停車場の少女
──「近代異妖編」
岡本綺堂
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「こんなことを申上げますと、なんだか嘘らしいやうに思召すかも知れませんが、これはほんたうの事で、わたくしが現在出会つたのでございますから、どうか其思召でお聴きください。」
Mの奥さんはかういふ前置をして、次の話をはじめた。奥さんはもう三人の子持で、その話は奥さんがまだ女学校時代の若い頃の出来事ださうである。
まつたくあの頃はまだ若うございました。今考へますと、よくあんなお転婆が出来たものだと、自分ながら呆れかへるくらゐでございます。併し又かんがへて見ますと、今ではそんなお転婆も出来ず、又そんな元気もないのが、なんだか寂しいやうにも思はれます。そのお転婆の若い盛りに、あとにも先にも唯つた一度、わたくしは不思議なことに出逢ひました。そればかりは今でも判りません。勿論、わたくし共のやうな頭の古いものには不思議のやうに思はれましても、今の若い方達には立派に解釈が付いていらつしやるかも知れません。したがつて「あり得べからざる事」などといふ不思議な出来事ではないかも知れませんが、前にも申上げました通り、わたくし自身が現在立会つたのでございますから、嘘や作り話でないことだけは、確にお受合ひ申します。
日露戦争が済んでから間もない頃でございました。水沢さんの継子さんが、金曜日の晩にわたくしの宅へおいでになりまして、明後日の日曜日に湯河原へ行かないかと誘つて下すつたのでございます。継子さんの阿兄さんは陸軍中尉で、奉天の戦ひで負傷して、しばらく野戦病院に這入つてゐたのですが、それから内地へ後送されて、矢はりしばらく入院してゐましたが、それでも負傷はすつかり癒つて二月のはじめ頃から湯河原へ転地してゐるので、学校の試験休みのあひだに一度お見舞に行きたいと、継子さんはかね〴〵云つてゐたのですが、いよ〳〵明後日の日曜日に、それを実行することになつて、ふだんから仲の好いわたくしを誘つて下すつたといふわけでございます。とても日帰りといふ訳には行きませんので、先方に二晩泊つて、火曜日の朝帰つて来るといふことでしたが、修学旅行以外には滅多に外泊したことの無いわたくしですから、兎もかくも両親に相談した上で御返事をすることにして、その日は継子さんに別れました。
それから両親に相談いたしますと、おまへが行きたければ行つても好いと、親達もこゝろよく承知してくれました。わたくしは例のお転婆でございますから、大よろこびで直に行くことにきめまして、継子さんとも改めて打合せた上で、日曜日の午前の汽車で、新橋を発ちました。御承知の通り、その頃はまだ東京駅はございませんでした。継子さんは熱海へも湯河原へも旅行した経験があるので、わたくしは唯おとなしくお供をして行けば好いのでした。
お供と云つて、別に謙遜の意味でも何でもございません。まつたく文字通りのお供に相違ないのでございます。と云ふのは、水沢継子さんの阿兄さん──継子さんもそう云つてゐますし、わたくし共も矢はりさう云つてゐましたけれど、実はほんたうの兄さんではない、継子さんとは従兄妹同士で、ゆく〳〵は結婚なさるといふ事をわたくしも予て知つてゐたのでございます。その阿兄さんのところへ尋ねて行く継子さんはどんなに楽いことでせう。それに附いて行くわたくしは、どうしてもお供といふ形でございます。いえ、別に嫉妬を焼くわけではございませんが、正直のところ、まあそんな感じが無いでもありません。けれども、又一方にはふだんから仲の好い継子さんと一緒に、たとひ一日でも二日でも春の温泉場へ遊びに行くといふ事がわたくしを楽ませたに相違ありません。
殊にその日は三月下旬の長閑な日で、新橋を出ると、もうすぐに汽車の窓から春の海が広々とながめられます。わたくし共の若い心はなんとなく浮立つて来ました。国府津へ着くまでのあひだも、途中の山や川の景色がどんなに私どもの眼や心を楽ませたか知れません。国府津から小田原、小田原から湯河原、そのあひだも二人は絶えず海や山に眼を奪はれてゐました。宿屋の男に案内されて、ふたりが馬車に乗つて宿に行き着きましたのは、もう午後四時に近い頃でした。
「やあ来ましたね。」
継子さんの阿兄さんは嬉しさうに私どもを迎へてくれました。阿兄さんは不二雄さんと仰しやるのでございます。不二雄さんはもうすつかり癒つたと云つて、元気も大層よろしいやうで、来月中旬には帰京すると云ふことでした。
「どうです。わたしの帰るまで逗留して、一緒に東京へ帰りませんか。」などと、不二雄さんは笑つて云ひました。
その晩は泊りまして、あくる日は不二雄さんの案内で近所を見物してあるきました。春の温泉場──そののびやかな気分を今更委しく申し上げませんでも、どなたもよく御存じでございませう。わたくし共はその一日を愉快に暮しまして、あくる火曜日の朝、いよ〳〵こゝを発つことになりました。その間にも色々のお話がございますが、余り長くなりますから申上げません。そこで今朝はいよ〳〵発つと云ふことになりまして、継子さんとわたくしとは早く起きて風呂場へまゐりますと、なんだか空が曇つてゐるやうで、廊下の硝子窓から外を覗いてみますと、霧のやうな小雨が降つてゐるらしいのでございます。雨か靄か確にはわかりませんが、中庭の大きい椿も桜も一面の薄い紗に包まれてゐるやうにも見えました。
「雨でせうか。」
二人は顔を見あはせました。いくら汽車の旅にしても、雨は嬉しくありません。風呂に這入つてから継子さんは考へてゐました。
「ねえ、あなた。ほんたうに降つて来ると困りますね。あなたどうしても今日お帰りにならなければ不可いんでせう。」
「えゝ火曜日には帰ると云つて来たんですから。」と、わたくしは云ひました。
「さうでせうね。」と、継子さんは矢はり考へてゐました。「けれども、降られるとまつたく困りますわねえ。」
継子さんは頻りに雨を苦にしてゐるらしいのです。さうして、もし雨だつたらばもう一日逗留して行きたいやうなことを云ひ出しました。わたくしの邪推かも知れませんが、継子さんは雨を恐れるといふよりも、ほかに仔細があるらしいのでございます。久振りで不二雄さんの傍へ来て、唯つた一日で帰るのはどうも名残惜いやうな、物足らないやうな心持が、おそらく継子さんの胸の奥に忍んでゐるのであらうと察しられます。雨をかこつけに、もう一日か二日も逗留してゐたいといふ継子さんの心持は、わたくしにも大抵想像されないことはありません。邪推でなく、全くそれも無理のないことゝ私も思ひやりました。けれども、わたくしは何うしても帰らなければなりません、雨が降つても帰らなければなりません。で、その訳を云ひますと、継子さんはまだ考へてゐました。
「電報をかけても不可ませんか。」
「ですけれども、三日の約束で出てまゐりましたのですから。」と、わたくしは飽までも帰ると云ひました。さうして、もし貴女がお残りになるならば、自分ひとりで帰つても可いと云ひました。
「そりや不可ませんわ。あなたが何うしてもお帰りになるならば、わたくしも無論御一緒に帰りますわ。」
そんなことで二人は座敷へ帰りましたが、あさの御飯をたべてゐる中に、たうとう本降りになつてしまひました。
「もう一日遊んで行つたら可いでせう。」と、不二雄さんも切りに勧めました。
さうなると、継子さんはいよ〳〵帰りたくないやうな風に見えます。それを察してゐながら、意地悪く帰るといふのは余りに心無しのやうでしたけれど、その時のわたくしは何うしても約束の期限通りに帰らなければ両親に対して済まないやうに思ひましたので、雨のふる中をいよ〳〵帰ることにしました。継子さんも一緒に帰るといふのをわたくしは無理に断つて、自分だけが宿を出ました。
「でも、あなたを一人で帰しては済みませんわ。」と、継子さんは余ほど思案してゐるやうでしたが、結局わたくしの云ふ通りにすることになつて、ひどく気の毒さうな顔をしながら、幾たびかわたくしに云訳をしてゐました。
不二雄さんも、継子さんも、わたくしと同じ馬車に乗つて停車場まで送つて来てくれました。
「では、御免ください。」
「御機嫌よろしう。わたくしも天気になり次第に帰ります。」と、継子さんはなんだか謝るやうな口吻で、わたくしの顔色をうかゞひながら丁寧に挨拶してゐました。
わたくしは人車鉄道に乗つて小田原へ着きましたのは、午前十一時頃でしたらう。好い塩梅に途中から雲切れがして来まして、細い雨の降つてゐる空の上から薄い日のひかりが時々に洩れて来ました。陽気も急にあたゝかくなりました。小田原から電車で国府津に着きまして、そこの茶店で小田原土産の梅干を買ひました。それは母から頼まれてゐたのでございます。
十二時何分かの東京行列車を待合せるために、わたくしは狭い二等待合室に這入つて、テーブルの上に置いてある地方新聞の綴込みなどを見てゐるうちに、空はいよ〳〵明るくなりまして、春の日が一面にさし込んで来ました。日曜でも祭日でもないのに、けふは発車を待ちあはせてゐる人が大勢ありまして、狭い待合室は一杯になつてしまひました。わたくしはなんだか蒸暖かいやうな、頭がすこし重いやうな心持になりましたので、雨の晴れたのを幸ひに構外の空地に出て、だん〳〵に青い姿をあらはしてゆく箱根の山々を眺めてゐました。
そのうちに、もう改札口が明いたとみえまして、二等三等の人達がどや〳〵と押合つて出て行くやうですから、わたくしも引返して改札口の方へ行きますと、大勢の人たちが繋がつて押出されて行きます。わたくしもその人達の中にまじつて改札口へ近づいた時でございます。どこからとも無しにこんな声がきこえました。
「継子さんは死にました。」
わたくしは悸然として振返りましたが、そこらに見識つたやうな顔は見出されませんでした。なにかの聞き違ひかと思つてゐますと、もう一度おなじやうな声がきこえました。しかもわたくしの耳のそばで囁くやうに聞えました。
「継子さんは死にましたよ。」
わたくしは又ぎよつとして振返ると、わたくしの左の方に列んでゐる十五六の娘──その顔容は今でもよく覚えてゐます。色の白い、細面の、左の眼に白い曇りのあるやうな、しかし大体に眼鼻立の整つた、どちらかといへば美しい方の容貌の持主で、紡績飛白のやうな綿衣を着て紅いメレンスの帯を締めてゐました。──それが何だかわたくしの顔をぢつと見てゐるらしいのです。その娘がわたくしに声をかけたらしくも思はれるのです。
「継子さんが歿なつたのですか。」
殆ど無意識に、わたくしは其娘に訊きかへしますと、娘は黙つて首肯いたやうに見えました。そのうちに、あとから来る人に押されて、わたくしは改札口を通り抜けてしまひましたが、あまり不思議なので、もう一度その娘に訊き返さうと思つて見返りましたが、どこへ行つたか其姿が見えません。わたくしと列んでゐたのですから、相前後して改札口を出た筈ですが、そこらに其姿が見えないのでございます。引返して構内を覗きましたが、矢はりそれらしい人は見付からないので、わたくしは夢のやうな心持がして、しきりに其処らを見廻しましたが、あとにも先にも其娘は見えませんでした。どうしたのでせう、どこへ消えてしまつたのでせう。わたくしは立停つてぼんやりと考へてゐました。
第一に気にかゝるのは継子さんのことです。今別れて来たばかりの継子さんが死ぬなどといふ筈がありません。けれども、わたくしの耳には一度ならず、二度までも確にさう聞えたのです。怪しい娘がわたくしに教へてくれたやうに思はれるのです。気の迷ひかも知れないと打消しながらも、わたくしは妙にそれが気にかゝつてならないので、いつまでも夢のやうな心持でそこに突つ立つてゐました。これから湯河原へ引返して見ようかとも思ひました。それもなんだか馬鹿らしいやうにも思ひました。このまゝ真直に東京へ帰らうか、それとも湯河原へ引返さうかと、わたくしは色々にかんがへてゐましたが、どう考へてもそんなことの有様は無いやうに思はれました。お天気の好い真昼間、しかも停車場の混雑のなかで、怪しい娘が継子さんの死を知らせてくれる──そんなことのあるべき筈が無いと思はれましたので、わたくしは思ひ切つて東京へ帰ることに決めました。
その中に東京行の列車が着きましたので、ほかの人達はみんな乗込みました。わたくしも乗らうとして又俄に躊躇しました。まつすぐに東京へ帰ると決心してゐながら、いざ乗込むといふ場合になると、不思議に継子さんのことが甚く不安になつて来ましたので、乗らうか乗るまいかと考へてゐるうちに、汽車はわたくしを置去りにして出て行つてしまひました。
もう斯うなると次の列車を待つてはゐられません。わたくしは湯河原へ引返すことにして、再び小田原行の電車に乗りました。
こゝまで話して来て、Mの奥さんは一息ついた。
「まあ、驚くぢやございませんか。それから湯河原へ引返しますと、継子さんはほんたうに死んでゐるのです。」
「死んでゐましたか。」と、聴く人々も眼を瞠つた。
「わたくしが発つた時分には勿論何事もなかつたのです。それからも別に変つた様子もなくつて、宿の女中にたのんで、雨のために既う一日逗留するといふ電報を東京の家へ送つたさうです。さうして、食卓にむかつて手紙をかき始めたさうです。その手紙はわたくしに宛てたもので、自分だけが後に残つてわたくし一人を先へ帰した云訳が長々と書いてありました。それを書いてゐるあひだに、不二雄さんはタオルを持つて一人で風呂場へ出て行つて、やがて帰つて来てみると、継子さんは食卓の上にうつ伏してゐるので、初めはなにか考へてゐるのかと思つたのですが、どうも様子が可怪いので、声をかけても返事がない。揺つてみても正体がないので、それから大騒ぎになつたのですが、継子さんはもうそれぎり蘇生らないのです。お医師の診断によると、心臓麻痺ださうで……。尤も継子さんは前の年にも脚気になつた事がありますから、矢はりそれが原因になつたのかも知れません。なにしろ、わたくしも呆気に取られてしまひました。いえ、それよりも私をおどろかしたのは、国府津の停車場で出逢つた娘のことで、あれは一体何者でせう。不二雄さんは不意の出来事に顛倒してしまつて、なか〳〵私のあとを追ひかけさせる余裕はなかつたのです。宿からも使などを出したことはないと云ひます。してみると、その娘の正体が判りません。どうしてわたくしに声をかけたのでせう。娘が教へてくれなかつたら、わたくしは何にも知らずに東京へ帰つてしまつたでせう。ねえ、さうでせう。」
「さうです、さうです。」と、人々はうなづいた。
「それがどうも判りません。不二雄さんも不思議さうに首をかしげてゐました。わたくしに宛てた継子さんの手紙は、もうすつかり書いてしまつて、状袋に入れたまゝで食卓の上に置いてありました。」
底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂」国書刊行会
1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
1926(大正15)年
初出:「講談倶楽部」
1925(大正14)年5月
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:林田清明
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月5日作成
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