「迷いの末は」
──横光氏の「厨房日記」について──
宮本百合子
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『文芸春秋』の新年号に、作家ばかりの座談会という記事がのせられている。河豚礼讚、文芸雑誌の今昔などというところから、次第に様々の話題へ展開しているこの記事は、特に最後の部分、二・二六と大震災当時の心境についてそれぞれの出席者が所感を語っている部分に至って、読者の感想を喚び出す幾多のものを示している。徳田秋声、菊池寛、久米正雄等の作家たちが、震災以来今日までの十五年間に生きて来た社会的な道すじ、及び今日それぞれの人々が占めているこの社会での在り場所というものを、自ら読者に考えさせる言外の暗示を少なからず含んでいるのである。
この座談会で、次のような話が交わされた。
徳田秋声「パリから白鳥君(正宗)が手紙をよこしてね。こっちに又来たけれども、退屈な日を送っていると云っているのだね。今度はお寺やなんかばかり見ている。鞄の中に西鶴のものが一冊入って居って、それが今一番ぴったり来るというのだね。向うのことは何にも分らんという。そんなことが書いてあった」
久米正雄「白鳥氏なんかよく享楽しているよ」
徳田秋声「そりゃそうですな」
短い言葉のやりとりの裡に、語る人々、語られる人の風貌が躍如としていて、まことに面白い。全く白鳥という人は、世間並より或はずっとよく、そして巧に享楽もしつつ、退屈げな顔つきを日常の間にも作品の中にも漂わす作家なのであろう。向うのことは何にも分らない、なりにこの人は落付いている。彼を落付かせているものがよしんば何であろうとも、彼はそれを旅券や財布とともにパリの真中でも落しっこない人なのである。
横光利一氏はそうはゆかない。向うのことは何にも分らないで白鳥のように安心も出来ないし、同時に此方のことが何にも分らないでも通用しかねるという苦しい自覚におかれた。『改造』新年号に「厨房日記」を読んだ人は、おそらく梶という名で立ちあらわれている一人物を通して作家横光の複雑な苦境と混乱とそれに何とか恰好をつけようとしてとられている身振りの貧寒さを感ぜざるを得なかったであろうと思う。
この錯雑した作品の中にも、実感のある幾つかの小さい箇処がある。例えば梶が帰朝第一日、浴衣に着換えて妻の実家の十二畳の広間にひっくりかえった時、組みあげた足の先と妻の指先とが思わず触れあった瞬間の含羞。久しぶりで自分の子供の幼い顔を打ち眺めつつ、自分の見て来た世界の実際の大きさに今更ながら驚く気持など、読者にそれなりの心持としてふれて来るところも無いことはない。然しながら、全体としてこの一篇の作品が提出しているものは、世界の東西を貫いて、波浪高い今日の社会における矛盾相剋の間で、意識的に体をしゃちこばらせつつ遂に揉みくしゃとなった人間の姿である。
鴎外以来、日本の作家はそれぞれの歴史的な時代に、それぞれの事情をもって海外への旅行を試みた。漱石も藤村も彼等の作家的発展の過程から、ヨーロッパとの接触をぬいて云うことは出来ない。円本時代に頻出した作家たちの海外漫遊は、ある一部の日本の作家達の経済的向上を語ったと同時に、微妙な独特性でその後におけるそれらの作家達の社会的動向に影響を及ぼした。
一九二九年以来、世界の事情は急変した。久米正雄氏が嘗て美しい夫人を伴ってアメリカ人と肩を並べ悠々漫歩したパリのヴルヷールには、きょう、その時分にはなかった種類の示威行列がねっているそうである。与謝野晶子、藤村などが詩を語って、思い出の中にまざまざ生かしているであろうカフェー・リラで、今日声高く談ぜられているのは常に必ずしも、文学、音楽のことのみではない。横光氏は座談会で云っている。「外国の文士というものは聊か政治批評をやっているね」と。
大体、外国人から、あなたの国はどういう国ですか、と訊かれたとき、返事に困らない者はないであろう。アメリカ人やフランス人たちが日本へ来てもこういう困難には一度ならず出逢うに違いない。だがそれは、日本人が外国へ行った場合に遭遇する困難とは比較にならないと思う。何故なら、アメリカにしろフランスにしろ、外国の文化人の理解の中に浸みこんでいるそれぞれの国の概念というものは現実の生活とあらましぴったりしたものである。フランス風というと、その一言が多くの内容を一括して或る感じを与え得る。ところが日本というところは、過去においては余り東洋の幻想の中につつみこまれていた。蝶々夫人、お菊さん、小泉八雲の描くところの日本。それらはいずれも昔の日本の或る一面、或はそれが嘗ては日本であったところのものを、語っているかもしれないが、何しろ一九二九年以後の日本というものは、国際関係の現実の中で極めて現実味の強烈な或る意味で露骨な進退をしているのであるから、小泉八雲の気分的日本の描写では、外国人として日本を掴み得たと感じられないのは自然である。まして、昨今の日本文化輸出熱は、その本質において、残念ながら多くは外国の人々の日本に関する不十分な先入感、お蝶さん的趣味に追随した程度のものであるから、日本文化と称するものの輸出熱が嵩じれば嵩じる程、一層現実日本の挙止が日常に与えつつある印象と日本的と称されるものとの間にギャップが目立って来ざるを得ない矛盾におかれている。
トリスタン・ツァラアがモンマルトルの客間で日本の作家ヨコミツに「日本はどういう国ですか。僕は他の国のことなら何処の国でも多少は想像がついているのだけれども、日本だけは少しも分らない」という質問を出したことの中には、日本が皆目分らないのではなく、日本について彼に分っている或ることと或ることとの間の、人間的・社会的必然の繋りが分らない。つまり、日本のそのこととこのこととが、どういう関係で日本人の心の中にそのような形で在り得るのか、そこがどうも見当つかないという内容をもって来るのである。聊か政治的批評もするヨーロッパの文士は、日本人絹業の興隆、その背後の力とリオンの絹業者の破産との相互関係も知っているであろう。又、スイスの時計生産を圧迫している日本製時計、自転車の大量輸出と日本の世界最低の労働賃銀のことをも知っているであろう。中国と日本とが、東洋においてどのような関係にからまれているかをも知っていよう。そういう、日本の面と、能や端午の節句や桜花爛漫を撮影している国際文化振興会などの、日本紹介映画との間に、どういう血が通っているか。否、普通日本人と呼ばれている多数のものの平凡で苦労の多い実生活の裡にこの二面はどんな形で、どんな有機性で渾然とし得ているのか。一九三六年におけるツァラアの日本についての質問の実体は至って複雑であり得るのである。
そもそも、作家としての、横光氏は、その文学的出発の当初から、現実の或る面に対しては敏感であったが、その敏感さの稟質は、一箇の芸術家として現実を全面から丸彫にしてやろうという情熱において現れず、常に、現実の一面にぶつかってそこから撥ね返る曲線を自意識の裡で強調する傾向で現われた。横光氏は作家として先ず、志賀直哉のリアリズムに反撥して新感覚派と呼ばれた一つの曲線をみずから描いた。ところが、その曲りの果てでプロレタリア文学にぶつかり、そこから撥ねかえったものとして渡欧まで主知的と云われた主観的作風にいた。このことは、人間及び作家としての横光氏の生き方を観た場合、見落すことの出来ない、一つの特徴である。現実につき入り、それを窮めようとする作家的情熱の型をもし仮に鑿孔性と云い得るとすれば、横光氏の作家的情熱の型は実に硬緊性である。対象のないところさえ対象を描いて、自意識を主観の中で、緊張させる人である。この横光氏が、日本というものについての複雑極る質問に、彼の標準による作家らしさ、手際よさで答えなければならない端目におかれたのである。焦慮察すべきものがある。作家横光は、現実的に日本を語る力は、日本にいたときでさえ持たぬ作家であったのであるから、ともかく何かヨーロッパ的でないものを抽き出して、これが日本であると云うために、ひどい無理をしている。「一口で日本を巧妙に説明しなければならぬ危い橋を渡る」ために、開口一番「日本には地震が何より国家の外敵だ」と云い、それが「他のどの国にもない自然を何より重要視する秩序を心理の間に成長させた」それ故「ヨーロッパの左翼の知性」は日本に入って「日本独特であるところの秩序という自然に対する闘争の形となって現れ」従って「絶対に負けるのは左翼である。」「日本文化の一切の根底は無の単純化から咲き出したもので、地球上の凡ての文化が完成されればこのようになるものだという模型を作っているような社会形態が日本だと思う。」「つまり知性の到達出来る一種の限界まで行っている義理人情の完璧さのためにも早や知性は日本には他国のようには必要がないのだと思う」という迄に常軌を逸したのであった。
日本の外へ出て見ると、内にいた間には見えなかった日本が見えるのは当然である。漱石なども、ロンドンに行って後、非常に鮮明に、日本の文化的伝統とヨーロッパの文化的伝統との相異を、その社会的歴史の背景の前に認めた芸術家の一人であったが、それは、漱石にあっては、当時の日本の文学的水準にとって瞠目的な価値をもっていたイギリスの十八世紀文学の研究と文学評論とを生ましめた。同時に、日本の義理人情というものをも客観的に把握し解剖する力を獲得した。漱石自身のうちに時代的な意味で影響をのこしている義理人情をも、その観察の鏡にうつして眺めるようになった。小説の中で、彼は、旧来の義理人情というものが自然であるべき人間相互の関係を歪め、そこから生じた不調和や偽善に対して、人間的な、自覚をもつ我、及び自然的人間情緒が捲き起さざるを得ない軋轢と相剋とを描き得た。「それから」「門」「彼岸過迄」等、いずれもこの点で当時の日本人の発展的な内部生活を反映していたのであった。彼が、目白の学習院へ招ばれ、フロックコオトを着て述べたところの講演は、若い公達等に、人間性の自覚の必要を力説したものであった。
漱石は、飾らない言葉で一面では日露戦争後の日本人の盲目的なヨーロッパ崇拝を罵倒し、他の一面ではヨーロッパの文物にある俗物根性を批判した。より高い人間的水準の上に立つものとしての知識人の矜恃を求めている。漱石の自覚にあった、このより高い人間的水準というものは、今日の歴史の眼によって見れば独り合点のところもあり、最後の「明暗」の時代には、作家としての彼を深刻な内的分裂の危機に近づかしめつつあった。けれども、彼が愛する日本を暗くしている蒙昧に対して明知を、人間性の無視と没却とに対して、その自立と天然の開花を追求した方向においては、疑いもなく明治、大正年代の進歩人の意欲を正当に代表していたのである。
「厨房日記」における梶の見解、その見解に全然一致している作家横光の見解は、果して今日の日本の何人の生活感情を代弁し得ているであろうか。
義理人情が、日本の文学的伝統の中で芸術的表現を与えられたのは、義理といい人情という、この世の外的内的なしがらみを破り、或はまさに破らざるを得ないところまで迸った天然自然の人間性が、その柵にせかれて身もだえし、遂にそのしがらみを破ったと同時に我が身をも滅した憐れさを捕えたものであった。さもなければ、義理にせかれ、人情にからまれ、親子、夫婦、主従、愛人たちの人間らしい真情が裂かれ、傷けられ、死にながら生きなければならなかった我々の不幸な祖先たちの心の苦痛の物語である。義理人情の詩人としての大選手近松門左衛門の諸作が今も日本人の間で生きのこっているのは、そのような哀々切々たる祖先の涙が、今もなお人々の胸を刺すだけ、今日の人々の生活感情が不如意な浮世のしがらみの苦痛を知っているからである。
義理人情は、芸術化の過程にあって、謂わば社会的桎梏に対する人間性の逆説的な強調として、初めて芸術の要因たり得たのであった。義理人情が芸術の要因の重きを占めるようになった徳川権力確立以後の日本人の芸術は、感傷と悲壮との過剰に苦しめられている。しかも、これらの芸術的要素は、万葉時代にはこのような形では日本人の生活感情のうちに現われていなかったものである。まして、いわんや、フランスがえりの梶なる男が、青畳の上にころがって官能的にこの世の力を悦びながら「南無、天知、物神、健かにましまし給え」と随喜する、その神々の健全なりし時代の日本的感情の中に於ておや。
梶は、日本人の今日の常識にとってさえその真意を汲むに困難な独特日本の義理人情によって知性を否定する怪々な論を、フランス人に向ってくりかえしたのであった。なまじい梶の説明をきいたばかりに、一層フランス人の心で日本が分らなくなり、かくの如き人物が作家と呼ばれる日本の文化とは果してどのようなものであろうかという疑問を深めたであろうことは、寧ろ当然と思われる。「若い作家が肩を縮め両手を上げて驚きの表情を現した」のみであり、さすが古強者のシュール・レアリスト、ツァラアも「通訳を聞くとただ頷いて黙っていただけであった。」と云うのは、実に「笑わば笑え。正真正銘の悲劇喜劇」であると云うより外はない。
作家というものは、錯綜した社会関係の間にあって、種々の幸、不幸を経験するものである。作家横光は、日本における文学史の一時期との相対関係の上から一人のブルジョア作家として、最も不幸なる幸運とでも云うようなものを享受していたと考えられる。小林秀雄氏の評論家的出発点とその存在意義と横光氏のそれとは酷似した運命におかれた。文学の真の発展が阻害されている一時期に生じる作家と読者との黙契的諒解の上に依存して、作者の不分明な思惟や紛糾した表現を、それが不分明であり不鮮明であるため却って読者の方が暇にあかせ根気よく、各自の気分で読んで、むこうから解説し内容づけてくれるという、特殊な境遇の便宜に馴らされていた。フランスでは、この一部の慣例が通用しなかった。言葉はそれが言葉として有する意味以外には通用しなかった。カッと目を見張って神経の弱い対手を習慣的な言葉の呪文で立ち竦ませることが出来なかったと同時に「厨房日記」の作者自身も、気持よく対手の麻痺の中に自身を憩わすことも不可能であった。義理人情の合言葉が、今日の現実の裡で何かの支えとなり得ているものならば、梶は何のために寝床の中で「あーあ、もとの木阿彌か」と長大息する必要があるであろう。暗夜、迷子になった息子を探しに出て歩きながら、「ふと自分も今自分の子供と同じような目にあっているのではないかと思われ」そのような有様に現代インテリゲンツィアの苦痛の姿を見る必然があるであろう。
現代の知識人は一つの世界苦につつまれている。然し、それは、知性を否定せられることを承認し得ないところから発生しているものである。悪気流は、人間らしい知性の開発と光彩とを圧しつつもうとしている。それに対して抗いつつ、或る必要な力をもっていないという自覚に苦しんでいる、そこから現代のトスカが湧くのである。知性の喪失を、梶が謳歌していることに対して、もし、苦しんでいる知識人からの祝詞や花束がおくられると予想すれば、それは贈りての目当てにおいて大いにあやまったものと云わざるを得ない。従来馴致された作家横光の読者といえども、知性を抹殺する知性の遊戯を快く受ける迄に、虚脱させられていないのである。
横光氏は、自身の文学的教養として従来フランス文学の伝統を汲んで来たと思われる。純粋小説云々のことも、あながち、スタンダールの言葉をアンドレ・ジイドが「贋金つくりの日記」の中で引用している、その言葉の模倣のみではなかったであろう。動いたり、飛びついたり、突ころがしたりすることの絶対にない活字に、印刷されているフランスやフランス文学は、ジイドやマルローまでを理解し得ているかのようであっても、刻々の実際に生きて、呻いて、血を流して、しかもそこから新しいフランス文学を産もうとしているなまのフランスには堪え得なかった一人の作家をここに見るということは、無限の感慨である。「血眼になって騒いで来たヨーロッパの文化があれだったのか」と梶は云い捨てているが、梶のヨーロッパの現実についての理解力は、日本の現実についての理解と同然、腹立たしい迄に貧弱、且つ誤りに満ちている。
自国の文化を十分に理解していないものがどうして他国の文化を理解することが出来よう。梶は、そのことの生き証人の如き観がある。梶は、国際列車にもまだ沢山の乗換場所がいる、というような言葉を機械的に暗誦し易いフレーズにまとめて云っているのであるが、この見解がもし作者自身にとって具体的な内容で把握されているのであったら、関西財界の大立物であるという友人に向って「日本の左翼はスターリン派かトロツキー派か、どっちが有力なんだ。君聞かないか」などと日本の実際から離れた奇問は発しなかったであろう。「日本も累進率の税法で、これから文化がどしどし上る一方だよ」という理論は、常人にとって全く理解し難い。それを、「梶は日本の変化の凄まじさを今更美事だとまたここでも感服する」というのは、いかがしたことであろうか。
「厨房日記」をよむと、この作者が外国でも日本でも、質のよくない情報者というか、消息通にかこまれていることがはっきり分る。それらの人々から断片的にあつめたインフォーメエションの上に立ち、而も作家としての立場からそれらの情報、説明を現実に照らし合わせて正当に判断するだけの力はない作者の無知が、言葉の綾では収拾つかぬ程度にまで作品の生地に露出している。それだけであるならば、従来もこの作者が現実に対して十分の理解をもっていなかったことの連続として、読者は新しく遺憾の意を表するに止るであろう。然し、「厨房日記」には、作者の現実に対する無知に加えられた何かがあることを感じさせられる。同じ程度の現実に対する無知がその実質であったとしても、これまでの作家横光は、少くともその作家的姿態に於ては、何か高邁なるものを求めようとしている努力の姿において自身を示して来た。内容はどういうものにしろ、高邁な精神という流行言葉が彼の周囲から生じていた。この人生に対して誠実げな足の運びで、登場していたのであった。その点で、一部の読者が彼の作品を判読したのであるし、マーケット・プライスが保たれたのであった。
「厨房日記」は嘗て高邁を称えた作家にふさわしい何物かを芸術としてのこしているのであろうか。「虚心坦懐とは日本でこそ最も高貴な精神とされているが」「今のところ、如何なる国際列車もまだ乗換場所がいくつも必要だから」「パリ人というものは自身や他人の金利のことについて口を出さぬ。もしこれに一言でも触れようものならパリ生活の秩序は根底から破壊されてしまうのだ。それは日本に於ける義理人情の如きもので、この生活を破壊して自由はないのであった。思想は生活の自由を尊重すればこそ思想である。しかしその思想が市民の根底をなす金利を減少せしめ、自由の生活を破壊に導く火を噴き上げている現在に於ては市民の思想とは如何なる種類のものであろうか。」「義理人情という世界に類例のない認識秩序の美しさ」その「生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ」而して「嘘のようなうつつの世界から」「一足さわった芳江の皮膚の柔らかな感触だけが」「強くさし閃いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手応えだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗かれた気楽さに立ち戻り、又ごろりと手枕のまま横になった。」これが、高邁というポーズを流行せしめた一人の日本の作家の「一人前に成長した」と自認するところの姿であることを、読者は納得し得るであろうか。
アダム・イヴやプロメシウスの伝説以来人間が人間的智慧の輝しさを自覚したところから芸術は発生している。近代ヨーロッパ文学は、キリスト教に対して意志的に無になったところから生れたのではなかった。人間性を意志的に有にせんとする意欲から発祥している、「義理人情という秩序」に対して意志的に無になろうとするならば、その人は先ず第一に芸術家であることを廃業しなければならないであろう。近松は、あれほど沢山の浄瑠璃を書かざるを得なかった程、義理人情の枠を突破する現実の人間性の迸出を当時の社会にあって感覚したのである。
先頃来朝した戯曲家エルマー・ライスは、今日の世界の到るところに矛盾を認めた。せめて、それ迄の平静さ、へつらいなさ、淡白さを作家横光は、何故もち得なかったのだろう? 彼の特徴的な硬緊性は、どういう力の作用で「厨房日記」のように現れたのであろう。
今日、日本ではやっている日本的といわれるものの中に多分な翻訳的性質が含有されていることは、一つの顕著な時代的性格である。
小林秀雄氏は、先頃僕らは自分が日本人であるか西洋人であるかはっきり分らないと云う意味のことを書いた。ところが、それから幾何も経たないつい先頃、中野重治と戸坂潤の評論を反駁した文章(東朝)では、この二人の評論家が民族的自覚をもっていぬと云って攻撃している。小林氏はこの自然ならぬ飛躍に於て、日本の大衆は現実を批判しようとする意慾など必要としていないと云うのである。横光氏の知性の否定の傾向に結びついて、時代的な双生児である小林氏のこの旋回ぶりが哀れまざまざと浮立って映って来るのは何故であろう。
人類の歴史の発展において、迂遠なる大道である芸術の路上で、宙がえりやとんぼがえりをいくらしたとて、自他ともに益することは皆無である。少くとも数種の著作をもつ日本の作家や評論家が、不分明な日本語を操っていたうちはともかくそれぞれの立場から人間らしき知慧の明るさを求めていたのに、辛うじて平易な日本文を書き出したと同時に知性を喪失したとあっては、一九四〇年を目ざして、明朗な文化高揚のため砕心する諸賢においても、些か憂慮を要する次第であろうと思われる。
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸」
1937(昭和12)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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