楽しいソヴェトの子供
宮本百合子



 ──ミーチャ、さあ早く顔あらっといで!

 お母さんは、テーブルの前へ立ってパンを切りながら、六つの息子のミーチャに云った。

 ──もうすぐお茶だよ。

 父さんは、朝日がキラキラ照る窓ぎわへ腰かけて、昨夜工合がわるかったラジオを熱心に直している。ミーチャは口をあけてそれを見物してたところだ。

 ミーチャは、風呂場へ行った。水道栓のわきに、低くミーチャの手拭と歯ブラシとがぶら下ってる。ミーチャは真面目くさった様子で、ちゃんと歯ブラシを上下につかって歯を洗った。

 こういう風に低く自分の歯ブラシや手拭を風呂場へぶら下げとくことは、ミーチャにとって大得意だ。ミーチャがもっとずっと小ちゃかったとき、母さんがつとめている工場の托児所へ毎日連れていってた。やっぱり今と同じに、その時分も母さんが朝ミーチャを托児所まで送ってくれた。電車はいつだって一杯だったけれど、ミーチャと母さんは平気だ。何故なら、ソヴェトでは子供と母さんだけは電車の運転手台からのっていいんだから。その托児所で、ミーチャはほかの多勢の女の児や男の児と一緒に、朝起きたら歯をみがくこと、御飯の前にはきっと手を洗うこと、自分たちで遊んだオモチャは自分たちで、あと片づけすることなどを覚えた。そこでは、白い上被うわっぱりを着た保母さんがいて、御飯の世話をやき、少し大きくなったら、御飯のあとでアルミニュームのお皿を洗うことも教えてくれた。

 ──フフフフフ。

 ミーチャは、歯みがき粉のアブクを口から垂らしながら思い出し笑いをした。

 あすこに「赤い毛のワロージャ」とあだ名のあるいたずらっ児がいた。いつだったか、ポケットへ二十日鼠を入れて来た。女の児をそれでおどかしては泣かせて面白がってた。すると思いがけず白い上被の小母さんが「赤い毛のワロージャ」に、

 ──ワロージャ、お前ポケットに何いれてるの?

ときいた。ワロージャのやつ! 目玉キョロキョロさせてミーチャや女の児の方を見ながら、

 ──巻パンが入ってる。

と云った。

 ──そう、じゃ一寸見せて頂戴。

 ワロージャのポケットへ小母さんが手を入れて、引き出したのは勿論例の二十日鼠だ。ワロージャは、自然の赤い毛よりもっと赤い顔して、身動きもしないで目玉ばっかり動かしてる。ミーチャは笑いたいようだし、小母さんがこわいようだし、矢張り身動きもしないで、二十日鼠の尻尾をぶら下げた小母さんを見つめてた。

 ──ワロージャ、変だね。お前巻パンを入れといたというのに、これは二十日鼠だね。

 ワロージャがうんともすんとも云えないうちに、

 ──ナターリヤ・イワーノヴナ! ワロージャはそれに私を噛ませようとしたんです!

 短いお下髪さげのアニューシャが、ワロージャを睨みつけながら泣き声を出して云いつけた。

 ──よろしい、よろしい。

 白い上被のナターリヤ・イワーノヴナは、ワロージャに云った。

 ──ワロージャ、この二十日鼠は貰いますよ。あしたっから決して巻パンと鼠なんか間違えないようにおし。ね?

 小母さんは二十日鼠をもって室から出てってしまった。あの時のワロージャの顔! フフフフ。……だが、ミーチャは急に心配になって来た。いそいで、手拭を壁の釘にかけて、食堂にもう坐って熱い茶を飲んでる父さんと母さんのところへ馳けつけた。

 ──ねえ! 母さん。あの二十日鼠まだ生きてるだろうか?

 ──どの二十日鼠さ。

 ──ホラ、あの! 僕話したじゃないか、ワロージャからナターリヤ・イワーノヴナがとりあげて、あとで籠へ入れて、僕たち皆で飼うように呉れたやつさ! 生きてる?

 ──どうだろうね、私も知らないよ。

 ミーチャは、この三月からもう工場の中の托児所へは行かなかった。父さんと母さんがこの新しい労働者住宅へ越して来て階下に建物附属の幼稚園があった。そこで毎日、昼間は暮してるのだ。

 ソヴェト・ロシアでは、子供を大切にしている。丈夫に、賢い、よい労働者として育つように国家がいつも出来るだけの金を出して、注意している。だから、ミーチャが先行ってたような托児所、または幼稚園、遊び場は一つの市にいくつもある。それをモットモットふやして、もっと大勢の子供を愉快に暮させようと親たち──プロレタリアートの親たちは骨折ってるのだ。

 一九二八年托児所の寝台は三万四千あった。一九三三年に、それは六万五千に殖えるだろう。幼稚園や遊び場へ行ってる子供は一九二八年にはみんなで二十二万五千三百人位だった。それは一九三三年に百四十万人になる予定だ。

 これだけ見たってわかるだろう。ソヴェトの生産拡張五ヵ年計画が、つまりは軍備拡張のコンタンだと盛に逆宣伝しているブルジョアの嘘が。

 ソヴェトの五ヵ年計画は鉄、石油、石炭をこれまでの何層倍か沢山生産すると同時に、こうやって、子供の幸福をまで考え、そのために幾百万という資金をつかってるのだ。

 もう一、二年すればミーチャは小学校だ。小学校に入れることで、一安心したのはミーチャの親たちばかりじゃない。これまでソヴェトの小学校は無料のところもあったが有料のところもあった。それも、今度五ヵ年計画によって、すっかり国庫負担で全ソヴェト学齢児童就学ということになった。

 ミーチャはまだ小さい。こないだ幼稚園で先生のリーダ・ボルトニコヷが大きくなったら何になると訊いた時、すぐ大きな声で、

 ──僕、飛行機をこしらえる人になるんです。そいで、自分も飛びまアす!

と返事した。ミーチャはその日の夕方家で父さんや母さんと御飯をたべてる最中、思い出してそのことを話し、リーダ・ボルトニコヷに云ったよりもっと威勢よく、

 ──僕、ね、そいでね、飛ぶんだよ! ね、母さん。飛ぶの! こんなに、ホーラ!

 握ったスープ匙を頭の上でふりまわして、叱られた。叱りながら、父さんも、母さんも、ミーチャがそういう人間になれることを疑わないようだった。

 ──見な! これが本当のプロレタリアート文化の進歩ってもんだ。俺は職工だ。工場でアルミニュームの板をこねまわしているが、自分で飛行機を組立てようとは思ったこともねえ。ところがどうだ! チビ奴! 俺をもう追い越している。飛行機を造る力を自分の中に感じてやがる。

 父さんは、無骨な手でミーチャの頭を撫で、

 ──ふんばって、せっせと親爺を追いぬけよ。いいか! そして、俺ら世界のプロレタリアート、ソヴェトの文化を、持ち上げるんだ。アメリカを追いぬくのは俺たちじゃない。こういうチビ共だ!

と云った。父さんの声に深い感動がこもっていて、ミーチャは重い掌の下で嬉しいような、おっかないような気になった。

 ──さ、いいから、おあがり。

 母さんは、しずかな声でミーチャにそう云った。そして、

 ──でも、それはむずかしいことさ、なかなか……

 ──そう! むずかしいさ。だがその困難を征服するだけの健康と知慧のあるチビ公には何でもない。道は開いている。ソヴェトの小学校、技術学校、もっと上の専門学校が、プロレタリアートの子供にゃ、女の子にでも男の子にでも、まるで無料であいてるのは何故だね? こりゃ、プロレタリアートのチビ共、進め! ってことなんだ。

 ところで今朝、ミーチャは茶をのむと急に母さんをせき立てだした。

 自分で外套を着て、帽子をかぶって、先へ入口の扉のところへ出て待っている。

 ──どうしたのさ、急に!

 ──今日、きっと行くと思うんだよ。

 ──どこへ?

 ──動物園へ。インドでね、象はとても働くんだよ。母さん知ってる? イギリス人がインドで象とインド人をひどく使って儲けてるんだ。象みたことないから、先生がみんなつれてくって。

 母さんが、毛糸肩掛を頭へかぶってしまうと、先ずミーチャが扉から外へとび出した。続いて父さんが出、一番しまいに母さんが出て、締りを見て、ポケットへ鍵をしまった。父さんは、トトトトト勢よく階段を先へかけ下りて行っちまった。ミーチャだって、もう「十月の児」だ。手になんぞつかまらない。手欄てすりをこすって降りてゆく。(八つから十五までがピオニェールだ。それより小さい子は、みんな十月の児オクチャブリターと呼ばれる。)

 一番下の、大きい戸をあけると、外はひろい中庭だ。春は花壇に綺麗な花が咲くが、まだ深い雪の中から、緑色の花壇の仕切りの先が見えるだけだ。

 この頃ミーチャは、いつもこの鳩のいる中庭で母さんと別れる。母さんは、工場で職場代表をやっている。いい労働婦人だ。昔風な接吻なんかしてミーチャを甘やかしはしない。

 ──じゃ、いっといで!

 ──ウン。

 同志タワーリシチみたいにわかれる。ミーチャは元気な眼つきで、中庭を横切り、むこうの端の建物の翼の戸をあけて内へ入った。その入口と並んで、こっちから、植木鉢が五つ並んだ明るい窓が見えた。ミーチャやその他の多勢の子供が一日暮す幼稚園の窓だ。

 ミーチャと別れたお母さんは、急ぎ足で木の門を出たところで、隣りに住んでいるタマーラに会った。タマーラと母さんアンナとは、同じ菓子工場で働いている。二人は並んで、頭をつつんだ肩掛の中から白い息をたてながら並木道を歩いた。

 ──どう? お前さんの体工合。

 ミーチャの母さんがきいた。

 ──あれらしいわ。

 ──姙婦健康相談所へ行ったの?

 ──それで分ったのさ。

 ──心配することは何にもありゃしない。

 ──…………。

 若いタマーラは黙って肩をもちあげた。

 ──だってお前さん、丈夫なんだろう?

 ──そりゃそうよ。

 ミーチャの母さんは暫く黙って歩いてたが、やがておだやかな碧い瞳一杯に花の咲いたような微笑をうかべて行った。

 ──私たち、いわば国家の母さんだからね。子供だって国家の赤坊さ。安心おし。

 ミーチャの母さんは、労働婦人は、産前産後四ヵ月の給料つき休暇の貰えること、赤坊の仕度金と九ヵ月の特別哺育費が国庫から支出されること、産院が無料であることなどを、その簡単な言葉の中で、タマーラに思い出させたのだ。

 タマーラは何とも云わない。でも工場近くなると、托児所へあずける子供を自分の肩かけの中へ抱き込んで通って行く労働婦人を、今日は一種特別注意ぶかい目つきで眺めた。

 ミーチャの母さんは、工場の門の中で、背の高い、さっぱりした黒外套の女に出会った。

 ──ああ。ナターリヤ・イワーノヴナ、今日は。

 托児所の保母は、ちょっと見なおして、アンナを思い出した。

 ──今日は。ミーチャのお母さん。どうですミーチャは。ちっとも後のお代りが来ませんね。

 ──こんどは、このひとの赤ちゃんを願います。

 そう引き合わされてタマーラは笑い、すこし顔を赧らめた。

 ──ミーチャが、今朝どうしたのか、托児所の二十日鼠を思い出したんです。そして、生きてるだろうかって心配してましたよ。

 ──生きてますとも! ワロージャが家からあと二匹もって来てもう子鼠が出来ましたよ、ミーチャに、見においでって云って下さいな。

 ナターリヤ・イワーノヴナはクラブの横を通って、托児所の方へ行った。ミーチャの母さんは、タマーラと出勤札をとりに事務所へ行った。

 その時刻、ミーチャは、幼稚園で、朝日のさす窓の前へ如露を持って立っていた。水は光って、転がって、鉢の西洋葵の芽生を濡した。

〔一九三一年三月〕

底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年920日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房

   1952(昭和27)年12月発行

初出:「女人芸術」

   1931(昭和6)年3月号

※「──」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。

入力:柴田卓治

校正:米田進

2002年1028日作成

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