山本有三氏の境地
宮本百合子
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今日、山本有三氏の読者というものは、随分ひろい社会の各層に存在していることであろうと思う。
大仏次郎氏などの作品も、吉屋信子氏が読まれるとは別のところに多くの読者をもっていることでは、山本有三氏と同様であろうが、作者と読者との間にある共感の種類は、必ずしもこの二人の作者に於て同じものであるとは思えない。大仏次郎氏の近作「雪崩」などを見ても、読者が大仏氏に牽かれるのは、この作者のこの作者らしい人生観照の或る気分、現代のインテリゲンツィアの一部の人々がよかれあしかれ実際にもっており、或は扮装としてポーズしている知的情感的な或る気分の、文学的表現の味に魅力を感じているのであろうと思われる。大仏氏の読者たちは、大仏氏の作品の裡に、自分たちの現実の姿の断片を発見し、更にその発見によって、自分たちの、実質は案外に貧弱な現実を、些かの雰囲気で装飾することをも見習うのである。
山本有三氏の読者たち、山本氏の作品から何かを期待している人々は、そういう気分を主とした気持より、もっとずっと謂わば野暮くさいものをもって作者に向っていると思う。何か人生的な、何か社会の指針的な、何か誠実な生きてゆく人間の姿の表現を、読者は山本有三氏に求めている。山本有三氏と読者との結びつきは、どこか只面白い小説という以上のものに対する暗黙の契約の上に立っているように見えるのである。そして、このことは、今日の社会に於ける一社会人としての山本氏に対する信用をも醸し出しているのである。
この間、志賀暁子のことがあった時、山本氏が文筆の上で示した態度は一般の記憶にまだ新しいことであるが、ああいう場合に限らず、山本有三氏は、他の多くの作者たちに比べると昔から、社会的な行動の多い人である。
作品を書くことは、一つの極めて現実的な社会的実践であるが、そのほか、作品以前の問題として、社会関係の間に処して作者が行動する、その行動において、山本氏は現代社会の不合理の或る面に抗議的に行動して来ているのである。例えば、一九二二年に楠山正雄氏とシュニツレル選集を編輯してその印税の全部を敗戦国の老文豪に送ったことも、単に山本氏が独文出身だからというだけの内面の動機ではないであろう。戯曲家としての氏が、自作の上演に当って劇場側の態度がわるい場合、勝手に改作したり、無断上演したりした場合、法律的手段によっても作者としての正当な権利を主張して来ている例は今日迄一再に止まらない。最近にも、放送局との間に、同種類の問題が生じて、山本氏は自作の放送を中止させたことがある。
山本氏は、封建的な芝居ものの社会で、作者が従来おかれていた隷属的な地位を引上げなければならないという、或る意味での社会的関心から、誰にしろ厭にきまっているいざこざに堪えて主張を押し通そうとしたのであった。
日本の資本主義の機構の中で、作家とその作品というものは、多くの場合芸術家とその芸術というに価するだけの社会的重しをもたされないし、又持たせ得る作者も尠い。山本氏が放送局と正面衝突を辞さない気持の根柢には、そのことに対する鬱積と爆発とがうかがえる。何でも一身の打算と安寧からだけ進退したがる現今の人心を、よいと認めることの出来ない常識に、こういう山本有三氏の或る程度の社会正義感の発動は、少なからず触れるものをもっているのは自然である。山本有三氏の正義感は、常識を備えた今日の一般人の胸の中に蔵せられている正義感の分量に丁度工合よくふれて行き、その扉をたたき、そして平凡な日常の中にそのまま通りすぎてゆく。読者の内に新しい疑問をかき立てて、その人間が鏡をとって改めて自分の顔を見直さずにおられない程の不安を点火したり、その人の営んでいる今日の生活の底が、ああ破れてしまったと感じさせる程の震撼を与えることもない。山本有三氏の作品を読むと、人々は作者の正義感を快く共感し、そのことで自分の人間らしい、誠意の感情を楽しみ、日常的な努力感を刺戟され、同時に、益々今日のそれぞれの日暮しの姿を肯定する気持を励まされる。ところで、今日の私たちの日暮しなるものの土台はまことに矛盾撞着甚しいものがあるのであるから、作者山本氏の与える種類の正義感の満足には一面に、その当然の性質として大きく現代の常套と妥協せざるを得ないところがある訳である。否、或は、他の多くの作者が何の抵抗をも示さず頭から現実の事大勢力に屈服しているに対して、人及び芸術家としての山本有三氏は一応矛盾をも指摘し、それに抗議せざるを得ない人間の真情をもとりあげ、而して後、一般の温順な市民がそうである通り根本的な妥協への道を開いて見せている。その自覚された妥協こそ、山本氏の読者が一層山本氏の不安のおそれない正義感をわが身に近いものとして感じ得ているところなのではるまいか。私は、この微妙な綾をもって山本氏の芸術の中に織り出されている社会的正義感の姿に、深い興味を動かされるのである。
五六年前改造社から一冊の大型で山本有三全集が出版された。最後に一九三一年迄の年譜が附されている。極めて簡単に記されている年譜ではあるが、作家山本有三を理解する上には大切な役割を示している。
本名勇造、山本有三は一八八七年、明治二十年に、栃木町に生れた。父は宇都宮の藩士であったが、維新後裁判所の書記を勤め、勇造が生れた時分は小さな呉服商を営んでいた。生れつき弱い赤坊であったことが書かれているが、兄妹について一筆も触れられていないところを見ると一人息子であったのだろうか。体の弱い勇造は高等小学校を卒業するとすぐ浅草の方の呉服屋へ奉公にやられた。奉公がいやでたまらず、本を読むことが好きな上体もそう丈夫でない小僧の生活が、どんな苦しいものであるか。変りものの、役に立たない小僧として扱われ苦痛から翌年逃げ出して家にかえり、学校へ入りたいと云ったところ、父親は、学問なんぞさせると生意気になると云って許さず、家業の手伝いをさせられた。
当時の士族あがりの父親たち一般のものの考えかたと比較して、これは珍しい。何故なら、その頃の士族たちは、自分に息子でもあれば何とか一つ学校でも出して当時流行の官員様に仕上げ、明治の社会に位階勲等の片端でも貰うことに果敢ない幻を描いているのが通例であった。勇造の父親が、息子に学問を許さなかった心持、生意気になると、憤激をさえもってそれを阻止した心持、そこには何があったのだろう。
この作家の少年時代の好学心の具体化は常に父親のそういう態度との挌闘をもって、苦学の実力でもって結果的に闘いとられて行った跡が見える。十八の年、幾度か父親と衝突した揚句、漸く母のとりなしで上京。正則英語学校予備校に入ったこの時の有三は幾何というものを知らなかった。それを幾何と読んで友達に笑われた。だが、翌年の秋には、東京中学の五年の二学期の補欠試験に合格している。六高に入った時、「父はじめて喜ぶ」と特記されているのであるが、秋に「父が死去したので、入学を取消し、家事の後始末をするため、荷物を背負って商いをやる。」一九〇八年。「家事整理の傍ら、受験勉強をなし、再び高等学校の入学試験に応ず。学科試験には優良の成績で及第したが、体格検査の時、風邪をひいていたため、病弱修学に堪えざるものとして不合格となる。体格の再検査を願ったが許されなかった。」
一九〇九年。三度高等学校の入学試験を受け、一高文科に入学。
一九一〇年。ある独逸語教授の非常識な採点法によって、学年試験に三十五人のうち十七人落第させられる。その内の一人となる。八月、足尾銅山に遊び、処女作「穴」(一幕物)を書く。この作品は川村花菱氏を通じ伊原青々園の『歌舞伎』にのせられた。
一九一一年。名古屋の或る素人劇団によって「穴」が上演された。その頃学校を休んでは、大入場に入ってよく芝居を見る。以前にはかなり勤勉な学生であったが、落第して以来、勉強する気頓になくなる。この気持大学を卒るまで続く。夏、北海道及び樺太に旅行。
一九一三年。東大独文科選科二年生。学校にも殆ど出席せずふらふらした生活を送る。井上正夫、桝本清氏等と謀り野外劇を創む。
一九一四年。第三次『新思潮』を起す。「女親」(三幕)を同誌に発表。二高で高等学校の検定試験を受け及第。大学の本科生となる。学資欠乏し、郷里の大塚氏より十ヵ月間恩借。
一九一五年。大学卒業。井上正夫を浅草に出演せしむる橋渡しをする。同一座の作者となったが、二月目に意見の衝突をして飛び出し、その暮、秋月、川上、喜多村一座の作者となり、舞台監督をやる。
一九一六年。幕内の生活に堪えられず、これも三月目に逃げ出す。しみじみ自分の無力をおもう。精進の気遽に高まり、岡本市太郎氏夫妻から最少限度の生活費を十ヵ月間恩借。すべてを勉強に打込む。傍らストリンドベリイの「死の舞踊」を翻訳し、洛陽堂から出版。
一九一七年。舞台協会の監督となって武者小路の「その妹」を演出する。この年結婚したが間もなく合意の上離婚。山岸博士の推薦によって早稲田大学の講師となる。
一九一八年。記すべきほどのことなし。ただかなり真面目に勉強し続けていたので、肚の中に何かが漸く発育し始めたような気がする。
一九一九年。「津村教授」を帝国文学に発表。一行の批評も受けず、黙殺される。本田華子と結婚。
一九二〇年。『人間』正月号に「生命の冠」を発表。二月明治座に上演。翌月更に大阪浪花座に於て続演。はじめて戯曲家としての存在を認めらる。「津村教授」と二つ合せて戯曲集「生命の冠」を新潮社より出版す。著者の作の書物にまとまりし最初のものなり。四月、「嬰児殺し」を『第一義』に発表。十月文芸座によって「津村教授」初演。菊池、久米、岡本、中村氏等と劇作家協会を創設。三十四歳の時である。
翌一九二一年。「坂崎出羽守」を発表。翌月市村座で初演。「嬰児殺し」有楽座で初演。
一九二二年。「女親」帝劇に於て初演。大倉喜八郎一夜帝劇を買切りし際、「女親」の一部を改めて上演せしことを知り、劇作家協会と共に立ってその非を鳴らし、ついに帝劇を謝罪せしむ。シュニツレル選集をこしらえて印税を全部送ったのもこの年のことである。
一九二三年。早稲田大学講師辞任。「同志の人々」「海彦山彦」等。
一九二四年。震災で演劇雑誌が全滅したので、劇作家協会が主体となり、新潮社から『演劇新潮』を発行。推されて一年間その編輯主任となる。「熊谷蓮生坊」「大磯がよい」「女中の病気」「スサノヲの命」。
一九二五年。松竹キネマ製作の映画「坂崎出羽守」は戯曲「坂崎出羽守」の著作権を侵害せる事実明白なるにより、劇作家協会の後援を得て社長大谷氏を訴う。国民文芸会有志の熱心なる調停に動かされ、和解す。その際松竹より提出せし金円は著作権法改正運動に使用する条件を附して劇作家協会に寄附する。
一九二六年。劇作家協会と小説家協会とを合同せしめ、新に文芸家協会を作ることに尽力す。この年、四十歳になったこの作者によって、初めての長篇小説「生きとし生けるもの」が東西朝日新聞に書きはじめられた。続いて幾多の戯曲(「女人哀詞」を含む)と「波」(一九二八)「風」(一九三〇)等の長編小説が発表された。一九三一年で終っているその年譜の最後の項は次のように結ばれているのである。
「政府の議会に提出せる著作権法改正案に対し文芸家協会案を提げ修正を迫る。これに関連し『東京朝日新聞』誌上に『我等の主張の根本要旨』(主として著作権法中、教科書の無断採録について)を執筆す。我々の意見殆ど全部容認され、右議案二月末貴族院を通過す。衆議院を通過することも亦決定的なり。四六書院より戯曲集『女人哀詞』を出版。『風』なお継続。三月末完結の予定。」その後、「女の一生」「真実一路」につづいて目下「路傍の石」が東西両朝日新聞に連載中である。
さて、この自伝の概略から、読者はどういう感銘を得るであろう。ここには、一人のなかなか人生にくい下る粘りをもった、負けじ魂のつよい、浮世の波浪に対して足を踏張って行く男の姿がある。自分の努力で、社会に正当であると認められた努力によってかち得たものは、決して理由なくそれを外部から侵害されることを許さない男の姿がある。人生の路上で受けた日常の恩を忘れず記載し、又人生の路上で受けた不当な軽蔑や無視については生涯それを忘却することの出来ない執拗な人間性の姿がある。高をくくって軽く動かそうとされると、猛然癇を立てるけれども、所謂情理をつくして折入ってこちらの面目をも立てた形で懇談されると、そこを押し切る気が挫ける律気で常識的な市民の俤が髣髴としている。五十年の生涯には沢山の口惜しい涙、傷けられた負けじ根性を通じての、自己の存在の主張がなされた。『生きとし生けるもの』の序でこの作者が「どんな形をしていようとも、この世に生を享けているものは、必ず何等かの意味に於て、太陽に向って手を延していないものはないと思います。」と云っている言葉には、不如意な境遇と闘ってこの矛盾の多い社会に自分の名札のかかった生存席を占めるために音のない、しかし恐しい競争を経験したものの感慨がこめられているのである。
山本有三氏は、斯様にして獲得された今日の彼としての成功に至る迄の人生の経験から、次第に一つのはっきりとした彼の芸術の脊髄的テーマとでも云うべきものを掴んで来ているように見える。それは、予備条件として在来の社会機構から生じた各個人間の極く平俗な生存競争の必然を認めつつ、だが、窮極のところ、人生の意義というものは、人間対人間の目前の勝敗にあるのではない、「持って生れたものを誤らないように進めてゆく、それが修業」であり、そのためになすべきことを只管にやって行く人間の誠意、義務、試み、感激の裡にこそ人生の価値がかくされている、という一貫したモラルである。「熊谷蓮生坊」という戯曲は、この作者の脚本として決して優れたものではないが、以上のようなこの作者の人生及び芸術的骨格を全く透きとおしに浮上らせている意味で、見落せない性質をもっている。山本有三氏は、この根幹をなす生涯のテーマから出立して、更にその人間としてなすべきことの内容と経過とその帰結とを小工場主、小学校、中学校、大学等の教師、下級中級サラリーマン、勤労婦人の日常葛藤の裡に究求し描き出そうとする。戯曲において、題材は時に神話に溯り、封建の武人生活に戻り、西郷南洲からお吉に迄拡がるが、根本の課題は常に変らない。そして登場する人物、配役も、少くとも「津村教授」から「真実一路」に至る間は、小説と戯曲とでいくらかの違いこそあれ、これも些か注意ぶかい読者ならば、おのずから心づかずにはいられない反復をもって、良人以外の男と恋愛的交渉のあった妻、ある妻。その女に対して、人間として為すべき道義の自覚から行動する男。それに母のない息子、ひがんだ息子、希望されずに生れた子、血の信じられない子等が絡んで、なすべきことの諸ヴァリエーションが奏せられているのである。
山本有三氏の文章が、平明であろうという特徴は、この作者のねうちの一つとして既に十分評価されている。もう一歩迫って、文学的に見ると、この作者の持つ文章の平明さは、鮮明な描写によって読者の心にひき起される立体的な溌剌たる形象の鮮やかさではなくて、懇切に作者の思惑を読者に向って説き聞かせる説明的文章の納得し易さである。文学的な香気というものはまことに乏しい。けれども、作者がその人物に云わそうと意図している範囲では噛んでふくめるように云っているから、分り易い。平明であるというねうち高い特長とともに、この作者の持ち出す人間の言葉にも、人間そのものにさえ性格的な色調というものは極めて薄い。それぞれの人物が、現実の中から生のまま切りとられて来ていて、時には作者をうちまかすと思われる肉体的、感覚的な動きを示すのとは全く反対に、各人物は、作者山本有三が編み立てた事情を展開してゆくための説明として、裏漉しを通して、私共読者の前に出され、ものを云い、動くのである。そして、仔細に作品の現実に入ってながめると、この作家が作品の主調として主観的に提出しているこの人生におけるある道義、正義、誠意というものの実質が、もし真実この社会に要求されているならば、当然その可能のために作者がよく云うとおり、望む望まないに拘らず承認され、評価されなければならない社会の客観的な正義、道義というものと、案外にも喰い違った大小の歯車となって廻転していることを発見するのである。
この作者の有名な長篇小説に「女の一生」というのがある。今から四年ばかり前、丁度日本では左翼の全運動が歴史的退潮を余儀なくされるに至ったはじまり頃の作である。
本屋へ行って、「女の一生」とだけ云ってたずねれば、店員はモウパッサンの「女の一生」を持ち出して来るのである。が、この傑作と同じ題をつけたところにこそ、作者山本氏の意気の高いものがあったと思われる。モウパッサンの描いた女の一生ではない女の一生を山本氏は私たちに示そうとしたことは自明である。フランスの旧教の尼僧教育にとじこめられて、白く脆い一輪の無垢な花弁のような貴族の娘が、結婚の第一日から良人に欺かれ、やがて息子にすてられ、悲惨にこの世を終った。そういう受け身な一生ではなく、女が自分から自分の道を選び、それに責任をもち、人間として女として完成しようとする女の計画あり意志ある一生を允子の生きかたで語ろうとした作である。
幼な馴染で好もしく思っている男を親友が愛人としてしまったことから、允子は深く苦しむが、年頃の女には、結婚の外には生活がないように考える世間の習慣に批判をもち、結婚というものも「せいぜい生きて行く上の一事件ぐらいにしか考えていない」という気持に立ち直り、允子は兄の結婚を動機に、医学の勉強をはじめる。允子は自分を一本の牛乳瓶にたとえ、それが一寸した心の動乱で「ひっくりかえらないようにするためには下に重い金の枠をはめる必要がある。むずかしい学問は、むずかしい職業は、いわば重たい金の枠だ。そういう基礎がおかれてこそ、はじめて瓶は一本立ちが出来るのだ」と考える。
必ずしも全面的に納得は出来ないこういう動機で医学生になった允子は、その専門学校を卒業する近くから、ひどく生活の空虚感、乾燥に苦しむようになり、再び一つの疑問が彼女の前に現れた。「こういう汚い仕事をする人がなかったら学術は進歩しないわけだけれど、しかし自分のような女までがこういうことをやる必要があるだろうか。」男にだって出来るこういうことでなく女なら──女でなくっては出来ないという仕事は──それは何だろう。危っかしい自分に重い枠をかけるのが目的で、むずかしい学問である医学を選んだ允子の、今懐疑的になって来た心の目に、自分の幼馴染との間に生れた子をおんぶした嘗ての親友の若い母としての姿が浮ぶ。そして「高等な学術を研究している自分の方こそ断然弓子に勝っているものと今まで自負していたのだが、允子はたちまち奈落に墜落したような気持になった。」実に執拗に意識されている作者の勝敗感と、「女は男あっての女で」あるというこの作者の動かぬ婦人観が、ここにくっきりと刻されている。
允子は、こういう内的情態で、公荘というドイツ語教師と結びつく。急に進んだこの交渉は允子に何か不安を抱かせるのであるけれども、彼女は「相手が性のしれない人なら別の話だ。地位もなく、人格もないような男なら、それはもちろん考えなくてはいけない。併し相手は大学を出た人だ。高等学校の講師だ。」というよりどころで安心する。允子が自分の姙娠を知って正式の結婚を求めるが公荘は、允子には話さなかった病妻が在り、堕胎をせまる。允子はそれを強く拒絶する。「国法を犯すことがこわいというより、胎内に芽んだものを枯らしてしまうことが恐しいのだ。」「どうにか育てられるものなら、そのために、よし自分は屈辱を受けようとも、生れいずるものは生れさせなければいけない」そして、允子は私生子として第一の出産を行うのである。生れた男の子は允男と命名された。「允男! 允男」「允子に取っては何よりも允男である。」やがて公荘の妻が病死し、允子は失職する。子供を抱えた生活が脅かされはじめ、允子は「結局女に残された一番万全な職業といったら細君業の外にはないのだろうか。これなら一生食いそこないはないのだ」と、細君を失くした医者の後妻の縁談までを、一旦ことわりつつ「あんなに急にことわることはなかったのかもしれない。」とさえ思う。「しかし、もし結婚するのならそんな知らない人よりも……」気心も分っている公荘と、「前のことなんかすっかり水に流して」夫婦になってもよいと思うのである。
公荘と家庭をもった後も医者として勤めに出ていた允子は、やがて子供の教育には、母が家にいなければならないことを知り、勤めをやめる。「パパとママとどっちがいいと聞かれたので、どっちもいいと答えけるかな」子煩悩な両親と一人息子の生活は、作者の根気よい筆で、子供の探求心の問題、性教育の問題にまで殆ど育児教科書のように触れて行っている。
今や允男は、青年となった。允男を高等二年生にした二十年の歳月は、公荘と允子との生活をもいつしかかえ、彼等は郊外に木造の小じんまりした洋館を新築した。「家は出来るし、生活の不安はないし、允男の成績はいいし、一家は和平に満ちていた。」
然し、時代は、允子が允男に風邪をひかすまいとばかり心をくばって生きて来る間に、風波の高いものとなって来ている。公荘夫婦は、允男のかえりがおそくでもあると「まさかそんなことはないと思うけれど」「一つの流行だからな」と息子が赤になることを警戒し、息子の書斎をしらべたりする。ハイネの「アッタ・トロル」を「読んでいるようだと、よほど注意しなくちゃいけませんね」「もちろんだ、うっちゃっておいたらそれこそ大変だ。」こういう警戒にもかかわらず、「己は赤の方の心配さえなければ外に心配はないよ」と云う将にその心配が落ちかかって来て、息子はつかまる。允子は警察で息子に会い、父親の地位の危くなることや息子の親友の一人の名を発表したりして、允男を泣き落そうとする。
釈放されて来た允男は允子にゴーリキイの「母」などを読まそうとするのであるが、允子の考えは、允子は「生活や教養が違っているから」「息子をとっつらまえる方が間違っているんだと、そう単純には思いこめず」パーウェルの母とは逆に「向になっている息子をしずめることこそ、現在のような事情の下にあってはむしろ母親のつとめだ」という考えを固執している。
允男は遂に家を出てしまった。公荘は悲歎の裡に死ぬ。允子は不安の絶えないその後の生活の或る日映画の「丘を越えて」を見物して、心機一転した。允子は「丘を越えて」の母親の生きかたの不甲斐なさに刺戟され「女は年をとると子供の外に何もないのがいけないのじゃないでしょうか」「母親は丘を越えて養老院へはいることじゃなくて、もっと大事な丘を越えなくちゃいけない」「女には二つの出産がある。肉体的の出産ともう一つの出産が。肉体的の出産によって女は母になる。そしてもう一つの出産によって母親は人間になるのだ。」允子はそれによって「子は社会に生れ、母は社会に生きるのだ」ということに思い至る。そして、長い苦しみの中から初めて光を認め、また元の仕事をやって行く決心をする。「波」「風」等に比べて、遙かに意慾的なこの作品は、或る労働者の赤坊をとりあげてやった女医である允子が快く早朝のラジオ体操の掛声をきくところで終っているのである。
私は、この作者の生活意識をこの作品までに高め、力あるものとした当時の若い時代の圧力というものを、実に意義ふかく感じとらずにはいられない。作者山本有三は、彼の精神をまどろましては置かない社会の刺戟と摩擦とに鼓舞されて、従来日本のこの種の小説が人情悲劇のクライマックスとしておいた限界を突破した。第一の出産に加えて第二の出産の必然を、常識の中にはっきりと据えて見せたのである。
この作品は、少くとも同じ作者によって書かれた従前の諸作のうちでは、この作者の主要なテーマ、何をなすべきかが積極的に答えられている点でも傑出したものであることに疑いない。
ところで、私は読者とともにもう一度この作品の中へもぐって行って見たいと思う。そして、心に印された一つ二つの質問について考えて見たい。山本有三氏に向って、赤にさえならなければという親心を客観的に批判し観察していないことを云々することは、無理であろう。そういう思想を時代の圧力として、いずれかといえばリベラルな立場を持っていた父親公荘を、通俗に中途であっさり病死させている作者の手法のかげに、この作の中途で警視庁に呼びつけられたりした作者の語られない苦衷があるのかもしれない。私たちは読者として、そういう諸点については今日好意ある節度を守るのであるが、山本氏として、この作者の立て前とする範囲内で、而も、允子の棲んでいる世間並のいいこと、わるいことの評価と、允男の行動に対する歴史的な意味についての無理解とが、世俗的な分離のまま一分も深められていないのはどういうものであろう。作者は、允子を嘗て不正な町医者と正義心から闘った女として描いている。法律の制裁がこわいより、我心が許さないと堕胎をしなかった若い女として描いている。新聞の脱税事件、収賄事件に公憤を感じざるを得ない允子である。息子に真理を教えようとして、今日の日本の母としては最も進歩的に性の教育にさえのり出した母であった。パーウェルの母のように出来ないことは、彼女の小市民としての環境からうなずけるとして、果して、現実に允子が子への無限の愛を抱いて生きているならば、そういう「世間を知らない」「一本調子の」若者らが、この社会の不合理につき動かされて、様々の艱難にとびこんでゆく、その純な心根にこそ、先ず可憐に堪えぬ万斛の涙があろうと思う。自分が正しいと信じた上は、屈辱に堪えて私生子を生もうとした允子の心は、子に対した場合は実に俗人的になって、「真理を愛し真実な生活をいとなむような人間にしたい」ことと、子供に「社会の中枢に立って立派に働いてもらいたい」心持とを、いつの間にやらごったにしている。この混同は作者によって計画的にとりあげられているのではなく、作者の内部に在るものが寧ろ自然発生的に作品の裡にその反映を見せているのである。
人間の社会、この人生は、確に「真理を愛し、真実な生活を営む」人間の日常生活がとりも直さずその「社会の中枢に立って立派に働く」ことと一致したものでなければならない筈である。けれども、今日の社会の現実は、そのような人間的調和をもった社会生活の中で、各人が持って生れたものを素直に誤らずのばしてゆく可能を九分九厘まで奪っている実際である。社会の中枢で立派に働くことと、真理を愛し、真実な生活を営むこととの間に日夜の相剋が在るからこそ現代の真面目な青年たちは苦しんでいるのであると思う。そういう青年たちの親の深い愁と心痛とがあるのである。そして、山本有三氏の小説に心をひかれる読者層の大部分こそは、実にこういう苦痛をもった人々ではなかろうか。この社会的矛盾の間に、人間らしく生きようとするには、何をなさなければならないか。いかに生きるべきか。山本有三氏が十数年来、芸術の裡を一貫させて来たこのテーマは、現在新しい拡りで多くの人々の生活のテーマとなっていると思う。
元来、この作者は「己の子」というものに対する親の側からの態度について特色的な根づよさで探求をくりかえしている。「波」で作者は、子供は要するに社会の子として見るべきであり、親子の関係はメデシンボールのようなものだ。「落さないように、よごさないように次の人に手渡すのが第一だ」という結論に到達した。五年ばかりの年月は、「女の一生」において更に自分の期待を裏切られた親を、株ですった人間の落胆に比較せしめている。允子の失望に対して、往年の幼馴染、昌二郎は云っている。
「(前略)子供の出来がいい。それで投無の金をつぎ込んで大学へあげる。子供の出世を夢見ていたところが子供は横道へそれてしまった。思惑ががらりと外れたんであんな風になったんじゃないんですか。株に失敗して気が違う人間がよくありますが、あれもまあそれと似たり寄ったりらしいですね。息子に投資して値上りを待っていたら突然ガラを食ったというようなものでしょう。」
地道な子を育てようとして、そう行かなかったとしてそれは母だけの罪ではないことを作者は認めている。子供のことはもう家庭の中でだけ解決した時代が過ぎた。そのことをも作者は認めている。だが、所謂、それた若い者たちの、そのそれる必然の事訳が、世間並のよしあしとどんな道義的関係にあるものかという読者にとって最も知りたい点を、作者山本有三は、「若い者は誰も登ったことのないような高い山に登りたがるものでしてね」「どうしてあんな危い、骨の折れることがやって見たいのかわれわれのような年配のものには分らないんですが……」というような表現で、謂わば狡く身を躱しているのである。
一九二〇年にこの作者によって書かれ、出世作とでも云うべき作品となった「生命の冠」で、山本有三氏は、その悲劇的主人公有村恒太郎を如何に生かしたであろうか。この主人公は「商人の務めは儲けるばかりが能ではない。」「商人の本務は契約を守ることだ。」「(前略)金に添っても添わなくても自分のやることはやらなくちゃならない」と云ってイギリスとの取引契約の遂行のために、敢て商売仇から破産させられることを辞さなかった。作者は、この主人公を衷心から支持し、登場人物の一人である医者の口をかりて、はっきりと次のように云わせている。
「悪い結果が来るから悪いことをしないのではない。結果の如何にかかわらず、人はしなくてはならない事を、しなければいけないということです。なあ有村さん。そうではありませんか」
允子もその事実を認めている今日の社会的悪の問題は、「波」の中で云われている如く「決して一つ一つのぼうふらじゃない。ぼうふらの湧く溝にあるのだ。その大溝が掃除されんうちは、いつになったってぼうふらは絶えやし」ないのである。では、その掃除はどのようにされるべきなのだろう。作者は一九二八年に書いた「風」の中でそれについて、素子にこういう意味を云わしている。生活というものは、鉄道線路のようなものではない。河のように野原を流れてゆくものだと思う。河は、両側に岸があって、水はいつもその間を流れるもののように思われるが、それは違う。岸があるから河はその間を流れるのではなく、河が流れたからこそ岸が出来た。この岸からわきへ出ちゃいけないといったって、水の勢とその地面の高低で河の流れはどうにでもなってゆく。これは国とか社会とかいうものにも当はまる。「法律だの道徳だのというものも、あれは矢張り大きな河の岸」のようなもので、「そういう河になるとなるたけ流れが変らないようにしようと思って、高い土手を築いたり、コンクリートの堤防を造ったりするけれど、そんなにしたってそれが流れに逆ったものならいつか大きな洪水が来て、きっと堤を切ったり、コンクリートの上を乗越したりする」「どうかすると、そんな堤防をおきざりにして、まるで違った方にどうと押出すこともあると思う」「田舎になんか行くとよくあるじゃないの。昔あすこんとこをあの河が流れていたんですなんて、長い土手の田畝の中におき忘られたように続いているのが、あれはつまり亡びた法律、亡びた道徳のシンボルよ」
河の流れは夥しい水の圧力となって流れているのではあるが、河にはいつもその堤をかみ、堤と昼夜をわかたず摩擦してやがてその岸を必然に従って変えてゆく先頭の力としての河岸沿いの水というものがある。中核の圧力をこめてつたえて岸を撃ち、河の力がこわした堤の土の下に埋まることもあるこの岸沿いの河水の意味を、「女の一生」の中で作者は何故認め得ないのであろう。
「何にしても生活が」根本だということ、「思想というものは母の愛とか肉親の愛というものより遙に深いもの」であることをとりあげている作者は、「驚くべき変化であると同時に恐るべき変化」として若い時代の関心が社会に向けられていることを眺めている。昔は「地震、雷、火事、親父」がこわかったが、今では「地震、雷、火事、息子」だと公荘の洩す苦笑は、あながち公荘のみのものだと云えないものがある。
自分をよい母と自任している允子が、どんなによい母だって、息子に出てゆかれてしまうのだ、という結論から、再び医者として自立する心理の過程に、私は一応の積極的な意味を認めると同時に、現代の中流家庭内におこりつつある何か深刻な親子の利害の対立と分離と、親が子に対して従来の生活を防衛しようとする小市民的な本能の反映を作者の内面から射すものとして感じた。例えば周囲の事情によって允男が親の家を出てしまったということだけについて見れば、それは家を出たことであって、決して親を捨てたのではない。ところが允子は息子の家出と自分らの捨てられたこととを同時に感じており、作者も亦この感じを允子の感じの中に置いて見ている。允子は、何故自分らがよい親であった筈だのに捨てられたと感じなければならないかという、最も人間の真実ある交渉の機微にふれた点へは、些も省察の目をむけていない。私はこのことをこの作者らしくない粗末さだと思う。允子は何故、子供は生れたとき既に自分から離れていたのだ、と諦観する前に、抑々人間の本質的な離反とはどういうものかと考えなかったのだろう。人間交渉に真実を目ざすのが特質であるこの作者が、どうして、允子の自分の子ばかりとりかえそうとするエゴイスティックな態度が允男をしんから離れさせたのであること、母、自分の母、ほかならぬ我母が、自分の子ばかりを庇おうとして自分が身をもって守っている友人の名を口にすべからざるところで口にしたことに対する允男の公憤。それが母であるからこそ猶更耐えがたい苦しみと憎悪を感じさせ、本質的に母を捨てた心持になったのだということを、幾万人かの母のために持前の道義的懇切さで説明し得なかったのであろう。これは、十分この作者としてとりあげられる種類の人間的徳義心の問題である。こういう徳義は、パーウェルの母であるとかないとかいうことではない。大処高所から自分とわが子の運命の意味を見とおして、互に傷つきながらゆるがぬ情愛を持つ親は、現在の世の中に全然ない例ではない。
「女の一生」で最も重大な允子の「第二の出産」も、子にばかり頼る不甲斐ない母であるまいとする日暮しの運びかたが強調されていて、「母親というものは生むもの、創造するものである」という健気な自覚を内容づける母としての愛の高まり、拡大、愛の驚くべき賢こさが働くならば、去った息子との間に新しい精神的接近の試みがされるであろうこと等が、全くとりおとされているのは、非常に惜しいと思う。允子の第二の出産に於てのしっかり工合の中には、作者によって彼女の人道的医療がふれられていても、何だか硬く、自分の身を守る決心をした女の底冷たさが流れているのはどういうものだろう。息子との間は、生活的本質で断たれっぱなしで、そこはそれなりで、しゃっきり腰をひき立てた允子の姿は、人間的豊富さにおいて物足りない。
野上彌生子氏の「若い息子」における母の感情を、允子の場合と比べて、感じるものがあるのは私一人ではないだろうと思う。「若い息子」の母親は、やはり高等生の母である。やはり、生活に不安はない家庭の母である。息子がひっぱられたりすることは元より嫌いで、ひそかに息子がそういうことにならないためには大いに努力している小市民的な母ではあるが、避け難いことが起ろうとする前夜、彼女は出てゆく息子に、色のない唇でわずかに囁いた──「さむくなるから──かぜひかないでね。──母さんは。母さんは。──」と。これは断々な、とり乱した言葉である。が、切られない愛で息子の心中にある何ものかの横へまでこの母は思わず擦りよって行っているのである。
「波」の中にある言葉に従えば、山本有三氏はこの社会というきたない大溝へ、せめて清水を流し込もうとしている一人の作者だと思う。この作家を愛する読者は、それらの読者に愛されている全くその原因から、この作者の特質である人生的テーマが、現代の複雑な情勢の間で、今日或る危機に近づいていることを敏感に知らなければならない。「生命の冠」などに、世俗的悲惨をのりこえるに堪える高い意気をもって表現されていた人間としてなすべきことを為す気魄は「女の一生」に於て少なからず紛糾し、明らかな方向を示し得ない形で出された。「真実一路」に到って、この作者の核心を画すテーマの曲線は充実した力を失っている。「真実一路」の守川義平が、なすべきこととした生きかたの内容は、その主観的な考えかたで、「生命の冠」の有村恒太郎の行為より遙に社会性が尠く、貧弱化した。「真実一路」のこの主人公は、生涯の終りに当って、為すべきと信じてしたことが、現実には誤りの連りであったことを告白し得るのみであった。従来の生きかたが誤りであったことを自覚したとき、更に誤りを重ねまい為には破局をも忍んだ「津村教授」の熱意はない。この作品で、作者が「或意味では幸福な人」としている睦子の生涯というものも、誤った人生の発足から虚無的な生活破綻に陥り、只その壊滅を惚れた男と共に出来たというところに、僅に或る意味での幸福がかけられているのである。
今、東西朝日に「路傍の石」が連載されているが、山本有三氏が、どんな新しい意力と用意とでもって、今日の彼の読者の胸底に疼いている如何に生くべきかという問いに答えて行くであろうかと興味を覚える。人及び芸術家としての幸福とは、果してどういうところに在るものであろうか。特に、「真理を愛し真実の生活をいとなむ」ことと「社会の中枢にたって立派に働く」こととの間に、益々かくも巨大なる矛盾があらわれている今日に於て。──山本有三氏の道義がこれまで放牧されている地域にあっては、歴史の推移につれて、従来の種類の草だけをいかに気を入れて氏の芸術論に云われているようにこちらのものにしても、カルシウムの欠乏は何となし顕著に感じられて来ている。それは、既に「女の一生」の中で允子が息子のためになすべきことと思ってしたことと、息子がなすべきことと認めたこととの間に、社会的価値の評価を示すことが不可能であったことにも現われて来ているのである。芸術論の中に云われているとおり、芸術はあるものを写すものではなくって、あるべきものを描き出すのであるとすれば、氏の芸術が中産階級の生活を描いた時、その思想や感情が現在あるもののみを写す限度に止るようなことは、決して作者としての自己に許し得ないところであろうと思う。
氏をして書かしめない外部の力があるとすれば、それは「嬰児殺し」を書いたこの作者、感想「何処に訴えん」の筆者であるこの作者に、愈々切実に「円は正方形をいくつもいくつもきちんと積み重ねて行った後にはじめて出来るように、正義を越えた尊い心境に至る前には、人は幾度か正義を叫ばなければならないもので」(途上)あることを思わせている筈である。
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸」
1937(昭和12)年6月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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