浚渫船
葉山嘉樹
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私は行李を一つ担いでいた。
その行李の中には、死んだ人間の臓腑のように、「もう役に立たない」ものが、詰っていた。
ゴム長靴の脛だけの部分、アラビアンナイトの粟粒のような活字で埋まった、表紙と本文の半分以上取れた英訳本。坊主の除れたフランスのセーラーの被る毛糸帽子。印度の何とか称する貴族で、デッキパッセンジャーとして、アメリカに哲学を研究に行くと云う、青年に貰った、ゴンドラの形と金色を持った、私の足に合わない靴。刃のない安全剃刀。ブリキのように固くなったオバーオールが、三着。
「畜生! どこへ俺は行こうってんだ」
樫の盆見たいな顔を持った、セコンドメイトは、私と並んで、少し後れようと試みながら歩いていた。
「ヘッ、俺より一足だって先にゃ行かねえや。後ろ頭か、首筋に寒気でもするんかい」
私は又、実際、セコンドメイトが、私の眼の前に、眼の横ではいけない、眼の前に、奴のローラー見たいな首筋を見せたら、私の担いでいた行李で、その上に載っかっている、だらしのないマット見たいな、「どあたま」を、地面まで叩きつけてやろう! と考えていたのだ。
「で、お前はどこまでも海事局で頑張ろうと云う積りかい?」
と、セコンドメイトは、私に訊いた。
「篦棒奴。愚図愚図泣言を云うない。俺にゃ覚悟が出来てるんだ。手前の方から喧嘩を吹っかけたんじゃねえか」
私は、実は歩くのが堪えられない苦しみであった。私の左の足は、踝の処で、釘の抜けた蝶番見たいになっていたのだ。
「お前は、そんな事を云うから治療費だって貰えないんだぞ。それに俺に食ってかかったって、仕方がないじゃないか、な、ちゃんと嘆願さえすれば、船長だって涙金位寄越さないものでもないんだ。それを、お前が無茶云うから、船長だって憤るんだ」
セコンドメイトは、栗のきんとん見たいな調子で云った。
そのきんとんには、サッカリンが多分に入っていることを、私は知っていた。その上、猫入らずまで混ぜてあったのだが、兎に角私は、滅茶苦茶に甘いものに飢えていた。
だものだから、ついうっかり、奴さんの云う事を飲み込もうとした。
涎でも垂らすように、私の眼は涙を催しかけた。
「馬鹿野郎!」
私は、力一杯怒鳴った。セコンドメイトの猫入らずを防ぐと同時に、私の欺され易いセンチメンタリズムを怒鳴りつけた。
倉庫は、街路に沿うて、並んで甲羅を乾していた。
未だ、人通りは余り無かった。新聞や牛乳の配達や、船員の朝帰りが、時々、私たちと行き違った。
何かの、パンだとか、魚の切身だとか、巴焼だとかの包み紙の、古新聞が、風に捲かれて、人気の薄い街を駆け抜けた。
雨が来そうであった。
私の胸の中では、毒蛇が鎌首を投げた。一歩一歩の足の痛みと、「今日からの生活の悩み」が、毒蛇をつッついたのだ。
「おい、今んになって、口先で胡魔化そう、ったって駄目だよ。剥製の獣じゃあるめえし、傷口に、ただの綿だけ押し込んどいて、それで傷が癒りゃ、医者なんぞ食い上げだ! いいか、覚えてろ! 万寿丸は室浜の航海だ。月に三回はいやでも浜に入って来らあ。海事局だって、俺の言い分なんか聞かねえ事あ、手前や船長が御託を並べるまでも無えこっちで知ってらあ。愈々どん詰りまで行けゃあ、俺だって虫けらた違うんだからな。そうなりゃ裸と裸だ。五分と五分だ。松葉杖ついたって、ぶっ衝って見せるからな」
松葉杖! 私はその時だってほんとうは、松葉杖を突いてでなければ、歩けないほどに足が痛く、傷の内部は化膿していたのだ。
私は、その役にも立たない、腐った古行李をもう担いで歩くのが、迚も重くて、足に対して堪えられない拷問になって来た。
道は上げ潮の運河の上の橋にかかっていた。私は橋の上に、行李を下してその上に腰をかけた。
運河には浚渫船が腰を据えていた。浚渫船のデッキには、石油缶の七輪から石炭の煙が、いきなり風に吹き飛ばされて、下の方の穴からペロペロ、赤い焔が舌なめずりをして、飯の炊かれるのを待っていた。
団扇のような胴船が、浚渫船の横っ腹へ、眠りこけていた。
私は両手で顎をつっかって、運河の水を眺めていた。木の切れっ端や、古俵などが潮に乗って海から川の方へ逆流して行った。
セコンドメイトは、私と並んで、私が何を眺めているか検査でもするように、私の視線を追っかけていた。
私は左の股に手をやって、傷から来た淋巴腺の腫れをそうっと撫でた。まるで横痃ででもあるかのように、そいつは痛かった。
──横痃かも知れねえ。弱り目に祟り目だ。悪い時ゃ何もかも悪いんだ。どうなったって構やしない。──
「その代りなあ、淋しい死に方はしやしないからな」
私は、ほつれた行李の柳を引き千切って、運河へ放り込みながら、そう云った。
「おい! そんな自棄を云うもんじゃないよ。それよりも、おとなしく『合意雇止め』にしてやるから、ボーレンで一ヵ月も休んで、傷を癒してから後の事は、又俺でも世話をしてやるからな。お前見たいな風に出ちゃ損だよ。長いものには巻かれろってことがあるだろう。な、お前がいくら頑張ったって、船長も云ったように、一億円の船会社にゃ、勝てっこないんだから」
セコンドメイトは、デッキの上と橋板の上とでは、レコードの両面見たいに、あべこべの事を云い始めた。詰らない事を云って、自分が疳癪玉の目標になっては、浮ばれないと思いついたのだ。
「セキメイツ。長いものが、長いものの癖をして、巻かねえんだよ。巻かれた奴あ、ギュッと巻き締められて、息の根を止められちまわあな。ボーイ長(水夫見習)を見な。奴あ泣寝入りと云いたいんだが、泣寝入り処じゃねえや、泣き死にに死んじゃったじゃねえか。ヘッ、毛も生えないような、雛っ子じゃあるめえし、未だ、おいら泣き死にはしねえよ。淋しい死に方なんざしたくねえや」
「フン。強い事あ、もっと早くか、もっと遅く言ったらどうだい。ま、足でも癒ってからな。第一、お前は船長に云う事を俺に云ったって、追つかない話だぜ」
「いいとも。船長だってお前だって、塵木葉なんだよ」
私は、立ち上った。
腰を下していた行李を担ぎ上げた。
セコンドメイトは、私が行李を担ぎ上げたので、二足許り歩いた。
私は、行李を運河の中へ、力一杯放り込んだ。
「ヘッ、俺等なあ、行李まで瘠せてやがらあ。ボシャッてやがらあ。ドブンとも云わねえや。お前だって俺だって此行李と違やしないんだぜ。セキメイツ!」
行李は、ひょうきんな格好で、水を吸って沈むまでを、浮いてごみ屑と一緒に流れた。
「どうしたんだい。一体、お前気でも狂ったんじゃないのか」
セコンドメイトは、ポシャッと云った水音で振りかえってそう云った。
「首なし死体を投り込んだんだよ。ありゃ腐った臓腑だけっか入ってねえんだ。お前だって、あの行李ん中へ入ってるんだよ。俺だって、自分の行李がいらなくなりゃ、雇止めを食わさあな、ヘッ。さようなら、御機嫌よう。首なしさん。だよ。ハッハッハハ」
私は、歯を食いしばった。そして上瞼を上の方へまくし上げた。行李は私のようにフラフラしながら流れて行った。
セコンドメイトは、私が、どんなに非常識な事をいっても「憤ってはならない」と心の中で決めているらしかった。
──若し、今、こいつに火をつけたら、ダイナマイト見たいに、爆発するに決ってる。俺が海事局へ行ってから、十分に思い知らしてやればいいんだ。それまでは、豆腐ん中に頭を突っ込んだ鰌見たいに、暴れられる丈け暴れさせとくんだ。──
セコンドメイトが、油を塗った盆見たいに顔を赤く光らせたのから、私は、彼の考えを見てとった。
私とても、言葉の上の皮肉や、自分の行李を放り込む腹癒せ位で、此事件の結末に満足や諦めを得ようとは思っていなかった。
──一生涯! 一生涯、俺は呪ってやる、たといどんなに此先の俺の生涯が惨めでも、又短かくても、俺は呪ってやる。やっつけてやる、俺だけの苦しみじゃない、何十、何百、何万、何億の苦しみだ。「たとえ、お前が裁判所に持ち出したって、こっちは一億円の資本を擁する大会社だ。それに、裁判はこちらの都合で、五年でも十年でも引っ張れる。その間、お前はどうして食う。裁判費用をどこから出す。ヘッヘッヘッ」と、吉武有と云う、鋳込まれたキャプスタン見たいな、あの船長奴、抜かしやがった。抜かしやがった。畜生!「どうして食う? どうして食う?」と奴はこきやがった。──
私は橋板上へ、坐り込んでしまった。
足と、頭の痛さとが、私を、私と同じ量の血にして橋板へ流したように、そこへ、べったりへたばらしてしまった。
──畜生!──
「セキメイツ! 人間の足が痛んでるんだ。分らねえか、此ぼけ茄子野郎! 人間の足が、地についてる処が疼いてるんだ。血を噴いてるんだ!」
私は、頭を抱えながら呶鳴った。
セコンドメイトは、私が頭を抱えて濡れた海苔見たいに、橋板にへばりついているのを見て、「いくらか心配になって」覗き込みに来るだろう。「どうしたんだ、オイ、しっかりしろよ。ほんとに歩けないのかい」と、私の顔を覗き込みに来るだろう。そして、私の頭に手をかけるだろう。オイ。
──手だけは、未だ俺は丈夫なんだからな。ポカッ! と、俺は、奴の鼻に行かなくちゃいけない。口ではいけない。眼ならいくらかいい。だが鼻が一等きき目があるからな。ざまあ見やがれ、鼻血なんぞだらしなく垂らしやがって──
私は、本船から、艀から、桟橋から、ここまでの間で、正直の処全く足を痛めてしまった。一週間、全一週間、そのために寝たっきり呻いていた、足の傷の上にこの体を載せて、歩いたので、患部に夥しい充血を招いたのに違いなかった。
──どこにいるんだか、生きているんだか死んでるんだか知らないが、親たちが此態を見たら──
と、私は何故ともなく、両親の事を思い出した。
私の親が私にして呉れたのと、私の親ほどな年輩の世間の他人野郎とは、何と云うひどい違い方だろう。
私は頭を抱えながら、滅茶苦茶に沢山な考えを、掻き廻していた。そして、私の手か頭かに、セコンドメイトの手の触れるのを待っていた。
私は、おそらく、五分間もそうしていた。だが、手は私に触れなかった。
私は顔を上げた。
私を通りすがりに、自動車に援け乗せて、その邸宅に連れて行ってくれる、小説の美しいヒロインも、そこには立っていなかった。おまけにセコンドメイトまでも、待ち切れなくなったと見えて、消え失せてしまっていた。
浚渫船の胴っ腹にくっついていた胴船の、船頭夫婦が、デッキの上で、朝飯を食っているのが見えた。運転手と火夫とが、船頭に何か冗談を云って、朗かに笑った。
私は静に立ち上った。
そして橋の手すりに肘をついて浚渫船をボンヤリ眺めた。
夜明け方の風がうすら寒く、爽かに吹いて来た。潮の匂いが清々しかった。次には、浚渫船で蒸汽を上げるのに、ウント放り込んだ石炭が、そのまま熔けたような濃い烟になって、私の鼻っ面を掠めた。
それは、総て健康な、清々しい情景であり、且つ「朝」の溌溂さを持っていた。
船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に神経は失くなり、多くの血管は断ち切られた。そして、その後では、新鮮な溌溂たる疼痛だけが残された。
「オーイ、昨夜はもてたかい?」
ファンネルの烟を追っていた火夫が、烟の先に私を見付けて、デッキから呶鳴った。
「持てたよ。地獄の鬼に!」
私は呶鳴りかえした。
「何て鬼だ」
「船長ってえ鬼だったよ」
「大笑いさすなよ。源氏名は何てんだ?」
「源氏名も船長さ」
「早く帰れよ。ほんとの船長に目玉を食うぜ」
「帰る所なんかねえんだよ。ペイドオフ(馘首)の食いたてなんだ」
浚渫船のデッキから、八つの目が私に向いた。
「何丸だ?」
「万寿丸よ!」
「あんな泥船ならペイドオフの方が、よっ程サッパリしてらあ。いい事をしたよ」
彼等は、朝の潮に洗われた空気に相応しく快活に笑った。
それは、負傷さえしていなければ、火夫の云う通りであった。だが、今は私は、一銭の傷害手当もなく、おまけに懲戒下船の手続をとられたのだ。
もう、セコンドメイトは、海事局に行っているに違いない。
浚渫船は蒸汽を上げた。セーフチーバルヴが、慌てて呻り出した。
運転手がハンドルを握った。静寂が破れて轟音が朝を掻き裂いた。運転手も火夫も、鋭い表情になって、機械に吸い込まれてしまった。
──遊んでちゃ食えないんだ。だから働くんだ。働いて怪我をしても、働けなくなりゃ食えないんだ!──
私は一つの重い計画を、行李の代りに背負って、折れた歯のように疼く足で、桟橋へ引っ返した。
底本:「日本プロレタリア文学全集・8 葉山嘉樹集」新日本出版社
1984(昭和59)年8月25日初版
1989(平成元)年3月25日第5刷
初出:「文芸戦線」
1926(大正15)年9月号
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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