文学の本質について(一)
平林初之輔



         一 形而上学的文学論の破産


「文学は種々の要素から成り立つ。そしてこれ等の要素は分析することができる。けれども、これ等の要素をどれ程分析していつても、そのあとに残るものがある。それが文学の本質である。文学を文学たらしめてゐるものである。」

 以上のやうな考へ方を私は形而上学的な考へ方であると断定する。

 多くの人々は、かうした考へ方を容認するか、或はかうした問題を全く考へて見ないことによりて、批評的精神の皆無を自ら暴露してゐる。これ等の人々は、文章を次のやうな公式で把握する。

「文学にはさま〴〵な外的性質がある。これ等の外的性質は時代或は環境によつて様々に変化する。しかし、その核心に、不変のもの、千古不滅の一貫した何物かゞある。この何物かゞ文学の本質である。」

 然らば、この何物かは一体何であるか。この問ひに対して彼等は全く答へる術を知らない。それを永久の「何物か」として安んじてゐるのである。

 今から一世紀前の動物学者は、こんな風に考へたでもあらう。

「人間には種々な外的性質がある。そして言語、風俗、皮膚の色や、毛髪の色、体格の大小、知識の程度等の外的性質は人によりそれ〴〵異つてゐる。けれども、そこに、人間を他の動物から判然と区別せしめる、即ち、人間を人間たらしめてゐる何物かゞある。」

 ところが近代の動物学者は、人間は猿と共通の先祖から生じたものであるといふ仮説をたてた。そして、この仮説は、解剖学的に、胎生学的に、生理学的に、更に進んでは心理学的にすらも支持されてゐるのである。人間といふ不変の本質があつて、様々な経験的要素がこの本質をとりまいて、千差万別の人間をこしらへてゐるのであるといふ考へ方は、実に生物進化論によりて、見事にその空疎を暴露したのである。人間の本質とは一定群の動物に与へられた定義に過ぎないことを暴露したのである。

 文学に就いても、それと同じことを言ひ得る。新しい文学理論は、本質といふ先験的な設定物を取り払つて、逆に、本質なるものは、多くの経験的要素の複合であるといふ見地から出発すべきである。かゝる見地に立つときは、文学を構成する様々な要素は、偶然に、文学の本質に附属してゐる随伴物ではなくて、却つてそれ等の要素の緊密な結合によりて、本質が構成されてゐるといふことになるのである。

 近時文学のもつ社会的性質が、一部の人々によりて強調された。このことは、我国の文学批評界に、かつてない活気を帯びさせ、限りなき論争を惹き起させつゝある。これに対して、自然主義前派の形而上学的理論家は、まるで文学に社会的性質があるといふことがわかると、文学の難破でゞもあるかのやうに力んで、文学には社会的性質なしと放言するに至つた。

 ついで、この理論のもつ矛盾、明々白々な破綻に気附くと、こん度は、彼等はなる程文学には社会的性質はある。しかし、それは表面的な、一時的なものであつて、文学の本質には毫も関係のないものであり、文学の本質は、その社会的性質を超越して一貫して不変であるといふ修正論を唱へはじめた。ところが、文学の理論を俗学主義の中へ、形而上学の霞の中へ、無理論の泥海の中へ曳きずりこまうとするのは、まさに此の修正論である。

 何故なら、こゝで文学の本質といふものは全く説明されてもゐず、且つ彼等はこれを説明しようとする努力を少しも示してゐないからである。それは神秘的な、分析することも説明することもできない、一種不可思議な霊域としてアプリオリに設定されてゐるのである。そして、一番いけないのは、この態度を当然であると是認し、公言さへもしてゐることである。

 昔の化学者は、火といふものゝ本質を設定し、これをフロジストンと命名した。火を生ぜしめるものはフロジストンの作用であると信ずることによりて満足してゐた。ところが酸素の発見によりて、火は、可燃物質に一定の熱と酸素とを加へることによりて生ずるといふことが明らかにされた。フロジストンといふ神秘的存在が、酸素といふ、具体的な、大気の中にも水の中にも含まれてゐる元素として正体を暴露して来た。これと同じことは、生命の問題に関する旧生物学者の態度の中にも見られる。彼等は、生命物質の中には生気といふものが含まれてゐて、これあるがために生命物質は無生物質から区別されてゐるのであると信じて安んじてゐた。ところが近代の実験生物学者は、生命の神秘を細胞の原形質の中にさぐり、その化学的構成、電気的性質、膠質状態の研究等、いろ〳〵な方面から、この神秘に肉薄し、既に生命物質を合成せんとする真面目な企図にまで発展してゐるのである。そして、種々の有機物質の合成が成功したこと、生命物質を人工的要約のもとに発育せしめることが成功したこと等は、研究者たちを勇気づけ、その研究の前途に少からぬ光明を投げつゝあるのである。私たちは、未だ生命の神秘を分析しつくしてはゐない。けれども他日──早かれおそかれ──それが分析されるだらうことを十分に期待し得るのである。

 かくの如き自然科学の方面に於ける、研究者の孜々たる努力と、赫々たる成果とから眼を転じて文学理論の混沌たる現状を見ると、そこには、得体の知れない神秘主義が大手をふつて歩いてゐる。そして、殆んど誰もが、それをとがめようとしない。たゞ私たちは、過去に於て、自然主義の文学理論の中に、はじめて、文学の神秘を解剖せんとする努力を見た。しかし、性急な理論家たちは──文学者は科学者のやうな忍耐力を欠いてゐる──問題が一挙に解決されなかつたために、問題は解決すべからざるものであると断念した。ゾラやテエヌの説が不完全であつたものだから、彼等の事業そのものがすつかり徒労であつたと早合点してしまつた。そして、彼等の事業をひきついで、これを修正し、大成してゆかうとつとめるかはりに、再び神秘の中へ廻れ右をした。元来或る理論の体系を一個人の一生で完成することは、不可能と言つてもよい程困難なことである。ことに神秘の雲の深くとざさしてゐる処女地を開拓する場合に於ては、この困難は一層甚だしい。ほんの、大まかな理論の輪廓を印しづけることだけでも、人間の一代を要することは大いにあり得ることである。自然主義文学の理論家の業績を、私たちは、少しでも軽視してはならない。彼等は少なくも、混沌たる文学理論を体系化しようとし、かつ、或る程度までそれを成しとげたのだから。

 私たちは、真実の基礎の上にたてる研究は、その前途がどれ程荊棘に満ちてゐようとも、これを追及してゆかねばならぬ。思ひ思ひの独断の城廓にたてこもることは容易でもあり、かつ、文学理論の今日のやうな状態に於ては、それが功名心を満足させることにもなるかも知れない。だがしかし、それは、或る学問の系統的進歩に何等稗益するものではない。却つて、さういふ試みは、或る学問を混沌と無理論に導くものである。

 私が以上に述べたやうな見地にたつたとき、はじめて、形而上学的文学理論は屏息するであらう。そして、文学理論は真実の科学的基礎に立つことができるであらう。


         二 文学理論に於ける諸流派


 私は、前節に於て、自然主義の文学理論に、真の科学的基礎にたつ文学論の萌芽が見られるといふ意味のことを述べた。これに対して、私は、次のやうな抗議を多くの人から受けるだらうことを期待してゐる。

『君は自然主義の理論に共鳴してゐるからさういふのであるが、自分は、君が自然主義に共鳴してゐるのと同じ権利によつてロマンチシズム──或はフユチユリズム其の他如何なる流派でもよい──の理論に共鳴してゐる。だから自分はロマンチシズムの理論こそ真の文学理論だと思ふ。如何なる理論を真実とするかは、結局、如何なる理論を信ずるかによつて決するのだ。どんな理論もそれ〴〵同様の存在権を有する。その何れを信ずるかは個人々々の趣味性格によつて決するのだ』

 以上のやうな主張に共鳴する人々は、文学の世界には極めて多数にのぼるであらうと私は信ずる。この主張は文学の理論は結局独断論であると信じてゐる人々には、非常に尤もらしく映ずるであらう。しかし、この主張こそ、まさに私たちが排撃しなければならぬものである。それは明々白々な理論の否認である。混沌の讃美である。

 それは、二つ以上の真理が両立するといふ論理的矛盾を呈示する。かういへば、反対者は、有名なポアンカレのパラドツクスを思ひ浮べるかも知れない。彼は、地球が太陽の周囲をまはつてゐるとするのも太陽が地球の周囲をまはつてゐるとするのも、いづれが真理であるとは言へない。いずれの説明が便利であるかと言ひ得るのみであると主張してゐるのである。これは一見驚くべき説のやうに思はれる。しかしながらこれは結局同じ真理を如何に言ひあらはすかといふ表現の問題に帰することを私たちは容易に発見する。私が東京から大阪へ行つたといふのも、大阪が私の脚下まで動いて来たといふのも、地球外の観測者にとつては物理的には同じことである。ただ私を規準にするよりも、地球を規準にする方が便利なだけである。ポアンカレが太陽と地球との運動について言つてゐることもそれと同様である。私たちは、地球、或はその他如何なる惑星──木星でも海王星でも──を規準としてゞも太陽系の運動を算定することはできる。そしてかくして得られた結果は完全に真理である。けれども、太陽を規準にするのが最も簡単であり便利であるのである。即はち、ポアンカレの主張は、決して真理の任意性をゆるすものではなくて、真理の唯一なることは十分にみとめてその表現の規準を便利といふことにおいたのである。

 ところが、種々のイズムの文学理論を、同じ権利をもつてゆるすことは、真理に種々あることをゆるすことになる。それは論理の根本原則と明白に矛盾する。それ故に、私は、種々の立場からの文学理論が、いずれも同様に正しいといふ説にくみすることはできない。

 こゝで私たちは、見かけ上最もまことしやかな弁駁にぶつゝかる。即はち存在するものは凡て合理的であるといふ説、それから、凡ての理論はそれ〴〵真理の一部を蔵してゐるのであつて、絶対真理といふものはないといふ説とがこれである。

 これ等の説の正否は、かゝつて、その解釈のしかたによる。存在するものは、凡べて理由をもつてゐるといふ意味に解するならば第一の説はたゞしい。たとへば、ロマンチシズムの文学が生れたのには、それが生れる理由があつたのであつて、気紛れに生れて気紛れに滅びたのではないと解するならばこの説は正しいと言へる。これは凡ての現象の決定性を主張することにほかならない。現象の因果関係の認識に他ならぬ。しかしながら、存在するものは、すべていつまでも正当な存在権をもつといふ風に解するならば、この説は明かに暴論である。現象は流動する。或る一定時刻に正当であつた存在も、次の時期に於ては正当でなくなることは可能であるばかりでなく、むしろ必然である。かくて、卵のときに正当であつた卵殻が、雛の時には無用の長物となり、それを破棄することが正当となる。それと同時に、或る目的を規準にして考へるならば、発生のそも〳〵のはじめから正当でない存在もある。人間の生命を規準にして考へるならばコレラ菌の存在は、はじめから正当でない。しかもコレラ菌が一定の条件のもとに発生することは完全に必然である。因果の原理は破られない。そこで、私たちは、文学理論を科学的基礎におくといふ目的のためには、一切の非科学的理論を排除しなければならぬ。この場合には、ロマンチシズムと自然主義とが、文学理論の領域に於て同等の市民権を要求しても無益である。私たちが目的を意識する瞬間にそこに価値の別が生ずる。そしてこの価値の軽重は、いづれがより科学的であるかといふ一点によりてきまる。

 次に、凡ての理論がそれ〴〵真理の一部を蔵してゐるのであつて、絶対真理といふものはないといふ説に移らう。「凡ての」といふのは純然たる修辞である。雷を空中電気の現象であるとする説と、ジユピターの怒りに帰する説とは絶対に両立しない。いづれか一つが真理であるか、いづれも虚偽であるかの二つの場合は可能であるが、二つとも真理であるといふこと、二つとも真理の一部を言ひ表はしてゐるといふことは不可能である。

 けれども、「凡ての」といふ形容詞をとり去つてしまへばこの命題は成りたつ。たとえば、生物進化の説明としてのダーウイニズムとラマルキズムとはいづれも真理の一部を蔵してゐると言ひ得る。だが、問題はそれから先に横はる。若し、この両者が、それ〴〵真理の一部を蔵してゐるといふことが真理であるならば、私たちのとるべき態度は二通りしかあり得ない。即ち、いづれかの一方に他方の真理を包摂するか、然らざれば、両者をともに脱却して、両者を綜合する一層高い見地にまでのぼるか、そのいずれかである。双方ともに、そつくりそのまゝ認めるといふ態度は無理論主義者の態度であり、理論の否認である。私たちは二つの理論を闘争せしめて、いづれかをして他を克服せしめるか、或は、両者を綜合するより高い段階に進まねばならぬ。

 以上の説明によりて、私は、事実としては、文学上の種々の流派の存在理由を認めるに拘らず、理論としては、凡ての流派の理論を同一の存在権利をもつものとして許すことができないことを信じてゐることがわかつたであらう。文学理論は、他の諸科学の理論と同様に、唯一の体系に組織されねばならぬ。また、どれ程遠い将来に於てゞも、それは組織されるであらう。但し私は、それを信ずるだけであつて、私自身が、いますぐにこの大事業に着手しようとは全然思つてゐない。また、今後、文学上の種々の流派が生滅するであらうことは確実といつてもよい。がしかし、その場合私たちは、事実の前に屈服して、みんな正しいのだといふやうな折衷主義に堕してはならないであらう。


         三 文学は何のために生れ何のために存するか


 私は、文学の本質といふアプリオリをすてた。それと同じ理由によりて、今度は、文学は何のために生れ、何のために存するかといふ問ひに対しても、先験的な解答を断乎として排除しなければならぬ。

 この解答として私たちは、少くも次の三つを期待することができる。

 A、文学とは、私たちが、その思想感情を表現するにあたつてとる一つの形式であつて、発表或は表現そのものが既に文学の目的であり、それ以外に目的はない。

 B、文学の目的は、読者をよろこばすことにある。作者の発表欲、表現欲を満足させることではなくて、読者に、高雅な情操を起させることである。

 C、文学の目的は、啓蒙的なものである。文学作品は読者を教へるものをもつてゐなければならぬ。それによつて人生を、社会をよりよくするものでなければならぬ。

 以上の三つの目的に随つて、文学の理論はそれ〴〵異つた体系をもち得る。しかるに、前節に於て、私が述べた理由によりて、これ等の異つた体系の並立は許されない。こゝに於て、問題は、一転して解きがたい紛糾の中に入るやうに見える、だが、それはほんとうにさうなのであらうか?

 私は以上のうちのどれか一つを、これこそ真の文学の目的であるとする説にはくみしがたい。理論といふものは成るべく単純な程よい。しかし、真理はあまり単純でない場合がある。単純でない真理を、単純な理論で把握しようとする時、真理は理論から逸脱して、理論は空論となる。

 私は、文学の目的及び機能は、社会が進化し、従つて文学そのものが進化するにつれてかはつてゆくと思ふ。唯一絶対の目的を文学に課するわけにはゆかぬと思ふ。しかも、それは私が思うだけでなく事実である。このことは文学に限らない。建築を例にとらう。人間が最初家屋をこしらへた目的は、雨露をしのぐといふことであつたに相違ない。しかし、建築術の不断の進歩は、単にそれだけの目的では満足できなくした。今日の建築は、審美的な見地からも設計されつゝある。衣服にしてもさうであつて、当初は寒さをしのぐためのものであつたに相違ないのが、後には、装飾としての目的をより多くもつやうになつて来てゐる。(尤も熱帯人の衣服ははじめから装飾を目的としてゐたといふ説もあるが。)

 かくて、文学も、その発生の当初に於ては、単に感情の表現の一形式であつたに相違ない。表現といふことそのことが既に文学の目的であつたに相違ない。今日の文学にも、その痕跡はゝつきり残つてゐる。中世時代の抒情詩人の文学、近世の唯美派の文学等には、わけてもその特色が目立つのみならず、いつの時代にでも若い人々が、他人に発表しようといふ希望も意思もなしに、たゞ自己の心中から湧きでるまゝの思想感情を紙に書きつけて楽しんでゐる場合、表現そのものが文学の目的となつてゐると言ひ得る。

 けれども、社会が一定度の複雑な組織になつて来ると、読者を楽しませるといふ目的が、これに明白に加はつて来る。単に自分が楽しむだけではなくて、読むものを楽しませるといふ役割を文学がもつて来るに至るのは、けだし、最も自然な発展の径路でもあらう。近世の君主国に見る宮廷文学、封建時代の御用文学、それから、今日の商業文学(文学作品が完全に商品化した時代の文学をさす)等には、この目的が特に鮮明である。この場合には、貴族、君主、又は今日の場合では一般購買者を喜ばすことができなければ文学は存続することは許されないからである。

 第三の啓蒙文学、更にその発展した宣伝文学、革命文学に於て、私たちは、もう一度目的の進化をそこに見る。単に読者をたのしませるだけでなくて、読者の心に何物かを与へ、それによつて読者を啓蒙し、人類社会の改善に貢献するところあらしめようと意欲するに至るのも、これ亦、至極当然の径路である。十八世紀の啓蒙文学、今日の社会主義文学、それから、多くの宗教文学などにこの特色は目立つてゐる。

 以上の諸目的(その他にもあげ得るであらう)のうちで、いづれが、真正の、本来の文学の目的であるかといふ疑問は、私によれば成り立たない。今日に於ては、恐らくすべての文学が、以上の目的をそれ〴〵分有してゐるでもあらう。従つて、傾向的な文学は、文学の本質に矛盾するとか、啓蒙文学は第二義の文学だとか、社会主義文学は文学の邪道であるとかいふ非難は成立しない。それと同時に、社会主義文学でなければ真の文学でないといふやうな非難も成立しない。

 この私の説は、前に私が述べた文学理論に二つ以上の流派を認めないといふ主張と矛盾し、私をして、私が避けようと力めてゐる折衷論の中へ知らず知らずのうちに陥らしめるものゝやうに見える。併しながらそれは、単に外観的だけである。二つ以上の流派を許さないのは、一の体系に他の異質的体系の混在を許さないことである。雷を説明するにあたつて、電気の体系と神話の体系との混合折衷を許さないことである。かやうな異質的な二つの体系は互に補足しあふことも、両立することもできはしない。両者はたゞ排撃しあふのみである。一方が成立するか両方ともとも倒れになつて、より包括的な説明に代られるかのいづれかである。

 ところが、文学の目的の進化の場合はさうでない。文学が、発生のそも〳〵のはじめから今日に至るまで唯一の目的しかもつてゐないとするのは却つて純然たる独断であつて、何物もそれが必然であることを説明してゐない。却つて、文学はすべての人間の所産と同じく進化してゆくものであること、そして文学の進化は同時に文学の目的そのものゝ進化ともなることこそ、事実がそれを呈示し、理論の統一性がこれを要求してゐるのである。それ故に、私たちは、今日の階級的文学が闘争を生命とする事実を否認するために文学の目的は闘争でないといふ独断論をつくり出す必要もなければ、またこれを是認するために、文学はそも〳〵闘争的であつたといふ牽強附会な理論を急造する必要もないのである。

(一九二七・三、新潮)

底本:「平林初之輔文藝評論全集 上巻」文泉堂書店

   1975(昭和50)年51日発行

※「ゝ」「ゞ」の使い方で疑問に思える箇所がありますが、底本通りとしました。

入力:田中亨吾

校正:小林繁雄

2004年322日作成

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