モスクワ印象記
宮本百合子
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トゥウェルスカヤの大通を左へ入る。かどの中央出版所にはトルキスタン文字の出版広告がはりだされ、午後は、飾窓に通行人がたかって人間と猫の内臓模型をあかず眺める。緑色の円い韃靼帽をかぶった辻待ち橇の馭者が、その人だかりを白髯のなかからながめている。
中央電信局の建築が、ほとんどできあがった。材料置場の小舎を雪がおおっている。トタンの番小屋のきのこ屋根も白くこおっている。
──ダワイ! ダワイ! ダワイ!
馬橇が六台つながって、横道へはいってきた。セメント袋をつんでいる。工事場の木戸内へ一台ずつ入れられた。番兵は裾長外套の肩に銃をつっている。
長靴に二月の雪をふみしめ、番兵は右に歩く。左に歩く。しかし歩哨の地点からはとおく去らず、彼は口笛をふいた。交代に間がある──。日曜に踊った女の肩からふいと心の首を持ちあげたとき、番兵は向う側の歩道をゆく二人の女を見た。大股に雪の上を──自分の女の記憶のうえをふみしめるのを瞬間わすれて、番兵は自分の目前を見つづけた。
──中国の女?──
一人の女は黒ずくめ。一人の女は茶色ずくめ。毛皮の襟からでている唇をうごかして彼女たちは番兵の理解せぬ言葉をしゃべり、黒ずくめの女の方が高笑いをした。
番兵は銃をゆすりあげ、さらに女たちの後姿をみまもった。街の平ったい建物のみとおし。後から取りつけたに違いないバルコニーが一つ無意味に中空にとび出している。したに、
ホテル・パッサージ
電気入りの看板がでていた。バルチック海の春先の暴風がおこる朝、この看板はゆれた。そして軋む。黄色い紙にかいた献立が貼りだしてあるそのホテルのばからしくおもいドアを体で押しあけて、先ず黒ずくめの女がはいった。つづいて、茶色外套の女もはいってしまった。──バング!
肉入饅頭売りがきた。彼が胸からつるした天火のゆげが、ドアの煽りでちった。同時に肉入饅頭の温い匂いも湯気とともにちる。
番兵の、田舎の脳髄のひだのあいだで東洋女の平たい顔の印象がぼやけた。ただ好奇心の感覚が、漠然神経にのこっている。その時、永いあいだ立っている橇馬が尾をもたげ、ここちよげにゆっくり排泄作用をおこなった。雪解けの水にぬれたむかい屋根の雨樋にモスクワの雀がとまって、熱心に、逞しい馬の後脚の間に落ちたできたての、湯気のでる餌をみはった。
ホテルの四階のはしに、日本女の部屋があった。下足場に棕梠がおいてある。そこから日本女の室まで七十二段、黒・赤・緑花模様の粗末な絨毯がうねくり登っている。昇降機はない。あってもうごかぬ昇降機がモスクワじゅうにたくさんある。日本女は一日に少くとも二百八十段上ったり下りたりした。そのたびに事務室の前をとおりすぎた。事務室の白い戸には三越の文具部にあるインク・スタンドの通りな碧硝子のとってがついていて、執務時間第八時より第十二時。第十四時より第二十二時と掛札が下っている。新モスクワの生活法を、レーニンの大写真が眺めている。
四階の手摺から下を見下すと、下足場の棕梠の拡った青葉のてっぺんと、その蔭に半分かくされたテーブル、うつむいて上靴をはいている女の背なかまで一つの平面に遠くみおろせた。棕梠があるから、人はここから身を投げても死ぬことはできない。
一人の日本女は、一日のうちになんどもそこから下をのぞいた。
夜になると、小さい花電燈が二つ点いた。廊下は静かだ。よく女中が手摺のそばに椅子を持ちだし、キャラコのきれに糸抜細工をやった。女中は痩せている。栗色の毛をかたくくるくる巻きにしている。海老茶色のジャケツをきて小さい耳飾をしている。日本女は、てすりによりかかり、文法没却法で彼女と話した。
──今夜寒い。
──寒い! 貴女の部屋は? 温くありませんか?
──部屋は温い、もちろん! ここ、廊下にいて寒くない? あなたの家は温い?
──温い。西日がさす。温いけれど夏はやりきれない。
──西日は体によくない。
──よくない。
──丈夫? あなた。
──肺がわるい。──二期──分ります? 私の云うこと。ここ、肺、ね。私は技術がないから他の働きができない。
サナトリアムは満員だ。日本には肺の悪い人がいるだろうか。流感がこんな置土産をしていった。三期になったらサナトリアムへ行けるだろう。そんな話をする。
廊下の白い壁に質素な円時計がかかっていて、半時間ごとに、彼女たちの頭のうえで時を打った。その時計の鳴る音を、日本女は床の中で眠らず六つまできくこともある。雪と煤煙とのモスクワ、きたなさのうちに美しさがある居心地よいモスクワの日の出は七時半だ。
一九二〇年には百二万八千であったモスクワの人口が一九二六年に二百一万八千に増大した。この結果、モスクワでは、四つの世帯がたった一つの台所しかない貸室に生活を営み、あらゆる小学校は二部教授をさずけ、Yと私とはすでに二ヵ月、ホテルの一室に生活しつづけなければならないことになる。毎日、事務室の青羅紗の上に、我々は六ルーブリの宿料と、一割の税とをおく。金庫をひかえて坐っているトルストフカの事務員が、一枚の受取をよこす。受取の裏には、普通のホテル取締規則のほかに、宿泊料は一日ごとに支払うべきこと、たまればたまった金高に応じ割合の高い税の附加されることを印刷してある。私があるいはYが、夜の第二十一時五十分になってハッと思い出し、最大速力で事務室へかけ下りるのも、それ故無理ないしだいではないか。貸室は一杯だ。ホテルには空いた部屋がある。そこへも行かずYと私が一室に起居をともにし、読書をともにし、通風口の開けられない夜中は、たがいのはく炭酸瓦斯さえわけ吸って居るのは、モスクワの人口過剰に比例して軽い我等のポケットが最大原因だ。我々は、シベリア鉄道以来の練習でできるだけたがいの存在を神経の埒外に放逐し、ながいモスクワの冬のよなよなを暮す。しかし、私はものが書けぬ。Yは無遠慮に発音練習をやることができない。これは不便だ。しかも、厳然たるわれらの経済が結論するところの不便だから、Yも私も、互に向ってヒステリーを起す権利がない。私は自分の内攻的ヒステリーを少し整理して、田舎者のハンカチーフのような青格子縞のテーブル掛の上で考える。
私の胸のうちでは日本が、極めて心臓に近い場所でなんともいえず脈々と動きはじめる。黙って頬杖をついてテーブル掛の麻糸のほつれをぽつねんとよってはいられなくなる。私はYを呼ぶ。
彼女は、縞の、シベリア鉄道でアメリカ女がそれを見て蔑視したところの、厚ぼったい、男もの見たいなうわっぱりの中から、私を振向く。私は多くの賢いこと愚かなことをとりまぜ、しゃべり出す。やがてYも椅子を向けなおし、彼女の常戦法である「違うよ、そうじゃあないさ」をもって進出してくる。それから後、我々がどんなに、どんなことについてしゃべるか──ホテルの薄緑色の壁ばかりが知っている。
この時、ホテルの廊下の隅の女中のところでけたたましくベルが鳴った。戸棚の前で、女中は印度の詩人の室に撒く南京虫よけ薬を噴霧器に移した。女中はそれを下へおき、日本女の部屋の閉った扉を通って隣室へ行く。
三分後、白前掛をかけ、鼠色シャツを着た海坊主のような食堂給仕が、手すりにつかまり二段ずつ階段をとばして下から登ってきた。彼は若くない。肥った。息が切れる。新しくないサルフェトカで風を入れつつ六十二号、日本女の隣を開けた。ホテルにはプロフィンテルンの代表者が一杯泊り込んでいる。あちらにも代表員! こちらにも代表員! 代表員は長靴のまま長椅子に寝る。代表員の食事はただである。平常はテーブルに白い紙をかけ、色つけ経木造花で飾ってあるホテルの狭い食堂は、代表員がいる時食卓に本ものの布のテーブル掛がかかる。きちんと畳んだ新しいサルフェトカと、いい方の、光って重い揃いのナイフやフォークがいつ行って見てもならんでいる。海坊主の給仕は大盆をかたげ、あるいは空手で絶えず白前掛をひらめかせ代表員の胃袋充填をして廻らなければならない。彼は不機嫌である。
日本女は、茶が飲みたくなった。日本女は扉をあけ、廊下へ半身だした。隣室の扉も開いている。各々食物を注文する数人のがやがやする声と、海坊主が「宜しい、宜しい」答えている声がする。ついに給仕が廊下へで、日本女が口を利こうとした時、追っかけてさらに一人の代表員が室内から叫んだ。
──持って来い、ナルザーン(炭酸水)!
──…………承知しました…………………
Yはモスクワ第一大学へ教授ペレウェルゼフの口元を見つめにでかける。ペレウェルゼフの頤はごましお髯につつまれているが、文学批評は古くない。ただYにとっていくらかの困難がある。というのは、すべて文学批評の本が、小説とは違ういやに読みにくい活字で印刷されている通り、講壇の上においても、ペレウェルゼフの言葉は、Yの聴覚と調和しがたい。それでもYは、日本からの黒いおかっぱを、やっぱりごみだらけの講堂にあらわす。そして十九世紀のロシアにおける貴族文学、中流文学、民衆の文学について話されているはずのものを聴くであろう。
私は、その間ホテルの室にいる。貴重な独りの時間を貪慾に利用しようとする。
それから、ロシア語初等会話を、B夫人についてやる。──
モスクワにきて私の深く感じたことが一つある。それは、現代のСССРが外国人の旅行者に対して、どんな行届いた観光の案内役を設けているかということだ。モスクワの停車場へ下りる。午後三時迄の時間であったら、彼はタクシーをやとい、まっすぐ、マーラヤ・ニキーツカヤ通りの対外文化連絡協会へ行けばよい。もとは金持の商人の邸宅であったその建物の、下の広間の、隅の事務机に向って歩け。そこには髪の黒い、眼の大きい美しい二十七歳の女が坐っている。彼が日本語とイタリヤ語以外の言葉を話せば、翌朝から彼が丁度茶を飲み終ったという時刻に、協会から案内者が派遣されるであろう。彼が二日モスクワにいるならその二日で、一日だと云えばその一日中に、案内によってСССР風の観光──工場、革命博物館、基本的小学校、農民の家、さらに夜は大劇場の棧敷にならぶ一九二八年モスクワ風俗までを見せて貰うことが出来る。
対外文化協会ですべての人と英語で話す。英語の案内をつけて貰う。そしてたとえば製菓工場赤き十月へ行く。工場内の託児所の優れた設備を見、図書室、クラブを見せて貰い、読めないスローガンの貼られた壁を眺め、その文句のあるものを説明され、働いている人々に向って外国女らしい愛嬌笑いをして見せたところで、それは何を意味するであろうか?「なるほど、ロシアにはこのような施設がある。さすがだ。」これはむしろ甲の成績だ。
飛石のようにСССР全生活の深い水面から頭を出しているこれらの施設観光だけで、私は満足することができない。私が初めて「コサック」を読んだ頃から、「二十六人と一人」を読んだ時分から、私の心に生じていたロシアに対する興味と愛とは、十二月のある夜、つららの下った列車から出て、照明の暗い、橇と馬との影が自動車のガラスをかすめるモスクワの街に入った最初の三分間に、私の方向を決めた。できるだけ早く自分の英語を棄ててしまいたくなったのだ。
私は、いそいではどこもみまい。私は、私の前後左右に生きるものの話している言葉で話そう。そして、徐々に、徐々に──私はわが愛するものの生活の本体まで接近しよう。
二月の夜八時、芸術座の手前の食堂からある印象を抱いて出て来る。変に淋しい家であった。そこには、たった一人、ピストルを今鳴らされたばかりみたいなポーランド爺がいて、背広で、給仕した。帰る時、その家の猫がYの手袋をくわえてテーブルの下へ逃げ込んだ。
トゥウェルスカヤ通りへ出ると、街全面がけむたいようで、次第にそれが濃くなって来た。霧。霧。
霧は、天候の変る先ぶれのラッパだ。翌日街へ出て見たら、すべての橇馬の体で汗が真白い霜に凍っている。通行人のひげも白い。本物の「赤鼻のモローズ」がモスクワの街へ降りた。
午後三時半、日が沈みかけた。溶鉱炉の火玉を吹き上げたように赤い、円い、光輪のない北極的な太陽が雪で凍てついた屋根屋根の上にあり、一本の煙筒から、白樺の黒煙がその赤い太陽に向ってふきつけていた。
ブルワールも樹立も真白だ。黒く多勢の人々が歩いて行く。それらの人々は小さく見えた。
五時すぎ、モスクワの月が町を照す。教会の金の円屋根がひかった。月の光のとどかない暗い隅で、研屋の男の廻り砥石と肉切庖丁との間から火花が散り、金ものの熱する匂いがした。
赤い太陽の沈んだのと十三夜の明るい月の出との間がまるで短く、月は東に日は西に。北にあるらしい都会の感興が自分を捕えた。
それは、然し天のこと。──街上は夕闇の中に人。人。人。女乞食が栗鼠外套を着た女の傍にくっついて歩いて、
──可愛いお方、お嬢さん。小さい娘の為にどうぞ──ほんの一コペック──パンの為に──女は見向きもせず歩いて行く。りんご売の婆さんと談判している女が頭からかぶっているショールには、赤と黄色のばらが咲いている。コムソモーレツが、СССР流行の皮外套を着て二人来た。日本女を見て、
──上海から──
彼らの読本には、「レーニンとリチヤン」という詩。メーエルホリド座では「支那よ、吠えよ」。大劇場の「朱い罌粟」を皆が評判する。その中で、昔ながらの「蝶々さん」。──或は、いとも陽気な、チョンキナ、チョンキナ、チョンチョンキナキナ。長崎、横浜、函館、ホーイ!
このような情景もある。
暖い。街角の大寒暖計は六度だ。往来の雪がゆるんで、重く、歩き難い。午前の街上に日光がふりそそぎ、馬も滑りがわるいから体から湯気を立てて働いている。花屋の飾窓の氷がとけて、花が見えた。そばの壁に、婆さんと片脚ない男が日向ぼっこしている。よごれた歩道に沿って、ずらりと大道商人が肩と肩と並べている。新聞雑誌の売店、煙草屋、靴紐と靴クリーム、乾酪屋、三文玩具や、糖菓、蜜柑屋。
──ダワーイ! 奥さん、好い、新しい蜜柑! 二十五哥!(一どきに下って)二十哥! ダワーイ!
腕に籠を下げた人出の間を、水色制帽の技師が歩く。犬が歩く。子供が薬品店の飾窓の前の手すりにぶら下って粗製 Pessary を見ている。
ジグザグ歩きをして、私はニキーツキー門まで来た。一人のりんご売が丁度私の前で彼の商品を並べなおしていた。彼の背後から巡査が来た。巡査は何か云いながら、外套のポケットから右手を出し、りんごの一杯並んでいる小判型の大籠を無雑作に片方のとってで持ち上げた。りんごはきたない雪の上へころがり落ちそうになった。商人は慌てて自分で籠を上げた。──巡査は再び両手をポケットへ突込んで歩き出した。大道商人も並んで、りんご籠の重みで胸をそらせながら、親しげに巡査に顔を向け喋り、笑い、行く。──暫く歩いた時、彼等の行手を遮るようにして横丁から一台空の荷橇が出て来た。それを見てりんご売は一歩巡査をやりすごしたと思うと、いきなりその橇馬の鼻面を掠め、重い林檎籠を腹の前に抱えたなり、よたくり而も極めて手際よく、あっち側の歩道の人ごみの間へにげ込んでしまった。巡査が振り返る、車道の空間には、おっことして行った味噌こしざるみたいなものと一緒にまだ彼の笑顔が残っている。もう、樺色外套の背中は見えない。──
自分は思わず笑った。これはロシア的だ。そして農民的だ。彼がうまくやったのが何だかユーモラスで、私はひとりでに笑えた。歩道に立ち止って見ていた者も笑っている。巡査は、別に追っかけようともせず、傷けられた表情もなくりんご売の逃げた方角を眺めていたが、両手はポケットに入れたまま、やがて四ツ角へ向って歩き去った。味噌こしみたいなものは、どこかの物売女が拾った。
ロープシンは自殺しなければならなかった。政治的見地からすれば彼自身、不幸な最後を予想しない訳ではなかったろう。然し、彼はロシアなしではもう生きておられなかった。だからかえって来た。そして死んだ。彼のこの激しい郷愁の原因はどこにあったのだろうか。
またここに、「世界を震駭させた十日間」の筆者ジョン・リードがある。彼は饑饉時代に南露でチフスの為に死んだ。ジョン・リードは機敏なアメリカのジャーナリストとしての手腕の他に、他人ごとでない愛と興味をロシアとロシアの新生活に対して抱いていた。「世界を震駭させた十日間」に、彼はどんな私見もさしはさまず記録的に書いているが、記録蒐集のこまやかさと整理の印象的な点に、我々は彼がどんなにロシアに魅力を感じ理解していたかを知る。彼をひきつけ、我等を吸いよせ、殆ど眼を離させぬロシア生活の魅力とは、一体どこにある何ものなのであろうか。
私はそれを感じる。モスクワの古く狭い街路の上に。群集の中に。或はホテルの粗末な絨毯の上を闊歩する代表員のキューキュー鳴る長靴の上に。スイッツルの旅行者はアルプスと碧い湖と林とを見る。何より先自然の美観が彼に作用し、各々の才能に従って三色版のエハガキのようにか、或は散文詩のようにか彼の印象記を書かせるであろう。ロシアには、このような意味の風光は無い。モスクワでは、例えば、古風な寺院の外壁のがんに嵌めこまれた十八世紀の聖画に興味をひかれたら、彼は必ず同時にその外壁の下でひまわりの種をコップに入れて三カペイキで売っている婆さんの存在をも目に入れなければならない。聖画の古さ、婆さんが頭にかぶったきたない布、婆さんの前を突切って通行する皮外套の婦人共産党員の黒靴下の急速な運動など──互に対照する人生の断面が一目のうちにとび込んで来る。彼が若し、風景として感覚のうちにおどり込んで来るそれら人生の断片を吸収するだけの活々した生きてであるなら、同時に、そこから何か動きつつある民族的雰囲気というようなものを感得するのは、むしろ当然なことだ。
或る時、私はホテル・サボイの食堂に坐っていた。ホテル・サボイは外国旅客専門のホテルで、エレヴェーターボーイは英語で「おかけ下さい」と云い、給仕頭は白ネクタイをつけている。私の前には黒イクラとレモンをのせた鮭と酒がある。みな日本人である。半官的職業にたずさわる人々で、数年──彼等の経歴の最初のふり出しをロシアで始めたというような人もいる。革命前と後のロシア比較論なども出て、その論に対しては私の頭の中に夥しいクウェスチョンマークが発生したが、やがて一人が、忿懣を感じるような口調で云った。
「兎に角ロシアは泥沼ですよ、一遍足を入れたらもう抜かれやしない。その証拠にロシアで商売して金儲けした人間なんぞありゃしません。損に損する、それでいて、何故だかやっぱりロシアから足は抜かれない──全く泥沼さ」
この言葉は私の感情に、丁度母親の胸を蹴る赤坊の足の感じと同じ快い効果を及ぼした。愉快になって私は笑い、それは本当です、と賛成した。私は、ロシアの深さ、彼を憤らすその深さとそれに伴う大きさ、重さを感じ知っている。そして、私は、彼とは正反対にその民族的なロシアの深さを殆ど熱情的に愛する。この深さ、大きさこそ、我等をこのように吸いよせ魅するところの、魅力の第一の胚であると思う。ロープシンは、フランスやスイスで、この一種特別な深さを見つけることができなかったのであろう。ジョン・リードの若いアメリカの眼は、この深さを理解し、民族のあらゆる天才と醜聞の孵卵場をそこに認めたのではなかったろうか。いわゆるロシア気質のエッセンスとして文学とともに外国に流布していた合言葉、一九一七年以前の「ニチェヴォー」或は「同じこった」革命後のすべての赤いもの、動的なもの、それらは何かの角度で、この深さ大さから発展した部分的なものである。
深さ。──だが、この言葉は漠然としている。私の感じでは、深さにも種類があると思う。例えば活動の字幕に、アフリカ大密林の深きところ、と云うタイトルが出たとする。私たちの受ける印象は必ず、地面の上から人間の頭上高く上へ上へ繁茂した木下闇の感じだ。深い。然し上へ向って深い。ロシア民族の持つ深さは、下へ向って底無しの深さだ。例えば、罰金のがれに巡査をうまく撒いたニキーツキー門のりんご売の行動、それを眺める周囲の見物人の顔つき、彼らの吐く空気とともに彼らの心情の底なしさが傍観している私の心に吹きつけて来た。その時居合わせた数人の見物の中に、小さな突発事を道徳的な見地や市の秩序という視点から批評しようとしたものは唯一人も無かった。私はそれを断言できる。ロシア人なら、彼等の心はそういう風には動かないのだ。間抜らしく而も的確に逃げたりんご売の心持、それを追っかけようともせぬ巡査の心持、総てを自分達の心持として理解し、笑う。よし、あし、は抜きなのだ。一人ドイツ人がいると雰囲気は変る。彼はたといそれがどんな小さい角でも事件に推理的ひっかかりをつける。何とか理窟が出る。ドイツ人が上に深いゆえん、ぴんからきりまでのおびただしい哲学者とカール・マルクスを生育させたゆえんだろう。
ロシアの民衆は彼等の人生をまず頭で、或は心臓の一歩手前で受けとめる道具として何ものも持っていない。イギリス的常識も、又は日本のいわゆる義理も。深く、深く、彼等の魂に直接触れるまで、人生は彼の内に沁み込んで行くことを許される。魂がそれに触れた時、彼は何と叫び出すか。どの程度に叫ぶか。それは彼自身知らないであろう。これは非常に興味ある民族の特徴だ。ゴリキーの「どん底」に出て来るすべての人間が面白い理由はここにある。彼等にいわゆる学問は一つもない。然し人生哲学はある。ひろい、様々な人生は絶えず彼等の魂に触れて彼らをして叫ばせる。人生と各々の性格とが仲介物なしに結びついて生きている。故に、ロシアでは、乞食の児のようにして育って来た子供が、いつか文字をおぼえ、彼の深く敏感な魂に従ってよき作家となることが、まれでなく在り得るのだ。例えば、「セメント」の作者の両親は何であったか。ヴォルガの浮浪労働者であった。幼年時代のグラトコフは、いわゆる教育は何一つ与えられなかった。然し、生きるにつれ、彼を取りかこむ人生の波瀾と悲喜が彼の魂を呼びさまし、呼びさまし、終に彼をして書かしめた。ドストイェフスキーを日本に於ける翻訳広告にはいつも人道主義作家と銘うつが、ドストイェフスキー自身はそんな気持なしに書いたのが、ここの周囲の生活を眺めると明かにわかる。ただ彼は、彼の病的な、然し敏感な魂をはだかにして彼の生きたロシアの底なき生活の底へ底へと沈んで行った。ドストイェフスキーの人物は決して観念的なこしらえものではない。彼の作品中から最も異常な一人の存在を見つけて来ても、ロシアにならばそのような人物は実在し得るのだ。ドストイェフスキーが非難されるとしたら、彼自身の病的さによって、あまり彼の人物の描線に戦慄のあることだ。嘘を描いたことではない。
私は一人の外国人だ。昔のロシアを知らぬ。ロシア民族史中最も活動的な、テンポ速き現代に於て、群衆の都会モスクワに住んでいる。それでさえも、或る時自分に迫る恐ろしいロシアの深さを感じる。つまり、ロシアで偏見をすてて自分の魂をそこにある人生に向けて見ると、たとえ福音書が唯物史観にかわるとも、生きて行く心持に於てドストイェフスキーのように、救命帯を抜ぎすてて下へ下へ人生の底なきところへ沈みきるか、トルストイの如く、魂を掴んだ最初の一つの大きな人生からの疑問をどこまでも手放さず追って追って追いつめて人生を自己の足の下からたたき上げて行くか、どっちかにしないでは生き切れぬことを感じるのである。そのように、ロシアの生活はつよい感情、つよい思索、意志するならば強大な意志を要求して旅行者の魂にまでよせて来る。ピリニャークは、日本でどんな不愉快な時を過したか、それをよむとよく分る旅行記を書いた。なかに、「日本は欧州人をはじき出す」という意味の言葉があり、自分は面白いと思った。ロシアは全然これと反対だ。ロシアは一旦そのうちへ入って来たら、自身の力でそれを把握するか、それに呑み込まれるか、兎に角異様に深いひろい複雑な人生が私たちを底知れず吸い込む。
ロシアのこの深さ、底なき心が歴史的実証となって立って居るある光景がある。復活祭の夜チェホフがその欄干によってモスクワの寺院の鐘が一時に鳴り出すのを聴いたという石橋の方から或は猟人リヤードの方から、クレムリンの赤い広場へ出る。
広場の雪は平らに遠く凍っている。クレムリンの城壁の根に茶色のレーニン廟がある。国家的祝祭の時使うスタンドが出来ている。今そこは空っぽだ。レーニン廟の柵の内で雪は特に深い。常磐木の若木の頭が雪の中から見えるところに番兵が付剣で立っている。入るのか入らないのか柵の附近の人だかりの外套は黒い。──クレムリンの城門の大時計は、十五分毎に雪の広場の上に鳴り、赤白縞の一寸しゃれた歩哨舎があった。そこの門から城内を見ると闊然とした空ばかりある。
──ここの景色は変だ。印象的に空ばかり見えるクレムリンのこの城門は、何故一直線に広場の首切台に向って開いていなければいけないのだろう。首切台は、円形で高い。ぐるりを胸壁がとりまいている。一方に出入口があって、石段から、斬られる人間が首をのばした小さい台と、鎖のたぐまりが雪に見える。プガチョフ以来、いくつもの人間の首がこの台の上で、皇帝のまさかりで打ち落された。裁きは「神の如く」この空なる門から首切台まで下されるという象徴か。
クレムリンの城壁からは、赤い広場と首切台に向って黄金の十字架と皇帝の紋章が林立している。それらは叫喚に似ている。見廻すと、赤い広場を遠巻きにして殆ど八方の空に十字架がそびえている。十字架はこの広場で平和を表していない。恐怖を語っている。民衆の恐怖と支配者の魂にあった恐怖を示している。民衆はつめかける、海のように。首切台でまさかりはもう砥がれた。血は雪に浸みるであろう。神よ! 我等の父皇帝よ! 慈愛深き皇后よ! 城壁は厚い。内なる人は見えない。門は閉る。総てに対する慰安と答えとは、黄金の十字架と鷲──坊主と兵士が与えるであろう(?)
我々は革命博物館に於けるより数倍の現実的効果で、一九二八年の赤い広場に前時代の史的実証をみるのである。〔十四字伏字〕。〔六字伏字〕。〔十七字伏字〕。〔六字伏字〕。〔六字伏字〕。〔二字伏字〕。(ツァーはクレムリンの城壁の上から幾本もの金の十字架をそびえさせて、人民の訴えから身をかくしていた。日本の権力者は、その皇居とされている地域のぐるりを封建時代からの濠でめぐらして人民と自分達とをへだてている、という意味が書かれていた。今日伏字を埋めることはできない。著者後記)濠の柳が水に映る。お濠の石垣からは何がのぞいている? 松の枝。いつも緑深き松の枝。──松は天然の植物だ。──松を見て人間は何を感じる。──……
彼は霊感のように一つの事に思い当るであろう。「これは尤だ。ロシアに十月があったのは。そして、この沢山な十字架と鷲との上に今日一片の赤旗が高くひるがえらなければならなかったのは」と。彼は理解ある旅行者として、はね返さずにはおられぬおもしが、ロシアの民衆の上にあったことを知る。
このおもしに就ては、現代ロシアの民衆自身も忘れてはいない。労働新聞の特輯グラフィックに、一九一二年のレンスキー事件の写真がのる。レンスキー金鉱でストライキが起った。指導した労働者が捕縛された。その釈放を求めて集った労働者の群集を無警告で射撃し二百七十人を殺した事件だ。この事実に関して議会で質問が出た時、内務大臣マカロフはこう答えた。
──その通りだ。今後もそうであるだろうであるだろう。これは簡明で残虐な言葉だ。然し、こんな理解し難いような暴虐が、逆説的にロシアの民族に潜在する異常な飛躍性を示しているところに注目すべきである。ロシア民族の持っている深さ、大きさは、彼等の濃い髯とともに、凡そそれが人間の心にあり得るものなら、どんな聖きものも、どんな醜怪なものも、極限まで発育させる気味悪い程のゆとりを持っている。それだけ話してみると本気にし難いような専制にしても、それが存在し得た限りで必ず民族の搭載量以上には出なかったのだ。──何ともいえぬロシア的ゆとりで、専制者の生活が各人の生活を底まで引かき廻してしまわぬうちは、一切のパンと彼等の魂に忍耐ののこる余裕のあったものは、誰が琥珀張の室で誰といちゃついていようが、彼等はこせこせしなかった。「俺のことではない」そして、根強く生きつづけて来たのである。
いよいよ魂が日夜叫びつづけ「我慢出来ない」時が来た時、彼等はどんな工合に背中の重荷を投げ棄てたか? 世界の人間が驚愕して髪の毛を逆立て、やがて一斉にわめき出した程投げ棄てた。ロシア人は、「我慢出来ない!」とうめいて或る状態の中から立ち上った時が最も恐ろしい。彼は飛躍する。彼の最大の可能でどっちかへ飛躍する。神へ向ってか、悪魔へ向ってか。民衆は天真で自分達のうちにあるこの天才と恐怖とを自覚していないように見える。ロシア史のあらゆる偉大な瞬間と恐ろしい瞬間は、心理的には、この山羊皮外套の中で体温高き民衆の飛躍性と深い関係を持っていると思う。
或る民族の持つ風呂によって、彼らの気質の一部を観察できるものとすれば、ロシア風呂は独特だ。日本のように湯桶の中で水を沸かすのでもないし、沸かした湯を寒暖計で計りつつ注ぎ出す科学的方法でもない。室がある。一方の隅に胸位の高さまでの石がある。それは焼石だ。真赤な焼石である。その焼石に、いきなり水をぶっかける。バッ! 水蒸気が立つ。忽ち水蒸気で室が一杯になる。その蒸風呂で、スラヴの汗とあぶらをしぼるのだが、焼石に水をぶっかける時、こつがある。人は、必ず体をかがめ、下から焼石へ向って水をぶっつけなければならぬ。立って焼石に水をかける。一時に水蒸気が裸の体の胸を撃つ。人は死ぬ。──石が吸い込んだ熱、或はペチカの煉瓦の温みがロシアの人のあたたかさだ。
この温みが声帯を通って出て来た時、我々はいわゆるロシア的雄弁のいかなるものかを知る。雄弁法に於ても彼等は人生派だ。その言葉に耳を傾けさせようとするなら、先ず引例を彼等の脚にはいている長靴にとれ。詩的美文は彼等を魅するどんな力も持たない。
彼等の手は遅い。なかなかなぐらない。口は早い民衆だ。彼等は多勢の人が自分に注目するから、つい口を噤むという日本人の心持は全然知らぬ。自分の主張を一人でも多くの人に聴いて貰いたいからこそ話す。熱心になかなかうまく話す。又、民衆は言葉に対する一種の馴れと敏感さとをもっていて非常によい聴きてだ。人混みの中でもいつかしら際だった一つの声の云うことは聴いていて、野次る。或は賛成する。──批評があるのだ。これは、モスクワ市井生活の愉快な特徴の一つで、革命前は人口の約半数読み書きを知らなかった民衆が、いかに言葉で訓練されて来たか、言葉をふるいわける才能を磨かれて来たか、興味がある。若しロシアの民衆が昔からの一種特別なこの才能を持たなかったら、革命前後の状態は一九一七年に在ったようには無かったろう。それが音楽的にふるえるとシャリアピンに成りそうな大声でロシア的雄弁を爆発させるのを観て、呑気だと批評するのを聞く。而し、呑気の内容が全然ここでは違う。日本の呑気は、彼の心の表面に万事を軽く受けることである。或は速かな忘却と、無頓着を意味する。ロシアのイワンにそれは出来ぬ。彼はモスクワから何処かの村へ行かなければならない。停車場へ行った。切符売場への列が二廻りも待合室をうねくっている。予定の時間に立つ列車にもちろん乗りおくれた。次のにも怪しい。夜が更ける。然し、どっちみち明日の朝迄には立てるだろう。そう思って、最初の目的はすてずに彼の麻袋に腰かけて待っているのが、ロシアの、イワンの呑気だ。日本の呑気は、──やあ! こいつはおどろいた。えらい人だよ、止めちゃえ、やめちゃえ。馬鹿馬鹿しいや。それよかどっかへ行って──麻雀をするか、一杯ひっかけるか、それは彼の好み次第である。
技師ルイバコフが建築した協同家屋は、クロポトキンスキー広場の角に立っている。粗末な木の塀の上にエナメルの円い番地札と四角い札がうちつけてある。四角いのには郵便住所モスクワ三十四、木の塀について居る切戸の柱に掲示があった。──門内ニ便所ナシ──然し、何にもならず夕暮や夜、狭い切戸の隙間から通行人がすべり込んだ。技師ルイバコフは人減らしで三月前国立出版所をやめさせられた妻と子と自分の妹、女中、一組の下宿人とで、その協同家屋の室9に生活している。大きい室が二つ小さいのが二つ。台所、風呂場。四十年後に、室は市民ルイバコフの所有となるであろう。二ヵ月前までの下宿人はペルシア人の男とオデッサ生れの女で、男の本妻はペルシアにあった。彼等が出立して行った後、主婦は、熱情と南京虫を十八平方メートルの室から追っ払って、モスクワ夕刊新聞の広告欄を見た。
ホテル・パッサージの日本女が広告を出した。ルイバコフの室のバルコンと、女中のナーデンカの顔つきとが日本女を牽きつけた。ルイバコフは、カラーをとった縞のシャツで、タイプライターの契約書を二通作った。
市民ルイバコフのバルコンは、四辻の広場と乗合自動車の発着所を見下した。広場の中央に電燈入りの時計がある。深更、街燈が消えて暗いときにも時計だけは円く明るい。自分の窓から日本女はオペラグラスで午前二時半の字面を読むこともある。
四月になった。窓から見えるクレムリンの赤旗はいきいきひるがえり始めた。空はあおい。白く小さい雲が空に浮き、日本女の狭い部屋の衣裳棚の鏡に、金色の反射がちらついた。往来を隔ててあちら側の丘の上にある基督救世主寺院の金の円屋根から春の光が照りかえした。
モスクワ市の上を飛行機でとぶ、低く、低く。そして市中を見下ろす。人は、昼間はともらぬ「イズヴェスチア」のイルミネーションは一つで、あとは無数の寺院でちりばめられた古風な、宗教的モザイックとしてのモスクワ市を観るであろう。
彼の操縦者が用心深くよけてとんでいる低空障害物は、事務所建築のコンクリートの平屋根でも煙突でもない。寺院の高い尖塔ときらめく十字架だ。
双眼鏡のレンズをとおして、もっとも平和的な彼の常識へも映って来る一つの結論がある。──成程、こりゃえらいもんだ!──そして、イリイッチが宗教は阿片だと叫んだ必然の原因が、特にこのモスクワを持つ民衆の心にあるのを認めるであろう。モスクワの街裏にある小さい、古い御堂の或るものは実に理性なき美で通りすがりの旅行者をも魅する。これは北、これは南だが、髪へ桃色の花房を押したタヒチ土人の娘の、裸の黒い原始な皮膚の美が、モスクワの御堂のごちゃごちゃした、灯かげのチラチラする蝋くさい洞の中にある。
復活祭の夜、総ての劇場とキネマが閉され、大劇場のオペラ役者は基督救世主寺院で聖歌を歌う。労働新聞は一週間前にこの事について時評を書いた。──「労働者は何処へ行くんだ? 教会か? 芝居か?」──この問題は我々の興味をもひいた。何故なら、労働者は日頃反宗教教育を受けている。古い民族的祝祭が一九二八年にどのような新形式と内容をもって現れるか、СССР生活に目立つ一つのくさびでなければならない。
アルバアト広場に電車が停る。乞食が車内へ入って来た。彼は腰から下がない。胴の末端は四角い板で、板の下に四つの水車輪がある。両手にローラースケートをはいて、
──助けてくれ、不幸な者を。助けてくれ──
彼は若い。永久の憤りが彼の眼の中にある。
雑誌売子が来た
──鰐! 一等面白い雑誌、クロコジール! 五カペイキ! クロコジール!
СССРの皮肉の諧謔の好標本である『鰐』は、復活祭号である。表紙にこんな絵がある。緑色シャツの労働者が白布を頭にかぶって水の入ったバケツをさげて歩いて来た。女に訊いている。
──お前、今日クラブの反宗教演説へ行くかね?
──沢山だよもう、あんな宗教! お寺へ行く方がよっぽどましだわ──今日あすこフェイエルベルクが出るのよ。
復活祭の前日、ほとんどすべての食料品販売所でパンの棚と酒棚が空ッぽになった。そんなことを予想しなかった日本女のところにはパンが無い。
労働新聞の論説にかかわらず、十四日の晩はキリスト救世主寺院の四方の壁に数百本の蝋燭がともり、オペラ役者が聖歌を歌った。大群衆が石段につめかけ、手車のくるみ売りは午前二時の凍った坂道でいい商売をした。
ルイコフの名によるクラブ、その他モスクワじゅうのクラブではその夜、楽隊が鳴った。コムソモーレツとコムソモルカが、チャールストンを踊った。ルイコフの名によるクラブの広間の壇上装飾は、聖書、十字架、僧冠などの赤い色電気により焚刑の光景だ。周囲の壁は、反宗教的諧謔の壁新聞ではりつめられ、今夜、午前五時までダンスという掲示が出されている。電車は満員で、煙草屋さえ店をしまった暗い街頭をはしった。
基督救世主寺院の大理石のいしだたみの上では群集のうちに小ぜり合いがあった。布をかぶった若い女が、遠くの祭壇の儀式の様を眺めようとして聖旗につかまり、その台にのっかって伸び上った。てのひらにともした蝋燭の光で下から顔を照らされた老婆が、片手でその女の外套のひじを引っぱった。
──何。
──下りなさいよ、そんなところに乗っかって。
──何故。
婆さんは自分の連れに横目をつかい、痩せた肩を揺りあげた。
──壊れるといけないからさ。──第一足場にする場所じゃないじゃないか。勿体ない。
──聖壇へのっているんじゃありませんよ。
──同じことだ。
矢張り蝋燭の灯をかばいつつ立っている男が、聖旗台の女に向い手を振った。
──止めろ。
布をかぶった女は動かず、周囲の人群を見下して恐ろしい顔をした。そして低い早口の悪態を投げつけた。同じ聖旗につかまっていたもう一人の女が静にそこから下りそうにした。白布の女はその腕を捕え、下ろさない。──彼女の上半身が、恐らくはクラブの新教育とともに心臓のある肋骨のすれすれ下のところぐらいまで教会スラブ語から脱皮しているのは確かだ。彼女は古風にてのひらへ蝋燭をつけて立って居る婆さんや男のように、聖旗から立ちのぼる宗教的霧などは認めない。金繍でパカパカした旗は要するに旗で、彼女が足台に必要とする一尺五寸の高さを丁度その支台が持っている時、どうしてそこへ登って悪いということがあろう。まして支台は一人や二人の女を載せて充分頑丈である場合。
彼女の論理の終点から出直して、然し、私は日本のギリシャ教なき心に感じる。СССР婦人市民らしく闘志つよき彼女は何故そのように熱烈に一尺五寸の足台が欲しいのだろうか。何故小半町も遠い彼方の祭壇で往ったり来たりする大蝋燭のかがやきと僧冠の天辺だけを群集の頭越しに眺めて満足することは出来ないのか。彼女が革命までに食べた復活祭の色つけ卵の数だけ、彼女のうちで鐘の音とともによみがえる何ものかがあるのだ。非常に微妙な何ものか、説明し難い何ものか、それが彼女を狩り立てる。聖旗台によじ登らせる、僧正が十字架を捧げて屈んだり伸びたりするその光景を見ないでは、СССРの新文化の大気中に1/3だけ脱皮した彼女の魂がたんのうし得ないのである。
総ての権力をソヴェトへ。──赤いプラカートが十月の風にはためいて街の上にあった。それ以来、СССРの標語は様々に推移して、現在では、元の蝙蝠座、今の第一諷刺劇場の幕切れにまで赤い布が出る。白い文字がその上にある。文字は左から大きく工業化へ! メー・デーにモスクワ全市電車が休んだ。自動車と辻馬車も殆ど影を見せぬ市街に、旗、音楽、八十万の行列の赤い波、合唱がモスクワ河をはさんで溢れた。地には埃、空には飛行機、陽気な人なだれを縫って、トラックが一台通った。女が二人のって、ビラを撒いた。ビラはクレムリン城壁の下の芽ぐんだ菩提樹の根にも散った。散り乱れて、インクは春の光に工業化! インダストリザーチア! タワーリシチ! 工業化‼ ウラー。
芝居の演出法として、幕切れに出るプラカートは、既に新鮮さを失いかけている。観客席からいきなり役者が飛び出す方法とともに。ロシア人の好きな黒パンがでかいように、ここでは何でもふんだんだ。プラカートと観客席から飛び出す役者まで、或る場合ノンセンスな程、モスクワの舞台にはうんとある。けれども、標語は反対に、安全デーという標語以外のものを知らぬ東京で想像する以上に社会精神の重大な尖端をなしている。標語はその時の政策の要点を示すばかりではない。例えば、アメリカからの雑誌記者がベルリンに向ってシベリア鉄道に乗った。万国寝台車の中で彼は暇である。銀貨入れを出して小がね勘定をする。ハルビンで米貨を留に替えた時、彼はどの位損をしたか、得をしたか?──見ると、ロシアの金は五十カペイキの銀貨から一コペックに到るまで、鎌と槌標とを取まいて文字がかいてある。СССР──これは分り易い。英語になおせばUSSRだ。後の文句はプロレタリイという語で始る。彼がもしポケット露語字典一つ持っていれば、彼の財布に鳴るすべての露貨が「全世界のプロレタリイ、団結せよ!」というマルクスの言葉をもって鋳型から出ていることを理解するであろう。シベリア鉄道の食堂の数百の皿も、鎌と槌とこの標語をもっている。モスクワで汽車を待つ数時間ホテルに坐るなら、ホテルのあらゆるインク・スタンドは、ペン台の上に「プロレタリイ・フセフ・ストラン・ソエジニャアイチェシ!」を浮上らしているのを見る。──全露に国営のホテルはいくらあるか。各々のホテルには幾室あるか。つまりこのようなインク・スタンドだけでも何十万箇無ければならないかと考えた時、そして、СССРは僅か十年を革命後経たばかりであるのを考えた時、彼の心に来る印象は軽くない。政権とは、その最小末端に於てさえ、なお新鋳の、その上には好みの標語を書くことのできる数十万のインク・スタンドを意味するということを、彼は明かに我目に観る。──印象は、ベルリンへ着いて自身の恐るべき独逸語で頭をひっかき廻された後も、彼の精神の上に遺るであろう。
「生産の合理化」「工業化」は目下のСССРにとって、深大な意味をもつ標語である。ロシアは農業の国だ。一人の労働者に対して八人の農民がいる。
遠大な目的で、白海から黒海を繋ぐ水路としてドニエプル河に発電所と堰堤工事を起した。堰堤は総延長七六六・七五メートルになるであろう。竣工すれば全СССРの産業能率はいちじるしい増進を見、一年少くとも五百万頓の石炭を節約することが出来るであろう。これらすべての有益な出来るであろうを実現する為に必要な幾つかの発電機の支払いは、СССРに於ては間接に輸出された小麦の幾袋かを意味する。小麦を蒔いて、刈って、袋につめるのは農民の仕事だ。鷹揚そうだがプーシュキンさえ見逃さなかったバルダの知慧で俺のことは抜からぬ農民魂で、彼等はどのように経済関係を理解して居るか。
復活祭前までモスクワ市はバタの欠乏に困難した。ホテルのバタ切が次第に薄くなり、牛乳製品販売所の前から厳寒の中を一町以上も籠を下げた女子供の列が続いた。
──どうしてこんなにバタが足りないの?
──田舎の牝牛が眠っているから。
眠っているのは牝牛ではない。牝牛を飼っている農民の手であった。彼等は一キログラム二ルーブリ四十カペイキ位の公定相場で自家製バタを手放すことを欲しなかった。ただし、その払底の間にも、個人が営む売店の棚の下には、大切に紙に包まれたバタがあった。二百グラムで六十カペイキ、又は七十カペイキで売るバタならあったのだ。
工業化は、ドニエプル河岸に幾箇かのモーターを据えつけようとする。人間の爪は時々きる必要があるものだという日常衛生の知識から始って最高度のイデオロギーまで「文化の革命」へ全СССРは急がなければならない。レーニンも時には南京虫に喰われたであろうというところに、ロシア文化の独特な性質がある。モスクワを中心として、八方へ新文化を放射しようとする。芝居の形で、キノのスクリーンによって、クラブ教育によって、観察の要点を知った者が国立出版所で四十五分費せば、現代СССРがいかに熱心に組織立てて三カペイキ─十五カペイキで「ラジオ組立法」から「何故СССРには二つの党が存在し得ないか」という問題に関する迄の知識を普及させようかと努力して居るかが理解されるであろう。アンリ・バルビュスの新作はフランス語を知らぬ工場のタワーリシチも二十五カペイキの『小説新聞』の上でただちに読める。
今まで文字を持たなかったカフカーズの山奥で、新アルファベットをつくる計画が起った。同時に、シベリアから一つの投書がモスクワへ届いた。「私の村にはまだ一つも学校が無い。昔の通り耳学問やわずかな独習で我慢しなければならない。一日も早くこの状態から救われたいものだと思う。」ロシアの地面はそんなに尨大である。辺土まで文化を届かせる為にも、中央の圧力を高く、高く。
モスクワ市をかこむ環状並木道は今美しい五月の新緑である。ストラスナーヤ広場からニキーツキー門まで柔い菩提樹の若葉がくれに、赤、黄、紺、プラカートの波が微風にふくらんだ。並木道の左右に売店が並び、各々が意匠した店名を、「アガニョーク」「ゴスイズダート」青葉の下にかかげている。これはモスクワの書籍市だ。菩提樹の新緑、空のプラカート。構成派風な売店の塗料の色彩、すべて新鮮だ。アーチをくぐって無数の市民をひきよせる。樹蔭のベンチにいると、モスクワ読書人をなしている男女のあらゆる分野、年齢の見本を──教授、作家、労働者、学生、今は絵本をかかえて勇み歩く将来のピオニェールまでを包括する党員などの、鳥瞰図を、実に種々雑多な彼等の服装とともに眺め得る音楽がある。アイスクリーム屋が赤、青、白、縞の小屋で陽気に商売している。短篇小説或は色彩多い諧謔曲のモーティフが日光とともにきらつくような活溌な光景のうちに、我々はヴェレサーエフの「アポロとディオニソス」を六十三カペイキで、「解放されたドン・キホーテ」をたった二十カペイキで買うことが出来る。──丸善の二階と、潰れたボリソフ書店の目録から、どうしてこのような書籍のこころよい氾濫を想像できよう!
文化の革命へ参与する印刷物のСССР的精力の代表はデミヤン・ベードヌイの詩だ。プラウダ新聞社の輪転機は、日曜日とメー・デーとを除いて毎日廻転して居る。ベードヌイの詩作はほとんど常に輪転機と共に! ベードヌイは部屋着姿で新聞をひろげる。恐らくその新聞の二面の左肩には彼の昨日の詩がのっているだろう。五月一日、ワルシャワで殺された労働者の写真が出ている。彼はそれを視る。感じる。数行の横書文字が書かれる。翌日その詩は新聞に出るであろう。
文化の革命に参与する他の端には労働通信員、村落通信員がある。「通信は正確な場所、時、多数者の生活と関係ある事実を必要とする。空想、空虚な革命的字句、外国語をさけよ。常に事実を書け」労働者は、身元証明帖、クラブ会員証の間から、さらに一つの体温で暖い手帖をとり出し、さて尖の太い鉛筆を何度も何度も紙の上で振りながら、安全装置をほどこされぬ上靴製工場のガス中毒について書くだろう。一〇〇〇語を、いかに有効に使うべきか。三番目の書きなおしを、半地下室の彼の住居にたった一つあるテーブルの上でやっている時、ある合宿所では、コムソモーレツのミラノフが、同僚と議論をたたかわしている。彼は酒を飲まない。煙草も吸わない。ただ南方チフリス生れの青年ミラノフは花なしではやっていけない。鉢植の花を買って彼は窓に置く。室が一鉢の花で居心地よくなったのに、仲間は彼を嘲弄し、そして花をすてた。
──お前はブルジョアだよ。お嬢さまだよ。商人根性!
しかし、商人根性とは何か。清純を好むのは商人根性か? エム・オルガノヴィッチはこのСССР風な偏見打破のために労働新聞へ投書する必要を認めた。
蹴球が好きで、ラジオ組立ての上手なコーリヤは、市立銀行の三階にある家で、新聞を読んでいた。テーブルの中央に彼が直したスタンドがともっている。母が向い側でドイツ語の論文翻訳をしている。母はよく働いた。コーリヤは母を尊敬している。コーリヤの見ているイズヴェスチヤの第一面には大見出しで、「パジシャフ・アマヌル・ハンのモスクワ到着」という記事が写真つきで出ていた。「停車場に於けるアマヌル・ハンとタワーリシチ、カリーニン、ヴォロシロフ、カラハン」「自動車上のカリーニンとアフガニスタンのパジシャフ。」軍服の、黒い短い髭をはやした円顔の王の隣席で、中折帽をかぶった白い髯のカリーニンが下を向いて何か見ている。「停車場を出んとする王、カリーニン、ヴォロシロフ、並アフガニスタン大使」最後に、「停車場前の閲兵」。──コーリヤは、パジシャフの敬礼の仕振りや、光った長靴やらを少年らしくじろじろ眺めていたが、いきなり、
──ママ!
母を呼びかけた。
──なに。
──ママ、何故こんなにパジシャフを歓迎するのさ。自分の皇帝は悪いって殺しといて、何故よその皇帝は歓迎するのさ。
──…………………。
母は答えない。
──ママ!
髪のほつれた頭を仕事にうつむけたまま母は短く答えた。
──外交に必要だからだよ。
日本女の部屋のテレスの欄干に雨のしずくがたまった。昨日雨が降った。今日も雨が降る。五月の雨である。
日本女は、そこに六ヵ月生きたモスクワから、新生活が始まったばかりのロシアを強く感じている。СССРは、二十世紀の地球に於て他のどこにも無いよいものを持とうとしている。同時に他のどこにも無い巨大な未完成と困難を持っている。
モスクワ河から風が吹いて電線がゆれた。電線の雨のしずくが光って落ち、基督救世主寺院の散歩道で、空っぽのベンチが四つ、裸の樹の枝のかなたで濡れている。こうもりをさした人が通った。市民ルイバコフの台所ではさぼてんが素焼の鉢の中で芽をふき、赤い前かけの女中ナーデンカはパン粉をこねている。下宿人、ミハイル・ゲオルクヴィッチ、いつもきっちりしたなりをして革の時計紐をそった胸につけているが、タシケントにある家屋の買いてを見つけることは不可能になった。彼の子を一人持った女が千三百ルーブリの扶助料不払いに対してミハイル・ゲオルクヴィッチを訴え、法廷はタシケントの家を差押えた。室にあるトルコ刺繍も四百ルーブリではなかなか売れない。
二人の日本女は海のあるレーニングラードへ出発するだろう。
附記 新しいロシアに就ては未だ沢山書きたいことがあるし、又書かなければならない事がある。モスクワ生活の印象としてもこれは一部分だ。芝居のことその他は続編として別に書きたいと思っている。(五月三十日前後から、モスクワに白パンが無くなった。天候は不順で寒い。)
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
1952(昭和27)年12月発行
初出:「改造」
1928(昭和3)年8月号
※「──」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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