モスクワの辻馬車
宮本百合子



 強い勢いでドアが内側からあけられた。ともしびがサッと広く歩道へさした。が、そこから出て来たのは案外小さい一人の女だった。

 歩道に沿って二台辻馬車が停っている。後の一台では御者が居眠りしていた。前の御者台に黒い外套を着て坐っていた御者が扉の音で振向いた。馬具の金具が夜の中にひかった。

 小さい女はひどく急いでいる風で立ち止まるのも惜しそうに、歩道の上から御者に叫んだ。

 ──ひま?

 ──何処へ行きますかね?

 ──サドゥヴァヤ! ストラスナーヤの角とトゥウェルスカヤ六十八番とへよって、二ルーブリ!

 ──よろしい、行きましょう。

 ──二ルーブリ! いい? それで。

 御者はほとんど面倒くさそうに髭のある口の中で「よろしいハラショーよろしいハラショーとつぶやいた。外国女だ。何度繰返したってまともなロシア語の音はどうせ出やしないんじゃないか。そう云っているような調子である。御者特有の横目で日本女が先ず片手にさげていた一つの新聞包みを蹴込みへのせ、それから自身車へのるのを見守り、弾機が平衡を得たところで、唇を鳴らし手綱をゆるめた。

 冬凍った車道ですべらないようにモスクワの馬に、三つ歯どめの出た蹄鉄をつけている。新ソヴェトの滑らかなアスファルト道の上で、そういう蹄は高く朗かに鳴った。十一月中旬の、まだ合外套も歩いてる午後七時の往来に小さい籠を持ったリンゴ売が出ている。芸術座小舞台へ入る門の前で、女が──プログラム! プログラム、十カペイキ!「我等の青春」のプログラム、十カペイキ!

 気ぜわしい、金属的な、何だかひもじいような声だ。むき出しな頭で片手にプログラムの束を抱えそうやって叫んでいる女もその他の通行人も馬車の上から見るとみんな宵のくちの濃い陰翳と不揃いなともしびの中にあって、一つ一つの目鼻だちは見分けられない。

 日本女はいつもは踵の低い茶色の靴をはいてトゥウェルスカヤ通りをむさぼるような眼付で歩いていた。彼女は今同じ坂道を馬車にのってゆっくり登って行きながら、三年の間に自分が何処ここを歩き、その度にいろんな違った心持を抱いて歩いてたかということを、はっきり感じた。どのソヴェト市民だってそんなに馬車には乗りゃしない。だから日本女だってやはり電車に乗るほど馬車にはのらなかった。今夜は特別だ。だんぜん特別だ。何故なら、彼女にはすることがうんとある。第一この膝の上に抱えている不恰好にふくらんだ書類入鞄の中から二本の瓶を出してストラスナーヤの角の家へおき、次に新聞包を六十八番地へ必ず置き、三十分後には「勇敢な兵卒シュウェイクの冒険」を観るために写実劇場の椅子に間違いなく坐ってなければならないのだ。しかもぎりぎり七時まで、彼女が両腕にものを抱えて歩道へ飛び出した扉の奥、三階の73という室で何をしていたかと云えば、日本女は床へころがした行李の前へ膝をつきながら正体の知れない白い粉にむせてくさめをしていた。慢性的にとり散らされた室の中ではタイプライターの音がせかせか響き、こんな日本語が聞えた。

 ──どうしてぐずぐずしてるのさ繩がかからないの?

 ──切れちゃうのよ、この繩! おまけにこら! 毒じゃないかしらん、この粉──

 ──支那の繩って奇妙なもんだな。じゃ、そっちの錠だけかけといてもう行くといいわ!

 錠をかけたのは四角い大きな樺の木箱だ。それは明日モスクワから日本へ向って送り出されるべきものだ。──日本女そのものがいよいよ明日はモスクワを去ろうとしているのだ。

 左の方にプーシュキン記念像がある。有名なマントをひっかけてたたずんでるプーシュキンの頭は、街燈、電車のポール、並木道ブリヴァールの冬木立の梢などの都会的錯綜の間にぼんやり黒く見える。

 ──右かね、左かね?

 御者の声に日本女は、

 ──右! 右!

と返事した。

 ──かど曲ってすぐの門へつけて。

「モスクワ夕刊新聞社」ひろいガラス戸が鈍く反射しながらしまっている隣の狭い入口を日本女は足早に入って行った。もう一つあちら側に戸口があってそこから内庭──建物の全然反対な通りまで出られる石敷のがらんとした玄関。(こういう家の構造は一九一七年までに多くのプロレタリア解放運動の犠牲者の生命を保護した。)階段を登り、右手のドアを押して入った。そこは一般の廊下である。いくつも同じような樺色の平凡な戸が廊下に向って並んでいる。一つの戸は内部に入れこになっている一つ以上の世帯を意味している。一等はずれの戸が少しあいてそこから蓄音機の音がした。そこを入り日本女は石油コンロか何かのガラス瓶、玉ネギなどののっかった窓枠に向っている戸を叩いた。

 ハンガリアン・ラプソディーの波を背負って、自分でもそんな音楽にびっくりしているようなのぼせた頬のリーダの顔が現れた。

 日本女は、リーダの手を握り、立ったまませわしく話し、二本の瓶を書類入鞄から出した代りにそこへ蜂蜜の小さい入れものを突込んで貰った。

 ──貴女風邪ばかり引いてるから……

 リーダが親切をこめた悪口の調子で云った。

 ──シベリアの中途で鼻がクスクスしたらこれなめて寝床へもぐってなさい! 明日ステーションで会うけれど。

 ──あ、リーダ、あんた五ルーブリこまかくしてくれない?

 一旦出かけたのを戻って日本女がきいた。

 ──私馬車へ二ルーブリ払わなけりゃならないんだけれど、きっと釣銭がないって云うだろうから。

 引こんで、三ルーブリ札を二枚もったリーダが廊下へ現れた。

 ──さ、これ!

 ──どうして? 六ルーブリじゃないの!

 ──かまやしない。三ルーブリの札しかないのよ、今私んところにも。

 ──じゃ、ありがとう。貰っとく。

 リーダは階段のところまでついて来て日本語で「サヨナラ」と云った。

 ばねをゆすって再び馬車にのる日本女を例の横目で見て、

 ──手間どったじゃありませんか。

 御者が重い不平そうな喉声で云った。

 ──どうして? 私は五分位しか家の中にいなかった──

 が、日本女の思想は一つとこに止まっていず、彼女はその不平に対して無頓着そうに云った。

 ──まあいい。次はトゥウェルスカヤ六十八番地。

 数日、日本女はほんのわずかずつ眠った。彼女は毎日いろんなモスクワの街を歩き、そこにある様々な都会の秋の風景を心に刻みつけながら、自分とモスクワとのつなぎをゆるめる仕事をしていた。

 一昨日、モスクワ地方行政部へ行った。黄葉した植込みの奥のもっと黄色い柱列を入って行って、旅券の後に添付されてるSSSL居住許可証を返して来た。桃色の大判用紙(その角には日本女の写真をつけたまま)をはがすとき、掛りの男は紙を旅券につけていた赤い封蝋をこわした。封蝋はポロポロ砕け、樺の事務机の上にこぼれた。日本女は今でも赤い封蝋がどんなにこなごなになって机に落ちたかたをはっきり思い出すことが出来た。

 今夜はこうやって新聞包を足元にのせて馬車を駆っている。新聞包を或る一つの家へおくことで、又一つモスクワと日本女との間にある結び目がゆるめられるのである。

 日本女は腕時計をのぞいた。それから馬車の上でのび上り、賑やかな人通りをこえて右手に続く高い建物の漆喰軒を見まわした。六十八番てのは何処だろう。彼女自身もまだ来たことないところである。

 ──ああそこ、そこ!

 道ばたにセメント樽、曲った古レール、棒材がころがっている。門の内はどうしたのか真暗だ。ここで恐らくは小さい借室第五号への入口を見つけるのは楽でない。日本女は門の方へばっかり気をとられ馬車を降りたら、御者が、

 ──またかね?

と云った。

 ──そんなに待たされちゃ、増して貰わなけりゃやり切れない。

 日本女を振返らず毒々しい調子だ。彼女は瞬間自分の背中で聴いたことを確めるように立ち止まって御者の顔を見ていたが、静かに、きつく云った。

 ──この包を見なさい。用事で馬車へのってるのだ。おしゃべりに歩き廻ってるのじゃない。

 御者台の上で尻を動かしただけで答えない。日本女はさっさと暗い門の中へ入って行った。

 何処でも、馴れないモスクワの門は夜、気味がわるい。広くて、いろんなものが積んであって、人気なくて。その奥に、まるで明るく小ざっぱりと更紗の布をテーブルにかけて女医者マリアが棲んでるので日本女は、びっくりした。室には昔風なペチカ(暖炉)がたかれ、暖かい。丁度茶を飲んでるところで、テーブルに野苺のジャムが出ていた。

 ──一口お茶のんでいらっしゃいよ。明日の晩はもう飲みたくたって私の家の茶なんぞ飲めませんよ。

 ──でもね、マリア・アンドレヴナ。

 日本女は惜しそうに艷々した苺のジャムを見ながら戸口へ歩いた。

 ──とても時間がないの。またこの次ね。

 ──この次?

 ──十年経ったら!

 ──アイヤイヤイ!

 ──どうして? 二度五ヵ年計画をやれば直ぐ十年じゃないの!

 日本女は馬車のところへ戻った。彼女は坐席に体を投げるようにおろしながら、

 ──さあ、これでおしまい!

 御者の背中へ向って云った。

 ──サドーヷヤへ行って。

 御者は、手綱をさばき黒馬の背で柔かく鞭のような音をさせた。そして動き出しながらまたあっち向きのまま云った。

 ──三ルーブリ貰いますよ、こんなに待たされたんだから。

 日本女は、モスクワにもう二年と六ヵ月暮してたのである。

 ──どんなに待たされたの? 爺さん。

(本当は爺さんでなく、まだ五十代のがっちりした馬車屋だった。)

 ──私のとこには時計があるのに──

 ──あんた、はじめこんなにより道するって云わなかったじゃないか。

 御者は、農民なまりのない、いかつい声でおしつけるようにいい続けた。

 ──こんなによるんなら、誰にしたって五ルーブリは貰うところだ。

 ──考えてごらん、一本のトゥウェルスカヤを十町走るのに、どんなソヴェトの女市民が二ルーブリだすか。

 ──そんなこたあ関係しない。

 蹄の音の間から、御者は大きな声でおっかぶせた。

 ──あんたは私に払う義務があるんだ。

 ──…………

 ──今日び馬を食わせるにいくらかかると思いなさる?

 内外へ飛び交っていた日本女の思考力は、はっきり御者の上へ集注されはじめた。──おやこいつ、ほんとに三ルーブリせしめる気か?

 ソヴェト・ロシアに「自動車化」という標語がある。ニージュニノヴゴロド市は昔からの定期市の他に、現代ではСССР第一の自動車製造工場で有名になった。そこで製作されるソヴェト・フォードは、小さい赤旗をヘッド・ライトの上にひるがえしつつソユーズキノ週報で先ず映画館の映写幕の上にころがり、つづいてモスクワの新造アスファルト道をもころがりはじめた。一九二九─三〇年に、モスクワの自動車の数は足りないながら殖えた。しかし、まだ忙しいモスクワ市民の需要と供給の比率は均衡からはるかに遠い。

 その一方にこういう事情がある。燕麦の収穫が一九二九年は多くなかった。日本女は、今日び馬を食わせるのに云々という御者の言葉は、だからそれ自身としては十分信じ得る。そのことはこの頑固そうな中年男が云うばかりでない。穀物生産組合がすでに問題として批判していた。

 タクシーは、モスクワで公営だ。運転手は月給で雇われ、働く。工場へ出勤するプロレタリアートと同じに。ところが昔ながら赤い車輪の辻馬車は、仲間で相互扶助的な組合をこしらえているが、生産手段を自分でもっている個人営業だ。馬、馬車、両方持っているか、馬は自分ので馬車だけ借りるか。──交通労働者として職業組合には属していない。СССР全経済組織は迅速に社会主義化され、個人営業の手工業者(靴直し屋、裁縫師、理髪など生産手段を自分で持っている職人)までが、集団的生産組合にまとめられつつある。

 辻馬車の赤い輪と馬の蹄とは当然昔のような個人的利潤をひらき出さない。その上燕麦は高かった。ソヴェトの農村は五ヵ年計画の集団農場化でいくらでも働く手を呼んでいる。共同牧畜のために。一匹の牛、一頭の馬も招待されている。市へ出て引合わぬ燕麦と税とで馬車をころがすより集団農場員となって生活保証をうけた方がましではないか。

 一九三〇年の初夏からモスクワの辻馬車は数でぐっと減り、馬車賃で倍あがった。

 モスクワ人は馬車にあふれる程荷物をつみこみ、而も、たとえばステーション前などではスラブ人的忍耐を極度に活用して、賃銀協定をやるのであった。こういう事情がなかったら、裏のいたんだ外套をそのまま着ている小さい日本女が、どうして二ルーブリ、十五分に出す決心をしたろう。

 日本女は、写実劇場まで行かずサドーヷヤの交叉点を一寸越したところで馬車を止めさせた。彼女は歩道の菩提樹のわきへおり、御者台にあおむいて云った。

 ──私は約束通り二ルーブリ払うよ。──一ルーブルこまかいのを持ってる?

 ──三ルーブリより少い金は受けとらない!

 ──このあたいはよくとも悪いあたいじゃない、私は一コペックだって増す気はないんだ。

 ──三ルーブリ! 三ルーブリ!

 御者は、腰をひねって歩道に立っている日本女に向って黒い髯のある顔を下げ、太い声をひっぱって云った。

 ──三ルーブリ……わかりましたかね? それをあんたは払わなくちゃならないんだ。初めっから寄り道するって云わなかったじゃないか。

 日本女は強情そうな目付で御者をじっと見、はっきり一言一言区切って云った。

 ──お前さん、ロシア人だろう? 馬車にのっかってる人間が寄ると云ったら、寄り道にきまってることが分らないの?

 暫く黙って御者は、やや弱く。

 ──いや何とも云わなかった。

 それから急に大仰に体の両側へ絶望的な手をひろげ、通行人に訴えようとするようにあたりを見廻しながら、

 ──こりゃ何事だ!

と叫んだ。

 ──あんたは私の馬車にのって来た、それだのにここまで来ると払わないって云い出す! そんな話ってあるもんじゃないじゃないか。

 日本女の黒い眼が、焔の下の石炭のようにきらきらしだした。馬車へ再び足をかけながら短く、彼女は命令した。

 ──さ、巡査のところへ行こう。

 御者は同じ様に挑戦的に応じた。

 ──行こう!

 御者がさとらぬようにそっと口をあけて、日本女は何とも云えないおかしさでひとり笑った。だって、一体これを何と解釈すべきだろう。日本女をのっけた馬車は、今七時二十分、人の出盛っているトゥウェルスカヤ通りを逆にもときた方へ向って動いている。車道の真中には恐ろしい火山でも出来たようにぴったり歩道際へすりついて、四本の馬の脚でのろく歩けるだけのろく練っている。そんなにのろくさ歩くのは不自然でおまけに退屈だ。馬はひょいと普足なみあしになる。すると御者はあわてて手綱を引きしめ、のろのろのろのろ歩かせる。

 むこうから来てすれ違う一人一人の通行人の顔が大写しになってかぶさって来るように感じる位ののろさなのだ。──御者奴!

 それは、御者も商売からまるで間違った推測をしたのではなかった。この外国女は、第一ひどく急いでいるんだ、芝居へ行こうとしているんだと。サドーヷヤにはメイエルホリド座がある。写実劇場がある。オペレット劇場がある。実際日本女は写実劇場でもう坐っているべき時刻なのだ。だが、御者はそろそろ自分の予想に自信を失いかけている。日本女は、芝居におくれないために、余分な一ルーブルは出そうとしなかった。その上(本当に?)警察へ行く気でいる。──では、芝居へ行くだろうと思ったのは間違いだったか?

 御者は黙って、ひたすら馬をのろく御すことに努めている。自分の根気と小さい外国女の根気とを計っている。彼はもう罵るだけ罵ったのだ、と云うのは、サドーヷヤの交叉点からこの通りを真直来たのではない。もうすでに寄り道して来たのだ。やはりこののろさで。

 大通りを左に曲り、暗いごろた石道を数丁行って御者は外側を青く塗った一軒の家の前へ馬車を止めた。彼は、しきりに外側から家を眺めたのち御者台の上でうなった。

 ──畜生! どこへか引越しちまった。

 往来に向いた低い明るい窓の内で、ルバーシカを着た若者が数人で談笑しているのが見える。外までその声はもれず、燈火だけ人通りのない道へさしている。

 御者は日本女にくってかかった。

 ──へ? どうしたらいいんだ! ここにこの間まで警察があったのがなくなっちまってる!

 ──モスクワに警察は一つじゃないだろ。おだやかな口調で日本女が答えた。

 ──巡査は往来にだっているよ。

「見りゃあまだ年もとってないのに、こんな目に人を会わせる、恥だ!」「あんたは不正直だ。こんな客にははじめて出喰した!」

 日本女の返答は一つだ。

 ──私は正しい価を云ったんだし、正しい約束して乗ったんだから負けない。私はお前のソヴェト権力と一緒に正しいところはどこまでも突っ張るよ。

 プーシュキン記念像の下まで戻って来てしまった(サドーヷヤとストラスナーヤはつまりそんなに近いのだ)。御者は往来のくぼみ、今は一台もいないタクシー溜りへ馬車を引込み、その辺を見廻してたがやがてのろくさ御者台を降り、広場の方へ去った。若い交通巡査を先に立て、馬車のところへ戻って来た。

 日本女は馬車からこごんで巡査に事情を説明した。御者はわきへ巡査の方へ背中を向けて立っている。もうまわりは人だかりだ。若い交通巡査は、黒い外套の胸をふくらませてしめた皮帯の前へ差した赤い指揮棒の頭をひねくりながらきき終ると、手を帽子へやりロシア風にそれを頭のうしろへずらした。

 ──……警察で話して下さい。

 御者に向い、

 ──警察へ行け。僕はここでいそがしいんだ。

 広場の交叉点へ戻って行ってしまった。

 ──何だい。

 ──言葉がわかんないんじゃないの?

 群集がしゃべり出した。

 ──どうしたんだ? 彼女は何が必要なんだ?

 日本女は、馬車へのっかったまま平らかな視線で自分のまわりへよって来た群集を眺めた。彼女は群集を知っている。パンの列に立ってる間に、電車でもみくしゃにされた間に日本女がその気ごころをいつか理解したモスクワの群集だ。

 ──どうしてこんなところにかたまってるんだ?

 御者は、馬車から下りて馬のわきへ立ったまんま低い声で答えている。

 ──外国女が金を払わないんだ。

 ──ロシア語が判んないのか?

 ──わかりますよ。

 日本女が答えた。

 御者は何も云わない。──

 茶色の革帽子をかぶって共産青年同盟員らしい若者が人だかりの輪のうしろから体をはすかいにして出て来た。馬車の上の外国女を一寸眺め、巻煙草の吸殼をすててそれを足でもみ消しながら、

 ──行けよ、警察へ行った方がいいや。

 御者に云った。

 ──このトゥウェルスカヤ通りにあるよ。

 ──あすこにないんだ、もう。行ったんだが。

 ──あの先だ。

 うしろの方から誰かがのび上ってるような声で叫んだ。

 ──百十番地だよ、トゥウェルスカヤの。

 御者は、みんなの言葉にかきあげられるような恰好で再び御者台へのぼった。蹄の音を乱しながら馬をまわした。再び「イズヴェスチア」新聞社の高い時計台。映画館「アルス」から降るイルミネーションで、外套の肩と胸とを赤く照らされながら、歩いている通行人。

 決して歩調をはやめずまたサドーヷヤを横切ると、その街燈柱と菩提樹のところ、きっちりさっき日本女が一度馬車から下りた地点で車を止めた。あっち向のまま、

 ──家へ帰んなさい。

 日本女はすぐに御者の云うことを理解しなかった。

 ──家へかえんなさい、もう先へは行かないよ。

 気落ちしたように、だがどこまでも頑固に侮蔑を失うまいとして強く御者は云った。

 ──金なんぞいらない、あんた欲しいんだろう、もってきな。

 日本女は蜜の入れもので膨らんでる書類入れ鞄をかかえたまま馬車を下りると小戻りして、変電塔の横へ袋をもって出ているリンゴ売のところへ行った。

 ──いくら? それ一つ。

 ところどころ当ったひどいリンゴだ。

 ──十五カペイキ。

 ──じゃ二つ。

 絶え間ない通行人だ。

 乗合自動車を待つ一かたまりの群集のかなたから、今は体ごとこっちへ向きなおり、熱心に小さい日本女が金をくずしているのを待っている辻馬車御者の眼と黒い髯とが見えた。

〔一九三一年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社

   1980(昭和55)年920日初版発行

   1986(昭和61)年320日第4刷発行

底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房

   1952(昭和27)年12月発行

初出:「読売新聞」

   1931(昭和6)年11日、4日、6~9日号

※「──」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。

入力:柴田卓治

校正:米田進

2002年1028日作成

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