文芸時評
宮本百合子



        「抒情歌」について

          ──その美の実質──


 二月号の『中央公論』に、川端康成の「抒情歌」という小説がのっている。印刷して二十三ページもあり、はじめから終りまでたるみない作家的緊張で書かれている。川端康成の近頃の創作の中で、決していい加減につくられたものでないのはよくわかる。

 字も読めない子供時代から、かんで歌留多をとり、神童といわれたような少女が次第に年ごろとなり三年も前から夢で見ていた青年と、夢で見たままの場面、服装でであいする。

 龍江というのがその若い女の名である。龍江には異常な霊の力があって、海に溺れる運命だった弟の命を救ったり、一ぺんも行ったことのない愛人の書斎に、古賀春江の絵と広重の版画とがかかっていて、雪の降る日背中に赤ん坊を背負った男が偶然雪かきをやらせてもらいに来たりするところまでをあてる。

 男は、龍江が「こんなにまで僕を愛していてくれるのか」とおどろき、「こんなに魂が来ているのに、肉体だけ来ないという法はないと思って」家をすてても来いといってやり、二人は結婚する。

 女はどこにいて、何をしていても男に用があると呼ばれないでもそばへ行き、「二つの口から始終同じ一つの言葉をぶつけ合う」ような霊的交流をもって生活したが、やがて男はそのみこのような霊力の女をすてて、別の女と結婚し、死ぬ。

 龍江は、だが、男の結婚したことは知らず、ある夜、ふろの中で突然はげしい香におそわれ、真裸でこのような強い香をかぐのは、たいへん恥しいことだと思ううちに目がくらんで気が遠くなる。それが丁度男が花嫁の床に香水をまいた時だった。

 棄てられた女は、さんざん苦しんだあげく、だんだん霊の不滅、輪廻転生の教えを美しいものと信じるようになり、霊交術にまで熱中しだす。そして、ギリシア神話のように、死んだ男は早ざきのつぼみを持つ紅梅に生れかわっているという幻をえがき、「心を一つにこらして」魂をその死人のもとにかよわせ、るる霊の不思議とあの世の生について語る。

 川端康成は、一年前、「水晶幻想」を書いた時分の都会風な、ヨーロッパ的モザイックの手法とはまるで違った綿々として「香の立ちのぼる」ような筆致でこの霊界物語を書いている。龍江という女のことばをかりて、力をこめ「人間は何千年もかかって人間と自然界の万物といろいろな意味で区別しようとする方へばかり盲滅法に歩いて来た」から、そのひとりよがりが「魂をこんなにさびしくした」のだ。いつかまた人間は「もと来たこの道を逆に引きかえして行くようになるかもしれない」といっている。物質のもとは不滅であるという唯物論的一元論を、川端康成は、この作品中で七生輪廻や転生の可能へねじまげてしまっている。

 よしんば、作者自身龍江ほどそれを現実としては信じないまでもこういう霊界物語にひどく「抒情歌」の美を感じ、その美をとぎあげてこの一篇の小説の中へ盛りこもうとした情熱だけは、まがうかたなく感じられる。

「水晶幻想」時代にでも、現実の激しい社会生活から遊離した川端康成の主観玩弄の癖は一つの特徴だった。有閑なブルジョア・インテリゲンチアらしく脳みそは一秒間にどれだけ沢山のものを連想し得るかを暇にまかせて追求し主観の転廻のうちに実現と美を構成しようとしたのが「水晶幻想」であった。


        現実逃避の文学

          ──神秘主義とファッシズム──


「水晶幻想」と「抒情歌」との間には一年の歳月が流れている。しかも一九三一年は、日本をこめて資本主義世界の一般的経済恐慌が、金融恐慌にまで発展したすさまじい一年間だった。

 特に一九三一年の後半期は、ブルジョア独裁がブルジョア文化の全機能をひきいてはっきりとファッショ化した点で、日本の歴史的モメントであった。

 支配階級とともに急速にファッショ化したのは、大衆作家直木三十五や三上於菟吉ばかりではない。川端康成もこの「抒情歌」で、ファッシズムのために道をひらく危険にさらされている。

 そういうと、びっくりして抗議する者があるかもしれない。おいおい、そう何でもファッシズムで片づけるな、わるい癖だ。川端康成はファッショなものか。二月の『改造』を見ろ、「わが犬の記」というしごくおだやかなものを書いている。由来、犬を飼って愛すようなものは幾分哲人の風格をおび、たとえばモーリス・メーテルリンクでも、すばらしい犬の物語を書いているように云々……と。

 なるほど、川端康成は老成の筆ぶりで「わが犬の記」を書き、綿々たる霊の讚歌「抒情歌」を書き、決して直木三十五のように商売半分のファッショ風なたんかなどを切ってはいない。

 まるで正反対である。「水晶幻想」時代には近代のブルジョア・インテリゲンチアらしく、科学知識への興味を自慰的に示していた川端康成は、次第に円熟し、東洋人らしくなり、仏典をいじり、霊の輝きへの信仰によって高められ、微妙な美の創造者になったかのようである。

 が、しかし、この神秘主義こそ、ファッシズムがその文化を飾る重要な一つの支柱として求めるものである。

 神秘主義は、その基礎条件として、現実の社会生活からの逃避を意味している。われわれがその中に闘いながら毎日生きている資本主義社会の矛盾と崩壊の過程。その表現として支配階級のファッショ化が導き出されているほど激化している階級対立の現実からは何とも手を下しようなく目をつぶる。川端康成は作品の女主人公にいわせている。

「植物の運命と人間の運命との似通いを感じることがすべての抒情詩の久遠の題目である。」

「仏法のいろいろな経文を、たぐいなくありがたい抒情詩と思います今日この頃の私であります。」

「水晶幻想」時代にも、彼は科学の階級性は全然把握できなかった。今は更に進んで「抒情歌」によってとうとう現世をすて霊の天上界へまで逃げのびてしまった。

 ブルジョア文学のファッシズムへの道は、群司次郎正や直木、三上の場合のような、だれにでもそうとわかる姿でだけ現れるとは限っていない。この「抒情歌」のようなその反対の消極的な外見をもっていて、十分にファッシズムが利用する精神への道も開き得る。

「抒情歌」にあらわれた神秘主義は、それが美しければ美しいだけ今日の現実から目をそらしているという点で、第一、支配階級の役に立つ。

 第二に、こういう神秘主義は自然と人間との関係の積極性を否定し、人間精神を、運命、目に見えない力の統帥に甘んじさせようという点に、革命的な大衆のより自覚しようとする世界観に霧をかける毒素をもっている。こういう神秘主義を様々の形にかえてコケおどしの慰霊祭のおかげで、支配者たちは自分の利益のために殺した満蒙出征戦死兵の窮迫した遺族からの反抗をふせいでいるのだ。軍国主義をあふり得るのだ。

 イギリスのロッジ博士が戦死した息子からの霊界消息をまとめて本にだした。それは「つまり魂が不滅でありますことのあかしを立て、ヨーロッパ大戦争で愛する者を失いました幾十万の母や恋人にこの本をおくったのでありました。」しかし、これはほんとに人間的な不幸へ抵抗する方法だろうか、息子を殺すな! 愛人を殺すな! と幾百万の女を奮い立たせるためでは、決して決してなかったのだ。ブルジョア文学はブルジョア階級のがたつきと一緒に、美のうちにあるべき正しいいきどおりという理論を失っている。そして、ブルジョア文化用具としてのブルジョア・ジャーナリズムの命じるままに、片々たるエロチシズムとナンセンス文学をつくって来た。ところが、階級対立が激化し、帝国主義戦争=大衆の大量的死がブルジョアジーにとって必要となってくるにつれ、文化のいろんな部面に神秘主義が現れて来ていた。

 今年になって、沢山の婦人雑誌が特別附録として、「迷信」「占ない」などの記事を盛んにもりはじめた現象と、この「抒情歌」との間には、切っても切れない血のつながりがある。

 ロシアの一九〇七年反動時代に、インテリゲンチアの間にどんな盛んな勢で心霊問題がとりあげられただろう!

「ゼーロン」を書いてロマン主義へ逃げ込んだ牧野信一にしろ、この「抒情歌」の作者にしろ、ブルジョア・インテリゲンチアが政治的危機においては、その紛糾をいとわしいものとして避けようとする意図しかないにしろ、客観的には自覚された悪意はないにしろ、階級的にどういう危険に誘われるものであるかということをまざまざと示しているのだ。


 後記

 一九四九年四月。選集第十巻に収録するためにこの文章をよみかえした。そして、作者と読者とのためにこんにちでは、短い附記の必要を感じた。川端康成は一九一四年(大正三年)ころから作品をかきはじめ、一九二二年(大正十一年)「伊豆の踊子」によって、独特な抒情性のきよらかさと描写の美しい明瞭さを高く評価された。一九三二年「抒情歌」の書かれる前後、この作家は新感覚派に属していた。一九三一年の「水晶幻想」はこの作家の創作系列の中で風の変った一作であり、新感覚派的手法の試みであり、またこの作家の資質にとって不自然な作品の一例とみられる。「水晶幻想」は即物的な表現のうちに、素朴な唯物的実在の感覚と心理のニュアンスをいあわせた、というよりもむしろ配列した頭脳的な作品であった。が、「抒情歌」はその反対に、科学を追いつめて淋しくなった人間の心が、その逆の霊魂のことに慕いよる、というモティーヴによってかかれている。これは「水晶幻想」の作者として一つのリアクションを示した作品であった。「水晶幻想」と「抒情歌」の間にあるこの性格は折から一九三一─二年のプロレタリア文学運動の高まりとその弾圧を背景として、ただこの作家ひとりのモティーヴが、あれから、これへ、とびうつったこととしてだけは見られない。文学史的な客観において、この二作は、一つの研究の対象ともなり得る。当時のわたしが「抒情歌」の異常な心霊ごのみに、同感できなかったのは、あながち、わたしのおさなさと素朴な世界観、文学からだけのことでなかった。こんにち、川端康成が、ファッシズムに反対する立場をあきらかにしていることは、すべての人の知るとおりである。

 神秘主義がファッシズムとの間にもっている危険な関係は、ナチスの美学がその後あらわにしたように、現実からの逃避や、主観的観念性、幻想の壤土となるからである。現実での暴虐、流血を神秘主義に色どって、その強烈さで、理性を麻痺させることは、ヒトラーの方式であった。その拙劣な真似に、日本の軍部の方式があった。「暁に祈る」が、その名称そのもので実証した。


        黄色い特派員

          ──里村欣三の満蒙通信──


 改造社が、里村欣三を満蒙特派員として派遣した。二月号『改造』に「戦乱の満蒙から」という通信をよみ、強く一つのことを感じた。それは、筆者里村欣三が何たる民主主義者であろうかという事実とブルジョア・ジャーナリズムはこういう特派員を選ぶに何とうかつであろうかということだ。この文学的表現をもった記事から=ブルジョア報告文学から、われわれは何を知るか? 何も知ることはできない。ブルジョア新聞に書けるだけのことがブルジョア新聞記事のイデオロギー的基礎の上に立って書かれているにすぎない。1、2、と読み進むにつれ、映画のクローズ・アップのように一連の文句が目の前に浮び上った。労農大衆党の黄色い卑屈なスローガン「戦線拡大反対」という文句だ。

 作者が大いに視察記録しようと出かけた意気込みは、ほのかに分る。が、いざ実際、組織強固な帝国主義侵略軍の間にもまれて見ると、彼がどんなに内心びっくりし、臆病になり、完全にファッシズムに降参してしまっているかが文章の間からうかがわれる。

 賑やかで、何だか素晴しいようで、叫びや旗に満ちているのは満鉄付属地内だけだ。一度列車が、その外に出ると、そこにあるのは「無関心な、敵意も反抗もない真黒い無数の中国人」だ。

 ファッシズム文化の特色である独善的な民族主義の立場から、筆者は「中国人の平気さにはあきれる」などというが、さすがに、時々はそこから「抵抗のない、無限の抵抗を感ずるのだ。たしかに中国人(!)は底の知れない深さと底力をもっている」ことに圧迫をうける。しかし、その中国人、正しくは中国のプロレタリアート・農民に対して、筆者をこめての武力的侵害者の一団が、どういう関係にあるかということは、一言もふれられていない。そこまで問題を切りこむ作家の人間的省察も階級的責任感もない。

 それどころか、そもそも彼をして馬賊に面会させるに至った満蒙事件の、日本の帝国主義の経済的・政治的原因については一言の感想も説明も加えられていない。第三の満鉄讚美にいたっては、笑止千万である。この社会ファシストの代表は、満鉄が不明の活動を援助しているというようなさかさまごとを臆面なく披瀝して軍事活動を合理化している。又「不幸な犠牲者群」として、朝鮮農民避難者に対し感傷的な辞句をならべている。「ただ無言のあいさつ」をする彼に対して、朝鮮農民が「たれ一人頭をあげるものも無かった」のは当然ではあるまいか。彼らは、筆者よりよく知っているのだ。たれが、朝鮮から彼らを満州の荒地へ追いこくったかを! そして、今またその満州へまでやって来ているのは何者であるかを、彼らは知っているのだ。

 このファッシズムの報告文学とならんで、『中央公論』に谷譲次の大衆読物、「第二次世界戦争発端」というものが載っている。

 谷譲次はこの文の終りに「本篇は目下の国際関係や軍事事情を完全に、そして、有意識的に無視したものである」から、少しでもそういう目で見られては困ると断り書をつけている。

 そんな断り書をつける位なら、漠然として、現実の影響力のない本文かというと、どうして。筆者がこの数万語で煽ろうとしている民族の対立は本能である、というにくむべき侵略主義の煽動、ソヴェト同盟についての非科学的なデマゴギー、「第二次世界戦争発端」という題名の仮面の下にたくみに満蒙事件の拡大の可能を暗示しているあたり、毒々しいものだ。──

 こうして今日のブルジョア文学のファッシズムへの奉仕あるいは屈従の断面は、僅か二冊の雑誌の中にさえまざまざと反映している。これまでブルジョア作家、労農派の社会民主主義作家たちが必死に守って来た作家としての個性の差異などというものは、めいめいがただどんな音色でそれぞれのファッショの歌をうたうかというだけの僅かな違いを示す以外、無力な意味ないものとなってしまった。


        提出したい問題

          ──徳永直の作品を読んで──


 ファッシズムは大衆の毎日の生活の中に、きわめて現実的なかたちをとって現れている。賃銀切下として、又はブルジョア産業合理化・労働強化、工場内の体育部の反動御用化として、あらわれている。

 大衆はそれをどう感じているか。どうそれと闘おうとしているか。

 徳永直は、「未組織工場」と「ファッショ」と二つに別れて発表された一つながりの小説の中で、この現実をプロレタリア作家の立場からとりあつかおうとしている。

 作者にとってなじみ深い印刷工場が舞台である。未組織の、ひどい労働強化が行われはじめた印刷工場にだんだん組織の手ののびてくるいきさつが書かれている。

 工場内で好きなものだけ集まってやる文芸同人雑誌のグループ=文化活動が、どんなプロレタリア解放運動のための役割を演じるものかということもとりあげられている。だが、ずっと二篇を一貫して読んで感じるのは、徳永直がこの小説で何か新しい試みをしようとしている、しかもそれが成功していないということである。

 第一、二篇の小説で徳永直は場面の九十九パーセントまでを印刷工場内部においている。これはドイツのプロレタリア作家ブレーデルが彼の傑作「NウントK機械工場」でもやった扱いかたである。

 プロレタリアートにとって工場での生活こそ中心である。そういう意味で徳永が印刷工場内の生活に重点をおいたということは理解される。

 問題は、その工場内の大衆のこまかい日常生活、動揺、闘争がどの程度までその時の資本主義、日本全体をゆるがしている一般的経済恐慌の具体的あらわれとして把握され描写されているか、という点にある。その工場内の闘争が、ひろくは世界プロレタリアートの革命的高揚の一環としての意味をつかんで、どうつかまれているかということが眼目だ。徳永が国際的なプロレタリア作家だとすれば、それはただ「太陽のない街」がドイツ語に訳されたということではない。一つの工場内の大衆の経験を世界プロレタリアートの立場から、日本における一つの確固たる具体性としてとりあげ得るところにある。

 二篇の小説で、徳永は具体性というものの評価をどこかで間違えた。この小説を読んで、近代企業としての一印刷工場の輪廓ははっきり浮かんで来ない。いわばその工場を周囲の人家と区切っているが、はっきり印象づけられないと同時に、外部の情勢が工場内部と交錯するものとしてちっともとらえられていない。書こうとして失敗したのではない。始めっから全然書かれようとしていない。工場のこまかい日々の事実が、せっぱつまった資本主義経済の恐慌をひしひしと思わせるような迫力では書かれていないのだ。

 それに徳永はこの小説で、これまでより一層すらすら読める書きぶりを心がけている。ひどくなめらかな調子に一日一日とうつる工場内の具体的な事実を次から次へと読ます。なるほどプロレタリア文学にはブルジョア文学が習慣づけて来たような作為的なヤマはいらない。然し、共通の利害で密集した大衆の力が現実に高まって、従って主題がある程度まで深化されたモメントというものはあるわけだろう。

 われわれは、こまかい具体的情景を書いて行かなければならない。だが、ただ職場でこういった、こんなことがあったと、現象だけを追って書くとすれば、それはほとんど場面だけはプロレタリア文学で方法は自然主義であるとさえいえる。表面にあらわれた個々の現象の底をつらぬく経済的政治的な要因がプロレタリアの立場からしっかりつかまえられ、あらゆる現象がいきいきと動く相互的関係の発展のうちにあつかわれてこそ、始めてプロレタリア文学としての強靭さと、弾力と、美とをもってくる。率直にいって、徳永直のこの二つの小説はしまりがない。主題を、きびしいプロレタリア的観点からそしゃくしぬいたという手ごわさがない。むしろ、文章に気をつかっているのが分る。すらすらと読める文章を書こうとして、土台をがっちり打ちこむことをおるすにし、その文章の上でさえ、大衆のかたまった力、熱、メリハリを再現することに失敗している。

 この正月、徳永直が何かで菊池寛その他ブルジョア作家のうまさということをいい、われわれもああいうものを書かねばならぬという意味をいっていた記憶がある。

 われわれは、たしかに、うまい、面白いものをどしどし書かなければならない。けれども、その面白さ、うまさが万が一にもブルジョア大衆作家の持物と同じ種類であったとしたらそれは問題外だ。

 われわれはこの経済恐慌による支配階級のファッショ化に対して、失敗の中から起き上り起き上り、勇ましく闘う未組織大衆を書くだろう。だがそれを書くプロレタリア作家自身の観点が未組織大衆の観点であるということは許されないのだ。

〔一九三二年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年1220日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房

   1951(昭和26)年7月発行

初出:「東京朝日新聞」

   1932(昭和7)年12831日号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年116日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。