バルザックに対する評価
宮本百合子
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偉大な作家の生涯の記録とその作品とによって今日までのこされている社会的又芸術的な具体的内容は、常に我々にとって尽きぬ興味の源泉であるが、中でも卓越した少数の世界的作家の制作的生涯というものは、後代、文学運動の上に何かの意味で動揺・新たな方向への模索が生じた時期に、必ず改めて究明・再評価の対象として広汎な読者大衆の手にとりあげられるものであると思う。
トルストイの作品とその生涯との社会的意味は、最近の過去十六七年間に彼の同時代人には見抜くことが不可能であったような生々とした歴史的・階級的特徴を明らかにして、世界文学の発展のために摂取せられたよろこばしい事実を、私共は目撃しているのである。
一九三三年から三四年にかけて、日本ではバルザックの作品が急激に流布した。全集刊行が着手され、ゲーテ協会に対するバルザック協会が組織され、少し誇張した形容を許されるならば、文学について語るほどの者で一度もバルザックの名を口にしない者はないという現象を呈したのである。
大体、過去においてバルザックの作品は寧ろ等閑にふせられすぎていた傾きがあった。日本の文学愛好家の大多数は、モウパッサンの作品より尠くしかバルザックを読んでいないという実状にあったと思う。それ故今日、このトゥール生れの、僅か二十年足らずの間に「人間喜劇」九十六篇のほか小論文五百十四、戯曲六篇という尨大な制作を行い、しかも生涯借金に悩まされどおしで死んだ横溢的な世界的作家に母国語で親しめるということは、我々にとって遅すぎたとしても決して早すぎて到来した機会と言えないのである。
しかし、昨今作家及び文学愛好者の間に生じたバルザック熱ともいうべきものを、その社会的要因にまでふれて観察した場合、はたして、それが文学の正常な発展のために積極的な意味だけをもつものであると言い切れるであろうか? 答えは、おのずから複雑であろうと思われるのである。
文学史の面から見ても、日本の一九三三──三四年は特筆されるべき内容をもった二年であった。一九三三年の初夏、佐野学・三田村・鍋山等の共産主義者としての理論の抛棄と日本の侵略戦争を肯定する画期的な裏切りは、勤労階級の解放運動に未曾有の頓挫を来したばかりでなく、文学をも混乱におとしいれた。プロレタリア文学の領域には、前後して社会主義的リアリズムが提唱され、創作方法組織方法に関する猛烈な自己批判がまき起されていたのであったが、討論は十分新しい課題を正当に把握しきらないうちに、前年からしばしば弾圧を蒙っていた十年来のプロレタリア文学運動の活動家の大部分が情勢に敗北する等、文学における階級性の問題はこの期間に殆ど信じられぬ程度にまで紛糾し曖昧にされたのであった。
文学におけるこの階級性の抹殺は、自ら進んでそのように作用した一部のプロレタリア作家自身の生活と文学とに方向を失わせたばかりでなく、ブルジョア・インテリゲンツィア作家たちの心持にも明らかな影響を及ぼした。これまで、文筆活動の表現においては反撥の態度をとったにしろ、或は一定の範囲での同感を示したにしろ、何らかの意味で彼等にとっても一つの社会的刺戟、張り合いとなり、新たな社会への道と新たな文学発生の可能性とを感じさせていたプロレタリア文学運動の一時的後退は、ブルジョア・インテリゲンツィア作家達をも、社会的な混迷・無力感に悩したのであった。
今日は既にプロレタリア文学の領域においても、ブルジョア・インテリゲンツィア作家たちの間にあっても、その一時的後退からの立ち直りの徴が顕著に認められて来ているが、オノレ・ド・バルザックの作品の大群は抑々以上のような雰囲気の裡に甦らされて来たのであった。ブルジョア・インテリゲンツィア作家は、一年来声を大きくして来た文芸復興を内容づけるためのリアリズム検討につれ、プロレタリア作家の或る者は、社会主義的リアリズムに対する或る種の解釈の模型として、バルザックの花車は、急調子に、同時に些か粗忽に、様々の手に押されてわれわれの前に引き出されて来たのである。
彼の死後九十年近くも経った今日、バルザックに帰れ、と云い出した一部のプロレタリア作家が、各自のバルザックの推戴の不抜なよりどころとしたのは主としてマルクスやエンゲルスが断片的な文句でその労作のところどころに示している、バルザックの作品に漲っている濃厚な社会性とリアリスティックな描写とに対する評価であった。マルクスは、ホーマア、シェクスピア、ゲーテなどと共にバルザックの作品を愛好したのであったが、それは全くこの偉大な十九世紀の作家が「フランスの社会の最も素晴らしいリアリスティックな歴史を与えている」からであり、資本論の或る箇所では当時の読者に親しみが深かったバルザックの作中の人物文章を引用することが賢明なマルクスにとって便利であると思われた程、資本主義の「経済的なデテールという意味でさえも、当時の凡ての専門的な歴史家、経済学者、統計学者達の書いたものを、全部ひとくるめにしてもって来ても及ばない程の」「あらゆるゾラよりも遙かに偉大なリアリスト芸術家」であったがためなのである。
エンゲルスが今日から四十六年ばかり昔イギリスの社会民主主義的婦人作家マーガレット・ハークネスに送って彼女の作品を批評した手紙の中に、以上の消息は明らかにされ、同時に、エンゲルスは同じ手紙で文学におけるリアリズムというものは「デテールの真実さのほかに典型的な情勢における典型的な性格の表現の正確さである」と言っている。バルザックは、とりも直さずそのような意味でのリアリスト芸術家であり、彼の作品がリアリズムの作品であったということはエンゲルスの云うとおり「作者の見解如何にかかわらずあらわれて来」たものである。即ち自身トゥールの農民の息子であるにかかわらず、姓名に「ド」をつけて呼んだバルザックが政治的に正統王朝派であったことは、同じバルザックが「牧師」の中でマルクスの心を打ったほど鋭く現実の資本主義商業の成り立ちを喝破していることと撞着するものでないというのが、バルザックの花車を押し出した一部のプロレタリア作家・理論家たちの論拠であったと見られるのである。
ところで、ここに一つの私達の興味と探求心とを刺戟してやまない微妙な人間の心理的発動がある。それは、上述のような部分において行われたマルクス、或はエンゲルスの見解の引用を根拠としてバルザックを推した人々が、当時の混乱していたプロレタリア文学運動に対しては一貫して文学における階級性の抹殺を提唱しかつ行動していた人々であったという事実である。
弁証法的創作方法という過去の旗じるしは、哲学上の規定と文学の方法とのけじめを明らかにしない点に誤謬をもち、様々な段階と気質の作家を直接活々とした創作活動にひき込む役には立たなかった。けれども、社会主義的リアリズムの世界的なスケールにおける今日の提唱は、決して文学における階級的主張を引こめたものではなく、それとは全く反対に、従前より更に高まった勤労階級の指導力によって、従前より更に広汎に、具体的に、政策的に、文学における階級的移行の可能性を捉えたものである。第一回全連邦作家大会の報告が、部分部分のやむを得ぬ省略を伴いながらも一冊の本となって既に現われている現在、総ての人の目に、このことは紛れのない実際の到達点として映っているのである。
大きい過去の作家らしく、大きい矛盾に充ちたオノレ・ド・バルザックは不幸にも絵にまで描かれている彼の有名なダブダブと広い仕事着の裾の一端を「リアリズムは作者の見解如何にかかわらず現れて来るものであ」るという鉤をつかって引掴まれ、計らずも一九三四年の困難な日本に、リアリズムを十九世紀初頭のブルジョア写実主義へまで押し戻そうとする飾人形として、悲喜劇的登場をよぎなくされたのであった。
「人間喜劇」の作者が、エンゲルスによってその政治的見解いかんにかかわらず「フランス社会の全歴史をまとめ」た「過去現在未来のあらゆるゾラ」を凌ぐリアリスト芸術家とされていることは、一連の人々にとって、さながら彼等自身が、今日このように自明な歴史的段階を否定し無視し、文学から階級性を追放しようと欲する心持までを、エンゲルスの卓見によって庇護され得るかのような幻想を抱かせたのである。
日本における現代文学の黎明は、明治十八年(一八八五年。マルクスの死後二年。トルストイは既に五十七歳に達して「イヷン・イリイッチの死」「クロイツェル・ソナタ」などを書いた年)春廼やおぼろ坪内雄蔵の「小説神髄」によって不十分ながら輪廓を示された写実主義の主張をもって始った。当時、春廼やは「彼の曲亭の傑作なりける八犬伝中の八士の如きは、仁義八行の化物にて決して人間とは云ひ難かり」とし、小説というものは「老若男女善悪正邪の心のうちの内幕をば洩す所なく描き出して周密精到、人情をば灼然として見えしむる」ものでなければならず、而も「よしや人情を写せばとて其皮相のみを写したるものはいまだ之を真の小説とは言ふべからず。其骨髄を穿つに及び」はじめて小説は小説としての本質を具えるものであると説明しているのであるが、我々にとって興味ある事実は、この画期的意味をもった小冊子が当時の外国文学の潮流にのっとって著わされたに拘らず、バルザックの名には一字もふれられていないことである。
開化期の明治文学の内容は翻訳小説に尽きていると言えるであろうが、ここでも我々の遭遇するのはシェクスピア、スコット、ユーゴーやデュマであり、巨大なバルザックの姿は見当らない。
僅か三年ばかり前、新潮社が大規模に刊行した世界文学講座のフランス文学篇では、私共は正確なバルザックの略歴さえ知ることが出来ないし、更に昨今の流行とてらし合せて私達の感想を更に一層刺戟するのは、一九三〇年、プロレタリア芸術運動が高まって綜合雑誌『ナップ』が発刊されていた頃、山田清三郎・川口浩両氏によって編輯されたプロレタリア文芸辞典について、試みにハの部を索いて見ると、パルナシアンという字はあるが、バルザックという人名は見当らず、葉山嘉樹はあってバルザックはのせられていないことである。この辞典において、リアリズムに連関して現れている芸術家はゾラ、フローベル、モネ、セザンヌ等であり、しかも編者は明瞭な言葉でリアリズムの階級性にも言及している。「我々マルクス主義者の云うリアリズムをはき違えて、あたかもそれが十九世紀後半の写実主義と同一のものであるかの如く考える人々があるが、それは誤解の甚しきものである」と。
バルザックの氾濫的な芸術作品の中に如何なる大きい矛盾があったればこそ、嘗ては急進的であったインテリゲンツィアの一部がその生活と文学とから階級性を抹殺している今日の日本に、かくも広汎な鑑賞をよび起しているのであろうか? 私達はその秘密を知りたく思うのである。
オノレ・ド・バルザックは、一七九九年五月、フランスが共和政体となった第七年目に中部フランス、トゥールの町に生れた。
貴族好みで「ド」をつけて自分の姓を呼んだが、バルザックの実際の家柄は貴族などではなく、彼が後年獰猛なのがその階級の特性だと云った農民バルザの孫息子である。
父親のベルナールはタルン県の村を出て学問をうけ、大革命時代には弁護士をやった。後、陸軍の経理部に入って、世間の血なまぐさい騒ぎと自分の財布とが或る落付きを得た五十一歳の時三十二も年下のロオルという上役の娘を妻にした。
いかにも南フランスの農民出らしい頑丈な、陽気な、そして幾らかホラ吹きな父ベルナールと、生粋のパリッ子で実際的な活動家で情がふかいと同時に小言も多い若い母との間に、三人の子があったが、その総領として「よく太った、下膨れの顔の、冬になると手足にいっぱい霜やけの出来る」オノレが生れたのである。
カトリック教のひどくきびしい寄宿学校に八つのときから六年間も入れられ、あまり器用に立ちまわれないこの生徒は、終りに衰弱で半分死にかけるような苦労をした。そこで家に引きとられ、通学で十七の年法律学校を卒業した。バルザックが、文筆生活をはじめたのはそれから三年後、二十歳のときであるが、それも決してすらりと行ったわけではなく、父親ベルナールは息子を法律家に仕立てて立身させようと考えた。そしていよいよ事務所まで買いかけたことがわかった時、大柄なずんぐりな二十の息子であるバルザックは父親と大論判をはじめた。バルザックはどうしても文学をやるのだと云って「大声に泣き叫ぶ」騒動を演じた。
母のとりなし、特に妹のロオルの支持で、バルザックの作家志望は遂にきき届けられた。然し、それには一つ妙な、父親の地方人らしい、実利的な条件がついた。二年間だけ好きにさせてやるから、その間にものになれと云うのである。
喜び勇んだバルザックはアルスナール図書館近くの屋根裏に一部屋をかり、寝台と机と二三脚の椅子と、餓え死しないだけの仕送りとをもって、愈々「ナポレオンが剣によって始めたところを筆によって成就する」ため、復古時代から七月革命を経て、複雑きわまりなく推移しつつあったパリの生活へ飛びこんだのであった。
当時、フランスは、将に「中産階級が歴史の舞台へ決定的にのり出して来た」一大時代であった。工業が発達し、商業が自由になり「ナポレオンによって全ヨーロッパに及ぼされた国富の新しい配分が、特にフランスにおいてその実を結びはじめ」ると同時に、大革命時代に「没収されていた教会僧院の財産は勿論、或は分割され、或は競売に附せられた貴族の財産も亦今や嚮日とは比較にならない程数多い新所有者の手に帰したのである。従って金銭がブルジョア生活の動力となり、又同時に万人の渇望の対象となった」激烈な時代であった。
七月革命で、ブルジョアジーの利害の代表者としてのルイ・フィリップが王位に置かれた後は財界の覇者、金銭の威力は極度にふるわれ、企業家で金持ちの成上り貴族によって土地所有者である旧貴族は全く圧倒されるようになった。フランスの社会は、「新たに世界の王者となった」金銭をめぐって煮え立ち、金持は無趣味で仰々しい厚顔の放埒に溺れ、金を持たぬものは、持たぬ金を更に失うことを恐れて、偽善的に「中庸」を守る俗人生活にくくりつけられた。オノレ・ド・バルザックはパリの屋根裏から昂然と太い頸をもたげ、南方フランス人の快活さ、自信、加うるにブルジョア勃興期の特質をまぎれもなく自身の血の中に具えて、「名声」と「富」とを勝利の花飾りとして情熱的に夢見つつ、文学の仕事にとり組みはじめたのである。
二十歳のバルザックはレディギュール通りの屋根裏で、ストーブもたけず、父親の古外套で慄える体をくるみながら、ひどい勢で先ず幾つかの喜歌劇を書いた。喜劇「二人の哲学者」というのも書いた。けれども、その時分は、ただ筆蹟がきれいだということ位しか認められていなかった彼の喜劇はどうも思うようではなく、つづけて二つ小説を考えたが、それは題だけは出来てものにならなかった。
「ああロオル、ロオル!」と彼はその頃書いた妹への手紙で訴えている。「僕には二つだけ望があるのだが、その望みの大きいことはどうだろう。有名になって愛されること。この僕の望みは果して叶うだろうか。」
二十二の年に悲劇「クロンウェル」が書き上った時、バルザックはこれこそ「民衆と諸王との祈祷書」になり得る作品であると信じ、両親や友達を集め、朗読会を催した。彼が数ヵ月の間、部屋も出ず、レモン水と堅パンとで暮しながら書き上げた「クロンウェル」の効果は意外であった。
朗読は「少しの反響もなく、聴衆の陰鬱な沈黙と呆然自失のうちに」終り、更にその原稿を見せた理工科学校の一老教授は、親切にバルザックに忠告した。「どんな仕事でもやりなさい。ただし文学だけは除いて」と。
この「クロンウェル」の失敗は然し、バルザックの生涯にとって決して消極的な役割だけをもつものとはならなかった。両親は却ってこの熱烈で大柄な若者の野心の余りひどい挫折を劬り、小説で成功するためには、金儲けをすると同じに、やはり時間のいることをおのずから会得したものか、健康恢復をさせるため、バルザックを当時隠退して住んでいたヴィルパリジェスの家へ引きとった。
食う心配はなくなったけれども、公証人の収入と小説家の収入とを敏感にくらべている両親を納得させ独立するために、金はやっぱり自身のペンで稼がなければならぬ。ヴィルパリジェスに住んだ四五年の間に、バルザックは、或るものは独りで、或るものは友達と協力して、妹ロオルの言うところによれば、実に数十冊の小説をいくつかの仮名で書き、それを売ったのである。不如意な窮屈な生活と闘い、自分ながら本名を出しかねるような三文小説を売りながらも、次第にバルザックは文学における自身の力をおぼろげに自覚しはじめたらしく思われる。彼は「自分の思想の一番いいところをこんな仕事に犠牲にしなければならないのは堪らない」と歎息を洩している。この期間に、有名なマダム・ド・ベルニィとバルザックとの十年間に亙る意味ふかい相識がはじまったのである。
ロオル・ベルニィ夫人の父というのは、ルイ十六世の宮廷に出入してマリイ・アントワネットの音楽教師を勤めたヒンネルというドイツ人であり、母は、ルイズと云い、マリイ・アントワネットの侍女の一人であった。父の死後母は熱心な王党員である司令副官と結婚し、この一家とマリイ・アントワネットのきずなは、アントワネットが断頭台にのぼる前、ロオルの母に自分の髪飾りと耳輪とを形見に与えた程深いものであった。
そのような環境の中に幼時を経た頭の鋭い感傷的な性格のロオルは、僅か十五の年、宮廷裁判所の判事である貴族出のベルニィと結婚させられた。大革命期には夫妻とも九ヵ月幽閉され、ロベスピエールの失脚によって解放された経験もある。早すぎて母になったベルニィ夫人と良人との結婚生活は性格の不調和から冷たいものであった。ベルニィ夫人の夏別荘がヴィルパリジェスにある。そこへ息子の復習を見てやりに行ったのが機会となって、バルザックは当時二十歳以上年上であった夫人と結ばれたのである。
バルザックにとってこの結合は初恋であり、ベルニィ夫人にとっては最後の恋であった。この結合において、若いバルザックの受けた影響の深刻さは、彼の無限な作家的観察力をもっても猶自身の力では計ることが不可能であったと思われる程のものがある。ベルニィ夫人はバルザックを世間に押し出すために全く「母以上のもの、友達以上のもの、一人の人間が他の人間に対してなし得るすべてのものに優る」献身的な情愛と社交婦人としての実際的な手腕を傾けたのであった。彼女はバルザックをカストリィ公爵夫人のサロンに紹介し、そこに集るド・ミュッセやサント・ブウヴなど当時の著名な文学者に近づけるための努力をした。十数年後ハンスカ夫人に宛てた手紙の中でバルザックが当時の優しい回想に溺れながら述べているように、困窮の中にある「人間を極度の卑屈から守る自負を」バルザックの心に植えつけたのも彼女の激励のたまものであった。ベルニィ夫人は、自分が両親を通して知り得た宮廷生活の内幕、とって置きの、歴史家には知られていない事件などを作品の材料として話し制作を刺戟したばかりではない。百姓バルザの精力と野心とに溢れた孫息子が、少年時代から憧れ通してしかも接近し得ないでいた貴族趣味、教養、貴族的気位、カトリック教の神秘の霧で、ベルニィ夫人は自身の逞しい素朴な愛人をくるみこんだのであった。
ベルニィ夫人の生活は、その時既に新興ブルジョアと成上り貴族によって経済的に圧迫された貴族、人知れずやりくりに心を労し「小作人、家政のうんざりする細々したこと」に自ら煩わされなければならない、落魄に瀕した旧貴族階級の典型のようなものであったらしい。それにもかかわらず、社交界の伝統的な重い扉は、まだ艷を失わぬベルニィ夫人の手によってバルザックの目の前に開かれた。
若い情熱的なオノレ・ド・バルザックは社会的には古く、而も彼の感覚には新しかった社会層との接触によって殆ど陶酔的に亢奮したらしく見える。二年前彼が二十の時、レディギェール通りの屋根裏部屋から愛する妹のロオルに切々と訴えた二つの希望「有名になって、愛されたい」という大きい希望に今やもう一つの、更に困難で、投機的ないかにも当時らしい性質をもった大望が加えられた。それは、「自分も金持になって、貴族になりたい」という願望である。一八三〇年前後のパリがそれを中心として二六時中たぎり立っていた「成上り」の慾望と焦心がトゥール生れの彼をもはっきり掴んだのであった。
バルザックは、熱中して金儲けのことを考えるようになった。貴族になるどころか、満足に自活も出来ない当時の現状は彼を苦しめた。どちらかといえばバルザックより遙に実際的であったベルニィ夫人も、そのことは現実の必要な問題として、相談にのることを拒まなかった様子である。金を儲けなければならぬ。しかもバルザックは窮局において自分の欲求を充す最も有力な土台となるのは自身の芸術上の成功であることを直覚していたから、落付いて本当の文学的作品を書く余裕をつくるためにも、彼はたまらなく金が欲しかったのである。
想像力と思いつきとに溢れたバルザックの頭は、或る特殊な出版事業を思い立った。それは、フランス劇文学におけるアポローであるモリエールと十七世紀の大古典派の宝ラ・フォンテーヌの作品の美しい絵入り本の出版とその売捌きである。一八二五年、ロシアでは有名な十二月党の反乱が悲劇的終結をとげた年、愈々この出版事業にとりかかった二十六歳のバルザックは、自分から活字屋になり、印刷屋になり、本屋にまでなって悪戦苦闘したのであったが、この金銭争奪で未熟な事業家バルザックがその一身に受けた打撃は恐ろしいものであった。ブロックをつくってそろそろと、しかし確実に孤立した小資本の企業を食い殺す大資本企業家の悪辣な術策がバルザックを破滅させた。フランス全国の同業者等は、この唐突に現れた資本も少ない若年の一出版業者が、疑なく時流に投じるであろう出版計画をもっていることを見極めると、共通な悪計によって結束した。一万フランの資本をかけて出版した本の売上げが、一年にやっと二十部という目にあわした。たった三年の間に、十二万フランの負債をしょったバルザックは、遂に力つきて、美しい出版物を紙屑のような価で投げ売りにした。その時を計画的に準備し、待っていた同業者共は、労さず数万の利益を得たのである。
この恐るべき三年間を始りとして、バルザックは終生近代資本主義経済の深奥のからくりにふれざるを得ない立場におかれるようになった。彼は金の融通の切迫した必要から銀行の組織に精通し、パリじゅうの高利貸と三百代言を知り、暫くではあるが公債のためにサン・ラザールの監獄へぶちこまれた。再び狼の爪につかまれぬためには、変名して手紙を受とったり、住居を晦したり、辛酸をなめた。母親とベルニィ夫人の助けで一時は凌いだが、バルザックはこの破綻で「単に貧しい男となったのみではない。」「苦しい借金を免れ、母から借りた金を返すために生涯の間休息も安眠も出来ず働かなければならない」端目に陥ったのである。「経済の安易を求めて却ってその困窮を招いた」わけである。
多くの伝記者は、バルザックが常に好んで「私の借金、私の債権者ども」と云ったことを記録している。彼は、この二つのものの中に、彼の大きい真情を傾けて敬愛しているベルニィ夫人と母までをこめて、考えねばならぬ端目になった。ブルターニュの昔からの知人の家へ暫時息ぬきに出かけた。パリへかえってカシニ街にどうやら身を落付け、バルザックは再びペンをとりはじめた。負債と負債にからまって押しよせる一軍団の敵に立ち向うために、彼は只ペンの力だけが真に自分にのこされた最後の武器であることを自覚したのである。
この年、一七九九年のブルターニュの反乱を題材とした「木菟党」を発表し、バルザックはこの小説で初めて自分の本名を署名した。つづいて同年「結婚の生理」を完成し、作家オノレ・ド・バルザックの名は漸く世間的に認められ、新聞雑誌に喧伝せられるに到った。
翌年「カトリーヌ・ド・メディチ」「恐怖時代の一插話」などとともに発表された「麤革」は、その生涯の最後の年にあったゲーテの注意をもひき、バルザックの作品は外国にも認められはじめた。日に十七八時間もぶっとおしの労作、彼の「牡牛のような健康」ではじめて可能な労働をつづけて、以来二十年間年々四五篇以上の生産をもつバルザックの作家活動が開始されたのである。
これらの文学的成功は、幾分でもバルザックの経済危機を緩和したであろうと誰しも推察するのであるが、彼の場合実際生活は決してそのように内輪に運転されなかった。一部をやっと返済したかと思うと、一方では負債の増大するようなことばかりが起った。自身、いつ返せるか当のない借金の山を負いつつ、ヴェルデやサンドーの借金の証人に立ったり、いかにも彼らしく、まだ書いてもない小説からの収入までを算用して遣いすぎをやったり。特に一八三一年、派手で鳴らしたカストリィ公爵夫人と激しい恋に陥ってからの波瀾多い五年間、バルザックの大胆不敵なやりくり生活は、兄を信頼しきっている妹をも恐怖させる程度に達した模様である。
出版書肆からの手形の書きかえでやっとやりくっているのに、バルザックは馬を数頭、馬車を二台も買って、自分は金ボタンのついた青い服を着、貴族風な長髪を調え、手には当時すべての漫画に添えて描かれたトルコ玉を鏤めた有名な杖をもち、貴族街サン・ジェルマンなどを歩く時には、イギリス風に仕立てた侍僮を背後に引き倶して歩くという有様であった。
性格的にはベルニィ夫人と全く反対のカストリィ公爵夫人の気に入るために、バルザックは数県から王党派代議士として立候補し、いずれも落選した。所謂高貴な骨董趣味に溺れて莫大な蒐集をはじめたり、邸宅を構えようとしたり。総ては金のいることばかりである。
この期間は、今日になって眺めるとバルザックのさして永くない生涯にとって、最も急テムポに彼の政治上の王党派的傾向とカソリック精神とが堅められた時代であった。然しながら、この頽廃的で奢侈な公爵夫人との恋愛とその感化によって恐るべき浪費をし、益々王党派、カソリック的傾向を強固にされながら、而も一方においてはその金のやりくりともぎ取りのため、壮年に達したバルザックが益々創作に身をうちこみ、益々刻薄な社会の現実に突き入ってダニのような高利貸、卑屈傲慢な大小官吏、気骨なきジャーナリスト、企業家等と愈々猛烈露骨な闘争を繰返さなければならなかったというのは、何たる意味深い歴史の必然であろう!
大体、過去においてオノレ・ド・バルザックについて書いたほどの人で、彼の貴族好みに現れた趣味の低俗さを指摘しなかった伝記者、評論家は一人もなかったと云っても過言ではないであろうと考える。
頻繁で噪々しい笑いの持ち主、その頃流行の優雅な身のこなしとはまるで逆にずんぐり太ってさながら「愉快な野猪」めいた農民出のバルザックが、仰々しい貴族まがいの身なりに伊達者ぶって、例のトルコ玉を鏤めた杖をつきつつ、ダブランテス公夫人やカストリィ公夫人の後から得意気にオペラの棧敷へなど現れた光景は、今日の我々の想像においても相当色濃い諷刺画である。ましてや同時代人の目に、そのような傍若無人なバルザックの姿は、最もよい場合で意味ありげな微笑を、更に嘲笑と悪意ある侮蔑、嫉妬を挑発したということは理解される。バルザックが自分で「バルザック的狂乱」と形容した生涯について、実に暖い理解と評価とをもってその研究を書いたブランデスでさえも、バルザックには、その真実に近づこうとする偉大な情熱、人間を描き得る驚くべき天才にかかわらず、「『教育と素養』とも言うべきものが欠けていた」と言わざるを得なかったのである。
仕事ぶりも、恋愛も負債も、すべてに所謂度はずれなバルザックの生活ぶりに圧倒されて、同時代は勿論後世にも或る種の人は、バルザックを一種の人の好い俗悪な誇大妄想者であったというところで、自身納得しようとしたらしい。反感を含んだ批評家は、バルザックが手紙の中でも自分のことしか書かぬ程自我的であったこと、情熱の制御を知らなかったこと等を部分的にとりあげて、一種病的な偏執狂的傾向があったと言っている。そのような批評家は同じ考えを作品にまで敷衍して、バルザックの描く主だった人物を見よ、ゴリオにしろ、ベットにしろ、皆その人生を慾望の偏執によって貫く異常人ではないかと強調するのである。
猶我々の興味をひくことは、同時代の作家たちの間において、バルザックは果してどのような位置を占めていたであろうかという点である。彼は、卓抜な芸術上の同時代人たちとの友愛をたのしみ得た作家であったのだろうか? 尊敬され、或は畏怖される文学上の同輩であったろうか。
私共はここにおいて実に興味ある一つの現実に遭遇する。それは、バルザックが一八三〇年代からフランス文学に咲き乱れていた絢爛たるロマンチシズム文学の只中にあって、全く一人の例外者、ユーゴオなどに云わせると、文体もきまらない才能のない野人として、寧ろ除け者のようなとり扱いを受けていたことである。
知られているとおり、フランスのロマンチスト達は、人類の大きい理想をめざして闘われた筈の大革命が、ブルジョア階級の擡頭によって、成上り者の専断、金銭万能の社会となった現実の「若き失望のカリカチュア」に反撥して、芸術運動の中に、ブルジョア共によって壊たれた自由、平等、友愛の焔を守ろうとした人々である。「ゴオチェの美しい言葉をかりて云えば」「焔の如く燃える人々」が、「灰色がかった人」の没趣味で、俗悪で、生気ない金銭支配への屈伏に反逆したのであった。
これらの人々は、ゲェテ、ホフマン、バイロンやスコット等の作品からも強く影響され、当時の社会の現実生活ではブルジョア共によって軽蔑され、価値を認められない存在であった未開人、民衆、子供や女や詩人というものの美と善とをも、「ありのままの自然」の姿においてその地方色の鮮やかさにおいて、または歴史的精美さにおいて力強く各自の芸術の中に活かそうと努力した。例えばメリメは「コロンバ」や「カルメン」において。ゴオチェは華美なアントニーとクレオパトラのロマンスの描写において。デュマはその歴史小説において。
金くさい卑俗な利害のために日夜鎬を削るブルジョア共の社会生活に反抗するこれらのロマンチスト作家たちが互に「焔の如く燃ゆる人々」として結合し合い、互の独創性を尊敬し、創作をたすけあい刺戟しあったばかりでなく、この時代は、フランス芸術の歴史にとって謂わば「ルネッサンスの運動にも似たような運動が人々の心を捉えてしまった」特別な一時代であった。作家は作家同士、意気投合して結ばれ合ったばかりではなかった。文学と音楽、音楽と絵画と、それぞれの姉妹芸術は、これまでにない深い心酔で互を評価し影響しあった。音楽家のベルリオーズは「チャイルド・ハロルド」や「ファウスト」を主題として交響楽を創り、ドラクロアのアトリエではユーゴオの小唄が口誦まれた。そして、ユーゴオ、ゴオチェ、メリメのような作家たちは、創作の間に絵を描いた。実に彼等は「すべての芸術において美しい色彩や情熱や文体を」ねらったのであった。(サン・シモンやフーリエの空想的なユートピア社会主義の思想がこのような雰囲気に培かわれ、ユーゴオ、ジョルジュ・サンドの作品その他に反映した。)
けれども、ユーゴオを先頭とするこの時代の光彩陸離たるロマンチシズムの作家たちにもう一歩近づき、仔細に眺めると、そこには微妙な形でバルザックにも関係する或る矛盾が発見される。ブランデスは既に彼の卓越した十九世紀文学の研究において、当時のロマンチスト達が、自然を謳歌したことは事実であったが、「彼等の愛する自然はロマンチックな自然であった」ことを洞察している。彼等が「没趣味なもの、俗悪なもの、平俗なものとして斥けたものも、質朴な自然そのものに外ならないことが余りにも屡々であったのである。」
バルザックが、彼の作品でとりあげたのは正にそのロマンチストたちにとって俗悪・低劣とされたところの金銭及び金銭に絡む大小俗人の、こまごまとして塵のひどい日々夜々、そのベッドにまで這い上って来る悲喜劇であった。ロマンチスト達が自らを高く持して、それから一刻も遠のくためには古代ギリシャの美術品の鑑賞へ熱中するばかりか、美を求めて遠くアフリカへまで旅立つことを辞さない間に、バルザックは金儲け、立身出世、瞞し合いのブルジョア社会の現実へ突ささって而もそれをやはりロマンチシズムの時代は争われぬきつい色どりで彼流に描写しているのである。
二十代のバルザックがまだ偽名であやしげな小遣いとりの小説を書いていた頃から彼を知っているサント・ブウヴなども自身の優秀な批評家としての感受性でバルザックの雄大さ、独特性、芸術上の追随を許さぬ成果を認めてはいるが、決してそれ以上の打ちこみ方でバルザックを評価する力量をもっていなかったことは明らかである。バルザックの死に際して一八五〇年の彼の書いた追悼の文章の調子は我々の心にそのことを直截に印象づけるのである。同時代の作家たちは、次第にバルザックの文学業績の規模の大さ、主題の独特性は感じつつも、彼の時代おくれな正統王党派ぶり、貴族好み、趣味の脂っこい卑俗さ、そして、小説の文章が、格調もなければ、整理もされていず、時に我慢ならなく下手であるというような一応当時の教養ある階級を納得せしめる理由で、ロマンチストたちの目から見れば一人の文学的成上りと映ったであろうバルザックは、つれなき仲間はずれの境遇にあったのである。現にサント・ブウヴなども外国にまで高まったバルザックの名声に関して、如何にもデリケートに皮肉な言いまわしで解釈をほどこしている。バルザックがヴェニスやハンガリー、ポーランドやロシアなどで熱烈に愛読され、社交界の貴婦人、紳士がバルザックの作品に現れた人物の名を名乗ってその役割りに扮そうという言いあわせをして或るシーズンはランジェー公夫人だのラスティニャクが社交界に現れたということにふれ、サント・ブウヴは書き添えている。「こういう距離のあるところでは、バルザックの作品を近くで見た、気難しい人の心を完全に捕えかねる空想的な部分というものが目に映らなくてそれが却って人の心を惹きつける魅力を増すということになるのである」と。サント・ブウヴが、「人間喜劇」はロマンチシズムの本家のような役割をもってイギリスでも、ゲーテのドイツでも鑑賞されたことにふれず、その頃のフランス文化の到達点と比較すれば殆ど未だ近代啓蒙時代にあったロシアやハンガリーなどという土地でだけバルザックが流行っているように書いているところに、今日の我々の洞察は、文字には語られずに発動している文学的同時代人のバルザックに対する感情の機微を見出すのである。
「ユーゴオが恰も文芸復興時代の大画家のように」堂々たるノォトルダムデシャン街の家で、美しい妻と彼を崇拝する門人達にとりかこまれて創作している時、「バルザックは唯一人その書斎で筆を走らせていた。」当時の名声高い作家バルザックの日常にふれてブランデスは濃やかな情感をこめて記述している。「彼は殆ど睡眠をとらなかった。」明方まで仕事をつづけて「少しく運動の必要を感じ、書いた原稿を手にして自分で印刷屋へ足を運び、校正の仕事に携った。それも彼が常に八回乃至十回の校正を必要としたからである。」バルザックは自分の文章に自信がなかったばかりでなく、「彼は最初ただ小説の大体の構図だけを書き、細かい点には、その後で次々に筆を加え」るという我流の仕事ぶりを持っていた。そのためにバルザックの作品の校正は植字工にとって恐ろしい仕事であったばかりでなく、作者自身にとっても驚くべき大仕事であったらしい。「数時間後、炯々たる眼光のずんぐりした男が、着物を乱し、でこぼこ帽子をかぶって印刷屋から出て行った。通行人は一人ならず彼を天才であると察して恭々しく挨拶をした。」毎夕六時になると、有名なトルコ玉のステッキと伊達者ぶりの服装でバルザックは愛人である貴婦人のサロンに現れ、オペラの棧敷に現れ、時には美術骨董店へ立ち現れた。「斯くの如く一日は極めて速かに流れ、この精力的な労働者は僅かの安眠を貪るべく寝床に就くのである。」
ブランデスは、然し、この記述で計らず自身の道徳律の領域に描写を止めているのは面白いことである。バルザックの一日の内容にはもっともっと他の重大なことがあった。即ちベルニィ夫人やハンスカ夫人のように会わずに暮している過去の、或は未来の、彼が「会わないうちから夢中になっている」愛人たちに向って熱情の溢れるような手紙を書くこと。及び「彼の想像力は無尽蔵に次から次へとその手段を思いつかせた」やり方で押しよせる高利貸を宥め、債権者を納得させ、勘定書をもって来た出入りの商人から却って金を借りる等という困難きわまる芸当。更に出版権にからまる絶え間ない訴訟事件があり、代議士立候補のための、進んでは大臣になるための政見を発表し、しかも時々バルザックは一八二五年の破局にもこりず熱病にかかったように大仕掛の企業欲にとりつかれ、サルジニアの銀鉱採掘事業や、或る地勢を利用して十万のパイナップル栽培計画を立て、新式製紙術の研究にまで奔走したのである。実にバルザックの生活は目もくらむばかりの熱気に顫える一大機関のようであった。彼は真に我々を驚歎させ又沈思させる意志と忍耐力と情熱とで、その生活の波濤をよく持ちこたえ、芸術活動は修飾ない巨大な労働であることを理解し、現実の社会を夥しい小説の中に再現しようとしたのであった。
一八三一年から終焉の二年前、最後の作となった「現代史の裏面」に至るまでに書かれた大小百余篇の作品の箇々についての穿鑿は、更に適当な研究者の努力に俟たなければなるまい。何故なら、「人間喜劇」の登場人物とそのモデルと、人物再出をしらべるだけでも、バルザックの場合では、普通の作家の全生涯の研究以上の労力を必要とするからである。私共は、ここで少したちの違った一つの仕事に従事したいと思う。或る意企をもって、私達は再び、同時代人によってバルザックに加えられた非難と焦点をなしたこの大作家の雄大な卑俗さと、彼の文章についての難点に立ち戻るのである。
「従妹ベット」を、先ず開こう。これは一八四六年、バルザック四十七歳の成熟期に書かれたものである。
この小説は「千八百三十八年の七月の半頃」新型馬車「ミロール」に乗って大学通りを走っている、でっぷり太った中背の男の説明から始る。
初めの三行目から作者は自分の言葉で服装について一部のパリ人の抱いている常識を非難しながら、その男がやっととある玄関の前で馬車を下りると、もう直ぐそこでとびかかるようにパリの門番の本性について説明する。引つづいて読者はひどく精密であるが全く無味乾燥なユロ男爵家の系図の中を引きまわされるのであるが、普通の読者は、その数千字を終り迄辛棒して結局は、最初の行にあった四字「ユロ男爵」だけを全体との進行の関係で記憶にとどめるような結果になる。
やっと客間のドアが開けられた。我々の目前にユロ男爵夫人、その娘オルタンス、その娘に手をひかれた老嬢ベットが現れる。
忽ちベットのまわりをぐるぐるまわってその服装の細を穿った説明に絡んだ作者の解釈。客間の古び工合の現実的な観察。その客間で、「昔は杏ジャムやポルトガルの濁酒を売った小商人」今ではブルジョア化粧品屋でユロ男爵の息子にその一人娘を縁づかせている五十男のクルベルが、安芝居のような身ぶり沢山で、而も婿の生計を支えてやらなくてはならぬ愚痴を並べ、借金の話、娘の持参金についての利子勘定のまくし立てるような計算と全く渾然結合して、道楽な良人のために悲運にある貞潔なユロ男爵夫人に厚顔な求愛をする。
ユロ男爵夫人の目下の全関心と母としての宗教的な努力は父親の放蕩で持参金も少ない一人娘オルタンスを、身分のつり合った家柄の者と結婚させたいという最後の苦しい願望に集注されているのである。
クルベルは、夫人をしつこく口説くのであるが、その、あの手この手は悉く男爵家の陥っている経済的困難を中心とする脅威であり、誘惑である。色と慾とに揺がぬ根をはった強い色彩と行動との中にいつしか読者はつり込まれ、
「若しも私が貴方のために操を破って居りましたら、クルベルさん、それでも貴方はそのようなことを仰言ったでしょうか?」とユロ夫人はクルベルの顔を見詰めながら云った。
「そんなことを云う権利はなかったでしょうね、アドリーヌさん」とこの奇妙な恋人は男爵夫人の言葉を遮りながら頓狂な声を出した。
「私のこころにさえ従っていれば、あなたは私の財布の中からオルタンスさんの持参金を出せますからね……」
さて、その言葉を証拠立てる積りでもあったのか、脂肪肥りのクルベルは、床に膝をついてユロ夫人の手に接吻した。
この活々と緊張して、而も落付き、社会の裏面を露く惨酷さでは骨髄を抉っている描写は、消えぬ絵となって我々の印象に焼きつけられるのである。同時に、何か漠然とした驚きが引き起こされる。バルザックは、何と普通のような顔つきで、この醜怪と苦痛とを描いているだろう! と。
読み進んでゆくうちに、読者は到るところで、しっくりはまりこめない凸凹した説明にぶつかったり、そうかと思うと、思わず作者バルザックに対する疑いを喚び覚まされるような大仰な、出来合いの大古典時代めいた形容詞を羅列した文章に足を絡まれる。非常に古代美術愛好家風な、衒学的な、却ってそれが一種の野卑を感じさせる婦人の美の説明が我々を間誤つかせていると思うと、それはいつしか十九世紀のブルジョア勃興期にフランスで、そしてイギリスでも所謂下層階級の出身の美しい娘がどんな道行で没落に瀕したか、或は成り上りの貴族夫人となったかという社会的な過程を熱のある筆でくまなく我々の目前に展開していることを知るのである。
野蛮人や下層階級の心理について独断的な傾きのつよい作者の説明に対して極めて自然に、そして正当に後代人である我々の心に起る反撥。唐突に持って来て、ギリシャ神話中の名と並べてつかわれている自然科学上の様々な用語が読者に与える寧ろ子供らしい落付かなさ。我々は希望するしないに拘わらず、生粋の放蕩者ユロ男爵を遂に社会のどん底につき落したパリの美人局、従妹ベットの共犯者マルヌッフ夫妻の住んでいるぞっとするような湿っぽいルーブルの裏通りへ連れ込まれる。マルヌッフ夫婦の悪行で曇った食事皿の中の隠元豆に引き合わしてしまうまで、バルザックは一旦掴んだ我々の手頸を離さぬ。更に、ポーランドの独立運動に対する妥協のない作者の反感。常にイギリスに反撥して示される民族主義的な誇、「私の政敵は即ちこの政敵です」「ああ王族は血統純美」というような蕪雑な王党的自己陶酔。一層我々に納得されにくい独裁専制政治と宗教についての暴圧的政治論等々、読者は決してすらりとこの一篇の小説を読み終せることは許されない。種々の抵抗にぶつかり、小道へまで引きまわされ、脂のきつい文章の放散する匂いに揉まれ、而もそれらのごたごたした裡から、髣髴と我々の印象に刻された従妹ベットの復讐の恐ろしい情熱、マルヌッフ夫妻、ユロ男爵の底を知らぬ深刻な情慾への没落、カトリック的献身の見本のようなユロ男爵夫人、ジョセファを繞るドゥミモンドの女たちの強い身ぶり暮しかた等は、極めて色彩が濃く、忘れようとしても忘れることは不可能である。すべての人物が着実に現実的に描かれているかといえば、そうではない。金モール内職のベットがマルヌッフのサロンでは、俄然ダイアモンドのような輝きを発揮しはじめたり、奇怪な老婆がいきなり登場したり、ユロ将軍の最後の条などは、明らかに前章に比してなげやりに片づけられている。つき進んで云えば、従妹ベットの心持が、あのような規模と貫徹性とをもって発動し作用し得るかどうかについても一応うたがわれないこともないのである。
バルザックと同時代の作家であるメリメの作風と比べて、これは又何たる相異であろう。フランス散文の規範のようなメリメは異国趣味でロマンティックな題材と情熱とを、厳しく選択して理性的に配置した文章の鮮明な簡勁な輪廓の中にうちこんでいる。メリメの作品の力と欠点とは整然とした描写の統制の中にある。
バルザックの文章は、書かれている事件が複雑な歴史に踏みへらされたパリの石敷道にブルジョアの馬車が立ててゆく埃を浴びているばかりでなく、文章そのものが、まるで、一見無駄なものや、逸脱したり、曖昧であったりする様々な錯綜したものを引くるんで我々の日常に関係して来る社会生活そのもののような性質を帯びている。バルザックの小説において、読者はユーゴオの作品に対した場合のように、主要人物の動きにひきまわされるばかりではすまない。もう一つ、文章そのものに感情を刺戟されたり、思考を誘い出されて観察を目醒まされたり、と揉まれるのである。そして、我々は時に退屈したり、腹を立てて、バルザックを軽蔑したり、つまり自身の内から情感を生き生きと掻き立てられて、結局全篇を貫く熱気に支配されるのである。
バルザックの文章の渾沌的情熱の模倣は不可能である。真似したとすれば、彼の文章の調子の最も消極的であるところだけが瑣末的な精密さや、議論癖、大袈裟な形容詞、独り合点などだけが、大きいボロのような重さで模倣者の文章にのしかかり、饐えた悪臭を発するに過ぎないであろう。
バルザックの文体を含味する余裕、その諸要素を理解し分析する力の積極性においては、同時代人の中でも、後に自然主義文学に基礎を与えたテエヌが流石に立ちまさった見解を示している。サント・ブウヴは、バルザックが「従妹ベット」の中のパンセラスに関しての芸術論で「客間で大成功をして、大勢の芸術愛好家に相談をされて、批評家になってしまった。」云々ということを書いたのにひどく拘泥して、バルザックの死に際して書いた文章の中にわざわざ今日の我々から見ると意味ふかい数行を書き加え、バルザックは批評を無視したことを言っている。サント・ブウヴはその感情的基礎に我れ知らず作用されて、バルザックに対してはどちらかというと批評家としての自身の才能を活かしていない、言いかえれば出し惜しみをしているのであるが、バルザックの文体を「彼の文章の中には生き生きとはしているが、不十分で、勝手気儘で、しっかりと決っていない表現が沢山にある。それは、表現しようと企てているもので、何処まで行ってもそうである。彼の印刷屋はこのことをよく知っていた。」「彼にとっては鋳形そのものが常に煮えくり返っていたのであるから、金属の形の決りようがなかった。」と評しているのである。
バルザックの文体の不確実であるという意見では、テエヌも決してサント・ブウヴと反対の側に立っていない。彼も、サント・ブウヴと同じようにフランス文学の古典の中に教養をうけて来た人にバルザックの作品を読ませたら、どんなに彼等は喫驚するであろうかと言い、進んでこの点を一つの溌剌たる喜劇的場面に描いて追究しているのである。
先ずその人は、大冊十六巻からなるその作品の量を見て、このバルザックという人はよくもこれだけ書けたものだと一驚しながら、手当り次第に、その一冊をとりあげ、疑いぶかそうな様子で、どこかの頁をあける。偶然こういう言葉に出くわす。「最も優雅な物質性がすべてのフランドル人の習慣の中に刻印されている。」その人は眼を丸くし、暫く考えた後、それはきっと「フランドル人はその安楽な生活の習慣のうちに、非常に風雅な趣を蔵している」という意味だなと合点する。そうして、バルザックはどうしてこんな衒学的な物言いをするのであろうかと不思議がる。翻訳しながら読むのでは疲れるから、もっとさっぱりした簡単なのがよいというので、「トゥールの司祭」を開いて読んでゆく。そして、そのうちに彼は、はたと逡巡する。「これが女性の大集会の毛細管を通じて投げ出される文句の実体である」これでは生物学の講義でも聞いているようだ。何故かくも難しい述語を、百科辞典式に書き並べるのであろうかと歎息する。更に、その人は、業々しい書き起しに煩わされ、乱彩ぶりに悩まされ、詩人バルザックの難渋さに苦しむのである。そして、最後にその人はこう云うのである。「私が誰かの作品を読むというのは、教養が高くひとと会談する術をわきまえている人を私の家へ入れるのと同様である。ところでバルザックさんは、技芸辞典かドイツ哲学史提要か自然科学辞彙かのようなもの言いをする。たまたまそういう暗号のような言葉を使わない時には、猥らなことを言ったり大声で叫んだりする労働者のバルザックが姿を見せる。それからとうとう芸術家のバルザックが出て来たかと思うと、それは多血質の、乱暴な、病的な男で、さまざまの観念が、盛り沢山な、凝りすぎた、埒外れな文体に盛られて、やっと外に飛び出すという状態である。このような人は、ひとと談話するすべを知らない人だ。わたしの家の客間にはそんな人は入れない。」
テエヌとサント・ブウヴの批評家としての歴史における価値の相異は、まさにこれから先に発展する二様の見解によってはっきりと決定されるものである。サント・ブウヴは、大体同じ批評の後バルザックがせめて古典文学の文体について一つ二つの法則を知っていたならば少しはましであったろうにと論をすすめ、ペトロニウスを引合いに出したりして前世紀文学の文体の中庸と新古典主義時代の内容とを求め、ジョルジュ・サンドと比べて「マダム・サンドがバルザックよりも大きな確かな、力強い作家であることは今更言うまでもない」という風な我々の理解力ではうけがいがたい評価にそれ、反動的泥濘に陥ってしまった。
テエヌは、以上のようにバルザックの文体に対して与えられる可能のある殆どすべての非難を引き出した後、そのような「全くフランス的な、古典主義的な判断は、十七世紀のフランス人の生活と精神の習慣から来ている判断である。」と解釈した。十七世紀の人々がそこに文化の中心を置いて生活していたサロンと、その時代の社交界の人々が「優美な代数式を語るような」順序や語源や、比喩の釣合いに絶えず制御されていた分析的な考え方等は、バルザックが生きて、愛し、苦しんで、金銭のために焦慮しつづけた十九世紀前半の社会生活の現実の中に既に跡かたもないものである。サロンの代りにイギリス流のクラブが出来ている。花やピアノの飾られた部屋ででも話すことは「政治、鉄道、それから文学のことを少し、事務のことを沢山」男は男だけかたまって、しかも夕飯後は喫煙室へ行って話すようになって来ている。「二十五六を越えた男でダンスをする者が何人あろうか。そして実際それも道理である。」バルザックが実際社会に日夜接触する男たちは、自身の没落によってか、さもなければ成り上りの野望の成就、そのための陰謀、偽善、買収のために疲れ、心配気で、本当の笑顔を失った男たちばかりである。テエヌは十九世紀初頭の「パリは全世界のあらゆる思想が詰込まれ、精錬された貯蔵所であり、蒸溜器である」ことを認めている。「かくの如く神経過敏になり、かくの如き環境に育って、彼等はいかなる種類の思想にも喜びを感じることが出来、しかも奇抜な形をとった思想をしか認容しない。」「バルザックが、その怪奇癖と、衒学趣味と晦冥で誇張的なその文体とで、以上にのべた近代人の趣味が要求するものの猶上を行っていることは遺憾ながら私も認めざるを得ない。しかし、それは問題でない。バルザックの聴衆はそれ独特のものであり、そのものとして申し分のないものであり、他とは別箇のもので、他と同様に生存の権利を主張し得るものである。」そして、テエヌはそのことこそ「彼の文体の癖がわれわれの生活の習慣と適合し、作家たるバルザックが公衆によって認められる所以」であると結論しているのである。
謂わば非難囂々たるバルザックの文体も、根本は当時の社会生活の特質によって来らしめたものであると看破したところに、イポリィト・テエヌの、確乎たる時代的卓越性がある。同時に、今日の歴史の到達点に立って顧れば、テエヌが唯物論者として、社会と文学との関係を、彼の芸術理論の重要な三つの点、遺伝、環境、時代との環において捕えつつ、やはりその頃のフランス唯物論のブルジョア的限局のうちにあって、彼も結局は受動的な、循環的な、観念を社会諸現象の土台において理解したため、バルザックの批評に当っても、テエヌは同時代人の誰よりも突き入って「人間喜劇」の作者の社会性を肯定したのであるが、巨大なバルザックの体の中に驚くばかりごたごたにつめこまれている矛盾を歴史の発展の方向で闡明することは不可能であった。バルザックの全生涯、全芸術の最も大きな骨組みをなす矛盾は、彼が自身の現実生活で満喫した社会悪、階級権力の偽瞞に対し常に熱のつよい憤懣の状態にあり、この社会を人間の生産力、才能その他を活かし得るところとするためには「社会科学を全くつくりかえねばならぬ」と云いつつ、一方、「自然においては一切の運動が循環であるらしく見え」結局「精神及び観念のうちに革命はつくられねばならぬ」と帰結した道行の裡にかくされている。卓抜な洞察力にかかわらず自身の世界観のうちに全く同時代的な矛盾をもっていたテエヌが、社会関係においては受動的に現象羅列的にバルザックを説明することは出来ても、絡みあってバルザックそのものを成している諸矛盾とその社会的根源までを解きほごし、発展的モメントをとり出して示し得なかったことは、まことに興味がある。我々はもとよりその歴史性を咎めようとはしないのである。
バルザック自身が、自分の文体をもてあまし、汗水たらしてそれと格闘した有様は、すべての伝記者によって描かれ、まざまざと目にも浮ぶばかりであるが、バルザックは文学作品における表現というものに対しては或る識見を抱いていた。「文章論に通暁して、言葉の上の間違いを仕出かさないぐらいでは、大詩人にはなれないて!」前時代の古典主義に対して彼はこう挑戦した。「芸術の使命は自然を模写することではない。自然を表現することだ!」「我々は事物の精神を、魂を特徴を掴えなくてはならない。」芸術家は「自然が真裸になってその神髄を示すのやむなきにいたるまでは根気よく持ちこたえ」なければならぬ。そして「線というものは」(文学での言葉は)「人間がそれによって物体に落ちる光の効果を説明する手段だ」とバルザックは考えた。或る芸術の中に外観がよく掴えられ、本当のように描かれている。「それでいい。しかも其では駄目だ。君達は生命の外観だけは捉える。けれども溢れ出る生命の過剰を現すことが出来ない。」バルザックが、以上のような規準に従って現実ととり組み、自身の文体をも構造しようと努力した態度の内には、今日においても学ぶべき創作上の鋭い暗示、真の芸術的能才者の示唆を含んでいる。それだのに、バルザックは何故作品の実際では、あのように量的には未曾有の技術の鍛錬にかかわらず、終生混乱しつづけたのであったろうか。どこから、あの全作品を通じて特徴的な、リアルで精彩にとんだ描写と娓々しく抽象的な説明との作者に自覚されていない混同、比喩などにはっきり現われている著しい古典趣味、宗教臭と近代科学との蕪雑なせり合い、現実的な観察が次第に架空的誇大的な類型へ昇天する奇怪な道ゆきが生じたのであったろうか。
サント・ブウヴのような批評家は、その原因をバルザックの想像力の横溢とか制御のない熱情とかに帰しているが、それは皮相な観察であると思われる。バルザックは寧ろ、金銭争奪を中心とする社会的森羅万象の只中に日夜揉まれて、自身の大胆な手足から頸根っこまで現世的紛糾に絡みつかれつつ、小説の上にその社会的人間関係を再現しようとするに当っては、自身の上にとびかかって来る雑多な印象、観察、観念の間に、はっきりした計量が出来なかったように思われる。バルザックは、パリの大群集に自身もその一人として混って、笑顔をもって行われ、内実は血を噴くような悪計、音もなく新聞にもかかれぬ深刻な悲劇が、二六時中起って消えつつあるのを経験し、総てそれらの悲喜劇こそは「万人の渇望する金銭」をめぐっての事件であることをバルザックは看破した。然しながら、彼は金銭のそのような魔術性の根源を見破る力はなかった。それどころか、最もその魔術に魅せられたパリにおける地方人の一人であった。バルザックは身をもって金銭という近代文学の一大主題を掴み、終生それについて労作しつづけたのであったが、作家として彼が生きた時代との関係もあって、その主題の歴史性は遂に見通し得ずに生涯を終った。従って、金銭をめぐっての、あのことこのこと、その諸関係が、並列的に現象の平等性をもってバルザックの作家的認識の世界に評価を求めて蝟集して来たのは実に自然な成行であったろうと推察される。バルザックは社会的現実を再現し、而もそれを金銭、利害の根源との相互関係において芸術に表現するためには、実に声をあげて群がり来る無数の印象を掻きわけ、観念ととり組みつつ、全く「自然が真裸になって、その真髄を示すのやむなきに至るまで、根気よく持ちこたえて」「そこまでゆくには」自身、ひとの数倍の汗を彼の有名な仕事着の下にかき、更に印刷工を苦しめなければならなかったのであろう。
ブランデスが、非科学的であったと評し、今日の目で見れば極めてそれが自然発生的にされていたことが明瞭である創作の方法で、バルザック自身、自分の文体の独特性に対してもしかるべき確信は持ち得なかったらしい。苦しまずに、すらすらと整って美しい文章を書くゴーチェ、彼の唯一の親友であった同時代の才能を素朴に驚歎して、一八三九年、四十にもなり、既に「人間喜劇」の構想を得て数年後であったバルザックが、小説「ベアトリス」の中に二年前ゴーチェが或る二人の女優について書いた記事からの文章をそっくり真似て借りているなどという愛すべき事実さえもあるらしい。華美でエキゾチックで、ロマンチシズムの真骨頂のような作家的なゴーチェの文章を、バルザックが単純に上手いと感歎したというところにも、まざまざとバルザックが美の内容について錯雑した感受性をもっていたことが覗われるのである。
十九世紀という大きな世紀にふさわしい大きい素質をもって生れたオノレ・ド・バルザックの全生活、全労作を通じて相剋した現実に対する認識の積極面と消極面との激しい縺れ合いの姿こそ、実に我々に多くのことを教える。
人間の美徳も悪徳も社会的関係によるものであることを理解したのは、十九世紀の歴史的な勝利であった。更に、その現実社会に、極めて現実的に揉まれ、「観察する芸術家には事物が一番見よいに違いない場所」即ち社会の「下から、群集に混って困苦と苦闘を経ながら飽くことのない天才の資質とをもって其を眺めた」バルザックが、複雑多岐な形態で各人に作用を及ぼしている社会的モメントをつきつめれば、それは二つのもの、色と慾とであることを観察し、更にこの二つのものにあって窮極の社会諸現象のネジは、外ならぬ金銭であることを結論したのは、疑いもなく他の追随を許さぬ彼の現実探求の積極性であった。
ところが、ここに見落してはならぬことは、そのバルザックが自身の悲喜をも含めて運行するあらゆる社会生活の現象の奥に金の力を看破したと同時に、その威力に屈伏し、広汎な現実生活の社会性、歴史的発展の要因をその関係においては飽くまで受動的に固定させてしか理解し得ない状態に陥ってしまった事実である。
金銭争奪とブルジョア階級の資本の集積のためにとられる結婚制度から殖民政策に到るまでの諸手段とその過程を、バルザックは完膚なく文学に描き出し、その点では全くマルクスやエンゲルスにとってさえも有益で具体的な資料を与えた。然しながら、バルザックは、その金銭が本質に含んで刻々に増大させつつある生産諸関係の矛盾や、それによって心然に惹き起される支配階級の質的変化という現実のより深い真相、歴史の動きゆく基本的な動力に対しては、盲目に等しかった。彼は、社会の「複性は同一の実体(彼はここに金を置いた)の諸形態である」と考え、又当時既にブルジョアジーにとって脅威であった民衆の擡頭は、ブルジョアジーが貴族に対して擡頭したのと同じこと、否、貴族に代って権力を把り、貴族の行った総ての悪行を更に小型に没趣味に多数に再生産したブルジョアの醜行非道を、一層卑穢に而も下層階級の夥しい人口の数だけ増大させるに過ぎない恐るべき「近代野蛮人の貪婪」であると理解した。バルザックはパリの階級勢力の移動と栄枯盛衰がその間に激しく行われた七月、二月の政変をも経験したのであったが、彼は社会的変革も要するに金をめぐってもがく人間の流血的な循環運動にすぎぬと、観たのであった。
それにつけて私共の思い出すのは、バルザックがシボの女房を描いた、その描きぶりの特徴である。バルザックは、シボの神さんがポンスの財産をせしめようという慾に目醒めた、その途端に、彼女の平凡な市民的親切心が全く質的に一変した有様を、読者の日常心を刺すような鋭さで描破している。私共は、そこに可怖い程なリアリストとして心理のモメントを捕えている作家バルザックの慧眼を感じるのであるが、さて、一旦慾にかかって腹をきめてからのシボの神さんの描写はどうであろうか? 私共は慾の女鬼として一貫性はありながら、何だか本当にされぬシボの神さんの現実性を感じる。慾の一典型ではあろうが架空的な誇張や一面的な強調を描写の中に感じ、そこに至ってはバルザックがロマンチストであったことを却って思い返す心持になって来るのである。
この現実の描写にあらわれて来ている理解の食い違いこそ、バルザックが受け身にだけ、而も具体的内容では必然的に違うそれぞれの階級の歴史性を抹殺して、金に支配される点だけを観念化して同一視した彼の世界観を、私共に説明するものなのである。
バルザックはプロレタリアートが次の社会の担い手であることを当時の現実から承認せざるを得なかったのであるが、彼はそれを、「循環する自然の現象」の一つと見て、その意味で避け難いものとした。社会関係で人間の悪徳、美徳は変ると一方に理解しつつ、バルザックは次代の担い手「現代の野蛮人」は、変化された社会関係の具体的現実によってどのように高められ得るかという、発展の可能性は見出し得なかった。だから、彼は飽くまでも経験主義者らしく、また百姓バルザの野心大なる孫息子らしい富農的現実性で、プロレタリアート鎮圧のためには、「彼等すべてに所有の感情を与えよう」とか、カソリック宗教だけが金銭に対する慾心の焔に水をかけるものであるとか、彼等が専制政治の徳を知るまでは不幸に呻吟せざるを得ない等と考えたのであった。
この新たに盛り上って「慎重になった民衆のサムソンは今日以後、社会の柱石を祭典の広間に揺がす代りに、穴倉の中で覆す」であろう階級勢力を、「支配するためには暗黒にとどめて置かなければならない」というバルザックの実践的な結論と、彼が法律や権力の偽善をあばき、それが富者のより富むための道具に過ぎぬことを実に彼独特の巨大な熱情と雄弁とで曝露した事実とは一見矛盾するが如くであって、而も彼にあっては些の撞着もなかった。何故ならば、オノレ・ド・バルザックは二十で、一文なしの見習文士として屋根裏で震えながら海のようなパリの屋根屋根を眺めていた時から、全くすべてのブルジョアの若者が抱くものと同一の端緒的な欲望「金持ちになって、愛されたい」ために焦慮しつくし、更には「金持ちになって、貴族になりたい」ばかりに、死後までのこるような負債をさえ背負い込んだ。パリにおける偉大な地方人バルザックのいかにもその時代のフランスらしい成上り慾は決して彼が希望するような程度に充された時がなかった。彼が必死に富もうとすれば、より富んでいるものが更に富むために彼を詭計に陥れ、富者の権力、その法律はその富者の公然たる詭計を擁護し、裸同然の彼を追いまわし苦しめた。彼がブルジョアジーを猛烈に攻撃するのは、実に彼自身がその一人となろうとする慾望の邪魔をされつづけたからであり、彼の貴族崇拝、正統王党派的見解は、既に崩壊した階級の敵と個人としての彼の敵とが計らずも一致したからのことであったのである。
それであるならばと、私共の心には別の疑問が生じて来る。どうしてバルザックは、その憎むべき階級ブルジョアジーを倒す新手の力、彼の怨恨の階級的な復讐力としての大衆を見ることは出来なかったのであろうかと。答えは、矢張り同じ源泉から引出されると思う。バルザックは現実社会との格闘において、彼が希望したように宏大な規模においてでこそなかったが、既に十分大きい名声と借金とともにではあるが富をも「所有し」その「感情をもっ」ていたのであり、大衆がその土台を穴倉から覆すことがあれば、彼は自身が憎悪に燃えつつ膏汗を代償として奪い掴んだ一片のものさえ放棄しなければならなくなるであろうことをまがうかたなく知っていたからである。
「革命の与える経済的擾乱ほど悲惨なものはない。」最悪よりはより尠き悪を、大衆による広汎な悪徳の伝播よりは、まだしもブルジョアの今のままでの悪行を! そして、自分が無一文になるよりは腹立たしいが今あるものを手離さず! そういうのがバルザックの考えかたの道筋なのであった。
私達はここで一つの意味ふかい手紙の数行を思い起すのである。一九三三年一月に蔵原惟人が獄中から或る友人に宛てて書いた手紙の中にバルザックのことがトルストイとの対比においてふれられている箇所がある。すでにその時分、プロレタリア作家の一部にリアリズム研究の対象としてバルザックがとりあげられ、それに関して獄中の彼へ手紙が送られたのに答えたものである。手紙の筆者が「復活」のネフリュードフやカチューシャが写実的にかけていないこと、その点ではむしろバルザックの諸作品の方がすぐれていると、当時の流行にしたがった解釈を来しているのに対し、蔵原は、トルストイが「復活」においては「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」をも含む自分の過去のすべての芸術作品を否定し、それ以上のものを望んだのであるが、「彼がそれによって立っていた思想が間違っていたのと、彼が理想というものを社会の現実的な発展以外のところから取って来たから」破綻したこと。「これに反してバルザックは自分の観照の世界に満足してそれから一歩も外に出ようとしなかった」ことを指摘している。書簡は更に不自由そうに「哲学者は世界を様々に解釈して来た、しかし重要なことは云々というフォイエルバッハ綱領の中のマルクスの言葉はそのまま芸術の場合にもあてはまります。芸術はこの世界をあるがままに描写していればよいのではありません。この意味で人及び芸術家としてのトルストイは到底バルザックなどの及ぶところではないと思います。」と、現実観察の急所にふれているのである。
一八三〇年七月革命後、常に蝙蝠傘をもって漫画に描かれた優柔不断のルイ・フィリップがブルジョアジーの傀儡君主として王位についた時、一層凡庸化し、銭勘定に終始する俗人共の世界に反抗して、ユーゴー、ド・ミッセ、デュマ、メリメ、ジョルジュ・サンドなどは、いずれもそれぞれの形で日々の現実から離脱しロマンチシズムの芸術にたてこもった。或るものは異国趣味の裡に、或るものは歴史小説の中に、ジョルジュ・サンドは彼女の穢れない女性の霊魂の描写の中に。法律学校を出たきりのバルザックばかりは、他の作家たちのようにそれにたよって現実から遁走するためのどんなギリシャ芸術の蘊蓄も古文書に対する教養も持合わせていず、天性の豊富な想像力が活躍するとなれば、それは必ず極く現実的な内容しか持てなかったという事実は、何と意味深い示唆であろう。成程バルザックは、沢山旅行をし、サルジニアや南部ロシアへまで出かけたこともあった。が、それはゴーチェが異国情緒を求めてスペインへ行ったのとはちがい、サルジニアに在る銀鉱で儲けようと思いついたからであったし、南露には後に結婚した彼の愛人ハンスカ夫人が三千人もの農奴のついたそこの領地へ行っていたからである。
バルザックは、ユーゴオのようにギリシャ悲劇の教養を土台にして、その作品に美と獣性、淫蕩と清純な愛、我慾と献身という風な二元的な対位法を使い、ロマンティックな荘重さ、熱烈さ、高揚で、文体を整えることも出来なかった。バルザックはこれらの輝きある作家たちが、所謂現世の悪に穢されぬ崇高な本性を人間に見ようとしてそれを描こうとした、その人間の本性をさえ金に支配されずにはいられない現実をパリの場末町の散歩にまでも目撃せざるを得なかった。無財産で、しかも金が万事である世間を大きく渡ろうとする彼には金がいる、金をとるためには書かねばならない。書くとすれば、バルザックには一八三〇年代四〇年代のパリを中心として煮えたぎった生活経験しか有りよう筈がないではないか。
テエヌは、バルザックが人類史を知らなかったから自分の生活した時代だけを特別憎悪すべきもののように思っていたと言っている。私達は、然し、そのことを又別様に考える。バルザックが、人類史を知らなかったこと、そのような本を積上げた祖父の大書庫などはないバルザの家に生れたことこそ、彼がその文学的成功においても、破綻においても、全く当時としてのリアリストたり得たことの基因であったと観るのである。
バルザックには「理想主義がなかった。彼が偉大な作家であったに拘らず、当代の人々に完全に評価され得なかったのは、彼が精神的な指導者でなかったからである。」「彼は彼の時代を動かしていた社会主義運動を少しも理解しなかった。」そして、ブランデスは「次第に人々は彼が一定の明白な思想を持たない曖昧な人間に外ならないことに気付いた」と言っている。
もしバルザックが、あの経済機構の看破の上に一歩進めて理想を持ち得たとしたら、それは当然の結果としてジョルジュ・サンドの理想主義のような形而上学的な性質のものではなかったろうことは明白ではなかろうか。遙に具体的で社会の現実を現実的に変更する力を備えた実践の方向、バルザックが四十七歳で「従妹ベット」を書いた年、既にブラッセルで連絡委員会を開いたマルクスが示していた歴史の発展の方向に、自身の道を発見するしか仕方がなかったであろう。
然し彼は、その道からは恐怖をもって退いた。そして実は彼の敵であった階級の詐術にかかり、最後にはその安定を強化するための思想的代弁人の地位にさえずり込んだ悲劇の担い手としての不屈な姿を今日に示しているのである。
しかもバルザックが遭遇したような歴史的めぐり合わせは、資本主義による階級対立の社会が続いている今日においても、その特殊な内容をもって十分智的才能者の足を引かけ得る投繩となっている。バルザックが、十世紀の勃興する自然科学の新世界にふれて、自分から「自然科学者」であると名のりつつ、ジョフロア、サン・チェーレの生物学における種の認識を根拠として、社会と自然との類似を指摘し、「社会は人間をその生長すべく運命づけられた環境に従って作りあげる」と云う時、今日の知識人はバルザックが自然科学をよりどころとして却ってプラトーの奴隷搾取者としての社会観に似るところまで反動的に引戻ったことを直ちに理解する。然し、現代の高度な資本主義の社会観の発展と地球六分の一をしめる社会主義体制との摩擦は、自ら異った容貌で、新興勢力の裡にふくまれている強大な可能性を歪曲しつつあるのであるまいか。
エンゲルスがマーガレット・ハークネスに送った手紙に「作者の見解如何にかかわらず」「政治的には正統王朝派で」あったにかかわらず、バルザックが「真の未来の担い手たちを見てとったこと」、それを「リアリズムの最大の勝利の一つであ」る、そしてバルザックこそ偉大なリアリスト芸術家であるとしていることは、誤りでない。しかしながら、歴史上権威ある人々の書簡には或る場合註釈が必要とされるように、現段階にたってエンゲルスのこの書簡が読まれるについては矢張り幾つかの短い脚註の必要がさけ難いと思われる。
例えばエンゲルスは、この手紙において、バルザックが「真の未来の担い手を見てとったこと」までにしか触れていないのであるが、今日の世界の到達点に生活する我々の実践的な要求にとってはそれから先きのこと、即ち、バルザックが自身の力で見てとった真の未来の担い手に向って如何に結合して行ったかという、その現実の過程に迄立ち入って学ばなければならない。『マルクス・エンゲルスの芸術論』(岩波版)においてエフ・シルレルは精密な解註を附している。シルレルは、バルザックの芸術についてエンゲルスの言ったリアリズムとは、「資本主義的発展の内在的矛盾を──それが一般にブルジョア的創作方法に可能である限りにおいて、というのは、ブルジョア的リアリズムは究極において観念的なものになるからだ──解明するようなリアリズム」の問題であると、説明を加えている。これは妥当な註解であると思われる。然しながら、エンゲルスの手紙からの上記の引用を基礎として、エンゲルスは、「バルザックのリアリズムは革命的であると見ているのである」とやつぎ早に結論しているのは、理解に或る困難を引おこされる。ゾラのバルザック論その他に対し、芸術創作の過程における意識下的なものの力を過大視する評価のしかたに賛成を表さぬシルレルの態度は十分うなずけるが、その点を押し出そうとして、無条件に、バルザックが現実観察に際しては「分析的な、研究的な態度をもってその社会的現実の種々相を広汎に描いてい」るとだけ言い、しかも「デテールの真実さのほかに、『典型的な性格と典型的な情勢との表現の正確さ』がある」、正にエンゲルスが「人間は彼が何をしているかということだけで特徴づけられたのではない。更に彼がそれを如何になしているかということが大切なのだ」とラッサールへの手紙の中で言っている要求した通りにバルザックは主人公を書いたとだけ強調しているシルレルの言葉は、バルザックに対するエンゲルスの理解の正しさを裏うちしようとするあまり、却ってエンゲルスの批判にふくまれている複雑性をおおい、同時にバルザックの複雑な現実をも単純に片づける結果となっている。窮局において、バルザックは「いかなる場合にも全体としてはブルジョア・イデオローグであり、ブルジョア芸術家であった。」フランスの古い商業ブルジョアジーの社会観の支持者であったことをシルレルも認めているのであるから。
シルレルのエンゲルスの言葉に対する理解は稍々皮相的に表現されていると感じられる点は次のような部分にも認められる。例えばバルザックの作品の現実について読み、観察をした者は、単にバルザックの主人公が何を、如何にしたかを理解するだけでなく、当然のこととして作者バルザックはその一篇の小説の主人公とその環境の描写を通して、何を如何に言わんとしているかということに迄触れて含味せざるを得ない。作品の実際では、何を、如何にということが二重になって切りはなせぬ相互関係において生きて来る。作品の具体的な場合について見ると、屡々この二重の何を如何にの間に或る矛盾がひき起されていて、或る作者の真骨頂をその芸術作品の具体性において捉えるためには、外でもないその二重に押し出されている何を如何にの間に在る矛盾の本質をこそ究明しなければならないという場合がある。シルレルが見落しているこの小さい、而も重大なる点が、バルザックの正しい理解のためには特に慎重にとりあげられなければなるまいと考える。何故ならば、バルザックは全作品の随処に自身の熱血的矛盾を吐露していて、主人公を簡単にはっきり捉え、何を如何にしたかという一筋の道行を挾雑物なしに描く場合は実に稀であった。描写の間に、或るところでは描写を押しつぶして作者の説明や演説が出て来て、それは主人公が何を如何にしたかということに絡んで引き出された全く作者バルザックの主観であり、独断であり、或は偏見や追随である場合が多かった。故に、バルザックの場合、文体の独特な混乱の性質、そこに現れている矛盾の社会性がつきつめられてこそ彼から汲取る教訓は無尽蔵なのであり、而もそれをなし得るのは、彼の同時代人テエヌではなくして、さらに発展した今日の唯物論の立場に立つもの、社会現象の領域にまで及ぼして「社会的環境が人間を創り、同時に人間が社会的環境をつくる」という相関関係を解きあかすことの出来る弁証法的唯物論の立場に立つ者、バルザックによって見てとられた未来の真の担い手に初めて与えられた歴史的な歓ばしき可能性であり、任務であると思われるのである。
斯くてバルザックは一八五〇年、ロシアのウクライナで二十年来交誼のあったハンスカ夫人と結婚し、パリに帰ったが、既にウクライナで病んでいた心臓病が重って、八月十八日、五十一歳の多岐にして矛盾に満ち、その矛盾において十九世紀初頭のフランス社会を反映したところの大生涯を終った。
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文学古典の再認識」芸術遺産研究会編、現代文化社
1935(昭和10)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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