イタリー芸術に在る一つの問題
──所謂「脱出」への疑問──
宮本百合子



 先達せんだって「リビヤ白騎隊」というイタリー映画の試写を観る機会を得た。原作はフランスのジョセフ・ペイレのゴンクール受賞作品だそうで、ファッショ紀元十五年度のムッソリーニ賞杯獲得映画である。筋は単純なものである。クリスチアーナという女の愛に失望したマリオ・ルドヴィッチ中尉が従来の生活環境と感情とから脱却するために、アフリカのリビヤへ赴きそこの守備隊に加って土民征服に出かける。この経験から生きる目的を一変させた中尉ルドヴィッチは後を慕って来たクリスチアーナにむかって、自分はここから去ることは出来ない、去る気もないと彼女の愛をも拒む。それが終りとなっているのである。

 私ども素人の目にはクリスチアーナに扮したランツィという女優も貧寒であるし、ルドヴィッチ中尉に扮した俳優チェンタに特色も認められなかった。概して云えば技術的に後れている平凡な軍事的沙漠映画の印象であった。それがファッショの国では恐らく名誉なものであろうムッソリーニ賞杯を得ているのは何故であろうか。

 広く知られている通りイタリーのアフリカ植民地政策の活溌さはエチオピア問題を見ても明かであり、リビアは最近急速に戦時軍需資源の獲得地となっている。鉄、ニッケル、ジュラルミン等の原鉱を多量に生産することが分ったそのためにイタリーは附近の土民との間に砲火を交えることを敢て辞さない。そして、外国の新聞はこの戦闘行為の性質を解剖して、その背後の勢力を考えるとこの白沙漠に於ける戦闘はスペインの内乱の如き性質を持つものであると言っている。

 今やイタリーにとってアフリカの植民地問題は従来のような人口問題の解決法としての域を遙かに脱している。ムッソリーニは権力の確保のためにも資源リビヤへの大なる熱中を示している。そして、アフリカへ! 新しいラテン文化の地へ! というスローガンを文化科学の全面に押し出しているのである。

 イタリーでは今「脱出の文学」ということが云われているそうである。アフリカという土地に於て、そこの新しい条件に立ってモラルも、行動も、世界観も新しい価値を伴って組織し直さるべきもの、再出発をするべきものというのが「脱出の文学」の主張するところであるらしい。そして「灰色の道」という小説をフィリッポ・サツキという作家が書いており、その作品もイタリー文壇の今日の「脱出」の要求に応えたものであるという紹介がされている。

「リビヤ白騎隊」は映画に於ける最初の「脱出」の映画として登場したものであるそうである。ムッソリーニ賞が与えられたということの社会的背景がこれらの事情によってやや理解されるのである。

 イタリーの作家達がこの数年来置かれていた社会的事情を考えると、今日「脱出」の欲求が広汎に生じていることもうなずける。だがこの「脱出」への要求の一番の根源には何から脱出したいという感情が横たわっているのであろうか。そして、果して現在方向づけられているようにアフリカへ向って、リビヤへ向って、エチオピヤへ向って土着種族から生活権を奪うことが、イタリーの文化人にとって最も望ましい唯一の脱出の道と考えられているのであろうか。私どもに考えさせる少からぬものがここに含まれている。

 フランス人にとってアフリカは貴重な天然資源の植民地であると同時に、十九世紀の初頭からロマンティックな脱出地であった。そのことはアナトール・フランスやジイドの文学を見ただけでも明かである。デイトリッヒとボアイエとが演じた「沙漠の花園」はフランスのカソリック精神と人間の情熱とアフリカの沙漠とを結びつけた平凡な一つの作品であった。ラテン文化はアフリカを植民地化そうとした時から文化芸術の面でのアフリカのロマンティック化に従事して来ているのである。

 今日イタリーで云われている「脱出」の新しい意味は、以上のような従来の脱出に加えて、アフリカで、沙漠で、世界観までを新にしようというところであろうが、「リビヤ白騎隊」を観て、この映画の芸術的現実の中から人間再出発の新しい典型を見ることは困難であった。監督アウグスト・ジェニーナは人間再出発の自然的条件として沙漠というものを実に根気よく繰り返し繰り返し見せている。映画の手法、映画の持っている便利なテンポを全く無視する程腰を据えて沙漠とその沙漠をラクダに乗って横切って行く土民とイタリー人の指揮官の一隊を写している。監督の意図では沙漠というものの持つ広大な自然力と小さい人間との対照、並に小さい躯に盛られている人間の自然に対する闘争力を描いて、中尉ルドヴィッチの人間的再出発の説明にあてようとしたのであったかも知れない。残念ながらこの意図は完全に失敗している。なるほど私たちは観ている中に思わず唸るほどたっぷり沙漠を見せられるが、その沙漠はただ風が吹き暴れたり、陽が沈んだり、夜が明けたりする変化に於てだけとらえられている。反復が芸術的に素朴な手法でされているものだから、希望される最も低い意味での風景的異国趣味さえ損われてしまっている。登場する人物は少数のイタリー指揮官と、銃を与えられて、整列すること、敬礼すること、同じ黒い皮膚を持った沙丘の彼方の土民を射撃することを正当化されているリビヤ土人の一隊である。人間再出発の重大なモメントである土民との接触の面は、この映画で軍事的なものの外は見落されている。土民兵士の日常生活、彼等の白い被衣をかぶった妻子たちとの暮しぶり等は一つも画面に取り入れられていない。ただそこには調練と沙漠の行軍と描き出されてはいない敵との交戦があるだけである。これらの描写を通して、ルドヴィッチが最後にクリスチアーナに向って深刻な顔つきで訣別をつげる気持の変化を理解しようとすれば、一つの単純な形で語られている軍人気質、愛国心めいたもの以上に深いものを見出し得ないのがむしろ自然であると思う。

「リビヤ白騎隊」の芸術的限度がそこに止っているのである。

「脱出の映画」の第一の作品としてこの映画を紹介されて見ると、私たちには「脱出」の本質的な内容に対する疑問が益々深まって来る。この映画の語る範囲では現在ファシストの国で云われている「脱出」が本質に於ては新しいものではなく、旧い植民地政策のより一般化されたアジテーションであるとしか見えない。世界の文化の問題から見れば、イタリーの一般知識人の中にあるハケ口のない脱出の欲求が、外から却って彼等を脱出せしめざる方向へ振り替えられていることが、関心事であろうと思う。

「リビヤ白騎隊」が芸術的に弱いロマンティシズムに捕われながら、手法の上で一種独特の単調な反復を敢てしている点が、私に数ヵ月以前観たドイツのヒマラヤ登攀実写映画を思い出させた。その映画でもやはり人間の努力の姿を語ろうとして同じような山道をじ登る姿を繰り返し繰り返し見せた。山の岩石の構造の相違やそこを登攀する技術の相違や雪の質、氷河の性質等に就いてカメラがもっと科学的に活用されていたらばあれだけの長さの内容をもっと豊富にし得たであろう。

 ソヴェト同盟のシュミット博士一行の極地探険の記録映画は誠に感銘深いものであったが、そこには歪められたロマンティシズムは少しもなかったのである。

 沙漠という自然の事情と、それを生産的に開発しようとする人間の意志、土地の相貌が新しくなるにつれその労作の過程を通って人間が生活感情、世界観を新にして行く現実の例はソヴェト映画の「トルキシブ」ではっきり語られている。「トルキシブ」ほど有名ではなくても中央アジア外蒙古の生産と文化開発の映画で世界に示されている。「リビヤ白騎隊」とこれらの映画との違いは、土地開発に向う一つの勢力と土着民の生存的利害関係とが根本的に違っているところにある。

 もしイタリーの映画監督が諸事情を無視して本当に現実のリビヤの生活、そこで有形無形にもみ合っている白い皮膚と黒い皮膚との利害の対立とを描いたならば、沢山のごまかしとロマンティシズムから脱出した脱出映画が作られたであろう。

 しかし、それは不可能であり且つ万一幾分かの芸術的可能はあったとしてもムッソリーニ賞は恐らく貰えなかったかも知れない。ここにイタリー芸術の置かれている何よりも困難な脱出の制約がある。

〔一九三七年七月〕

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年120日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房

   1951(昭和26)年7月発行

初出:「映画創造」

   1937(昭和12)年7月号

入力:柴田卓治

校正:米田進

2003年217日作成

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