ソヴェト文壇の現状
宮本百合子
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ソヴェト文壇の空気はこの一二年に、ひどくかわった。
著しいかわりかたは、ハッキリ目に見えるところにある。「作家の家」と云って、ソヴェトのいろんな作家団体がそこに事務所をもっている昔の革命家「ゲルツェンの家」へ行って見るだけで充分だ。
われわれは一九二七年の暮、おしつまってモスクワへついた。多分、翌年の正月だったと思う。「ゲルツェンの家」で「日本文学の夕べ」が催された。
あんまり大きくない講堂で、円柱が立ちならんでいる舞台の奥にひろい演壇がある。レーニンの立像がある。赤いプラカートがはられている。そこへ、革命十周年記念祭のお客で日本から来ていた米川正夫、秋田雨雀をはじめ、自分も並んで、順ぐりに短い話をした。キムという、日本語の達者な朝鮮人の東洋語学校の教授が、通訳だ。話すものはテーブルに向って演壇の上で椅子にかけて話す。わきで、大きな体のピリニャークが、煙草をふかしながら、彼の作文「日本の印象記」の中から朗読すべき部分を選んでいる。
開会がおくれて、すんだのは夜の十二時頃だった。一服しようと云うことになって、食堂へゾロゾロ下りた。──地下室なのだ。
ピリニャークが扉をあけて、サア、どうぞと云った。自分はその晩日本のキモノをきていた。だからみんなが見る。しかし、テーブルにいろんな連中と並んで、四辺の光景を眺めると、深く感じることがあり、自分が見られるのなんか忘れてしまった。
そこは地下室だから、窓はない。イキレた空気の中に電燈が煌いている。白布をかけたテーブルがあっちこっちにあり、大きい長椅子がある。ピアノがガンガン鳴る。弾いてるのは赤い服きた瘠せた女だ。肩の骨をだして髪をふりながら自棄に鳴らしている。
長椅子の上では、やっと大人になりかけた若者──ゲルツェンの家の地下室へ来ているからには、いずれソヴェト作家の卵だろう──が、女をひとりずつつかまえて、顔の筋をのばしている。彼等の前には、酒、酒。食いあらした料理の皿。爺さんの給仕が、白手袋をはめて、燕尾服のしっぽをふりまわしながら、その間を働いている。汗は爺さんの額に光っている。ピアノの音。三鞭酒のキルクのはぜる音。ピリニャークが自分たちに訊いた。「何をたべましょうか?」
はじめて自分は「作家の家」の内部を見たのだから、おどろいた。それから腹が立って来た。これがソヴェトの作家たちのやっていることか? ブルジョア国のカフェーと、どうちがう?──田舎くさいだけだ。しかも、みんな平然と、特に自分たちをひきつれた一行は或る権威さえもってるらしい風でそのなかにおさまっている。
地下室のむれっぽい空気の中にあるのは「過去」だ、過去しかない。そう感じた。非常に不安になった。ソヴェトへこういうものを見に来たんではないと思った。湯浅と自分とは到頭二人っきりで先へその地下室から出て来てしまった。
モスクワの細かいサラサラした一月の雪が、アーク燈に照らされ凍って真白な並木道に降っている。橇で夜ふけの街をホテルへ帰った。──
二年たった。一九三〇年だ。「ゲルツェンの家」の門をはいって行くと、右手の庭に屋外食堂が出来ている。雨のふる日、椅子は足をさかさに立てて軒の内、テーブルの上へかたづけられている。が、今は、元の講堂が、作家たちの普通の食堂になっている。各作家団体の事務所はもとのままだが、地下室は閉鎖された。
食堂の入口二箇所に小机を前においた女がいる。一人の方に、自分の所属団体の名と姓名を記入して貰う。次の小机で、作家たちは食券を買う。記入額は五留だ。だが、二留半払えばいい。半額なのだ。
若い元気のいい女が白い上っ被りをきて、白や赤の布で髪をつつんで、テキパキと給仕してくれる。どの皿も半額だ。さっきの食券をわたして食べる。
居る連中も、地下室時代とはちがう。一仕事がすんで息を入れに来ているらしい数人の男女が、ビールをのみながら、盛に喋っている。ドッと笑う。また議論はじめる。プリントをわきへおいてよみながら食事をして、読む方も食う方もまけず劣らず活溌にやってるルバーシカの男がいる。──
ワロフスキー通の作家クラブへ行って見よう。
ここは、もと象徴派の詩人ソログープの邸宅だった。一九三〇年の二月、作家クラブがおかれるようになった。
広い前庭だ。
太い柱列の間の入口から、立派な石の正面階段を昇ってゆくと、左手の柱に喫茶所と札が出ている。さっぱりした小テーブルと、腰かけがある。通りぬけると奥は一般談話室だ。
狭くなった廊下を出ると、左手に浮彫つきの堂々たる扉がある。ソログープのための相談、指導部だ。「集団農場における作家」展覧会委員室もある。
広間では、一月のうち順ぐりに、映画研究会、劇研究会、作品研究会、評論研究会などが持たれる。そして、われわれはそこに見る。赤いプラカートを。
階級の武器としての芸術を*××××××化しろ! 社会主義建設のために、党の線によって、進め!
ここはソログープの書斎だった室だ。が、諸君、ここの戸はごくソーッとあけなければいけない。クラブ読書室なんだから。
茶色に塗った貴族的な本棚が壁をふさいでいる。レーニン全集。マルクス・エンゲルス全集。資本論。いろんな経済学術雑誌などが整理されて本棚はギッシリだ。大テーブルのまわりには空席がない。ひっそりして、皆何か読んでいる。新刊雑誌にまじって外国雑誌もテーブルの上にある。
読書室の向いの戸は開かない。──一年前「ゲルツェンの家」にあった光景とこの光景との違いはどうだ! ソヴェトの、逆転することない歴史的飛躍が颯爽と現れているではないか。
だが、たった二年の間に、どうしてソヴェト文壇の空気は、これ程大きい清掃をやったか?
ソヴェト社会の客観的情勢が、最近二年間に、実にかわった。それに応じて、ソヴェト文壇の指導が従来の「同伴者」作家団体から、完全に、「ラップ」=ロシア・プロレタリア作家同盟へ移った。これが、大きい原因だ。
では、その客観的情勢の変化そのものは、どこから来ているのだろうか。
目下、ソヴェト同盟が第三年目に入った生産拡張の五ヵ年計画によってだ。今日のソヴェト同盟内に起るどんな小さい社会悲劇も喜劇も、この一九二八・九年から三三年に亙る五ヵ年計画の偉業ときりはなしては説明出来ない。
* このプラカートの欠字は一九四八年の今日うずめることができない。
これまでも、ソヴェト同盟で生産は計画的に行われていた。
記念すべき一九一七年以来、毎年、国家計画部と最高経済会議とが中心になり、ソヴェト同盟内の各企業の生産力、労働力、消費、などを調査し、その年の生産予定をきめた。生産予定は、各生産組合へふりあてられる。組合は、組合が管理しているトラストへ。トラストは各工場へ。工場では一般会議で、その生産予定を各職場にふりあてた。
同時に、五年ずつ先へ先へと、生産拡張の予想計画というのをたててソヴェト同盟は、着々、欧州大戦と国内戦とで低下した生産能力を高めつつあった。
ソヴェトでは、十月が経済年度のかわりめだ。前年度の決算報告が『プラウダ』(党機関紙)『イズヴェスチア』に出る。つづいて、来年度の予定が発表される。──
一九二八年の十月では、世界じゅうがびっくりした。ほかでもない。ソヴェト同盟が、これまでは予想案としてひっこまして置いた生産拡張の五ヵ年計画を堂々と宣言したばかりでない。その拡張計画が素晴らしいものだった。
この計画によると、生産部門が、AとBに分れている。Aは生産手段を製造する重工業部門の発展計画だ。Bは消耗品をつくる軽工業の拡大計画。
先ずAを見ると、大体こういうことになっている。
一九一三年 一九三三年
石炭 二八・九(百万トン) 七五(百万トン)
石油 九・三( 〃 ) 二二( 〃 )
泥炭 一・六( 〃 ) 一六( 〃 )
鉄 九・二( 〃 ) 一九( 〃 )
銑鉄 四・二( 〃 ) 一〇( 〃 )
中略
セメント 一二・三(百万樽) 四一( 〃 )
過燐酸塩 五五・〇(千トン) 三四〇〇(千トン)
農業機械 六七・〇(百万ルーブリ) 四九八(百万ルーブリ)
B 軽工業の方はというと
一九一三年 一九三三年
綿布 二七一(百万メートル) 六二〇(百万メートル)
毛織物 九五( 〃 ) 二七〇( 〃 )
麻布 五〇〇(百万キロメートル)
砂糖 一二九〇(千トン) 二六〇〇( 〃 )
塩 一九七八( 〃 ) 三二五〇( 〃 )
上靴(ゴムの防寒靴だ) 二八(百万足) 七五( 〃 )
Aを見てもBを見ても、生産拡張率はただごとではない。一九一三年、即ちロシアの大衆がツァーと資本主義の治下で苦しんでいた頃の生産と比べると、一番率の低いものでも百七十パーセント、多いものになると、千パーセント、或は六千パーセント、云い直せば十倍、六十倍という巨人的生産増加を計画しているのだ。
しかも、ソヴェト同盟は社会主義によって組織されている世界でたった一つの社会だ。生産拡張膨張した国富を、間で吸いとる者はいない。真直、それは、生産拡張のために努力するソヴェトの労働者農民自身の日常生活の中へ戻って来る。五ヵ年計画は、勤労階級の文化向上のため、文盲撲滅費、住居増築費、学校・病院・托児所増設、食堂の増設、ラジオ・キネマ配布網の拡大費等に莫大な基金を予定している。
生産手段の電化と機械化によって、ソヴェト勤労者の労働時間は、一九三三年に平均六・八六時間ですむようになるだろう。賃金の上昇と、物価の低下によって、一九二八年に比べるとソヴェト勤労者の実際収入は五ヵ年計画の終りに於て七一パーセント増になるだろう。
電力は二二〇億キロワットに、集団農場の耕作地面は二〇〇万ヘクターになるだろう。──ソヴェト工業生産の九二パーセントが社会化され、農業生産は、六五パーセント社会化されることになる。
世界の資本主義国家の御用専門家は、このソヴェトの五ヵ年計画を一目見て、先ず嗤った。ソラまたボルシェビキの誇大妄想がはじまった! と。それから、ブルジョア経済学の理屈を武器にして、けなしつけた。「アメリカほどの生産技術をもっていてさえ、生産全線を倍にひき上げることは容易でない。ソヴェトの工業はおくれている。この計画がもし百年間の計画だと云うんなら、我々は幾分信用できただろう。」
ソヴェト同盟の指導党全同盟共産党、及それを支持する革命的労働者農民及び一般勤労者は、勿論この五ヵ年計画が楽な仕事でないのは知りぬいている。だが、同時に、これが断然一九二八年と三三年との間に於てなされ、着手されたら完成されなければならぬということをも、知っている。
プロレタリア革命の真の勝利は、生産の実力において、資本主義国家の生産を追いぬくことだ。これは、レーニンが強い、明瞭な言葉で云った。
ソヴェトの党とプロレタリアートとは社会主義社会の生産と文化との向上のため、あらゆる努力を費して来た。革命前の知識階級が持っている技術はむろんだ。一九二一年には、党員でさえその大胆さに恐怖した果敢さで個人資本までを、利用した。が、革命第十年において、では、有名なソヴェトの「鋏」はどんな工合になっているか?
鋏というのはこうだ。ソヴェトは農業国として、従来やって来た。一九二八年、耕地面積は戦前の九五パーセントまでにとり戻したが、そこからとれる麦の量というのは、外国に比べると四分の一だ。それは何故だろう。農民は村ソヴェトは持ってるが、アメリカの百姓みたいな農業機械はまだもっていない。四五十年昔の、木と鋤と馬とで、広大な土地の上をノロノロ働いている有様だ。
ところが、都会における軽工業の四七パーセントまでは農村からの原料でやっている。農村には、一九二一年新経済政策以来凡そ百万の富農が出来た。富農はいつも私有財産制への逆転を願っている。
ソヴェトで工業発達のため外国から機械を買うとする。払う金貨は、国内からの麦、木材、麻等の輸出であてなければならない。農村は、まだ集団化されず、社会主義的自覚が足りず、とかく富農の悪影響によって動かされがちだ。都会の軽工業は原料不足から、農民の消耗品をつくる軽工業生産を活溌にやれない。すると農民はブツブツ云い出す。「俺らが都会を養ってやってるのに、ハア、着るもんも穿くもんも工場じゃ拵えね。こっちも、働くの控えべ。」こうなると、都会と農村との経済状態はイタチゴッコに消極化し、衰弱するばかりだ。
ソヴェトの社会主義的生産組織は、まだこの鋏の二つの刃を、強固に結合さすことに成功する程発達はしていなかった。
一方ソヴェトの外は、どんな状態か? 地球六分の五を占める資本主義国家は、ソヴェトが邪魔だ。それは一九一七年来、わかっている。たった一つの、社会主義共和国家ソヴェト・ロシアに向って、行き詰った資本主義国家が侵略的野心を抱いていることは、年とともに明かになっている。
第一ロシアは天然資源が実に豊富だ。資本主義国家が目下苦しんで互にせめぎ合っているのは何か、原料の不足と市場の狭隘ではないか。先ず経済封鎖でソヴェト社会内部にあるいろんな政治的偏向を突ついて、少しごたごたでもしたら、それを機会にワーッと帝国主義連合軍をなだれこまそう。帝国主義の侵略主義者たちの平凡な思わくだ。あの大きいロシアの土地をわけどりその上、資本主義にとってこのましくない社会主義社会の存在をこの地球から追っぱらえる!
だが、世界の資本主義国に年々溢れて来る失業群はどうだ。商品の生産過剰。従って労働賃銀の低下、労働強化。ブルジョア産業合理化によって尖鋭化される万国プロレタリアートの階級的自覚は押えきれない。
生産拡張の五ヵ年計画は、ソヴェトの勤労階級が自分たちの幸福増進のために決心したばかりではない。世界の勤労人民解放運動の前哨としてのソヴェトが富饒な国内の天然資源を百パーセントに活用し社会主義社会の実在の可能を固めようとする意気込みの具体化だ。帝国主義国の社会に対する、最も実践的な歴史的主張なのだ。
計画は大きい。真剣な努力がいる。
一九二八・九年の新経済年度から、ソヴェトでは大じかけに日常生活プログラムの建て直しがはじまった。能率増進のために、五日を一週間とする「間断なき週間」制が実施された。
労働の規律のために、工場内の酔っぱらい、ノラクラ者は厳重に仲間から批判され、往来で、火酒の瓶をズボンのポケットからはみ出させながらフラついてる者は、ごくたまにしか見られなくなった。
キネマの映写幕に、見る。ヴォルガ河の沿岸に組織されかけている大集団農場の有様を。どうだ! ドニェプル発電所の雄大な建設工事は!
フフフフ。昼休み、工場の日向でラジオをききながら『労働者新聞』をよんでたミーチャが、仲間の横腹を肱でついた。
──ウム! 見ろ。こういかなくっちゃならない。いつだね? 俺たちんところでは?
ミーチャのよんでいる労働者新聞には官僚主義撲滅の一般集会で、やり玉にあげられた官僚主義の工場委員が、顰めっ面してさすがバツわるそうに写真にとられている。
官僚主義撲滅は、どこまでも、どこででも行われた。モスクワ・ソヴェトの内部でも。各人民委員会の内部でも。党の中でも同じことだ。
生産のあらゆる場所に能率増進の篤志労働者団「ウダールニク」が組織された。ウダールニクは党員、党外の革命的な男女勤労者を網羅した。
「軽騎隊」は特別に組織された党からの委員とともに、生産機構全般にわたってその内部従業員の清掃に着手した。モスクワ目抜の大通りに、七階の美しい大建築がある。郵電省だ。通用門には、付剣の赤軍兵士が平和に立番している。オートバイや小型自動車にのった郵便収集人が勢よく出入する。わきのガラス大戸の上に、今日もきのうも、赤いプラカートが翻っている。何かの祝祭か? そうじゃない。プラカートには書いてある。「われ等のところで機能清掃が行われている!」
「十月」に勝利した当時、プロレタリアートの技術は低かった。いろんな役人、技師、教授が、古い陣営の中から来ている。この重大な社会主義再建設期に、有害な妨害分子が巣食ってはいないか? とそのための掃除だ。
春、集団農場中央や党の宣伝部から派遣されたコムソモーレツ、専門家たちは、彼等を支持する貧農中農らの働く耕地の泥にまびれながら、富農とその一味との激しい階級闘争を闘った。それは、かけねなしの「農村の十月」だった。或るコムソモーレツは、村の富農に窓越しに射撃されて即死した。
或る村で、積極的な集団農場組織者だった村ソヴェトの役員が、或る日中央からの党員と、管内巡察に出かけた。森にかかった。いきなり道ばたの数丈もある杉の木が彼等ののってる荷馬車の上へ倒れかかって来た。ソヴェトに忠実な二人の活動家は圧死した。杉が倒れたのじゃなかった。その木のかげにいた三人の富農に倒されたのだった。そのほか麦穀倉庫への放火。等々。
富農は財産を没収され、或るものは村から追放された。或るものは、コムソモールを殺した銃で自殺した。
「サラフキへ行かないのかい? まだ。──」
冗談も、一九二九年には変った。サラフキというのは不正なことをしていた技師などが頻々と送られる労働植民地の名だ。
復活祭・降誕祭は、反宗教宣伝の日となり、クレムリンの外壁にあった辻堂などもとりはらわれた。
本屋の店頭は、五ヵ年計画に関するパンフレットの洪水だ。
プロレタリアートの党と政府とは、飛び散る階級闘争の火花の間で、率直にボルシェビキらしく告白している。
国家は金がいる。君等の余分な一哥を! 社会主義建設のために‼
貯金と五ヵ年計画公債への召集だ。
職場のウダールニク達が、汗の中から大衆へ呼びかけた。
プロレタリアートの技術を高めろ! 技術家と熟練工の部隊をプロレタリアートの中から出せ!
一九二九年に、十月革命以来教育人民委員長をしていたルナチャルスキーが、彼の歴史的場所を、ズブノフに譲った。芸術院が改造されピクサーノフ教授、サクリーン教授などが退いた。
この灼熱的な客観的情勢の中で、ソヴェト文壇にあるいろんな作家団体が愈々その階級的立場を大衆によって批判されることになったのだ。
ソヴェト・ロシアは働く人民の国だ。
目下社会主義の社会を建設する過程にある。
また、世界で、ただ一つプロレタリア革命に勝利した社会主義社会として、他の資本主義社会と、全くちがった社会的な基礎の上に立っている。
ソヴェトの文学運動の中核が、プロレタリア文学にあるのは、ソヴェト社会生活の必然である、また、階級の生活的な現実を芸術に表現するものとして、その階級文化の所産・武器としてソヴェト文壇に並存するいろんな流派を指導し発展の方向を示すのがプロレタリア作家団体であるのはわかりきったことだ。
一九二五年に、現在のロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)が全ソヴェト・プロレタリア作家連盟(ワップ)という名称で、第一回の大会を開いた。ルナチャルスキーやブハーリンが列席して演説し、ロシア共産党(ボルシェビキ)の文学に関するテーゼを説明した。
この時、既にはっきりと云われた。プロレタリア作家たちこそ、解放された光栄ある労農階級のものだ。たとえ、現在「同伴者」作家たちの業績がより目立っているにしろ、彼らは社会主義社会の発展につれて変化してゆくものだ。現在は幼稚だとしても、プロレタリア作家の未来は大きい。前進するプロレタリア階級の文化とともに、益々いいものが書けるようになる。ルナチャルスキーは、彼の永い演説の最後を「プロレタリア作家万歳!」という声で結んだ。
同時にプロレタリア文学の発展と完成へ向っての鍛錬は、まったく自力でプロレタリア作家の努力によってされなければならないことも、明瞭に云われた。レーニンは云った。「文学は党の文学とならねばならぬ。」それは、党の方向に一致した階級の文学でなければならぬという意味だ。党のテーゼは言明している。党は文学のいろんな流派が持っている社会的階級的内容を、正確に識別するが、決して、その中の一つの傾向だけに党を結びつけることはしない。「全体としての文学を指導しても、党は或る一定の文学的分派を支持することは出来ない。」「党はあらゆる異った団体及び潮流との間の自由な競争を宣言せざるを得ない。他のあらゆる解決は役所的、官僚的な虚偽な解決となるだろう。」
つまり、党は、プロレタリア作家団体だからと云って、その団体ばかりを特別エコヒイキはしないぞ。ソヴェト同盟内の革命的プロレタリアートと党とは、過渡期のソヴェト社会内のあらゆる異分子と闘い、或るときはそれをボルシェビキ的な指導によって、発展させることによって、実践によって、社会主義社会建設の道を前進している。プロレタリア文学の発達の道も同じだ。多くの流派の間で揉まれ、試され、闘いつつ、自身の文学的実践で自分の道を勝ちとれ。そういう意味なのだ。
階級社会の現実につよく根ざして成長するものでなくて、権力によって調節されたり、特権を利用しなければ権威のないような文学的見地に立つなら、プロレタリア文学は発展も成長もしないという意味のことを云っているのだ。こういう、党の文学に対する態度が、正当であるのは誰でも認めるだろう。
ソヴェトに於いて一九一七年から二一年までは、時々刻々が燃え立つ革命の年であった。
「十月」と同時に散兵して、いろいろな文学の陣営についた作家たちは、めいめいの場所で、ソヴェト文学史の上に、意味ある仕事をした。
新経済政策以後、五ヵ年計画実施までの六年間を一口に云えば、ソヴェトのプロレタリア文学にとって一種の模索時代だった。勿論彼等は勉強していた。主として技術向上のための勉強をやっていた。何故なら、革命当時の、生活の火がペンに燃えついているような作品はもう書けない、「十月」は歴史的に扱われなければならず、「今日」は複雑だ。「十月」を描くにしろ、それは緻密な分析と綜合とをもって注意ぶかく、展望的により高い永続性をもつ芸術的技術で書かれなければならない、立体的にそして現実的に。──革命当時のプロレタリア文学の作品がもっている類型を揚棄しなければならない時期になった。プロレタリア作家が古典や外国文学を勉強していたその数年間に、「同伴者」の作家たちはナカナカ仕事をした。左翼のパプツチキ作家団体の中でも、マヤコフスキーを主とする未来派出の「左翼戦線」または「構成派」の作家、或はプロレタリア団体の中でも左翼的で歴史も古い「鍛冶屋派」などが、一般に作品も多く発表し、読まれた。その理由は、よくわかる。こういう団体の作家連にはプロレタリア作家のもっていない過去の文学的素養がある。言葉を使いこなし様々の題材をくっきりと表現し、読ませてゆく腕はもっているのだ。
ソヴェトのプロレタリアートは、一年一年と、ただの「読者」、文学の消費者ではなくなって来ている。凡そ五万七千もある労働者クラブには、文学研究会、劇研究会がある。ロシア・プロレタリア作家連盟から指導者が出かけて、そこで研究をやる。毎週十五カペイキの『小説新聞』が出る。工場新聞や、壁新聞、これはみんな職場のプロレタリアートによって書かれる。三十万人からいる労働通信員、農村通信員が直接書くのは、政治・生産に対する階級的批判だ。けれどもこういう根本的なソヴェト社会生活の事実を記録し批判してそれを書いてゆく訓練は、芸術作品に対してもより積極的な鑑賞の水準を与える。或るものは、自身短篇小説や論文を書き出している。──確実で増大率でソヴェトのプロレタリアートは自身が文学の生産者となりつつあるのだ。
五ヵ年計画がはじまった。アメリカに追いつけ! そして追い越せ!
生産、文化。ソヴェト社会生活全線にわたる社会主義的競争へ! の召集。
ロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)は、五ヵ年計画とともに、従来やって来た文学研究会指導の領域をもっと広く、建設事業と密接な社会的活動へとひろげた。
「ラップ」は文学ウダールニクを組織した。ソブキノの撮影隊はカメラをもって、「トルクシブ鉄道」布設工事の現場へ、ヴォルガ地方の集団農場へ、バクーの油田へ、出かけて行く。文学ウダールニクの道具は鉛筆とノートだ。彼等は新たに建てられた農具工場、セルマシストロイへ出かけた。シベリアの集団農場や、ドンの炭坑、ゴーリキーの故郷ニージュニ・ノヴゴロドに立てられたソヴェト・フォードの自動車製造工場へ行った。
文学ウダールニクは、五ヵ年計画によってそこに開始された新たなソヴェトの生産の偉大な拡大をまのあたり観た。革命的プロレタリアートと農民とが、どんな決意と努力で、村や職場にウダールニクを組織したか。農村の集団化と工場内の社会主義化は、ソヴェトの大衆の日常生活にどんな変化をもたらしたか。尖鋭化された国内の階級的対立は、どんな心理を発生させているであろうか。現に「ラップ」の二人の作家は富農とその一派の農民のテロルによって殺された。ソヴェトの「あらゆる物質的イデオロギー的富源と共に勤労階級のもの」であるラップの作家が、この歴史的飛躍の瞬間に、どんな芸術活動をもって、文化建設に参加するべきか、その具体的な方法が発見され、達成されなければならない。文学ウダールニクは、先ずその基礎的勉強として前進した。真直生産に従事する「大衆の中へ!」
「ラップ」の機関誌『十月』やまた、『文学新聞』『成長』『イズヴェスチヤ』などに、その文学ウダールニクの手記、記録がのるようになった。
それ等の手記や記録に、所謂芸術的磨きはかけられていない。然し、例えば遠いシベリアの奥で、農村が集団化され、播種面積が予定より五パーセント拡大された。その何平方露里かの社会主義化のかげに費されたソヴェト農民集団の階級的努力が、地味に、正確な数字と、見聞の記録によって速かに報道されているのだ。
ソヴェトの労働者と農民とは、十一年前に、やっぱり全線的な階級闘争をやった。それはあの忘れることのできない「十月」だ。今、再び五ヵ年計画によってソヴェトの勤労階級は全線的に自身を動員し、立ちあがった。が、「十月」時代の英雄主義と、現在社会主義建設のためかくれた功績をつみつつあるプロレタリアート農民の英雄主義とは、まるで、心理も、表現も違う。
一九二八・九年のソヴェトの英雄は、銃を持ち血走った眼で森の中にかがんではいない。槌をもって、或は動力のスウィッチの番をして、工場の粘りづよい労働の中にいる。耕作トラクターの油と耕地の泥にまびれながら、或は村の橋ぎわにマホルカ(下等煙草)ふかしながら、貧農と今夜の村ソヴェト集会について話している若者の中にいる。「ラップ」の作家たちは、それ等を記録するに空虚な形式上の目新しさが何の役にも立たないことを学んだ。誇張的な形容詞や、感歎記号や、ただ行を切りはなして、
彼等は
働いている
工場で‼
と書いたりすることは、ちっとも必要でないことを、自得した。階級としての人間の集団と集団との関係。人間と機械との関係。それ等は、具体的な社会主義社会建設のための諸活動の光で明るく照らし出され、文学の創作方法として久しく問題にされていたプロレタリア・リアリズムの道が、現実の中から現われて来た。
* ソヴェトの五ヵ年計画実施とともに現われたプロレタリア文学のこういう形態を、今日各国で、報告文学と呼んでいる。しかし、その命名親は、範疇ずきのドイツ人だ。本家のソヴェトでは、どんな名もつけてはいない。
「ラップ」は、こうして作家を生産の現場へ送りこみ、大衆に近づき、再建設期のプロレタリア文学としての任務を自得しつつ、一方に他の文学陣営との間に理論闘争を、開始した。
五ヵ年計画を機会に、ソヴェト文学のいろんな流派が、それぞれの本質をあらわにしはじめたからだ。
第一、「同伴者」作家団の問題がある。
一九二五年の文学に関する党のテーゼは、注意ぶかくこの問題にふれている。「同伴者」作家たちが持っている文化・文学的技術の上に専門家の多いこと、「同伴者」団体の内にも必然的な動揺があること。それ等の点を考慮して、「同伴者」作家の一部にあるブルジョア社会観・文学観と闘いつつ、一刻も早く彼等が革命的プロレタリアートの陣営に参加し得るように導かなければならないとした。プロレタリア作家団に対しては、同年の大会のとき、「同伴者」に対して左翼小児病に陥ってはならないと特別にルナチャルスキーも注意を与えている。
その後「同伴者」作家たち自身は、どんな自己批判と発展をとげて来たか、どんな態度で、進展するソヴェトのプロレタリア文化に功献して来たろうか。彼等の多くは、本が売れるにつれていつの間にか、書斎の中でヤーエンコしはじめた。革命当時、「装甲列車」を書いたフセワロード・イワーノフは、ロイド眼鏡こそ昔のままだが、気力のない、階級性欠落状態で昔の思い出や個人的な心理描写をはじめた。
現実の生活で、ソヴェト勤労者の日常と次第に遠くなった彼等は、目立たない日常些事の中で若い労働者や農民たちがどんな探求と建設とを行い、未来への闘争を準備しつつ新しいソヴェト人として成長しつつあるか、その生きた姿を認めそれを評価する機会と熱心さとを失った。実際生活が個人主義へ逆転するにつれ、その文学の新鮮さも失われた。あともどりした自然主義と、低徊的心理主義とで、「同伴者」は、自身の同伴すべき道から逸れはじめた。
そこへ五ヵ年計画がはじまった。そして「赤い木」の事件で、「同伴者」は最後の限界につき当った。
「赤い木」というのは、「同伴者」の旗頭、ピリニャークの小説だ。一九二九年にそれを書いて、ピリニャークは原稿を『赤い処女地』の当時の責任編輯者ラスコーリニコフに見せた。ラスコーリニコフは、十月革命当時、軍事革命委員の一人としてレーニンとともに活動した党員だ。彼は、原稿をよんで、政治的な部分は根底から書き直す必要があると注意した。「赤い木」で、ピリニャークは農村の社会主義化、即ちソヴェト五ヵ年計画の意味を決定する根本的な大事業を扱った。それを、全然反動的見地から扱った。「ソヴェトにおける経済政策は都会に於ては革命前の時代からあったものを徐々に食いつぶして行くことを余儀なくさせ、農村においてはそれは裕かな几帳面な一家の主人を、貧農にかえるべく、風の吹きとおすあばら家一つの持主にかえるべく、向けられている。」と。
おまけにピリニャークは、断言している。我国にはいかなる社会主義的組織もないと。農村集団化の問題は困難な実践だ。ソヴェトの作家たちでも、富農撲滅の必然性を把握することのできないものが少くなかった。一九二一年の新経済政策以後は、農民に雇傭労働の自由や、土地の賃貸借、収穫物の自由売買等が許され、それが段々農村に於ける資本主義への後もどりとなった。その結果一九二七・八年、秋、政府は、富農の妨害にあって、麦の買いつけに大困難し、一種の強制買付を行った。
「だが、富農は遊んで食って富農になったんじゃあない。彼等はつまり他の農民より稼ぎ手だったと云うに過ぎない。ソヴェトに彼等は必要だったのだ。それをどうして今急に撲滅しなければならないのか?」多くのものがこう云った。が、そういう人たち自身がその答えを与えているではないか。問う人自身が既に、「ソヴェトに彼等は必要だった」と云ってるではないか。とりも直さず、彼等の必要はもう過去のものとなっていることを語っている。情勢は推移する。社会主義建設に向って推移しつつある。嘗て「成金」は個人資本をソヴェト生産内に流用したことによって役に立った。しかし、今日誰がネップマンの必要を認めるか。ネップマンが、儲け専一のブルジョア企業家の滓であり、ソヴェトの社会建設に入用だったのは彼等の階級でなかったことは明かだ。富農も社会主義建設への過程的な現れだった。それが、前進しようとするソヴェト生産の社会主義化を妨げるほど、階級として過渡に発達したなら、それは揚棄されなければならない。
ピリニャークは、この事実を理解しなかった。更にそれ以上の階級的裏切りをやった。ラスコーリニコフが忠告した時、この原稿は草稿で、長篇の中へ入れるときは書き直すつもりだ、と云っておきながら、ピリニャークは原稿をそのまま、レーニングラード対外文化連絡協会の手を経て、ベルリンへ送った。白系移民の本屋「ペトロポリス」が、よろこんで直ぐ出版した。
一九二五年、党は「同伴者」の反プロレタリア的・反革命的要素が「現在では極く僅かしかない」と認め、前述の忍耐づよいテーゼを出したのだ。「赤い木」の場合にピリニャークがとった態度は果して彼の「極く僅かしかない反革命的、反プロレタリア的要素」を示しているだろうか。
同伴者の裏切的な態度に対して、つよい批判を向けたのは、「ラップ」ばかりではない。勤労大衆の中から一般的非難が起った。
ピリニャークは、生れつき胆の太い男だし、従来、ソヴェト文学の領域で同伴者に許されていた地位を過大評価していた。今度は彼もあわてた。理由にならない理由を並べて弁明しようとした。どんな弁明も、明らかにされたこの同伴者作家の反革命実践はとり消さない。憤ったソヴェトのプロレタリアートはピリニャークに階級の敵を感じた。
ピリニャークは、ロシア作家協会の議長をやめた。ロシア作家協会は改造され、名称をソヴェト作家協会とした。これは、ピリニャーク一人が、ソヴェト文壇の目立つ地位から退いたことではない。漠然としたロシアの作家協会ではなく、ソヴェトの=社会主義社会での文学団体としての本質を明瞭にしたわけだ。
それまで、「同伴者」に属していた若手の作家の或るものは、「赤い木」の事件によって、はじめて自分のいた陣営の正体を知り、「ラップ」に加盟した。
全露農民作家協会というのがある。
これは、ソヴェトの現実に於て、まだ都会のプロレタリアートの状態と農村の状態とは、あらゆる点で違うという客観的情勢の上にたって存在してきた農民作家の団体だ。一九二五年の党のテーゼは、こう云っている。
「農民作家は友情的待遇で迎えられ、我々から無条件の支持を受けなければならない。我々の任務は、彼等成長しつつある一団を、プロレタリア・イデオロギーの軌道に導き入れることにある。但しこの際決して、彼等の創作から、農民に影響を及ぼすために必要な前提条件となる、農民的な文芸的形象を根絶すべきではない。」と。
だが、農民作家の間には、昔のムジーク風な民族主義の傾向がつよく残っている。彼等は現代のソヴェト農民が過去の社会制度の置き土産としてもっているものの考えかたのテンポのおそさ、懐疑癖、漸進性(保守性とまるでくっついた)その他いろんな心理や習慣を、追々進んでゆく社会主義の生産組織へ変ってゆく可能のある要素と見ず、それ等の特性そのものがそれとして価値のあるロシア的なものであり、ロシアを救うものだという考えかただ。
農民作家自身、ソヴェト農民は、農村の社会主義生産の拡大強化によって、一日も早く農業生産に従事するプロレタリアートとしてのイディオロギーを把握し、理性のあきらかな階級人として成長しなければならないことを、あまりよく理解しない。農民作家の任務は農民的文学の過渡的な形式や手法を併用しつつ、都会のプロレタリアートと階級的な立場に於ける、相互の利害で協力しあう単一な「結合」への自発性を刺戟しなければならない。
農民作家は人民解放の全線の推進力としての農民を見、農民を発展性において扱うべきなのだ。
農民作家が、ソヴェト農民の特殊性にとらわれすぎて、どこかで、誤謬を犯している実例は、面白いところに現れている。現在までに、ソヴェトの農村に取材したいい作品を発表しているのは、農民作家ではなく、かえってプロレタリア作家だという事実だ。この事実は雄弁にわれわれに告げる。既に現代、ソヴェト農民の特殊性は、風がわりな婚礼の儀式や、民謡、服装、言葉づかい、または懐疑的であると同時に大胆不敵で執拗な、そして時によって狡い、所謂ロシアの百姓気質にあるのではない。それ等が一まとまりになりつつ、農民から農業労働者にかわろうとする、その歴史的推移の諸現実が、文学によって再現されるべき特殊性なのだと。──
五ヵ年計画は、農民作家たちにとって画時代な経験としてあらわれた。
ところが残念なことに、「同伴者」内の或る作家が階級の敵としてあらわれたようにこの農民文学の陣営からも、小さくない敵が発生した。敵というのは「工業化主義者の職場」という全露農民作家協会内の一味だ。
農村における五ヵ年計画の根本は、生産手段の工業化だ。人間の手足と、馬と木の鋤を耕地からなくして、トラクターで耕し、蒔き、苅入れようというのだ。集団農場化は工業化を基礎としないでは成立しない。この一味の名称は一見いかにも階級的で、五ヵ年計画の課題にこたえているようだ。
そこが手だったことを「ラップ」は発見した。革命的な、左翼的スローガンをかかげ、この「職場」に属す作家たちは、段々「ラップ」と党の文学的組織の中へ潜りこんで来ようとした。潜りこんで戦線を乱し、文学的運動を通じて農村における集団化の仕事を擾乱し、農民を反ソヴェト的団結に導こうとする計画だった。政治的な面ではブハーリン等を中心として農村の集団化をさまたげている反革命の分派が、農民の文学運動に潜入してトラクターその他の農村工業化の手段を富農層によこどりしようとするこんたんであることが判明した。
「ラップ」に加盟しないプロレタリア作家と「同伴者」左翼とがあつまっている「ペレワール」という団体がある。ソヴェトの文学理論家として有名なウォロンスキーが組織者だった。
ウォロンスキーは党員だ。そしてマルクシストだ。文学理論家としても、彼には認めるべき功績があった。ウォロンスキーは、将来、よいプロレタリア作家を出す層としてコムソモール、労働・農村通信員、労働大学の若者たちに党の着目を向けた。検閲の改正を或る程度まで寛大にしろと云ったのも彼だ。プロレタリア作家の物質的条件の改善、文学の仕事の特長として特に作家の住宅問題が解決される必要を云った。『赤い処女地』の編輯者として、多くの若手作家を紹介した。そして、一九二四年代に、プロレタリア作家たちが、「工場的抽象的ロマンチシズム」に立てこもり、現実から離れた不自然な楽観主義で、所謂「木造の赤い聖画」(空虚な宣伝文学)制作に満足しているべきでないこと、過去の文学の伝統に対する清算主義を批判したこと等においてウォロンスキーは誤っていなかった。
然し、当時からウォロンスキーはプロレタリア文学理論の中に、人道主義の要素をこねまぜる弱点があった。当時擡頭しはじめた「同伴者」に対して、彼等に共産主義的なイディオロギーを求めるのは無理だと云った。マルクシストで党員だけれども、ウォロンスキーは、文学好きで、文学の好きかたは芸術至上主義に陥りやすく、彼の文学理論には二元的な分裂がある。純粋の文学と、宣伝文学と二つが別なものとしてウォロンスキーに認識されている。純粋文学制作において、作者の政治的認識は問題にする必要ないという考えが、「ペレワール」の理論的柱となっている。ウォロンスキーのこの二元的な種別はあきらかに間違っている。
現在ソヴェトの作家が社会主義を建設しつつある社会のなかに住みながらその社会から取題して小説を書き詩を書くのに、どうして政治的認識ぬきで、題材の正確な、階級的把握が可能だろう。「ラップ」のキルションが、一九三〇年の党大会における報告演説の中で、「ペレワール」のこの傾向に触れた。「いや、我々は云わなけりゃならない。現在こそ、今までの何時よりも、ソヴェト作家の各層に、政治的立場の決定を要求しなければならない時なのだと。」この発言には前進するソヴェト社会の必然が語られている。
ソヴェトのプロレタリアートは革命以来、目のまわるような十数年を生きた。四方八方で新しい社会への基礎工事がはじまり、そのために有用な知識は、どんなものでも生かして使われた。マルクシストと自称する一群のレーニン主義を理解しないマルクシストさえ、「マルクシズム同盟員」として、働きを与えられていた。
五ヵ年計画はソヴェトの建設政策の歴史の上でも、最も具体的なレーニン主義的な現実変革の一例である。この歴史的な発展期に「マルクシズム同盟員」のこれまでの考えかたのあやまりが明瞭になったのはこのウォロンスキーの例ばかりではない。やっぱりソヴェトのマルクシズム文学理論家として、モスクワ大学に講義しているペレウェルゼフ教授も、現実によってきびしく批判された。
ペレウェルゼフの誤謬は、機械主義にあった。彼の考えかたによると、主観は客観条件の全然機械的な反映だということになっている。文学理論にそれをあてはめると、社会の客観的事情が、ただ作家の主観をこしらえるだけで、作家の主観が客観的事情へ能動的に働きかけるという事実は、勘定に入れられないことになる。具体的に云うと、純粋のプロレタリア出身の作家だけが、プロレタリア革命を理解し、プロレタリアートの党としての共産党の意味を理解し、社会主義建設もわがものとして実感する。小市民インテリゲンツィア出身の作家連が、右にそれ、或は反動化するのはソヴェトの現実に反革命運動が存在する客観的条件がある以上やむを得ぬ事実として見よという、主体性のない日和見主義的プロレタリア文学論をでっち上げる結果になってしまう。
現代ソヴェト文学の各方面に活動しつつある理論家としてのペレウェルゼフと、「ラップ」は熱心な理論闘争をやった。「ラップ」ばかりではない。コムアカデミー内の文学言語部で一九二九年の冬から三〇年の一月にかけて、ペレウェルゼフの文学理論に対する討議が行われた。『文学新聞』『印刷と革命』『文学前哨』などの紙面はプロレタリア文学を前進させるための理論闘争のため澄んだ叫び或は濁った響で鳴り轟いた。
ところで、最も注目すべきことは、このマルクシズム同盟員たちの文学理論への批判が高まると同時に負けず劣らず旺盛な自己批判が、「ラップ」陣営内に開始されたことだ。
一九三〇年、二月、マップ(モスクワ・プロレタリア作家同盟。ラップの地方組織)大会が開かれた。
これはソヴェトのプロレタリア文学運動にとって記念すべき大会の一つだった。この大会のとき、マヤコフスキーの組織する「革命戦線」及ウェーラ・インベル、セリヴィンスキー等の属する構成派の「ラップ」加盟が問題とされた。一九一七年来功績あったマヤコフスキーと構成派に属する若い二三人のプロレタリア作家が「ラップ」にうけ入れられた。
五ヵ年計画の実践をとおして、階級意識を一層たかめられたソヴェトの勤労人民は、マヤコフスキー一派の、言葉の英雄主義では満足しなくなった。構成派が革命に対するインテリゲンツィアの任務を過大評価している点、的はずれな機械力への讚美、生産労働に対する異国趣味を、はっきり批判するようになって来た。成長した大衆からの批判は、これ等団体の自己批判を刺戟し、「ラップ」加盟の動機となったのだ。
「ラップ」は新しい加盟者たちが、彼等との共同戦線において更にプロレタリア・イデオロギーの把握に努力すること、そのまんま入って来て、そのままにのこるのではなく、実践に於てよりよい階級の文学的闘士であることを証明すべきことを条件として、この加盟を歓迎した。
「鍛冶屋派」も合同案を提出した。が、これは、「ラップ」が、その中から或る数人だけの参加を可決したのに対し、「鍛冶屋派」は、団体全体をそっくり合同させたい希望で、大会では決定しなかった。(後、「ラップ」の詮衡委員会が組織され、この問題の実際的解決に努力している。)
さて、「ラップ」陣営内における自己批判の問題だ。「一週間」の作者リベディンスキーは、ソヴェトのプロレタリア作家として、世界的に知られている。彼が「英雄の誕生」という長編を雑誌に連載しはじめた。丁度、五ヵ年計画の実践によってプロレタリア・リアリズムの問題が発展しつつある時だったので、この大作は、サークルをこめてすべての文学陣営から非常な注意をもって迎えられた。
同じ「ラップ」に属する詩人で、ベズィメンスキーという人がある。詩人の中での重鎮だ。彼のもっている文学理論が、これまでも頻りに「ラップ」内で批判の目標となった。例えば、彼に詩劇「射撃」という作がある。ソヴェト五ヵ年計画開始とともに、或る電車製作工場に生産能率増進のウダールニクが組織され、若い男女のコムソモールを中心とする工場内の自発性が、どんな階級的闘争を職場で経験したかという歴史を扱ったものだ。
「射撃」の主題は、再建設期のソヴェトの現実からとられている。それはよろしい。「ラップ」内で問題になったのは、その活きた社会的主題を、ベズィメンスキーがどう解釈したかというところにあった。
ベズィメンスキーは、工場内のウダールニクと妨害分子とを、単純に赤色の善玉悪玉式に対立させた。階級的悪玉は、はじめっから終りまで悪玉。善玉の方はと云えば、どんな小さい誤謬も犯すことのない綱領的な存在として、「射撃」の中に描写されているのだ。「ラップ」はその点に現れているベズィメンスキーの非現実的な機械的党派性を指摘した。
職場のウダールニクが、妨害分子の中に必ずまじっているに違いない中間的なフラフラ分子の中を、出来るだけ建設戦線へ引きこんで、捏ね直そうと努力してない「射撃」の描写は、非現実的だ。党はウダールニクに、そんなセクトの戦術は指令していない。また、この戯曲の中で集団としての反革命的な労働者たちが、終始一貫、気のそろった獣たちで、社会情勢の推移によって当然起る矛盾や動揺、分裂をちっとも示していない。これも、社会生活の実際とは違う。──
こういうベズィメンスキーの機械的マルクシズムを、リベディンスキーは、「ラップ」の中でも、盛に批判した。
その大衆的批判に向って、ベズィメンスキーは、元ペレウェルゼフ派の理論家ベスパーロフと、共同戦線をはった。ベスパーロフは、理論上清算はしたが、機械主義マルクシストの欠点をすてきっていない。彼に云わすと、「現実には、肯定と否定の両極しかない。善と悪。ソヴェトの現代ではそれがハッキリ分れている。」ベスパーロフが限定している芸術家の任務は、「その両極の尖鋭化された争闘を描写することを自得することだ。」そしてベズィメンスキーは、「射撃」における革命的善玉悪玉の飛躍で、「唯一の」階級的芸術家の任務を自得したと信じた。
だが、誰にでもわかる通り、これは誤った極左機械主義だ。「ラップ」が、現実から闘いとったプロレタリア・リアリズムの本道は、こういうところにはない。そこへリベディンスキーが「射撃」と全く反対な立場で執筆している「英雄の誕生」をもって現れた。ソヴェトの大衆と文壇が注目したのはあたりまえだ。
「英雄の誕生」の主人公は、ボルシェビクである古い党員で、革命のよい働き手だった。リベディンスキーは、この党員の私的な家庭生活を主題にとった。よい同志であった妻の死後、主人公は、その妻への愛と一人息子への愛のために久しい間独身生活をつづけて来た。彼のところには妻の妹が家政婦のようにして一緒に暮している。主人公の党員は彼女に対して女としての関心を一向感じず何年も暮して来たのに、或る日、その妹が髪を洗いかけて、乳房を出している姿を偶然見た。
党員は急に魅惑された。党の仕事机に向っていても、その義妹の胸が目さきにチラつく。眠れない。苦しい。死んだ妻にすまなく思う。等々、大いにそのもだえを持ちまわって、遂に義妹と性的交渉をもつようになる。しかし妹は同志ではない。ただの家庭的な女だ。党員は不満になる。ピオニェールである彼の息子が、父親のそういう家庭生活を批判する。党員は、到頭、どっか遠い地方へ出張してしまう。そこで連載が中絶した。というのは、実にすさまじい大衆の批判がこの作品に対して、まき起ったからだ。
リベディンスキーが、「射撃」の作者に対して、心理描写も、プロレタリア・リアリズムにとって欠くことの出来ない一つの要素だと云った時は、間違っていなかった。「英雄の誕生」でリベディンスキーは、では、どんな階級性や、社会性をもった心理を描写しているだろうか?
党内の或るものや、コムソモールはリベディンスキーを公然と非難した。経験あるボルシェヴィキは、「英雄の誕生」の主人公みたいな解釈や態度を性慾に対してもってはいないんだ。彼等は云った。自分一個の性慾の苦しみを、党の仕事机の前でもってまわって念いれて噛みなおし、味いなおし、さもそれが重大な社会建設の中枢にふれた精神作業だとでも思いこんでいるような間違いはしていないんだ、と。
リベディンスキーは、彼の持論である心理描写において、全く個人主義的な立場での心理穿鑿に陥ったばかりではない。人間の性慾というものの扱いかたにおいて、ウォロンスキーが「世界を見る芸術」という論文で云った一種の生物主義にまで近づいてしまった。ボルシェビキだって人間だ、人間であるからは性慾に苦しむこともある。という人間生物論めいた見解に陥った。しかも、作者は、そういう個人的な心理穿鑿をまるでくどくて飛躍のない、眠ったい自然主義的な手法で叙述しているのだ。
リベディンスキーは、この「英雄の誕生」において、生物としての人間が社会的な階級人として成長をとげた歴史的な現代のソヴェトでは人間本能=性的慾求、食欲、知識欲という諸要素をどんな自主性と社会的見とおしで処理しようとしているかという事実について初歩的な理解と共感さえもっていないような態度を示した。
リベディンスキーは、「英雄の誕生」の弁明において云った。自分は、この作で、全然新らしい社会的結合としてのソヴェトの家庭の意味を書こうとしたのだ。ソヴェトにおいては家族制度の問題や、家庭内の男女同権の問題はもうすんでいる。男と女とが同等なものとして結合したところから発足して、子供を育てるということにソヴェト家庭の持つ全然新らしい意味を捕えようとしたのだ、と。
けれども、この云いわけは、リベディンスキーが連載した小説そのものが曝露している誤謬を訂正しまい。何故なら、リベディンスキーが男と女とが同等なものとして結合する、という同等の焦点が性にだけ集中されているのだから。ベズィメンスキーの極左機械主義にまけずプロレタリア・リアリズムの本質をゆがめている。
ソヴェト大衆が盛に「英雄の誕生」について議論し、「射撃」でやっつけられたベズィメンスキーが、今度は逆に、リベディンスキーとその前進性のない心理穿鑿主義をやっつけている四月に、「ラップ」に加盟したばかりだった「革命戦線」の詩人マヤコフスキーが自殺した。
マヤコフスキーは精力的な、熱い、革命の歌いて、詩人だった。彼は前進するソヴェトの社会主義建設の歌いてとして、いつも最前線にいることを欲した。だから、自分が主として組織していた「左翼戦線」を、「革命戦線」と改めた。再建設期のソヴェトの文学運動において当然指導的な任務をおびる「ラップ」へも加盟した。マヤコフスキーが、詩人として天性の言葉に対する敏感さ、大胆な使用法を敢行する技術を身にそなえているにかかわらず自殺したのは、根本において、ソヴェトの根づよい、建設的なリアリズムが、彼の、詩的英雄主義を揚棄したことを意味する。マヤコフスキーの死は、エセーニンの死のように、革命的なプロレタリアートの歩みゆく途からはぐれて起ったものではなかった。彼は、常にプロレタリアートと革命とのために第一線に立って、歩いて、歩いて来たが力つきて、倒れた。疲れることないプロレタリアート大衆は、その屍をこえて更に前へ! 前へ! 社会主義建設に向って前進しつづける。
真情のこもった大衆の丁寧な、告別をもって、プロレタリア文学史の上の一つの出来ごと、マヤコフスキーの死は弔われた。
「ラップ」内の自己批判は、この事件によっても中断されなかった。
ベズィメンスキーは、ソヴェト大衆の声高い遠慮ない批判の最前列にたって、六月、レーニングラードに開かれる「ラップ」大会に前進した。「ラップ」は分裂するかと思われた。が、リベディンスキーは自分の誤謬と、大衆の批判が正当であることを承認し、「英雄の誕生」連載を中止した。
「ラップ」は勇敢にこの激しかった内部の自己批判を、プロレタリア文学発展の一過程として、七月の第十六回ロシア共産党大会を迎えた。
スターリンはソヴェトのプロレタリア文学が、再建設期において益々大衆と生産に接近し、ボルシェビキ化することを演説の中で提言した。
「ラップ」からはキルション、ベズィメンスキー、セラフィモヴィッチの三人が代表として大会に出席した。「ラップ」がプロレタリアの階級的作家団体として経て来た過去二年間の闘争をキルションが報告した。彼は、偽りない態度でプロレタリア作家のまだ清算しきれない欠点として、文学制作に於ける唯物弁証法的手法の不十分な獲得について云った。しかし、「今こそ、プロレタリア作家は、党の中央委員会の文学に対するテーゼにおいて課せられた任務──プロレタリア文学の指導権を闘いとるべく前進している。──それは事実だ」。拍手。「同志! われわれプロレタリア作家はただ書いたばかりではない。書くために、実際革命に直接参加しなければならないことを認めて来たし、認めている。党の委任に従って、党の出版物の委任に従って、我々は多くの任務も果した。我々は階級的敵と作品を武器として闘ったばかりではない、面と面つき合わして闘ってきた。今年、二人の地方ラップ(プロレタリア作家同盟)指導者が農村で富農のために殺されたことは偶然ではない。我々は、これまで嘗て書斎に閉じこもっていたことはなかった。これからも閉じこもらない。我々は社会主義建設の直接な参加者になりたい。我々の創作が党の手によって我等の敵に対する武器となることを希うのだ。」
キルションは、ソヴェト各地方の党機関が、支部ラップに対して、これまでより一層注意ぶかい支持者となることを要求した。階級的文学運動のための働きが、党、赤軍内での働きに比べて、傍系的な、場合によっては劣った仕事だと考えたがる党員の偏見を、彼は滑稽に描写して代表を笑わした。
そして、キルションが、最近のプロレタリア文学の代表作として六十の作品を列挙して読み上げた時、大劇場にいっぱい詰っている党代表者たちは、あっちこっちから元気に叫んだ。
──足りないぞ! 足りないぞ! もっと沢山待ってたぞ!
これは、嬉しい鼓舞ではないか! 全ソヴェトの大衆は、ほんとに待っているのだ、彼等のプロレタリア作家が、百も千も、いい彼等の文学的生産を示してくれることを。
報告された作品と著者。
アフィノゲーノフ 「恋人」「マリーナのジャム」
ベードヌイ 多くの、読者に知られている傑作。(毎日の『プラウダ』にのせられる詩作を中心として)
ベズィメンスキー 「射撃」
ボグダーノフ 「最初の娘」
ブスイギン 「お喋りになった」
ウィシニェフスキー 「第一騎兵隊」
ゲラシモフ 「詩集」
ゴルバートフ 「細胞」「我等の市」
ゴルブーノフ 「氷片」
グローモフ 「十字架のために」「馬牧」
ジャーロフ 「第一候補者」「詩集」
ザビヤーロフ 「堤」
ザルカ 「勇敢な裁縫女」
イリエンコフ 「アノーハ」
イリョーシ 「ティッサが焼ける」
イーズバフ 「銃と本をもって」「破滅」
カラーワーエヴァ 「製材工場」「門」
キルション 「レールは鳴る」「麦」「風の町」
クリャージミンスキー 「ギター」「若者」
コーチン 「村娘」「農村通信員の手記」
ラヴルーヒン 「英雄の足跡を」
リベディンスキー 「曲り角」「丘陵」「英雄の誕生」
オワーロフ 「饒舌」「赤と黒」
パンフョーロフ 「ブルスキー」(貧農組合)
プラトーシュキン 「道で」
ポレターエフ 「詩」
スビョートロフ 「詩集」
セラフィモウィッチ 「争闘」
スタフスキー 「コサック村落」
スルコフ 「詩集」
ファジェーエフ 「ウデゲからの最後の者」
チュマンドリン 「ラブレ工場」
チュルキン 「氷片」(戯曲化)
ショーロホフ 「静かなドン」
シュウェードフ 「ユールバザール」
ユーリン 「詩」
エルドベルグ 「支那小説」
ヤセンスキー 「パリを焼く」
注目すべきは、この表に、多くのコムソモール出の作者の名が現れたことだ。彼等はドンバスの炭坑から、ヴォルガ沿岸地方から、またごく辺鄙な農村から出て来たコムソモール達だ。
例えばラップの事務所へ行って、何か質問をする。黒地に赤糸で縫いをしたルバーシカを着た快活な青年が、親切にだが到っててきぱき応待してくれる。事務員ではない。彼は作家だ。この表にも名の出ているチュルキンだ。──若いソヴェトのプロレタリア作家たちは、見かけからして、ブルジョア作家の病的な特性をすてきっているのだ。
第十六回党大会は終った。五ヵ年計画第三年目の新経済年度が近づいた。ソヴェトのプロレタリア作家団体と一般労働大衆との間には、これまでにない親和感が生じ、一層精力的な交渉が開始された。
党大会で、「ラップ」からの代表の一人ベズィメンスキーは、長い詩の形で行った報告の中で読んだ。
我々は持っていない
卓越したプランを
ウン。別なプランは
無いんだ。
つまり、ソヴェト五ヵ年計画の生産経済計画が「ラップ」の作家にとっても最も基本的な階級的プランだというわけだ。
「ラップ」は、文学におけるこの生産経済計画の扱いかたを自己批判し、三〇年の秋から、労働者クラブの文学研究会指導方針を、すっかりかえた。これまで、文学研究会は、狭い、幼稚な文学趣味に毒されていた。工場で生産に従事している若い労働者が、七時間労働を終って研究会の椅子へ坐ると、彼の頭からは職場も生産経済計画の数字もけし飛ぶ。労働しているときとは眼つきまで別人のようになって、自分たちの建設的労働を外から眺め、大いに凝ったつもりの詩をそれについて書く。そして、文学研究会の机のまわりでだけ通用するような仲間の批評に熱中する。しかも、基礎的な文学の勉強は組織的に行われていず、党大会の前に作家団と作家団との間に行われ「ラップ」の内部にも行われた社会現実を土台とした意味深い文学上の理論討論について、或る研究会では何にも知らなかったという実例があった。「ラップ」はそれで驚いた。プロレタリア文学の普及は、そういう風に労働と分裂して行われることがあっては邪道だ、それでは真に前進的な勤労大衆の中からよい作家を導き出すことも出来ない。文学研究会の指導は、あくまで生産に即して行われなければならない。文学研究会気質を撲滅せよ!
文学研究会員の前へ、あらゆる工場の壁新聞、工場新聞が、彼等の活動場面として見直されるべきものとして「ラップ」によって呈出された。文学研究会員たちよ、お高くとまって間違うな。諸君の文学的訓練は、再建設期にあって、生産経済計画充実のために、どう文学的技術を利用し得るかという具体的な習練からはじまるのだ。
活々として人の心をとらえる階級的な文学の言葉、表現をもって、生産経済計画充実のために、プロレタリアートの自発性を鼓舞すること。これがソヴェト文学研究会員の第一の任務となって来た。
文学の仕事は全プロレタリアートの任務の一部分とならなければならない。
「ラップ」は、ファジェーエフを議長として、モスクワへ千人ばかりの労働者文学ウダールニクを召集した。いきなり工場から来た精鋭なプロレタリアート前衛等だ。
社会主義的なソヴェト生産と文学との戦線統一への具体化は、職場にあるプロレタリアート側からも、作家団に働きかけられた。
革命的労働者農民は文学のボルシェビキ化の実践として、彼等の作家とその制作を、積極的に援助する決議をした。勤労人民である読者として批評するだけではない。全然文学的ではないプロレタリアートも、彼等の作家の活動に必要な生産についての専門的説明または職場の生活描写の指導によって協力しようというのだ。これはソヴェトでも初めてのことである。
「労働者の、文学に対する師匠的役割」の決議には、モスクワの自動車工場「アモ」、電気工場「ディナモ」「赤色プロレタリー」その他ハリコフの「鎌と鎚工場」、レーニングラードの「クラースヌイ・プチロヴェーツ」などが参加した。
『文学新聞』の第一面に、「ウラジーミル・イリイッチの名による工場」の決議文がのった。働く人民の階級展望をもって書かれたその決議文の中に、こういう箇条があった。
(1) プロレタリア作家は、広い大衆にわかりやすい文学の言葉で制作しろ。
(2) プロレタリア作家は、完成した、或は未完成の原稿、ただの筋書でもいい。研究会、クラブなどで労働者聴衆によんできかせて、直接の批評や、注意を参考にしろ。
(3) プロレタリア作家の間に行われている文学的論争は、工場で、労働大衆の批判の下にやれ。
そして、最後に彼等はこう結んでいる。
「我々は全ソヴェト作家団体協議会(ラップもその中の一加盟団体)の師匠役になる用意はすっかりしている。作家団体と赤色陸海軍作家連盟とがその師匠役の組織的形態を示してくれることを我々は希望している。」
「ラップ」の新鋭作家たちの間では、文学の組織的生産が問題としてとりあげられるようになった。ソヴェトで、あらゆる生産は計画生産だ。そこにこそ、社会主義的生産の光輝がある。
プロレタリア文学が、ソヴェトの生産経済計画と緊密に結合したと云っても、主としてそれは作品の主題、内容に表現されるだけだ。文学的生産は、やっぱり個人個人勝手に、すきな時、自分が発見した材料によって互に何の連絡も統制もなく書かれているだけだ。職業組合は産業別に組織されている。作家はそういう産業別の組織もない。果して、これが、社会主義国の文学的生産形態として正しいものだろうか。これは、複雑な問題をふくむ提議だ。提案は研究され、生産場面との結合は大切であるが作家を産業別にグループわけすることは、文学活動を固定させる危険があるから適当でないと結論された。ソヴェト作家はこの時期に別に一つの意義ある進歩をした。プロレタリア文学戦線の、赤軍・赤艦隊への拡大だ。
セラフィモウィッチ、スルコフなどが主となって研究委員会が「赤軍中央会館」で行われた。一九三〇年初秋のことだ。
ソヴェトが、帝国主義に包囲されているという国際的地位からみて、当然、もっと早く作家の問題となるべきことだった。世界の人民の解放と民族自立との社会主義達成のために、ソヴェトの生産労働に従う精鋭な前衛と、各国内の前進している労働者とは一身同体だ。まして、ソヴェトの五ヵ年計画の進行と、資本主義国の経済恐慌との開きはますます地球上ただ一つのプロレタリアの国に向って資本主義国の反ソ活動をつよめている。
例えば一九二九年、東支鉄道問題が起って、極東特派赤軍が、中国とソヴェトとの国境へ送られた。
赤軍は戦った。同時に占領した中国の村落へ、すぐ社会主義的な規律と文化とを移植した。彼等は、村の住民がすてて逃げた家々を掠奪から守り、農民が帰って来たとき、農村ソヴェトの組織を指導した。赤軍映画隊は、弁髪長い中国の農村プロレタリアートに、最初の文化の光、キノを見せた。医薬の補助を与えた。中国の農村プロレタリアートは次第に赤軍を愛し、彼等が村を去るときはプラカートを立て、赤軍万歳! また来て下さい、と書いてデモで停留場まで送った。
この興味ある赤軍の国際的功績を、どの作家が書いているか? 一人も書いていない。映画があるだけだ。また前線を訪問した工場からの慰問隊の、断片的な手記しかなかった。ソヴェトの作家たちは、赤軍、赤色艦隊の軍事活動にうとかったと同様に、更により深い意味をもつその平和建設の能力と功績を理解していなかったのだ。
研究委員会は、赤色陸海軍に対する組織的な作家の接触と赤色陸海軍内の文学研究会指導を決議した。そして、ゴーリキー、デミヤン・ベードヌイ、セラフィモヴィッチ、ファジェーエフ、バトラーク、グラトコフ、セリヴィンスキー、メイエルホリド、ベズィメンスキー、イズバフ、オリホーヴイなどが、バルチック艦隊文学研究会員、赤軍機関雑誌編輯者、赤衛軍劇場管理者その他と、赤色陸海軍作家文学連合中央評議会を組織した。それからほんの数ヵ月経たぬうちだ。ブルジョア・ジャーナリズムさえ、その規模の大さと国際的計画とで、驚きを示さずにいられなかったソヴェトにおける産業党の大陰謀が発覚した。
これまでだって、ソヴェトのプロレタリアートは幾度か国際的な陰謀によって生産妨害を受け、それを撃退して来た。現に一九三〇年の夏にもイギリスの金でやられていたソヴェト漁業反革命運動の一つがバレた。引きつづいて、この産業党の大陰謀だ。フランスの元首相ポアンカレー、外相ブリアン、英国の労働党外相ヘンダアソン等の嘘の皮が骨までひきはがれた。
全ソヴェト作家団体協議会では、直に、真剣な産業擾乱陰謀についての批判大会を開いた。あらゆるソヴェトの印刷物は、この陰謀発覚について発言した。ソヴェトの社会主義国家とそれをつくる勤労人民の生活をうちこわそうとする帝国主義の悪辣さに対する階級的憎悪で燃えた。
ソヴェトを守れ! プロレタリアートの生産と文化を守れ!
召集は、モスクワの国際革命作家書記局から、世界のプロレタリア作家、革命的作家に向って発せられた。第二回国際革命作家大会がソヴェト革命第十三年記念祭を機会にハリコフで持たれようと云うのだ。
一九三〇年十一月一日午前十一時。モスクワの白露バルチック線停車場のプラットフォームは、赤いプラカートと、工場から、集団農場から、各文学団体からの出迎人でいっぱいだ。やがて、列車は徐行してプラットフォームへ入って来た。真先にそこから現れたのが、ドイツの革命作家ヨハンス・ベッヘルだ。続いて、キッシュ、ビリー・ハルツハイム、エルンスト・グレーゼル。ハンガリーのプロレタリア詩人カニャート。婦人作家も来た。ソヴェトに作品が紹介されているアンナ・ゼーゲルス(独)だ。
「ラップ」の書記長アヴェルバッハの挨拶で、簡単ながら熱心な歓迎の式がプラットフォームの上で始った。
国際革命作家書記局からベラ・イレシュが喋った。赤色陸海軍作家連盟からはポドソートスキーが挨拶した。
それに答え、ハンス・マルフヴィッツァとキッシュが、彼等の歓喜を述べ、やがて、音楽が鳴り出した。インターナショナルだ。ドイツからの作家達は、その時拳固を頭のたかさにあげ、革命的前衛の敬礼をしつつ、歌った。ドイツ語で歌った。ソヴェトの連中はロシア語だ。ドイツ語、ハンガリー語、英語、ロシア語。そこに集った革命的作家の国籍の数だけ言葉数があった。が、一つの瞬間、そういう言葉の差別は急に溶けて一かたまりの焔のような歌声に盛りあがった。それは、これらの人々が、
──インターナショナルとともに!
と歌ったときだった。
ハリコフに於けるこの国際革命作家大会には、松山という日本からのプロレタリア作家代表も出席した。(日本に関する決議は『ナップ』二月号所載)
「ラップ」は、国内のプロレタリア文学戦線強化のために、ソヴェト同盟内の各連邦におけるプロレタリア文学の運動の情勢に熱心な注意を向けはじめた。一九三一年度に、各連邦のプロレタリア文学を網羅する文学オリムピアーダの計画が発表された。
全ソヴェト作家協会からソヴェト芸術全般にわたって、新人紹介、その社会主義建設事業紹介の役割をもつ大文集が出版される計画だ。これは同時に、英、仏、独語で出版される。委員はアヴェルバッハ、アッセーエフ、ゾズーリャーなどだ。
プロレタリア文学への新しい部隊養成の目的で、「ラップ」は三一年の正月から、新しい文学雑誌発行をもくろんでいる。
ところで最近の『文学新聞』は、党とともにソヴェトのプロレタリア作家たちが、次代の交代者である子供たちへの本気な関心について報告している。五ヵ年計画は、文化的事業の第一として、学齢児童全国就学を実施しようとしている。ソヴェト全同盟内の子供が国庫負担で四ヵ年の教育を受けることになるのだ。
革命前、ロシアの民衆の大半が文盲であったころプロレタリアートは彼等の鎖と汗とのほかに、どんな文学をもっていただろう。火酒と教会と悲しい民謡があっただけだ。革命によって解放されたプロレタリアートが、一般に文化水準を高めて来たとき、はじめて、本ものの階級の文学をもつようになって来たのだ。未来にソヴェトのプロレタリア文化を護るもの、生産する者、そして、それを更に強力に国際的な人民解放の勝利に向って押しすすめる者は、きょうの小さいソヴェトの子供たちである。ソヴェトのプロレタリア作家は知っている。広大なСССРのどこの果にも、小学校のない村というものが無くなった時、文学は、ほんとの揺がぬ階級的土台を確保するのだということを。「ラップ」からのウダールニクがこの重大な社会主義文化の基礎工事を促進するために、召集されつつある。
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「綜合プロレタリア芸術講座 第一巻」内外社
1931(昭和6)年5月号
※「カペイカ」と「カペイキ」の混在は、底本通りです。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
2014年5月30日修正
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