明るい工場
宮本百合子
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ソヴェト同盟の南にロストフという都会がある。ドン川という大きい河に沿って、花の沢山咲いた綺麗な街が、新しい労働者住宅やクラブの間にとおっている。私は七月のある朝、ドイツからソヴェト同盟へやって来たドイツの労働者見学団といっしょにホテルを出て、ドン国営煙草工場見学に出かけた。ロストフはウクライナ共和国の主都で、附近にはソヴェト第一の大国営農場「ギガント」があった。丁度素晴らしい「トラクター」や「コンバイン」をつかって麦の収穫を終ったばかりのところである。ドイツからの労働者見学団の若い男女たちは、その収穫の壮大な仕事ぶりを見てきたばかりなので、片言のロシア語やあやしげな英語で(私にドイツ語がわからないから)さかんにその見事な様子について私に話してきかせる。私がロストフへきていたのもその「ギガント」を見るためなのである。
「ギガント」で見たことはまた別のときに話すとして、その朝ドン煙草工場で見たことを、わたしはみなさんに聞いて貰いたいと思う。
少しダラダラ坂になった通りを行くと、右側に煉瓦の大きい工場が現れた。がっしりとした門にソヴェト同盟の国標、鎚と鎌をぶっちがえにしたものを麦束でとりかこんだ標がかかげてあり、その上に、ドン国立煙草工場と金字で書いてある。門衛がいるが、一向意地わるそうでもないし、うたぐり深い目つきもしていない。
「受付はどこでしょう」
と私がきいたら『プラウダ』(全ソ共産党の機関新聞)をよみかけていたままの手をうごかして、
「ずっと真直入って行くと右側に二つ戸がある、先の方のドアですよ」
と教えてくれた。礼を云って歩き出したら
「お前さん、どこからかね?」
「日本から来たんです」
「ふーむ。そりゃ結構だ。──わかりましたか、ホレそこを真直行って……」
ともう一遍教えてくれた。
入ってゆくと廊下で、左側には「賃銀支払金庫」「保険貯金」などと札の下った窓口が並んでいる。右側に戸がなるほど二つある。奥の方には「工場委員会」「コムソモール・ヤチェイカ」と札が出ている。みなさんも知っているとおり、ソヴェト同盟では工場を男女労働者自身で経営している。工場の大衆から選挙された工場委員会があって、その委員会がいくつかの専門部に分れている。例えば技術詮衡部(この技術詮衡部で働くものの腕によって賃銀をきめ、また工場全体の技術が向上するよう指導してゆく)衛生部(工場中の衛生全部に責任を負い、托児所、診療所、食堂、水のみ所などの問題を片づけてゆく)その他重要な生産計画部、文化部などがあって、どんな大工場の管理者でもこの工場委員会の決定に従って行動しなければならないようになっている。ブルジョア・地主の工場のように、社長、重役とか主任とか監督とか、威張って搾るばかりが仕事の者は、ソヴェト同盟の工場のどこの隅をさがしてもいない。もう一つのコムソモール・ヤチェイカというのは、共産青年同盟細胞という意味である。(どの工場でも相当人数のあるところではきっと共産党の細胞と労働組合の地区委員会が部屋をもって活動しているのが普通である。)
私は二つめの戸を入って行って、そこに書きものをしている若い婦人労働者に、
「今日は」
と云った。
「私は日本からきたんですが、これをみて下さい」
紹介の手紙を出した。その婦人労働者は手紙をよみ終ると、
「素ばらしいわ! よく来ました。でも、一寸待って下さいよ、いま文化委員のひとがいないから五分ばかり待って下さい」
やがて、赤い布で凜々しく髪を包んだ二十二三のこれも元気な婦人労働者が、何冊もの本を小脇にかかえて入って来た。
「──図書室の本が、まだモスクワから届かないんだってさ。手紙をやりましょうね」
「お客さんよ」
その文化委員の婦人労働者は手紙を見ると、黙って私の方へ手をさし出し、きつく、情をこめて握手をした。
「──みんな見せますよ、見てお国の婦人労働者に話してやって下さい、ね。ソヴェト同盟ではわたしたちがどんなに生活するようになったか」
ドン国営煙草工場は生産高がソヴェト同盟一二を争うほどあり、労働者は全体で千何百人かいる。仕事の性質上婦人が多いので、ここの衛生委員は特別に歯科の診療所を工場内に設けた。小ざっぱりとした白い壁の小部屋で、ピカピカ清潔な医療道具がガラス箱の内に揃っている。白い上っぱりを着た医者が一人の女の患者を扱っているところだった。
「女はどうしても姙娠やお産で歯をわるくするのです。ところが働きながら歯医者へ通うことは時間の都合で不便だから、とうとうわたし達は工場へ歯科診療所をこしらえることにしたんです。二年計画でやったんです。みんなよろこんでいますよ。──わたしたちは誰しも早く婆さんになってしまいたくはないものね」
私も一緒に笑ったが、ふと思いついてきいた。
「──でも、時間はどうなんです?──つまり仕事の間にここへやってきて治療して貰うらしいけれど、その時間は、やっぱり八時間の労働時間にくり入れられるんでしょうか」
「そうですとも。丈夫な体になっていなければ立派な働きもできないわけじゃありませんか。わたしたちには工場も健康も大切です、どちらも自分のものだもの。……そうでしょう?」
わたしはこの言葉をきいて、体が熱くなるような感じにうたれた。革命まではロシアの工場でも、日本の工場と同じようなひどい条件で女が搾られていたのである。
ドン国立煙草工場には自慢の托児所があり二百七十人ぐらいの子供の世話をやいている。私が行ったとき、托児所の庭の青々と茂った夏の楡の樹の下にやや年かさの女が三つばかりの男の子を抱き、金髪の若々しい母親が白い服を着せた生れたばかりの赤児を抱いて、静かに談笑しながら休んでいた。話して見ると、何と愉快なことだろう。この二人の年齢のちがう母親たちは、互いに母と娘とで、二人ながらこの「デゲテ」工場に働いている婦人労働者なのであった。
「わたしはもう自分の末の子を二人ともここで育てて貰ったんですよ。……今度は私の娘が初めての子供をつれて来る番になったわけです。……わたし達の生活はすっかりここにあるんです……ねえオーリャ……」
案内してくれる文化委員は、工場学校の方へ歩き出しながら話に告げた。
「あの二人は模範的な母親たちですよ。お母さんの方は代議員だし、オーリャは党員候補です」
ソヴェト同盟の工場では五人に一人ぐらいの割合で婦人労働者の間から代議員というのを選んでいる。これは党員ではないが、ソヴェト同盟がプロレタリア・農民の国であり、社会主義の社会を建設してゆき、益々富み、階級のない社会とするためには、どういう風に働かなければならないかということを理解し、実践する婦人労働者を皆が選んで、職場でのあらゆることについての相談役、世話役、説明役となって貰うのである。ソヴェト同盟が搾り専門の社長、重役を工場から追っぱらったと同時に、監督とか世話役とか天くだりの役員を廃絶し、みんなが順ぐり互の仕事を監督し合い、技術を向上するよう励まし合ってゆくプロレタリアらしいやりかたが、この代議員というものに現われている。
一旦、托児所を出て往来を横切ると特別な工場学校の小門があって、十五六歳の少年少女がそこを活溌に出入している。入ったところの広場で一つの組が丁度体操をやっている。十七八人の男女の工場学校の生徒が六列に並んで、一人の生徒の指揮につれて手を動かし、足をあげ、時々、
ホ! ホ! エハーッ!
エハーッ!
とかけ声をかけ、笑いながらやっている。広場の奥の大きい厩か納屋だったらしい建物があって、そこが、今はすっかり清潔に修繕されて、運動具置場になっている。「懸垂」などもそこにおかれている。
教室へ入って行って見ると、仕事着を着た男女生徒が、旋盤に向って注意深く作業練習をしているところである。ひろい窓から日光が一杯さしている教室中は森として、機械の音だけが響いている。もう白い髪をした指導者が一人一人の側によって仕事ぶりを親切に眺めていたがやがて壁にかかっている時計を見上げると、
「さア子供達、腰かけた!」
と響のよい年よりの声で云った。生徒たちは仕事机の下にバネじかけでしまってある腰かけを引き出し、一斉に腰かけて、作業をつづけている。
「工場学校では、若い生徒の体が健康に成長するように、三十分起立して作業すると、十五分は腰かけて仕事をする規則なのです」ソヴェトの世の中になってこそ、ほんとに若い男女の勤労者の幸福はくるのだ。つよくそう思わずにいられなかった。私はドイツでも、堂々としたジーメンスの工場を見たが、その工場の内に働く者の幸福を高めるための技術を養う工場学校があり、しかも十八歳までは六時間労働、十六歳以下は四時間と、ちゃんと法律によって定め、その賃銀の払われる労働時間のうちに教育のための時間を半分ずつ算入しているところなどは、どこにもなかった。五ヵ年計画では、その上もっと素晴らしい計画が実行されようとしている。これまでは、ソヴェト同盟でも、青年少年の男女労働者のとる賃銀は大人より幾分低かった。日本やアメリカなどの若い労働者のように、半額などということはないが、それでもいくらかやすかったのを、今度は、六時間労働でも、大人なみ八時間労働とまったく同じ賃銀を払うということである。男の子も女の子も十六七になれば、食べるものも着るものも大人なみである。本だって沢山よみたいし、運動もしたい。ソヴェト同盟には工場図書館、スポーツ・サークルが発達していて、大体無料でいろいろのことができるが、食物、衣服はまだ無料とはゆかない。若い男や女の勤労者が、真に健康に、立派に階級の前衛として育つために、ソヴェト同盟では、男女青年労働者の待遇の徹底的改善を決定したのである。
その教室を出て、もう一つの教室へ行くと、そこでは若い生徒ではない、もう四十五十の小父さん小母さんが十人ばかり、むきな顔をして代数の勉強をやっていた。職場で働いているが、こういう人々はもっと自分の技術を高めて、ソヴェト同盟が最も必要としている技師になり、皆の役に立とうと、若がえって健気な勉強をやっているのである。
わたしは、工場を見ているうちに一歩一歩と、水浴びでもした後のようにいきいきと爽やかな気分になった。「未来は我らのものである」という強い確信は、こうしてソヴェトの労働生活の現実的な建設によって一つ一つ実現されつつあるのだ。希望と勇気にみたされ、わたしは並木道の下を更に工場クラブの方へ行った。
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「働く婦人」
1932(昭和7)年9、10月合併号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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