火の鳥
太宰治
|
序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。
昔の話である。須々木乙彦は古着屋へはひつて、君のところに黒の無地の羽織はないか、と言つた。
「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけてゐた。
「まだセルでも、をかしくないか。」
「もつともつとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、をかしいことはございませぬ。」
「よし。見せて呉れ。」
「あなたさまがお召しになるので?」角帽をあみだにかぶり、袖口がぼろぼろの学生服を着てゐた。
「さうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさつと羽織つて、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、痩せてひよろ長い大学生であつた。
「セルのお羽織なら、かへつて少し短かめのはうが。」
「粋か。いくらだ。」
羽織を買つた。これで全部、身仕度は出来た。数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまへに立つてゐた。鼠いろのこまかい縞目の袷に、黒無地のセルの羽織を着て立つてゐた。ドアを押して中へはひり、
「部屋を貸して呉れないか。」
「は、お泊りで?」
「さうだ。」
浴室附のシングルベツドの部屋を二晩借りることにきめた。持ちものは、籐のステツキ一本である。部屋へ通された。はひるとすぐ、窓をあけた。裏庭である。火葬場の煙突のやうな大きい煙突が立つてゐた。曇天である。省線のガードが見える。
給仕人に背を向けて窓のそとを眺めたまま、
「コーヒーと、それから、──」言ひかけて、しばらくだまつてゐた。くるつと給仕人のはうへ向き直り、
「まあ、いい。外へ出て、たべる。」
「あ、君。」乙彦は、呼びとめて、「二晩、お世話になる。」十円紙幣を一枚とり出して、握らせた。
「は?」四十歳ちかいボーイは、すこし猫背で、気品があつた。
乙彦は笑つて、「お世話になる。」
「どうも。」給仕人は、その面のやうな端正の顔に、ちらとあいそ笑ひを浮べて、お辞儀をした。
そのまま、乙彦は外へ出た。ステツキを振つて日比谷のはうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かつた。はき馴れぬフエルト草履で、歩きにくいやうに見えた。日比谷。すきやばし、尾張町。
こんどはステツキをずるずる引きずつて、銀座を歩いた。何も見なかつた。ぼんやり水平線を見てゐるやうな眼差で、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらはれたやうに、よろめき、資生堂へはひつた。資生堂のなかには、もう灯がともつてゐて、ほの温かつた。熱いコーヒーを、ゆつくりのんだ。サンドヰツチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。
日が暮れた。
こんどはステツキを肩にかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアへ立ち寄つた。
「いらつしやい。」
隅のソフアに腰をおろした。深い溜息をついて、それから両手で顔を覆つたが、はつと気を取り直して顔をしやんと挙げ、
「ウヰスキイ。」と低く呟くやうに言つて、すこし笑つた。
「ウヰスキイは、」
「なんでもいい。普通のものでいいのだ。」
六杯、続け様に、のんだ。
「おつよいのね。」
女が、両側に坐つてゐた。
「さうか。」
乙彦は、少し蒼くなつて、さうして、なんにも言はなかつた。
女たちは、手持ちぶさたの様子であつた。
「かへる。いくらだ。」
「待つて。」左手に坐つてゐた断髪の女が、乙彦の膝を軽くおさへた。「困つたわね。雨が降つてるのよ。」
「雨。」
「ええ。」
逢つたばかりの、あかの他人の男女が、一切の警戒と含羞とポオズを飛び越え、ぼんやり話を交してゐる不思議な瞬間が、この世に、在る。
「いやねえ。あたし、この半襟かけてお店に出ると、きつと雨が降るのよ。」
ちらと見ると、浅黄色のちりめんに、銀糸の芒が、雁の列のやうに刺繍されてある古めかしい半襟であつた。
「晴れないかな。」そろそろポオズが、よみがへつて来てゐた。
「ええ。お草履ぢや、たいへんでせう。」
「よし、のまう。」
その夜は、ふたり、帝国ホテルに泊つた。朝、中年の給仕人が、そつと部屋へはひつて来て、ぴくつと立ちどまり、それから、おだやかに微笑した。
乙彦も、微笑して、
「バスは、」
「ご随意に。」
風呂から出て、高野さちよは、健康な、小麦色の頬をしてゐた。乙彦は、どこかに電話をかけた。すぐ来い、といふ電話であつた。
やがて、ドアが勢よくあき、花のやうに、ぱつと部屋を明るくするやうな笑顔をもつて背広服着た青年が、あらはれた。
「乙やん、ばかだなあ。」さちよを見て、「こんちは。」
「あれは、」
「あ。持つて来ました。」黒い箱を、うちポケツトから出して、「みなのむと、死にますよ。」
「眠れないので、ね。」乙彦は、醜く笑つた。
「もつと、いい薬も、あるんですけど。」
「けふは、休め。」青年は、或る大学の医学部の研究室に、つとめてゐた。「遊ばないか。」
青年は、さちよと顔を見合せて、笑つた。
「どうせ、休んで来たんです。」
三人で、ホテルを出て、自動車を拾ひ、浅草。レヴユウを見た。乙彦は、少し離れて坐つてゐた。
「ねえ、」さちよは、青年に囁く。「あのひと、いつでも、あんなに無口なの?」
青年は、快活に笑つた。「いや、けふは特別のやうです。」
「でも、あたし、好きよ。」
青年は、頬をあからめた。
「小説家?」
「いや。」
「画家?」
「いや。」
「さう。」さちよは、何かひとりでうなづいた。赤い襟巻を掻き合せて、顎をうづめた。
レヴユウを見て、それから、外を歩いて、三人、とりやへはひつた。静かな座敷で、卓をかこみ、お酒をのんだ。三人、血をわけたきやうだいのやうであつた。
「しばらく旅行に出るからね、」乙彦は、青年を相手に、さちよが、おや、と思つたほどやさしい口調で言つてゐた。「もう、僕に甘えちや、いけないよ。君は、出世しなければいけない男だ。親孝行は、それだけで、生きることの立派な目的になる。人間なんて、そんなにたくさん、あれもこれも、できるものぢやないのだ。しのんで、しのんで、つつましくやつてさへ行けば、渡る世間に鬼はない。それは、信じなければ、いけないよ。」
「けふは、また、」青年は、美しい顔に泣きべその表情を浮べて、「へんですね。」
「ううん。」乙彦も、幼くかぶりを横に振つて、「それでいいのだ。僕の真似なんかしちや、いけないよ。君は、君自身の誇りを、もつと高く持つてゐていい人だ。それに価する人だ。」
十九のさちよは、うやうやしく青年のさかづきに、なみなみと酒をついだ。
「ぢや出よう。これで、おわかれだ。」
その料亭のまへで、わかれた。青年はズボンに両手をつつ込み、秋風の中に淋しさうに立つて二人を見送つてゐた。
ふたり切りになると、
「あなた、死ぬのね。」
「わかるか。」乙彦は、幽かに笑つた。
「ええ。あたしは、不幸ね。」やつと見つけたと思つたら、もうこの人は、この世のものでは、なかつた。
「あたし、くだらないこと言つてもいい?」
「なんだ。」
「生きてゐて呉れない? あたし、なんでもするわ。どんな苦しいことでも、こらへる。」
「だめなんだ。」
「さう。」このひとと一緒に死なう。あたしは、一夜、幸福を見たのだ。「あたし、つまらないこと言つたわね。軽蔑する?」
「尊敬する。」ゆつくり答へて、乙彦の眼に、涙が光つた。
その夜、二人は、帝国ホテルの部屋で、薬品をのんだ。二人、きちんとソフアに並んで坐つたまま、冷くなつてゐた。深夜、中年の給仕人が、それを見つけた。察してゐたのである。落ちついて、その部屋から忍び出て、そつと支配人をゆり起した。すべて、静粛に行はれた。ホテル全体は、朝までひつそり眠つてゐた。須々木乙彦は、完全に、こと切れてゐた。
女は、生きた。
☆
高野さちよは、奥羽の山の中に生れた。祖先の、よい血が流れてゐた。曾祖父は、医者であつた。祖父は、白虎隊のひとりで、若くして死んだ。その妹が家督を継いだ。さちよの母である。気品高い、無表情の女であつた。養子をむかへた。女学校の図画の先生であつた。峠を越えて八里はなれた隣りのまちの、造り酒屋の次男であつた。からだも、心も、弱い人であつた。高野の家には、土地が少しあつた。女学校の先生をやめても、生活が、できた。犬を連れ、鉄砲をしよつて、山を歩きまはつた。いい画をかきたい。いい画家になりたい。その渇望が胸の裏を焼きこがして、けれども、弱気に、だまつてゐた。
高野さちよは、山の霧と木霊の中で、大きくなつた。谷間の霧の底を歩いてみることが好きであつた。深海の底といふものは、きつとこんなであらう、と思つた。さちよが、小学校を卒業したとしに、父は、ふたたび隣りのまちの女学校に復職した。さちよの学費を得るためであつた。さちよは、父のつとめてゐるその女学校に受験して合格した。はじめ、父とふたり、父の実家に寄宿して、毎朝一緒に登校してゐたのであるが、それでは教育者として、ていさいが悪いのではないか、と父の実家のものが言ひ出し、弱気の父は、それもさうだ、と一も二もなく賛成して、さちよは、その女学校の寮にいれられた。母は、ひとり山の中の家に残つて、くらしてゐた。女学生たちに、さちよの父は、ウリといふ名で呼ばれて、あまり尊敬されては、ゐなかつた。さちよは、おナスと呼ばれてゐた。ウリの蔓になつたナスビといふわけであつた。事実、さちよは、色が黒かつた。自分でも、ひどくぶ器量だと信じてゐた。私は醜いから、心がけだけでも、よくしなければならない、と一生懸命、努力してゐた。いつも、組長であつた。図画を除いては、すべて九十点以上であつた。図画は、六十点、ときたま七十三点なぞといふこともあつた。気弱な父の採点である。
さちよが、四年生の秋、父はさちよのコスモスの写生に、めづらしく「優」をくれた。さちよは、不思議であつた。木炭紙を裏返してみると、父の字で、女はやさしくあれ、人間は弱いものをいぢめてはいけません、と小さく隅に書かれてゐた。はつ、と思つた。
さうして、父は、消えるやうにゐなくなつた。画の勉強に、東京へ逃げて行つた、とも言はれ、母との間に何かあつた、いや、実家と母との間に何かあつた、いや、先生には女ができたのだ、その他さまざまの噂が、さちよの耳にひそひそはひつた。間もなく、母が、自殺した。父の猟銃でのど笛を射つて、即死した。傷口が、石榴のやうにわれてゐた。
さちよは、ひとり残つた。父の実家が、さちよの一身と財産の保護を、引き受けた。女学校の寮から出て、また父の実家に舞ひもどつて、とたんに、さちよは豹変してゐた。
十七歳のみが持つ不思議である。
学校からのかへりみち、ふらと停車場に立寄り、上野までの切符を買ひ、水兵服のままで、汽車に乗つた。東京は、さちよを待ちかまへてゐた。さちよを迎へいれるやいなや、せせら笑つてもみくちやにした。投げ捨てられた鼻紙のやうに、さちよは転々して疲れていつた。二年は、生きた。へとへとだつた。討死と覚悟きめて、母のたつた一つの形見の古い古い半襟を恥づかしげもなく掛けて店に出るほど、そんなにも、せつぱつまつて、そこへ須々木乙彦が、あらはれた。
はじめ、ゆらゆら眼ざめたときには、誰か男の腕にしつかり抱きかかへられてゐたやうに、思はれる。その男の腕に力一ぱいしがみついて、わあ、わあ、声をはりあげて泣いたやうな、気がする。男も一緒に、たしかに、歔欷の声をもらしてゐた。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」さう言つた。誰か、はつきりしない。まさか、父ではなからう。浅草でわかれた、あの青年ではなかつたかしら。とにかく、霧中の記憶にすぎない。はつきり覚醒して、みると、病院の中である。「あなただけでも、強く生きるのだぞ。」その声が、ふと耳によみがへつて来て、ああ、あの人は死んだのだ、と冷くひとり首肯した。おのれの生涯の不幸が、相かはらず鉄のやうにぶあいそに膠着してゐる状態を目撃して、あたしは、いつも、かうなんだ、と自分ながら気味悪いほどに落ちついた。
ドアの外で正服の警官がふたり見張りしてゐることをやがて知つた。どうするつもりだらう。忌はしい予感を、ひやと覚えたとき、どやどやと背広服着た紳士が六人、さちよの病室へはひつて来た。
「須々木が、ホテルで電話をかけたさうだね。」
「ええ。」あはれに微笑んで答へた。
「誰にかけたか知つてるね?」
うなづいた。
「そいつは?」
「わかい人でした。」
「名前さ。」
「存じません。」
紳士たちの私語が、ひそひそ室内に充満した。
「まあ、いい。これからすぐ警視庁へ来てもらふ。歩けないことは、あるまい。」
自動車に乗せられ、窓からちまたを眺めると、人は、寒さうに肩をすくめて、いそがしさうに歩いてゐた。ああ、生きてゐる人が、たくさん在るのだ、と思つた。
留置場に入れられて、三日、そのまま、ほつて置かれた。四日目の朝、調室に呼ばれて、
「やあ、君は、なんにも知らんのだねえ。ばかばかしい。かへつてもよろしい。」
「はあ。」
「帰つて、よろしい。これからは、気をつけろ。まともに暮すのだぞ。」
ふらふら調室から出ると、暗い廊下に、あの青年が立つてゐた。
さちよは少し笑ひかけて、そのまま泣き出し、青年の胸に身を投げた。
「かへりませう。僕には、なんのことやら、わけがわかりません。」
この人だ。あの昏睡のときの、おぼろげな記憶がよみがへつて来た。あのとき私は、この人に、しつかり抱かれてゐた。うなづいて、つと青年の胸から離れた。
外へ出て、日のひかりが、まばゆかつた。二人だまつて、お濠に沿つて歩いた。
「どう話していいのか、」青年は煙草に火を点じた。ひよいと首を振つて、「とにかく、おどろいたなあ。」あきらかに興奮してゐた。
「すみません。」
「いや、そのことぢやないんだ。いや、そのことも、たいへんだつたが、それよりも、乙やんが、いや、須々木さんのこと、あなただつて何も知らんのでせう?」
「知つてゐます。」
「おや?」
「おなくなりに、」言ひかけて涙が頬を走つた。
「そのことぢやないんです。」青年は厳粛に口をひきしめ、まつすぐを見つめた。「それも僕には、いや、あなたにだつて、おそろしい打撃なんだが、」煙草を捨てた。「そのことよりも、ほかに、──須々木さんは、ね、たいへんなことをやつたらしいんだ。あなたとのことも、まだ、新聞には、出てゐませんよ。記事差止といふやつらしいのです。あなたのことも、僕のことも、警察ぢや、ずいぶんくはしく調べてゐました。僕は、ひどいめにあつちやつた。それは、きびしく調べられました。あなただつて、あの二日まへにはじめて逢つただけなんださうだし、僕だつて、須々木さんとは親戚で、小さい時から一緒に遊んで、僕は、乙やんを好きだつたし、」ちよつと、とぎれた。突風のやうに嗚咽がこみあげて来たのを、あやふくこらへた。「やつと、僕たち、なんにも知らなかつたのだといふことが判つて、ひとまづ釈放といふところなのです。ひとまづ、ですよ。これから、何か事あるごとに呼び出されるらしいのだから、あなたも、その覚悟をしてゐて下さいね。あなたは、からだも、まだ全快ぢやないのだし、僕が、責任を以て、あなたの身柄を引き受けました。」
「すみません。」ふたたび、消え入るやうにわびを言つた。
「いいえ。僕のことは、どうでもいいんだけど、」青年は、あれこれ言つてゐるうちに、この一週間、自分の嘗めて来た苦悩をまざまざと思ひ起し、流石に少し不気嫌になつて、「あなたは、これからどうします? 僕の下宿に行きますか? それとも、──」
ふたりは、もう帝劇のまへまで来てゐた。
「入舟町へかへります。」入舟町の露路、髪結さんの二階の一室を、さちよは借りてゐた。
「は、さうですか。」青年は、事務的な口調で言つた。いよいよ不気嫌になつてゐた。「お送りしませう。」
自動車を呼びとめ、ふたり乗つた。
「おひとりで居られるのですか。」
さちよは答へなかつた。
青年の、のんきな質問に、異様な屈辱を感じて、ぐつと別な涙が、くやし涙が、沸いて出て、それでも思ひ直して、かなしく微笑んだ。このひとは、なんにも知らないのだ。私たちが、どんなにみじめな、くるしい生活をしてゐるのか、このお坊ちやんには、なんにもわかつてゐないのだ。さう思つたら、微笑が、そのまま凍りついて、みるみる悪鬼の笑ひに変つていつた。
☆
男は、何人でも、ゐます。さう答へてやりたかつた。おのれは醜いと恥ぢてゐるのに、人から美しいと言はれる女は、そいつは悲惨だ。風の音に、鶴唳に、おどかされおびやかされ、一生涯、滑稽な罪悪感と闘ひつづけて行かなければなるまい。高野さちよは、美貌でなかつた。けれども、男は、熱狂した。精神の女人を、宗教でさへある女人をも、肉体から制御し得る、といふ悪魔の囁きは、しばしば男を白痴にする。そのころの東京には、モナ・リザをはだかにしてみたり、政岡の亭主について考へてみたり、ジヤンヌ・ダアクや一葉など、すべてを女体として扱ふ疲れ果てた好色が、一群の男たちの間に流行してゐた。そのやうな極北の情慾は、謂はばあの虚無ではないのか。しかもニヒルには、浅いも深いも無い。それは、きまつてゐる。浅いものである。さちよの周囲には、ずいぶんたくさんの男が蝟集した。その青白い油虫の円陣のまんなかにゐて、女ひとりが、何か一つの真昼の焔の実現を、愚直に夢見て生きてゐるといふことは、こいつは悲惨だ。
「あなたは、どうお思ひなの? 人間は、みんな、同じものかしらん。」考へた末、そんなことを言つてみた。「あたしは、ひとり、ひとり、みんな違ふと思ふのだけれど。」
「心理ですか? 体質ですか?」わかい医学研究生は、学校の試験に応ずるやうな、あらたまつた顔つきで、さう反問した。
「いいえ。あたし、きざねえ。ちよつと、気取つてみたのよ。」すこしまへに泣いてゐたひととも思はれぬほど、かん高く笑つた。歯が氷のやうにかがやいて、美しかつた。
その橋を越せば、入舟町である。
「寄つて行かない?」あたしは、バアの女給だ。
部屋へはひると、善光寺助七が、部屋のまんなかに、あぐらをかいて坐つてゐた。青年と顔を見合せ、善光寺は、たちまち卑屈に、ひひと笑つて、
「あなたも、おどろいたでせう? おれだつて、まさに、腰を抜かしちやつた。さちよ君はね、いつでも、こんなこと、平気でやらかすものだから、弱るです。社へ情報がはひつて、すぐ病院へ飛んでいつたら、この先生、ただ、わあわあ泣いてゐるんでせう? わけがわからない。そのうちに警視庁から、記事の差止だ。ご存じですか? 須々木乙彦つて、あれは、ただの鼠ぢやないんですね。黒色テロ。銀行を襲撃しちやつた。」
憮然と部屋の隅につつ立つてゐた青年は、
「たしかですか?」蒼ざめてゐた。
「もう、五六日したら、記事も解禁になるだらうと思ひますが。」善光寺は、新聞社につとめてゐた。
さちよは、静かに窓のカーテンをあけた。あたしは、病院でこの善光寺助七の腕に抱かれて泣いたのだ。
「あなたは、いつから来てゐたの?」冷い語調であつた。
「おれかい?」死んだ大倉喜八郎翁にそつくりの丸い顔を、ぱつとあからめ、子供のやうにはにかんだ。
「ほんの、少しまへです。けさ早く警視庁へ電話したら、あなたたちの出ることを知らせて呉れたので、とにかく、ここへ来てみたわけです。したのをばさん心配してゐたぜ。留守に何度も何度も刑事が来て、この部屋を掻きまはしていつたさうだ。をばさんには、おれから、うまく言つて置きました。まあ、お坐りなさい。」さちよの顔を笑つてそつと見上げ、「よかつたね。よく、君は、無事で、──」涙ぐんでゐた。
さちよは、机の上に片手をつき、崩れるやうに坐つて、
「よくもないわ。煙草ないの? おやおや、あたし、あなたの顔を見ると、急に、煙草ほしくなるのね。」
「これは、ごあいさつだな。」助七は、それでも、恐悦であつた。
「僕は、しつれいしませう。」青年は、先刻から襖にかるく寄りかかり、つつ立つたままでゐた。
「さう?」さちよは、きよとんとした顔つきで青年を見上げ、煙草のけむりをふつと吐いた。
「御自重なさいね。僕は、責任をもつて、あなたを引き受けたのです。須々木さんのためにも、しつかりしてゐて下さい。僕は、乙やんを信じてゐるのだ。どんなことがあつたつて、僕は乙やんを支持する。ぢやあまた、そのうち、来ます。」
「どうも、けふは、ありがたう。」蓮葉な口調で言つて、顔を伏せ、そつと下唇を噛んだ。
青年を見送りに立たうともせず、顔を伏せたままで、じつとしてゐた。階段を降りて行く青年の足音が聞えなくなつてから、ふつと顔をあげて、
「助七。あたしは、おまへと一緒にゐる。どんなことがあつても離れない。」
「よせやい。」助七は、めづらしくきびしい顔つきで、さう言つた。「おれは、それはどばかぢやない。」つと立つて、青年のあとを追つた。
「君、君。」新富座のまへで、やつと追ひついた。「話したいことがあるのだがねえ。」
青年は、振りかへつて、
「僕は、あなたを憎んでゐません。好きです。」
「まあ、さう言ふな。」にやにやして言つたのであるが、青年の、街路樹の下にすらと立つてゐる絵のやうに美しい姿を見て、流石にぐつと真面目になつた。いい男だなあ、と思つた。「すこし、君に、話したいことがあるのだけれど、なに、ちよつとでいいのです。つき合つて呉れませんか。おれだつて、──」言ひ澱んで、「君を好きです。」
三好野へはひつた。
「須々木乙彦、といふのは、あなたの親戚なんですつてね?」あなた、といつたり、君といつたり、助七は、秩序がなかつた。
「いとこですが。」青年は、熱い牛乳を啜つてゐた。朝から、何もたべてゐなかつた。
「どんな男です。」真剣だつた。
「僕の、僕たちの、──」青年は、どもつた。
「英雄ですか?」助七は、苦笑した。
「いいえ。愛人です。いのちの糧です。」
その言葉が、助七を撃つた。
「ああ、それはいい。」貧苦より身を起し、いままで十年間、こんな純粋の響の言棄を、聞いたことがなかつた。「おれは、ことし二十八だよ。十七のとしから給仕をして、人を疑ふことばかり覚えて来た。君たちは、いいなあ。」絶句した。
「ポオズですよ、僕たちは。」青年の左の眼は、不眠のために充血してゐた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じてゐました。」
「おれだつて、いのちの糧を持つてゐる。」
低くさう言つて、へんに親しげに青年の顔をしげしげ眺めた。
「存じて居ります。」
「一言もない。おれは、もともと賎民さ。たかだか一個の肉体を、肉体だけを、」言ひかけてふつと口を噤み、それからぐつと上半身を乗り出させて、「あなたは、あの女を、どう思ひますか?」
「気の毒な人だと思つてゐます。」用意してゐたのではないかと思はれるほど、涼しく答へた。
「それだけですか? いや、ここだけの話ですけれども、ね。奇妙な、何か、感じませんか?」
青年は、顔をあからめた。
「それごらん。」助七は、下唇を突き出し、にやと笑つた。「やつぱりさうだ。だけど、あなたは、まだいい。たつた一日だ。おれは、かれこれ、一年になります。三百六十五日。さうだ、あなたの三百六十五倍も、おれはあの女に苦しめられて来たのです。いや、あの女には、罪はない。それは、あのひとの知らないことだ。罪は、おれの下劣な血の中に在る。笑つて呉れ。おれは、あの女に勝ちたい。あの人の肉体を、完全に、欲しい。それだけなんだ。おれは、あの人に、ずいぶんひどく軽蔑されて来ました。憎悪されて来た。けれども、おれには、おれの、念願があるのだ。いまに、おれは、あの人に、おれの子供を生ませてやります。玉のやうな女の子を、生ませてやります。いかがです。復讐なんかぢや、ないんだぜ。そんなけちなことは、考へてゐない。そいつは、おれの愛情だ。それこそ愛の最高の表現です。ああ、そのことを思ふだけでも、胸が裂ける。狂ふやうになつてしまひます。わかるかね。われわれ賎民のいふことが。」ねちねち言つてゐるうちに、唇の色も変り、口角には白い泡がたまつて、兇悪な顔にさへ見えて来た。「こんどの須々木乙彦とのことは、ゆるす。いちどだけは、ゆるす。おれは、いま、ずいぶんばかにされた立場に在る。おれにだつて、それは、わかつてゐます。はらわたが煮えくりかへるやうだつてのは、これは、まさしく実感だね。けれどもおれは、おれを軽蔑する女を、そんな虚傲の女を、たまらなく好きなんだ。蝶々のやうに美しい。因果だね。うんと虚傲になるがいい。どうです、これからも、あの女と、遊んでやつて呉れませんか。それは、おれから、たのむのだ。卑屈からぢやない。おれは、もともと高尚な人間を、好きなんだ。讃美する。君は、とてもいい。素晴らしい。皮肉でも、いやみでも、なんでもない。君みたいないい人と、おとなしく遊んで居れば、だいぢやうぶ、あいつは、もつと、か弱く、美しくなる。そいつは、たしかだ。」たらとよだれが、テエブルのうへに落ちて、助七あわててそれを掌で拭き消し、「あいつを、美しくして下さい。おれの、とても手のとどかないやうな素晴らしい女にして下さい。ね、たのむ。あいつには、あなたが、絶対に必要なんだ。おれの直感にくるひはない。畜生め。おれにだつて、誇があらあ。おれは、地べたに落ちた柿なんか、食ひたくねえのだ。」
青年は陰鬱に堪へかねた。
☆
さちよは、ふたたび汽車に乗つた。須々木乙彦のことが新聞に出て、さちよもその情婦として写真まで掲載され、たうとう故郷の伯父が上京し、警察のものが中にはひり、さちよは伯父と一緒に帰郷しなければならなくなつた。謂はば、廃残の身である。三年ぶりに見る、ふるさとの山川が、骨身に徹する思ひであつた。
「ねえ、伯父さん、おねがひ。あたしは、これからおとなしくするんだから、おとなしくしなければならないのだから、あたしをあまり叱らないでね。まちのお友達とも、誰とも、顔を合せたくないの。あたしを、どこかへ、かくして、ね。あたし、なんぼでも、おとなしくしてゐるから。」
十二、三歳のむすめのやうに、さちよは汽車の中で、繰りかへし繰りかへし懇願した。親戚の間で、この伯父だけは、さちよを何かと不憫がつてゐた。伯父は、承諾したのである。故郷のまちの二つ手前の駅で、伯父とさちよは、こつそり下車した。その山間の小駅から、くねくね曲つた山路を馬車にゆられて、約二十分、谷間の温泉場に到着した。
「いいか。当分は、ここにゐろ。おれは、もう何も言はぬ。うちの奴らには、おれから、いいやうに言つて置く。おまへも、もう、来年は、はたちだ。ここでゆつくり湯治しながら、よくよく将来のことを考へてみるがいい。おまへは、おまへの祖先のことを思つてみたことがあるか。おれの家とは、較べものにならぬほど立派な家柄である。おまへがもし軽はづみなことでもして呉れたなら、高野の家は、それつきり断絶だ。高野の血を受け継いで生きてゐるのは、いいか、おまへひとりだ。家系は、これは、大事にしなければいけないものだ。いまにおまへにも、いろいろあきらめが出て来て、もつと謙遜になつたとき、家系といふものが、どんなに生きることへの張りあひになるか、きつとわかる。高野の家を興さうぢやないか。自重しよう。これは、おれからのお願ひだ。また、おまへの貴い義務でもないのか。多くは無いが、おまへが一家を創生するだけの、それくらゐの財産は、おれのうちで、ちやんと保管してあります。東京での二年間のことは、これからのおまへの生涯に、かへつて薬になるかも知れぬ。過ぎ去つたことは、忘れろ。さういつても、無理かも知れぬが、しかし人間は、何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負つて、それでも、堪へて、そ知らぬふりして生きてゐるのではないのか。おれは、さう思ふ。まあ、当分、静かにして居れ。苦痛を、何か刺戟で治さうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法がいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここに居れ。おれは、これから、うちへ帰つて、みなに報告しなければいけない。悪いやうには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買ひたいものが、あるなら、宿へさう言ふがいい。おれから、宿のひとに頼んで置く。」
さちよは、ひとり残された。提燈をもつて、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞへながら降りていつて、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々と流れてゐる谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼつと鼻のさきに浮んだ。疲れてゐた。ひつそり湯槽にひたつてゐると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞んでいつて、白痴のやうにぽかんとするのだ。なんだか恥づかしい身の上になつてゐながら、それでもばかみたいに、こんなにうつとりしてゐるといふことは、これは、あたしの敗北かも知れないけれど、人は、たまには、苦痛の底でも、うつとりしてゐたつて、いいではないか。水車は、その重さうなからだを少しづつ動かしてゐて、一むれの野菊の花は提燈のわきで震へてゐた。
このまま溶けてしまひたいほど、くたくたに疲れ、また提燈持つて石の段々をひとつ、ひとつ、のぼつて部屋へかへるのだ。宿は、かなり大きかつた。まつ暗い長い廊下に十いくつもの部屋がならび、ところどころの部屋の障子が、ぼつと明るく、その部屋部屋にだけは、客のゐることが、わかるのだ。一ばんめの部屋は暗く、二ばんめの部屋も暗く、三ばんめの部屋は明るく、障子がすつとあいて、
「さつちやん。」
「どなた?」おどろく力も失つてゐた。
「ああ、やつぱりさうだ。僕だよ。三木、朝太郎。」
「歴史的。」
「さうさ。よく覚えてゐるね。ま、はひりたまへ。」三木朝太郎は三十一歳、髪の毛は薄くなつてゐるけれども、派手な仕事をしてゐた。劇作家である。多少、名前も知られてゐた。
「おどろきだね。」
「歴史的?」
三木朝太郎は苦笑した。歴史的と言ふのがかれの酔つぱらつたときの口癖であつて、銀座のバアの女たちには、歴史的さんと呼ばれてゐた。
「まさに、歴史的だ。まあ、坐りたまへ。ビイルでも呑むか。ちよつと寒いが、君、湯あがりに一杯、ま、いいだらう。」
歴史的さんの部屋には、原稿用紙が一ぱい散らばつて、ビイル瓶が五、六本、テエブルのわきに並んでゐた。
「かうして、ひとりで呑んでは、少しづつ仕事をしてゐるのだが、どうもいけない。どんな奴でも、僕より上手なやうな気がして、もう、だめだね、僕は。没落だよ。この仕事が、できあがらないことには、東京にも帰れないし、もう十日以上も、こんな山宿に立てこもつて七転八苦、めもあてられぬ仕末さ。さつきね、女中からあなたの来てゐることを聞いたんだ。呆然としたね。心臓が、ぴたと止つたね。夢では、ないか。」
テエブルのむかふにひつそり坐つた小さいさちよの姿を、やさしく眺めて、
「僕は、ばかなことばかり言つてるね。それこそ歴史的だ。てれくさいんだよ。からだばかりわくわくして、どうにもならない。」ふと眼を落して、ビイルを、ひとりで注いで、ひとりで呑んだ。
「自信を、お持ちになつていいのよ。あたし、うれしいの。泣きたいくらゐ。」嘘は、なかつた。
「わかる。わかる。」歴史的は、あわてて、「でも、よかつた。くるしかつたらうね。いいんだ、いいんだ。僕は、なんでも、ちやんと知つてゐる。みんな知つてゐる。こんどの、あのことだつて、僕は、ちつとも驚かなかつた。いちどは、そこまで行くひとだ。そこをくぐり抜けなければ、いけないひとだ。あなたの愛情には、底がないからな。いや、感受性だ。それは、ちよつと驚異だ。僕は、ほとんど、どんな女にでも、いい加減な挨拶で応対して、また、それでちやうどいいのだが、あなたにだけは、それができない。あなたは、わかるからだ。油断ならない。なぜだらう。そんな例外は、ない筈なんだ。」
「いいえ。女は、」すすめられて茶呑茶碗のビイルをのんだ。「みんな利巧よ。それこそなんでも知つてゐる。ちやんと知つてゐる。いい加減にあしらはれてゐることだつて、なんだつて、みんな知つてゐる。知つてゐて、知らないふりして、子供みたいに、雌のけものみたいに、よそつてゐるのよ。だつて、そのはうが、とくだもの。男つて、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気で居るらしいのね。犬は、爪を隠せないのね。いつだつたかしら、あたしが新橋駅のプラツトフオームで、秋の夜ふけだつたわ、電車を待つてゐたら、とてもスマートな犬が、フオツクステリヤといふのかしら、一匹あたしの前を走つていつて、あたしはそれを見送つて、泣いたことがあるわ。かちかちかちかち、歩くたんびに爪の足音が聞えて、ああ犬は爪を隠せないのだ、と思つたら、犬の正直が、いぢらしくて、男つて、あんなものだ、と思つたら、なほのこと悲しくて、泣いちやつた。酔つたわよ。あたし、ばかね。どうして、こんなに、男を贔負するんだろ。男を、弱いと思ふの。あたし、できることなら、からだを百にして千にしてたくさんの男のひとを、かばつてやりたいとさへ思ふわ。男は、だつて、気取つてばかりゐて可哀さうだもの。ほんたうの女らしさといふものは、あたし、かへつて、男をかばふ強さに在ると思ふの。あたしの父は、女はやさしくあれ、とあたしに教へてゐなくなつちやつたけれど、女のやさしさといふものは、──」言ひかけて、ものに驚いた鹿のやうに、ふつと首をもたげて耳をすまし、
「誰か来るわ。あたしを隠して。ちよつとでいいの。」につと笑つて、背後の押入れの襖をあけ、坐りながらするするからだを滑り込ませ、
「さあさ、あなたは、お仕事。」
「よし給へ。それも女の擬態かね?」歴史的は、流石に聡明な笑顔であつた。「この部屋へ来る足音ぢやないよ。まあ、いいからそんな見つともない真似はよしなさい。ゆつくり話さうぢやないか。」自分でも、きちんと坐り直してさう言つた。痩せて小柄な男であつたが、鉄縁の眼鏡の底の大きい眼や、高い鼻は、典雅な陰影を顔に与へて、教養人らしい気品は、在つた。
「あなた、お金ある?」押入れのまへに、ぼんやり立つたままで、さちよは、そんなことを呟いた。「あたし、もう、いやになつた。あなたを相手に、こんなところで話をしてゐると、死ぬるくらゐに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのかうのと、きざに、あたしをいぢくり廻すものだから、あたし、いいあんばいに忘れてゐた、あたしの不幸、あたしの汚なさ、あたしの無力、みんな一時に思ひ出しちやつた。東京は、いいわね。あたしより、もつと不幸な人が、もつと恥づかしい人が、お互ひ説教しないで、笑ひながら生きてゐるのだもの。あたし、まだ、十九よ。あきらめ切つたエゴの中で、とても、冷く生きて居れない。」
「脱走する気だね。」
「でも、あたし、お金がないの。」
三木は、ちらと卑しく笑ひ、そのまま頭をたれて考へた。ずいぶん大袈裟な永い思案の素振りであつた。ふと顔をあげて、
「十円あげよう。」ほとんど怒つてゐるやうな口調で、「君は、ばかだ。僕は、ずいぶん、あなたを高く愛して来た。あなたは、それを知らない。僕には、あなたの、ちよつとした足音にもびくついて、こそこそ押入れに隠れるやうな、そんなあさましい恰好を、とても、だまつて見て居れない。いまのあなたにお金をあげたら、僕は、ものの見事に背徳漢かも知れない。けれども、これは僕の純粋衝動だ。僕は、それに従ふ。僕には、この結果が、どうなるものか、わからない。それは、神だけが知つてゐる。生きるものに権利あり。君の自由にするがいい。罪は、われらに無い。」
「ありがたう。」くすと笑つて、「あなたは、ずいぶん嘘つきね。それこそ、歴史的よ。ごめんなさい。ぢや、また、あとで、ね。」
三木朝太郎は、くるしく笑つた。
☆
東京では、昭和六年の元旦に、雪が降つた。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木の林の陰に、外套の襟を立て、無帽で、煙草をふかしながら、いらいら歩きまはつてゐる男が在つた。これは、どうやら、善光寺助七である。
ひよつくり木立のかげから、もうひとり、二重まはし着た小柄な男があらはれた。三木朝太郎である。
「ばかなやつだ。もう来てやがる。」三木は酔つてゐる様子である。「ほんたうに、やる気なのかね。」
助七は、答へず、煙草を捨て、外套を脱いだ。
「待て。待て。」三木は顔をしかめた。「薄汚い野郎だ。君は一たい、さちよをどうしようといふのかね。ただ、腕づくでも取る、戸山が原へ来い、片輪にしてやる、では、僕は君の相手になつてあげることができない。」
ものも言はず、助七うつてかかつた。
「よせ!」三木は、飛びのいた。「逆上してやがる。いいか。僕の話を、よく聞け。ゆうべは、僕も失礼した。要らないことを言つた。」
ゆうべは、新宿のバアで一緒にのんだ。かねて、顔見知りの間柄である。ふと、三木が、東北の山宿のことに就いて、口を滑らせた。さちよの肉体を、ちらと語つた。それから、やい、さちよはどこにゐる。知らない。嘘つけ、貴様がかくした。よせやい、見つともねえぞ、意馬心猿。それから、よし、腕づくでも取る、戸山が原へ来い、片輪にしてやる、といふことになつたのである。三木も、蒼ざめて承知した。元旦、正午を約して、ゆうべはわかれた。
「さちよの居どころは、僕は、知つてゐる。」三木は、落ちつきを見せるためか、煙草をとりだし、マツチをすつた。雪の原を撫でて来るそよ風が、二度も三度もマツチの焔を吹き消し、やつと煙草に火をつけて、「だけど、僕とは、なんでも無い。あのひとは、いま、一生懸命、勉強してゐる。学問してゐる。僕は、それは、あのひとのために、いいことだと思つてゐる。あのひとに在るのは、氾濫してゐる感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕は、やつぱり教養が、必要だと思ふ。叡智が必要だと思ふ。山中の湖水のやうに冷く曇りない一点の叡智が必要だと思ふ。あのひとには、それがないから、いつも行為がめちやめちやだ。たとへば、君のやうな男にみこまれて、それで身動きができずに、──」
「恥づかしくないかね。」助七は、せせら笑つた。「けさから考へに考へて暗記して来たやうな、せりふを言ふなよ。学問? 教養? 恥づかしくないかね。」
三木は、どきつとした。われにもあらず、頬がほてつた。こいつ、なんでも知つてゐる。
「不愉快な野郎だ。よし、相手になつてやる。僕は、君みたいな奴は、感覚的に憎悪する。宿命的に反撥する。しかし、最後に聞くが、君は、さちよを、どうするつもりだ。」煙草の火は消えてゐた。消えてゐるその煙草を、すぱすぱ吸つて、指はぶるぶる震へてゐた。
「どうするも、かうするも無いよ。」こんどは、助七のはうが、かへつて落ちついた。「いまに居どころをつきとめて、おれは、おれの仕方で大事にするんだ。いいかい。あの女は、おれでなければ、だめなんだ。おれひとりだけが知つてゐる。おめえは山の宿で、たつた一晩、それだけを手がら顔に、きやあきやあ言つてゐやがる。あとは、もう、おめえなんかに鼻もひつかけないだらう。あいつは、そんな女だ。」
三木は思はず首肯いた。まさに、そのとほりだつたのである。
「だが、おい。」助七は、さらに勢よく一歩踏み出し、「その一晩だつて、おめえには、ゆるさぬ。がまんできない。よくも、よくも。」
「さうか、わかつた。相手になる。僕も君には、がまんできない。よくよく思ひあがつた野郎だ。」煙草をぽんとはふつて、二重まはしを脱ぎ、さらに羽織を脱ぎ、ちよつと思案してから兵古帯をぐるぐるほどき、着物まですつぽり脱いで、シヤツと猿又だけの姿になり、
「女を肉体でしか考へることができないとは、気の毒なものさ。こちらにまで、その薄汚さの臭ひが移ら。君なんかと取組んで着物をよごしたら、洗つても洗つてもしみがとれまい。やくかいなことだ。」言ひながら、足袋を脱ぎ、高足駄を脱ぎ捨て、さいごに眼鏡をはづし、「来い!」
ぴしやあんと雪の原、木霊して、右の頬を殴られたのは、助七であつた。間髪を入れず、ぴしやあんと、ふたたび、こんどは左。助七は、よろめいた。意外の強襲であつた。うむ、とふんばつて、腰を落し、両腕をひろげて身構へた。取組めば、こつちのものだと、助七にはまだ、自信があつた。
「なんだい、それあ。田舎の草角力ぢやねえんだぞ。」三木は、さう言ひ、雪を蹴つてぱつと助七の左腹にまはり、ぐわんと一突き助七の顎に当てた。けれども、それは失敗であつた。助七は三木のそのこぶしを素早くつかまへ、とつさに背負投、あざやかにきまつた。三木の軽いからだは、雪空に一回転して、どさんと落下した。
「ちきしやう。味なことを。」三木は、尻餅つきながらも、力一ぱい助七の下腹部を蹴上げた。
「うつ。」助七は、下腹をおさへた。
三木はよろよろ立ちあがつて、こんどは真正面から、助七の眉間をめがけ、ずどんと自分の頭をぶつつけてやつた。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひつくりかへり、しばらく、うごかうともしなかつた。鼻孔からは、鼻血がどくどく流れ出し、両の眼縁がみるみる紫色に腫れあがる。
はるか遠く、楢の幹の陰に身をかくし、真赤な、ひきずるやうに長いコオトを着て、蛇の目傘を一本胸にしつかり抱きしめながら、この光景をこはごは見てゐる女は、さちよである。
さちよは、あの翌る日に出京して、さうして別段、勉強も、学問も、しなかつた。もと銀座の同じバアにつとめてゐて、いまは神田のダンスホオルで働いてゐる友人がひとり在つて、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯をしたり、食事の手伝ひをしてやつたり、毎日そんなことで日を送つてゐた。べつに、あわてて仕事を見つけようともしなかつた。流石に、ふたたびバアの女給は、気がすすまない様子であつた。そのうちに、三木朝太郎は、山の宿から引きあげて来て、どこで聞きこんだものか、さちよの居所を捜し当て、にやにやしながら、どうだい、女優になつてみないか、などと言ふのだが、さちよは、おやおや、たいへんねえ、と笑つて相手にしなかつた。三木は、それでも断念せず、ときどきアパアトにふらと立ち寄つては、ストリンドベリイやチエホフの戯曲集を一冊二冊と置いていつた。けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子の友だちと話合ひ、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀しながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シヤツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力に遭つて、宙に一廻転してゐるところであつた。さちよは、ひとりで大笑ひした。見てゐると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたはむれてゐるやうで、期待してゐた決闘の凛烈さは、少しもなかつた。二人の男も、なんだか笑ひながらしてゐるやうで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひつくりかへり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになつて、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走つて三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしやと三木の頬をぶつた。
三木は、ふりかへつて、
「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがつて、さつさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛してゐるのか。」
さちよは、烈しく首を振つた。
「それぢや、そんな、おセンチな正義感は、よしたまへ。いいかい。憐憫と愛情とは、ちがふものだ。理解と愛情とは、ちがふものだ。」言ひながら、身なりを調へ、いつもの、ちよつと気取つた歴史的さんにかへつて、「さあ、帰らう。君は、君の好ききらひに、もつとわがままであつて、いいんだぜ。きらひな奴は、これは、だめさ。どんなに、つき合つたつて、好きになれるものぢやない。」
助七は、仰向に寝ころんだまま、両手で顔を覆ひ、異様に唸つて泣いてゐた。
三木の二重まはしの中にかくれるやうにぴつたり寄り添ひ、半丁ほど歩いて、さちよは振り向いてみて、ぎよつとした。助七は、雪の上に大あぐらをかき、さちよの置き忘れた柳の絵模様の青い蛇の目傘を、焚火がはりに、ぼうぼう燃やしてあたつてゐた。ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はつきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬されてゐるやうな思ひであつた。
本編には、女優高野幸代の女優としての生涯を記す。
高野さちよを野薔薇としたら、八重田数枝は、あざみである。大阪の生れで、もともと貧しい育ちの娘であつた。お菓子屋をしてゐる老父母は健在である。多くの弟妹があつて数枝はその長女である。小学校を出たきりで、そのうちに十九歳、問屋からしばしばやつて来るお菓子職人と遊んで、ふたり一緒に東京へ出て来た。父母も、はんぶんは黙許のかたちであつた。お菓子職人、二十三歳。上京して、早速、銀座のベエカリイに雇はれた。薄給である。家を持つことは、できず、数枝も同じ銀座で働いた。あまり上品でないバアである。少しづつ離れて、たちまち加速度を以て、離れてしまつた。その職人には、いま、妻も子も在る。数枝は、平凡な女給である。人生は、こんなものだ。ひとは、たよりにならない。幼いころから、さう教へられ、さうして、そのとほりに思ひこんでゐた。二十四になつて銀座のバアをよして、踊子になつた。このはうが、いくらか余計お金がとれるからである。そのとしの十一月下旬、朝ふと眼を醒ますと、以前おなじ銀座のバアにつとめてゐた高野さちよが、しよんぼり枕もとに坐つてゐた。
「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝てゐる数枝の顔をぴたとはさんだ。
数枝には、何もかもわかつた。
「ばかなことばかりして。」さう言ひながら起きあがり、小さいさちよを、ひしと抱いた。何事もなかつたやうにすぐ離れて、
「おかずは? やはり納豆かね。」
さちよも、いそいそ襟巻をはづして、
「あたし買つて来よう。数枝は、つくだ煮だつたね。海老のつくだ煮買つて来てあげる。」
出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスの栓をひねつて、ごはんの鍋をのせ、ふたたび蒲団の中にもぐり込んだ。
さうして、その日から、さちよの寄棲生活がはじまつた。年の瀬、お正月、これといふいいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まつくらい部屋で寝ながら話した。
「さちよの伯父さんは、でも、いいひとだと思ふよ。過去のことは忘れろ、忘れろ。誰だつて、みんな、深い傷を背負つて、そ知らぬふりして生きてゐるのだ。いいなあ。なかなかわかつた人ぢやないか。あたしは、惚れたね。」ねむさうな声でさう言つて、数枝は、しづかに寝返りを打つた。
「かへれつていふの?」さちよは蒲団の中で小さくちぢこまつて、心細げに反問した。
「まあね。」数枝は大人びた口調で言つて、「だいいち、あの、歴史的は、ばかだよ。まさしく変人だね。いや、もつとわるい。婦女誘拐罪。咎人だよ、あれは。ろくなことを、しやしない。要らないことを、そそのかして、さうしてまたのこのこ、平気でここへ押しかけて来て、まるで恩人か何かのやうに、あの、きざな口のきき様つたら。どこまで、しよつてるのか、判りやしない。阿呆や。あの眼つきを、ごらんよ。どうしたつて、ふつうぢやないからね。」
さちよは、くすくす笑つた。
数枝も、こらへ切れず笑つてしまつて、それでも、
「いやな奴さ。笑ひごとぢやないよ。謂はば、女性の敵だね。」
「でも、あたし、知つてるよ。数枝は、はじめから歴史的を好きだつた。」
「こいつ。」
女ふたり、腹をおさへて、笑ひころげた。
「かへらぬ昔さ。」てれ隠しに数枝は、わざと下手な言葉を言つて、「どうも、なんだね、あたしたち、男運がわるいやうだね。」
「いいえ、」ときどきさちよは、ふつと水のやうに冷い語調に澄まし帰ることがある。大笑ひのあとにでも、あたりの雰囲気におかまひなしに、一瞬、もう静かな口調で、ものを言ひ出す。へんな癖である。「あたしは、さうは思はない。あたしは、どんな男の人でも、尊敬してゐる。」
数枝は、流石に気まづくなつた。われにも無く、むりにしんみりした口調で、
「わかいからねえ。」言つてしまつて、いよいよいけないと思つた。どうにも、自分が、ぶざまである。閉口して、たうとうやけに、屹つとなつてしまつて、「ばかなこと、お言ひでないよ。ギヤングだの、低脳記者だの、ろくなものありやしない。さちよを、ちつとでも仕合せにして呉れた男が、ひとりだつて、無いやないか。それを、尊敬してゐます、なんて、きざなこと。」
「それは、少しちがふね。」こんどは、さちよは、おどけた口調にかへつて、「男にしなだれかかつて仕合せにしてもらはうと思つてゐるのが、そもそも間違ひなんです。虫が、よすぎるわよ。男には、別に、男の仕事といふものがあるのでございますから、その一生の事業を尊敬しなければいけません。わかりまして?」
数枝は、不愉快で、だまつてゐた。
さちよは調子に乗つて、
「女ひとりの仕合せのために、男の人を利用するなんて、もつたいないわ。女だつて、弱いけれど、男は、もつと弱いのよ。やつとのところで踏みとどまつて、どうにか努力をつづけてゐるのよ。あたしには、さう思はれて仕方がない。そんなところに、女のひとが、どさんと重いからだを寄りかからせたら、どんな男の人だつて、当惑するわ。気の毒よ。」
数枝は、呆れて、蛮声を発した。
「白虎隊は、ちがふね。」さちよの祖父が白虎隊のひとりだつたことを数枝は、さちよから聞かされて知つてゐた。
「そんなんぢやないのよ。」さちよは、暗闇の中で、とてもやさしく微笑んだ。「あたし、巴御前ぢやない。薙刀もつて奮戦するなんて、いやなこつた。」
「似合ふよ。」
「だめ。あたし、ちびだから、薙刀に負けちやふ。」
ふふ、と数枝は笑つた。数枝の気嫌が直つたらしいので、さちよは嬉しく、
「ねえ。あたしの言ふこと、もすこしだまつて聞いてゐて呉れない? ご参考までに。」
「いふことが、いちいち、きざだな。歴史的氏の悪影響です。」数枝は、気をよくしてゐた。
「あたしは、ね、歴史的さんでも、助七でも、それから、ほかのひとでも、みんな好きよ。わるい人なんて、あたしは、見たことがない。お母さんでも、お父さんでも、みんな、やさしくいいひとだつた。伯父さんでも、伯母さんでも、ずいぶん偉いわ。とても、頭があがらない。はじめから、さうなのよ。あたし、ひとりが、劣つてゐるの。そんなに生れつき劣つてゐる子が、みんなに温く愛されて、ひとり、幸福にふとつてゐるなんて、あたし、もうそんなだつたら、死んだはうがいい。あたし、お役に立ちたいの。なんでもいい、人の役に立つて、死にたい。男のひとに、立派なよそほひをさせて、行く路々に薔薇の花を、いいえ、すみれくらゐの小さい貧しい花でもがまんするわ、一ぱいに敷いてやつて、その上を堂々と歩かせてみたい。さうして、その男のひとは、それをちつとも恩に着ない。これは、はじめからかうなんだと、のんきに平気で、行き逢ふ人、行き逢ふ人にのんびり挨拶をかへしながら澄まして歩いてゐると、まあ、男は、どんなに立派だらう。どんなに、きれいだらう。それを、あたしは、ものかげにかくれて、誰にも知られずに、そつとをがんで、うれしいだらうなあ。女の、一ばん深いよろこびといふものは、そんなところにあるのではないのかしら。さう思はれて仕方がない。」
「わるくないね。」数枝も、耳を傾けた。「参考になる。」
さちよは、一息ついて、
「それを、男つたら、ひとがいいのねえ。だれもかれも、みんな、お坊ちやんよ。お金と、肉体だけが、女のよろこびだと、どこから聞いて来たのか、ひとりできめてしまつて、おかげで自分が、ずいぶんあくせく無理をして、女のはうでは、男のそんなひとりぎめを、ぶちこはすのが気の毒で、いぢらしさに負けてしまふのね。だまつて虚栄と、肉体の本能と二つだけのやうな顔をしてあげてやつてゐるのに、さうすると、いよいよ男は悟り顔してそれにきめてしまふもんだから、すこし、をかしいわ。女のひとは、誰でも、男のひとを尊敬してゐるし、なにかしてあげたいと一心に思ひつめてゐるのに、ちつともそんなことに気がつかないで、ただ、あなたを幸福にできるとか、できないとか言つては、お金持ちのふりをしたり、それから、──をかしいわ、自信たつぷりで、へんなことするんだもの。女が肉体だけのものだなんて、だれが一体、そんなばかなことを男に教へたのかしら。自然に愛情が、それを求めたら、それに従へばいいのだし、それを急に、顔いろを変へたり、色んなどぎつい芝居をして、ばかばかしい。女は肉体のことなんか、そんなに重要に思つてゐないわ。ねえ、数枝なんかだつて、さうなんだらう? いくらひとりでお金をためたつて、男と遊んだつて、いつでも淋しさうぢやないか。あたし、男のひと皆に教へてやりたい。女にほんたうに好かれたいなら、ほんたうに女を愛してゐるなら、ほんの身のまはりのことでもいいから、何か用事を言ひつけて下さい。権威を以て、お言ひつけ下さい、つて。地位や名聞を得なくたつて、お金持ちにならなくたつて、男そのものが、立派に尊いのだから、ありのままの御身に、その身ひとつに、ちやんと自信を持つてゐてくれれば、女は、どんなにうれしいか。お互ひ、ちよつとの思ひちがひで、男も女も、ずいぶん狂つてしまつたのね。歯がゆくつて、仕方がない。お互ひ、それに気がついて、笑ひ合つてやり直せば、──幸福なんだがなあ。世の中は、きつと住みよくなるだらうに。」
「ああ、学問をした。」数枝は、ことさらに大げさなあくびをした。「それで、須々木乙彦は、よかつたのかね。」
数枝の無礼を、気にもかけず、
「あのひと、ね、をかしいのよ。とても、子供みたいな、へんな顔をして、僕は、乳房つて、おふくろにだけあるものだと思つてゐた、といふのよ。それが、ちつとも、気取りでも、なんでもないの。恥づかしさうにしてゐたわ。ああ、この人、ずいぶん不幸な生活して来た人なんだな、と思つたら、あたし、うれしいやら、有難いやら、可愛いやら、胸が一ぱいになつて、泣いちやつた。一生、この人のお傍にゐよう、と思つた。永遠の母親、つていふのかしら。私まで、そんな尊いきれいな気持になつてしまつて、あのひと、いい人だつたな。あたしは、あの人の思想や何かは、ちつとも知らない。知らなくても、いいんだ。あの人は、あたしに自信をつけてくれたんだ。あたしだつて、もののお役に立つことができる。人の心の奥底を、ほんたうに深く温めてあげることができると、さう思つたら、もう、そのよろこびのままで、死にたかつた。でも、こんなに、まるまるとふとつて生きかへつて来て、醜態ね。生きかへつて、こんなに一日一日おなじ暮しをして、それでいいのかしらと、たまらなく心細いことがあるわ。大声で叫び出したく思ふことがあるの。どうせいちど死んだ身なんだし、何でもいい、人のお役に立てるものなら立つてあげたい。どんな、つらいことでも、どんな、くるしいことでも、こらへる。」そつと頭をもたげて、「ねえ、数枝。聞いてゐるの? 歴史的さんね、あのひと、あたし、そんなに悪いひとぢやないと思ふわ。あのひと、あたしを女優にするんだと、ずいぶん意気込んでゐるんだけれど、どんなものだらうねえ、数枝だつて、あたしがいつまでも、ここで何もせずに居候してゐたら、やつぱり、気持が重いでせう? また、あたしが女優になつて、歴史的さんがそれで張り合ひのあるお仕事できるやうなら、あたし、女優になつても、いいと思ふの。あたしがその気になりさへすれば、あとは、手筈が、ちやんときまつてゐるんだつて、さう言つてゐたわ。」
「おまへの好きなやうにするさ。名女優になれるだらうよ。」数枝は、ふたたび不気嫌である。「それは、ね、あたしだつて、くさくさすることは、あるさ。この子は、いつまでもここにゐて、いつたいどうするつもりだらうと、さちよの図々しさが憎くなることもあるよ。でも、あたしは、ひとつことを三分以上かんがへないことに、昔からきめてゐるの。めんだうくさい。どんなに永く考へたつて、結局は、なんのこともない。あたつてみなければ判らないことばかりなんだからね。あほらしい。あたしにだつて、心配なことが、それは、たくさんあるのよ。だから、一つのことは、三分だけ考へて、解決も何もおかまひなしに、すぐつぎに移つて、そいつを三分間だけ考へて、また、つぎのことを三分、そのへんは、なかなか慣れたものよ。心配のたねの引き出しを順々にあけて、ちらと一目調べてみて、すぐにぴたつとしめて、さうして、眠るの。これ、なかなか健康にいいのよ。どうだい、あたしにだつて、相当の哲学があるだらう。」
「ありがたう。数枝、あなたは、いいひとね。」
数枝は、てれて、わざと他のことを言つた。
「やんだね、みぞれが。」
「ええ。」さちよは、言ひたいだけ言つて、あとは無心であつた。「あした、お天気だといいわね。」
「うん。眼がさめてみると、からつと晴れてゐるのは、うれしいからな。」数枝も、なんの気なしに、さう合槌うつて、朝の青空を思へば、やはり浮き浮きするのだが、それだけのことでも、ずいぶん楽しみにして寝る身がいとしく、さて、晴れたからとて、自分には、なんといふこともないのに、とひとりで笑ひたくなつて、蒲団を引きかぶり、眼尻から涙が、つとあふれて落ちて、おや、あくびの涙かしら、泣いてゐるのかしら、と流石にあわて、とにかく、この子が女優になるといふし、これは、ひとつ、後援会でも組織せずばなるまい。
☆
成功であつた。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であつた。青年、高須隆哉は、三日目に見に行つた。幕があく。オリガ、マーシヤ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にゐる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかつた。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
──あの日、寒かつたわね。雪が降つてゐたんだもの。──あたし、とても生きてゐられないやうな、──でも、もうあれから一年たつて、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思ひ出せるやうになつたし、──(時計が十二時を打つ。)
ゆつくり打つ舞台の時計の音を、聞いてゐるうちに青年は、急にきよろきよろしはじめて、ちえつ、ちえつと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立つて廊下に出た。
僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシツサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さへその気になつたら、なんでもできると思つてゐる。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになつたのだらう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちつとも、なんとも、思つてゐない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那だ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしてゐる。恥ぢるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思つてゐた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知してゐる。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を決する。僕は、聖母受胎をさへ、そのまま素直に信じてゐる。そのために、科学者としての僕が、破産したつて、かまはない。僕は、純粋の人間、真正の人間で在りさへすれば、──
などとあらぬ覚悟を固めたりしはじめて、全身、異様な憤激にがくがく震へ、寒い廊下を大胯で行きつ戻りつ、何か自分が、いま、ひどい屈辱を受けてゐるやうな、世界のひとみんなからあざ笑はれてゐるやうな、ゐても立つても居られぬ気持で、こんなときに乙やんが生きてゐたらな、といまさらながら死んだ須々木乙彦がなつかしく、興奮がそのままくるりと裏返つて悲愁断腸の思ひに変じ、あやふく落涙しさうになつて、そのとき、
「よう、」と肩を叩いたのは、助七である。「あなたは、初日を見なかつたね?」
──あたし、あなたの心持が、よくわかつてよ、マーシヤ。さちよのオリガが、涙声でさういふのが、廊下にまで聞えて来る。
「素晴らしいね。」助七は、眼を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかつたんですか? センセーシヨン。大センセーシヨン。天才女優の出現。ああ、笑つちやいけません。ほんたうなんですよ。おれのとこでは、梶原剛氏に劇評たのんだのだが、どうです、あのおぢいさん涙を流さんばかり、オリガの苦悩を、この女優に依つてはじめて知らされた、と、いやもう、流石のぢいさん、まゐつてしまつた。どれ、どれ、拝見。」背後のドアをそつと細めにあけ、舞台を覗いて、「何か、かう、貫禄とでも、いつたやうなものが在りますね。まるで、別人の感じだ。ああ、退場した。」ドアをぴたとしめて、青年の顔をちらと見て、不適に笑ひ、「うまい! 落ちついてゐやがる。あいつは、まだまだ、大物になれる。しめたものさ。なにせ、あいつは、こはいものを知らない女ですからな。」
「あなたは、毎日、見に来てゐるの?」
「さうさ。」青年の無表情な質問に、助七は、むつとしたらしく、語調を変へた。「おれは、てれ隠しに、かうしてはしやいでゐるんぢやないんだぜ。君たちと違つて、おれは正直だ。感情をいつはることが、できない。うれしいのだ。ほんたうに、うれしいのだ。をどり出したいくらゐだ。社の用事なんか、どうにでも、ごまかせるのだから、毎日ここへやつて来て、廊下の評判を聞いてゐる次第です。軽蔑し給ふな。」
「それは、あなたは、うれしいだらうな。」高須は軽く首肯し、それでもやはり無表情のままで、「だんだん、あの人も、立派になつてゆくし。」
「えつへつへ。」助七は、急に相好をくづした。「知つてゐやがる。それを言はれちや、一言もない。あなたは、まだ忘れてゐないんだね。おれが、あいつを立派な気高い女にして呉れ、つて、あなたに頼んだこと、まだ、忘れてゐないんだね。こいつあ、まゐつた。いや、ありがたう、ありがたう。こののちともに、よろしくたのむぜ。」言ひながら、そつとドアに耳を寄せて、「あ、いけない。ヹルシーニンの登場だ。おれは、あのヹルシーニンの性格は、がまんできないんだ。背筋が、寒くなる。いやな、奴だ。」青年の肩を抱きかかへるやうにして、「ね、むかうへ行かう。楽屋にでも遊びに行つてみるか。」歩きながら、「ヹルシーニン。鼻もちならん。おれは、たうとう、せりふまで覚えちやつた。」えへんと軽くせきばらひして、「──さうです。忘れられて了ふでせう。それが私たちの運命なんですから。どうにも仕方がないですよ。私たちにとつて厳粛な、意味の深い、非常に大事のことのやうに考へられるものも、時がたつと、──忘れられて了ふか、それとも重大でなくなつてしまふのです。──ちえつ、まるで三木朝太郎そつくりぢやねえか。──そして、我々がかうやつて忍従してゐる現在の生活が、やがてそのうちに奇怪で、不潔で、無智で、滑稽で、事によつたら、罪深いもののやうにさへ思はれるかも知れないのです。──いよいよ、三木だ。へどが出さうだ。」
「もし、もし。」水兵服着た女の子に小声で呼びとめられた。
「あのう、これを、高野さんから。」小さく折り畳まれた紙片である。
「なんだね。」助七は、大きい右手を差し出した。
「いいえ。」青白い顔の眼の大きいその女の子は、名女優のやうに屹つと威厳を示して、「あなたでは、ございません。」
「僕だ。」高須は、傍から、ひつたくるやうにして、受け取り、顔をしかめて開いて見た。紙ナプキンに、色鉛筆でくつきり色濃くしたためられてゐた。
──さつき、あたしの舞台に、ずいぶん高い舌打なげつけて、さうして、さつさと廊下に出て行くお姿、見ました。あなたのお態度、一ばん正しい。あなたの感じかた、一ばん正しい。あたしは、あなたのお気持、すみのすみまで判ります。あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はつきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでせう。自分がまるで、こんにやくの化け物のやうに、汚くて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。舞台で、私の着てゐる青い衣裳を、ずたずた千切り裂きたいほど、不安で、ゐたたまらない思ひでございました。あたしは、ちつとも、鉄面皮ぢやない。生ける屍、そんなきざな言葉でしか言ひ表はせませぬ。あたし、ちつとも有頂天ぢやない。それを知つて下さるのは、あなただけです。あたしを、やつつけないで下さい。おねがひ。見ないふりしてゐて下さい。あたしは、精一ぱいでございます。生きてゆかなければならない。誰があたしに、さう教へたのか。チエホフ先生ではありませぬ。あなたの乙やんです。須々木さんが、あたしにそれを教へて呉れました。けれども、あなたも教へて下さい。一こと、教へて下さい。あたし、間違つてゐませうか。聞かせて下さい。あたしは、甘い水だけを求めて生きてゐる女でせうか。あたしを軽蔑して下さい。ああ、もう、めちやめちやになりました。あたしを呼んでゐます。舞台に出なければなりません。十時に──
と、書きかけて、そのままになつてゐた。
高須は顔を蒼くして、少し笑ひ、紙片を二つに裂いた。
「見せろ。あひびきの約束かね?」
「君には、これを読む資格がない。」はつきりした語調で言つて、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代といふ役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居をひろげて居ります。」
「そんなこと言ふもんぢやないよ。」助七は当惑気に、両手を頭のうしろに組んで、「いや味だぜ。さちよも、一生懸命に書いたんだらう? 逢つてやれよ。よろこぶぜ。」
助七に、ぐんと背中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまはつていつた。生れてはじめて見る楽屋。
☆
高野さちよは、そのひとつきほどまへ、三木と同棲をはじめてゐた。数枝いいひと、死んでも忘れない、働かなければ、あたし、死ぬる、なんにも言へない、鴎は、あれは、唖の鳥です、とやや錯乱に似た言葉を書き残して、八重田数枝のアパアトから姿を消した。淀橋の三木の家を訪れたのは、その日の夜、八時頃である。三木は不在であつたが、小さく太つた老母がゐた。家賃三十円くらゐの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言ふと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承つて居ります、何やら、会があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ、帰りませう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品な老婆であつた。さちよは、張りつめてゐた気もゆるんで、まるで、わが家に帰つたやう、案内する老母よりさきに、階下の茶の間へさつさとはひつて、あたかも、これは生きかへつた金魚、ひらひら真紅のコオトを脱いで、
「おかあさまで、ございますか。はじめてお目にかかります。」とお辞儀して、どうにも甘えた気持になり、両手そろへてお辞儀しながら、ぷつと噴き出す仕末であつた。
老母は、平気で、
「はい、こんばんは。朝太郎、お世話になります。」と挨拶かへして、これものんきな笑顔である。
不思議な蘇生の場面であつた。
長火鉢へだてて、老母は瀬戸の置き物のやうに綺麗に、ちんまり坐つて、伏目がち、やがて物語ることには、──あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じてゐる。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まへに死にました。まあ、昔自慢してあはれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます、前橋でも一流中の一流の割烹店でございました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまつてゐました。あのころは、よかつた。わたくしも、毎日毎日、張り合ひあつて、身を粉にして働きました。ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。崩れるとなつたら、早いものでした。ふつと気のついた朝には、すつからかん。きれい、さつぱり。可笑しいやうですよ。父は、みんなに面目ないのですね。さうなつても、まだ見栄張つてゐて、なあに、おれには、内緒でかくしてゐる山がある。金の出る山ひとつ持つてゐる、とまるで、子供みたいな、とんでもない嘘を言ひ出しましてな、男は、つらいものですね、ながねん連れ添うて来た婆にまで、何かと苦しく見栄張らなければいけないのですからね、わたくしたちに、それはくはしく細々とその金の山のこと真顔になつて教へるのです。嘘とわかつてゐるだけに、聞いてゐるはうが、情ないやら、あさましいやら、いぢらしいやら、涙が出て来て困りました。父は、わたくしたち、あまり身を入れて聞いてゐないのに感附いて、いよいよ、むきになつて、こまかく、ほんたうらしく、地図やら何やらたくさん出して、一生懸命にひそひそ説明して、たうとう、これから皆でその山に行かうではないか、とまで言ひ出し、これには、わたくし、当惑してしまひました。まちの誰かれ見さかひなくつかまへて来ては、その金山のこと言つて、わたくしは恥づかしくて死ぬるほどでございました。まちの人たちの笑ひ草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはひつたばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困つて、朝太郎に手紙で事情全部を知らせてやつてしまひました。そのときに、朝太郎は偉かつた。すぐに東京から駈けつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持つてゐながら、なぜ僕にいままで隠してゐたのです、そんないい事あるんだつたら、僕は、学校なんか、ばかばかしい、どうか学校よさせて下さい、こんな家、売りとばして、これからすぐに、その山の金鉱しらべに行かう、と、もう父の手をひつぱるやうにしてせきたて、また、わたくしを、こつそりものかげに呼んで、お母さん、いいか、お父さんは、もうさきが長くないのだ、おちぶれた人に、恥をかかせちやいけない、とわたくしを、きつく叱りました。わたくしも、さう言はれて、はじめて、ああさうだつたと気がついて、お恥づかしい、わが子ながら、両手合せて拝みたいほどでございました。嘘、とはつきり知りながら、汽車に乗り、馬車に乗り、雪道歩いて、わたくしたち親子三人、信濃の奥まで、まゐりました。いま、思ひ出しても、せつなくなります。信濃の山奥の温泉に宿をとり、それからまる一年間、あの子は、降つても照つても父のお伴して山を歩きまはり、日が暮れて宿へかへつては、父の言ふこと、それは芝居と思へないほど、熱心に聞いて、ふたりで何かと研究し、相談し、あしたは大丈夫だ、あしたは大丈夫だと、お互ひ元気をつけ合つて、さうして寝て、また朝早く、山へ出かけて、はうばう父に引つぱりまはされ、さんざ出鱈目の説明聞かされて、それでも、いちいち深くうなづいて、へとへとになつて帰つて来ました。何もかも、朝太郎のおかげです。父は、山宿で一年、張り合ひのある日をつづけることができて、女房、子供にも、立派に体面保つて、恥を見せずに安楽な死に方を致しました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張つて、死んでゆきました。まへから、心臓が、ひどく悪かつたのです。木枯しのおそろしく強い朝でしてな。あはれな話ですね。けれども、あの子は、見どころあります。それから母子ふたりで、東京へ出て、苦労しました。わたくしは、どんぶり持つて豆腐いつちやう買ひに行くのが、一ばんつらかつた。いまでは、どうやら、朝太郎も、皆様のおかげで、もの書いてお金いただけるやうになつて、わたくしは、朝太郎が、もう、どんな、ばかをしても、信じてゐる。むかし、あれの父をあんなに大事にかばつて呉れたこと思へば、あの子が、ありがたくて、もつたいなくて、あの子のことだつたら、どんなことがあつても、たとへあれが、人殺ししたつて、わたくしは、あれを信じてゐる。あれは、情の深い子です。ほんとに、よろしくお願ひします。
さう言つて、軽くお辞儀をし、さちよも思はずそつとお辞儀をかへして、ゆくりなく顔を見合せ、ほ、ほと同時にはなやかに笑つて、それから二人、気持よく泣いた。
十時に三木が、酔つてかへつた。久留米絣に、白つぽいごはごはした袴をはいて、明治維新の書生の感じであつた。のつそり茶の間へはひつて来て、ものも言はず、長火鉢の奥に坐つてゐる老母を蹴飛ばすやうにして追ひたて、自分がその跡にどつかと坐つて、袴の紐をほどきながら、
「何しに来たんだい?」坐つたままで袴を脱いでそれを老母にほふつてやつて、「ああ、お母さん。あなたは、ちよつと二階へ行つてろ。僕は、この子に話があるんだ。」
二人きりになると、さちよは、
「自惚れちや、だめよ。あたし、仕事の相談に来たの。」
「かへれ。」家に在るときの歴史的さんは、どこか憂欝で、けはしかつた。
「御気嫌、わるいのね。」さちよは、平気だつた。「あたし、数枝のアパアトから逃げて来たの。」
「おや、おや。」三木は冷淡だつた。がぶがぶ番茶を呑んでゐる。
「あたし、働く。」さう言つて、自分にも意外な、涙があふれて落ちて、そのまま、めそめそ泣いてしまつた。
「もう、僕は、君をあきらめてゐるんだ。」三木は、しんからいまいましさうに顔をしかめて、「君には、手のつけられない横着なところがある。君は、君自身の苦悩に少し自惚れ持ち過ぎてゐやしないか? どうも、僕は、君を買ひかぶりすぎてゐたやうだ。君の苦しみなんざ、掌に針たてたくらゐのもので、苦しいには、ちがひない、飛びあがるほど苦しいさ、けれども、それでわあわあ騒ぎまはつたら、人は笑ふね。はじめのうちこそ愛嬌にもなるが、そのうちに、人は、てんで相手にしない。そんなものに、かまつてゐる余裕なんて、かなしいことには、いまの世の中の人たち、誰にもないのだ。僕は知つてゐるよ。君の思つてゐることくらゐ、見透せないでたまるか。あたしは、虫けらだ。精一ぱいだ。命をあげる。ああ、信じてもらへないのかなあ。さうだらう? いづれ、そんなところだ。だけど、いいかい、真実といふものは、心で思つてゐるだけでは、どんなに深く思つてゐたつて、どんなに固い覚悟を持つてゐたつて、ただ、それだけでは、虚偽だ。いんちきだ。胸を割つてみせたいくらゐ、まつたうな愛情持つてゐたつて、ただ、それだけで、だまつてゐたんぢや、それは傲慢だ、いい気なもんだ、ひとりよがりだ。真実は、行為だ。愛情も、行為だ。表現のない真実なんて、ありやしない。愛情は胸のうち、言葉以前、といふのは、あれも結局、修辞ぢやないか。だまつてゐたんぢや、わからない、さう突放されても、それは、仕方のないことなんだ。真理は感ずるものぢやない。真理は、表現するものだ。時間をかけて、努力して、創りあげるものだ。愛情だつて同じことだ。自身のしらじらしさや虚無を堪へて、やさしい挨拶送るところに、あやまりない愛情が在る。愛は、最高の奉仕だ。みぢんも、自分の満足を思つては、いけない。」また、番茶を、がぶがぶ呑んで、「君は一たい、いままで何をして来た。それを考へてみるがいい。言へないだらう。言へない筈だ。何もしやしない。僕は、君を、もう少し信頼してゐた。あの山宿を逃げるときだつて、僕は、気まぐれから君に手伝ひしたのぢやないのだぜ。君に、たしかな目的があつて、制止できない渇望があつて、さうして、ちやんと聡明な、具体的な計画があつての、出京だとばかり思つてゐた。それが、どうだ、八重田数枝のとこに、ころがりこんで、そのまんま、何もしやしない。八重田数枝は、あんな、気のいいやつだから、だまつて、のんきさうに君を世話してゐたやうだつたが、でも、ずいぶん迷惑だつたらうと思ふよ。君が精一ぱいなら、八重田数枝だつて、自分ひとりを生かすのだけで、それだけで精一ぱい、やつとのところで生きてゐるのだ。少しは、人の弱さを、大事にしろよ。君の思ひあがりは、おそろしい。僕だつて、君に、いくど恥をかかされてゐるかわからない。あんな、薄汚い新聞記者と、喧嘩させて、だまつて面白がつて見てゐやがつて、僕は、あんなやつとは、口きくのさへいやなんだぜ。僕は、プライドの高い男だ。どんな偉い先輩にでも、呼び捨にされると、いやな気がする。僕は、ちやんと、それだけの仕事をしてゐる。あんな奴と、決闘して、あとで、僕は、どんなに恥づかしく、くるしい思ひしたか、君は知るまい。生れてはじめて、あんなぶざまな真似をした。君は、一たい僕をなんだと思つてゐるのだ。八重田数枝のところに居辛くなつて、そうして、こんどは僕の家へ飛び込んで来て、自惚れちやだめよ、仕事の相談に来たの、なんて、いつもの僕なら、君はいまごろ横つつらの二つや三つぶん殴られてゐる。」三木は流石に、蒼くなつてゐた。
さちよは、ぼんやり顔をあげて、
「殴らないの?」
「寝て起きて来たやうなこと言ふなよ。」苦笑して、煙草のけむりを、ゆつくり吐いた。「かへり給へ。僕は、言ひたいだけのことは、言つたんだ。あとは、もつぱら敬遠主義だ。君も少しは考へるがいい。かへれ。路頭に迷つたつて、僕の知つたことぢやない。」
もぢもぢして、
「路頭は、寒くて、いや。」
三木は、あやふく噴き出しさうになり、
「笑はせようたつて、だめさ。」言ひながら、はつきり負けたのを意識した。
「さちよ、ここにゐるか。」
「ゐる。」
「女優になるか。」
「なる。」
「勉強するか。」
「する。」
三木の腕の中で、さちよは、小声で答へてゐた。
「ばかなやつ。」三木は、さちよのからだから離れて、「おふくろと、どんな話をしてゐた?」いつもの、やさしい歴史的さんに、かへつてゐた。
「あたし、お母さん好きよ。」さちよは、髪を掻きあげて、「これから、うんと孝行するの。」
さうして、三木との同棲がはじまつた。三木は劇壇に、奇妙な勢力を持つてゐた。背後に、元老の鶴屋北水の頑強な支持もあつて、その特異な作風が、劇壇の人たちに敬遠にちかいほどの畏怖の情を以て見られてゐた。さちよの職場は、すぐにきまつた。鴎座である。そのころの鴎座は、素晴しかつた。日本の知識人は、一様に、鴎座の努力を尊敬してゐた。一座の指導者は、尾沼栄蔵、由緒正しき貴族である。俳優も、一流の名優が競つて参加し、外国の古典やら、また、日本の無名作家の戯曲をも、大胆に採用して、毎月一回一週間づつの公演を行ひ、日本の文化を、たしかに高めた。元老、鶴屋北水の推薦と、三木朝太郎の奔走のおかげで、さちよは、いきなり大役をふられた。すなはち、三人姉妹の長女、オリガである。いいかい、オリガは、センチメントおさへて、おさへて、おさへ切れなくなる迄おさへて、幕切れで、どつとせきあげる、それだけ心掛けて居ればいいのだ、あとは尾沼君の言ふこと信仰し給へ、あれは偉い男だ。それから、ほかの役者の邪魔をしないやうに、ね。三木は、それだけ言つて、あとは、何も教へなかつた。三木には、また、三木の仕事があるのである。二階の六畳に閉ぢこもつて、原稿用紙、少し書きかけては、くしやくしやに丸めて壁に投げつけ、寝ころんで煙草吸つたり、また起き上つて、こつこつ書いたり、毎夜、おそくまで、眠らずにゐる。何か大きい仕事にでも、とりかかつた様子である。さちよも、なまけてはゐなかつた。毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古に出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかな頬が、細くなるほど、心労つづけた。
初日が、せまつた。三木は、こつそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行つた。帰つて来てからさちよに、君がうまいんぢやないんだ、他の役者が下手くそなんだ、尾沼君は、さう言つてゐた。君は、こんどの公演で、きつと評判になるだらう、けれども、それは、君がうまいからぢやないんだ、日本の俳優が、それだけ、おくれてゐるといふことなんだ、さう言つてゐた。いいかい、ちつとも君がすぐれてゐるわけぢやないんだから、かならず、人の讃辞なんか真に受けちやいけないよ。叱りつけるやうな語調で言つて聞かせて、それでも、その夜は、珍らしく老母とさちよを相手に、茶の間でお酒たくさん呑んだ。
初日、はたして成功である。二日目、高野幸代は、もはや、日本的な女優であつた。三日目、つまづいた。青年、高須隆哉の舌打が、高野幸代の完璧の演技に、小さい深い蹉跌を与へた。
高須隆哉が楽屋を訪れたときには、ちやうど一幕目がをはつて、さちよは、楽屋で大勢のひとに取り巻かれて坐つて、大口あいて笑つてゐた。煙草のけむりが濛々と部屋に立ちこもり、誰か一こと言ひ出せば、どつと大勢のひとの笑ひの浪が起つて、和気あいあいの風景である。高須は、その入口に佇立した。
さちよは、高須に気がつかず、未だ演技直後の興奮からさめ切らぬ様子で、天井あふいでヒステリツクな金切声たてて笑ひこけてゐた。
「ちよつと、あなた、ごめんなさい。」
耳もとで囁き、大きい黒揚羽の蝶が、ひたと、高須の全身をおほひ隠し、そのまま、すつと入口からさらつていつて、廊下の隅まで、ものも言はず、とつとと押しかへして、
「まあ。ごめんなさい。」ほつそりした姿の女である。眼が大きく鼻筋の長い淋しい顔で、黒いドレスが似合つてゐた。「さちよと、逢はせたくなかつたの。あの子は、とても、あなたのことを気にしてゐる。せつかく評判も、いいところなんだし、ね、おねがひ、あの子を、そつとして置いてやつて。あの子、いま、一生懸命よ。つらいのよ。あたしには、それが判る。あら、あなたは、あたしをご存じない。」顔を赤くして、「ごめんなさい。あなた、高須さんね。さうでせう? あたし、ひと目見て、はつと思つたの。ほんたうに、あたし、はじめてなのに、でも、すぐわかつた。須々木乙彦の、御親戚。どう? あたし、なんでも知つてゐるでせう?」数枝である。芝居がはじまつて、この二、三日、何かと気がもめて、けふはホオルを休んで楽屋に来てゐる。
☆
その夜、ああ、知つてゐるものが見たら、ぎよつとするだらう。須々木乙彦は、生きてゐる。生きて、ウヰスキイを呑んでゐる。昨年の晩秋に、須々木乙彦は、この銀座裏のバアにふらと立ち寄つた。さうして、この同じソフアに腰をおろし、十九のさちよと、雨の話をした。あのときと、同じ姿勢で、少しまへこごみの姿勢で、ソフアに深く腰をおろし、いま、高須隆哉は、八重田数枝と、ウヰスキイ呑みながら、ひそひそ話を交してゐる。ソフアの傍には、八つ手の鉢植、むかしのままに、ばさと葉をひろげて、乙彦が無心に爪で千切りとつた痕まで、その葉に残つてゐる。室内の鈍い光線も八つ手の葉に遮ぎられて、高須の顔は、三日月の光を受けたくらゐに、幽かに輪廓が分明して、眼の下や、両頬に、真黒い陰影がわだかまり、げつそり痩せて、おそろしく老けて見えて、数枝も、話ながら、時をり、ちらと高須の顔を横目で見ては、それが全く別人だ、といふことを知つてゐながら、やはり、なんだか、いやな気がした。似てゐるのである。数枝も、乙彦を、あの夜ここで一緒に呑んで、知つてゐた。乙彦は、荒んだ皮膚をして、さうして顔が、どこか畸形の感じで、決して高須のやうな美男ではなかつた。けれども、いま、このバアの薄暗闇で、ふと見ると、やはり、似てゐる。数枝には、血のつながりといふものが、ひどく、いやらしく、気味わるいものに思はれた。
高須には、未だ気がつかない。数枝に、無理矢理、劇場から引つぱり出され、さうして数枝の悪意ない、ちよつとした巫山戯た思ひつきが、高須をここへ連れこんだ。この薄暗いバアは、乙彦と、さちよが、奇態な邂逅したところ、いま自分の腰かけてゐるこの灰色のソフアは、乙彦が追ひつめられて、追ひつめられて、天地にたつた一つの、最後に見つけた、鳥の巣、狐の穴、一夜の憩ひの椅子であつたこと、高須は、なんにも知らなかつた。
しづかに酔つて、
「かへらせたら、いいのだ。女優なんて、そんな派手なことさせちや、いけないのだ。国へかへらせなければ、いけないのだ。」
「でも、──」言ひ澱んで、「いいえ、酔つて絡むわけぢやないのよ。ごめんなさいね。でも、──男の人つて、どうして皆そんなに、女のこととなると変に責任、持ちたがるのかしら。どうして皆、わかり切つたお説教したがるのかしら。あなたは、さちよが、いままで、どんなに苦しい生活を、くぐり抜け、切り抜けして生きて来たか、ご存じ? さちよだつて、もう、おとなよ。子供ぢやない。ほつて置いたつて大丈夫。あたしだつて、はじめは、あの子に腹が立つた。女優なんて、とんでもない、と思つてゐた。やはり、あなたと同じやうに、国へかへつたはうが、一ばん無事だと思つてゐた。だけど、それは、あたしの間違ひ。だつて、さちよが国へかへつて、都合のよいのは、それは、あたしたちのはうよ。あの子は、ちつとも仕合せでない。あなただつてさうよ。やつぱり、どこか、ずるいのよ。けちな、けちな、我利我利が、気持のどこかに、ちやんと在るのよ。あなたが勝手に責任感じて、さうして、むしやくしやして、お苦しくて、こんどは誰か、遠いところに居る人に、その責任、肩がはりさせて、自身すずしい顔したいお心なのよ。さうなのよ。」言ひながら、それでも気弱く、高須の片手をそつと握つて、顔色をうかがひ、「ごめんなさいね。うち、失礼なことばかり言つて。」さつと素早く、ウヰスキイあふつて、「でも、ねえ。あの子を、いま田舎へかへすなんて、やつぱり、残酷よ。よく、そんなこと、言へるのね。あの子を国へかへしちやいけない。あなたは、あの子が、去年どんなことをしたか知つてるわね。どんなに笑はれたか、知つてゐるわね。東京は、いそがしくて、もう、そんなこと忘れたやうな顔してゐて呉れるけど、田舎は、うるさい。あの子は、きつと座敷牢よ。一生涯、村の笑はれもの。田舎の人つたら、三代まへに鶏ぬすまれたことだつて、ちやんと忘れずに覚えてゐて、にくしみ合つてゐるんだもの。」
「ちがふ。」高須は、落ちついて否定した。「ふるさとは、そんなものぢやない。肉親は、そんなものぢやない。僕は、ふるさとを失つた人の悲劇を知つてゐる。乙やんには、ふるさとが無かつた。君も、ごぞんじだらうと思ふが、乙やんは、僕の伯父の、おめかけの子だ。生みの母親と一緒に転々した。それは苦労した。僕は知つてゐる。あの人は、偉くなることに努めた。自分を捨てた父親を、見かへしてやらうと思つてゐた。ずば抜けて、秀才だつた。全く、すばらしかつたなあ。勉強もした。偉くならなければいけないと思つてゐたのだ。歴史に名を残さうと考へた。けれども、矢尽き、刀折れて、死ぬる前の日、僕に、親孝行しろ、と言つた。しのんで、しのんで、つつましく生きろ、と言つた。僕は、はじめ冗談か、と思つた。けれども、このごろになつて、あ、あ、と少しづつ合点できる。」
「いいえ、そんなんぢやない。」数枝は、なかなか譲らない。酔ひと興奮に頬を染めて、「あなたは、それでいいの。ご立派な御家庭に、なに不自由なくお育ちになつて、立派に学問もおありなさることだし、ちやんと御両親もそろつておいでのことでせうし、それは須々木乙彦でなくつたつて、あなたには、親孝行なさるやう、お家を大事になさるやう、誰だつて、しんからそれをおすすめするわ。だけど、あたしたちは、ちがふの。そんなんぢやない。一日一日、食つて生きてゆくことに追はれて、借銭かへすことに追はれて、正しいことを横目で見ながら、それに気がついてゐながら、どんどん押し流されてしまつて、いつのまにか、もう、世の中から、ひどい焼印、頂戴してしまつてゐるの。さちよなんか、もつとひどい。あの子は、もう世の中を、いちど失脚しちやつたのよ。屑よ。親孝行なんて、そんな立派なこと、とても、とても、できなくなつてしまつたの。したくても、ゆるされない。名誉恢復。そんな言葉をかしい? あはれな言葉ね。だけど、あたしたち、いちど、あやまち犯した人たち、どんなに、それに憧がれてゐるか。そのためには、いのちも要らない。どんなことでも、する。」ふつと声を落して、「さちよは、可愛さうに、いま一生懸命なのよ。あたしには、わかる。あの子を少しでも偉くしてあげたい。」
「待て。」青年は、その言葉を待ちかまへてゐた。ゆつくり、煙草に火を点じて、「君は、いま、あの子を偉くしてあげたい、と言つたね。それは、間違ひ、書取のミステークみたいに、はつきり、間違ひ。人は、人を偉くすることができない。いまの、この世の中は、きびしいのだ。一朝にして名誉恢復、万人の喝采なんて、そいつは、無智なロマンチシズムだ。昔の夢だ。須々木乙彦ほどの男でも、それができずに、死んだのだ。いまは人間、誰にもめいわくかけずに、自分ひとりを制御することだけでも、それだけでも、大事業なんだ。それだけでも、できたら、そいつは新しい英雄だ。立派なものだ。ほんたうの自信といふものは、自分ひとりの明確な杜会的な責任感ができて、はじめて生れて来るものぢやないのか。まづ自分を、自分の周囲を、不安ないやうに育成して、自分の小さいふるさとの、自分のまづしい身内の、堅実な一兵卒になつて、努めて、それからでなければ、どんな、ささやかな野望でも、現実は、絶対に、ゆるさない。賭けてもいい。高野幸代は、失敗する。いまのままですすめば、どん底に蹴落される。火を見るよりも、明らかだ。世の中は、つらいのだ。きびしいのだ。一日、一日、僕には、いまのこの世の中の苛烈が、身にしみる。みぢんも、でたらめを許さない。お互ひ、鵜の目、鷹の目だ。いやなことだ。いやなことだが、仕方がない。」
「負けたのよ。あなたは、負けたのよ。」かん高く叫んで、多少、呂律がまはらなかつた。よろめいて、耳をふさぎ、「ああ、聞きたくない、聞きたくない。あなたまで、そんな、情ないことおつしやる。ずるい、ずるい。意気地がない。臆病だ。負け惜しみだ。ああ、もう、理屈は、いやいや。世の中の人たちは、みんな優しい。みんな手助けして呉れる。冷く、むごいのは、あなたたちだけだ。どん底に蹴落すのは、あなたたちだ。負けても、嘘ついて気取つてゐる男だけが、ひとのせつかくの努力を、せせら笑つて蹴落すのだ。あなたは、いけない。あなたは、これから、さちよに触つては、いけない。一指もふれては、いけない。なんて、嘘なのよ。あたしは、とてもリアリスト。知つてゐるのよ。あなたの言ふこと、わかつてゐるのよ。知つてゐながら、それでも、もしや、といふ夢、持ちたいの。持つてゐたいの。笑はないでね。あたしたち、永遠にだめなの。わるくなつて行くだけなの。知つてゐる。ああ、いけない、はつきりきめないで、ね。死にたくなつちやふ。だけど、さちよだけは、ああ、偉くしたい、偉くしたい。あの子、頭がいい。あの子、可愛い。あの子、ふびんだ。知つてゐる? さちよは、いま、ある劇作家のおめかけよ。偉くなれ、なれ。おめかけなんて、しなくてすむやうに、──」
青年は、立ちあがつてゐた。
「誰です。どこの人です。案内し給へ。」さつさと勘定すまして、酔ひどれた数枝のからだを、片腕でぐいと抱きあげ、「立ち給へ。いづれ、そんなことだらうと思つてゐた。たいへんな出世だ。さ、案内し給へ。どこの男だ。さちよにそんなことさせちや、いけないのだ。」
円タクひろつた。淀橋に走らせた。
自動車の中で、
「ばかだ。ばかも、ばかも、大ばかだ。君には、お礼を言ふ。よく知らせて呉れた。」数枝は、不吉な予感に、気が遠くなりさうだつた。「僕は、さちよを愛してゐる。愛して、愛して、愛してゐる。誰よりも高く愛してゐる。忘れたことが、なかつた。あのひとの苦しさは、僕が一ばん知つてゐる。なにもかも知つてゐる。あのひとは、いいひとだ。あのひとを腐らせては、いけない。ばかだ、ばかだ。ひとのめかけになるなんて。ばかだ。死ね! 僕が殺してやる。」
底本:「太宰治全集第二巻」筑摩書房
1989(平成元)年8月25日初版第1刷発行
初出:「愛と美について」竹村書房
1939(昭和14)年5月20日
入力:西田
校正:山本奈津恵
2000年5月3日公開
2007年2月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。