「揚子江」
宮本百合子
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パール・バック夫人が主として中国人の生活を描いているのに対して、アリス・ホバード夫人は「揚子江」で、中国における白人の生活と闘争とを描いている。そして、この二人の作家は、永年に亙る中国での生活経験と観察との結果、それぞれに違った道から、共通な一つの結論に到達している。即ち東は東、西は西であるというやや絶望的な理解や中国の民衆は外国人もその宗教も必要としていないのだという結論を得ていることは、非常に興味ある点だと思う。パール・バックのいくつかの作品を読んだことのある読者は、「揚子江」一篇の中に、おやと思う程、互によく似通った作者の感想を発見する。例えば、「東と西のたたかい」という表現であらわされている両民族の融合しがたさについて、又「精神を押し潰すようにのしかかって来る支那民族の憎悪の念に打ちのめされ」る感覚。或は「精力が伝染するように無気力も伝染するもので、この太古のままに生きている人々の魂から、彼の活動的精神を毒するなにか鈍い毒気のようなものが、機械についた錆のように発散されるのだ」そして、「少しずつ彼を吸いとって弱めてゆく微妙なあるもの」は「かつて彼等を征服したあらゆる民族を噛みこなした。」「過去数世紀に亙ってヨオロッパ人は、どんな困苦にも耐える決心で東洋の宝を──絹や硬玉の財宝や、あるいは哲学の精髄をヨオロッパに持ち帰ろうとしてやって来た。ところが、いままで自分たちの最も誇りとしていた何物かを失わずに獲物だけを得て帰ったものは殆どなかった」という言葉を読者は、極く似た云いまわしで、バック夫人もその作品の何箇所かで云っていたことを思い出しはしないだろうか。二人の作者が、社会機構の相互的な関係をぬきにして、東と西とを対置し、白人に黄色人を対置する特徴までも類似している。
ヨーロッパ人を圧倒する中国のこの「微妙なあるもの」の力に最後まで雄々しく闘ったアメリカの性格の典型として、バック夫人は「母の肖像」を書いている。
ホバード夫人は、「それが世界に通商をひろめて来た精神」である不屈不撓な事業熱をもっている船長イーベン・ホーレイの多難な生涯と揚子江上の荒々しい回漕事業の盛衰とをこの小説の縦糸にしているのである。
中国の歴史がうつりかわるにつれて揚子江沿岸の軍閥が擡頭して、白人の事業を破滅に導き、それがやがて辛じて老父の屍を葬る二代目イーベンをせき立てて宜昌から遁走させる「偉大なスローガン」の怒号と高まって来るまで、作者は身についている揚子江航行の知識を十分に発揮して手堅く描いている。作品の構成がもっと立体的であって、いくつかの重大な出来事──アプトンの死。ホフマンの死。萬縣での流血の闘争など、もっと色彩づよく描写され、同時に揚子江の壮大な自然や白人の日常生活の姿などが遠近をもって描き出されたら、この作品は一層面白く、芸術的な香気をもたかめたことであろうと思われる。作者は、取扱おうとしている現実にはよく通じているのであるけれども、作品での構成は、規模の大きい割にルーズであり、平板であり、筆致もやや粗いのは遺憾である。このために、中国の生活の推移を語る莫莫やキータの性格や行動が漠然としてしまっている。軍閥の擡頭が、揚子江における白人の回漕業の発展とそれによる密輸に大きい関係をもっていると同時に、やがてその事業を潰滅させる力となるという興味津々たる個所も、作者は事実が要求としているだけの奥ゆきをたっぷりとらずに書いているのである。
これらの遺憾な諸点にかかわらず、この一篇は、有益でもあり、示唆に富む作品である。翻訳も流暢と云えないまでも、忠実にされていることがわかる。「支那ランプの石油」その他この作者の作品を読んで見たいと思わせる作品である。
注意をひかれるのは、この作者が、「外国人は全部四川省からも揚子江からも、いまに追い出されてしまうようなことになりましょう」「われわれはこの民族の偉大な興隆のほんの始まりに居合わせただけなのです」という観念と「かれらは受身でおとなしく、機械のなかにあるなにか攻撃的なものを排撃します。それでいて、西洋文明のうちでもいちばん悪い戦争の道具はこれをとりあげるようなはげしい気性をうちに持っているのです」という所謂民族性の解釈とを、自身疑いを抱くところもなく並列させているところである。最後の特徴を中国民族の性格のうちにある自家撞着と見るところは、これ又何とバック夫人の見解と似ていることだろう。作者たちが、そこでめいめいの半生を費しているにもかかわらず、中国の人民というものの理解に絡みつかせているこの自家撞着は、二人の作家が婦人だというような偶然によって説明されつくさないのである。
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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