小説の読みどころ
宮本百合子
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同志小林多喜二がボルシェヴィキの作家として実に偉かったところは、うむことないその前進性である。一つ一つの作品が必ず、それぞれに階級闘争の発展してゆく段階を何かの形で反映している。
われわれプロレタリア文学の仕事に従う者が、同志小林の業績によって深い鞭撻をうけるのは正にこの点である。彼が進み行く労農大衆の先頭に身を挺して立ち、その闘争の一部として小説を書きつづけて行った、この覚悟が同志小林を真のボルシェヴィク作家に鍛え上げ、作品をも益々大きいものにした。
「地区の人々」「転換時代」(この作品の本来の題は「党生活者」というのであるが、『中央公論』はおっかながって題をかえて発表した)について、われわれの学ぶところもそこであると思う。例えば、「地区の人々」をよんで、読者諸君はあの作品が従来の同志小林の作品に比べて、大変落付きがあり、文章にまでも大らかな確乎性が漲りはじめていることを感じたであろう。何故そういう変化が作品の上に起ったか。ブルジョア批評家がよく云うように、ただうまい、まずいの問題ではない。同志小林が前衛として益々全闘争の裡に深く入り、政治的に鍛練されることによって、これまでは謂わば外から描いていた積極的な主題を遂にその内側から書けるようになって来たことを示すものなのである。
「党生活者」は、真にボルシェヴィクらしい前衛作家によって前衛の生活がこまかく書かれた初めての作品として記念すべきばかりでない。
軍需工場内で、労働強化に抗して起とうとする労働者を抑圧するために、天皇制権力はどんな計画的な手段で反動的勢力を大衆自身の中から育て上げようとしているか、という最も緊急な今日の問題を同志小林はとりあげて我々に示している。労農大衆が勝つためには、下からの統一戦線が何より大事であることを大衆は自分たちの経験によって知りはじめた。ストライキでも小作争議でも分散的にせず同一の全産業、全部落が共通の要求によって結集して闘う方が有利であるとわかった。その切り崩しを、天皇制権力は昨今夢中になってやっている。記録的な分裂メーデーが今年行われた所以だが、企業内の大衆を現在の情勢ではただ上から押えつけたのではもう通用しない。逆に闘争へ立たせるので、社会ファシストをつかって「左翼的」なかけ引きをさせ、大衆自身が内部的に統一されない気分を持つようにと悪辣な手段をつかっている。「党生活者」は敵階級のかような新手な戦術を暴露し、プロレタリアートの下からの統一戦線の重要性を示し、反動政策の新段階を暴露している。「党生活者」を読む場合、以上の点は見落としてならぬところである。
『読売新聞』で、杉山平助氏が「党生活者」第六部(五月号『中央公論』所載)を批評していたが、それは、この作品が五月号の部分では最も明瞭に且つ重点をそこにおいて企業内の反動政策との闘争について書いているのに肝心のそのところはちっとも理解せず、同志伊藤や笠原という婦人を書いたとこだけをとりあげ、同志小林が女に対して強権的ではなかったかなどと結果においてデマゴギー的なことを云っている。ブルジョア批評は、うるさく作品の詮議だてをして、うまいとかまずいとか、書けている、いないと云うが、彼等は自分の世界観を階級性に狭められているため、プロレタリア文学についていう場合、それが何をどう書こうとしているかさえ見えないということが明白に現れているのである。
経営・農村で働きつつ、闘争しつつプロレタリア文学を擁護し、それを制作してゆく労農文学通信員などこそ、同志小林が前衛作家として築いた到達点を推し進めるべき歴史的必然性の上にたっている。我々は、鋭く強靭に、粘りづよく自身の日常闘争を押しすすめよう。そのことによって、政治的に高まり、新しいタイプのプロレタリア作家として自身を鍛え上げよう。よいプロレタリア文芸の働き手はいつも必ず闘争においてひるむことを知らぬ卓抜周密な同志である。
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「文学新聞」
1933(昭和8)年6月16日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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