シグナルとシグナレス
宮沢賢治
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「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
さそりの赤眼が 見えたころ、
四時から今朝も やって来た。
遠野の盆地は まっくらで、
つめたい水の 声ばかり。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
凍えた砂利に 湯げを吐き、
火花を闇に まきながら、
蛇紋岩の 崖に来て、
やっと東が 燃えだした。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
鳥がなきだし 木は光り、
青々川は ながれたが、
丘もはざまも いちめんに、
まぶしい霜を 載せていた。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
やっぱりかけると あったかだ、
僕はほうほう 汗が出る。
もう七、八里 はせたいな、
今日も一日 霜ぐもり。
ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」
軽便鉄道の東からの一番列車が少しあわてたように、こう歌いながらやって来てとまりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、ほそ長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ぶんぶんとうなり、シグナルの柱はかたんと白い腕木を上げました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
シグナレスはほっと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それからやさしい腕木を思い切りそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。
「今朝は伯母さんたちもきっとこっちの方を見ていらっしゃるわ」
シグナレスはいつまでもいつまでも、そっちに気をとられておりました。
「カタン」
うしろの方のしずかな空で、いきなり音がしましたのでシグナレスは急いでそっちをふり向きました。ずうっと積まれた黒い枕木の向こうに、あの立派な本線のシグナル柱が、今はるかの南から、かがやく白けむりをあげてやって来る列車を迎えるために、その上の硬い腕を下げたところでした。
「お早う今朝は暖かですね」本線のシグナル柱は、キチンと兵隊のように立ちながら、いやにまじめくさってあいさつしました。
「お早うございます」シグナレスはふし目になって、声を落として答えました。
「若さま、いけません。これからはあんなものにやたらに声を、おかけなさらないようにねがいます」本線のシグナルに夜電気を送る太い電信柱がさももったいぶって申しました。
本線のシグナルはきまり悪そうに、もじもじしてだまってしまいました。気の弱いシグナレスはまるでもう消えてしまうか飛んでしまうかしたいと思いました。けれどもどうにもしかたがありませんでしたから、やっぱりじっと立っていたのです。
雲の縞は薄い琥珀の板のようにうるみ、かすかなかすかな日光が降って来ましたので、本線シグナルつきの電信柱はうれしがって、向こうの野原を行く小さな荷馬車を見ながら低い調子はずれの歌をやりました。
「ゴゴン、ゴーゴー、
うすい雲から
酒が降りだす、
酒の中から
霜がながれる。
ゴゴン、ゴーゴー、
ゴゴン、ゴーゴー、
霜がとければ、
つちはまっくろ。
馬はふんごみ、
人もぺちゃぺちゃ。
ゴゴン、ゴーゴー」
それからもっともっとつづけざまに、わけのわからないことを歌いました。
その間に本線のシグナル柱が、そっと西風にたのんでこう言いました。
「どうか気にかけないでください。こいつはもうまるで野蛮なんです。礼式も何も知らないのです。実際私はいつでも困ってるんですよ」
軽便鉄道のシグナレスは、まるでどぎまぎしてうつむきながら低く、
「あら、そんなことございませんわ」と言いましたがなにぶん風下でしたから本線のシグナルまで聞こえませんでした。
「許してくださるんですか。本当を言ったら、僕なんかあなたに怒られたら生きているかいもないんですからね」
「あらあら、そんなこと」軽便鉄道の木でつくったシグナレスは、まるで困ったというように肩をすぼめましたが、実はその少しうつむいた顔は、うれしさにぽっと白光を出していました。
「シグナレスさん、どうかまじめで聞いてください。僕あなたのためなら、次の十時の汽車が来る時腕を下げないで、じっとがんばり通してでも見せますよ」わずかばかりヒュウヒュウ言っていた風が、この時ぴたりとやみました。
「あら、そんな事いけませんわ」
「もちろんいけないですよ。汽車が来る時、腕を下げないでがんばるなんて、そんなことあなたのためにも僕のためにもならないから僕はやりはしませんよ。けれどもそんなことでもしようと言うんです。僕あなたくらい大事なものは世界中ないんです。どうか僕を愛してください」
シグナレスは、じっと下の方を見て黙って立っていました。本線シグナルつきのせいの低い電信柱は、まだでたらめの歌をやっています。
「ゴゴンゴーゴー、
やまのいわやで、
熊が火をたき、
あまりけむくて、
ほらを逃げ出す。ゴゴンゴー、
田螺はのろのろ。
うう、田螺はのろのろ。
田螺のしゃっぽは、
羅紗の上等、ゴゴンゴーゴー」
本線のシグナルはせっかちでしたから、シグナレスの返事のないのに、まるであわててしまいました。
「シグナレスさん、あなたはお返事をしてくださらないんですか。ああ僕はもうまるでくらやみだ。目の前がまるでまっ黒な淵のようだ。ああ雷が落ちて来て、一ぺんに僕のからだをくだけ。足もとから噴火が起こって、僕を空の遠くにほうりなげろ。もうなにもかもみんなおしまいだ。雷が落ちて来て一ぺんに僕のからだを砕け。足もと……」
「いや若様、雷が参りました節は手前一身におんわざわいをちょうだいいたします。どうかご安心をねがいとう存じます」
シグナルつきの電信柱が、いつかでたらめの歌をやめて、頭の上のはりがねの槍をぴんと立てながら眼をパチパチさせていました。
「えい。お前なんか何を言うんだ。僕はそれどこじゃないんだ」
「それはまたどうしたことでござりまする。ちょっとやつがれまでお申し聞けになりとう存じます」
「いいよ、お前はだまっておいで」
シグナルは高く叫びました。しかしシグナルも、もうだまってしまいました。雲がだんだん薄くなって柔らかな陽が射して参りました。
五日の月が、西の山脈の上の黒い横雲から、もう一ぺん顔を出して、山に沈む前のほんのしばらくを、鈍い鉛のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重ねられた黒い枕木はもちろんのこと、電信柱までみんな眠ってしまいました。遠くの遠くの風の音か水の音がごうと鳴るだけです。
「ああ、僕はもう生きてるかいもないんだ。汽車が来るたびに腕を下げたり、青い眼鏡をかけたりいったいなんのためにこんなことをするんだ。もうなんにもおもしろくない。ああ死のう。けれどもどうして死ぬ。やっぱり雷か噴火だ」
本線のシグナルは、今夜も眠られませんでした。非常なはんもんでした。けれどもそれはシグナルばかりではありません。枕木の向こうに青白くしょんぼり立って、赤い火をかかげている軽便鉄道のシグナル、すなわちシグナレスとても全くそのとおりでした。
「ああ、シグナルさんもあんまりだわ、あたしが言えないでお返事もできないのを、すぐあんなに怒っておしまいになるなんて。あたしもう何もかもみんなおしまいだわ。おお神様、シグナルさんに雷を落とす時、いっしょに私にもお落としくださいませ」
こう言って、しきりに星空に祈っているのでした。ところがその声が、かすかにシグナルの耳にはいりました。シグナルはぎょっとしたように胸を張って、しばらく考えていましたが、やがてガタガタふるえだしました。
ふるえながら言いました。
「シグナレスさん。あなたは何を祈っておられますか」
「あたし存じませんわ」シグナレスは声を落として答えました。
「シグナレスさん、それはあんまりひどいお言葉でしょう。僕はもう今すぐでもお雷さんにつぶされて、または噴火を足もとから引っぱり出して、またはいさぎよく風に倒されて、またはノアの洪水をひっかぶって、死んでしまおうと言うんですよ。それだのに、あなたはちっとも同情してくださらないんですか」
「あら、その噴火や洪水を。あたしのお祈りはそれよ」シグナレスは思い切って言いました。シグナルはもううれしくて、うれしくて、なおさらガタガタガタガタふるえました。
その赤い眼鏡もゆれたのです。
「シグナレスさん、なぜあなたは死ななけぁならないんですか。ね。僕へお話しください。ね。僕へお話しください。きっと、僕はそのいけないやつを追っぱらってしまいますから、いったいどうしたんですね」
「だって、あなたがあんなにお怒りなさるんですもの」
「ふふん。ああ、そのことですか。ふん。いいえ。そのことならばご心配ありません。大丈夫です。僕ちっとも怒ってなんかいはしませんからね。僕、もうあなたのためなら、眼鏡をみんな取られて、腕をみんなひっぱなされて、それから沼の底へたたき込まれたって、あなたをうらみはしませんよ」
「あら、ほんとう。うれしいわ」
「だから僕を愛してください。さあ僕を愛するって言ってください」
五日のお月さまは、この時雲と山の端とのちょうどまん中にいました。シグナルはもうまるで顔色を変えて灰色の幽霊みたいになって言いました。
「またあなたはだまってしまったんですね。やっぱり僕がきらいなんでしょう。もういいや、どうせ僕なんか噴火か洪水か風かにやられるにきまってるんだ」
「あら、ちがいますわ」
「そんならどうですどうです、どうです」
「あたし、もう大昔からあなたのことばかり考えていましたわ」
「本当ですか、本当ですか、本当ですか」
「ええ」
「そんならいいでしょう。結婚の約束をしてください」
「でも」
「でもなんですか、僕たちは春になったら燕にたのんで、みんなにも知らせて結婚の式をあげましょう。どうか約束してください」
「だってあたしはこんなつまらないんですわ」
「わかってますよ。僕にはそのつまらないところが尊いんです」
すると、さあ、シグナレスはあらんかぎりの勇気を出して言い出しました。
「でもあなたは金でできてるでしょう。新式でしょう。赤青眼鏡を二組みも持っていらっしゃるわ、夜も電燈でしょう。あたしは夜だってランプですわ、眼鏡もただ一つきり、それに木ですわ」
「わかってますよ。だから僕はすきなんです」
「あら、ほんとう。うれしいわ。あたしお約束するわ」
「え、ありがとう、うれしいなあ、僕もお約束しますよ。あなたはきっと、私の未来の妻だ」
「ええ、そうよ、あたし決して変わらないわ」
「結婚指環をあげますよ、そら、ね、あすこの四つならんだ青い星ね」
「ええ」
「あのいちばん下の脚もとに小さな環が見えるでしょう、環状星雲ですよ。あの光の環ね、あれを受け取ってください。僕のまごころです」
「ええ。ありがとう、いただきますわ」
「ワッハッハ。大笑いだ。うまくやってやがるぜ」
突然向こうのまっ黒な倉庫が、空にもはばかるような声でどなりました。二人はまるでしんとなってしまいました。
ところが倉庫がまた言いました。
「いや心配しなさんな。この事は決してほかへはもらしませんぞ。わしがしっかりのみ込みました」
その時です、お月さまがカブンと山へおはいりになって、あたりがポカッと、うすぐらくなったのは。
今は風があんまり強いので電信柱どもは、本線の方も、軽便鉄道の方もまるで気が気でなく、ぐうん ぐうん ひゅうひゅう と独楽のようにうなっておりました。それでも空はまっ青に晴れていました。
本線シグナルつきの太っちょの電信柱も、もうでたらめの歌をやるどころの話ではありません。できるだけからだをちぢめて眼を細くして、ひとなみに、ブウウ、ブウウとうなってごまかしておりました。
シグナレスはこの時、東のぐらぐらするくらい強い青びかりの中を、びっこをひくようにして走って行く雲を見ておりましたが、それからチラッとシグナルの方を見ました。シグナルは、今日は巡査のようにしゃんと立っていましたが、風が強くて太っちょの電柱に聞こえないのをいいことにして、シグナレスに話しかけました。
「どうもひどい風ですね。あなた頭がほてって痛みはしませんか。どうも僕は少しくらくらしますね。いろいろお話ししますから、あなたただ頭をふってうなずいてだけいてください。どうせお返事をしたって僕のところへ届きはしませんから、それから僕の話でおもしろくないことがあったら横の方に頭を振ってください。これは、本当は、ヨーロッパの方のやり方なんですよ。向こうでは、僕たちのように仲のいいものがほかの人に知れないようにお話をする時は、みんなこうするんですよ。僕それを向こうの雑誌で見たんです。ね、あの倉庫のやつめ、おかしなやつですね、いきなり僕たちの話してるところへ口を出して、引き受けたのなんのって言うんですもの、あいつはずいぶん太ってますね、今日も眼をパチパチやらかしてますよ、僕のあなたに物を言ってるのはわかっていても、何を言ってるのか風でいっこう聞こえないんですよ、けれども全体、あなたに聞こえてるんですか、聞こえてるなら頭を振ってください、ええそう、聞こえるでしょうね。僕たち早く結婚したいもんですね、早く春になれぁいいんですね、僕のところのぶっきりこに少しも知らせないでおきましょう。そしておいて、いきなり、ウヘン! ああ風でのどがぜいぜいする。ああひどい。ちょっとお話をやめますよ。僕のどが痛くなったんです。わかりましたか、じゃちょっとさようなら」
それからシグナルは、ううううと言いながら眼をぱちぱちさせて、しばらくの間だまっていました。
シグナレスもおとなしく、シグナルののどのなおるのを待っていました。電信柱どもはブンブンゴンゴンと鳴り、風はひゅうひゅうとやりました。
シグナルはつばをのみこんだり、ええ、ええとせきばらいをしたりしていましたが、やっとのどの痛いのがなおったらしく、もう一ぺんシグナレスに話しかけました。けれどもこの時は、風がまるで熊のように吼え、まわりの電信柱どもは、山いっぱいの蜂の巣をいっぺんにこわしでもしたように、ぐゎんぐゎんとうなっていましたので、せっかくのその声も、半分ばかりしかシグナレスに届きませんでした。
「ね、僕はもうあなたのためなら、次の汽車の来る時、がんばって腕を下げないことでも、なんでもするんですからね、わかったでしょう。あなたもそのくらいの決心はあるでしょうね。あなたはほんとうに美しいんです、ね、世界の中にだっておれたちの仲間はいくらもあるんでしょう。その半分はまあ女の人でしょうがねえ、その中であなたはいちばん美しいんです。もっともほかの女の人僕よく知らないんですけれどね、きっとそうだと思うんですよ、どうです聞こえますか。僕たちのまわりにいるやつはみんなばかですね、のろまですね、僕のとこのぶっきりこが僕が何をあなたに言ってるのかと思って、そらごらんなさい、一生けん命、目をパチパチやってますよ、こいつときたら全くチョークよりも形がわるいんですからね、そら、こんどはあんなに口を曲げていますよ。あきれたばかですねえ、僕の話聞こえますか、僕の……」
「若さま、さっきから何をべちゃべちゃ言っていらっしゃるのです。しかもシグナレス風情と、いったい何をにやけていらっしゃるんです」
いきなり本線シグナルつきの電信柱が、むしゃくしゃまぎれに、ごうごうの音の中を途方もない声でどなったもんですから、シグナルはもちろんシグナレスも、まっ青になってぴたっとこっちへ曲げていたからだを、まっすぐに直しました。
「若さま、さあおっしゃい。役目として承らなければなりません」
シグナルは、やっと元気を取り直しました。そしてどうせ風のために何を言っても同じことなのをいいことにして、
「ばか、僕はシグナレスさんと結婚して幸福になって、それからお前にチョークのお嫁さんをくれてやるよ」と、こうまじめな顔で言ったのでした。その声は風下のシグナレスにはすぐ聞こえましたので、シグナレスはこわいながら思わず笑ってしまいました。さあそれを見た本線シグナルつきの電信柱の怒りようと言ったらありません。さっそくブルブルッとふるえあがり、青白く逆上せてしまい唇をきっとかみながらすぐひどく手をまわして、すなわち一ぺん東京まで手をまわして風下にいる軽便鉄道の電信柱に、シグナルとシグナレスの対話がいったいなんだったか、今シグナレスが笑ったことは、どんなことだったかたずねてやりました。
ああ、シグナルは一生の失策をしたのでした。シグナレスよりも少し風下にすてきに耳のいい長い長い電信柱がいて、知らん顔をしてすまして空の方を見ながらさっきからの話をみんな聞いていたのです。そこでさっそく、それを東京を経て本線シグナルつきの電信柱に返事をしてやりました。本線シグナルつきの電信柱はキリキリ歯がみをしながら聞いていましたが、すっかり聞いてしまうと、さあ、まるでばかのようになってどなりました。
「くそっ、えいっ。いまいましい。あんまりだ。犬畜生、あんまりだ。犬畜生、ええ、若さま、わたしだって男ですぜ。こんなにひどくばかにされてだまっているとお考えですか。結婚だなんてやれるならやってごらんなさい。電信柱の仲間はもうみんな反対です。シグナル柱の人たちだって鉄道長の命令にそむけるもんですか。そして鉄道長はわたしの叔父ですぜ。結婚なりなんなりやってごらんなさい。えい、犬畜生め、えい」
本線シグナルつきの電信柱は、すぐ四方に電報をかけました。それからしばらく顔色を変えて、みんなの返事をきいていました。確かにみんなから反対の約束をもらったらしいのでした。それからきっと叔父のその鉄道長とかにもうまく頼んだにちがいありません。シグナルもシグナレスも、あまりのことに今さらポカンとしてあきれていました。本線シグナルつきの電信柱は、すっかり反対の準備ができると、こんどは急に泣き声で言いました。
「あああ、八年の間、夜ひる寝ないでめんどうを見てやってそのお礼がこれか。ああ情けない、もう世の中はみだれてしまった。ああもうおしまいだ。なさけない、メリケン国のエジソンさまもこのあさましい世界をお見すてなされたか。オンオンオンオン、ゴゴンゴーゴーゴゴンゴー」
風はますます吹きつのり、西の空が変に白くぼんやりなって、どうもあやしいと思っているうちに、チラチラチラチラとうとう雪がやって参りました。
シグナルは力を落として青白く立ち、そっとよこ眼でやさしいシグナレスの方を見ました。シグナレスはしくしく泣きながら、ちょうどやって来る二時の汽車を迎えるためにしょんぼりと腕をさげ、そのいじらしいなで肩はかすかにかすかにふるえておりました。空では風がフイウ、涙を知らない電信柱どもはゴゴンゴーゴーゴゴンゴーゴー。
さあ今度は夜ですよ。シグナルはしょんぼり立っておりました。
月の光が青白く雲を照らしています。雲はこうこうと光ります。そこにはすきとおって小さな紅火や青の火をうかべました。しいんとしています。山脈は若い白熊の貴族の屍体のようにしずかに白く横たわり、遠くの遠くを、ひるまの風のなごりがヒュウと鳴って通りました。それでもじつにしずかです。黒い枕木はみな眠り、赤の三角や黄色の点々、さまざまの夢を見ている時、若いあわれなシグナルはほっと小さなため息をつきました。そこで半分凍えてじっと立っていたやさしいシグナレスも、ほっと小さなため息をしました。
「シグナレスさん、ほんとうに僕たちはつらいねえ」
たまらずシグナルがそっとシグナレスに話しかけました。
「ええ、みんなあたしがいけなかったのですわ」シグナレスが青じろくうなだれて言いました。
諸君、シグナルの胸は燃えるばかり、
「ああ、シグナレスさん、僕たちたった二人だけ、遠くの遠くのみんなのいないところに行ってしまいたいね」
「ええ、あたし行けさえするなら、どこへでも行きますわ」
「ねえ、ずうっとずうっと天上にあの僕たちの婚約指環よりも、もっと天上に青い小さな小さな火が見えるでしょう。そら、ね、あすこは遠いですねえ」
「ええ」シグナレスは小さな唇で、いまにもその火にキッスしたそうに空を見あげていました。
「あすこには青い霧の火が燃えているんでしょうね。その青い霧の火の中へ僕たちいっしょにすわりたいですねえ」
「ええ」
「けれどあすこには汽車はないんですねえ、そんなら僕畑をつくろうか。何か働かないといけないんだから」
「ええ」
「ああ、お星さま、遠くの青いお星さま、どうか私どもをとってください。ああなさけぶかいサンタマリヤ、まためぐみふかいジョウジ スチブンソンさま、どうか私どものかなしい祈りを聞いてください」
「ええ」
「さあいっしょに祈りましょう」
「ええ」
「あわれみふかいサンタマリヤ、すきとおる夜の底、つめたい雪の地面の上にかなしくいのるわたくしどもをみそなわせ、めぐみふかいジョウジ スチブンソンさま、あなたのしもべのまたしもべ、かなしいこのたましいの、まことの祈りをみそなわせ、ああ、サンタマリヤ」
「ああ」
星はしずかにめぐって行きました。そこであの赤眼のさそりが、せわしくまたたいて東から出て来、そしてサンタマリヤのお月さまが慈愛にみちた尊い黄金のまなざしに、じっと二人を見ながら、西のまっくろの山におはいりになった時、シグナル、シグナレスの二人は、祈りにつかれてもう眠っていました。
今度はひるまです。なぜなら夜昼はどうしてもかわるがわるですから。
ぎらぎらのお日さまが東の山をのぼりました。シグナルとシグナレスはぱっと桃色に映えました。いきなり大きな幅広い声がそこらじゅうにはびこりました。
「おい。本線シグナルつきの電信柱、おまえの叔父の鉄道長に早くそう言って、あの二人はいっしょにしてやった方がよかろうぜ」
見るとそれは先ごろの晩の倉庫の屋根でした。倉庫の屋根は、赤いうわぐすりをかけた瓦を、まるで鎧のようにキラキラ着込んで、じろっとあたりを見まわしているのでした。
本線シグナルつきの電信柱は、がたがたっとふるえて、それからじっと固くなって答えました。
「ふん、なんだと、お前はなんの縁故でこんなことに口を出すんだ」
「おいおい、あんまり大きなつらをするなよ。ええおい。おれは縁故と言えば大縁故さ、縁故でないと言えば、いっこう縁故でもなんでもないぜ、が、しかしさ、こんなことにはてめえのような変ちきりんはあんまりいろいろ手を出さない方が結局てめえのためだろうぜ」
「なんだと。おれはシグナルの後見人だぞ。鉄道長の甥だぞ」
「そうか。おい立派なもんだなあ。シグナルさまの後見人で鉄道長の甥かい。けれどもそんならおれなんてどうだい。おれさまはな、ええ、めくらとんびの後見人、ええ風引きの脈の甥だぞ。どうだ、どっちが偉い」
「何をっ、コリッ、コリコリッ、カリッ」
「まあまあそう怒るなよ。これは冗談さ。悪く思わんでくれ。な、あの二人さ、かあいそうだよ。いいかげんにまとめてやれよ。大人らしくもないじゃないか。あんまり胸の狭いことは言わんでさ。あんな立派な後見人を持って、シグナルもほんとうにしあわせだと言われるぜ。まとめてやれ、まとめてやれ」
本線シグナルつきの電信柱は、物を言おうとしたのでしたが、もうあんまり気が立ってしまってパチパチパチパチ鳴るだけでした。倉庫の屋根もあんまりのその怒りように、まさかこんなはずではなかったと言うように少しあきれて、だまってその顔を見ていました。お日さまはずうっと高くなり、シグナルとシグナレスとはほっとまたため息をついてお互いに顔を見合わせました。シグナレスは瞳を少し落とし、シグナルの白い胸に青々と落ちた眼鏡の影をチラッと見て、それからにわかに目をそらして自分のあしもとをみつめ考え込んでしまいました。
今夜は暖かです。
霧がふかくふかくこめました。
その霧を徹して、月のあかりが水色にしずかに降り、電信柱も枕木も、みんな寝しずまりました。
シグナルが待っていたようにほっと息をしました。シグナレスも胸いっぱいのおもいをこめて、小さくほっといきしました。
その時シグナルとシグナレスとは、霧の中から倉庫の屋根の落ちついた親切らしい声の響いて来るのを聞きました。
「お前たちは、全くきのどくだね、わたしたちは、今朝うまくやってやろうと思ったんだが、かえっていけなくしてしまった。ほんとにきのどくなことになったよ。しかしわたしには、また考えがあるから、そんなに心配しないでもいいよ。お前たちは霧でお互いに顔も見えずさびしいだろう」
「ええ」
「ええ」
「そうか、ではおれが見えるようにしてやろう。いいか、おれのあとについて二人いっしょにまねをするんだぜ」
「ええ」
「そうか。ではアルファー」
「アルファー」
「ビーター」「ビーター」
「ガムマー」「ガムマーアー」
「デルター」「デールータァーアアア」
実に不思議です。いつかシグナルとシグナレスとの二人は、まっ黒な夜の中に肩をならべて立っていました。
「おや、どうしたんだろう。あたり一面まっ黒びろうどの夜だ」
「まあ、不思議ですわね。まっくらだわ」
「いいや、頭の上が星でいっぱいです。おや、なんという大きな強い星なんだろう。それに見たこともない空の模様ではありませんか、いったいあの十三連なる青い星はどこにあったのでしょう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね、僕たちぜんたいどこに来たんでしょうね」
「あら、空があんまり速くめぐりますわ」
「ええ、ああ、あの大きな橙の星は地平線から今上ります。おや、地平線じゃない。水平線かしら。そうです。ここは夜の海の渚ですよ」
「まあ奇麗だわね、あの波の青びかり」
「ええ、あれは磯波の波がしらです、立派ですねえ、行ってみましょう」
「まあ、ほんとうにお月さまのあかりのような水よ」
「ね、水の底に赤いひとでがいますよ。銀水のなまこがいますよ。ゆっくりゆっくり、這ってますねえ、それからあのユラユラ青びかりの棘を動かしているのは、雲丹ですね。波が寄せて来ます。少し遠のきましょう」
「ええ」
「もう、何べん空がめぐったでしょう。たいへん寒くなりました。海がなんだか凍ったようですね。波はもう、うたなくなりました」
「波がやんだせいでしょうかしら。何か音がしていますわ」
「どんな音」
「そら、夢の水車のきしりのような音」
「ああそうだ。あの音だ。ピタゴラス派の天球運動の諧音です」
「あら、なんだかまわりがぼんやり青白くなってきましたわ」
「夜が明けるのでしょうか。いやはてな。おお立派だ。あなたの顔がはっきり見える」
「あなたもよ」
「ええ、とうとう、僕たち二人きりですね」
「まあ、青白い火が燃えてますわ。まあ地面と海も。けど熱くないわ」
「ここは空ですよ。これは星の中の霧の火ですよ。僕たちのねがいがかなったんです。ああ、さんたまりや」
「ああ」
「地球は遠いですね」
「ええ」
「地球はどっちの方でしょう。あたりいちめんの星、どこがどこかもうわからない。あの僕のブッキリコはどうしたろう。あいつは本当はかあいそうですね」
「ええ、まあ、火が少し白くなったわ、せわしく燃えますわ」
「きっと今秋ですね。そしてあの倉庫の屋根も親切でしたね」
「それは親切とも」いきなり太い声がしました。気がついてみると、ああ、二人ともいっしょに夢を見ていたのでした。いつか霧がはれてそら一めんの星が、青や橙やせわしくせわしくまたたき、向こうにはまっ黒な倉庫の屋根が笑いながら立っておりました。
二人はまたほっと小さな息をしました。
底本:「セロ弾きのゴーシュ」角川文庫、角川書店
1957(昭和32)年11月15日初版発行
1967(昭和42)年4月5日10版発行
1993(平成5)年5月20日改版50版発行
初出:「岩手毎日新聞」
1923(大正12)年5月
入力:土屋隆
校正:田中敬三
2008年3月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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