余と万年筆
夏目漱石
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此間魯庵君に会った時、丸善の店で一日に万年筆が何本位売れるだろうと尋ねたら、魯庵君は多い時は百本位出るそうだと答えた。夫では一本の万年筆がどの位長く使えるだろうと聞いたら、此間横浜のもので、ペンはまだ可なりだが、軸が減ったから軸丈易えて呉れと云って持って来たのがあるが、此人は十三年前に一本買ったぎりで、其一本を今日まで絶えず使用していたのだというから、是がまあ一番長い例らしいと話した。して見ると普通の場合ではいくら残酷に使っても大抵六七年の保証は付けられるのが、一般の万年筆の運命らしい。一本で夫程長く使えるものが日に百本も出ると云えば万年筆を需用する人の範囲は非常な勢を以て広がりつつあると見ても満更見当違いの観察とも云われない様である。尤も多い中には万年筆道楽という様な人があって、一本を使い切らないうちに飽が来て、又新しいのを手に入れたくなり、之を手に入れて少時すると、又種類の違った別のものが欲しくなるといった風に、夫から夫へと各種のペンや軸を試みて嬉しがるそうだが、是は今の日本に沢山あり得る道楽とも思えない。西洋では煙管に好みを有って、大小長短色々取り交ぜた一組を綺麗に暖炉の上などに並べて愉快がる人がある。単に蒐集狂という点から見れば、此煙管を飾る人も、盃を寄せる人も、瓢箪を溜める人も、皆同じ興味に駆られるので、同種類のもののうちで、素人に分らない様な微妙な差別を鋭敏に感じ分ける比較力の優秀を愛するに過ぎない。万年筆狂も性質から云えば、多少実用に近い点で、以上と区別の出来ない事もないが、強いて無くても済むものを五つも六つも取り揃えるのだから今挙げた種類の蒐集狂と大した変りのある筈がない。ただ其数に至っては、少なくとも目下の日本の状態では、西洋の煙管気狂の十分の一も無かろうと思う。だから丸善で売れる一日に百本の万年筆の九十九本迄は、尋常の人間の必要に逼られて机上若くはポッケット内に備え付ける実用品と見て差支あるまい。して見ると、万年筆が輸入されてから今日迄に既に何年を経過したか分らないが、兎に角高価の割には大変需要の多いものになりつつあるのは争う可らざる事実の様である。
万年筆の最上等になると一本で三百円もするのがあるとかいう話である。丸善へ取り寄せてあるのでも既に六十五円とかいう高価なものがあるとか聞いた。固より一般の需要は十円内外の低廉な種類に限られているのだろうが、夫にしても、一つ一銭のペンや一本三銭の水筆に比べると何百倍という高価に当るのだから、それが日に百本も売れる以上は、我々の購買力が此の便利ではあるが贅沢品と認めなければならないものを愛玩するに適当な位進んで来たのか、又は座右に欠くべからざる必要品として価の廉不廉に拘わらず重宝がられるのか何方かでなければならない。然し今其源因を一つに片付けるのは愚の至として、又事実の許す如く、しばらく両方の因数が相合して此需要を引き起したとして、余はとくに余の見地から見て、後者の方に重きを置きたいのである。
自白すると余は万年筆に余り深い縁故もなければ、又人に講釈する程に精通していない素人なのである。始めて万年筆を用い出してから僅か三四年にしかならないのでも親しみの薄い事は明らかに分る。尤も十二年前に洋行するとき親戚のものが餞別として一本呉れたが、夫はまだ使わないうちに船のなかで器械体操の真似をしてすぐ壊して仕舞った。夫から外国にいる間は常にペンを使って事を足していたし、帰ってから原稿を書かなくてはならない境遇に置かれても、下手な字をペンでがしがし書いて済ましていた。それで三四年前になって何故万年筆に改めようと急に思い立ったか、其理由は今一寸思い出せないが、第一に便利という実際的な動機に支配されたのは事実に違ない。万年筆に就て何等の経験もない余は其時丸善からペリカンと称するのを二本買って帰った。そうして夫をいまだに用いているのである。が、不幸にして余のペリカンに対する感想は甚だ宜しくなかった。ペリカンは余の要求しないのに印気を無暗にぽたぽた原稿紙の上へ落したり、又は是非墨色を出して貰わなければ済まない時、頑として要求を拒絶したり、随分持主を虐待した。尤も持主たる余の方でもペリカンを厚遇しなかったかも知れない。無精な余は印気がなくなると、勝手次第に机の上にある何んな印気でも構わずにペリカンの腹の中へ注ぎ込んだ。又ブリュー・ブラックの性来嫌な余は、わざわざセピヤ色の墨を買って来て、遠慮なくペリカンの口を割って呑ました。其上無経験な余は如何にペリカンを取り扱うべきかを解しなかった。現にペリカンが如何に出渋っても、余は未だかつて彼を洗濯した試がなかった。夫でペリカンの方でも半ば余に愛想を尽かし、余の方でも半ばペリカンを見限って、此正月「彼岸過迄」を筆するときは又一と時代退歩して、ペンとそうしてペン軸の旧弊な昔に逆戻りをした。其時余は始めて離別した第一の細君を後から懐かしく思う如く、一旦見棄たペリカンに未練の残っている事を発見したのである。唯のペンを用い出した余は、印気の切れる度毎に墨壺のなかへ筆を浸して新たに書き始める煩わしさに堪えなかった。幸にして余の原稿が夫程の手数が省けたとて早く出来上る性質のものでもなし、又ペンにすれば余の好むセピヤ色で自由に原稿紙を彩どる事が出来るので、まあ「彼岸過迄」の完結迄はペンで押し通す積でいたが、其決心の底には何うしても多少の負惜しみが籠っていた様である。
余の如く機械的の便利には夫程重きを置く必要のない原稿ばかり書いているものですら、又買い損なったか、使い損なったため、万年筆には多少手古擦っているものですら、愈万年筆を全廃するとなると此位の不便を感ずる所をもって見ると、其他の人が価の如何に拘わらず、毛筆を棄てペンを棄てて此方に向うのは向う必要があるからで、財力ある貴公子や道楽息子の玩具に都合のいい贅沢品だから売れるのではあるまい。
万年筆の丸善に於る需要をそう解釈した余は、各種の万年筆の比較研究やら、一々の利害得失やらに就て一言の意見を述べる事の出来ないのを大いに時勢後れの如くに恥じた。酒呑が酒を解する如く、筆を執る人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろうと思う。ペリカン丈の経験で万年筆は駄目だという僕が人から笑われるのも間もない事とすれば、僕も笑われない為に、少しは外の万年筆も試してみる必要があるだろう。現に此原稿は魯庵君が使って見ろといってわざわざ贈って呉れたオノトで書いたのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であった。ペリカンを追い出した余は其姉妹に当るオノトを新らしく迎え入れて、それで万年筆に対して幾分か罪亡ぼしをした積なのである。
底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房
1972(昭和47)年1月10日第1刷発行
※吉田精一による底本の「解説」によれば、発表年月は、1912(明治45)年6月30日。
入力:Nana ohbe
校正:米田進
2002年5月10日作成
2005年11月4日修正
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