも実にむずかしく、稲子さんも私も全力をつくして階級的に正常なものであると考えられる方向に向って行動するために努力したのであったが、客観的な結果としてはそれが十分の一も具体化されない状態であった。
稲子さんは一九三二年の夏は大森の実家が長崎へ引上げた後の家に生れたばかりの達枝と健造、七十を越したおばあさんを引つれて住み、秋、戸塚の方へ引越して来たのであった。大森の家へ行ったにしろ、それは実家の父親が発狂して職についていられなくなり、故郷へ帰ったからであった。稲子さんは自分の二人の子供達を食わせ、おばあさんを養わねばならない上に、獄中の良人のために心労をし、しかも当時の仕事の性質上、金は極端にとれなかった。獄中の鶴次郎さんに差入れる夜具布団を自分で家から背負って持って行った。そういう窮乏状態であった。私共は、その時分謂わば財布も一つ、心も一つという工合で、必死の生活をやっていたのであったが、稲子さんは、この布団を背負って行ったということを、そのことがあって既に何日か経った後、ごくさらりと、何かの話の間に交えて私に話した。私は、互の仕事と生活とが困難になってから、稲子さんというひとの非常な粘りづよさ、堅忍、正義感、周密さなどを益々高く評価し、生涯の友と信ずるようになっていたのだが、この何でもなく話されたことは寧ろ私を愕かせ、又新たな稲子さんの一面に打たれた。稲子さんは、互の友情にも甘えないひとである。センチメンタルなところがすこしもない。これは女として新しいタイプであり、その点、稲子さんの良人となり友人となる者にとっては、或るこわさがある。対手を高める力として作用する隠されたこわさがある。稲子さんは、例えば私にしろ、私たちとしての立場から見て妙なことでもすれば、のほほんと馴れ合ってはしまわない。自分自身に対してもそのことは同じであると思わせるものを、日頃の生活態度に蔵しているのである。
従って、プロレタリア作家としての自身の発展に対しても、稲子さんは、ずるずるべったりなところがない。このことは、或る場合、現在のような時期には、複雑な内容で彼女を苦しめることも、私にはよく理解されるように思う。プロレタリア作家として窪川稲子は、作品の或る情趣とか、リリカルな効果とかそんなものでは安心しない深く真面目な芸術家としての感覚をもっている。又、自分の作家的出生即ち、家庭の事情によって小学校さえ卒業させられず、少女時代から勤労者の生活を経験したという、そういう出生だけをふりかざして安心してもいない。経験主義者の持つ安易な評価は、自分自身に対してもひとに対しても抱いていないのである。階級全体の発展が大なる困難におかれている時、彼女のように過去の生活において直接間接永い間大衆の力との密接な連関で作家としても正しく育って来た作家は、自身の作家生活の実態において今日の大衆の苦難を感じそれと闘っているのではあるまいか。
『牡丹のある家』という小説集は、よく読んで見るとそういう窪川稲子を私に理解させ得る力を含んでいるのである。最近書かれる多くの感想・評論によってもそれは分る。
窪川稲子の業績や将来の発展というものは、それ故すべての積極的な、忍耐づよい、天分あるプロレタリア作家の生涯に対して云い得るように、全く階級の力の多岐多難な発展の過程とともに語られて初めて本質に迫り得るものであると思う。歴史の新たな担いてとして立ち現れた階級が持っている必然的な質のちがいが、ブルジョア婦人作家と窪川稲子との間に在ることは自明なのである。
私たちは、様々の苦しい目にも会いながら生涯ともに仕事をしてゆくであろうが、私としては、自分が様々の形で階級的に経験をふかめられて行くにつれて一層窪川稲子の価値が全面的に分って来て、愈々わかち難く結ばれてゆくことを深いよろこびとしている。こういうひととめぐり合えたことをも、根本に溯ってみれば階級のもつ積極的な人間関係の可能性の現れであると思い、私は単なる友情のよろこびより以上のものを感じている。
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸首都」
1935(昭和10)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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