はるかな道
──「くれない」について──
宮本百合子



 今わたしの机の上に二冊の本が置かれている。一冊は最近中央公論社から出版された窪川稲子の初めての長篇小説と云うべき「くれない」である。もう一冊は、これもごく近く白水社から出た「キュリー夫人伝」である。この二冊の本は、それぞれに違ったものである。左方は名の示すように、世界の科学に大なる貢献をした婦人科学者の伝記であるし、一方は日本の婦人作家によって書かれた一つの小説である。だが、この種類のちがう二冊の本は、その相違にもかかわらず、今日の生活の下に現れて何と強力に我々の心に呼びかけて来ることだろう。二十世紀の社会というものが、それぞれ国土の違った、環境と習俗と専門の違った、従って生涯の過程も異っている女性の生活記録にも猶貫く一すじの血脈を感じさせるのは、感動的な事実である。私たちには次のことが実にはっきりと感じられる。

 若しキュリー夫人が「くれない」をよみ、その作者を知ったならば、彼女はきっと、その汚れない女性の心で、この作者のひたむきな心と苦悩とを理解したであろうと。同じ暦の下に歴史が展開されていても、海の彼方、海の此方では、歴史の内包している生活の諸条件が、特に社会における女の現実の立場について、非常にちがっている。広い客観の見とおし、そして人間の発展と進歩への道に立って「くれない」を見れば、女主人公、明子の苦悩と努力とは、とりも直さず、環境のおくれている多くの条件が重荷となって、合理的に、明るく輝しく生き伸びようとする意欲の桎梏となることから生じている。妻として母としてその上に更に作家として歴史の進歩に貢献して行こうと欲する現代の社会性ひろい、情感ゆたかに努力的な婦人が、日本の時代の空気の中で、周囲の重り、自身の内部に在る重り、愛する良人の内にある重りと、どのように交錯し合い、痛みつつ、まともに成長しようと健気けなげにたたかっているか、その記録が「くれない」であると思う。

 この小説は、夫婦ともどもに一定の仕事をもって行く結婚生活、家庭生活について、又、それぞれ独立した社会的存在である夫妻が、仕事の上で互に影響し合う微妙な心理について、夥しい問題を呈出している。これらの問題の中には読者にとって明かに普遍性をもった性質のものとしてうけとられ、真面目な考察に導かれるものもあり、率直に云えば、誰でも皆こういう場合こう感じ、表現し、行動するのが普通であろうかという極めて自然な疑問に逢着せざるを得ないような心理のモメントもあると思う。

 作者は少くともこの作品の内部では、それらの二様のものの性質を、現実に作用し合う因子として十分に意識し、その本質を追求し、発展の方向に捕えて観察しつくしているとは云い得ないように思える。双方が縺れ絡んでいる、その渦中に身はおかれたままである。その結果として、作中に事件は推移するが、全篇を通っているいくつかの根本的な問題、小説の抑々発端をなした諸契機の特質にふれての解決の示唆は見えていないのである。

 それにもかかわらず、「くれない」は、その真摯さと人間的な熱意の切なさとに於て、わたし達を揺ぶる作品である。この作品に描かれているような波瀾と苦悩の性質について、そこからの出道について深く考えさせる作品である。

「くれない」を読む人々は、おそらく「キュリー夫人伝」をも愛読する人々であろう。女性によって書かれたこの二種の本は、業績の相異とか資質の詮索とかを超えて結局は人類がその時代に潜められている様々の可能を実現し、花咲き実らすためには、どのような良心と、精励とが生活の全面に求められているかということについて、男性の生涯へも直接関係している一つながりの問題を示しているのである。

〔一九三八年十一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年120日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房

   1952(昭和27)年10月発行

初出:「法政大学新聞」

   1938(昭和13)年1120日号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年217日作成

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