文学の流れ
宮本百合子



 いつの時代でも、技師や官吏になろうとする人の数より、作家になろうとする青年の数はすくなかった。今の時代は、猶そうであろう。文学を愛しつつも、作家としての生活に様々の意味で危惧を感じさせるような事情がこの二三年間にたかまって来ている。経済的な点で、作家として食えるか食えないかということであれば、明治大正から現代にかけて活動している作家の殆ど皆が、あやうい綱をわたって来ているのである。この二三年の間にたかまって来ている問題には、文学そのものの社会的な意味についての疑問というべきものが加っているのが著しい一つの特徴であると思う。日本の文学が現代の段階までに内包して来ている諸条件と、急速に変化しつつある世態とが、交互に鋭い角度で作用しあって、例えば、行動の価値と文学の本質及びその仕事に従うこととの間に、何か文学が社会的行動でないかのような、文学への献身に確信を失わせるような一種の雰囲気が揺曳しているのである。

 日本の文学は、変りつつある。生活がこのように変って来ているのであるから、文学が変らないことは寧ろあり得ない。既にその機運というか、予感は、きのうきょう以前にすべての文学を愛す者の感覚に迫って来ていたのである。

 日常生活の緊張から云っても、複雑さから云っても、刺戟のつよさから云っても、人々は文学にこれまでより肺活量の多いものを、生活力のさかんなものを要求する心理にある。一口に云って、従来の作品より規模の大きな、感情に於ても局面においても人生のより深いところに触れた、度胸の坐った作品が求められているのである。

 ところが、月々現われる作品の現実に即して見ると、そういう一般の要求を直接反映している作品というものは殆ど見当らない。素朴な、発芽的な形態においてさえもすくない。却って唐紙に墨で描いたような上司小剣氏の「石合戦」が現われたりしている。これは何故であろうか。或る種の人々はこれまでの作家の怠慢さにその原因を帰するけれども、果してそれだけのことであろうか。社会性は益々濃厚に各方面から各人の上に輻輳して来ているのだから、作家がそれを感じない筈もない。文学の成長のための新しい土としてルポルタージュが待たれたのは程遠いことではなかった。だがルポルタージュは、文学に生新な局面を開花せしめることは出来なかった。この間の消息が、今日の文学の帯びている複雑な相貌なのではなかろうか。

 よかれあしかれ、望むと望まないにかかわらず現実は動いている。常に苦痛と希望とをいまぜて、人間の意志を照りかえしながら輝きつつ翳りつつ推移してゆく。現実の辛酸が我々を打ちのめしもするが又賢くもする通り、歴史の緊迫した瞬間、文学は一見迂遠に見えるが実は、ある時間が経つと最も豊富な形でその諸経験を広くは人類的な意味で各民族の文化の宝庫の中へたくわえるものである。

 今日、そして明日の新しい日本の文学を語る場合、これから文学の仕事に従って行こうとする人々にとって、現在は独特な困難がある。それは、文学というものの枠が、常識の中へ植えこまれて来ている尨大な東洋という感じ、民族という感じなどで、文学地理の範囲を大いに拡げられていることである。急に拡大されたこの大陸にもまたがる文学の枠は、その端を世相の当然として壮なるものと相触れてもいるのであるから、或る人々にとっては、感情の直接反応としては、何か拡がった枠の感じだけが先に来て、目前の文学建設の実質のとらえどころがはっきりとしないような危険がある。感じに負けて、息づかいせわしく弾んでいるところがある。

 巨大な建造物に、強い土台がいるというようなことを云えば人は、わかり切ったこととするのだけれども、規模も内容も大きい新しい文学をつくるためには、作家がどれほどリアルな眼をもって洞察し評価し取捨して現実を再現しなければならないかということになると、ついそれが身の処置と混同して理解されたりア・ラ・モード風の方便地獄に片脚いれられたりしがちである。思想的潮流のあらゆる時代を潜って、文学はこの点執拗な粘着力で、人間が生きている人間の姿を書くことを求めつづけて来ているのである。

 昔の外国のロマンチシズムの時代を顧みるとなかなか興味のあることは、抽象名詞が雄飛した割合に、作品で後にのこるものがないことである。明日の日本の文学が雄大なものであるためには、今日の生活の現実に徹しなければならず赫々たるものに対してはまことに微々たる如きめいめいの生活の姿に、猶当とは観なかった意義と社会性格の集積を発見してゆくだけの自信と覚悟と勤勉とがなければならないと思う。技術上日本文学がもっとわがものとしなければならない構成力について見ても、根本は、現実把握の力の問題にかかっている。更にこれをさかのぼれば、生活に肉薄した作家の常に正気を失わぬ眼力、人間の幸福に向っての骨惜しみをしない努力とそのための価値の探求・発見の態度にかかっている。あるままを素直に感受する敏感さと、驚きもよろこびも疑問をも活々と感じ得る慧智と、人間の文化の今日までの成果に立っての強靭なる判断力、推理力が、益々作家に必要な稟質となって来ている。このような点では、科学の発展のヒントをつかむ人間精神の活動の瞬間と文学によりゆたかな作品をもたらすモメントと、大変互に似よっているのである。

 近頃「事実の世紀」というようなヴァレリーの言葉が、一部で翻訳され、人間が存在する限り、方法的変遷を経て而も決して絶えることのない筈の「ヒューマニズムの終ったところから」「事実の世紀」である現代がはじまっているなどと云われたりしているが、現象追随では、肝心の事実さえつかまるものではない。

 パール・バック夫人が、今度の事変について書いている文章がはっきりその実例を示している。

 火野葦平という人が、芥川賞を貰った。彼が今日おかれている境遇にあって、自分が作家であるという自覚をつよめられたことは興味あることだと思う。「糞尿譚」の題材と文章との間にはギャップがあって、いかにもあの作の書かれた時の文壇を語っているものだが、彼の生活経験は、ああいう贅肉と線とをどのように引しめたであろうか。蓄積された経験はこれから、どんな文学の成果となって現れて来得るであろうか。この作家をめぐる内外の事情のなりゆきこそ、或る意味ではひとごとならぬ注目をひくものであると思う。何故ならば、彼の境遇は数において彼のみのものでないと同時に、質的に明日の文学に影響するものであり、仮令たとい形の上で様々の相異はあろうと我々すべての生活と文学とに詳細につながり合っているからである。

〔一九三八年六月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年120日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

初出:「三田新聞」

   1938(昭和13)年610日号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年217日作成

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