二つの場合
宮本百合子



 先頃、山川氏の『朱実作品集』を、いろいろの点から興味ふかく読んだ。それと前後して窪川いね子の作品集『牡丹のある家』を読んでいたのであったが、私は、全く内容の種類を異にしたこの二つの作品集から、計らずも一つの共通した印象を与えられた。それは『朱実作品集』の中にも、『牡丹のある家』にも、もしそれ等がまとまった一つの中篇或は長篇として扱われていたら、芸術品として更に強い効果を示したであろうと思われる連作的短篇があったことである。

『朱実作品集』の十二の短篇は「久米子の一日」「寒い夜」「留吉」などを一応どけたあとのものは、どれも一人の女主人公を中心として描かれるべき長篇の部分部分であると思われた。『牡丹のある家』において「小幹部」「幹部女工の涙」「何を為すべきか」の三篇が一貫して長篇に書かれていたならば、私達は、紡績産業組合における日本では代表的な労働貴族としての女工のタイプと大衆としての女工の階級性とを、もっとはっきりと広い社会的背景の前に理解することが出来たであろう。

 私は、何故、これら二人の根気づよい婦人作家が、少なからぬ内容のある作品をそのように小さく区切って書いて行ったのであろうかと、そこへ注意をひかれたのであった。

 そして、この外見には同じような二つの現象が、その根源においては、決して同一のものの上に立っていないという発見に到着したのであった。

 忌憚ない言葉を許されるならば、『朱実作品集』は、作者が題材に向って勇敢になれなかったところから長篇として書き得なかったと信じる。題材に立ち向って山川氏は作家となり切っておらない。別の言葉でいうと、作者は、作者にとって身近な女主人公の生活を、客観的にひろい社会性の繋りにおいて観て、その喜憂と努力と苦悩とを芸術の中に掌握し活写することを得なかった。作者は、困難な課題をふくんだ生活の部分をその実際生活と作品の構成からどこかひっそり目に立たぬよう引抜いていると感じられる。そのためにこれ程反覆され、殆ど既に長篇になりかかっている題材が、はっきり主題を押しすすめるところの芸術的統一を失っていることを私は遺憾に思ったのであった。

 このことは勿論卑俗な実話的意味で、作者が所謂裸になっていないことを指しているのでないことは明らかであろう。作品に形象化された現実が人をうつのは、それが只実際そうであったというとおりに書き連ねられたからではないところに芸術の面白さがあると私は思う。我々がどちらかといえば粗忽に見すごして生きている社会の現実が、その錯綜と矛盾との生々した姿の本質にまで突きいって、社会的・歴史的意味を自ら明らかにしつつ作品の中に再現せられているからこそ私達はひきつけられる。文学におけるリアリズムと単なる経験主義、瑣末な日常写実主義との本質的な相違点はここにあると思われるのである。

 窪川いね子の場合は、彼女がその原稿で、食うためばかりでなく階級的な意味からも入用であった金をとらねばならなかったのが、根本的な原因であった。

 階級的夫婦の活動の分け前で、『牡丹のある家』の作者は経済の負担者としての役目を負い、文筆の仕事に着手した。山川氏の努力に、制約を加えている社会的重圧そのものが、彼女にも作用して、それらの作品を書かせたと同時に、それを一つの長篇として、完成する余裕を与えなかったのである。

 所謂文壇的功名心を創作の動機としていなかったという意味では、この二人の婦人作家は同じ足場にあるわけなのである。私は『牡丹のある家』の作者が、社会的重圧との積極的な揉み合いのうちに、或る時は作品を切りこまざかれつつ、いつしかプロレタリア婦人作家としての向上線を辿りつつあることを意味深い歴史の反映として感じ、作家の発展ということについての深い暗示がそこにこもっていることを考えるのである。

〔一九三四年十一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年1220日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房

   1952(昭和27)年10月発行

初出:「輝ク」

   1934(昭和9)年1117日号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年116日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。