野上彌生子様へ
宮本百合子



 野上彌生子様

 私が女学校の五年生であった頃、多分読売新聞に御連載に成った「二人の小さいヴァガボンド」を、深い感銘を以て拝読して以来、御作はいつも、密接な心的関係を保って、今日に至っております。

 それは勿論、貴女が自分の志す道の先達であられるということもございましたろう。

 けれども、それより直接に強く私の心を捕えたものは、御作を透して感じずにはおられない、独特の貴女でございました。その貴女は、ひどく私共のものなのです。然し私自身ではない──つまり、それによって、私が慰撫され、啓発され、人間らしい豊富な感情の一面を感得するものでありながら、自身の裡には乏しくほか生来持合わせない何ものかを、貴女の性格には豊饒に賦与されておられるということなのでございます。

 貴女の御作を読むほどの者は、恐らく何人も、女性でさえも胸を和らげられるように感ずる maternal tenderness を認めずにはおれませんでしょう。

 作品に漂う独特な優雅や敏感、または、人類の理想的生活に対する憧憬、現実に対する批判、永遠に達せんとする叡智等も、皆、ここに還るべき故国を持っているのではございますまいか。maternal tenderness という概念は普遍的であると存じます。然し、それが或る人格の裡に、如何なる量で摂取せられたかということに成ると、非常に個性的な、各自の気質テムペラメントの問題に成るのではございますまいか。

 そうだとすると、最も独特な個性的気質によって創造されて始めて価値のある或る人の芸術が、気質の著しい一底流を反映せずには在りようのないのは当然でございましょう。

 若し、私の感受性を信頼すれば、私は、「新しき命」に納められた数篇の中に、あきらかにその独自な気質の映像を認められると存じます。

「二人の小さいヴァガボンド」は、内容に、種々な価値の問題、教育、宗教に対する考察、或は子供と大人の世界の差異に対する精密な観察等が含まれているにも拘らず、芸術品として、読者の心に喚起した創造的な共鳴は、矢張り、貴女の御作に接せずには得られない、一種の人格的精神感銘であると存じます。芸術の真価はそこにあるのではございますまいか。

 そういう意味に於て、私は「霊魂の赤ん坊」を忘れることが出来ません。

 あの御作の裡には、貴女でなければ持得ない芸術的表現と、価値の人格化が行われていると存じます。心を動かさずには置きません。思い出さずにはいられません。その忘れられず、思い出さずにいられない理由は、決して単に、あの中に含まれている「問題」によるものではございません。その問題を抱擁し、こなし、芸術的表現を与えた作者の、芸術家として純一な、全人的な燃焼と昂揚とに感動させられるのでございます。最も貴女らしい文字を透して、私共は、貴女に成り切った貴女の御心を読ませられます。その時、貴女というものは、他の追従を許さない絶対の貴女であって、同時に、日常の貴女の或るものからは、完全に解脱した人格のしんの光耀に接するのでございます。

 あらゆるよき芸術の驚くべき独立性と、普遍性との調和が、そこから生ずるのではございますまいか。

 こういう芸術品ほか持得ない感銘の活々とした歓喜を以て、「助教授Bの幸福」「盧生の夢」等の御作を拝読しますと、私は種々の考えに打たれずにはいられなく成りました。

 忌憚きたんなく申せば、芸術品として「霊魂の赤ん坊」に及ぶものではございますまい。然し、これ等の御作は、或る意味から申せば、芸術品として不成功であったという点に、何か重大な意義を持っているとさえ思われるのでございます。若し、私の貧しい洞察が許されるならば、その取材の変化は、貴女が芸術家としての内容を拡大させ、視野を広めて行かれようとする勇ましい努力の暗示であり、失敗は、それに伴わなかった、同じ内的な他の何ものかを暗示しているのではございますまいか。

 自分は臆測に成ることを恐れます。が、「我等の道の為」という、敬虔なフランクネスは御解り下さいますでしょう。

「助教授Bの幸福」の中には、貴女が一個の芸術家として自己を御認めになりながら、一方では、人間的興味、感動による観察、表現よりも、もっと心理的に直接な、本能的潔癖に触れた、というような心持を感じます。或る種の神経質と厳さが浮いて、作者の全人格の流露した芸術品の持つべき、云いようのない朗かさ、透徹性を欠いているように感ぜられるのでございます。けれども一方「盧生の夢」に於て、現世的虚偽な価値観念を打破り、異った場所と時代に於て、助教授Bを存在させている人生の半面に真実な意味での幻滅を感じ、感じさせようとなさった時、そこには余り多量に「物語」の雰囲気がございました。読者は、物語られた事象に対する、作者の人、及び芸術家としての真摯な評価的態度を直覚するより、先ず、物語りを語り愉む、作者の長閑のどかさを第一に感じます。それは、つまり、作者独特の創意が「物語る」興味以上に深く素材に浸透していないということではございますまいか。

 このような用語が許されるならば、前者は感情的偏狭により、後者はその殉情的 extravagance により、倶に、心に迫る芸術的真実の生命を欠いているように思われるのでございます。或る場合には、他の作品に於ても認められるこれ等現象の根源は何処に在るのでございましょう。あのよき「霊魂の赤ん坊」を生んだものと、そのものとは如何なる内的関係を共有しているのでございましょう。これが如何なるものによって解決され進展し、拡大され、完成に到るかということ、これこそ最後のもので、私が饒舌をおさめ、謹んで貴女の踏まれる一歩一歩を理解して行こうとせずにはいられない所以のものなのでございます。

〔一九二一年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年1220日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房

   1952(昭和27)年10月発行

初出:「婦人公論」

   1921(大正10)年4月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年116日作成

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