石油の都バクーへ
宮本百合子
|
一
一九二八年九月二十八日、私ともう一人の連れとは、チフリスから夜行でバクーへやって来た。
有名な定期市が終った朝、ニージュニ・ノヴゴロドからイリイッチ号という小ざっぱりした周遊船にのって、秋のヴォルガを五日かかってスターリングラードまで下り、そこからコーカサス、チフリスと経て、アゼルバイジャン共和国の首府バクーへ来たのであった。
ソヴェト同盟へ来て八ヵ月目ぐらいの頃であった。いろいろな気持など、その時分は到って漠然としていたのだが、それでもその旅行の計画の中には、バクー見学とドン・バス炭坑見学とだけは繰りいれられてあった。ドン・バスの方はその前年全ソヴェト同盟のみならず世界の注目をひいたドイツ技師を筆頭とする国際的生産破壊計画事件が発覚したばかりであった。自分たちがモスクワへ着いたのはその年の十二月。革命十周年祝祭の歓びの亢奮とドン・バス事件に対する大衆の憤りの亢奮が新来の自分をも直ちにとらえた。ドン・バスへは是非よろう。旅行に出る前、自分は対外文化連絡協会から石炭生産組合へ紹介状を貰い、まだ地図もよく分からないモスクワの商業区域を歩きまわって、その手配をした。
バクーは石油の都である。計画に入れてはいたが、ドン・バスほど確定的に考えていなかった。廻れたら廻ろう。その程度であった。それがグルジアの首府チフリスに三日いるうちに、バクー行を実現することになった。この動機の一端が、今になって考えると笑えるようなところにあるのであった。
北コーカサスの温泉地を一晩ぐらいずつ見物して、或る晩ウラジ・カウカアズという町に着いた。チフリスへはコーカサス山脈を横断するグルジンスカヤ山道を自動車で十時間余ドライブして行く筈であった。コーカサスの雄大な美を知りたいと思えば、このグルジンスカヤ山道をおいてはない。そう云われている絶景である。ウラジ・カウカアズが、その起点となっているのであった。
一軒のホテルへ着いて顔を洗い、町へブラブラ出て見ると、チフリスもそうであったがここもまだ夏の夜である。白いルバーシカ姿の人だかりがある店先へ行って見ると、玉ころがしに似た遊びをやっている。ただ遊んでいるのではなく確かにこの町では公然と許されている賭け事で、台を囲んでぎっしり坐っている男女の顔は緊張し、ごみっぽい汗ばんだ色をしている。街路は一体に薄暗く、パッと歩道へ光を流して人のかたまっているところはそういう光景なので、モスクワのような都会から来た自分は、妙な気がした。それぞれの共和国の内政は或る程度まで自主的に行われているのであった。
傍の小さい新聞屋台で、『レーニンの孫』というこの地方のピオニェール新聞を買い、ソヴェト同盟の広さというようなことを強く感じながらホテルの玄関を入り、右手の広間へ通った。瓦斯燈の水っぽい光が、ゴムのような滑らかな大きい葉の植木を照している。その陰から立って挨拶したのは、その頃ピリニャークにくっついて歩いていた作家リージンとその妻であった。若い詩人夫妻の伴れがある。正直に云うと、自分はこの高いダブル・カラーをつけ、桃色の頬ぺたをして外国商館の番頭に似た作家を余りすいているとは云えないのである。
ところが、このリージン氏が明朝自分たちもグルジンスカヤ山道をチフリスへ行くから一つ仲間にならないかと申し出た。自動車の坐席の都合からである。こちらも女二人きりよりはその方がよい。そう思い、承諾して、朝になった。
自動車へ乗込むという段になって、悶着が生じた。リージンは前夜六人乗の自動車を註文したのに、髭の濃いコーカサス男の運転して来た車は四人乗ともう一つは二人乗で、計らず四人組、二人組と別れ別れにならなければならなくなったのである。
リージンの大柄な口紅を濃くつけた細君は、いかにも夫の手抜かりを攻める面持で、自分たちのいる横で二人だけあっちへのせろ、と云っている。リージンは自分から誘って坐席の割前を助かろうとした手前、ではあっちへ二人でとは云いかね、「そんなことは出来ない、女じゃないか」とこれも小声に力をこめて云い諍っている。
到頭詩人夫妻が小型に納まり、こちらは四人で動き出した。
チフリスのホテルも同じであったが、始めそういうことで心意気が見えすき、それに連関して細々と不快なことがあった。順に行くとクリミヤで同じ道を辿るので、一つ此処で、ぐっと方向を換えよう。バクーへ行こう。そこで、やや性急に自分たちのバクー行となったのである。
二
バクーへ着いて見て、自分たちは些かこれはしまったと思った。普通の暦でその日は金曜日に当ったからすぐ「アズ石油」へ行って油田を見せて貰えるつもりでいたところが、生憎その日はペルシアの日曜日──何かの宗教的祝日で、大通りの商店、事務所、すっかり表戸をおろしているのであった。
仕方がないから、自分たちは目抜の通りへ出て地図を買い、通行人に交って街をぶらつきはじめた。すれ違う連中の八分通りはトルコ帽をかぶったペルシア人、韃靼人である。耳の長い驢馬がふりわけに籠をつけて、小さい蹄に石ころ道を踏んで行く。バクーの市街の古い部分は五、六世紀頃から存在しているのである。
大通りを行きつめたら、自然とカスピ海に向う、立派な遊歩道へ出た。ペルシア行汽船の埠頭などがあり、暑いところのためか、あっちにもこっちにも派手な水色、桃色に塗ったビール・スタンド、泉鉱飲料店を出している。海面に張り出して、からりとした人民保養委員会のレストランなども見えているが、どういう訳か遊歩道には前にも後にも人が疎で、海から吹いて来る強い風に、コックの白上衣が繩につられてはためいている。
海沿いの公園では夾竹桃が真盛りであった。わきのベンチに白い布で寛やかに頭から体をつつんだペルシア女が、黒い目で凝っと風に光る紅い夾竹桃の花を眺めている。ここも人気すくなく、程経って二十人ばかりのソヴェト水兵が足並そろえてやって来て、同じ歩調で夾竹桃の花のむこうを通りすぎた。
どの小道へ曲っても、乾いた太陽と風とがある。
粘土と平ったい石片とで築かれたアラビア人の城砦の廃墟というのへ登り、風にさからって展望すると、バクーの新市街の方はヨーロッパ風の建物の尖塔や窓々で燦めいている。けれども目の下の旧市街は低い近東風の平屋根の波つづきで、平屋根の上には大小の壺が置いてあるのなども見えるのである。渋っぽい、うるしのような匂いのする露路へ入ると、ぎっしり並んだ箱の蓋をあけたように種々様々の韃靼人の店があった。ロシア語で「食堂」と書き、あとは右書きの地方文字で看板をかかげた店などでも、覗いて見ると、店も住居もたった一つであった。奥に家族の寝台がある土間に床几と卓を並べ、燻る料理ストーブが立っているわきの壁に、羊の股肉とニンニクの玉とがぶら下っている。そういう風なのである。
バクー名所の一つである九世紀頃のアラビア人の防壁を見物して、磨滅した荒い石段々を弾む足どりでイラ草の茎を片手にもって降りて来たら、わきの共同便所の前から十一二歳の少年の一団がやって来る。見ると真中の一人が、便所へおとしたその糞だらけの靴を当惑そうに紐でぶら下げ、片足は裸足のまま、軽く跛をひいて歩いて来る。それをとりまく少年たちは、いずれも真面目な心配を顔に現して、惨めな靴をのぞき込みつつ、大股に跟いて歩いて来るのであった。
バクーの市街には、驚くほど古いものと新しいものとが入り混っている。自分はキルションの戯曲「風の町」を思い出し、この地方の住民が数世紀に亙って様々の形で行って来た支配権力との揉み合いの歴史を、深く思いやった。帝政ロシアの権力は、石油とカスピ海を眼目にこの都市を侵略した。一九一七年には、ペルシアの石油を我ものにしただけでまだ満足しない帝国主義イギリスとその同盟軍とに対して、バクーの労働者は生命を賭して戦った。石油が真に住民の富源となったのは、全くそれ以後のことなのである。
夜ホテルの屋上で食事をしていると、暗いカスピ海の面に、イルミネーションをつけた船が三隻ある。艫からメイン・マスト、舳へと一条張られたイルミネーションは遠目に細かく燦めき、海面の夜の濃さを感じさせた。
室へ帰って手帳に物を書いていたら、薄いカーテンに妙に青っぽい閃光が映り、目をあげて外を見ると、窓前のプラタナスに似た街路樹の葉へも、折々そのマグネシュームをたいた時のような光が差して来る。不思議に思って首をさし出したら、つい先が小公園であった。そこで野天映画をやっている。音響もなく人声もせず、ただ街路樹の葉ごしに、大きく黒く銀幕の上で動く人物の足の一部分が見えたりする。──軈てそれを観に自分たちも室を去った。
三
風がきつい。石油が細いピストンのようなものの間から吹き出して、私のブラウズの胸にかかった。おやと云っているまにもう風に散らされ、しみが微かにのこったばかりである。汲出櫓の上に登っているのであるが、右手を見ると、粗末な石垣のすぐそこから曇天と風とで荒々しく濁ったカスピ海がひろがり、海の中へも一基、二基、三基と汲出櫓が列をなしてのり込んで行っている。
風と海のざわめきとの間にも微かなキューキューいう規則正しい音が聞える。子供の時分ランプへ石油を注ぐ時使う金の道具があった。それを石油カンにさして細い針金を引っぱり石油をランプに汲み上げるときキューキュー一種の音を立てた。そっくりその通りではないが、それに似た音と、トン、トンと間を置く遠い音響が、自分の登っている櫓からばかりでなく数々の櫓の間から何処とも知れず聞えている。
この辺一帯は革命後になってはじめて穿鑿された油田だそうだ。「ウラジミル・イリイッチ油田」と呼ばれている。バクーの市から一番近い。掘りはじめは不成績であったので放棄する意見が技術委員会の大半を占めた、その時、数人の若い連中ががんばって遂にこんなに豊富な源泉に当った。案内している三十四五の技師はその逸話を話し、
「マア、我々の事業はこんな塩梅で進むんですな」
と、いかにも楽しげに人好く笑った。ここでは、海の中へ、中へと掘りすすむほど良質な石油が量も沢山出るのが特徴なのだそうである。
櫓から眺めると、風の中にはあっちにもこっちにも微かな音を立てて自動汲出しをしている櫓ばかりで、人影は大して見当らない。作業が機械化され労働者一人が大体十五の汲出櫓を持っているということである。労働者総数五万人、党員は千二百人。平均収入はその時分八時間で八十留。重い労働には六時間で牛乳が支給される。後でわかったことであるがドン・バスの炭坑でも、条件のわるい坑内労働はこの六時間交代、牛乳支給が行われているのであった。労働者生活改善費に今年は五十万留を予算してあるとその技師は説明した。
「資本主義時代は平均十二時間、三十五留──韃靼人やアルメニア人は同じ労働で、半額が普通だったです。──」櫓を降り、変にポタポタと靴の裏にはりつくような地面を事務所の方へ歩きながら、その技師は、バクーの油田が無慮二百七十の大小会社によって無統制に掘りかえされていた時代の恐ろしい競争の状態を話した。
湧出道を奪うためにはあらゆる悪辣なことを平気でやりあった。従って汲出櫓一台当りその頃は二年間で二十五万留ぐらいの成績しか挙げられなかった。現在では一台が二ヵ月で八万留。二年にすれば凡そ九十六万留を掛取するようになったのだそうである。
「カリフォルニアの石油は広いが浅いのです。……もう十五年経つとアメリカはわれわれの石油を買いますよ、──いや、もうベンジンやガソリンは買いはじめている」
烈しい風に吹きとばされまいとして、私は外套のカラーを片手で頸のまわりに押え、技師の鼻先へ耳をつき出してそういう話をききとるのである。三人をのせた大型パッカードはバクーの市から十二露里隔った通称「黒い町」大油田へ向って矢のように走っている──。
四
坦々とした一条のコンクリート道が曇った空の下に高く堤防のように延びている。声が千切れてとぶほどの勢で自動車はその上を走り、行手も、来た方も不機嫌な灰色の空があるばかりである。
数露里行ったところで、はじめて一台の韃靼人の荷馬車をビュッと追い抜いた。幅のせまい、濃い緑、赤黄などで彩色した轎型の轅の間へ耳の立った驢馬をつけ、その轡をとって、風にさからい、背中を丸め、長着の裾を煽られながら白髯の老人がトボトボ進んで行く。──四辺の荒涼とした風景にふさわしい絵画的な印象であった。
やがて、地平線にゾックリと黒く林立する数百の汲出櫓が現れた。工場の煙突から煙を吐くだろうが、これは凝っと密集して光のない空に突き刺っている。現実にはこっちからその中へ進んで行っているのだが、感じは逆で、むこうが此方へ圧倒的にせり上って来るような凄じい気分である。
チラリとエメラルド色をした水が視野を掠めた。沼だ、そう思った時、コンクリート道がひろく一うねりして、眺望がひらけ、左手に気味わるく青いその沼と、そのふちの柵、沼になるまでの斜面に古い十字架がどっさりあって、そのいくつかが緑青色の水の中へこけかかっているのなどが見える。あとで訊くと、ザカウカサス地方の塩はみんなその沼からとれるのだそうであった。
そこを過て、帝政時代から建っているひどい労働者住宅の間を抜け、段々上り坂の道を自動車は速力を落して進んだ。黒石油だけが湧き出す油田というのを見た。主として重油、機械油、リグロイン(?)等を精製するのだそうであるが、その露天泉を眺めた時、自分は別府温泉の地獄まわりで坊主地獄と云ったか、それを思い出した。黒石油は重く、泥が煮えるように湧き立っているのである。
二露里ばかり行ったところに白石油だけが出る油田があった。数ヵ所で試掘が行われてい、その工事監理の事務所が風当りのつよい丘の上にバラック建でつくられている。通りすがりの窓から内部の板壁に貼ってある専門地図、レーニンの肖像、数冊の本、バラライカなどが見えた。キャンプ用寝室も置かれてある。
折から手のすいていた四五人の労働者に、珍しく更紗のスカートをつけた若い女が一人混って、試掘の行われている場所を見物した。ざっと結った柵の中で、やはりポクポクして崩れ易い周囲の泥に石油の色を滲ませて、透明な油が湧出している。強い風にもかかわらず揮発する石油の匂いが面を打った。案内して来た技師は、暫くの間素人である自分達を忘れて、責任者らしい落着いた労働者と身を入れて専門の話をし、やがて、同じ真面目な口調で、云った。
「ここの白石油は非常に良質で、全く我々の宝です。……まだ砂が出るので、こうやって開けてあるが、もう一週間ぐらいのうちに、万端設備が終るでしょう」
また労働者と話し、再び自分たちに向って、仕事の価値を知っている者だけの示す叮重さで、
「白石油のこれ位純粋なのは珍しいです。今われわれは、殆どこれと同質のところを四つ試掘中です」
と云った。
バクーの油田は領域の広さ、量の豊富さばかりでなく、湧出する原油の質が多様な点でも、優れているのだそうである。
五
小道を下って、本通りに待っている自動車に乗り、蹄形に来た道と油田をかこんで平行しているコンクリート道路を暫く行った。その道は矢張り真直で人気なく、左右は古びた板塀とその中に突立っている無数の汲出櫓ばかりである。風は海坊主の柱のような黒い間を吹き荒れた。風にもめげず四十幾つかの汲出機が一つのモーターで規則正しく動いているのが自動車の上からも見える。──
自動車が一つの角を曲って、急にさっぱりした住宅区域に入った時、自分は思わず頬が温い空気にふれたように感じた。
自動車の通る道路をはさんで両側に低い木柵を結った二階建の住宅が、同じ形で四五十軒並んでいる。小鳥の籠ゼラニュームの鉢などが出ている窓もある。そういう小住宅が五側ばかりで、清潔な町をかたちづくっているのであった。
一つの扉の前で自動車を停め、技師は自分たちをも車からおろし、
「これが新しい労働者住宅ですが……一つ内を見せて貰いましょう」
と云った。戸を開けたのは年をとった、韃靼人であった。自分たちを見て何か叫んで、歓迎するように腰を幾度もかがめた。人種にかかわらず、それぞれの油田で最も長く労働に従事していたもの、住居の条件の悪いものから先に、この新労働者住宅へ移された。
「しかし、もちろんまだまだ住宅は不足です。今年のうちにもう二百戸ばかり建つことになってはいますが……」
階下は明るいゆったりした二室に台所。二階は小ぶりな部屋が二つ。こちらにはヨーロッパ風の寝台や椅子。書もの卓子などがあるが、下は、韃靼風によく磨いた床に色彩の濃い敷物と沢山のクッションが置いてある。
韃靼の年よりは別に説明もせず、ただ先に立って戸という戸を勢よくあけ、次から次へ内を見せるのである。戸をあけ、自分はこっちに立って手でサアという仕方を我々に向ってするとき、その身のこなしに、言葉に出しては語られないが胸にみつる年よりの歓ばしさがこもっている。その感情が段々映って、私も静かにつよい感動を今日彼等のところにある生活について覚えるのであった。一九〇三年頃、このバクーの油田で労働者長屋の大爆発が起り三百数十人の労働者家族が惨死した事件があった。石油が湧き出すぐらいであるから、地盤がわるく、有害瓦斯の洩れるような場所が沢山ある。当時の石油会社は、そういう土地の上へ労働者長屋を建て、家賃は給料から天引きにして住まわせた。木造の長屋が古くなって、地中から洩れる瓦斯が建物の内部へ充満するようになって来た。幾度かけ合っても改築せぬ。そのうち或る日の昼、お神さんが飯の仕度につけたストーヴの火が空中瓦斯を引いて大爆発をした。火は火を呼び、更に地べたそのものが火をふき出したが、男たちは油田へ出切っている間の出来事である。三百数十人の大小の死体とメラメラ火を吐いている焦土とが、駈けつけたバクーの労働者を迎えた。これによってバクーに歴史的なジェネストが起った。九人の労働者が指導者として銃殺された。しかし、このことから、バクーの労働者の間に革命の伝統が生じ一九〇八年──一一年の反動時代にはかくれた大きい役割を果すことになったのであった。この時代の活々とした興味と教訓にとんだ回想の集められてあるのが荒川実蔵訳『同情者物語』である。
もしかしたらこの爺さんも当時の叫喚をその耳で聞き、或は自身その声をあげて突進した中の一人かも知れない。それは決して、あり得ない空想ではないのであった。
労働者住宅から八九丁のところに、起重機が突立ち工事が起されている。石油の試掘ではなく、数千人を入れることの出来る大労働者クラブが建つ、その基礎工事に着手したところなのだそうだ。
ホテルの前で自動車から下りた時はもう六時をすぎていた。自分は少し疲れ、同時にいろいろな印象によって亢奮した心の状態で食堂で、夕飯をたべる間も、どっちかというと黙りこんで四辺を眺めていた。四十人ばかり、今夜アメリカに向って立つというペルシアの若者が英語と自分の国の言葉とで喋りながら、食堂の一方を占めていた。小指に美しい宝石入りの男指環などはめ、それが浅黒くて眉の弓なりの顔につり合っているという種類の若者どもである。
自分と連れとは、その夜タガンローグをさしてバクーを出立した。タガンローグはアゾフ海に沿うた小さな町でアントン・チェホフの故郷なのである。
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。