怪談牡丹灯籠
怪談牡丹灯籠
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂・編纂



        一


 寛宝かんぽう三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯島天神ゆしまてんじんやしろにて聖徳太子しょうとくたいし御祭礼ごさいれいを致しまして、その時大層参詣さんけいの人が出て群集雑沓ぐんじゅざっとうきわめました。こゝに本郷三丁目に藤村屋新兵衞ふじむらやしんべえという刀屋かたなやがございまして、その店先には良い代物しろものならべてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一二ともおぼしく、色あくまでも白く、眉毛ひいで、目元きりゝっとして少し癇癪持かんしゃくもちと見え、びんの毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に結構なおはかまを着け、雪駄せった穿いて前に立ち、背後うしろ浅葱あさぎ法被はっぴ梵天帯ぼんてんおびを締め、真鍮巻しんちゅうまきの木刀を差したる中間ちゅうげんが附添い、此の藤新ふじしんの店先へ立寄って腰を掛け、ならべてある刀を眺めて。

侍「亭主や、其処そこの黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の刀柄つか南蛮鉄なんばんてつつばが附いた刀は誠にさそうな品だな、ちょっとお見せ」

亭「へい〳〵、こりゃお茶を差上げな、今日は天神の御祭礼で大層に人が出ましたから、定めし往来はほこりさぞお困りあそばしましたろう」

 と刀のちりを払いつゝ、

亭「これは少々装飾こしらえれて居りまする」

侍「成程少しれてるな」

亭「へい中身なかごは随分おもちいになりまする、へいお差料さしりょうになされてもおに合いまする、お中身もおしょうたしかにお堅い品でございまして」

 と云いながら、

亭「へい御覧遊ばしませ」

 と差出さしだすを、侍は手に取って見ましたが、旧時まえにはよくお侍様が刀をす時は、刀屋の店先で引抜ひきぬいて見て入らっしゃいましたが、あれはあぶないことで、しお侍が気でも違いまして抜身ぬきみ振𢌞ふりまわされたら、本当に危険けんのんではありませんか。今此のお侍も本当に刀をるお方ですから、中身なかご工合ぐあいから焼曇おちの有り無しより、差表さしおもて差裏さしうら鋩尖ぼうしさき何やや吟味致しまするは、流石さすがにお旗下はたもとの殿様の事ゆえ、通常なみ〳〵の者とは違います。

侍「とんだ良さそうな物、拙者せっしゃ鑑定かんていするところでは備前物びぜんもののように思われるがうじゃな」

亭「へい良いお鑑定めきゝいらっしゃいまするな、恐入りました、おおせの通り私共わたくしども仲間の者も天正助定てんしょうすけさだであろうとの評判でございますが、しい事には何分無銘むめいにて残念でございます」

侍「御亭主やこれはどの位するな」

亭「へい、有難う存じます、お掛値かけねは申上げませんが、只今も申します通り銘さえございますれば多分の価値ねうちもございますが、無銘の所できん拾枚でございます」

侍「なに拾両とか、ちっと高いようだな、七枚半にはまからんかえ」

亭「どう致しまして何分それでは損が参りましてへい、なか〳〵もちましてへい」

 としきりに侍と亭主と刀の値段の掛引かけひきをいたして居りますと、背後うしろかたで通りかゝりの酔漢よっぱらいが、此の侍の中間ちゅうげんとらえて、

「やい何をしやアがる」

 と云いながらひょろ〳〵とよろけてハタと臀餅しりもちき、ようやく起きあがってひたいにらみ、いきなり拳骨げんこつふる丁々ちょう〳〵と打たれて、中間は酒のとが堪忍かんにんして逆らわず、大地に手を突きこうべを下げて、しきりにびても、酔漢よっぱらいは耳にも懸けずたけり狂って、なおも中間をなぐりるを、侍はト見れば家来の藤助だから驚きまして、酔漢にむか会釈えしゃくをなし、

侍「何を家来めが無調法ぶちょうほうを致しましたか存じませんが、当人に成りかわわたくしがおわび申上げます、何卒なにとぞ御勘弁を」

酔「なに此奴こいつは其の方の家来だと、しからん無礼な奴、武士の供をするなら主人の側に小さくなってるが当然、しかるになん天水桶てんすいおけから三尺も往来へ出しゃばり、通行のさまたげをして拙者をあたらせたから、むを得ず打擲ちょうちゃくいたした」

侍「何もわきまえぬものでございますればひとえに御勘弁を、手前成り代ってお詫を申上げます」

酔「今この所で手前がよろけたとこをトーンとき当ったから、犬でもあるかと思えば此の下郎げろうめが居て、地べたへ膝を突かせ、見なさる通りこれ此の様に衣類を泥だらけにいたした、無礼な奴だから打擲ちょうちゃく致したが如何いかゞ致した、拙者せっしゃの存分に致すから此処こゝへお出しなさい」

侍「此の通り何も訳のわからん者、犬同様のものでございますから、何卒なにとぞ御勘弁下されませ」

酔「こりゃ面白い、初めてうけたまわった、侍が犬の供を召連めしつれて歩くという法はあるまい、犬同様のものなら手前申受もうしうけて帰り、番木鼈まちんでも喰わしてろう、何程なにほど詫びても料簡は成りません、これ家来の無調法を主人がわぶるならば、大地だいじへ両手を突き、重々じゅう〴〵恐れ入ったとこうべつちに叩き着けてわびをするこそしかるべきに、なんだ片手に刀の鯉口こいぐちを切っていながら詫をするなどとは侍の法にあるまい、何だ手前は拙者を斬る気か」

侍「いや是は手前が此の刀屋で買取ろうと存じまして只今中身なかごて居ましたところへ此の騒ぎに取敢とりあえず罷出まかりでましたので」

酔「エーイそれは買うとも買わんとも貴方あなた御勝手ごかってじゃ」

 とのゝしるを侍はしきりにその酔狂すいきょうなだめてると、往来の人々は

「そりゃ喧嘩だあぶないぞ」

「なに喧嘩だとえ」

「おゝサ対手あいては侍だ、それは危険けんのんだな」

 と云うを又一人が

「なんでげすねえ」

「左様さ、刀を買うとか買わないとかの間違だそうです、よっぱらっている侍が初め刀にを附けたが、高くて買われないでところへ、此方こちらの若い侍が又その刀に価を附けた処から酔漢よっぱらいおこり出し、おれの買おうとしたものを己に無沙汰ぶさたで価を附けたとか何とかの間違いらしい」

 と云えば又一人が、

「なにサ左様そうじゃアありませんよ、あれは犬の間違いだアね、己のうちの犬に番木鼈まちんを喰わせたから、その代りの犬を渡せ、また番木鼈を喰わせて殺そうとかいうのですが、犬の間違いは昔からよくありますよ、白井權八しらいごんぱちなども矢張やっぱり犬の喧嘩からあんな騒動に成ったのですからねえ」

 と云えば又そばに居る人が

「ナニサそんな訳じゃアない、あの二人は叔父おじおいの間柄で、あの真赤まっか酔払よっぱらって居るのは叔父さんで、若い綺麗な人が甥だそうだ、甥が叔父に小遣銭こづかいせんを呉れないと云う処からの喧嘩だ」

 と云えば、又側にいる人は

「ナーニあれは巾着切きんちゃくきりだ」

 などと往来の人々は口に任せて種々いろ〳〵の評判を致しているうちに、一人の男が申しますは

「あの酔漢よっぱらい丸山本妙寺まるやまほんみょうじ中屋敷に住む人で、元は小出こいで様の御家来であったが、身持みもちが悪く、酒色しゅしょくふけり、折々おり〳〵抜刀すっぱぬきなどして人をおどかし乱暴を働いて市中しちゅう横行おうぎょうし、或時あるときは料理屋へあがり込み、十分酒肴さけさかなに腹をふとらし勘定は本妙寺中屋敷へ取りに来いと、横柄おうへい喰倒くいたお飲倒のみたおして歩く黒川孝藏くろかわこうぞうという悪侍わるざむらいですから、年の若い方の人は見込まれて結局つまり酒でも買わせられるのでしょうよ」

左様そうですか、並大抵なみたいていのものなら斬ってしまいますが、あの若い方はどうも病身のようだから斬れまいねえ」

「ナニあれは剣術を知らないのだろう、侍が剣術を知らなければ腰抜けだ」

 などとさゝやく言葉がちら〳〵若い侍の耳に入るから、グッと込み上げ、癇癖かんぺきさわり、満面まんめんしゅを注いだる如くになり、額に青筋をあらわし、きっと詰め寄り、

侍「是程までにお詫びを申しても御勘弁なさりませぬか」

酔「くどい、見れば立派なお侍、御直参ごじきさんいずれの御藩中ごはんちゅうかは知らないが尾羽おは打枯うちからした浪人とあなどり失礼至極、愈々いよ〳〵勘弁がならなければどうする」

 と云いさま、ガアッとたんの若侍の顔にき付けました故、流石さすがに勘弁強い若侍も、今は怒気どき一度にかおあらわれ、

侍「おのれ下手したでに出れば附上つけあがり、ます〳〵つの罵詈暴行ばりぼうこう、武士たるものゝ面上めんじょうに痰を唾き付けるとは不届ふとゞきな奴、勘弁が出来なければうする」

 といいながら今刀屋で見ていた備前物の刀柄つかに手が掛るが早いか、スラリと引抜ひきぬき、酔漢よっぱらいの鼻の先へぴかりと出したから、見物は驚きあわて、弱そうな男だからまだ引抜ひっこぬきはしまいと思ったに、ぴか〳〵といったから、ほら抜いたとの葉の風にったように四方八方にばら〳〵と散乱し、町々の木戸を閉じ、路地を締め切り、商人あきんどは皆戸を締める騒ぎにて町中まちなかはひっそりとなりましたが、藤新の亭主一人は逃場にげばを失い、つくねんとして店頭みせさきに坐って居りました。さて黒川孝藏は酔払よっぱらっては居りますれども、生酔なまえい本性ほんしょうたがわずにて、の若侍の剣幕けんまくに恐れをなし、よろめきながら二十歩ばかり逃げ出すを、侍はおのれ卑怯ひきょうなり、口程でもない奴、武士が相手に背後うしろを見せるとは天下の耻辱になる奴、かえせ〳〵と、雪駄穿せったばきにて跡を追い掛ければ、孝藏は最早かなわじと思いまして、よろめく足を踏みしめて、一とうのやれづかに手を掛けて此方こなたを振り向く処を、若侍は得たりと踏込みざま、えイと一声ひとこえ肩先を深くプッツリと切込む、斬られて孝藏はアッと叫び片膝を突く処をのしかゝり、エイと左の肩より胸元へ切付きりつけましたから、はすに三つに切られて何だか亀井戸かめいど葛餅くずもちのように成ってしまいました。若侍はすぐと立派にとゞめを刺して、血刀ちがたなふるいながら藤新の店頭みせさき立帰たちかえりましたが、もとより斬殺きりころす料簡でございましたから、ちっとも動ずる気色もなく、我が下郎に向い、

侍「これ藤助、その天水桶てんすいおけの水を此の刀にかけろ」

 と言いつければ、最前さいぜんよりふるえて居りました藤助は、

藤「へいとんでもない事になりました、し此の事から大殿様のお名前でも出ますようの事がございましては相済みません、元はみんわたくしから始まった事、どう致してよろしゅうございましょう」

 と半分は死人の顔。

侍「いや左様さように心配するには及ばぬ、市中を騒がす乱暴人、切捨きりすてゝも苦しくない奴だ、心配するな」

 と下郎を慰めながら泰然として、呆気あっけに取られたる藤新の亭主を呼び、

侍「こりゃ御亭主や、此の刀はこれ程切れようとも思いませんだったが、なか〳〵斬れますな、余程く斬れる」

 といえば亭主はふるえながら、

亭「いや貴方様あなたさまのお手がえているからでございます」

侍「いや〳〵全く刃物がよい、どうじゃな、七両二分に負けてもかろうな」

 と云えば藤新は係合かゝりあいを恐れ、

「宜しゅうございます」

侍「いやお前の店には決して迷惑は掛けません、兎に角此の事をぐに自身番に届けなければならん、名刺なふだを書くから一寸ちょっと硯箱すゞりばこを貸して呉れろ」

 と云われても、亭主はおのれのそばに硯箱のあるのも眼にらず、ふるごえにて、

「小僧や硯箱を持って来い」

 と呼べど、家内かないの者はきの騒ぎにいずれへか逃げてしまい、一人も居りませんから、寂然ひっそりとして返事がなければ、

侍「御亭主、お前は流石さすが御渡世柄ごとせいがらだけあって此の店を一寸ちょっとも動かず、自若じじゃくとしてござるは感心な者だな」

亭「いえナニおめで恐入ります、先程から早腰はやごしが抜けて立てないので」

侍「硯箱はお前のわきにあるじゃアないか」

 と云われてよう〳〵心付き、硯箱をの侍の前に差出すと、侍は硯箱のふた推開おしひらきて筆を取り、すら〳〵と名前を飯島平太郎いいじまへいたろうと書きおわり、自身番に届け置き、牛込のおやしきへお帰りに成りまして、此の始末を、御親父ごしんぷ飯島平左衞門へいざえもん様にお話を申上もうしあげましたれば、平左衞門様はく斬ったとおおせありて、それからすぐにおかしらたる小林權太夫こばやしごんだゆう殿へお届けに及びましたが、させるおとがめもなく切りどく切られぞんとなりました。


        二


 さて飯島平太郎様は、お年二十二の時に悪者わるもの斬殺きりころしてちっとも動ぜぬ剛気の胆力たんりょくでございましたれば、お年を取るにしたがい、益々ます〳〵智慧ちえが進みましたが、そののち御親父ごしんぷ様には亡くなられ、平太郎様には御家督ごかとくを御相続あそばし、御親父様の御名跡ごみょうせきをおぎ遊ばし、平左衞門と改名され、水道端すいどうばた三宅みやけ様と申上げまするお旗下はたもとから奥様をお迎えになりまして、程なく御出生ごしゅっしょうのお女子にょしをおつゆ様と申し上げ、すこぶ御器量美ごきりょうよしなれば、御両親は掌中たなぞこたまいつくしみ、あとにお子供が出来ませず、一粒種の事なればなおさらに撫育ひそうされるうちひまゆく月日つきひ関守せきもりなく、今年はや嬢様は十六の春を迎えられ、おいえもいよ〳〵御繁昌ごはんじょうでございましたが、つればくる世のならい、奥様には不図ふとした事が元となり、ついに帰らぬ旅路におもむかれましたところ、此の奥様のおつきの人に、おくにと申す女中がございまして、器量人並にすぐれ、こと起居周旋たちいとりまわし如才じょさいなければ、殿様にも独寝ひとりねねや淋しいところから早晩いつか此のお國にお手がつき、お國は到頭とうとうめかけとなり済しましたが、奥様のないうちのお妾なればお羽振はぶりもずんとよろしい。しかるにお嬢様は此のお國を憎く思い、たがいにすれ〳〵になり、國々と呼び附けますると、お國は又お嬢様に呼捨よびすてにされるをいやに思い、お嬢様の事をあしざまに殿様に彼是かれこれ告口つげくちをするので、嬢様と國との間んとなく落着おちつかず、されば飯島様もこれを面倒な事に思いまして、柳島辺やなぎしまへんある寮を買い、嬢様におよねと申す女中を附けて、此の寮に別居させて置きましたが、そも飯島様のあやまりにて、是よりおいえのわるくなる初めでございました。さて其の年も暮れ、あくれば嬢様は十七歳にお成りあそばしました。こゝにかねて飯島様へお出入でいりのお医者に山本志丈やまもとしじょうと申す者がございます。此の人一体は古方家こほうかではありますけれど、実はお幇間医者たいこいしゃのおしゃべりで、諸人助けのためにさじを手に取らないという人物でございますれば、大概のお医者なれば、一寸ちょっと紙入かみいれの中にもお丸薬がんやく散薬こぐすりでも這入はいっていますが、此の志丈の紙入の中には手品の種や百眼ひゃくまなこなどが入れてある位なものでございます。さて此の医者の知己ちかづきで、根津ねづ清水谷しみずだに田畑でんぱたや貸長屋を持ち、そのあがりで生計くらしを立てゝいる浪人の、萩原新三郎はぎわらしんざぶろうと申します者が有りまして、うまれつき美男びなんで、年は二十一歳なれどもまだ妻をもめとらず、独身で暮すやもおに似ず、ごく内気でございますから、外出そとでも致さず閉籠とじこもり、鬱々うつ〳〵書見しょけんのみして居りますところへ、或日あるひ志丈が尋ねて参り、

志「今日は天気もよろしければ亀井戸の臥竜梅がりょうばいへ出掛け、その帰るさに僕の知己ちかづき飯島平左衞門の別荘へ立寄りましょう、いえサ君は一体内気で入らっしゃるから婦女子にお心掛けなさいませんが、男子に取っては婦女子位たのしみなものはないので、今申した飯島の別荘には婦人ばかりで、それは〳〵余程別嬪べっぴんな嬢様に親切な忠義の女中とたゞ二人ぎりですから、冗談でも申して来ましょう、本当に嬢様の別嬪を見るだけでも結構なくらいで、梅もよろしいが動きもしない口もきゝません、されども婦人は口もきくしサ動きもします、僕などは助平すけべいたちだから余程女の方が宜しい、マア兎も角も来たまえ」

 と誘い出しまして、二人打連うちつれ臥竜梅へまいり、その帰りみちに飯島の別荘へ立寄り、

志「御免下さい、誠にしばらく」

 という声聞き附け、

米「何方どなたさま、おや、よくいらっしゃいました」

志「是はおよねさん、其ののちついにない存外の御無沙汰ごぶさたをいたしました、嬢様にはお変りもなく、それは〳〵頂上々々、牛込から此処こゝへお引移ひきうつりになりましてからは、何分にも遠方ゆえ、存じながら御無沙汰に成りまして誠に相済みません」

米「まア貴方あなたが久しくお見えなさいませんからうなすったかと思って、毎度お噂を申して居りました、今日は何方どちらへ」

志「今日は臥竜梅へ梅見に出かけましたが、梅見れば方図ほうずがないというたとえの通り、あきたらず、御庭中ごていちゅう梅花ばいかを拝見いたしたく参りました」

米「それはく入らっしゃいました、まア何卒どうぞ此方こちらへおはいりあそばせ」

 と庭の切戸きりどひらきくれゝば、

しからば御免」

 と庭口へ通ると、お米は如才じょさいなく、

米「まア一服召上りませ、今日はく入らっしゃって下さいました、平常ふだんわたくしと嬢様ばかりですから、さむしくって困ってるところ、誠に有難うございます」

志「結構なお住いでげすな……さて萩原氏、今日君のお名吟めいぎんは恐れ入りましたな、なんとか申したな、えゝと「煙草には燧火すりびのむまし梅のなか」とは感服々々、僕などのような横着者おうちゃくものは出る句も矢張り横着で「梅ほめてまぎらかしけり門違かどちがい」かね、君のような書見しょけんばかりして鬱々うつ〳〵としてはいけませんよ、先刻さっき残酒ざんしゅ此処こゝにあるから一杯あがれよ…んですね、いやです…それではひとりで頂戴いたします」

 と瓢箪ひょうたんを取り出す所へお米きたり、

米「どうも誠にしばらく」

志「今日は嬢様に拝顔はいがんを得たく参りました、此処こゝるは僕がごくの親友です、今日はお土産みやげなんにも持参致しません、エヘヽ有難うございます、是は恐れ入ります、お菓子を、羊羹ようかん結構、萩原君召し上れよ」

 とお米が茶へ湯をさしに行ったあとを見送り、

「こゝのうちは女二人ぎりで、菓子などは方々から貰っても、喰い切れずに積上げて置くものだから、皆かびはやかして捨てるくらいのものですから、喰ってやるのがかえって親切ですから召上れよ、実に此のうちのお嬢様は天下に無い美人です、今に出ていらっしゃるから御覧なさい」

 とおしゃべりをしているところへ向うの四畳半の小座敷から、飯島のお嬢さまお露が人珍らしいから、障子の隙間すきまより此方こちらのぞいて見ると、志丈のそばに坐っているのは例の美男びなん萩原新三郎にて、男ぶりといい人品ひとがらといい、花のかんばせ月の眉、女子おなごにして見まほしき優男やさおとこだから、ゾッと身にうした風の吹廻ふきまわしであんな綺麗な殿御とのご此処こゝへ来たのかと思うと、カッと逆上のぼせて耳朶みゝたぼが火の如くカッと真紅まっかになり、なんとなく間が悪くなりましたから、はたと障子をしめきり、うちへ入ったが、障子の内では男の顔が見られないから、又そっと障子を明けて庭の梅の花を眺めるふりをしながら、ちょい〳〵と萩原の顔を見て又恥かしくなり、障子の内へ這入はいるかと思えば又出て来る、出たり引込ひっこんだり引込んだり出たり、もじ〳〵しているのを志丈は見つけ、

志「萩原君、君を嬢様が先刻さっきから熟々しけ〴〵と見ておりますよ、梅の花を見るふりをしていても、眼のたままる此方こちらを見ているよ、今日はとんと君に蹴られたね」

 と言いながらお嬢様の方を見て

「アレ又引込ひっこんだ、アラ又出た、引込んだり出たり出たり引込んだり、まる水呑みずのみ〳〵」

 とさわぎどよめいているところへ下女のお米きた

「嬢様から一こん申し上げますが何もございません、ほんの田舎料理でございますが御緩ごゆるりと召上り相変らず貴方あなたの御冗談をうかゞいたいとおっしゃいます」

 と酒肴さけさかなだせば、

志「うも恐入りましたな、へい是はお吸物誠に有難うございます、先刻さっきから冷酒れいしゅは持参致しておりまするが、お燗酒かんしゅは又格別、有難うございます、何卒どうぞ嬢様にもいらっしゃるように今日は梅じゃアない実はお嬢様を、いやなに」

米「ホヽヽヽ只今左様申し上げましたが、おつれのお方は御存じがないものですから間が悪いと仰しゃいますから、それならおし遊ばせと申し上げたところが、それでもって見たいと仰しゃいますの」

志「いや、これは僕のしん知己ちかづきにて、竹馬の友と申してもよろしい位なもので、御遠慮には及びませぬ、何卒どうぞちょっと嬢様にお目にかゝりたくって参りました」

 と云えば、お米はやがて嬢様を伴いきたる。嬢様のお露様は恥かしげにお米のうしろに坐って、口のうちにて

「志丈さんいらっしゃいまし」

 と云ったぎりで、お米が此方こちらへ来れば此方へきたり、彼方あちらけば彼方へ行き、始終女中のうしろにばかりくッついて居る。

志「存じながら御無沙汰に相成りまして、何時いつも御無事で、此の人は僕の知己ちかづきにて萩原新三郎と申します独身者ひとりものでございますが、お近づきの一寸ちょっとさかづきを頂戴いたさせましょう、おや何だかこれでは御婚礼の三々九度さかづきのようでございます」

 と少しも間断たれまなく取巻きますと、嬢様は恥かしいが又嬉しく、萩原新三郎を横目にじろ〳〵見ないふりをしながら見て居ります。と気があれば目も口ほどに物をいうと云うたとえの通り、新三郎もお嬢様の艶容やさすがた見惚みとれ、魂も天外に飛ぶばかりです。そうこうするうちに夕景になり、灯火あかりがちら〳〵く時刻となりましたけれども、新三郎は一向に帰ろうと云わないから。

志「大層に長座ちょうざを致しました、さおいとまを致しましょう」

米「何ですねえ志丈さん、貴方あなたはお連様つれさまもありますからまアいじゃアありませんか、お泊りなさいな」

新「僕はよろしゅうございます、泊って参っても宜しゅうございます」

志「それじゃア僕一人憎まれ者になるのだ、しかし又斯様かような時は憎まれるのがかえって親切になるかも知れない、今日はまず是迄これまでとしておさらば〳〵」

新「鳥渡ちょっと便所を拝借致しとうございます」

米「さア此方こちらいらっしゃいませ」

 と先に立って案内を致し、廊下伝いに参り

此処こゝが嬢様のおへやでございますから、まアお這入り遊ばして一服召上って入っしゃいまし」

 新三郎は

「有難うございます」

 と云いながら用場ようばへ這入りました。

米「お嬢様え、のお方が、出ていらっしゃったらばおひやを掛けてお上げ遊ばせ、お手拭てぬぐい此処こゝにございます」

 と新しい手拭を嬢様に渡し置き、お米は此方こちらへ帰りながら、お嬢様があゝいうお方に水を掛けて上げたならばさぞお嬉しかろう、のお方は余程よっぽど御意ぎょいかなった様子。と独言ひとりごとをいいながら元の座敷へ参りましたが、忠義も度をはずすとかえって不忠にちて、お米は決して主人にみだらな事をさせる積りではないが、何時いつも嬢様は別におたのしみもなく、ふさいでばかりいらっしゃるから、ういう冗談でもしたら少しはお気晴きばらしになるだろうと思い、主人のためを思ってしたので。さて萩原は便所から出て参りますと、嬢様は恥かしいのが一杯で只茫然ぼんやりとしておひやを掛けましょうとも何とも云わず、湯桶ゆおけを両手に支えているを、新三郎は見て取り、

新「是は恐れ入ります、はゞかりさま」

 と両手を差伸さしのべれば、お嬢様は恥かしいのが一杯なれば、目もくらみ、見当違いのところへ水を掛けておりますから、新三郎の手も彼方此方あちらこちらおいかけてようよう手を洗い、嬢様が手拭をと差出してもモジ〳〵しているうち、新三郎も此のお嬢はしんに美しいものと思い詰めながら、ずっと手を出し手拭を取ろうとすると、まだもじ〳〵していて放さないから、新三郎も手拭の上からこわ〴〵ながらその手をじっと握りましたが、此の手を握るのは誠に愛情の深いものでございます。お嬢様は手を握られ真赤まっかに成って、又その手を握り返している。此方こちらは山本志丈が新三郎が便所へき、余り手間取るをいぶか

志「新三郎君は何処どこかれました、さア帰りましょう」

 とき立てればお米はごまかし、

米「貴方あなたんですねえ、おや貴方あなたのおつむりがぴか〳〵光ってまいりましたよ」

志「なにさそれは灯火あかりで見るから光るのですわね、萩原氏々々」

 と呼立てれば、

米「んですねえ、うございますよう、貴方あなたはお嬢様のお気質も御存じではありませんか、お堅いから仔細しさいはありませんよ」

 と云って居ります所へ新三郎がようよう出て来ましたから、

志「君何方どちらにいました、いざ帰りましょう、左様なればおいとま申します、今日は種々いろ〳〵御馳走に相成りました、有難うございます」

米「左様なら、今日はまア誠にお草々そう〳〵さま左様なら」

 と志丈新三郎の両人は打連うちつちて帰りましたが、帰る時にお嬢様が新三郎に

貴方あなたまた来て下さらなければわたくしは死んでしまいますよ」

 と無量の情を含んで言われた言葉が、新三郎の耳に残り、しばしも忘れるひまはありませなんだ。


        三


 さても飯島様のおやしきかたにては、お妾お國が腹一杯の我儘わがまゝを働くうち、今度かゝえ入れた草履取ぞうりとり孝助こうすけは、年頃二十一二にて色白の綺麗な男ぶりで、今日しも三月二十二日殿様平左衞門様にはお非番でいらっしゃれば、庭先へて、彼方此方あちらこちらを眺めおられる時、此の新参の孝助を見掛け。

平「これ〳〵手前は孝助と申すか」

孝「へい殿様には御機嫌よろしゅう、わたくしは孝助と申しまする新参者でございます」

平「其の方は新参者でも蔭日向かげひなたなくよく働くといって大分だいぶ評判がよく、皆のうけがよいぞ、年頃は二十一二と見えるが、人品ひとがらといい男ぶりといい草履取には惜しいものだな」

孝「殿様には此の間中あいだじゅう御不快でございましたそうで、お案じ申上げましたが、さしたる事もございませんか」

平「おゝよく尋ねて呉れた、別にさしたる事もないが、して手前は今まで何方いずかたへか奉公をした事があったか」

孝「へい只今まで方々奉公も致しました、ず一番先に四谷よツや金物商かなものやへ参りましたが一年程居りまして駈出かけだしました、それから新橋しんばし鍜冶屋かじやへ参り、三つき程過ぎて駈出し、又仲通なかどおりの絵草紙屋えぞうしやへ参りましたが、十で駈出しました」

平「其の方のようにそうきては奉公は出来ないぞ」

孝「いえわたくしきっぽいのではございませんが、私はどうぞして武家奉公が致したいと思い、其の訳を叔父に頼みましても、叔父は武家奉公は面倒だから町家ちょうかけと申しまして彼方此方あちらこちら奉公にやりますから、私も面当つらあてに駈出してやりました」

平「其の方は窮屈な武家奉公をしたいというのは如何いかゞな訳じゃ」

孝「へい、わたくしは武家奉公を致しお剣術を覚えたいのでへい」

平「はて剣術が好きとな」

孝「へい番町ばんちょう栗橋くりはし様が御当家様こちらさまは、真影流しんかげりゅう御名人ごめいじんと承わりました故、うぞして御両家の内へ御奉公にあがりたいと思いましていましたところ漸々よう〳〵の思いで御当家様こちらさまへお召抱めしかゝえに相成り、念が届いて有難うございます、どうぞお殿様のおひまの節には、少々ずつにてもお稽古が願われようかと存じまして参りました、御当家様こちらさまに若様でもいらっしゃいます事ならば、若様のおもりをしながら皆様がお稽古を遊ばすのをお側で拝見致していましても、型ぐらいは覚えられましょうと存じましたに、若様はいらっしゃらず、お嬢様には柳島の御別荘にいらっしゃいまして、お年はお十七とのこと、これが若様なれば余程よっぽどよろしゅうございますに、お武家様にお嬢様はくそったれでございますなア」

平「はゝゝ、遠慮のない奴、これはおおきにさようだ、武家では女は実に糞ったれだのう」

孝「うっかりと飛んでもない事を申上げ、お気にさわりましたら御勘弁をねがいます、どうぞ只今もお願い申上げまする通りお暇の節にはお剣術を願われますまいか」

平「此の程は役がかわってから稽古場もなく、誠に多端たゝんではあるが、ひまの節に随分教えてもやろう、其のほうの叔父は何商売じゃの」

孝「へいあれは本当の叔父ではございません、親父おやじ店受たなうけで、ちょっと間に合わせの叔父でございます」

平「何かえ母親おふくろ幾歳いくつになるか」

孝「母親おふくろわたくし四歳よッつの時に私を置去りに致しまして、越後の国へ往ってしまいましたそうです」

平「左様か、大分だいぶ不人情の女だの」

孝「いえ、それと申しまするのも親父の不身持ふみもち愛想あいそうを尽かしての事でございます」

平「親父はまだ存生ぞんしょうか」

 と問われて、孝助は

「へい」

 と云いながら悄々しお〳〵として申しまするには、

「親父も亡くなりました、わたくしには兄弟も親類もございませんゆえ、たれあって育てる者もないところから、店受たなうけ安兵衞やすべえさんに引取られ、四歳よッつの時から養育を受けまして、只今では叔父分となり、斯様かように御当家様へ御奉公に参りました、どうぞ何時いつまでもお目掛けられて下さいませ」

 と云いさしてハラ〳〵と落涙らくるいを致しますから、飯島平左衞門様も目をしばたゝき、

平「感心な奴だ、手前ぐらいな年頃には親の忌日きにちさえ知らずに暮らすものだに、親はと聞かれて涙を流すとは親孝行な奴じゃて、親父は此の頃亡くなったのか」

孝「へい、親父の亡くなりましたはわたくし四歳よッつの時でございます」

平「それでは両親の顔も知るまいのう」

孝「へい、ちっとも存じませんが、わたくしの十一歳の時に始めて店受たなうけの叔父から母親おふくろの事や親父の事も聞きました」

平「親父はどうして亡くなったか」

孝「へい、斬殺きりころされて」

 と云いさしてわっとばかりに泣き沈む。

平「それは又如何いかゞの間違いで、とんでもない事であったのう」

孝「左様でございます、只今より十八年以前、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申しまする刀屋の前で斬られました」

平「それは何月幾日いくかの事だの」

孝「へい、四月十一日だと申すことでございます」

平「シテ手前の親父はなんと申す者だ」

孝「元は小出様の御家来にて、お馬廻うまゝわりの役を勤め、食禄しょくろく百五十石を頂戴致して居りました黒川孝藏と申しました」

 と云われて飯島平左衞門はギックリと胸にこたえ、びっくりし、指折り数うれば十八年以前いさゝかの間違いから手に掛けたは此の孝助の実父で有ったか、おれを実父のあだと知らず奉公に来たかと思えばなんとやら心悪く思いましたが、素知らぬ顔して、

平「それはさぞ残念に思うで有ろうな」

孝「へい親父の仇討かたきうちが致しとうございますが、何を申しますにも相手は立派なお侍様でございますから、どう致しても剣術を知りませんでは親の仇討は出来ませんゆえ、十一歳の時から今日きょうまで剣術を覚えたいと心掛けて居りましたが、漸々よう〳〵のことで御当家様にまいりまして、誠に嬉しゅうございます、是からはお剣術を教えていたゞき、覚えました上は、それこそ死にもの狂いに成って親のかたきを討ちますから、どうぞ剣術を教えて下さいませ」

平「孝心な者じゃ、教えてやるが手前は親のかたきを討つというが、敵の面体めんていを知らんで居て、相手は立派な剣術遣けんじゅつつかいで、もし今おれが手前の敵だと云ってみす〳〵鼻の先へ敵が出たら其の時は手前どうするか」

孝「困りますな、みす〳〵鼻の先へかたきが出れば仕方がございませんから、立派な侍でもなんでもかまいません、とびついて喉笛のどぶえでも喰い取ってやります」

平「気性きしょうな奴だ、心配いたすな、かたきの知れた其の時は、此の飯島が助太刀すけだちをして敵を屹度きっと討たせてやるから、心丈夫に身をいとい、随分大切に奉公をしろ」

孝「殿様本当にあなた様が助太刀をして下さいますか、有難う存じます、殿様がお助太刀をして下さいますれば、かたきの十人位は出て参りましても大丈夫です、あゝ有難うございます、有難うございます」

平「おれが助太刀をしてやるのをそれ程までに嬉しいか可愛かわいそうな奴だ」

 と飯島平左衞門は孝心に感じ、おりを見てみずから孝助のかたき名告なのり、討たれてやろうと常に心に掛けて居りました。


        四


 さて萩原新三郎は山本志丈と一緒に臥竜梅へ梅見に連れられ、その帰るさにの飯島の別荘に立寄り、不図ふと彼の嬢様の姿を思い詰め、互いに只手を手拭てぬぐいの上から握り合ったばかりで、実に枕を並べて寝たよりもなお深く思い合いました。昔のものは皆こういう事に固うございました。ところが当節のお方はちょっと洒落しゃれ半分に

「君ちょっと来たまえ、雑魚寝ざこねで」

 と、男がいえば、女の方で

「おふざけでないよ」

 又男の方でも

「そう君のように云っては困るねえ、いやなら否だと判然はっきり云い給え、否なら又ほかを聞いて見よう」

 と明店あきだなか何かを捜す気に成っている位なものでございますが、萩原新三郎はあのお露どのと更にいやらしい事は致しませんでしたが、実に枕をも並べて一ツ寝でも致したごとく思い詰めましたが、新三郎は人が良いものですから一人で逢いにくことが出来ません、逢いに参って万一ひょっと飯島の家来にでも見付けられてはと思えばく事もならず、志丈が来れば是非お礼旁々かた〴〵きたいものだと思っておりましたが、志丈は一向に参りません。志丈も中々さるものゆえ、あの時萩原とお嬢との様子がおかしいから、万一まんいちの事があって、事のあらわれた日には大変、坊主首ぼうずッくびを斬られなければならん、これは危険けんのん君子くんしあやうきに近寄らずというからかぬ方がよいと、二月三月四月と過ぎても一向に志丈が訪ねて来ませんから、新三郎はひとりくよ〳〵お嬢のことばかり思い詰めて、食事もろく〳〵進みませんで居りますと、或日あるひのこと孫店まごだなに夫婦暮しで住む伴藏ともぞうと申す者が訪ねて参り。

伴「旦那様、此の頃は貴方様あなたさまうなさいました、ろく〳〵御膳ごぜんあがりませんで、今日はお昼食ひるもあがりませんな」

新「あゝ食べないよ」

伴「あがらなくっちゃアいけませんよ、今の若さに一膳半ぐらいの御膳があがれんとは、わたくしなどは親椀おやわんで山盛りにして五六杯も喰わなくっちゃアちっとも物を食べたような気持が致しやせん、あなた様はちっとも外出そとでをなさいませんな、此の二月でしたっけナ、山本さんと御一緒に梅見にお出掛けに成って、何か洒落しゃれをおっしゃいましたっけナ、ちっと御保養をなさいませんと本当に毒ですよ」

新「伴藏貴様はあのつりが好きだっけな」

伴「へい釣は好きのなんのッて、本当におまんまより好きでございます」

新「左様か、そうならば一緒に釣に出掛けようかのう」

伴「あなたはたしか釣はお嫌いではありませんか」

新「なんだか急にむか〳〵と釣が好きになったよ」

伴「へい、むか〳〵とお好きに成って、そして何方どちらへ釣にいらっしゃるお積りで」

新「そうサ、柳島の横川で大層釣れるというから彼処あすここうか」

伴「横川というのはの中川へ出るところですかえ、そうしてあんな処で何が釣れますえ」

新「大きなかつおが釣れるとよ」

伴「馬鹿な事をおっしゃい、川で鰹が釣れますものかね、たか〴〵いなか䲙ぐらいのものでございましょう、兎も角もいらっしゃるならばお供をいたしましょう」

 と弁当の用意を致し、酒を吸筒すいづゝへ詰込みまして、神田の昌平橋しょうへいばしの船宿から漁夫りょうしを雇い乗出のりだしましたれど、新三郎は釣はしたくはないが、たゞ飯島の別荘のお嬢の様子を垣の外からなりとも見ましょうとの心組こゝろぐみでございますから、新三郎は持って来た吸筒の酒にグッスリと酔って、船の中で寝込んでしまいましたが、伴藏は一人で日のくれるまで釣を致して居ましたが、新三郎が寝たようだから、

伴「旦那え〳〵お風をひきますよ、五月頃は兎角冷えますから、旦那え〳〵、是は余りお酒を勧めすぎたかな」

 新三郎はふと見ると横川のようだから。

新「伴藏こゝは何処どこだ」

伴「へい此処こゝは横川です」

 と云われてかたえの岸辺を見ますと、二重の建仁寺けんにんじの垣にくゞり門がありましたが、是はたしかに飯島の別荘と思い、

新「伴藏や一寸ちょっと此処こゝへ着けて呉れ、一寸行って来る所があるから」

伴「こんな所へ着けて何方どちらへ入らっしゃるのですえ、わッちも御一緒に参りましょう」

新「お前は其処そこに待っていなよ」

伴「だってそのための伴藏ではございませんか、お供を致しましょう」

新「野暮やぼだのう、色にはなまじ連れは邪魔よ」

伴「イヨお洒落しゃれでげすね、うがすねえ」

 という途端に岸に船を着けましたから、新三郎は飯島の門の処へまいり、ブル〳〵ふるえながらそっとうちの様子をのぞき、門が少し明いてるようだから押して見ると明いたから、ずっと中へ這入はいり、かねて勝手を知っている事ゆえ、だん〳〵と庭伝いに参り、泉水縁せんすいべりに赤松の生えてある処から生垣いけがきに附いて廻れば、こゝは四畳半にて嬢様のお部屋でございました。お露も同じ思いで、新三郎に別れてから其の事ばかり思い詰め、三月からわずらって居ります所へ、新三郎は折戸おりどの所へ参り、そっとうちの様子をのぞき込みますと、うちでは嬢様は新三郎の事ばかり思い続けて、たれを見ましても新三郎のように見える処へ、本当の新三郎が来た事ゆえ、ハッと思い

貴方あなたは新三郎さまか」

 と云えば、

新「静かに〳〵、其のは大層に御無沙汰を致しました、鳥渡ちょっとお礼にあがるんでございましたが、山本志丈があれぎり参りませんものですから、わたくし一人では何分なにぶん間が悪くッて上りませんだった」

露「よくまアいらっしゃいました」

 ともう耻しいことも何も忘れてしまい、無理に新三郎の手を取っておあがり遊ばせと蚊帳かやの中へ引きずり込みました。お露は只もう嬉しいのが込み上げて物が云われず、新三郎の膝に両手を突いたなりで、嬉し涙を新三郎の膝にホロリとこぼしました。これが本当の嬉し涙です。他人の所へくやみに行って零す空涙そらなみだとは違います。新三郎ももう是までだ、知れても構わんと心得、蚊帳のうちたがいに嬉しき枕をかわしました。

露「新三郎さま、是はわたくしかゝさまから譲られました大事な香箱こうばこでございます、どうか私の形見と思召おぼしめしお預り下さい」

 と差出さしだすを手に取って見ますと、秋野に虫の象眼入ぞうがんいりの結構な品で、お露は此のふたを新三郎に渡し、自分は其の身のほうを取って互に語り合う所へ、へだてのふすまをサラリと引き明けて出て来ましたは、おつゆの親御おやご飯島平左衞門様でございます。両人は此のていを見てハッとばかりにびっくり致しましたが、逃げることもならず、唯うろ〳〵して居る所へ、平左衞門は雪洞ぼんぼりをズッとさしつけ、声をいからし。

平「コレ露これへ出ろ、又貴様は何者だ」

新「へい、手前は萩原新三郎と申す粗忽そこつの浪士でございます、誠に相済みません事を致しました」

平「露、手前はヤレ國がどうのこうの云うの、親父おやじがやかましいの、どうか閑静な所へきたいのと、さま〴〵の事を云うから、此の別荘に置けば、斯様かようなる男を引きずり込み、親の目をかすめて不義を働きたいめに閑地かんち引込ひきこんだのであろう、これかりそめにも天下御直参ごじきさんの娘が、男を引入れるという事がパッと世間に流布るふ致せば、飯島は家事不取締かじふとりしまりだと云われ家名かめいけがし、第一御先祖へ対して相済まん、不孝不義の不届ふとゞきものめが、手打てうちにするから左様心得ろ」

新「しばらくお待ち下さい、其のお腹立はらだち重々じゅう〴〵御尤ごもっともでございますが、お嬢様がわたくしを引きずり込み不義を遊ばしたのではなく、手前が此の二月始めて罷出まかりいでまして、お嬢様をそゝのかしたので、全く手前の罪でお嬢様には少しもおとがはございません、どうぞ嬢様はお助けなすって私を」

露「いゝえ、お父様とっさまわたくしが悪いのでございます、どうぞ私をお斬り遊ばして、新三郎様をばお助け下さいまし」

 とたがいに死を争いながら平左衞門の側へ摺寄すりよりますと、平左衞門は剛刀ごうとうをスラリと引抜ひきぬき、

誰彼たれかれ容赦ようしゃはない、不義は同罪、娘から先へ斬る、観念しろ」

 と云いさま片手なぐりにヤッとくだした腕のえ、島田の首がコロリと前へ落ちました時、萩原新三郎はアッとばかりに驚いて前へのめる処を、ほゝよりあごへ掛けてズンと切られ、ウーンと云って倒れると。

伴「旦那え〳〵大層うなされていますね、おそろしい声をしてびっくりしました、風邪を引くといけませんよ」

 と云われて新三郎はやっと目をさまし、ハアと溜息ためいきをついて居るから。

伴「うなさいましたか」

新「伴藏やおれの首が落ちては居ないか」

 と問われて、

伴「そうですねえ、船舷ふなべり煙管きせるを叩くと雁首がんくびが川の中へ落っこちて困るもんですねえ」

新「そうじゃアない、己の首が落ちはしないかという事よ、何処どこにもきずが付いてはいないか」

伴「何を御冗談をおっしゃる、疵も何も有りは致しません」

 と云う。新三郎はお露にうにもして逢いたいと思い続けているものだから、其の事を夢に見てビッショリ汗をかき、辻占つじうらが悪いから早く帰ろうと思い

「伴藏早く帰ろう」

 と船を急がして帰りまして、船が着いたからあがろうとすると。

伴「旦那こゝにこんな物が落ちて居ります」

 と差出さしいだすを新三郎が手に取上とりあげて見ますれば、飯島の娘と夢のうちにて取交とりかわした、秋野に虫の模様の付いた香箱の蓋ばかりだから、ハッとばかりに奇異きたいおもいを致し、うして此の蓋が我手わがてにある事かとびっくり致しました。


        五


 話かわって、飯島平左衞門は凛々りゝしい智者ちえしゃにて諸芸に達し、とりわけ剣術は真影流の極意ごくいきわめました名人にて、おとし四十ぐらい、人並ひとなみすぐれたお方なれども、妾の國というが心得違いの奴にて、内々ない〳〵隣家となりの次男源次郎げんじろう引込ひきこみ楽しんで居りました。お國は人目をはゞかり庭口のひらき戸を明け置き、此処こゝより源次郎を忍ばせる趣向しゅこうで、殿様のお泊番とまりばんの時には此処から忍んで来るのだが、奥向きの切盛きりもりは万事妾の國がする事ゆえ、たれも此の様子を知る者は絶えてありません。今日しも七月二十一日殿様はお泊番の事ゆえ、源次郎を忍ばせようとの下心したごゝろで、庭下駄をの開き戸の側に並べ置き、

國「今日は熱くってたまらないから、風を入れないでは寝られない、雨戸を少しすかして置いてお呉れよ」

 と云附いいつけ置きました。さて源次郎は皆寝静まッたる様子をうかゞい、そっと跣足はだしで庭石を伝わり、雨戸の明いた所からあがり、お國の寝間に忍び寄れば、

國「源次郎さま大層に遅いじゃアありませんか、わたくしうなすッたかと思いましたよ、あんまりですねえ」

源「わたくしも早く来たいのだけれども、兄上もお姉様あねえさまもお母様はゝさまもお休みにならず、奉公人までが皆熱い〳〵と渋団扇しぶうちわを持って、あおぎ立てゝ凉んでいて仕方がないから、今まで我慢して、よう〳〵の思いで忍んで来たのだが、人に知れやアしないかねえ」

國「大丈夫知れッこはありませんよ、殿様があなたを御贔屓ごひいきに遊ばすから知れやアしませんよ、あなたの御勘当ごかんどうりてから此のうち度々たび〳〵いでになれるように致しましたのも、皆わたくしが側で殿様へ旨くとりなし、あなたをよく思わせたのですよ、殿様はなか〳〵凛々りゝしいお方ですから、貴方あなたと私とのなかが少しでも変な様子があれば気取けどられますのだが、ちっとも知れませんよ」

源「実に伯父さまは一通りならざる智者ちしゃだから、わたくしは本当に怖いよ、私も放蕩ほうとうを働き、大塚おおつかの親類へ預けられていたのを、当家こちらの伯父さんのおかげうちへ帰れるように成った、其の恩人の寵愛ちょうあいなさるお前とうやっているのが知れては実に済まないよ」

國「あゝいう事をおっしゃる、あなたは本当にじょうがありませんよ、わたくし貴方あなたのためなら死んでも決していといませんよ、なんですねえ、そんな事ばかり仰しゃって、私のそばへ来ない算段ばかり遊ばすのですものを、アノ源さま、こちらのうちでも此の間お嬢様がおかくれになって、今はほか御家督ごかとくがありませんから、是非とも御夫婦養子をせねばなりません、それについてはお隣の源次郎様をと内々ない〳〵殿様にお勧め申しましたら、殿様が源次郎はまだ若くッて了簡りょうけんが定まらんからいかんと仰しゃいましたよ」

源「そうだろう、恩人の愛妾あいしょうの所へ忍び来るような訳だから、どうせ了簡が定まりゃアしないや」

國「わたくしは殿様の側に何時いつまでも附いていて、殿様が長生ながいきをなすって、貴方あなたほかへ御養子にでも入らっしゃれば、お目にかゝる事は出来ません、其の上綺麗な奥様でもお持ちなさろうものなら、國のくの字も仰しゃる気遣きづかいはありませんよ、それですから貴方が本当に信実しんじつがおあり遊ばすならば、私のねがいかなえて、うちの殿様を殺して下さいましな」

源「情があるから出来ないよ、わたくしめには恩人の伯父さんだもの、うしてそんな事が出来るものかね」

國「こうなる上からは、もう恩も義理もありはしませんやね」

源「それでも伯父さんは牛込名代なだいの真影流の達人だから、手前如きものが二十人ぐらい掛ってもかなう訳のものではないよ、其の上わたくしは剣術がごく下手へただもの」

國「そりゃア貴方あなたはお剣術はお下手へーたさね」

源「そんなにオヘータと力を入れて云うには及ばない、それだからうもいけないよ」

國「貴方は剣術はお下手へただが、よく殿様と一緒につりにいらっしゃいましょう、アノ来月四日はたしか中川へ釣にいらっしゃるお約束がありましょう、其の時殿様を船から川の中へ突落つきおとして殺しておしまいなさいよ」

源「成程伯父さんは水練すいれんを御存じないが、矢張り船頭がいるからいけないよ」

國「船頭を斬ってお仕舞い遊ばせな、なんぼ貴方が剣術がお下手でも、船頭ぐらいは斬れましょう」

源「それは斬れますとも」

國「殿様が落ちたというので、貴方は立腹して、早く探させてはいけませんよ、いろ〳〵理窟りくつをなが〳〵と二時ふたときばかりも言っていてそれから船頭に探させ、死骸を船にげてから不届ふとゞきな奴だといって船頭を斬ってお仕舞いなさい、それから帰りみち船宿ふなやどに寄って、船頭が麁相そそうで殿様を川へ落し、殿様は死去されたれば、手前は言訳いいわけがないから船頭は其の場で手打てうちに致したが、船頭ばかりでは相済まんぞ、亭主其の方も斬って仕舞うのだが、内分ないぶんで済ませてつかわすにより、此の事は決して口外致すなと仰しゃれば、船宿の亭主も自分の命にかゝわる事ですから口外する気遣きづかいはありません、それから貴方はおやしきへお帰りになって、知らん顔でいて、お兄様あにいさま隣家となりでは家督かとくがないから早く養子にってくれ〳〵と仰しゃれば、此方こなたは別に御親類もないからおかしらに話を致し、貴方を御養子のお届けを致しますまでは、殿様は御病気の届けを致して置いて、貴方の家督相続が済みましてから、殿様の死去のお届を致せば、貴方は此家こちらの御養子様、そうするとわたくし何時いつまでも貴方の側にへばり附いていて動きません、此方こちらうちは貴方のお家より、余程よっぽど大尽だいじんですから、召物めしものでもお腰のものでも結構なのが沢山ありますよ」

源「これは旨い趣向だ、考えたね」

國「わたくしは三日三晩寝ずに考えましたよ」

源「是は至極しごくよろしい、どうも宜しい」

 と源次郎は慾張よくばり助平すけべいとが合併して乗気のりきに成り、両人がひそ〳〵語り合っているを、忠義無類の孝助という草履取が、御門ごもんの男部屋に紙帳しちょうを吊って寝て見たが、何分にも熱くって寝付かれないものだから、渋団扇しぶうちわを持って、

「どうも今年の様に熱い事はありゃアしない」

 と云いながら、お庭をぶら〴〵歩いていると、板塀いたべいの三じゃくひらきがバタリ〳〵と風にあおられているのを見て、

孝「締りをして置いたのにうしていたのだろう、おや庭下駄が並べてあるぞ、だれが来たな、隣家となりの次男めがお國さんと様子がおかしいから、ことによったら密通くッついているのかも知れん」

 と抜足ぬきあししてそっと此方こなたへまいり、沓脱石くつぬぎいしへ手を支えて座敷の様子をうかゞうと、自分が命を捨てゝも奉公をいたそうと思っている殿様を殺すという相談に、孝助はおおいにいかり、としはまだ二十一でございますが、負けない気性だから、怒りの余り思わず知らずガッと鼻を鳴らす。

源「お國さんたれか来たようだよ」

國「貴方あなたは本当に臆病おくびょうで入らっしゃるよ、たれも参りは致しません」

 と耳を立てゝ聞けば人の居る様子ですから、

國「だれだえ、其処そこに居るのは」

孝「へい孝助でございます」

國「本当にまアあきれますよ、夜夜中よるよなか奥向おくむきの庭口へ這入はいり込んで済みますかえ」

孝「熱くッて〳〵仕様がございませんから凉みに参りました」

國「今晩は殿様はお泊番とまりばんだよ」

孝「毎月まいげつ二十一日のお泊番は知っています」

國「殿様のお泊番を知りながらなぜ門番をしない、御門番ごもんばんは御門をさえ堅く守ってればいのに、熱いからといって女ばかりいる庭先へ来てすみますか」

孝「へい御門番だからといって御門計りを守ってはりませんへい、庭も奥も守ります、へい方々ほう〴〵を守るのが役でございます、御門番だからと申して奥へ盗賊どろぼうが這入り、殿様とチャン〳〵切合きりあっているに門ばかり見てはいられません」

國「新参者のくせに、殿様のお気に入りだものだから、此の節では増長して大層お羽振はぶりいよ、奥向を守るのはわたしの役だ、部屋へ帰って寝てお仕舞い」

孝「そうですか、貴方が奥向のお守りをして、斯様かよう三尺戸さんじゃくどを開けて置いてよろしゅうございますか、庭口の戸が開いていると犬が這入って来ます、なんでも犬畜生の恩も義理も知らん奴が、殿様の大切にして入らっしゃるものをむしゃ〳〵喰っていますから、わたくしは夜通し此処こゝ張番はりばんをしています、此所こゝに下駄が脱いでありますから、何でも人間が這入ったに違いはありません」

國「そうサ、先刻さっきお隣の源さまが入らっしゃったのサ」

孝「へえ、源さまがなに御用で入らっしゃいました」

國「なんの御用でもいじゃアないか、草履取の身の上でお前は御門さえ守っていればよいのだよ」

孝「毎月まいげつ二十一日は殿様お泊番の事は、お隣の御次男様もよく御存じでいらっしゃいますに、殿様のお留守の処へおいでに成って、御用が足りるとはこりゃア変でございますな」

國「何が変だえ、殿様に御用があるのではない」

孝「殿様に御用ではなく、あなたに内証ないしょうの御用でしょう」

國「おや〳〵お前はそんな事を言って私を疑ぐるね」

孝「何も疑ぐりはしませんのに、疑ぐると思うのが余程よっぽどおかしい、夜夜中女ばかりの処へ男が這入り込むのはうもおかしいと思ってもかろうと思います」

國「お前はまアとんでもない事を云って、お隣の源さまにすまないよ、あんまりじゃアないか、お前だって私の心を知っているじゃアないか」

 と、両人の争って居るのを聞いていた源次郎は、人の妾でもろうという位な奴だからなか〳〵抜目ぬけめはありません。そして其の頃は若殿と草履取とはお羽振が雲泥うんでいの違いであります、源次郎はずっと出て来て、

源「これ〳〵孝助何を申す、是へ出ろ」

孝「へい何か御用で」

源「手前今承れば、何かお國殿とおれと何か事情わけでもありそうにいうが、己も養子にく出世前の大切な身体だ、もっとも一旦放蕩ほうとうをして勘当かんどうをされ、大塚の親類共へ預けられたから、左様思うも無理もないようだが、左様な事を云い掛けられては捨置すておきにならんぞ」

孝「御大切ごたいせつの身の上を御存じなれば何故なぜ夜夜中女一人のところへおいでなされました、あなた様が御自分にきずをお付けなさる様なものでございます、貴方あなただッて男女なんにょ七歳にして席をおなじゅうせず、瓜田かでんくつれず、李下りかかんむりを正さず位の事はわきまえておりましょう」

源「黙れ左様な無礼な事を申して、し用があったらどう致す、イヤサ御主人がお留守でも用の足りる仔細しさいがあったらうする積りだ」

孝「殿様がお留守で御用の足りるはずはありません、へい若しありましたら御存分になさいまし」

源「しからば是を見い」

 と投げ出す片紙はがみ書面しょめん。孝助は手に取上とりあげて読みくだすに、

ぴつ申入候もうしいれそろ過日御約束致置候いたしおきそろ中川漁船こうの儀は来月四日と致度いたしたくついては釣道具大半なかば破損致し居候間おりそろあいだ夜分にても御閑おひまの節御入来之上ごじゅらいのうえ右釣道具御繕おんつくろい直し被下候様奉願上候くだされたくねがいたてまつりそろ

飯島平左衞門

源次郎殿

 と孝助がよく〳〵見れば全く主人の手蹟しゅせきだから、これはと思うと。

源「どうだ手前は無筆ではあるまい、夜分にてもよいから来て釣道具を直して呉れろとの頼みの状だ、今夜は熱くて寝られないから、釣道具を直しに参った、しかるを手前から疑念を掛けられ、悪名あくみょうを附けられ、はなはだ迷惑致す、貴様は如何いかゞ致す積りか」

孝「左様な御無理を仰しゃっては誠に困ります、此の書付かきつけさえなければ喧嘩けんかわたくしかちだけれども、書付が出たから私の方がまけに成ったのですが、何方どっちが悪いかとくと貴方あなたの胸に聞いて御覧遊ばせ、私は御当家様の家来でございます、無闇に斬っては済みますまい」

源「うぬの様なけがれたやっこを斬るかえ、打殺ぶちころしてしまうわ、何か棒はありませんか」

國「此処こゝにあります」

 とお國が重籐しげとうの弓のおれ取出とりだし、源次郎に渡す。

孝「貴方様あなたさま左様そんな御無理な事をして、わたくしのような虚弱ひよわい身体にきずでも出来ましては御奉公が勤まりません」

源「えい手前疑ぐるならば表向きに云えよ、何を証拠に左様さようなことを申す、其のくらいならなぜお國殿と枕を並べているところへ踏み込まん、拙者せっしゃは御主人から頼まれたから参ったのだ、憎い奴め」

 と云いながらはたとつ。

孝「いとうございます、貴方あなた左様な事を仰しゃっても、とくと胸に聞いて御覧遊ばせ、虚弱ひよわい草履取をおちなすッて」

源「黙れ」

 といいざまヒュウ〳〵と続けちに十二三もちのめせば、孝助はヒイ〳〵と叫びながら、ころ〳〵ところげ𢌞り、さもうらめしげに源次郎の顔をにらむ所を、トーンと孝助の月代際さかやきゞわ打割うちわったゆえ黒血くろちがタラ〳〵と流れる。

源「ぶち殺してもいゝ奴だが、命だけは助けてくれる、向後こうご左様の事を言うと助けては置かぬぞ、お國どのわたくしはもう御当家へは参りません」

國「アレ入らっしゃらないとなお疑ぐられますよ」

 と云うを聞入きゝいれず、源次郎は是を機会しお跣足はだしにて根府川石ねぶかわいし飛石とびいしを伝いて帰りました。

國「お前が悪いからたれたのだよ、お隣の御二男様に飛んでもない事を云って済まないよ、お前こゝにいられちゃア迷惑だから出て行ってお呉れ」

 と云いながら、痛みに苦しむ孝助の腰をトンと突いて、庭へ突きおとすはずみに、根府川石に又痛く膝をち、アッと云って倒れると、お國は雨戸をピッシャリ締めて奥へる。あとに孝助くやしき声を震わせ、

畜生奴ちくしょうめ〳〵、犬畜生奴、自分達の悪い事を余所よそにして私をひどい目に逢わせる、殿様がお帰りになれば申上げて仕舞おうか、いや〳〵し此の事を表向きに殿様に申上げれば、屹度きっとあの両人と突合つきあわせに成ると、向うには証拠の手紙があり、此方こっちは聞いたばかりの事だからどう云うても証拠になるまい、ことには向うは二男の勢い、此方こちらは悲しいかな草履取の軽い身分だから、おとなりづからの義理でも私はおいとまになるに相違ない、私がいなければ殿様は殺されるに違いない、これはいっその事源次郎お國の両人をやりで突き殺して、自分は腹を切ってしまおう」

 と、忠義無二の孝助が覚悟を定めましたが、さて此のあとはうなりますか。


        六


 萩原新三郎は、独りクヨ〳〵として飯島のお嬢の事ばかり思い詰めていますところへ、おりしも六月二十三日の事にて、山本志丈が訪ねて参りました。

志「其のは存外の御無沙汰を致しました、ちょっとうかゞうべきでございましたが、如何いかにも麻布辺からの事ゆえ、おッくうでもありかつ追々おい〳〵お熱く成って来たゆえ、藪医やぶいでも相応に病家びょうかもあり、何ややで意外の御無沙汰、貴方あなたうもお顔の色がくない、なにお加減がわるいと、それは〳〵」

新「何分にも加減がわるく、四月の中旬頃なかばごろからどっと寝て居ります、飯もろく〳〵たべられない位で困ります、お前さんもあれぎり来ないのはあんまひどいじゃアありませんか、わたくしも飯島さんのところへ、ちょっと菓子折かしおりの一つも持ってお礼にきたいと思っているのに、君が来ないから私はきそこなっているのです」

志「さて、あの飯島のお嬢も、可愛かわいそうに亡くなりましたよ」

新「えゝお嬢が亡くなりましたとえ」

志「あの時僕が君を連れて行ったのがあやまりで、向うのお嬢がぞっこん君に惚れ込んだ様子だ、あの時何か小座敷で訳があったに違いないが、深い事でもなかろうが、もし其の事が向うの親父おやじさまにでも知れた日には、志丈が手引てびきした憎い奴め、斬って仕舞う、坊主首ぼうずッくびち落す、といわれては僕も困るから、実はあれぎり参りもせんでいたところ、不図ふと此の間飯島のおやしきへまいり、平左衞門様にお目にかゝると、娘は歿みまかり、女中のお米も引続ひきつゞき亡くなったと申されましたから、段々様子を聞きますと、全く君にこがじにをしたという事です、本当に君は罪造りですよ、男もあんまく生れると罪だねえ、死んだものは仕方がありませんからお念仏でも唱えてお上げなさい、左様なら」

新「あれさ志丈さん、あゝって仕舞った、お嬢が死んだなら寺ぐらいは教えてくれゝばいゝに、聞こうと思っているうちに行って仕舞った、いけないねえ、しかしお嬢は全くおれに惚れ込んで己を思って死んだのか」

 と思うとカッと逆上のぼせて来て、根が人がよいから猶々なお〳〵気が欝々うつ〳〵して病気が重くなり、それからはお嬢の俗名ぞくみょうを書いて仏壇に備え、毎日々々念仏三まいで暮しましたが、今日しも盆の十三日なれば精霊棚しょうりょうだな支度したくなどを致してしまい、縁側へちょっと敷物を敷き、蚊遣かやりくゆらして、新三郎は白地の浴衣ゆかたを着、深草形ふかくさがた団扇うちわを片手に蚊を払いながら、え渡る十三日の月を眺めていますと、カラコン〳〵と珍らしく下駄の音をさせて生垣いけがきの外を通るものがあるから、不図見れば、きへ立ったのは年頃三十位の大丸髷おおまるまげの人柄のよい年増としまにて、其の頃流行はやった縮緬細工ちりめんざいく牡丹ぼたん芍薬しゃくやくなどの花の附いた灯籠をげ、其のあとから十七八とも思われる娘が、髪は文金ぶんきん高髷たかまげに結い、着物は秋草色染あきくさいろぞめ振袖ふりそでに、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん繻子しゅすの帯をしどけなく締め、上方風かみがたふう塗柄ぬりえ団扇うちわを持って、ぱたり〳〵と通る姿を、月影にすかし見るに、うも飯島の娘お露のようだから、新三郎は伸びあがり、首を差し延べて向うを見ると、向うの女も立止まり、

女「まア不思議じゃアございませんか、萩原さま」

 と云われて新三郎もそれと気が付き、

新「おや、お米さん、まアどうして」

米「誠に思いがけない、貴方様あなたさまはお亡くなり遊ばしたという事でしたに」

新「へえ、ナニあなたの方でお亡くなり遊ばしたと承わりましたが」

米「いやですよ、縁起の悪い事ばかり仰しゃって、誰が左様な事を申しましたえ」

新「まアおはいりなさい、其処そこ折戸おりどのところを明けて」

 と云うから両人内へ這入はいれば、

新「誠に御無沙汰を致しました、先日山本志丈が来まして、あなた方御両人ともお亡くなりなすったと申しました」

米「おやまア彼奴あいつが、わたくしの方へ来ても貴方がお亡くなり遊ばしたといいましたが、私の考えでは、貴方様はお人がよいものだから旨くだましたのです、お嬢様はおやしきに入らっしゃっても貴方の事ばかり思って入らっしゃるものだから、つい口に出て迂濶うっかりと、貴方の事を仰しゃるのが、ちら〳〵と御親父様ごしんぷさまのお耳にもはいり、又内にはお國という悪い妾がいるものですから邪魔を入れて、志丈に死んだと云わせ、たがいに諦めさせようと、國の畜生がした事に違いはありませんよ、貴方がお亡くなり遊ばしたという事をお聞き遊ばして、お嬢様はおいとしいこと、剃髪ていはつして尼に成ってしまうと仰しゃいますゆえ、そんな事を成すっては大変ですから、心でさえ尼に成った気で入らっしゃればよろしいと申上げて置きましたが、それでは志丈にそんな事をいわせ、互に諦めさせて置いて、お嬢さまに婿むこを取れと御親父さまから仰しゃるのを、お嬢様は、婿は取りませんからどうかおうちには夫婦養子をしてくださいまし、そしてほかへ縁付くのもいやだと強情をお張り遊ばしたものですから、お宅が大層に揉めて、親御おやごさまがそんなら約束でもした男があってそんな事を云うのだろうと、おこっても、一人のお嬢様で斬る事も出来ませんから、太い奴だ、そういう訳なら柳島にも置く事が出来ない、放逐ほうちくするというので、只今では私とお嬢様と両人おやしきを出まして、谷中やなか三崎さんさきへ参り、だいなしのいえ這入はいって居りまして、私が手内職などをして、どうかうか暮しを付けていますが、お嬢様は毎日々々お念仏三昧ざんまいで入らっしゃいますよ、今日は盆の事ですから、方々ほう〴〵お参りにまいりまして、おそく帰るところでございます」

新「なんの事です、そうでございますか、わたくしも嘘でもなんでもありません、此の通りお嬢さまの俗名を書いて毎日念仏しておりますので」

米「それ程に思って下さるは誠に有難うございます、本当にお嬢様は仮令たとい御勘当に成っても、斬られてもいゝから貴方のおなさけを受けたいと仰しゃって入らっしゃるのですよ、そしてお嬢様は今晩此方こちらへお泊め申しても宜しゅうございますかえ」

新「わたし孫店まごだなに住んで居る、白翁堂勇齋はくおうどうゆうさいという人相見にんそうみが、万事わたくしの世話をしてやかましい奴だから、それに知れないように裏からそっとお這入り遊ばせ」

 と云う言葉に随い、両人共に其の晩泊り、の明けぬ内に帰り、是より雨のも風の夜も毎晩来ては夜の明けぬ内に帰る事十三日より十九日まで七日なのかの間重なりましたから、両人が仲はうるしの如くにかわの如くになりまして新三郎もうつゝを抜かして居りましたが、こゝに萩原の孫店まごだなに住む伴藏というものが、聞いていると、毎晩萩原のうちにて夜夜中よるよなか女の話声はなしごえがするゆえ、伴藏は変に思いまして、旦那は人がよいものだから悪い女に掛り、だまされては困ると、そっと抜け出て、萩原のうちの戸の側へ行って家の様子を見ると、座敷に蚊帳かやを吊り、とこの上に比翼〓(「蓙」の左の「人」に代えて「口」)を敷き、新三郎とお露と並んで坐っているさまはまことの夫婦のようで、今は耻かしいのも何も打忘うちわすれてお互いに馴々なれ〳〵しく、

露「アノ新三郎様、わたくしし親に勘当されましたらば、米と両人をおうちへ置いて下さいますかえ」

新「引取ひきとりますとも、貴方あなたが勘当されゝば私は仕合しあわせですが、一人娘ですから御勘当なさる気遣きづかいはありません、かえってあと生木なまきかれるような事がなければいと思って私は苦労でなりませんよ」

露「わたくしは貴方よりほかおっとはないと存じておりますから、仮令たとい此の事がおとっさまに知れて手打てうちに成りましても、貴方の事は思い切れません、お見捨てなさるときゝませんよ」

 と膝にもたれ掛りてむつましく話をするは、よっぽどれている様子だから。

伴「これは妙な女だ、あそばせ言葉で、どんな女かよく見てやろう」

 と差しのぞいてハッとばかりに驚き、

化物ばけものだ〳〵」

 と云いながら真青まっさおになって夢中で逃出にげだし、白翁堂勇齋のところこうと思って駈出かけだしました。


        七


 飯島家にては忠義の孝助が、お國と源次郎の奸策わるだくみ一伍一什いちぶしゞゅう立聞たちぎゝ致しまして、孝助は自分の部屋へ帰り、もう是までと思い詰め、姦夫かんぷ姦婦かんぷを殺すよりほか手段てだてはないと忠心一に思い込み、それについては仮令たといおれは死んでも此のおやしきを出まい、殿様に御別条ごべつじょうのないように仕ようと、是から加減が悪いとて引籠ひきこもっており、翌朝よくちょうになりますと殿様はお帰りになり、残暑の強い時分でありますから、お國は殿様の側で出来たてのおそなえ見たように、団扇うちわであおぎながら、

國「殿様御機嫌よろしゅう、わたくしはもう殿様にお暑さのおあたりでもなければよいと毎日心配ばかりしています」

飯「留守へたれも参りは致さなかったか」

國「あの相川あいかわさまが一寸ちょっとお目通りが致したいと仰しゃって、お待ち申して居ります」

飯「ほウ相川新五兵衞しんごべえが、又医者でも頼みに参ったのかも知れん、いつもながら粗忽そゝっかしい爺さんだよ、まア此方こちらへ通せ」

 と云っていると相川は

「ハイ御免下さい」

 と遠慮もなく案内も乞わず、ズカ〳〵奥へ通り、

相「殿様お帰りあそばせ、御機嫌さま、誠に存外の御無沙汰を致しました、何時いつも相変らず御番疲ごばんづかれもなく、日々にち〳〵御苦労さまにぞんじます、厳しい残暑でございます」

飯「誠に熱い事で、おとくさまの御病気は如何いかゞでござるな」

相「娘の病気もいろ〳〵と心配も致しましたが、何分にも捗々はか〴〵しく参りませんで、それについて誠にどうも……アヽ熱い、お國さま先達せんだっては誠に御馳走様に相成あいなりまして有難う、まだお礼もろく〳〵申上げませんで、へえ、アヽ熱い、誠に熱い、どうも熱い」

飯「まア少し落着おちつけば風が這入はいって随分凉しくなります」

相「折入おりいって殿様にお願いの事がございまして、罷出まかりいでました、うかお聞済きゝずみを願います」

飯「はてナ、どういう事で」

相「お國様やなにかには少々お話が出来兼できかねますから、どうか御近習ごきんじゅの方々を皆遠ざけて戴きとう存じます」

飯「左様かよろしい、皆あちらへ参り、此方こちらへ参らん様にするが宜しい、シテういうことで」

相「さて殿様、今日態々わざ〳〵出ましたは折入って殿様にお願い申したいは娘の病気の事について出ましたが、御存じの通りれの病気も永い事で、わたくし種々いろ〳〵と心配いたしましたけれども、病の様子が判然はっきりと解りませんでしたが、よう〳〵ナ昨晩当人がわたくしの病は実は是々これ〳〵の訳だと申しましたから、なぜ早く云わん、けしからん奴だ、不孝ものであると小言は申しましたが、れは七歳の時母に別れ今年十八まで男の手に丹誠して育てましたにより、あの通りの初心うぶな奴で何もかも知らん奴だから、そこが親馬鹿のたとえの通りですが、殿様訳をお話し申してもお笑い下さるな、おさげすみ下さるな」

飯「どういう御病気で」

相「手前一人の娘でございますから、早くナ婿むこでも貰い、楽隠居がしたいと思い、日頃信心のないわたくしなれども、娘の病気を治そうと思い、夏とは云いながら此の老人が水をあびて神仏かみほとけへ祈るくらいな訳で、ところが昨夜娘のいうには、わたくしの病気は実は是々これ〳〵といいましたが、其の事は乳母おんばにも云われないくらいな訳ですが、其処そこが親馬鹿のたとえの通り、おさげすみ下さるな」

飯「どういう御病気ですな」

相「わたくしもだん〳〵と心配をいたして、どうか治してやりたいと心得、いろ〳〵医者にも掛けましたが、知れない訳で、是ばかりは神にも仏にも仕ようがないので、なぜ早く云わんと申しました」

飯「どういう訳で」

相「誠に申しにくい訳で、お笑い成さるな」

飯「なんだかさっぱりと訳が解りませんね」

相「実は殿様が日頃おめなさる此方こちらの孝助殿、あれは忠義な者で、以前はしかるべき侍のたねでござろう、今は零落おちぶれて草履取をしていても、こゝろざしは親孝行のものだ、可愛かわいいものだと殿様がお誉めなされ、あれには兄弟も親族みよりもない者だから、行々ゆく〳〵おれ里方さとかたに成ってほかへ養子にやり、相応な侍にしてやろうと仰しゃいますから、わたくし折々おり〳〵うちの家来善藏ぜんぞうなどに、飯島様の孝助殿を見習えと叱り付けますものだから、台所のおさんまでが孝助さんは男振おとこぶりもよし人柄もよし、優しいと誉め、乳母おんばまでが彼是かれこれと誉めはやすものだから、娘も、殿様お笑い下さるな、私は汗の出るほど耻入はじいります、実はくより娘があの孝助殿を見染みそめ、恋煩こいわずらいをして居ります、誠に面目めんぼくない、それをサばゞアにもいわないで、ようやく昨夜になって申しましたから、なぜ早く云わん、一ごう取っても武士の娘という事が浄瑠璃本じょうるりぼんにもあるではないか、侍の娘が男を見染めて恋煩いをするなどとは不孝ものめ、仮令たとい一人の娘でも手打にするところだが、しか紺看板こんかんばん真鍮巻しんちゅうまきの木刀を差した見る影もない者に惚れたというのは、孝助殿の男振のいのに惚れたか、又は姿の好いのに惚れ込んだかと難じてやりました、そうすると娘がおとっさま実は孝助殿の男振にも姿にも惚れたのではございません、ほかたゞ一つの見所みどころがありますからとういいますから、何処どこに見所があると聞きますと、あのお忠義が見所でございます、しゅうへ忠義のお方は、親にも孝行でございましょうねえ、といいましたから、それは親に孝なるものは主へ忠義、主へ忠なるものは親へは必ず孝なるものだといいますと、娘がわたくしうちはおたかわずか百俵二人扶持にんふちですから、他家ほかから御養子をしてお父さまが御隠居をなさいましても、もし其の御養子が心の良くない人でも来た其の時は、此方こちらの高が少ないから、私の肩身が狭く、ついにはそれがために私までが、ともにお父さまを不孝にするように成っては済みません、私も只今まで御恩を受けましたによりうか不孝をしたくない、きましては仮令たとい草履取でも家来でも志の正しい人を養子にして、夫婦諸共親に孝行をつくしたいと思いまして、孝助殿を見染め、寝ても覚めても諦められず、遂に病となりまして誠に相済みません、と涙を流して申しますから、私も至極しごくもっともの様にも聞えますから、兎に角お願いに出て、殿様から孝助殿を申受けて来ようと云って参りましたが、どうかあの孝助殿を手前の養子に下さるように願います」

飯「それはまア有難いこと、差上げたいね」

相「ナニ下さる、あゝ有難かった」

飯「だが一応当人へ申聞もうしきけましょう、さぞ悦ぶ事で、孝助が得心の上でしかと御返事を申上げましょう」

相「孝助殿はよろしい、貴方あなたさえうんと仰しゃって下さればそれで宜しい」

飯「私が養子に参るのではありませんから、そうはいかない」

相「孝助殿はいやと云う気遣きづかいは決してありません、たゞ殿様から孝助行ってやれとお声掛りを願います、あれは忠義ものだから、殿様のお言葉はそむきません、わたくしも当年五十五歳で、娘は十八になりましたから早く養子をして身体を固めてやりたい、殿様どうか願います」

飯「宜しい、差上げましょう、御胡乱ごうろん思召おぼしめすならば金打きんちょうでも致そうかね」

相「そのお言葉ばかりで沢山、有難うございます、早速娘に申し聞けましたら、さぞ悦ぶ事でしょう、これがね殿様が孝助に一応申し聞けて返事をするなどと仰しゃると、又娘が心配して、仮令たとい殿様が下さる気でも孝助殿がうだかなどゝ申しましょうが、そうはっきり事がきまれば、娘は嬉しがって飯の五六杯位も食べられ、一足飛そくとびに病気も全快致しましょう、善は急げのたとえで、明日みょうにち御番帰ごばんがえりに結納ゆいのうの取りかわせを致しとう存じますから、どうか孝助殿をお供に連れてお出で下さい、娘にも一寸ちょっと逢わせたい」

飯「まア一献いっこん差上げるから」

 と云っても相川は大喜びで、汗をダク〳〵流し、早く娘に此の事を聞かせとうございますから、今日はおいとまを申しましょうと云いながら、帰ろうとして、

「アイタ、柱に頭をぶっつけた」

飯「そゝっかしいからたれか見て上げな」

 飯島平左衞門も心嬉しく、鼻高々たか〴〵と、

飯「孝助を呼べ」

國「孝助は不快で引いて居ります」

飯「不快でも宜しい、一寸ちょっと呼んでまいれ」

國「お竹どん〳〵、孝助を一寸呼んでおくれ、殿様が御用がありますと」

竹「孝助どん〳〵、殿様が召しますよ」

孝「へい〳〵只今あがります」

 と云ったが、額のきずがあるから出られません。けれども忠義の人ゆえ、殿様の御用と聞いて額の疵も打忘うちわすれて出て参りました。

飯「孝助此処こゝへ来い〳〵、皆あちらへ参れ、たれもまいる事はならんぞ」

孝「大分だいぶお熱うございます、殿さまは毎日の御番疲れもありは致すまいかと心配をいたして居ります」

飯「其方そちは加減がわるいと云って引籠ひきこもっているそうだが、どうじゃナ、手前に少し話したいことがあって呼んだのだ、ほかの事でもないが、水道端すいどうばたの相川におとくという今年十八になる娘があるナ、器量も人並にすぐことに孝行もので、あれが手前の忠義の志に感服したと見えて、手前を思い詰め、わずらっているくらいな訳で、是非手前を養子にしたいとの頼みだから行ってやれ」

 と孝助の顔を見ると、額に傷があるから、

飯「孝助どう致した、額のきずは」

孝「へい〳〵」

飯「喧嘩けんかでもしたか、不埓ふらちな奴だ、出世前の大事の身体、殊に面体めんていに疵を受けているではないか、わたくし遺恨いこんで身体に疵を付けるなどとは不忠者め、是が一人前ひとりまえの侍なれば再び門をまたいでやしきへ帰る事は出来ぬぞ」

孝「喧嘩を致したのではありません、お使い先で宮邊みやべ様の長家下ながやしたを通りますと、屋根からかわらが落ちて額にあたり、斯様かよう怪我けがを致しました、悪い瓦でございます、お目障めざわりに成って誠に恐入おそれいります」

飯「屋根瓦の傷ではない様だ、まアどうでもいゝが、しかし必ず喧嘩などをして疵を受けてはならんぞ、手前は真直まっすぐな気性だが、向うが曲って来れば真直にく事は出来まい、それだから其処そこけて通るようにすると広い所へ出られるものだ、なんでも堪忍かんにんをしなければいけんぞ、堪忍のにんの字はやいばの下に心を書く、一ツ動けばむねを斬るごとく何でも我慢がまん肝心かんじんだぞよ、奉公するからは主君へ上げ置いた身体、主人へ上げると心得て忠義をつくすのだ、決して軽挙かるはずみの事をするな、曲った奴にはさからうなよ」

 という意見が一々胸にこたえて、孝助はたゞへい〳〵有難うございますと泣々なく〳〵

孝「殿様来月四日に中川へつりいらっしゃると承わりましたが、此のあいだお嬢様がお亡くなり遊ばしてもない事でございますから、うか釣をおめ下さいますように、しもお怪我があってはいけませんから」

飯「釣が悪ければやめようよ、決して心配するな、今云った通り相川へ行ってやれよ」

孝「何方どちらへかお使つかいに参りますのですか」

飯「使つかいじゃアない、相川の娘が手前を見染めたから養子に行ってれ」

孝「へえ成程、相川様へどなたが御養子になりますのです」

飯「なアに手前がくのだ」

孝「わたくしはいやでございます」

飯「べらぼうな奴だ手前の身の出世になる事だ、是ほど結構な事はあるまい」

孝「わたくし何時いつまでも殿様の側に生涯へばり附いております、ふつゝかながら片時へんじも殿さまのお側を放さずお置き下さい」

飯「そんな事を云っては困るよ、おれがもうけをした、金打きんちょうをしたから仕方がない」

孝「金打をなすッてもいけません」

飯「それじゃア己が相川に済まんから腹を切らんければならん」

孝「腹を切っても構いません」

飯「主人の言葉をそむくならばながいとまを出すぞ」

孝「お暇に成ってはなんにもならん、そういう訳でございますならば、ちょっと一言ひとことぐらいう云う訳だとわたくしにお話し下さってもよろしいのに」

飯「それは己が悪かった、此の通り板の間へ手を突いてあやまるから行ってやれ」

孝「そう仰しゃるなら仕方がありませんから取極とりきめだけして置いて、身体は十年があいだ参りますまい」

飯「そんな事が出来るものか、翌日あす結納を取交とりかわす積りだ、向うでも来月初旬に婚礼を致す積りだ」

 との事を聞いて孝助の考えまするに、己が養子にゆけば、お國と源次郎と両人で殿様を殺すに違いないから、今夜にも両人をやり突殺つきころし、其の場で己も腹掻切かきゝって死のうか、そうすれば是が御主人様の顔の見納め、と思えば顔色がんしょくも青くなり、主人の顔を見て涙を流せば、

飯「解らん奴だな、相川へ参るのはそんなにいやか、相川はつい鼻の先の水道端だから毎日でも往来ゆききの出来る所、何も気遣きづかう事はない、手前は気強いようでもよく泣くなア、男子おとこたるべきものがそんな意気地いくじがない魂ではいかんぞ」

孝「殿様わたくしは御当家様へ三月五日に御奉公に参りましたが、ほかに兄弟も親もない奴だと仰しゃって目を掛けて下さる、其の御恩の程は私は死んでも忘れは致しませんが、殿様はお酒を召上ると正体なく御寝げしなさる、又召上らなければ御寝なられません故、少しあがって下さい、余りよく御寝なると、どんな英雄でも、随分悪者の為に如何いかなる目に逢うかも知れません、殿様決して御油断はなりません、私はそれが心配でなりません、それから藤田様から参りましたお薬は、どうか隔日いちにちおきに召上って下さい」

飯「なんだナ、遠国えんごくへでもくような事を云って、そんな事は云わんでもいゝわ」


        八


 萩原のうちで女の声がするから、伴藏がのぞいてびっくりし、ぞっと足元から総毛立そうけだちまして、物をも云わず勇齋の所へ駆込かけこもうとしましたが、怖いからず自分のうちへ帰り、小さくなって寝てしまい、の明けるのを待兼まちかねて白翁堂のうちへやって参り、

伴「先生々々」

勇「誰だのウ」

伴「伴藏でごぜえやす」

勇「なんだのウ」

伴「先生一寸ちょっとこゝを明けて下さい」

勇「大層早く起きたのウ、おめえには珍らしい早起はやおきだ、待て〳〵今明けてやる」

 と掛鐶かきがねはずし明けてやる。

伴「大層真暗まっくらですねえ」

勇「まだが明けきらねえからだ、それにおれ行灯あんどうを消して寝るからな」

伴「先生静かにおしなせえ」

勇「手前てめえあわてゝいるのだ、なんだ何しに来た」

伴「先生萩原さまは大変ですよ」

勇「うかしたか」

伴「何うかしたかのなんのという騒ぎじゃございやせん、わっちも先生もうやって萩原様の地面うち孫店まごだなを借りて、お互いにすまっており、其の内でも私はお萩原様の家来同様に畑をうなったり庭を掃いたり、使い早間はやまもして、かゝあすゝぎ洗濯をしておるから、店賃たなちんもとらずにたまには小遣こづかいを貰ったり、衣物きものの古いのを貰ったりする恩のある其の大切な萩原様が大変な訳だ、毎晩女が泊りに来ます」

勇「若くって独身者ひとりものでいるから、随分女も泊りに来るだろう、しかし其の女は人の悪いようなものではないか」

伴「なに、そんな訳ではありません、わっちが今日用が有ってほかへ行って、夜中やちゅうけえってくると、萩原様のうちで女の声がするから一寸ちょっとのぞきました」

勇「わるい事をするな」

伴「するとね、蚊帳かやがこうってあって、其の中に萩原様と綺麗な女がいて、其の女が見捨てゝくださるなというと、生涯見捨てはしない、仮令たとい親に勘当されても引取ひきとって女房にするから決して心配するなと萩原様がいうと、女がわたくしは親に殺されてもおまえさんの側は放れませんと、互いに話しをしていると」

勇「いつまでもそんな所を見ているなよ」

伴「ところがねえ、其の女がたゞの女じゃアないのだ」

勇「悪党か」

伴「なに、そんな訳じゃアない、骨と皮ばかりのせた女で、髪は島田に結ってびんの毛が顔にさがり、真青まっさおな顔で、すそがなくって腰から上ばかりで、骨と皮ばかりの手で萩原様の首ったまへかじりつくと、萩原様は嬉しそうな顔をしていると其の側に丸髷まるまげの女がいて、此奴こいつやせて骨と皮ばかりで、ズッと立上たちあがって此方こちらへくると、矢張やっぱり裾が見えないで、腰から上ばかり、まるで絵にいた幽霊の通り、それをわっちが見たから怖くて歯の根も合わず、うちへ逃げけえって今まで黙っていたんだが、ういう訳で萩原様があんな幽霊に見込まれたんだか、さっぱり訳が分りやせん」

勇「伴藏本当か」

伴「ほんとうか嘘かと云って馬鹿〳〵しい、なんで嘘を云いますものか、嘘だと思うならお前さん今夜行って御覧なせえ」

勇「おらアいやだ、ハテナ昔から幽霊と逢引あいびきするなぞという事はない事だが、もっとも支那の小説にそういう事があるけれども、そんな事はあるべきものではない、伴藏嘘ではないか」

伴「だから嘘なら行って御覧なせえ」

勇「もうも明けたから幽霊なら居る気遣きづかいはない」

伴「そんなら先生、幽霊と一緒に寝れば萩原様は死にましょう」

勇「それは必ず死ぬ、人は生きている内は陽気盛んにして正しく清く、死ねば陰気盛んにしてよこしまけがれるものだ、それゆえ幽霊と共に偕老同穴かいろうどうけつちぎりを結べば、仮令たとえ百歳の長寿を保つ命も其のために精血せいけつを減らし、必ず死ぬるものだ」

伴「先生、人の死ぬ前には死相しそうが出ると聞いていますが、お前さん一寸ちょっと行って萩原様を見たら知れましょう」

勇「手前も萩原は恩人だろう、おれも新三郎の親萩原新左衞門しんざえもん殿の代から懇意にして、親御おやごの死ぬ時に新三郎殿の事をも頼まれたから心配しなければならない、此の事は決して世間の人に云うなよ」

伴「えゝ〳〵かゝあにも云わない位な訳ですから、なんで世間へ云いましょう」

勇「屹度きっと云うなよ、黙っておれ」

 其の内にもすっかり明けはなれましたから、親切な白翁堂はあかざの杖をついて、伴藏と一緒にポク〳〵出懸けて、萩原の内へまいり、

「萩原うじ々々」

新「何方どなた様でございます」

勇「隣の白翁堂です」

新「お早い事、年寄は早起はやおきだ」

 なぞと云いながら戸を引明ひきあ

「お早う入らっしゃいました、何か御用ですか」

勇「貴方あなたの人相を見ようと思って来ました」

新「朝っぱらからなんでございます、一つ地面うちにおりますから何時いつでも見られましょうに」

勇「そうでない、お日さまのおあがりになろうとする所で見るのがいので、貴方とは親御おやごの時分から別懇べっこんにした事だから」

 とふところより天眼鏡てんがんきょうを取出して、萩原を見て。

新「なんですねえ」

勇「萩原氏、貴方は二十日はつかを待たずして必ず死ぬそうがありますよ」

新「へえわたくしが死にますか」

勇「必ず死ぬ、なか〳〵不思議な事もあるもので、どうも仕方がない」

新「へえそれは困った事で、それだが先生、人の死ぬ時はその前に死相の出るという事はねて承わって居り、こと貴方あなたは人相見の名人と聞いておりますし、又昔から陰徳いんとくほどこして寿命を全くした話も聞いていますが、先生どうか死なゝい工夫はありますまいか」

勇「其の工夫は別にないが、毎晩貴方の所へ来る女を遠ざけるよりほかに仕方がありません」

新「いゝえ、女なんぞは来やアしません」

勇「そりゃアいけない、昨夜のぞいて見たものがあるのだが、あれは一体何者です」

新「あなた、あれは御心配をなさいまする者ではございません」

勇「是程心配になる者はありません」

新「ナニあれは牛込の飯島という旗下はたもとの娘で、訳あってこの節は谷中の三崎村へ、米という女中と二人で暮しているも、みんわたくしゆえに苦労するので、死んだと思っていたのに此の間はからず出逢い、其ののち度々たび〳〵逢引あいびきするので、私はあれをく〳〵は女房に貰う積りでございます」

勇「飛んでもない事をいう、毎晩来る女は幽霊だがお前知らないのだ、死んだと思ったなら猶更なおさら幽霊に違いない、其のマア女が糸のようにせた骨と皮ばかりの手で、お前さんの首ッたまへかじり付くそうだ、そうしてお前さんは其の三崎村にいる女のうちへ行った事があるか」

 といわれて行った事はない、逢引したのは今晩で七日目ですが。というものゝ、白翁堂の話に萩原も少し気味が悪くなったゆえ顔色がんしょくを変え。

新「先生、そんなら是から三崎へ行って調べて来ましょう」

 とうち立出たちいで、三崎へ参りて、女暮しでういう者はないかと段々尋ねましたが、一向に知れませんから、尋ねあぐんで帰りに、新幡随院しんばんずいゝんを通り抜けようとすると、お堂のうしろ新墓あらはかがありまして、それに大きな角塔婆かくとうばが有って、その前に牡丹の花の綺麗な灯籠が雨ざらしに成ってありまして、此の灯籠は毎晩お米がけて来た灯籠に違いないから、新三郎はいよ〳〵おかしくなり、お寺の台所へ廻り、

新「少々うかゞいとう存じます、あすこの御堂おどううしろに新らしい牡丹の花の灯籠を手向たむけてあるのは、あれは何方どちらのお墓でありますか」

僧「あれは牛込の旗下はたもと飯島平左衞門様の娘で、先達さきだって亡くなりまして、全体法住寺ほうじゅうじへ葬むるはずのところ、当院は末寺まつじじゃから此方こちらへ葬むったので」

新「あの側に並べてある墓は」

僧「あれはその娘のおつきの女中で是も引続き看病疲れで死去いたしたから、一緒に葬られたので」

新「そうですか、それでは全く幽霊で」

僧「なにを」

新「なんでもよろしゅうございます、左様なら」

 と云いながらびっくりしてうちに駈け戻り此のおもむきを白翁堂に話すと、

勇「それはまア妙な訳で、驚いた事だ、なんたる因果な事か、惚れられるものに事を替えて幽霊に惚れられるとは」

新「うもなさけない訳でございます、今晩もまたまいりましょうか」

勇「それは分らねえな、約束でもしたかえ」

新「へえ、あしたの晩屹度きっと来ると、約束をしましたから、今晩うか先生泊って下さい」

勇「真平御免まっぴらごめんだ」

新「占いでどうか来ないようになりますまいか」

勇「占いでは幽霊の所置しょちは出来ないが、あの新幡随院の和尚は中々にえらい人で、念仏修業の行者で私も懇意だから手紙をつけるゆえ、和尚の所へ行って頼んで御覧」

 と手紙を書いて萩原に渡す。萩原はその手紙を持ってやってまいり、

うぞ此の書面を良石りょうせき和尚様へ上げて下さいまし」

 と、差出すと、良石和尚は白翁堂とは別ならぬ間柄ゆえ、手紙を見てすぐに萩原を居間へ通せば、和尚は木綿の座蒲団に白衣はくえを着て、其の上に茶色のころもを着て、当年五十一歳の名僧、寂寞じゃくまくとしてちゃんと坐り、中々に道徳いや高く、念仏三昧という有様ありさまで、新三郎は自然ひとりでに頭がさがる。

良「はい、お前が萩原新三郎さんか」

新「へえ粗忽そこつの浪士萩原新三郎と申します、白翁堂の書面の通り、なんの因果か死霊に悩まされ難渋なんじゅうを致しますが、貴僧の御法ごほうもって死霊を退散するようにお願い申します」

良「此方こちらへ来なさい、お前に死相が出たという書面だが、見てやるから此方へ来なさい、成程死ぬなア近々きん〳〵に死ぬ」

新「うかして死なゝいように願います」

良「お前さんの因縁は深しい訳のある因縁じゃが、それをいうても本当にはせまいが、何しろ口惜くやしくてたゝる幽霊ではなく、たゞ恋しい〳〵と思う幽霊で、三も四世も前から、ある女がお前を思うて生きかわり死にかわり、かたち種々いろ〳〵に変えて附纒つきまとうてるゆえ、のががたい悪因縁があり、どうしても遁れられないが、死霊よけのために海音如来かいおんにょらいという大切の守りを貸してやる、其の内に折角施餓鬼せがきをしてやろうが、其のおまもり金無垢きんむくじゃにって人に見せると盗まれるよ、たけは四寸二分で目方も余程あるから、慾の深い奴はつぶしにしても余程のねうちだから盗むかも知れない、厨子ずしごと貸すにより胴巻どうまきに入れて置くか、身体に脊負せおうておきな、それから又こゝにある雨宝陀羅尼経うほうだらにぎょうというお経をやるから読誦どくじゅしなさい、此の経は宝を雨ふらすと云うお経で、是を読誦すれば宝が雨のように降るので、慾張よくばったようだが決してそうじゃない、是を信心すれば海の音という如来さまが降って来るというのじゃ、この経は妙月長者みょうげつちょうじゃという人が、貧乏人に金をほどこして悪い病の流行はやる時に救ってやりたいと思ったが、宝がないから仏の力をもって金を貸してくれろと云った所が、釋迦しゃかがそれは誠に心懸こゝろがけとうとい事じゃと云って貸したのがすなわちこのお経じゃ、又御札おふだをやるから方々ほう〴〵って置いて、幽霊のはいどころのないようにして、そしてこのお経を読みなさい」

 と親切の言葉に萩原は有がたく礼を述べて立帰たちかえり、白翁堂に其の事を話し、それから白翁堂も手伝って其の御札をうちの四方八方へ貼り、萩原は蚊帳かやを吊って其の中へ入り、の陀羅尼経を読もうとしたが中々読めない。曩謨婆誐嚩帝嚩囉駄囉のうぼばぎゃばていばざらだら婆誐囉捏具灑耶さぎゃらにりぐしゃや怛陀孽多野たゝぎゃたや怛儞也陀唵素噌閉たにやたおんそろべい跋捺囉嚩底ばんだらばち。矒誐〓(「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」)阿左〓(「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」)阿左跛〓(「口+「隸」の「木」に代えて「ヒ」74-2)なんだか外国人の譫語うわごとの様で訳がわからない。其のうち上野のの八ツのかねがボーンとしのぶおかの池に響き、むこうおかの清水の流れる音がそよ〳〵と聞え、山に当る秋風の音ばかりで、陰々寂寞いん〳〵せきばく世間がしんとすると、いつもに変らず根津ねづの清水のもとから駒下駄こまげたの音高くカランコロン〳〵とするから、新三郎は心のうちで、ソラ来たと小さくかたまり、ひたいからあごへかけて膏汗あぶらあせを流し、一生懸命一心不乱に雨宝陀羅尼経うほうだらにきょうを読誦して居ると、駒下駄の音が生垣いけがきの元でぱったりみましたから、新三郎はせばいゝに念仏を唱えながら蚊帳を出て、そっと戸の節穴からのぞいて見ると、いつもの通り牡丹の花の灯籠を下げて米が先へ立ち、あとには髪を文金の高髷たかまげに結い上げ、秋草色染あきくさいろぞめ振袖ふりそでに燃えるような緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、其の綺麗なこと云うばかりもなく、綺麗ほどなお怖く、これが幽霊かと思えば、萩原は此の世からなる焦熱地獄しょうねつじごくに落ちたる苦しみです、萩原のうちは四方八方にお札が貼ってあるので、二人の幽霊がおくしてあとさがり、

米「嬢さまとても入れません、萩原さんはお心変りが遊ばしまして、昨晩のお言葉と違い、貴方あなたを入れないように戸締りがつきましたから、とても入ることは出来ませんからお諦め遊ばしませ、心の変った男は迚も入れる気遣きづかいはありません、心の腐った男はお諦めあそばせ」

 と慰むれば、

嬢「あれ程迄にお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心がなさけない、米や、どうぞ萩原様に逢わせておくれ、逢わせてくれなければ私は帰らないよ」

 と振袖を顔に当て、潜々さめ〴〵と泣く様子は、美しくもあり又物凄ものすごくもなるから、新三郎は何も云わず、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、南無阿弥陀仏。

米「お嬢様、あなたが是程までに慕うのに、萩原様にゃアあんまりなお方ではございませんか、しや裏口から這入はいれないものでもありますまい、入らっしゃい」

 と手を取って裏口へ廻ったが矢張やっぱり這入られません。


        九


 飯島のうちでは妾のお國が、孝助を追出すか、しくじらするように種々いろ〳〵工夫をこらし、この事ばかり寝ても覚めても考えている、悪い奴だ。殿様は翌日御番ごばんでお出向でむきに成ったあとへ、隣家となりの源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お國はしらばっくれて、

國「おや、いらっしゃいまし、引続きまして残暑が強く皆様御機嫌よろしゅう、此方こちらは風がよく入りますからいらっしゃいまし」

 源次郎は小声になり、

「孝助は昨夜ゆうべの事をしゃべりはしないかえ」

國「いえサ、孝助が屹度きっと告口つげぐちをしますだろうと思いましたに、告口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってね、其の時わたくしは弓のおれたれたと云わなければよいと胸が悸動どき〳〵しましたが、あの事はなんとも云いませんが、云わずにいるだけおかしいではありませんか」

 と小声で云って、わざと大声で、

國「お熱い事この節のように熱くっては仕方がありません」

 又小声になり。

國「いえ、それに水道端の相川新五兵衞様の一人娘のお徳様が、うちの草履取の孝助に恋煩いをしているとサ、まア本当に茶人ちゃじんも有ったものですねえ、馬鹿なお嬢様だよ、それからあの相川の爺さんが汗をだく〳〵流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も贔屓ひいきの孝助だから上げましょうと相談が出来まして、相川は帰りましたのですよ、そうして、今日は相川で結納の取交とりかわせになるのですとさ」

源「それじゃアよろしい、孝助がって仕舞えば仔細しさいはない」

國「いえサ、水道端の相川へ養子にやるのに、うちの殿様がお里にってるのだからいけませんよ、そうすると、彼奴あいつが此のうちの息子のふうをしましょう、草履取でさえ随分ツンケンした奴だから、そうなれば屹度きっとこの間の意趣いしゅを返すに違いはありません、なんでも彼奴が一件を立聞たちぎきしたに違いないから、貴方あなたうかして孝助を殺して下さい」

源「彼奴は剣術が出来るからおれには殺せないよ」

國「貴方は何故なぜそう剣術がお下手だろうねえ」

源「いゝや、それには旨い事がある、相川のお嬢にはうち相助あいすけという若党が大層に惚れて居るから、あれを旨くだまかし、孝助と喧嘩をさせて置き、あとで喧嘩両成敗だから、おいらの方で相助を追い出せば、伯父さんも義理で孝助を出すに違いないが、いちゃア明日あした伯父さんと一緒に帰って来ては困るが、孝助がひとりで先へ帰る訳には出来まいか」

國「それは訳なく出来ますとも、わたくしが殿様に用がありますから先へ帰して下さいましといえば、屹度きっと先へ帰して下さるに違いはありませんから、大曲おおまがりあたりで待伏まちぶせて彼奴あいつをぽか〳〵おなぐりなさい」

 大声を出して、

國「誠におそう〳〵様で、左様なら」

 源次郎は屋敷に帰るとすぐに男部屋へ参ると、相助は少し愚者おろかもので、鼻歌でデロレンなどを唄っている所へ源次郎が来て、

源「相助、大層精が出るのう」

相「オヤ御二男ごじなん様、誠に日々お熱い事でございます、当年は別してお熱いことで」

源「熱いのう、其方そちは感心な奴だと常々兄上もめていらっしゃる、主用しゅようがなければ自用じようを足し、少しも身体にすきのない男だと仰しゃっている、それに手前は国に別段親族みよりもない事だから、当家が里になり、大した所ではないが相応な侍のうちへ養子にやる積りだよ」

相「恐れ入ります、なんともはや誠にどうも恐れ入りますなア、殿様と申し貴方あなたと申し、不束ふつゝかわたくしをそれ程までに、これははや口ではお礼が述べきれましねえ、何ともヘイ分らなく有難うございます、それだが武士に成るにゃア私もいろはのいの字も知んねえもんだから誠に困るんで」

源「実は貴様も知っている水道端の相川のう、彼処あすこにお徳という十八ばかりの娘があるだろう、貴様を彼処の養子に世話をしてやろうと兄上が仰しゃった」

相「これははやモウどうも、本当でごぜえますか、はやどうも、あのくれえなお嬢様は世間にはないと思います、頬辺ほうぺたなどはぽっとして尻などがちま〳〵として、あのくれえないお嬢様はたんとはありましねえ」

源「向うはたかすけないから、若党でもなんでもよいから、堅い者なればというのだから、手前なればごくよかろうとあらまし相談が整った所が、隣の草履取の孝助めが胡麻をすった為に、縁談が破談となってしまった、孝助が相川の男部屋へ行ってあの相助はいけない奴で、大酒飲おおざけのみで、酒を飲むと前後を失ない、主人の見さかいもなく頭をぶち、女郎は買い、博奕ばくちは打ち、其の上盗人ぬすっと根性があると云ったもんだから、相川も厭気いやきになり、話がもつれて、今度は到頭とうとう孝助が相川の養子になる事にきまり、今日結納の取交とりかわせだとよ、向うでは草履取でさえ欲しがるところだから、手前なれば真鍮しんちゅうでも二本さす身だから、きっとかったに違いはない、孝助は憎い奴だ」

相「なんですと、孝助が養子になると、にッこい奴でごじいます、人の恋路こいじの邪魔をすればッて、わたくしが盗人根性があって、お負けに御主人の頭をにやすと、何時いつ私が御主人の頭を打しました」

源「おれに理窟を云っても仕方がない」

相「残念、腹が立ちますよ、にッこい孝助だ。たゞ置きましねえ」

源「喧嘩しろ〳〵」

相「喧嘩してはかないましねえ、彼奴あいつ剣術きんじゅつ免許みんきょだから剣術はとても及びましねえ」

源「それじゃア田中たなか中間ちゅうげんの喧嘩の龜藏かめぞうという奴で、身体中きずだらけの奴がいるだろう、あれ藤田ふじた時藏ときぞう両人ふたりに鼻薬をやって頼み、貴様と三人で、明日あした孝助が相川の屋敷から一人で出て来る所を、大曲りで打殺ぶちころしても構わないから、ぽか〳〵なぐりにして川へほうりこめ」

相「殺すのは可愛相かわいそうだが、にやしてやりてえなア、だが喧嘩をした事が知れゝばうなりますか」

源「そうさ、喧嘩をした事が知れゝば、おれが兄上にそう云うと、兄上は屹度きっと不届ふとゞきな奴、相助をいとまにしてしまうと仰しゃってお暇に成るだろう」

相「お暇に成ってはつまりましねえ、しましょう」

源「だがのう、此方こちらで貴様に暇を出せば、隣でも義理だから孝助に暇を出すに違いない、彼奴あいつが暇になれば相川でも孝助は里がないから養子に貰う気遣きづかいはない、其の内此方では手前を先へ呼返よびかえして相川へ養子にやるつもりだ」

相「誠にお前様めえさま、御親切が恐れ入り奉ります」

 というから、源次郎は懐中より金子きんす若干いくらかを取出し、

源「金子をやるから龜藏たちと一杯呑んでくれ」

相「これははや金子けんすまで、これ戴いてはすみましねえ、折角の思召おぼしめしだから頂戴いたして置きます」

 これから相助は龜藏と時藏の所へき此の事を話すと、面白半分にやッつけろと、手筈てはずの相談を取極とりきめました。さて飯島平左衞門はそんな事とは知らず、孝助を供につれ、御番からお帰りに成りました。

國「殿様今日は相川様の所へ孝助の結納でおでになりますそうですが、少しお居間の御用が有りますからお送り申したら、孝助は殿様よりお先へお帰し下さいまし、用が済み次第すぐに又お迎いにつかわしましょう」

 という飯島は

「よし〳〵」

 と孝助を連れて相川のうちへ参りましたが相川はごく小さい宅で、

孝「お頼み申します〳〵」

相「ドーレ、これ善藏や玄関に取次が有るようだ、善藏居ないか、何処どこへ行ったんだ」

婆「あなた、善藏はお使いにおやり遊ばしたではありませんか」

相「おれが忘れた、牛込の飯島様がおでに成ったのかも知れない、煙草盆へ火を入れてお茶の用意をして置きな、多分孝助殿も一緒に来たかも知れないから、お徳に其の事を云いな、これ〳〵お前よく支度をして置け、己が出迎いをしよう」

 と玄関まで出て参り、

相「これは殿様大分だいぶお早くどうぞすぐにおあがりを願います、へい誠に此の通り見苦しい所孝助殿も、御挨拶はあとでします」

 相川はいそ〳〵と一人で喜び、コッツリと柱に頭を打付ぶッつけ、アイタヽ、兎に角此方こちらへと座敷へ通し、

「さて残暑お熱い事でございます、又昨日さくじつあがりまして御無理を願ったところ、早速にお聞済きゝずみ下され有がとう存じます」

飯「昨日はお草々そう〳〵を申しました、如何いかにもお急ぎなさいましたから御酒ごしゅも上げませんで、おおきにお草々申上げました」

相「あれから帰りまして娘に申し聞けまして、殿様がお承知の上孝助殿をむこにとる事に極って、明日あすは殿様お立合の上で結納取交とりかわせになると云いますと、娘は落涙らくるいをして悦びました、と云うと浮気の様ですが、そうではない、お父様とっさまを大事に思うからとは云いながら、只今まで御苦労を掛けましたと申しますから、早く丈夫にならなければいけない孝助殿が来るからと申して、すぐに薬を三ぶく立付たてつけて飲ませました、それからおかゆを二膳半食べました、それから今日はナ娘がずっと気分がなおって、お父様こんなに見苦しいなりでいては、孝助さまに愛想あいそうを尽かされるといけませんからというので、化粧をする、婆アもお鉄漿はぐろを附けるやら大変です、わたくし最早もはや五十五歳ゆえ早く養子をして楽がしたいものですから、誠に耻入った次第でございますが、早速さっそくのお聞済きゝずみ、誠に有難う存じます」

飯「あれから孝助に話しましたところ、当人も大層に悦び、わたくしの様な不束者ふつゝかものをそれ程までに思召おぼしめし下さるとは冥加至極みょうがしごくと申してナ、大概あらかた当人も得心いたした様子でな」

相「いやもう、あの人は忠義だからいやでも殿様の仰しゃる事ならはいと云って言う事を聞きます、あの位な忠義な人はない、旗下はたもと八万騎の多い中にも恐らくはあの位な者は一人もありますまい、娘がそれを見込みましたのだ、善藏はまだ帰らないか、これ婆ア」

婆「なんでございます」

相「殿様に御挨拶をしないか」

婆「御挨拶をしようと思っても、貴方あなたがせか〳〵している者だから御挨拶するもありはしません、殿様、御機嫌さまよういらっしゃいました」

飯「これはばあやア、お徳様が長いあいだ御病気の所、早速の御全快誠にお目でたい、お前も心配したろう」

婆「お蔭様かげさまで、わたくしはお嬢様のおちいさい時分からお側にいて、お気性も知って居りますのになんとも仰しゃらず、やっと此の間分ったので殿様に御苦労をかけました、誠に有がとうございます」

相「善藏はまだ帰らないか、長いなア、お菓子を持って来い、殿様御案内の通り手狭でございますから、何かちょっと尾頭附おかしらつきで一こん差上げたいが、まアお聞き下さい、此の通り手狭ですからお座敷を別にする事も出来ませんから、孝助殿も此処こゝへ一緒にいたし、今日は無礼講ぶれいこうで御家来でなく、どうか御同席で御酒ごしゅを上げたい、孝助はわたくしが出迎えます」

飯「なにわたくしが呼びましょう」

相「ナアニあれはわたくしの大事な聟で、死水しにみずを取ってもらう大事な養子だから」

 と立上たちあがり、玄関まで出迎え、

相「孝助殿誠にく、いつもおすこやかに御奉公、今日はナ無礼講で、殿様の側で御酒、イヤなに酒は呑めないから御膳を一寸ちょっと上げたい」

孝「是は相川様御機嫌よろしゅう、承ればお嬢様は御不快の御様子、少しはおよろしゅうございますか」

相「何を云うのだお前の女房をお嬢様だのお宜しいもないものだ」

飯「そんな事を云うと孝助がるがります、孝助折角の思召おぼしめし、御免をこうむって此方こちらへ来い」

相「成程立派な男で、中々フウ、へえ、さて昨日は殿様に御無理を願い早速お聞済きゝずみ下さいましたが、たかすくなし娘は不束ふつゝかなり、しゅうとは知っての通りの粗忽者そこつもの、実になんと云って取る所はないだろうが、娘がお前でなければならないとわずらう迄に思い詰めたというと、浮気なようだがうではない、あれが七歳なゝつの時母が死んで、それから十八までわしそだった者だから、あれも一人の親だと大事に思い、お前の心がけのよい、優しく忠義な所を見て思い詰め病となった程だ、どうかあんな奴でも見捨てずに可愛かわいがってやっておくれ、わたしすぐにチョコ〳〵と隠居して、すみほう引込ひっこんでしまうから、時々少々ずつ小遣こづかいをくれゝばいゝ、それからほかに何もお前に譲る物はないが、藤四郎吉光とうしろうよしみつ脇差わきざしが有る、こしらえは野暮やぼだが、それだけは私のうちに付いた物だからお前に譲る積りだ、出世はお前の器量にある」

飯「そういうと孝助が困るよ、孝助も誠に有難い事だが、少し仔細があって、今年一ぱい私の側で奉公したいと云うのが当人ののぞみだから、どうか当年一ぱいは私の手元に置いて、来年の二月に婚礼をする事に致したい、もっとも結納だけは今日致して置きます」

相「へい来年の二月では今月が七月だから、七八九十十一十二しょう二と今から八ヶ月あいだがあるが、八ヶ月では質物しつもつでも流れて仕舞うから、余り長いなア」

飯「それは深い訳が有っての事で」

相「成程、あゝ感服だ」

飯「お分りに成りましたか」

相「それだから孝助に娘の惚れるのももっともだ、娘より私が先へ惚れた、それはうでしょう、今年一ぱい貴方あなたのお側で剣術を習い、免許でも取るような腕に成る積りだろう、れはうなくてはならない、孝助殿の思うにはなんぼ自分が怜悧りこうでも器量があるにしたところが、すけなくもろくのある所へ養子にくるのだから土産みやげがなくてはおかしいと云うので、免許か目録の書付かきつけを握って来る気だろう、それに違いない、あゝ感服、自分を卑下ひげした所が偉いねえ」

孝「殿様、わたくし一寸ちょっとお屋敷へ帰って参ります」

相「くのは御主用ごしゅようだから仕方がないが、何もないが一寸ちょっと御膳を上げます少し待ってお呉れ、善藏まだか、長いのう、だが孝助殿、又すぐに帰って来るだろうが主用だから来られないかも知れないから、一寸奥の六畳へ行って徳に逢ってやっておくれ、徳が今日はお白粉しろいけて待っていたのだから、お前に逢わないと粧けたお白粉がむだになってしまう」

飯「そう仰しゃると孝助がをわるがります」

相「兎に角アレサどうか一寸逢わせて」

飯「孝助あゝ仰しゃるものだから一寸お嬢様にお目通りして参れ、まだ此方こちらへ来ないうちは、手前は飯島の家来孝助だ、相川のお嬢様の所へ御病気見舞にくのだ、何をうじ〳〵している、お嬢様の御病気をうかゞって参れ」

 といわれ孝助は間を悪がってへい〳〵云っていると、

婆「此方こちらへどうぞ、御案内を致します」

 とお徳の部屋へ連れて来る。

孝「これはお嬢様長らく御不快のところ、御様子は如何様いかゞさまでございますか、お見舞を申し上げます」

婆「孝助様どうかお目を掛けられて下さいまし、お嬢様孝助様が入らっしゃいましたよ、アレマア真赤まっかに成って、今まで貴方あなたが御苦労をなすったお方じゃアありませんか、孝助様がおでに成ったらおうらみを云うと仰しゃったに、たゞ真赤に成ってお尻で御挨拶なすってはいけません」

孝「おいとまを申します」

 と挨拶をして主人の所へ参り、

孝「一旦いったん御用をして、早く済みましたら又あがります」

相「困ったねえ、暗くなったが何が有るかえ」

孝「何がとは」

相「何サ提灯ちょうちんがあるかえ」

孝「提灯は持って居ります」

相「何が無いと困るがあるかえ、何サ蝋燭ろうそくがあるかえ、何有るとえ、そんならよろしい」

 孝助は暇乞いとまごいをして相川のやしき立出たちいで、大曲りの方を通れば、前に申した三人が待伏まちぶせをして居るのだが、孝助の運が強かったと見え、隆慶橋りゅうけいばしを渡り、軽子坂かるこざかからやしきへ帰って来た。

孝「只今帰りました」

 というからお國は驚いた。なんでも今頃は孝助が大曲り辺で、三人の中間ちゅうげん真鍮巻しんちゅうまきの木刀でたれて殺されたろうと思っている所へ、平常ふだんの通りで帰って来たから、

國「おや〳〵どうして帰ったえ」

孝「貴方様あなたさまがお居間の御用があるから帰れと仰しゃったから帰って参りました」

國「何処どこからうお帰りだ」

孝「水道端を出て隆慶橋を渡り、軽子坂をあがって帰って来ました」

國「そうかえ、わたしゃ又今日は相川様でお前を引留ひきとめて帰る事が出来まいと思ったから、御用は済ませて仕舞ったから、お前はすぐに殿様のお迎いにっておくれ、そしてしお前がお迎いにかないうちにお帰りになるかも知れないよ、お前ほかの道をって、途中でお目に懸らないといけない、殿様は何時いつでも大曲りの方をお通りになるから、あっちの方からけば途中で殿様にお目に懸るかも知れない、直にっておくれ」

孝「へい、そんなら帰らなければよかった」

 と再び屋敷を立出たちいで、大曲りへかゝると、中間ちゅうげん三人は手に〳〵真鍮巻しんちゅうまきの木刀をひねくり待ちあぐんでいたのも道理、ようと思うほうから来ないで、あとの方から花菱はなびし提灯ちょうちんげて来るのを見付け、たしかに孝助と思い、相助はズッと進んで、

相「やい待て」

孝「誰だ、相助じゃねえか」

相「おゝ相助だ、貴様と喧嘩しょうと思って待っていたのだ」

孝「何をいうのだ、唐突だしぬけに、貴様と喧嘩する事は何もねえ」

相「おのれ相川様へ胡麻ごまアすりやアがって、おれの養子になる邪魔をした、そればかりでなくおれの事を盗人ぬすっと根性があると云やアがったろう、どう云う訳で胡麻をって、手前てめえがあのお嬢様のところへ養子にこうとする、にッこい奴、ほかの事とは違う、盗人根性があると云ったから喧嘩するから覚悟しろ」

 と争って居る横合よこあいから、龜藏が真鍮巻の木刀を持って、いきなり孝助の持っている提灯を叩き落す、提灯は地に落ちて燃え上る。

龜「手前てまえは新参者の癖に、殿様のお気に入りを鼻に懸け、大手を振って歩きやアがる、一体いってえ貴様は気に入らねえ奴だ、この畜生め」

 と云いながら孝助のむなぐらを取る。孝助は此奴等こいつら徒党ととうしたのではないかと、すかして向うを見ると、どぶふちに今一人しゃがんで居るから、孝助はねて殿様が教えて下さるには、敵手あいての大勢の時はあわてると怪我をする、寝て働くがいゝと思い、胸ぐらを取られながら、龜藏の油断を見て前袋まえぶくろに手がかゝるが早いか、孝助は自分のからだ仰向あおむけにして寝ながら、右の足を上げて龜藏の睾丸きんたまのあたりを蹴返けかえせば、龜藏は逆筋斗さかとんぼうを打ってどぶの縁へ投げ付けられるを、左のほうから時藏相助が打ってかゝるを、孝助はヒラリとからだ引外ひきはずし、腰にさしたる真鍮巻の木刀で相助の尻のあたりをドンとつ。相助たれて気が逆上のぼあがるほど痛く、眼もくらみ足もすわらず、ヒョロ〳〵と遁出にげだどぶへ駆け込む。時藏もたれて同じく溝へ落ちたのを見て、

孝「やい、何をしやアがるのだ、サア何奴どいつでも此奴こいつでも来い飯島の家来には死んだ者は一ぴきも居ねえぞ、お印物しるしものの提灯を燃やしてしまって、殿様に申訳もうしわけがないぞ」

飯「まア〳〵もうよろしい、心配するな」

孝「ヘイ、これは殿様どうしてこゝへ、わたくしがこんなに喧嘩をしたのを御覧遊ばして、又私が失錯しくじるのですかなア」

飯「相川のほうも用事が済んだから立帰たちかえって来たところ、此の騒ぎ、憎い奴と思い、見ていて手前が負けそうならおれが出て加勢をしようと思っていたが、貴様の力で追い散らしてかった、焼落やけおちた提灯を持って供をして参れ」

 と主従連立つれだって屋敷へお帰りに成ると、お國は二度びっくりしたが、素知らぬ顔で此の晩は済んでしまい、翌朝よくあさになると隣の源次郎がすましてやってまいり、

源「伯父様お早うございます」

飯「いや、大分だいぶお早いのう」

源「伯父様、昨晩大曲りで御当家の孝助と私共わたくしどもの相助と喧嘩を致し、相助はさん〴〵にたれ、ほう〳〵のていで逃げ帰りましたが、兄上が大層に怒り、しからん奴だ、年甲斐もないと申してすぐいとまを出しました、いては喧嘩両成敗のたとえの通り、御当家の孝助も定めてお暇になりましょう、家来の身分としてわたくし遺恨いこんもって喧嘩などをするとは以てのほかの事ですから、兄の名代みょうだい一寸ちょっと念のめにおとゞけにまいりました」

飯「それはよろしい、昨晩ゆうべのは孝助は悪くはないのだ、孝助が私の供をして提灯を持って大曲りへ掛ると、田中の龜藏、藤田の時藏おうちの相助の三人が突然いきなりに孝助に打ってかゝり、供前ともまえさまたぐるのみならず、提灯を打落うちおとし、印物しるしものもやしましたから、憎い奴、手打にしようと思ったが、となりづからの中間ちゅうげんを切るでもないと我慢をしているうちに、孝助がおこって木刀で打散うちゝらしたのだから、昨夕ゆうべのは孝助は少しも悪くはない、し孝助に遺恨があるならばなぜ飯島に届けん、供先ともさきを妨げしからん事だ、相助の暇に成るは当然あたりまえだ、あれは暇を出すのがよろしい、彼奴あいつを置いては宜しくありませんとおあにいさまに申し上げな、是から田中、藤田の両家へも廻文かいぶんを出して、時藏、龜藏も暇を出させる積りだ」

 と云い放し、孝助ばかり残る事になりましたから、源次郎も当てがはずれ、挨拶も出来ない位な始末で、なんともいう事が出来ずやしきへ帰りました。


        十


 さての伴藏は今年三十八歳、女房おみねは三十五歳、たがいに貧乏世帯じょたいを張るも萩原新三郎のおかげにて、或時あるときは畑をうない、庭や表のはき掃除などをし、女房おみねは萩原のたくへ参り煮焚にたきすゝぎ洗濯やおかずごしらえお給仕などをしておりますゆえ、萩原も伴藏夫婦には孫店まごだなを貸しては置けど、店賃たなちんなしで住まわせて、折々おり〳〵小遣こづかい浴衣ゆかたなどの古い物をり、家来同様使っていました。伴藏は懶惰なまけものにて内職もせず、おみねは独りで内職をいたし、毎晩八ツ九ツまで夜延よなべをいたしていましたが、或晩あるばんの事しぼりだらけの蚊帳かやり、この絞りの蚊帳というは蚊帳に穴が明いているものですから、処々ところ〴〵観世縒かんじんよりしばってあるので、其の蚊帳を吊り、伴藏は寝〓(「蓙」の左の「人」に代えて「口」)を敷き、独りで寝ていて、足をばた〳〵やっており、蚊帳の外では女房がしきりに夜延をしていますと、八ツの鐘がボンと聞え、世間はしんと致し、折々清水の水音が高く聞え、なんとなく物凄ものすごく、秋の夜風の草葉にあたり、陰々寂寞いん〳〵せきばくと世間が一体にしんと致しましたから、此の時は小声で話をいたしてもく聞えるもので、蚊帳のうちで伴藏が、頻りにたれかとこそ〳〵話をしているに、女房は気がつき、行灯あんどう下影したかげから、そっと蚊帳のうち差覗さしのぞくと、伴藏が起上おきあがり、ちゃんと坐り、両手を膝についていて、蚊帳の外にはだれか来て話をしている様子は、なんだかはっきり分りませんが、うも女の声のようだからおかしい事だと、嫉妬やきもちの虫がグッと胸へ込み上げたが、年若とは違い、もう三十五にもなる事ゆえ、表向おもてむき悋気りんきもしかねるゆえ、あんまりな人だと思っているうちに、女は帰った様子ゆえなんとも云わず黙っていたが、翌晩も又来てこそ〳〵話を致し、ういう事が丁度三晩の間続きましたので、女房ももう我慢が出来ません、ちと鼻がとんがらかッて来て、鼻息が荒くなりました。

伴「おみね、もう寝ねえな」

みね「あゝ馬鹿々々しいやね、八ツ九ツまで夜延をしてさ」

伴「ぐず〳〵いわないで早く寝ねえな」

みね「えい、人が寝ないで稼いでいるのに、馬鹿々々しいからサ」

伴「蚊帳の中へへいんねえな」

 おみねは腹立はらたちまぎれにズッと蚊帳をまくって中へ入れば。

伴「そんな這入へいりようがあるものか、なんてえ這入へいりようだ、突立つッたって這入へえッちゃア蚊が這入へえって仕ようがねえ」

みね「伴藏さん、毎晩お前の所へ来る女はあれはなんだえ」

伴「なんでもいゝよ」

みね「なんだかお云いなねえ」

伴「何でもいゝよ」

みね「お前はよかろうがわたしゃ詰らないよ、本当にお前の為に寝ないで齷齪あくせくと稼いでいる女房の前も構わず、女なんぞを引きずり込まれては、私のような者でもあんまりだ、あれはういう訳だと明かして云ってお呉れてもいゝじゃないか」

伴「そんな訳じゃねえよ、おれも云おう〳〵と思っているんだが、云うとおめえが怖がるから云わねえんだ」

みね「なんだえ怖がると、大方先の阿魔女あまっちょなんかおまえこわもてゞ云やアがったんだろう、お前がかゝあがあるから女房に持つ事が出来ないと云ったら、そんなら打捨うっちゃって置かないとか何とかいうのだろう、理不尽りふじん阿魔女あまっちょが女房のいる所へどか〳〵へいって来て話なんぞをしやアがって、もし刃物三昧はものざんまいでもする了簡りょうけんなら私はたゞは置かないよ」

伴「そんな者じゃアないよ、話をしても手前てめえ怖がるな、毎晩来る女は萩原様にごく惚れてかよって来るお嬢様とおつきの女中だ」

みね「萩原様は萩原様の働きがあってなさる事だが、おまえはこんな貧乏世帯びんぼうじょたいを張っていながら、そんな浮気をして済むかえ、それじゃアお前が其のお附の女中とくッついたんだろう」

伴「そんな訳じゃないよ、実は一昨日おとゝいの晩おれがうと〳〵していると、清水の方から牡丹の花の灯籠をげた年増としまが先へ立ち、お嬢様の手を引いてずっとおれうちへえって来た所が、なか〳〵人柄のいゝお人だから、己のような者の宅へこんな人が来るはずはないがと思っていると、其の女が己のめえへ手をついて、伴藏さんとはおまえさまでございますかというから、わっちが伴藏でごぜえやすと云ったら、あなたは萩原様の御家来かと聞くから、まア〳〵家来同様な訳でごぜえますというと、萩原様はあんまりなお方でございます、お嬢様が萩原様に恋焦こいこがれて、今夜いらっしゃいとたしかにお約束を遊ばしたのに、今はお嬢様をお嫌いなすって、れないようになさいますとはあんまりなお方でございます、裏の小さい窓に御札がってあるので、どうしても這入はいることが出来ませんから、おなさけに其の御札をはがしてくださいましというから、明日あした屹度きっと剥して置きましょう、明晩みょうばん屹度お願い申しますと云ってずっとけえった、それから昨日きのう終日いちにち畠耘はたけうないをしていたが、つい忘れていると、其の翌晩又来て、何故なぜ剥して下さいませんというから、ちげえねえ、ツイ忘れやした、屹度明日あしたの晩剥がして置きやしょうと云ってそれから今朝畠へ出たついでに萩原様の裏手へ廻って見ると、裏の小窓に小さいお経の書いてある札が貼ってあるが、なにしてもこんな小さい所から這入ることは人間には出来る物ではねえが、かねて聞いていたお嬢様が死んで、萩原様の所へ幽霊になって逢いに来るのがこれに相違ねえ、それじゃア二晩ふたばん来たのは幽霊だッたかと思うと、ぞっと身の毛がよだつ程怖くなった」

みね「あゝ、いやだよ、おふざけでないよ」

伴「今夜はよもややアしめえと思っている所へ又来たア、今夜はおれが幽霊だと知っているから怖くッて口もきけず、膏汗あぶらあせを流して固まっていて、おさえつけられるように苦しかった、そうするとだ剥しておんなさいませんねえ、うしても剥しておくんなさいませんと、あなたまでおうらみ申しますと、おっかねえ顔をしたから、明日あしたは屹度剥しますと云ってけえしたんだ、それだのに手前てめえ嫉妬やきもちをやかれちゃア詰らねえよ、おれは幽霊に怨みを受ける覚えはねえが、札を剥せば萩原様が喰殺くいころされるか取殺とりころされるにちげえねえから、己はこゝを越してしまおうと思うよ」

みね「嘘をおつきよ、なんなんでも人を馬鹿にする、そんな事があるものかね」

伴「うたぐるなら明日あしたの晩手前てめえが出て挨拶をしろ、おれ真平まっぴらだ、戸棚にへいって隠れていらア」

みね「そんなら本当かえ」

伴「本当も嘘もあるものか、だから手前てめえが出なよ」

みね「だッて帰る時には駒下駄の音がしたじゃアないか」

伴「そうだが、大層綺麗な女で、綺麗程なお怖いもんだ、明日あしたの晩おれと一緒に出な」

みね「ほんとうなら大変だ、わたしゃいやだよう」

伴「そのお嬢様が振袖ふりそでを着て髪を島田に結上ゆいあげ、ごく人柄のいゝ女中が丁寧ていねいに、おれのような者に両手をついて、やせッこけたなんだか淋しい顔で、伴藏さんあなた……」

みね「あゝ怖い」

伴「あゝびっくりした、おれは手前てめえの声で驚いた」

みね「伴藏さん、ちょいといやだよう、それじゃアうしておやりな、私達が萩原様のおかげうやらこうやら口をすごして居るのだから、明日あしたの晩幽霊が来たらば、おまえが一生懸命になって斯うおいいな、まことに御尤ごもっともではございますが、あなたは萩原様におうらみがございましょうとも、私共わたくしども夫婦は萩原様のお蔭で斯うやっているので、萩原様に万一もしもの事がありましては私共夫婦の暮し方が立ちませんから、どうか暮し方の付くようにお金を百両持って来て下さいまし、そうすれば屹度きっとはがしましょうとお云いよ、怖いだろうがお前は酒を飲めば気丈夫になるというから、わたし夜延よなべをしてお酒を五合ばかり買っておくから、酔ったまぎれにそう云ったらうだろう」

伴「馬鹿云え、幽霊に金があるものか」

みね「だからいゝやね、金をよこさなければお札を剥さないやね、それで金もよこさないでお札を剥さなけりゃア取殺とりころすというような訳の分らない幽霊は無いよ、それにお前にはうらみのある訳でもなしさ、ういえば義理があるから心配はない、もしお金を持って来れば剥してやってもいゝじゃアないか」

伴「成程、あの位訳のわかる幽霊だから、そう云ったら得心してけえるかも知れねえ、ことによると百両持って来るものだよ」

みね「持って来たらお札を剥しておやりな、お前考えて御覧、百両あればお前と私は一生困りゃアしないよ」

伴「成程、こいつはうめえ、屹度きっと持って来るよ、こいつは一番やッつけよう」

 と慾というものはおそろしいもので、あくる日は日の暮れるのを待っていました。そうこうする内に日も暮れましたれば、女房はわたしゃ見ないよと云いながら戸棚へ入るという騒ぎで、彼是しているうちも段々とけわたり、もう八ツになると思うから、伴藏は茶碗酒でぐい〳〵引っかけ、酔ったまぎれで掛合う積りでいると、其の内八ツの鐘がボーンと不忍しのばずいけに響いて聞えるに、女房は熱いのに戸棚へ入り、襤褸ぼろかぶって小さく成っている。伴藏は蚊帳のうちにしゃに構えて待っているうち、清水のもとからカランコロン〳〵と駒下駄の音高く、常に変らず牡丹の花の灯籠をげて、朦朧もうろうとして生垣いけがきの外まで来たなと思うと、伴藏はぞっと肩から水をかけられる程怖気立こわけだち、三合呑んだ酒もむだになってしまい、ぶる〳〵ふるえながらいると、蚊帳の側へ来て、伴藏さん〳〵というから、

伴「へい〳〵おでなさいまし」

女「毎晩参りまして、御迷惑の事をお願い申して誠に恐れ入りますが、だ今夜も御札が剥がれて居りませんので這入はいる事が出来ず、お嬢様がおむずかり遊ばし、わたくしが誠に困りますから、どうぞ二人のものを不便ふびん思召おぼしめしてあのお札を剥して下さいまし」

 伴藏はガタ〳〵ふるえながら、

伴「御尤ごもっともさまでございますけれども、私共わたくしども夫婦の者は、萩原様のお蔭様でようやく其の日を送っている者でございますから、萩原様のおからだにもしもの事がございましては、私共夫婦のものがあとで暮し方に困りますから、どうぞ後で暮しに困らないように百両の金を持って来て下さいましたらばすぐに剥しましょう」

 と云うたびに冷たい汗を流し、やっとの思いで云いきりますと、両人は顔を見合せて、しばらく首を垂れて考えて居ましたが。

米「お嬢様、それ御覧ごろうじませ、此のお方におうらみはないのに御迷惑をかけて済まないではありませんか、萩原様はお心変りが遊ばしたのだから、貴方あなたがおしたいなさるのはおむだでございます、うぞふッつりおあきらめあそばして下さい」

露「米や、わたしゃ何うしても諦める事は出来ないから、百目ひゃくめ金子きんすを伴藏さんに上げて御札を剥がしていたゞき、何うぞ萩原様のお側へやっておくれヨウ〳〵」

 といいながら、振袖ふりそでを顔に押しあて潜々さめ〴〵と泣く様子が実に物凄い有様ありさまです。

米「あなた、そう仰しゃいますが何うしてわたくしが百目の金子を持っておろう道理はございませんが、それ程までに御意ぎょい遊ばしますから、どうか才覚をして、明晩持ってまいりましょうが、伴藏さん、まだ御札のほかに萩原さまのふところに入れていらっしゃるおまもりは、海音如来かいおんにょらい様という有難い御守おまもりですから、それが有っては矢張やッぱりお側へまいる事が出来ませんから、何うか其の御守も昼の内にあなたの御工夫でお盗み遊ばして、ほかへお取捨とりすてを願いたいものでございますが、出来ましょうか」

伴「へい〳〵御守を盗みましょうが、百両はうぞ屹度きっと持って来てお呉んなせえ」

米「嬢様それでは明晩までお待ち遊ばせ」

露「米や又今夜も萩原様にお目にかゝらないで帰るのかえ」

 と泣きながらお米に手を引かれてスウーと出てきました。


        十一


 二十四は飯島様はお泊り番で、お國はたゞ寝ても覚めても考えるには、どうがなして宮野邊みやのべの次男源次郎と一つになりたい、いては来月の四日に、殿様と源次郎と中川へつりく約束がある故、源次郎に殿様を川の中へ突落つきおとさせ、殺してしまえば、源次郎は飯島のうちの養子になるまでの工夫は付いたものゝ、此の密談を孝助に立聞たちぎかれましたから、どうがな工夫をして孝助にいとまを出すか、殿様のお手打てうちにでもさせる工夫はないかと、いろ〳〵と考え、しまいには疲れてとろ〳〵仮寝まどろむかと思うと、ふと目が覚めて、と見れば、二けんへだっているふすまがスウーとあきます。以前は屋敷がたにては暑中でも簾障子すだれしょうじはなかったもので、縁側はやはり障子、中は襖で立て切ってありまするのが、サラ〳〵といたかと思うと、スラリ〳〵と忍び足で歩いて参り、又次のお居間の襖をスラリ〳〵と開けるから、お國はハテナ誰かまだ起きて居るかと思っていると、地袋じぶくろの戸がガタ〳〵と音がしたかと思うと、じょうを明ける音がガチ〳〵と聞えましたから、ハテナと思う内スウーットンと襖をしめ、ピシャリ〳〵とすそを引くような塩梅あんばいで台所の方へ出てきますから、ハテ変な事だと思い、お國は気丈な女でありますから起上り、雪洞ぼんぼりって見ると、誰もいないから、地袋の方を見ると戸が明け放してあって、お納戸縮緬なんどちりめんの胴巻が外の方へ流れ出して居たのに驚いて調べて見ると、殿様のお手文庫の錠前を捻切ねじきり、胴巻の中に有った百金子きんす紛失ふんじついたしたに、さては盗賊どろぼうかと思うとあと怖気立こわけだっておくするもので、お國も一驚いたが、たちまち一計を考え出し、此の胴巻の金子の紛失したるをさいわいに、これを証拠として、孝助を盗賊どろぼうに落し、殿様にたきつけて、お手打にさせるかひまを出すか、どの道かに仕ようと、其の胴巻をたもとに入れ置き、臥床ふしどに帰って寝てしまい、翌日になっても知らぬ顔をしており、孝助には弁当を持たせて殿様のお迎いに出してやり、其のあと源助げんすけという若党がほうきげてお庭の掃除に出てまいりました。

國「源助どん」

源「へい〳〵お早うございます、いつも御機嫌よろしゅう、此の節は日中にっちゅうは大層いきれてしのぎ兼ねます、今年のようなきびしい事はございません、うも暑中より酷しいようでございます」

國「源助どん、お茶がはいったから一杯飲みな」

源「へい有難うございます、お屋敷様は高台たかだいでございますから、余程風通しもよくて、へい御門は何うもこと〴〵く熱うございまする、へい、これは何うも有難うございまする、わたくしは御酒をいたゞきませんからお茶は誠に結構で、時々お茶を戴きまするのは何よりのたのしみでございまする」

國「源助どん、お前は八ヶ年ぜん御当家へ来て中々正直者だが、孝助は三月の五日に当家へ御奉公に来たが、孝助は殿様の御意ぎょいりを鼻にかけて、此の節は増長して我儘わがまゝになったから、お前も一つ部屋にいて、時々は腹の立つ事もあるだろうねえ」

源「いえ〳〵う致しまして、あの孝助ぐらいなく出来た人間はございません、其の上殿様思いで、殿様の事と云うと気違きちがいのように成って働きます、年はまだ廿一だそうですが、中々届いたものでございます、そして誠に親切な事はわたくしも感心致しました、先達さきだって私の病気の時も孝助がよッぴて寝ないで看病をしてくれまして、朝もむがらずに早くから起きて殿様のお供を致し、あの位な情合じょうあいのある男はないと私は実に感心をしております」

國「それだからお前は孝助にばかされているのだよ、孝助はお前の事を殿様にどんなに胡麻をするだろう」

源「ヘエー胡麻をすりますか」

國「お前は知らないのかえ、此の間孝助が殿様に云付いいつけるのを聞いていたら、源助はうも意地が悪くて奉公がしにくい、一つ部屋にいるものだから、源助が新参ものとあなどり、種々いろ〳〵いじめ、わたくしに何も教えて呉れませんで仕損しくじるようにばかり致し、お茶がはいっておいしい物を戴いても、源助が一人で食べて仕舞って私にはくれません、本当に意地の悪い男だというものだから、殿様もお腹をお立ち遊ばして、源助は年甲斐もない憎い奴だ、今にいとまを出そうと思っていると仰しゃったよ」

源「へい、これはうも、孝助は途方もない事を云ったもので、これは何うも、わたくしは孝助にそんな事をいわれる覚えはございません、おいしい物を沢山に戴いた時は、孝助殿お前は若いから腹が減るだろうと云って、みんな孝助にやって食べさせる位にしているのになんたる事でしょう」

國「そればかりじゃアないよ孝助は殿様の物をくすねるから、お前孝助と一緒にいると今に掛り合いだよ」

源「へい何かりましたか」

國「へいたッて、お前は何も知らないから今に掛り合いになるよ、たしかに殿様の物を取った事を私は知っているよ、私は先刻さっきから女部屋のものまであらためている位だから、お前はちょっと孝助の文庫をこゝへ持って来ておくれ」

源「掛り合いに成っては困ります」

國「それは私がいように殿様に申上げて置いたから、そっと孝助の文庫を持ってな」

 といわれて、源助はもとより人がいからお國に奸策わるだくみあるとは知らず、部屋へ参りて孝助の文庫を持って参ってお國の前へ差出さしいだすと、お國は文庫のふたを明け、中をあらためるふりをしてそっとのお納戸縮緬の胴巻をたもとから取出とりだして中へズッと差込んで置いて。

國「あきれたよ、殿様の大事な品がこゝに入っているんだもの、今に殿様がお帰りの上で目張めっぱりこでみんなの物をあらためなければ、私のおあずかりの品がなくなったのだから、私が済まないよ、屹度きっと詮議せんぎを致します」

源「へい、人は見かけによらないものでございますねえ」

國「此の文庫を見た事を黙っておいでよ」

源「へいよろしゅうございます」

 と文庫を持って立帰たちかえり、元の棚へ上げて置きました。すると八ツ時、今の三時半頃殿様がお帰りになりましたから、玄関まで皆々みな〳〵お出迎いをいたし、殿様は奥へ通りおしとねの上にお坐りなされたから、いつもならば出来立てのおそなえのようにお國が側から団扇うちわあおぎ立て、ちやほやいうのだが、いつもと違ってふさいでいる故、

飯「お國大分だいぶすまん顔をしているが、気分でも悪いのか、うした」

國「殿様申訳もうしわけのない事が出来ました、昨晩お留守に盗賊どろぼうがはいり、金子が百紛失ふんじついたしました、あのお納戸縮緬の胴巻に入れて置いたのを胴巻ぐるみ紛失いたしました、なんでも昨晩の様子で見ると、台所口の障子が明いたようで、ほかは締りは厳重にしてあって、誰も居りませんから、よくあらためますと、お居間の地袋の中にあるお文庫の錠前が捻切ねじきってありました、それから驚いて毘沙門びしゃもん様にがんがけをしたり、占者うらないしゃに見て貰うと、これは内々うち〳〵の者が取ったに違いないと申しましたから、みんなの文庫や葛籠つゞらを検めようと思って居ります」

飯「そんな事をするには及ばない、内々の者に、百両の金を取る程の器量のある者は一人もいない、ほかから這入はいったぞくであろう」

國「それでも御門の締りは厳重に付けておりますし、たゞ台所口が明いて居たのですから、内々の者をト通り詮議をいたします、……アノお竹どん、おきみどん、みんな此方こちらへ来ておくれ」

竹「とんだ事でございました」

きみ「わたくしはお居間などにはお掃除のほか参った事はございませんが、さぞ御心配な事でございましょう、私なぞは昨晩の事はさっぱり存じませんでございます、誠に驚き入りました」

飯「手前達を疑ぐる訳ではないが、おれが留守で、國が預り中の事ゆえ心配をいたしているものだから」

 女中は

「恐れ入ります、どうぞおあらため下さいまし」

 と銘々めい〳〵葛籠つゞらを縁側へ出す。

飯「たけの文庫にはういう物が入っているか見たいナ成程たまかな女だ、一昨年おとゝしつかわした手拭てぬぐいがチャンとしてあるな、女という者は小切こぎれの端でもチャンと畳紙たとうへいれて置く位でなければいかん、おきみや、手前の文庫を一ツ見てやるから此処こゝへ出せ」

君「わたくしのはうぞ御免あそばして、殿様がじかに御覧あそばさないで下さい」

飯「そうはいかん、竹のをあらためて手前のばかり見ずにいてはうらみッこになる」

君「どうぞ御勘弁恐れ入ります」

飯「何も隠す事はない、成程、ハヽア大層枕草紙まくらぞうしをためたな」

君「恐れ入ります、めたのではございません、親類うちから到来をいたしたので」

飯「言訳いいわけをするな、着物がふえると云うからいわ」

國「アノ男部屋の孝助と源助の文庫をあらためて見とうございます、お竹どん一寸ちょっと二人を呼んでおくれ」

竹「孝助どん、源助どん、殿様のおめしでございますよ」

源「へい〳〵お竹どんなんだえ」

竹「お金が百両紛失ふんじつして、内々うち〳〵の者へお疑いがかゝり、今お調べの所だよ」

源「何処どこから這入はいったろう、何しろ大変な事だ、何しろ行って見よう」

 と両人飯島の前へ出て来て、

源「承わりびっくり致しました、百両の金子きんす御紛失ごふんじつになりましたそうでございますが、孝助とわたくしと御門を堅く守って居りましたに、ういう事でございましょう、さぞ御心配な事で」

飯「なに國が預り中で、大層心配をするから一寸ちょっとあらためるのだ」

國「孝助どん、源助どん、お気の毒だがお前方二人はうもうたぐられますよ、葛籠つゞらをこゝへ持っておで」

源「おあらためを願います」

國「これりかえ」

源「一切合切さいがっさい一世帯ひとしょたい是切これぎりでございます」

國「おや〳〵まア、着物を袖畳そでだゝみにして入れて置くものではないよ、ちゃんと畳んでお置きな、これはなんだえ、ナニ寝衣ねまきだとえ、相変らず無性ぶしょうをして丸めて置いてきたないねえ、此のひもは何だえ、虱紐しらみひもだとえ、きたないねえ、孝助どんお前のをお出し、此の文庫切りか」

 と是から段々ひろちゃくいたしましたが、元より入れて置いた胴巻ゆえ有るに違いない。お國はこれ見よがしに団扇うちわ引掛ひっかけて、すッと差上げ、

國「おい孝助どん此の胴巻はうしてお前の文庫の中に入っていたのだ」

孝「おや〳〵〳〵、さっぱり存じません、何う致したのでしょう」

國「おとぼけでないよ、百両のお金が此の胴巻ぐるみ紛失ふんじつしたから、御神鬮おみくじうらないのと心配をしているのです、是がくなっては何うも私が殿様に済まないからお金を返しておくれよ」

孝「わたくしは取った覚えはありません、どんな事が有っても覚えはありません、へい〳〵何ういう訳で此の胴巻が入っていたか存じません、へえ」

國「源助どん、お前は一番古く此のお屋敷にいるし、年かさも多い事だから、これは孝助どんばかりの仕業しわざではなかろう、お前と二人で心を合せてした事に違いない、源助どんお前から先へ白状しておしまい」

源「これは、わたくしはどうも、これ孝助々々、どうしたんだ、おれが迷惑を受けるだろうじゃないか、私は此のお屋敷に八ヶ年も御奉公をして、殿様から正直と云われているのに年嵩としかさだものだから御疑念ごぎねんを受ける、孝助どうしたか云わねえか」

孝「わたくしは覚えはないよ」

源「覚えはないといったって、胴巻の出たのはうしたのだ」

孝「何うして出たかわたくしゃ知らないよ、胴巻は自然ひとりでに出て来たのだもの」

國「自然ひとりでに出たと云ってすむかえ、胴巻の方から文庫の中へ駆込かけこむやつがあるものか、そら〴〵しい、そんな優しい顔つきをして本当に怖い人だよ、恩も義理も知らない犬畜生とはお前の事だ、私が殿様にすまない」

 と孝助の膝をグッと突く。

孝「何をなさいます、わたくしは覚えはございません、どんな事が有っても覚えはございません〳〵」

國「源助どん、お前から先へ白状おしよ」

源「孝助、おれが困る、己が智慧ちえでも付けたようにお疑ぐりがかゝり、困るから早く白状しろよ」

孝「わたくしゃ覚えはない、そんな無理な事を云ってもいけないよ、ほかの事と違って、だいそれた、家来が御主人様のお金を百両取ったなんぞと、そんな覚えはない」

源「覚えがないとばかり云っても、それじゃア胴巻の出た趣意が立たねえ、己まで御疑念がかゝり困るから、早く白状して殿様の御疑念をはらしてくれろ」

 とこづかれて、孝助は泣きながら、たゞ残念でございますと云っていると、お國は先夜せんやの意趣をはらすは此の時なり、今日こそ孝助が殿様にお手打になるか追出おいだされるかと思えば、心地よく、わざと

「孝助どん云わないか」

 と云いながら力に任せて孝助の膝をつねるから、孝助は身にちっとも覚えなき事なれど、証拠があれば云い解くすべもなく、口惜涙くやしなみだを流し、

孝「いとうございます、どんなに突かれてもつねられても、覚えのない事は云いようがありません」

國「源助どん、お前から先へ云ってしまいな」

源「孝助云わねえか」

 と云いながらドンと突飛つきとばす。

孝「何を突き飛ばすのだね」

源「いつまでも云わずにいちゃア己が迷惑する、云いなよ」

 と又突飛ばす。孝助は両方から抓ねられ突飛ばされたりして、残念でたまらない。

孝「突き飛ばしたって覚えはない、お前もあんまりだ、一つ部屋にいて己の気性も知っているじゃアないか、お庭の掃除をするにも草花一本も折らないように気を附け、釘一本落ちていてもすぐに拾って来て、お前に見せるようにしているじゃアないか、おいらの心も知っていながら、人を盗賊どろぼうと疑ぐるとはあんまひどいじゃアないか、そんなにキャア〳〵いうと殿様までがわたくしを疑ぐります」

 始終を聞いていた飯島は大声を上げて、

飯「黙れ孝助、主人の前もはゞからず大声おおごえを発してしからぬ奴、覚えがなければうして胴巻が貴様の文庫のうちに有ったか、それを申せ、何うして胴巻があった」

孝「何うして有りましたか、さっぱり存じません」

飯「たゞ存ぜぬ知らんと云って済むと思うかえ、不埓ふらちな奴だ、おれが是程目を懸けてやるにサ、其の恩義を打忘うちわすれ、金子を盗むとは不届ふとゞきものめ、手前ばかりではよもあるまい、ほかに同類があるだろう、さア申訳もうしわけが立たんければ手打にしてしまうから左様心得ろ」

 と云放いいはなつ。源助は驚いて、

源「どうかお手打のところは御勘弁を願います、へい又何者にかだまされましたか知れませんから、とくと源助が取調べ御挨拶を申上げまするまでお手打の処はお日延ひのべを願いとう存じます」

飯「黙れ源助、さような事を申すと手前まで疑念が懸るぞ、孝助を構い立てすると手前も手打にするから左様心得ろ」

源「これ孝助、おわびを願わないか」

孝「わたくしは何もお詫をするような不埓をした事はない、殿様にお手打になるのは有難い事だ、家来が殿様のお手に掛って死ぬのは当然あたりまえの事だ、御奉公に来た時から、身体は元より命まで殿様に差上げている気だから、死ぬのは元より覚悟だけれど、是まで殿様の御恩に成った其の御恩を孝助が忘れたと仰しゃった殿様のお言葉、そればかりが冥途よみじさわりだ、しかし是も無実の難で致し方がない、あとで其の金を盗んだ奴が出て、あゝ孝助が盗んだのではない、孝助は無実の罪であったという事が分るだろうから、今お手打に成っても構わない、さア殿様スッパリとお願い申します、お手打になさいまし」

 とり寄ると、

飯「今は日のあるうち血を見せてはけがれる恐れがあるから、夕景になったら手打にするから、部屋へ参って蟄居ちっきょしておれ、これ源助、孝助を取逃とりにがさんように手前に預けたぞ」

源「孝助お詫を願え」

孝「お詫する事はない、お早くお手打を願います」

飯「孝助よく聞け、匹夫ひっぷ下郎げろうという者はおのれの悪い事を余所よそにして、主人をうらみ、むごい分らんとを張ってみずから舌なぞを噛み切り、あるいは首をくゝって死ぬ者があるが、手前は武士のたねだという事だから、よも左様な死にようは致すまいな、手打になるまで屹度きっと待っていろ」

 と云われて孝助は口惜涙くやしなみだの声をふるわせ、

孝「そんな死にようは致しません、早くお手打になすって下さいまし」

源「これ孝助お詫びを願わないか」

孝「どうしても取った覚えはない」

源「殿様は荒い言葉もお掛なすった事もなかったが大枚だいまいの百両の金が紛失ふんじつしたので、金ずくだから御尤ごもっともの事だ、お隣の宮野邊の御次男様にお頼み申し、お詫言わびごとを願っていたゞけ」

孝「隣の次男なんぞに、たとえ舌を喰って死んでも詫言なぞは頼まねえ」

源「そんなら相川様へ願え、新五兵衞様へサ」

孝「何も失錯しくじりかどがないものを、何も覚えがないのだから、あとで金の盗人ぬすみてが知れるに違いない、てんまことてらすというから、其の時殿様が御一言でも、あゝ孝助は可愛相かわいそうな事をしたと云って下されば、そればっかりがわたくしへの手向たむけだ、源助どん、お前にも長らく御厄介になったから、相川様へ養子にくように成ったら、小遣こづかいでも上げようと心懸けていたのも、今となっては水の泡、どうぞわたしがないのちは、お前が一人で二人前ふたりまえの働きをして、殿様を大切に気を付け、忠義をつくして上げて下さい、そればかりがお願いだ、それに源助どんお前は病身だからからだ大切だいじいとって御奉公をし、丈夫でいておくれ、私は身に覚えのない盗賊どろぼうにおとされたのが残念だ」

 と声を放って泣き伏しましたから、源助も同じく鼻をすゝり、涙をこぼして眼をこすりながら、

源「わび事を頼めよ〳〵」

孝「心配おしでないよ」

 と孝助はいよ〳〵手打になる時は、隣の次男源次郎とお國と姦通し、あまつさえ来月の四日中川で殿様を殺そうというたくみの一伍一什ぶしゞゅうくわしく殿様の前へ並べ立て、そしてお手打になろうという気でありますから、少しもおくする色もなく、平常ふだんの通りで居る。其の内にあかりがちら〳〵く時刻と成りますと、飯島の声で、

「孝助庭先へ廻れ」

 という。此のあとうなりますか、次囘つぎまでおあずかり。


        十二


 伴藏のうちでは、幽霊と伴藏と物語をしているうち、女房おみねは戸棚に隠れ、熱さをこらえて襤褸ぼろかぶり、ビッショリ汗をかき、虫の息をころして居るうちに、お米は飯島の娘お露の手を引いて、姿は朦朧もうろうとして掻消かきけす如く見えなく成りましたから、伴藏は戸棚の戸をドン〳〵叩き、

伴「おみね、もう出なよ」

みね「まだ居やアしないかえ」

伴「けえってしまった、出ねえ〳〵」

みね「うしたえ」

伴「何うにもうにもおれが一生懸命に掛合ったから、飲んだ酒もめて仕舞った、おら全体ぜんてい酒さえのめば、さむれえでもなんでもおっかなくねえように気が強くなるのだが、幽霊が側へ来たかと思うと、頭から水を打ちかけられるように成って、すっかりよいも醒め、口もきけなくなった」

みね「私が戸棚で聞いていれば、なんだかお前と幽霊と話をしている声がかすかに聞えて、本当に怖かったよ」

伴「おれは幽霊に百両の金を持って来ておくんなせえ、わっちども夫婦は萩原様のおかげうやらうやら暮しをつけて居ります者ですから、萩原様に万一もしもの事が有りましては私共わたくしども夫婦は暮し方に困りますから、百両のお金を下さったなら屹度きっとお札をはがしましょうというと、幽霊は明日あしたの晩お金を持って来ますからお札を剥してくれろ、それに又萩原様の首に掛けていらっしゃる海音如来の御守おまもりがあっては入る事が出来ないから、どうか工夫をして其のお守を盗み、ほかへ取捨てゝ下さいと云ったは、金無垢きんむくたけは四寸二分の如来様だそうだ、己も此の間お開帳の時ちょっと見たが、あの時坊さんが何か云ってたよ、なんとかいったっけ、あれにちげえねえ、なんでも大変な作物さくものだそうだ、あれを盗むんだが、どうだえ」

かね「どうも旨いねえ、運が向いて来たんだよ、其の如来様はどっかへ売れるだろうねえ」

伴「うして江戸ではむずかしいから、何所どこか知らない田舎へ持って行って売るのだなア、仮令たといつぶしにしてもたいしたものだ、百両や二百両は堅いものだ」

みね「そうかえ、まア二百両あれば、お前と私と二人ぐらいは一生楽に暮すことが出来るよ、それだからねえ、お前一生懸命でおやりよ」

伴「やるともさ、だがしかし首にかけているのだから、容易に放すまい、うしたらかろうナ」

みね「萩原様は此の頃お湯にも入らず、蚊帳かやを吊りきりでお経を読んでばかりいらっしゃるものだから、汗臭いから行水をおつかいなさいと云ってすゝめて使わせて、私が萩原様の身体を洗っているうちにお前がそっとお盗みな」

伴「成程うめえや、だが中々外へは出まいよ」

みね「そんなら座敷の三畳の畳を上げて、あそこで遣わせよう」

 と夫婦いろ〳〵相談をし、翌日湯を沸かし、伴藏は萩原のうちへ出掛けて参り、

伴「旦那え、今日は湯を沸かしましたから行水をお遣いなせえ、旦那をおはつに遣わせようと思って」

新「いや〳〵行水はいけないよ、少し訳があって行水は遣えない」

みね「旦那此の熱いのに行水を遣わないで毒ですよ、お寝衣ねめしも汗でビッショリになって居りますから、お天気ですからうございますが、降りでもすると仕方がありません、身体のお毒になりますからお遣いなさいよ」

新「行水は日暮方表で遣うもので、わたくしは少し訳があって表へ出る事の出来ない身分だからいけないよ」

伴「それじゃアあすこの三畳の畳を上げておつけえなせえ」

新「いけないよ、裸になる事だから、裸になる事は出来ないよ」

伴「隣の占者うらないの白翁堂先生がよくいいますぜ、なんでもきたなくして置くから病気が起ったり幽霊や魔物などが這入はいるのだ、清らかにしてさえ置けば幽霊なぞは這入られねえ、じゞむさくして置くと内から病が出る、又穢くして置くと幽霊がへいって来ますよ」

新「穢くして置くと幽霊が這入って来るか」

伴「来るどころじゃアありません両人ふたりで手を引いて来ます」

新「それでは困る、内で行水を遣うから三畳の畳を上げてくんな」

 というから、伴藏夫婦はしめたと思い、

伴「それたらいを持って来て、手桶ておけへホレ湯を入れて来い」

 などと手早く支度をした。萩原は着物を脱ぎ捨て、首に掛けているおまもりを取りはずして伴藏に渡し、

新「これは勿体もったいないお守だから、神棚へ上げて置いてくんな」

伴「へい〳〵、おみね、旦那の身体を洗って上げな、よく丁寧ていねいにいゝか」

みね「旦那様此方こちらの方をお向きなすっちゃアいけませんよ、もっとえりを下の方へ延ばして、もっとズウッとこゞんでいらっしゃい」

 と襟を洗うふりをして伴藏の方を見せないようにしているひまに、伴藏はの胴巻をこき、ズル〳〵と出して見れば、黒塗くろぬり光沢消つやけしのお厨子ずしで、扉をひらくと中はがたつくから黒い絹でくるんであり、中にはたけ四寸二分、金無垢きんむくの海音如来、そっと懐中へ抜取ぬきとり、代り物がなければいかぬと思い、ねて用心に持って来た同じような重さの瓦の不動様を中へ押込おしこみ、元のまゝにして神棚へ上げ置き、

伴「おみねや長いのう、あんまり長く洗っているとお逆上のぼせなさるから、い加減にしなよ」

新「もう上がろう」

 と身体をき、浴衣ゆかたを着、あゝ心持こゝろもちになった。と着た浴衣は経帷子きょうかたびら、使った行水は湯灌ゆかんとなる事とは、神ならぬ身の萩原新三郎は、誠に心持よく表を閉めさせ、よいの内から蚊帳かやを吊り、其の中で雨宝陀羅尼経うほうだらにきょうしきりに読んで居ります。此方こちらは伴藏夫婦は、持ちつけない品を持ったものだからほく〳〵喜び、うちへ帰りて、

みね「お前立派な物だねえ、中々高そうな物だよ」

伴「なにらたちにはなんだか訳が分らねえが、幽霊は此奴こいつがあると這入へいられねえという程な魔除まよけのおまもりだ」

みね「ほんとうに運が向いて来たのだねえ」

伴「だがのう、此奴こいつがあると幽霊が今夜百両の金を持って来ても、おれの所へ這入へいる事が出来めえが、是にゃア困った」

みね「それじゃアお前出掛けて行って、途中でお目に懸っておでな」

伴「馬鹿ア云え、そんな事が出来るものか」

みね「どっかへ預けたらかろう」

伴「預けなんぞして、伴藏の持物もちものには不似合だ、ういう訳でこんな物を持っていると聞かれた日にゃア盗んだ事が露顕して、此方こっちがお仕置しおきに成ってしまわア、又質に置くことも出来ず、と云ってうちへ置いて、幽霊が札が剥がれたから萩原様の窓から這入へいって、萩原様を喰殺くいころすか取殺とりころした跡をあらためた日にゃア、お守が身体にないものだから、たれか盗んだにちげえねえと詮議になると、うたぐりのかゝるは白翁堂かおれだ、白翁堂は年寄の事で正直者だから、此方こっちのっけに疑ぐられ、家捜やさがしでもされてこれが出ては大変だからうしよう、これを羊羹箱ようかんばこか何かへ入れて畑へ埋めて置き、上へ印の竹を立てゝ置けば、家捜しをされても大丈夫だ、そこで一旦身を隠して、半年か一年も立って、ほとぼりの冷めた時分けえって来て掘出ほりだせば大丈夫知れる気遣きづかいはねえ」

みね「旨い事ねえ、そんなら穴を深く掘って埋めてお仕舞いよ」

 と、すぐに伴藏は羊羹箱の古いのにの像を入れ、畑へ持出もちだ土中どちゅうへ深く埋めて、其の上へ目標めじるしの竹を立置たてお立帰たちかえり、さアこれから百両の金の来るのを待つばかり、前祝いに一杯やろうと夫婦差向さしむかいでたがい打解うちと酌交くみかわし、う今に八ツになる頃だからというので、女房は戸棚へ這入はいり、伴藏一人酒を飲んで待っているうちに、八ツの鐘が忍ヶ岡に響いて聞えますと、一きわ世間がしんと致し、水の流れも止り、草木も眠るというくらいで、壁にすだく蟋蟀こおろぎの声もかすかにあわれもよおし、物凄く、清水の元からいつもの通り駒下駄の音高くカランコロン〳〵と聞えましたから、伴藏は来たなと思うと身の毛もぞっと縮まる程怖ろしく、かたまって、様子をうかゞっていると、生垣いけがきの元へ見えたかと思うと、いつの間にやら縁側の所へ来て、

「伴藏さん〳〵」

 と云われると、伴藏は口が利けない、漸々よう〳〵の事で、

「へい〳〵」

 と云うと、

米「毎晩あがりまして御迷惑の事を願い、誠に恐れ入りまするが、だ今晩も萩原様の裏窓のお札がはがれて居りませんから、どうかお剥しなすって下さいまし、お嬢様が萩原様に逢いたいとわたくしをお責め遊ばし、おむずかって誠に困り切りまするから、どうぞ貴方様あなたさま、二人の者を不便ふびん思召おぼしめしお札を剥して下さいまし」

伴「剥します、へい剥しますが、百両の金を持って来て下すったか」

米「百目の金子たしかに持参致しましたが、海音如来の御守おまもりをお取捨とりすてになりましたろうか」

伴「へい、あれは脇へ隠しました」

米「左様なれば百目の金子お受取うけとり下さいませ」

 とズッと差出さしだすを、伴藏はよもや金ではあるまいと、手に取上とりあげて見れば、ズンとした小判の目方、持った事もない百両の金を見るより伴藏は怖い事も忘れてしまい、ふるえながら庭へり立ち、

「御一緒におでなせえ」

 と二間梯子にけんばしご持出もちだし、萩原の裏窓のしたみへ立て懸け、慄える足を踏締ふみしめながらよう〳〵登り、手を差伸ばし、お札を剥そうとしても慄えるものだから思うように剥れませんから、力を入れて無理に剥そうと思い、グッと手を引張ひっぱる拍子に、梯子がガクリと揺れるに驚き、足を踏みはずし、さかとんぼうを打って畑の中へころげ落ち、起上おきあがる力もなく、お札を片手につかんだまゝ声をふるわし、たゞ南無阿弥陀仏〳〵と云っていると、幽霊は嬉しそうに両人顔を見合せ、

米「嬢様、今晩は萩原様にお目にかゝって、十分にお怨みを仰しゃいませ、さアいらっしゃい」

 と手を引き伴藏の方を見ると、伴藏はお札をつかんで倒れて居りますものだから、そでで顔を隠しながら、裏窓からズッとうちへ這入りました。


        十三


 飯島平左衞門のうちでは、お國が、今夜こそねて源次郎としめあわせた一大事を立聞たちぎきした邪魔者の孝助が、殿様のお手打てうちになるのだから、仕すましたりと思うところへ、飯島が奥から出てまいり、

飯「國、國、誠にとんだ事をした、たとえにもなゝたび捜して人を疑ぐれという通り、紛失ふんじつした百両の金子が出たよ、金の入れ所は時々取違えなければならないものだから、おれほかへ仕舞って置いて忘れていたのだ、みんなに心配を掛けて誠に気の毒だ、出たから悦んでくれろ」

國「おやまアお目出度めでとうございます」

 と口には云えど、腹の内ではちっとも目出たい事もなんにもない。うして金が出たであろうと不審が晴れないで居りますと、

飯「女どもをみんなこゝへ呼んでくれ」

國「お竹どん、おきみどんみんなこゝへおで」

竹「只今承わりますればお金が出ましたそうでおめでとう存じます」

君「殿様誠におめでとうございます」

飯「孝助も源助もこゝへ呼んで来い」

女「孝助どん源助どん、殿様がめしますよ」

源「へい〳〵、これ孝助お詫事わびごとを願いな、お前は全く取らないようだが、お前の文庫の中から胴巻が出たのがお前があやまり、詫ごとをしなよ」

孝「いゝよ、いよ〳〵お手打になるときは、殿様の前でわたくしならべ立てる事がある、それを聞くとお前はさぞ悦ぶだろう」

源「なに嬉しい事があるものか、殿様が召すからマア行こう」

 と両人連立つれだってまいりますと、

飯「孝助、源助、此方こっちへ来てくれ」

源「殿様、只今部屋へ往って段々孝助へ説得を致しましたが、どうも全く孝助はらないようにございます、お腹立はらだちの段は重々御尤ごもっともでござりますが、お手打の儀は何卒なにとぞ廿三までお日延ひのべの程を願いとう存じます」

飯「まアいゝ、孝助これへ来てくれ」

孝「はいお庭でお手打になりますか、〓(「蓙」の左の「人」に代えて「口」)をこれへ敷きましょうか、血がれますから」

飯「縁側へ上がれ」

孝「へい、これはお縁側でお手打、これは有がたい、勿体もったいない事で」

飯「そう云っちゃア困るよ、さて源助孝助、誠に相済まん事であったが、百両の金は実はおれ仕舞処しまいどころを違えて置いたのが、用箪笥ようだんすから出たから喜んでくれ、家来だからあんなにうたぐってもよいが、ほかの者でもあっては己が言訳いいわけのしようもない位な訳で、誠に申しわけがない」

孝「お金が出ましたか、さようなればわたくし盗賊どろぼうではなく、おうたぐりは晴れましたか」

飯「そうよ、疑りはすっぱり晴れた、己が間違いであったのだ」

孝「えゝ有がとうござります、わたくしもとよりお手打になるのはいといませんけれども、たゞ全く私が取りませんのを取ったかと思われまするのが冥路よみじさわりでございましたが、御疑念が晴れましたならお手打は厭いません、サヽお手打になされまし」

飯「己が悪かった、これが家来だからいゝが、朋友ほうゆうか何かであった日にゃア腹を切っても済まない所、家来だからといって、無闇にうたぐりを掛けては済まない、飯島が板の間へ手を突いてこと〴〵く詫びる、堪忍して呉れ」

孝「あゝ勿体ない、誠に嬉しゅうございました、源助どん」

源「誠にどうも」

飯「源助、手前は孝助をうたぐって孝助を突いたからあやまれ」

源「へい〳〵孝助どん、誠に済みません」

飯「たけや何かも何か少し孝助を疑ったろう」

竹「ナニ疑りは致しませんが、孝助どんは平常ふだんの気性にも似合ないことだと存じまして、ちっとばかり」

飯「矢張り疑ったのだから謝まれ、きみも謝まれ」

竹「孝助どん、誠にお目出度めでとう存じます、先程は誠に済みません」

飯「これ國、貴様は一番孝助を疑り、膝を突いたり何かしたから余計に謝まれ、己でさえ手をついて謝ったではないか、貴様は猶更なおさら丁寧に詫をしろ」

 と云われてお國は、此度こんどこそ孝助がお手打になる事と思い、心のうちで仕済ましたりと思っているところへ、金子が出て、孝助に謝まれと云うから残念でたまらないけれども、仕方がないから、

國「孝助どん誠に重々すまない事を致しました、うか勘弁しておくんなさいましよ」

孝「なによろしゅうございます、お金が出たからいが、しお手打にでもなるなら、殿様の前でお為になる事を並べたてて死のうと思って……」

 と急込せきこんで云いかけるを、飯島は、

飯「孝助何も云って呉れるな己にめんじて何事もいうな」

孝「恐れ入ります、金子は出ましたが、の胴巻はうしてわたくしの文庫から出ましたろう」

飯「あれはホラいつか貴様が胴巻の古いのを一つ欲しいと云った事があったっけノウ、其の時おれが古いのを一つやったじゃないか」

孝「ナニさような事は」

飯「貴様がそれ欲しいと云ったじゃないか」

孝「草履取の身の上で縮緬ちりめんのお胴巻を戴いたとて仕方がございません」

飯「此奴こいつ物覚えの悪いやつだ」

孝「わたくしより殿様は百両のお金を仕舞い忘れる位ですから貴方あなたの方が物覚えがわるい」

飯「成程これはおれがわるかった、何しろ目出度めでたいからみんな蕎麦そばでも喰わせてやれ」

 と飯島は孝助の忠義のこゝろざしはかねて見抜いてあるから、孝助が盗み取るようなことはないと知っている故、金子は全く紛失ふんじつしたなれども、別に百両を封金ふうきんこしらえ、此の騒動を我が粗忽そこつにしてぴったりと納まりがつきました。飯島は斯程かほどまでに孝助を愛する事ゆえ、孝助も主人のめには死んでもよいと思い込んで居りました。くて其の月も過ぎて八月の三日となり、いよ〳〵明日あすはお休みゆえ、殿様と隣邸となりの次男源次郎と中川へつりく約束の当日なれば、孝助は心配をいたし、今夜隣の源次郎が来て当家に泊るに相違ないから、殿様に明日みょうにちの釣をおめなさるように御意見を申し上げ、もしうしてもお聞入きゝいれのない其の時は、今夜客間に寝ている源次郎めがちゅう二階に寝ているお國の所へ廊下伝いに忍びくに相違ないから、廊下で源次郎を槍玉やりだまにあげ、中二階へ踏込ふみこんでお國を突殺つきころし、自分は其の場を去らず切腹すれば、何事もなく事済ことずみになるに違いない、これが殿様へ生涯の恩返し、しかし何うかして明日みょうにち主人をりょうにやりたくないから、一応は御意見をして見ようと、

孝「殿様明日みょうにちは中川へ漁にいらっしゃいますか」

飯「あゝくよ」

孝「度々たび〳〵申上げるようですが、お嬢様がお亡くなりになり、もない事でございまするから、お見合みあわせなすっては如何いかゞ

飯「おれほかたのしみはなく釣がごく好きで、番がこむから、たまには好きな釣ぐらいはしなければならない、それをめてくれては困るな」

孝「貴方あなたは泳ぎを御存じがないから水辺すいへんのお遊びはよろしくございません、それともたって入っしゃいますならば孝助お供いたしましょう、何うか手前お供にお連れください」

飯「手前は釣は嫌いじゃないか、供はならんよ、く人の楽みを止める奴だ、止めるな」

孝「じゃア今晩やって仕舞います、長々御厄介になりました」

飯「何を」

孝「え、なんでも宜しゅうございます、此方こちらの事です、殿様わたくしは三月二十一日に御当家へ御奉公に参りまして、新参者の私を、人がうらやましがる程お目を掛けてくださり、御恩義の程は死んでも忘れはいたしません、死ねば幽霊になって殿様のお身体に附きまとい、凶事のない様に守りまするが、全体貴方は御酒を召上れば前後も知らずおやすみになる、又召上がらねば少しもお寝みになる事が出来ません、御酒も随分気を散じますから少々は召上がっても宜しゅうございますが、多分に召上ってお酔いなすっては、仮令たといどんなに御剣術が御名人でも、悪者がどんなことを致しますかも知れません、私はそれが案じられてなりません」

飯「さような事は云わんでも宜しい、あちらへ参れ」

孝「へえ」

 と立上がり、廊下を二足ふたあし三足みあしきにかゝりましたが、れがもう主人の顔の見納めかと思えば、足も先に進まず、又振返って主人の顔を見てポロリと涙を流し、悄々しお〳〵としてきますから、振返るを見て飯島もハテナと思い、しばし腕こまぬき、小首かたげて考えて居りました。孝助は玄関に参り、欄間らんまかゝってある槍をはずし、手に取ってさやはずしてあらためるに、真赤まっかびて居りましたゆえ、庭へり、砥石といし持来もちきたり、槍の身をゴシ〳〵ぎはじめていると、

飯「孝助々々」

孝「へい〳〵」

飯「なんだ、何をする、どう致すのだ」

孝「これは槍でございます」

飯「槍を研いでう致すのだえ」

孝「あんま真赤まっかさびておりますから、なんぼ泰平の御代みよとは申しながら、狼藉ろうぜきものでもりますと、其の時のお役に立たないと思い、身体が閑でございますから研ぎ始めたのでございます」

飯「錆槍さびやりで人が突けぬような事では役にたゝんぞ、仮令たとえ向うに一寸幅すんはゞ鉄板てついたがあろうとも、此方こちらの腕さえたしかならプツリッと突き抜ける訳のものだ、錆ていようが丸刃まるはであろうが、さような事に頓着とんじゃくはいらぬから研ぐには及ばん、又憎い奴を突殺つきころす時は錆槍で突いた方が、先の奴が痛いから此方がかえっていゝ心持こゝろもちだ」

孝「成程こりゃアそうですな」

 と其のまゝ槍を元のところへ掛けて置く。飯島は奥へ這入り、其の晩源次郎がまいり酒宴さかもりが始まり、お國が長唄の春雨はるさめかなにか三味線さみせんを掻きならし、当時の九時過まで興を添えて居りましたが、もうおひけにしましょうと客間へ蚊帳を一抔に吊って源次郎を寝かし、お國はちゅう二階へ寝てしまいました。お國は誰が泊っても中二階へ寝なければ源次郎の来た時不都合だから、何時いつでもお客さえあればこゝへ寝ます。も段々と更け渡ると、孝助は手拭てぬぐい眉深まぶか頬冠ほおかむりをし、紺看板こんかんばん梵天帯ぼんてんおびを締め、槍を小脇に掻込かいこんで庭口へ忍び込み、雨戸を少々ずつ二所ふたところ明けて置いて、花壇のうちへ身をひそめ隠し縁の下へ槍を突込つきこんで様子をうかゞっている。そのうちツの鐘がボーンと鳴り響く。此の鐘は目白の鐘だから少々早めです。するとさらり〳〵と障子を明け、抜足ぬきあしをして廊下を忍び来る者は、寝衣姿ねまきすがたなれば、たしかに源次郎に相違ないと、孝助は首を差延さしのべ様子を窺うに、行灯あんどうの明りがぼんやりと障子に映るのみにて薄暗く、はっきりそれとは見分けられねど、段々中二階の方へくから、孝助はいよ〳〵源次郎に違いなしとやりすごし、戸の隙間すきまから脇腹を狙って、物をも云わず、力に任せて繰出くりだす槍先はあやまたず、プツリッと脾腹ひはらへ掛けて突きとおす。突かれて男はよろめきながら左手ゆんでのばして槍先を引抜ひきぬきさまグッと突返つきかえす。突かれて孝助たじ〳〵と石へつまずき尻もちをつく。男は槍の穂先をつかみ、縁側より下へヒョロ〳〵と降り、沓脱石くつぬぎいしに腰を掛け、

「孝助外庭へ出ろ〳〵」

 と云われて孝助、オヤ、と言って見ると、びっくりしたは源次郎と思いのほか、大恩受けたる主人の肋骨あばらへ槍を突掛つきかけた事なれば、アッとばかりにあきれはて、たゞキョトキョト〳〵として逆上のぼせあがってしまい、呆気あっけに取られて涙も出ずにいる。

飯「孝助こちらへ来い」

 と気丈な殿様なればたもとにて疵口きずぐちしっかと押えてはいるものゝ、のりあふれてぼたり〳〵と流れ出す。飯島は血にみたる槍を杖として、飛石伝とびいしづたいにヒョロ〳〵と建仁寺垣の外なる花壇の脇の所へ孝助を連れて来る。孝助は腰が抜けてしまって、歩けないで這って来た。

孝「へい〳〵間違まちがいでござります」

飯「孝助おれ上締うわじめを取って疵口を縛れ、早く縛れ」

 と云われても、孝助は手がブル〳〵とふるえて思うまゝに締らないから、飯島自ら疵口をグッと堅く締め上げ、なお手をもって其の上を押え、根府川ねぶかわの飛石の上へペタ〳〵と坐る。

孝「殿様、とんでもない事をいたしました」

 とばかりに泣出なきいだす。

飯「静かにしろ、ほかへ洩れてはよろしくないぞ、宮野邊源次郎めを突こうとして、あやまって平左衞門を突いたか」

孝「大変な事をいたしました、実は召仕めしつかいのお國と宮野邊の次男源次郎ととくより不義をしていて、先月あとげつ廿一日お泊番とまりばんの時、源次郎がお國のもとへ忍び込み、お國と密々ひそ〳〵話して居る所へうっかりわたくしがお庭へ出て参り、様子を聞くと、殿様がいらっしゃっては邪魔になるゆえ、来月の四日中川にて殿様を釣舟から突落つきおとして殺してしまい、体能ていよくおかしらに届けをしてしまい、源次郎を養子に直し、お國と末長く楽しもうとの悪工わるだくみ、聞くに堪え兼ね、怒りに任せ、思わずうなる声を聞きつけ、お國が出て参り、彼此かれこれと言いあいはしたものゝ、源次郎の方には殿様から釣道具の直しを頼みたいとの手紙をもって証拠といたし、一わたくし云い籠められ、弓のおれにてしたゝか打たれ、いまだに残る額のきず口惜くやしくてたまり兼ね、表向おもてむきにしようとは思ったなれど、此方こちらは証拠のない聞いた事、ことに向うは次男の勢い、無理でもおさえ付けられて私はおいとまになるに相違ないと思い諦め、の事は胸にたゝんでしまって置き、いよ〳〵明日みょうにちは釣においでになるお約束日ゆえお止め申しましたが、お聞入れがないから、是非なく、今晩二人の不義者を殺し、其の場を去らず切腹なし、殿様の難義をお救い申そうと思うた事はいすかはし喰違くいちがい、とんでもない間違をいたしました、主人の為にあだを討とうと思ったに、かえって主人を殺すとは神も仏もない事か、なんたる因果な事であるか、殿様御免遊ばせ」

 と飛石へ両手をつき孝助は泣き転がりました。飯島は苦痛をこらえながら、

飯「あゝ〳〵不束ふつゝかなる此の飯島を主人と思えばこそ、それ程までに思うてくれる志かたじけない、なんぼかたき同士とは云いながら現在汝の槍先に命を果すとは輪廻応報りんねおうほう、あゝ実に殺生は出来んものだなア」

孝「殿様敵同士とは情ない、なんわたくしは敵同志でございますの」

飯「其の方が当家へ奉公に参ったは三月廿一日、其の時それがし非番にて貴様の身の上を尋ねしに、父は小出の藩中にて名をば黒川孝藏と呼び、今を去る事十八年前、本郷三丁目藤村屋新兵衞という刀屋の前にて、何者とも知れず人手にかゝり、非業の最期を遂げたゆえ、親のかたきを討ちたいと、若年の頃より武家奉公を心掛け、漸々よう〳〵の思いで当家へ奉公ずみをしたから、どうか敵の討てるよう剣術を教えて下さいと手前の物語りをした時、びっくりしたというは、拙者がまだ平太郎と申し部屋住のおりの孝藏といさゝかの口論がもとゝなり、切捨てたるはかく云う飯島平左衞門であるぞ」

 と云われて孝助はたゞへい〳〵とばかりに呆れ果て、張詰めた気もひょろぬけて腰が抜け、ペタ〳〵と尻もちを突き、呆気に取られて、飯島の顔を打眺うちながめ、茫然として居りましたが、しばらくして、

孝「殿様そう云う訳なれば、なぜ其の時にそう云っては下さいません、お情のうございます」

飯「現在親の敵と知らず、主人に取って忠義を尽す汝の志、ことに孝心深きにで、不便ふびんなものと心得、いつか敵と名告なのって汝に討たれたいと、さま〴〵に心痛いたしたなれど、かりそめにも一旦主人とした者に刃向はむかえば主殺しゅうごろしの罪はのがれ難し、されば如何いかにもして汝をば罪に落さず、敵と名告り討たれたいと思いし折から、相川より汝を養子にしたいとの所望しょもうに任せ、養子につかわし、一人前の侍となして置いてかたきと名告り討たれんものと心組んだる其のところへ、國と源次郎めが密通したをいかって、二人の命を絶たんとの汝の心底、最前庭にて錆槍をぎし時よりさとりしゆえ、機をはずさず討たれんものと、わざと源次郎のかたちをして見違えさせ、槍で突かして孝心の無念をこゝにはらさせんと、かくは計らいたる事なり、今汝が錆槍にて脾腹を突かれし苦痛より、先の日汝が手を合せ、親の敵の討てるよう剣術を教えてくだされと、頼まれた時のせつなさは百倍ましであったるぞ、定めて敵を討ちたいだろうが、我が首を切る時はたちまち主殺しの罪に落ちん、されば我まげをば切取って、これにて胸をば晴し、其の方は一先ひとまずこゝを立退たちのいて、相川新五兵衞方へ密々みつ〳〵に万事相談致せ、此の刀はさきつ頃藤村屋新兵衞方にて買わんと思い、見ているうちに喧嘩となり、汝の父を討ったる刀、中身は天正助定なれば、是を汝に形見としてつかわすぞ、又此のつゝみうちには金子百両とくわしく跡方あとかたの事の頼み状、これをひらいて読下よみくだせば、我が屋敷の始末のあらましは分る筈、汝いつまでも名残なごりを惜しみて此所こゝにいる時は、汝は主殺しゅうころしの罪に落るのみならず、飯島の家は改易となるは当然あたりまえ、此の道理を聞分けてく参れ」

孝「殿様、どんな事がございましょうとも此の場は退きません、仮令たとえ親父おやじをお殺しなさりょうが、それは親父が悪いから、かくまでなさけある御主人を見捨てゝわき立退たちのけましょうか、忠義の道を欠く時は矢張やはり孝行は立たない道理、一旦主人と頼みしお方を、粗相そそうとは云いながら槍先にかけたはわたくしあやまり、おわびの為に此の場にて切腹いたして相果てます」

飯「馬鹿な事を申すな、手前に切腹させる位なら飯島はかくまで心痛はいたさぬわ、左様な事を申さず早くけ、もし此の事が人の耳にりなば飯島の家に係わる大事、くわしい事は書置かきおきに有るから早くかぬか、これ孝助、一旦主従しゅうじゅうの因縁を結びし事なれば、あだは仇恩は恩、よいか一旦仇を討ったるあとは三も変らぬ主従と心得てくれ、敵同士でありながら汝の奉公に参りし時から、どう云う事か其のほうが我が子のように可愛くてなア」

 と云われ孝助は、おい〳〵と泣きながら、

孝「へい〳〵、これまで殿様の御丹誠を受けまして、剣術といい槍といい、なま兵法に覚えたが今日かえって仇となり、腕が鈍くばくまでに深くは突かぬものであったに、御勘弁なすってくださいまし」

 と泣き沈む。

飯「これ早く往け、往かぬと家はつぶれるぞ」

 とき立てられ、孝助は止むを得ず形見の一刀腰に打込み、包を片手に立上り、主人のめいに随って脇差抜いて主人の元結もとゆいをはじき、大地へどう泣伏なきふし、

孝「おさらばでございます」

 と別れを告げてこそ〳〵門を出て、早足に水道端なる相川の屋敷に参り。

孝「お頼ん申します〳〵」

相「善藏やたれか門を叩くようだ、御廻状ごかいじょうが来たのかも知らん、一寸ちょっと出ろ、善藏や」

善「へい〳〵」

相「なんだ、返事ばかりしていてはいかんよ」

善「只今明けます、只今、へい真暗まっくらでさっぱり訳がわからない、只今々々、へい〳〵、どっちが出口だか忘れた」

 コツリと柱で頭をッつけ、アイタアイタヽヽヽと寝惚眼ねぼけまなこをこすりながら戸をひらいて表へ立出たちいで、

善「外の方がよっぽど明るいくらいだ、へい〳〵どなた様でございます」

孝「飯島の家来孝助でございますが、よろしくお取次を願います」

善「御苦労様でございます、只今明けます」

 と石の吊してある門をがッたん〳〵と明ける。

孝「夜中やちゅうあがりまして、おしずまりに成ったところを御迷惑をかけました」

善「まだ殿様はおしずまりなされぬようで、まだ御本ごほんのお声が聞えますくらい、ずお這入はいり」

 と内へ入れ、善藏は奥へ参り、

善「殿様、只今飯島様の孝助様がいらっしゃいました」

相「それじゃアこれへ、アレ、コリャ善藏寝惚てはいかん、これ蚊帳の釣手を取って向うの方へやって置け、これ馬鹿何を寝惚ているのだ、寝ろ〳〵、仕方のない奴」

 とつぶやきながら玄関まで出迎え、

「これは孝助殿、さア〳〵おあがり、今では親子の中何も遠慮はいらない、ズッと上れ」

 と座敷へ通し、

相「さて孝助殿、夜中やちゅうのお使つかい定めて火急の御用だろう、承りましょう、えゝう云う御用か、なんだ泣いているな、男が泣くくらいではよく〳〵な訳だろうが、どうしたんだ」

孝「夜中上り恐れ入りますが、不思議の御縁、御当家様の御所望に任せ、主人得心の上わたくし養子のお取極とりきめはいたしましたが、深い仔細がございまして、どうあっても遠国へ参らんければなりませんゆえ、此の縁談は破談と遊ばして、どうか外々ほか〳〵から御養子をなされて下さいませ」

相「はいナア成程よろしい、お前が気に入らなければ仕方が無いねえ、高は少なし、娘は不束ふつゝかなり、しゅうとは此の通りの粗忽家そゝッかしやで一つとして取り所がない、だが娘がお前の忠義を見抜いてわずらうまでに思い込んだもんだから、殿様にも話し、お前の得心の上取極めた事であるのを、お前一人来て破縁をしてくれろと云ってもそれは出来ないな、殿様が来てお取極めになったのを、お前一人で破るには、何か趣意がなければ破れまい、左様じゃござらんか、どう云う訳だか次第を承わりましょう、娘が気に入らないのか、舅が悪いのか、高が不足なのか、んだ」

孝「決してそういう訳ではございません」

相「それじゃアお前は飯島様を失錯しくじりでもしたか、どうも尋常たゞの顔付ではない、お前は根が忠義の人だから、しくじってハッと思い、腹でも切ろうか、遠方へでもこうと云うのだろうが、そんな事をしてはいかん、しくじったならわたくしが一緒に行って詫をしてやろう、もうお前は結納まで取交とりかわせをした事だから、内の者、云い付けて、孝助どのとは云わせず、孝助様と呼ばせるくらいで、云わば内のせがれを来年の二月婚礼を致すまで、先の主人へ預けて置くのだ、少しぐらいの粗相が有ったッてしくじらせる事があるものか、と不理窟をいえばそんなものだが、マア一緒に行こう、行ってやろう」

孝「いえ、そう云う訳ではございません」

相「何だ、それじゃアどう云う訳だ」

孝「申すに申し切れない程な深い訳がございまして」

相「はゝア分った、宜しい、そう有るべき事だろう、どうもお前のような忠義もの故、飯島様が相川へ行ってやれ、ハイと主命をそむかずこたえはしたものゝ、お前の器量だから先に約束をした女でもあるのだろう、所が今度の事を其の女が知って私が先約だから是非とも女房にしてくれなければ主人に駆込んで此の事を告げるとか、何とか云い出したもんだから、お前はハッと思い、其の事が主人へ知れては相済まん、それじゃアお前を一緒に連れて遠国へ逃げようと云うのだろう、なに一人ぐらいの妾はあっても宜しい、おかしら一寸ちょっと届けて置けば仔細はない、もっともの事だ、娘は表向の御新造ごしんぞとして、内々ない〳〵ところは其の女を御新造として置いてもいゝ、わたくしが取る分まいを其の女にやりますから宜しい、わたくしが行って其の女に逢って頼みましょう、其の女は何者じゃ、芸者かんだ」

孝「そんな事ではございません」

相「それじゃア何んだよ、エイ何んだ」

孝「それではお話をいたしまするが、殿様は負傷ておいでいます」

相「ナニ負傷で、何故なぜ早く云わん、それじゃア狼藉者ろうぜきものが忍び込み、飯島が流石さすが手者てしゃでも多勢たぜい無勢ぶぜい切立きりたてられているのを、お前が一方を切抜けて知らせに来たのだろう、宜しい、手前は剣術は知らないが、若い時分に学んで槍は少々心得ておる、参ってお助太刀をいたそう」

孝「さようではございません、実は召使の國と隣の源次郎がとうから密通をして」

相「へい、やっていますか、呆れたものだ、そういえばちら〳〵そんな噂もあるが、恩人の思いものをそんな事をして憎い奴だ、人非人にんぴにんですねえ、それから〳〵」

孝「先月の廿一日、殿様お泊番とまりばんに、源次郎がひそかにお國のもとへ忍び込み、明日みょうにち中川にて殿様を舟から突落し殺そうとの悪計わるだくみを、わたくし立聞たちぎゝをした所から、争いとなりましたが、此方こちらは悲しいかな草履取の身の上、向うは二男のいきおいなれば喧嘩はまけとなったのみならず、弓の折にて打擲ちょうちゃくされ、額に残る此のきずも其の時打たれた疵でございます」

相「不届至極な奴だ、お前なぜ其の事をすぐに御主人に云わないのだ」

孝「申そうとは思いましたが、わたくしの方は聞いたばかり、証拠にならず、向うには殿様から、ひまがあったらよるにでもうちへ参って釣道具の損じを直して呉れとの頼みの手紙がある事ゆえ、表沙汰にいたしますれば、主人は必ず隣へ対し、義理にも私はおいとまに成るに違いはありません、さすればあとにて二人の者が思うがまゝに殿様を殺しますから、どうあってものおやしきは出られんと今日まで胸をさすって居りましたが、明日あした愈々いよ〳〵中川へ釣においでになる当日ゆえ、それとなく今日殿様に明日あしたの漁をお止め申しましたが、お聞入れがありませんから、止むを得ず、今宵こよいの内に二人の者を殺し、其の場で私が切腹すれば、殿様のお命に別条はないと思い詰め、槍をげて庭先へ忍んで様子をうかゞいました」

相「誠に感心感服、アヽ恐れ入ったね、忠義な事だ、誠にうも、それだから娘よりわしが惚れたのだ、お前の志は天晴あっぱれなものだ、其の様な奴は突放つきッぱなしでいよ、腹は切らんでも宜いよ、わたしのようにもお頭にとゞけを出して置くよ、それから何うした」

孝「そういたしますると、廊下を通る寝衣姿ねまきすがたたしかに源次郎と思い、繰出す槍先あやまたず、脇腹深く突き込みましたところ間違って主人を突いたのでございます」

相「ヤレハヤ、それはなんたることか、しかし疵は浅かろうか」

孝「いえ、深手でございます」

相「イヤハヤどうも、なぜ源次郎と声を掛けて突かないのだ、無闇に突くからだ、困った事をやったなア、だがあやまって主人を突いたので、お前が不忠者でない悪人でない事は御主人は御存じだろうから、間違いだと云う事を御主人へ話したろうね」

孝「主人はくより得心にて、わざと源次郎の姿と見違えさせ、わたくしに突かせたのでござります」

相「これはマア何ゆえそんな馬鹿な事をしたんだ」

孝「わたくしには深い事は分りませんが、此のお書置にくわしい事がございますから」

 と差出す包を、

相「拝見いたしましょう、どれこれかえ、大きな包だ、前掛が入っている、ナニばあやアのだ、なぜこんな所に置くのだ、そっちへ持ってけ、コレ本のに眼鏡があるから取ってくれ」

 と眼鏡を掛け、行灯あんどんの明り掻き立て読下よみくだして相川も、ハッとばかりに溜息ためいきをついて驚きました。


        十四


 伴藏は畑へ転がりましたが、両人の姿が見えなくなりましたから、ふるえながらよう〳〵起上り、泥だらけのまゝうちへ駈け戻り、

伴「おみねや、出なよ」

みね「あいよ、どうしたえ、まア私は熱かったこと、膏汗あぶらあせがビッショリ流れる程出たが、我慢をして居たよ」

伴「手前てめえは熱い汗をかいたろうが、おらつめてえ汗をかいた、幽霊が裏窓から這入はいって行ったから、萩原様は取殺とりころされて仕舞うだろうか」

みね「私の考えじゃア殺すめえと思うよ、あれは悔しくって出る幽霊ではなく、恋しい〳〵と思っていたのに、お札が有って這入れなかったのだから、是が生きている人間ならば、お前さんはあんまりな人だとかなんとか云って口説くぜつでも云う所だから殺す気遣きづかいはあるまいよ、どんな事をしているか、お前見ておいでよ」

伴「馬鹿をいうな」

みね「表から廻ってそっと見ておいでヨウ〳〵」

 といわれるから、伴藏は抜足ぬきあしして萩原の裏手へ廻り、しばらくして立帰たちかえり、

みね「大層長かったね、どうしたえ」

伴「おみね、成程手前てめえの云う通り、何だかゴチャ〳〵話し声がするようだからのぞいて見ると、蚊帳かやが吊って有って何だか分らないから、裏手の方へ廻るうちに、話し声がパッタリとやんだようだから、大方仲直りが有って幽霊と寝たのかも知れねえ」

みね「いやだよ、詰らない事をお云いでない」

 といううちもしら〳〵と明け離れましたから、

伴「おみね、夜が明けたから萩原様の所へ一緒に往って見よう」

みね「いやだよわたしゃ夜が明けても怖くっていやだよ」

 というのを、

伴「マア往きねえよ」

 と打連うちつれだち。

伴「おみねや、戸を明けねえ」

みね「いやだよ、何だか怖いもの」

伴「そんな事を云ったって、手前てめえが毎朝戸を明けるじゃアねえか、ちょっと明けねえな」

みね「戸の間から手を入れてグッと押すと、栓張棒しんばりぼうが落ちるから、お前お明けよ」

伴「手前てめえそんな事を云ったって、毎朝来て御膳を炊いたりするじゃアねえか、それじゃア手前手を入れて栓張だけ外すがいゝ」

みね「私ゃいやだよ」

伴「それじゃアいゝや」

 と云いながら栓張を外し、戸を引き開けながら、

伴「御免ねえ、旦那え〳〵夜が明けやしたよ、明るくなりやしたよ、旦那え、おみねや、音も沙汰もねえぜ」

みね「それだからいやだよ」

伴「手前てめえ先へへいれ、手前はこゝの内の勝手をよく知っているじゃアねえか」

みね「怖い時は勝手も何もないよ」

伴「旦那え〳〵、御免なせえ、夜が明けたのに何怖いことがあるものか、日の恐れがあるものを、なんで幽霊がいるものか、だがおみね世の中に何が怖いッて此の位怖いものアえなア」

みね「あゝ、いやだ」

 伴藏はつぶやきながら中仕切なかじきりの障子を明けると、真暗まっくらで、

伴「旦那え〳〵、よく寝ていらッしゃる、まだ生体しょうてえなくく寝ていらッしゃるから大丈夫だ」

みね「そうかえ、旦那、夜が明けましたからきつけましょう」

伴「御免なせえ、わっちが戸を明けやすよ、旦那え〳〵」

 と云いながら床の内を差覗さしのぞき、伴藏はキャッと声を上げ、

「おみねや、おらアもう此のくれえな怖いもなア見た事はねえ」

 とおみねは聞くよりアッと声をあげる。

伴「おゝ手前てめえの声でなお怖くなった」

みね「うなっているのだよ」

伴「何うなったのうなったのと、実になんともとも云いようのねえこええことだが、これを手前てめえとおれと見たばかりじゃア掛合かゝりえいにでもなっちゃア大変てえへんだから、白翁堂の爺さんを連れて来て立合たちえいをさせよう」

 と白翁堂の宅へ参り、

伴「先生〳〵伴藏でごぜえやす、ちょっとお明けなすって」

白「そんなに叩かなくってもいゝ、寝ちゃアいねえんだ、うに眼が覚めている、そんなに叩くと戸がこわれらア、どれ〳〵待っていろ、あゝたゝゝゝ戸を明けたのに己の頭をなぐる奴があるものか」

伴「急いだものだから、つい、御免なせえ、先生ちょっと萩原様の所へ往って下せえ、何うかしましたよ、大変てえへんですよ」

白「何うしたんだ」

伴「何うにも斯うにも、わっちが今おみねと両人ふたりでいって見て驚いたんだから、おめえさん一寸ちょっと立合って下さい」

 と聞くより勇齋も驚いて、あかざの杖をき、ポク〳〵と出掛けて参り、

白「伴藏おめえ先へ入んなよ」

伴「わっちは怖いからいやだ」

白「じゃアおみねおめえ先へ入れ」

みね「いやだよ、私だって怖いやねえ」

白「じゃアいゝ」

 と云いながら中へ這入ったけれども、真暗で訳が分らない。

白「おみね、ちょっと小窓の障子を明けろ、萩原氏、どうかなすったか、お加減でも悪いかえ」

 と云いながら、床の内を差覗さしのぞき、白翁堂はわな〳〵とふるえながら思わずあとさがりました。


        十五


 相川新五兵衞は眼鏡を掛け、飯島の遺書かきおきをば取る手おそしと読み下しまするに、孝助とは一旦主従しゅうじゅうちぎりを結びしなれどもかたき同士であったること、孝助の忠実にで、孝心の深きに感じ、主殺しゅうころしの罪に落さずして彼が本懐を遂げさせんがため、わざと宮野邊源次郎と見違えさせ討たれしこと、孝助を急ぎ門外もんそといだり、自身に源次郎の寝室ねまに忍び入り、彼が刀の鬼となる覚悟、さすれば飯島のうちは滅亡致すこと、彼等両人我を打って立退たちのく先は必定お國の親元なる越後の村上ならん、いては汝孝助時を移さず跡追掛け、我があだなる両人の生首ひっさげて立帰り、しゅうかたきを討ちたるかどもって我が飯島の家名再興の儀をかしらに届けくれ、其の時は相川様にもお心添えの程ひとえに願いいとのこと、又汝は相川へ養子に参る約束を結びたれば、娘お徳どのと互いにむつましく暮し、両人の間に出来た子供は男女なんにょかゝわらず、孝助の血統ちすじを以て飯島の相続人と定めくれ、あと斯々云々こう〳〵しか〴〵と、実に細かに届く飯島の家来思いの切なるなさけに、孝助は相川の遺書かきおきを読む、息をもつかず聞いていながら、膝の上へぽたり〳〵と大粒な熱い涙をこぼしていましたが、突然いきなり剣幕けんまくを変えて表の方へ飛出そうとするを、

相「これ孝助殿、血相変えて何処どこきなさる」

 と云われて孝助は泣声を震わせ、

孝「只今お遺書かきおきの御様子にては、主人はわたくしを急いで出し、あとで客間へ踏込んで源次郎と闘うとの事ですが、如何いかに源次郎が剣術を知らないでも、殿様があんな深傷ふかでにてお立合なされては、彼が無残の刃の下に果敢はかなくお成りなされるは知れた事、みす〳〵かたきを目の前に置きながら、恩あり義理ある御主人を彼等にむごく討たせますは実に残念でござりますから、すぐに取って返し、お助太刀を致す所存でございます」

相「分らない事を云わっしゃるな、御主人様が是だけの遺書かきおきをおつかわしなさるは何のめだと思わッしゃる、そんな事をしなさると、飯島のいえつぶれるから、やしきく事は明朝までお待ち、此の遺書の事を心得てこれを反故ほごにしてはならんぜ」

 と亀の甲より年の功、流石さすが老巧ろうこうの親身の意見に孝助はかえす言葉もありませんで、口惜くやしがり、たゞ身を震わして泣伏しました。話かわって飯島平左衞門は孝助を門外もんそとに出し、急ぎ血潮したたる槍を杖とし、蟹のように成ってよう〳〵に縁側に這い上がり、よろめく足を踏みしめ踏みしめ、段々と廊下を伝い、そっと客間の障子をひらき中へり、十二畳一杯に釣ってある蚊帳の釣手つりてを切り払い、彼方あなたへはねのけ、グウ〳〵とばかり高鼾たかいびき前後あとさきも知らずている源次郎のほうあたりを、血にみた槍の穂先にてペタリ〳〵と叩きながら、

飯「おきろ〳〵」

 と云われて源次郎頬がやりとしたに不図ふと目をさまし、と見れば飯島が元結はじけてちらし髪で、眼は血走り、顔色は土気色つちけいろになり、血のしたたる手槍をピタリッと付け立っている有様を見るより、源次郎は早くもすいし、アヽヽこりア流石さすが飯島は智慧者ちえしゃだけある、己と妾のお國と不義している事をさとられたか、さなくば例の悪計を孝助が告げ口したに相違なし、何しろ余程の腹立はらだちだ、飯島は真影流の奥儀おうぎきわめた剣術の名人で、旗下はたもと八万騎の其の中に、肩を並ぶるものなき達人の聞えある人に槍を付けられた事だから、源次郎はぎょっとして、枕頭まくらもとの一刀を手早く手元に引付けながら、ふるえる声を出して、

源「伯父様、何をなさいます」

 と一生懸命面色めんしょく土気色に変わり、眼色めいろ血走りました。飯島も面色土気色で目が血走りているから、あいこでせえでございます。源次郎は一刀の鍔前つばまえに手を掛けてはいるものゝ、気憶きおくれがいたし刃向う事は出来ませんですくんで仕舞いました。

源「伯父様、わたくしをどうなさるお積りで」

 飯島は深傷ふかでを負いたる事なれば、ふるえる足を踏み止めながら、

飯「何事とは不埓ふらちな奴だ、汝がとくより我が召使國と不義姦通いたずらしているのみならず、明日みょうにち中川にて漁船りょうせんより我を突き落し、命を取った暁に、うま〳〵此の飯島の家を乗取のっとらんとの悪だくみ、恩を仇なる汝が不所存、云おうようなき人非人にんぴにん、此の場において槍玉に揚げてくれるから左様心得ろ」

 と云い放たれて、源次郎は、剣術はからっ下手ぺたにて、放蕩ほうとうを働き、大塚の親類に預けられる程な未熟不鍛錬ふたんれんな者なれども、飯島は此の深傷ふかでにては彼の刃に打たれて死するに相違なし、しかし打たれて死ぬまでも此の槍にてしたゝかに足を突くか手を突いて、亀手てんぼう跛足びっこにでもして置かば、後日ごにち孝助が敵討かたきうちる時幾分かの助けになる事もあるだろうから、何処どっかを突かんと狙い詰められ、

源「伯父さまわたくしは何も槍で突かれる様な覚えはございません」

飯「黙れ」

 と怒りの声を振立てながら、一歩ひとあし進んで繰出くりだ槍鋒やりさき鋭く突きかける。源次郎はアッと驚き身をかわしたが受け損じ、太股へ掛けブッツリと突き貫き、今一本突こうとしましたが、孝助に突かれた深傷ふかでえ兼ね、蹌々よろ〳〵とする所を、源次郎は一本突かれ死物狂いになり、一刀を抜くより早く飛込みさま飯島目掛けて切り付ける。切付けられてアッと云ってひょろめくところへ、又、太刀深く肩先へ切込まれ、アッと叫んで倒れる処へ乗し掛って、まる河岸かしまぐろでもこなす様に切って仕舞いました。お國はちゅう二階に寝ていましたが、此の物音を聞き附け、寝衣ねまきまゝ階子はしごを降り、そっと来て様子をうかゞうと、此の体裁ていたらくに驚き、あわてゝ二階へあがったり下へ下りたりしていると、源次郎が飯島にとゞめを刺したようだから、お國は側へ駈付かけつけて、

國「源さま、貴方あなたにお怪我はございませんか」

 源次郎は肩息をつきフウ〳〵とばかりで返事も致しません。

國「あなた黙っていては分りませんよ、お怪我はありませんか」

 といわれて源次郎はフウ〳〵といいながら、

源「怪我はないよ、誰だ、お國さんか」

國「貴方あなたのお足から大層血が出ますよ」

源「これは槍で突かれました、手強てづよい奴と思いのほかなアにわけはなかった、しか此処こゝ何時迄いつまでこうしてはられないから、両人ふたりで一緒に何処いずくへなりとも落延おちのびようから、早く支度をしな」

 と云われてお國は成程そうだと急ぎ奥へ駈戻り、手早く身支度をなし、用意の金子や結構な品々を持来もちきたり、

國「源さまこの印籠いんろうをおげなさいよ、この召物めしものを召せ」

 と勧められ、源次郎は着物を幾枚も着て、印籠を七つ提げて、大小を六本し、帯を三本締めるなど大変な騒ぎで、漸々よう〳〵支度が整ったから、お國とともに手を取って忍びでようとするところを、仲働きの女中お竹が、先程より騒々しい物音を聞付け、来て見れば此の有様に驚いて、

「アレ人殺し」

 という奴を、源次郎が驚いて、此の声人に聞かれてはと、一刀抜くより飛込んで、デップリふとって居る身体を、肩口から背びらへ掛けて斬付きりつける。斬られてお竹はキャッと声をあげて其のまゝ息は絶えました。ほかの女どもゝ驚いて下流しへ這込むやら、又は薪箱まきばこの中へもぐり込むやら騒いでいるうちに、源次郎お國の両人りょうにん此処こゝを忍びで、何処いずくともなく落ちてく。あとで源助は奥の騒ぎを聞きつけて、いきなり自分の部屋を飛びだし、こぶしふるって隣家となりへいを打ち叩き、破れるような声を出して、

源「狼藉ものが這入りました〳〵」

 と騒ぎ立てるに、隣家となりの宮野邊源之進はこれを聞附きゝつけ思うよう、飯島のごとき手者てしゃところへ押入る狼藉ものだから、大勢たいぜい徒党ととうしたに相違ないから、成るたけ遅くなって、夜が明けてく方がいゝと思いず一同を呼起よびおこし、蔵へまいって著込きごみを持ってまいれの、小手こて脛当すねあての用意のと云っているうちに、はほの〴〵と明け渡りたれば、もう狼藉者はいる気遣きづかいはなかろうと、源之進は家来一二にんを召連れ来て見れば此の始末。如何いかゞしたる事ならんと思うところへ、一人ひとりの女中が下流しから這上はいあがり、源之進の前に両手をつかえ、

「実は昨晩の狼藉者は、貴方様の御舎弟おしゃてい源次郎様とお國さんと、うから密通しておでになって、昨夜殿様を殺し、金子衣類を窃取ぬすみとり、何処いずくともなく逃げました」

 と聞いて源之進は大いに驚き、早速にやしきへ立帰り、急ぎおかしらへ向け源次郎が出奔しゅっぽんおもむきとゞけを出す。飯島の方へはお目附が御検屍ごけんしに到来して、段々死骸をあらため見るに、脇腹に槍の突傷つきゝずがありましたから、源次郎如き鈍き腕前にてはても飯島を討つ事はかなうまじ、されば必ず飯島の寝室ねまに忍び入り、熟睡の油断に附入つけいりて槍をもっだまし討ちにした其ののちに、刀を以て斬殺きりころしたに相違なしということで、源次郎はお尋ね者となりましたけれども、飯島のいえ改易かいえきと決り、飯島の死骸は谷中新幡随院へおくり、こっそりと野辺送りをしてしまいました。こちらは孝助、御主人がわたくしめに一命をお捨てなされた事なるかと思えば、いとゞ気もふさぎ、欝々としていますと、相川はお頭から帰って、

相「婆アや、少し孝助殿と相談があるから此方こちらへ来てはいかんよ、首などを出すな」

婆「何か御用で」

相「用じゃないのだよ、そっちへ引込ひっこんでいろ、これ〳〵茶を入れて来い、それから仏様へ線香を上げな、さて孝助殿少し話したい事もあるから、まア〳〵此方こっちへ〳〵、誰にもいわれんが、先以まずもって御主人様のお遺書かきおき通りに成るから心配するには及ばん、お前は親のかたきは討ったから、是からは御主人は御主人として、其の敵をかえし、飯島のお家再興だよ」

孝「仰せに及ばず、もとより敵討の覚悟でございます、此ののち万事に付きよろしくお心添こゝろぞえの程を願います」

相「此の相川は年老いたれども、其の事は命に掛けて飯島様の御家おいえの立つように計らいます、そこでお前は何日いつ敵討に出立しゅったつなさるえ」

孝「最早一刻も猶予致す時でございませんゆえ、みょう早天そうてん出立致す了簡です」

相「明日あしたぐに、左様かえ、余りや過ぎるじゃないか、宜しい此の事ばかりはめられない、もう一日々々と引き広ぐ事は出来ないが、お前の出立ぜんわし折入おりいって頼みたい事があるが、どうかかなえては下さるまいか」

孝「のような事でも宜しゅうございます」

相「お前の出立前に娘お徳と婚礼の盃だけをして下さい、ほかに望みは何もない、どうか聞済きゝすんで下さい」

孝「一旦お約束申した事ゆえ、婚礼を致しまして宜しいようなれど、主人よりのお約束申したは来年の二月、ことに目の前にて主人があの通りになられましたのに、只今婚礼を致しましては主人の位牌へ対して済みません、敵討の本懐をげ立帰り、目出度めでたく婚礼を致しますれば、どうぞそれ迄お待ち下さるように願います」

相「それはお前の事だから、遠からず本懐を遂げて御帰宅になるだろうが、敵の行方ゆくえが知れない時は、五年で帰るか十年でお帰りになるか、幾年掛るか知れず、それに私はもう取る年、明日あすをも知れぬ身の上なれば、此の悦びを見ぬ内帰らぬ旅におもむく事があっては冥途よみじさわり、殊に娘も煩う程お前を思っていたのだから、どうか家内だけで、盃事さかずきごとを済ませて置いて、安心させてくださいな、それにお前も飯島の家来では真鍮巻の木刀を差してかなければならん、それより相川の養子となり、其の筋へ養子の届をして、一人前ひとりまえの立派な侍に出立いでたって往来すれば、途中で人足などに馬鹿にもされずかろうから、うぞ家内だけの祝言を聞済んでください」

孝「至極御尤ごもっともなる仰せです、家内だけなれば違背いはいはございません」

相「御承知くだすったか、千万かたじけない、あゝ有難い、相川は貧乏なれども婚礼の入費の備えとして五六十両は掛ると見込んで、別にして置いたが、これはお前の餞別に上げるから持って行っておくれ」

孝「金子は主人から貰いましたのが百両ございますから、もう入りません」

相「アレサいくら有ってもいのは金、殊に長旅のことなれば、邪魔でもあろうがそう云わずに持って行ってください、そこで私がこまかい金をって、襦袢じゅばんの中へ縫い込んで置く積りだから、肌身離さず身にけて置きなさい、道中には胡麻の灰という奴があるから随分気をお付けなさい、それに此の矢立をさしておで、又これなる一刀はねて約束して置いた藤四郎吉光の太刀たち、重くもあろうが差してお呉れ、是と御主人のお形見天正助定を差してけば、舅と主人がお前の後影うしろかげに付添っているも同様、勇ましき働きをなさいまし」

孝「有りがとうございます」

相「うか今夜不束ふつゝかな娘だが婚礼をしてくだされ、これ婆、明日あしたは孝助殿が目出度めでたく御出立だ、そこで目出度いついでに今夜婚礼をする積りだから、徳に髪でも取り上げさせ、お化粧でもさせて置いてくれ、其の前に仕事がある、此の金を襦袢へ縫込んでくれ、善藏や、手前はすぐに水道町の花屋へ行って、目出度く何か頭付かしらつきの魚を三枚ばかり取って来い、序でに酒屋へ行って酒を二升、味淋みりんを一升ばかり、それから帰りに半紙を十じょうばかりに、煙草を二玉に、草鞋わらじの良いのを取って参れ」

 といい付け、そうこうするうちに支度も整いましたから、酒肴さけさかなを座敷に取並べ、媒妁なこうどなり親なり兼帯けんたいにて、相川が四海浪静かにとうたい、三々九度の盃事さかずきごと、祝言の礼も果て、ずお開きと云う事になる。

相「あゝ〳〵婆ア、誠に目出度かった」

婆「誠にお目出とう存じます、わたくしはお嬢様のおちいさい時分からお附き申して御婚礼をなさるまで御奉公いたしましたかと存じますと、誠に嬉しゅうございます、あなたさぞ御安心でございましょう」

相「婆アいゝかえ、頼むよ、おいらは明日あしたの朝早く起るから、お前飯を炊かして、孝助殿に尾頭付きでぽッぽッと湯気の立つ飯を食べさして立たせてやりたいから、いゝかえ、ゆるりとお休み、先ずおひらきと致しましょう、孝助殿どうか幾久しく願います、娘はまだ年もいかず、世間知らずの不束者だから何分宜しくお頼み申す、氷人なこうどは宵のうちだから、婆アいゝかえ、頼んだぜ」

婆「貴方あなたは頼む〳〵と仰しゃって何でございます」

相「分らない婆アだな、嬢の事をサ、あすこへちょっと屏風を立廻たてまわして、恥かしくないように、宜しいか、それがサ誠に彼女あいつが恥かしがって、もじ〳〵としているだろうから旨くソレ」

婆「旦那様なんのお手付きでございますよ」

相「此奴こいつわからぬ奴だナ、手前だって亭主を持ったから子供が出来たのだろう、子供が出来たのち乳が出て、乳母に出たのだろう、ホレ娘は年がいかないからいゝ塩梅あんばいにホレ、いゝか」

婆「貴方は本当に何時いつまでもお嬢様をおちいさいように思召おぼしめしていらっしゃいますよ、大丈夫でございますよ」

相「成程目出たい、いかえ頼むよ」

婆「旦那様、お嬢様お休み遊ばせ」

 と云っても、孝助はお國源次郎の跡を追い掛け、うと種々いろ〳〵心配などして腕こまねき、床の上に坐り込んでいるから、お徳も寝るわけにもいかず坐っているから、

婆「左様なれば旦那様御機嫌様宜しく、お嬢様先程申しました事は宜しゅうございますか」

徳「貴方少しお静まり遊ばせな」

孝「私は少し考え事がありますから、あなたお構いなくお先へお休みなすって下さいまし」

徳「ばあやア一寸ちょっと来ておくれ」

婆「ハイ、なんでございます」

徳「旦那様がお休みなさらなくって」

 と云いさして口ごもる。

婆「貴方お静まりあそばせ、それではお嬢様がお休みなさる事が出来ませんよ」

孝「只今寝ます、どうかお構いなく」

婆「誠にどうもお堅過かたすぎでお気が詰りましょう、御機嫌様よろしゅう」

徳「あなた少しお横におなり遊ばしまし」

孝「どうかお先へお休みなさい」

徳「婆やア」

婆「困りますねえ、あなた少しお休みあそばせ」

徳「婆やア」

 とのべつに呼んでいるから孝助も気の毒に思い、横になって枕をつけ、玉椿たまつばき八千代やちよまでと思い思った夫婦なか、初めての語らい、誠にお目出たいお話でございます。翌日あしたになると、暗いうちから孝助は支度をいたし、

相「これ〳〵婆アや、支度は出来たかえ、御膳を上げたか、湯気は立ったかえ、善藏に板橋まで送らせてる積りだから、荷物は玄関の敷台しきだいまで出して置きな、孝助殿御膳をあがれ」

孝「お父様とっさま御機嫌よろしゅう、長い旅ですからつど〳〵書面をあげる訳にも参りません、たゞ心配になるのはお父様のお身体、どうかわたくしが本懐を遂げ帰宅致すまで御丈夫におであそばせよ、かたきの首をげてお目に掛け、お悦びのお顔が見とうございます」

相「お前も随分身体を大事にして下さい、どうか立派に出立して下さい、種々いろ〳〵と云いたい事もあるが、キョト〳〵して云えないから何も云いません、娘んで袖を引張ひっぱるのだ」

徳「お父様、旦那様は今日お立ちになりましたら、いつ頃お帰宅になるのでございますのでしょう」

相「まだ分らぬ事をいう、いつまでもちいさい子供のような気でいちゃアいけないぜ、旦那さまは御主人の敵討に御出立なさるので、伊勢参宮や物見遊山にくのではない、敵を討ち遂げねばお帰りにはならない、何だなきつらをして」

徳「でも大概いつ頃お帰りになりましょうか」

相「おれにも五年かゝるか十年かゝるか分らない」

徳「そんなら五年も十年もお帰りあそばさないの」

 と云いながら潜々さめ〴〵と泣きしおれる。

相「これ、何が悲しい、しゅうの敵を討つなどゝ云う事は、侍のうちにも立派な事だ、かゝる立派な亭主を持ったのは有難いと思え、目出度い出立だ、何故なぜ笑い顔をして立たせない、手前が未練を残せば少禄の娘だから未練だ、意気地いくじがないと孝助殿に愛想あいそを尽かされたらうする、孝助殿歳がいかない子供のような娘だから、気にかけて下さるな、婆ア何を泣く」

婆「わたくしだってお名残なごりが惜しいから泣きます、貴方も泣いて入らっしゃるではございませんか」

相「己は年寄だから宜しい」

 と言訳をしながら泣いていると、孝助は、

「さようならば御機嫌よろしゅう」

 と玄関の敷台をり草鞋を穿こうとする、其の側へお徳はすり寄りたもとを控え、涙に目もとをうるましながら、

「御機嫌様よろしく」

 とすがり付くを孝助はなだめ、善藏に送られ出立しました。


        十六


 白翁堂勇齋は萩原新三郎の寝所ねどこくり、実にぞっと足の方から総毛立つほど怖く思ったのも道理、萩原新三郎は虚空をつかみ、歯を喰いしばり、面色土気色に変り、余程な苦しみをして死んだものゝ如く、其の脇へ髑髏どくろがあって、手とも覚しき骨が萩原の首玉くびったまにかじり付いており、あとは足の骨などがばら〳〵になって、床のうち取散とりちらしてあるから、勇齋は見てびっくりし、

白「伴藏これはなんだ、おれは今年六十九に成るが、んな怖ろしいものは初めて見た、支那の小説なぞにはよく狐を女房にしたの、幽霊に出逢ったなぞと云うことも随分あるが、斯様かような事にならないように、新幡随院の良石和尚に頼んで、有難い魔除まよけ御守おまもりを借り受けて萩原の首を掛けさせて置いたのに、うも因縁はのがれられないもので仕方がないが、伴藏首に掛けて居る守を取って呉れ」

伴「怖いからわっちゃアいやだ」

白「おみね、こゝへ来な」

みね「わたくしもいやですよ」

白「何しろ雨戸を明けろ」

 と戸を明けさせ、白翁堂が自ら立って萩原の首に掛けたる白木綿の胴巻を取外とりはずし、グッとしごいてこき出せば、黒塗光沢消つやけしの御厨子にて、中を開けばこは如何いかに、金無垢の海音如来と思いのほか、いつしか誰か盗んですり替えたるものと見え、中は瓦に赤銅箔しゃくどうはくを置いた土の不動としてあったから、白翁堂はアッと呆れて茫然と致し、

白「伴藏これは誰が盗んだろう」

伴「なんだかわっちにゃアさっぱり訳が分りません」

白「これは世にもとうとき海音如来の立像にて、魔界も恐れて立去るという程な尊い品なれど、新幡随院の良石和尚が厚いなさけの心より、萩原新三郎を不便ふびんに思い、貸して下され、新三郎は肌身放さず首にかけていたものを、うして斯様かようにすり替えられたか、誠に不思議な事だなア」

伴「成程なア、わっちどもにゃアなんだか訳が分らねえが、観音様ですか」

白「伴藏手前を疑る訳じゃアねえが、萩原の地面うちに居る者は己と手前ばかりだ、よもや手前は盗みはしめえが、人の物を奪う時は必ず其のそうあらわれるものだ、伴藏一寸ちょっと手前の人相を見てやるから顔を出せ」

 と懐中より天眼鏡を取出され、伴藏は大きに驚き、見られては大変と思い。

伴「旦那え、冗談いっちゃアいけねえ、わっちのようなんなつらは、どうせ出世の出来ねえ面だから見ねえでもいゝ」

 と断る様子を白翁堂は早くもすいし、ハヽアこいつ伴藏がおかしいなと思いましたが、なまなかの事を云出して取逃がしてはいかぬと思い直し、

白「おみねや、事柄の済むまでは二人でよく気を付けて居て、なるたけ人に云わないようにしてくれ、己は是から幡随院へ行って話をして来る」

 とあかざの杖を曳きながら幡随院へやって来ると、良石和尚は浅葱木綿あさぎもめんの衣をちゃくし、寂寞じゃくまくとして坐布団の上に坐っている所へ勇齋たり、

白「これは良石和尚いつも御機嫌よろしく、とかく今年は残暑の強い事でございます」

良「やア出て来たねえ、此方こっちへ来なさい、誠に萩原も飛んだことになって、到頭とうとう死んだのう」

白「えゝあなたはよく御存じで」

良「側に悪い奴が附いて居て、又萩原ものがれられない悪因縁で仕方がない、定まるこッちゃ、いゝわ心配せんでもよいわ」

白「道徳高き名僧智識は百年先の事を看破みやぶるとの事だが、貴僧あなたの御見識誠に恐れ入りました、きましてわたくしが済まない事が出来ました」

良「海音如来などを盗まれたと云うのだろうが、ありゃア土の中に隠してあるが、あれは来年の八月には屹度きっと出るから心配するな、よいわ」

白「わたくし陰陽おんようって世を渡り、未来の禍福を占って人の志を定むる事は、私承知して居りますけれども、こればかりは気が付きませなんだ」

良「どうでもよいわ、萩原の死骸はほかに菩提所も有るだろうが、飯島の娘お露とは深い因縁がある事ゆえ、あれの墓に並べて埋めて石塔を建てゝやれ、お前も萩原に世話になった事もあろうから施主に立ってやれ」

 と云われ白翁堂は委細承知とうけをして寺をたちで、路々みち〳〵うして和尚があの事を早くもさとったろうと不思議に思いながら帰って来て、

白「伴藏、貴様も萩原様には恩になっているから、野辺の送りのお供をしろ」

 と跡の始末を取り片付け、萩原の死骸は谷中の新幡随院へ葬ってしまいました。伴藏は如何いかにもして自分の悪事をかくそうため、今の住家すまい立退たちのかんとは思いましたけれども、あわてた事をしたら人の疑いがかゝろう、あゝもしようか、こうもしようかとやっとの事で一策を案じいだし、自分から近所の人に、萩原様の所へ幽霊の来るのを己がたしかに見たが、幽霊が二人でボン〳〵をして通り、一人は島田髷しまだまげ新造しんぞで、一人は年増で牡丹の花の付いた灯籠をげていた、あれを見る者は三日を待たず死ぬから、己は怖くて彼処あすこにいられないなぞと云触いいふらすと、聞く人々は尾に尾を付けて、萩原様の所へは幽霊が百人来るとか、根津の清水では女の泣声がするなど、さま〴〵の評判が立ってちり〴〵人がほか引起ひっこしてしまうから、白翁堂も薄気味悪くや思いけん、此処こゝ引払ひきはらって、神田旅籠町かんだはたごちょう辺へ引越ひっこしました。伴藏おみねはこれをしおに、何分怖くてられぬとて、栗橋くりはし在は伴藏の生れ故郷の事なれば、中仙道栗橋へ引越しました。


        十七


 伴藏は悪事の露顕を恐れ、女房おみねと栗橋へ引越ひっこし、幽霊から貰った百両あればずしめたと、懇意の馬方久藏きゅうぞうを頼み、此の頃は諸式が安いから二十両で立派なうちを買取り、五十両を資本もとでおろ荒物見世あらものみせを開きまして、関口屋せきぐちや伴藏と呼び、初めの程は夫婦とも一生懸命働いて、安く仕込んで安く売りましたから、たちまち世間の評判を取り、関口屋の代物しろものは値が安くて品がいゝと、方々ほう〴〵から押掛けて買いに来るほどゆえ、大いに繁昌をきわめました。凡夫盛んに神祟りなし、人盛んなる時は天に勝つ、人定まって天人に勝つとは古人の金言うべなるかな、もとより水泡銭あぶくぜにの事なれば身につく道理のあるべき訳はなく、翌年の四月頃から伴藏は以前の事も打忘れ少し贅沢ぜいたくがしたくなり、の小紋の羽織が着たいとか、帯は献上博多を締めたいとか、雪駄せった穿いて見たいとか云い出して、一日あるひ同宿の笹屋さゝやという料理屋へあがり込み、一ぱいやっている側に酌取女しゃくとりおんなに出た別嬪べっぴんは、年は二十七位だが、うしても廿三四位としか見えないというすこぶ代物しろものを見るよりも、伴藏は心を動かし、二階を下りて此のの亭主に其の女の身上みのうえを聞けば、さる頃夫婦の旅人りょじんが此の家へ泊りしが、亭主は元は侍で、如何いかなる事か足のきずの痛みはげしく立つ事ならず、一日々々との長逗留ながどうりゅうつい旅用りょようをもつかいはたし、そういつ迄も宿屋の飯を食ってもいられぬ事なりとて、夫婦には土手下へ世帯しょたいを持たせ、女房は此方こちらへ手伝い働き女として置いて、わずかな給金で亭主を見継みついでいるとかの話を聞いて、伴藏は金さえ有れば何うにもなると、其の日は幾許いくらか金を与え、綺麗に家に帰りしが、これよりせっ〳〵と足近く笹屋に通い、金びら切って口説くどきつけ、遂にの女と怪しい中になりました。一体此の女は飯島平左衞門の妾お國にて、宮野邊源次郎と不義を働き、あまつさえ飯島を手に掛け、金銀衣類を奪い取り、江戸を立退たちのき、越後の村上へ逃出しましたが、親元絶家ぜっけして寄るべなきまゝ、段々と奥州路を経囘へめぐりて下街道しもかいどうへ出て参り此の栗橋にてわずらい付き、宿屋の亭主のなさけを受けて今の始末、もとより悪性あくしょうのお國ゆえたちまち思うよう、此の人は一代身上いちだいじんしょう俄分限にわかぶげんに相違なし、此の人の云う事を聞いたなら悪い事もあるまいと得心したる故、伴藏は四十を越して此のような若い綺麗な別嬪にもたつかれた事なれば、有頂天界うちょうてんがいに飛上り、これより毎日こゝにばかり通い来て寝泊りを致しておりますと、伴藏の女房おみねは込上こみあが悋気りんきの角も奉公人の手前にめんじ我慢はしていましたが、或日あるひのこと馬をいて店先を通る馬子を見付け、

みね「おや久藏さん、素通りかえ、あんまりひどいね」

久「ヤアお内儀かみさま、大きに無沙汰を致しやした、ちょっくり来るのだアけど今ア荷い積んで幸手さってまで急いでゆくだから、寄っている訳にはいきましねえが、此間こないだ小遣こづかいを下さって有難うごぜえます」

みね「まアいゝじゃアないか、お前はうちの親類じゃないか、一寸ちょっとお寄りよ、一ぱい上げたいから」

久「そうですかえ、それじゃア御免なせい」

 と馬を店の片端にゆわい付け、裏口から奥へ通り、

久「おら此家こっちの旦那の身寄りだというので、みんなに大きに可愛かわいがられらア、このうち身上しんしょうは去年から金持になったから、おらも鼻が高い」

 と話のうちにおみねは幾許いくらか紙に包み、

みね「なんぞ上げたいが、あんまり少しばかりだが小遣こづかいにでもして置いておくれよ」

久「これアどうも、毎度めいど戴いてばかりいて済まねえよ、いつでも厄介やっけえになりつゞけだが、折角の思し召しだから頂戴いたして置きますべい、おやさわって見た所じゃアえらく金があるようだから単物ひとえものでも買うべいか、大きに有難うござります」

みね「なんだよそんなにお礼を云われてはかえって迷惑するよ、ちょいとお前に聞きたいのだが、うちの旦那は、四月頃から笹屋へよくお泊りなすって、お前も一緒に行って遊ぶそうだが、お前は何故私に話をおしでない」

久「おれ知んねえよ」

みね「おとぼけで無いよ、ちゃんと種があがっているよ」

久「種が上るかさがるからア知んねえものを」

みね「アレサ笹屋の女のことサ、ゆうべうちの旦那が残らず白状してしまったよ、私はお婆さんになって嫉妬やきもちをやく訳ではないが旦那の為を思うから云うので、あの通りないきな人だから、悉皆すっかりと打明けて、私に話して、ゆうべは笑ってしまったのだが、お前があんまりしらばっくれて、素通りをするから呼んだのさ、云ったッていじゃアないかえ」

久「旦那どんが云ったけえ、アレマアわれさえ云わなければ知れる気遣きづけえはねえ、われが心配しんぺいだというもんだから、お前さまの前へ隠していたんだ、夫婦の情合じょうあいだから、云ったらおめえあんまり心持もくあんめえと思ったゞが、そうけえ旦那どんが云ったけえ、おれ困ったなア」

みね「旦那は私に云って仕舞ったよ、お前と時々一緒に行くんだろう」

久「あの阿魔女あまっちょは屋敷者だとよ、亭主は源次郎さんとか云って、足へきずが出来て立つ事が出来ねえで、土手下へ世帯しょたいを持っていて、女房は笹屋へ働き女をしていて、亭主をすごしているのを、旦那が聞いて気の毒に思い、可愛相にと思って、一番始め金え三分くれて、二度目の時二両あとから三両それから五両、一ぺんに二十両やった事もあった、ありゃお國さんとか云って廿七だとか云うが、おめえさんなんぞより余程よっぽど…ナニおまえさまとはちげえ、屋敷もんだから不意気ぶいきだが、なか〳〵い女だよ」

みね「何かえ、あれは旦那が遊びはじめたのは何時いつだッけねえ、ゆうべ聞いたがちょいと忘れて仕舞った、お前知っているかえ」

久「四月の二日からかねえ」

みね「呆れるよ本当にマア四月から今まで私に打明けて話しもしないで、呆れかえった人だ、どんなに私が鎌を掛けてうちの人に聞いてもなんだのだのとしらばっくれていて、ありがたいわ、それですっかり分った」

久「それじゃア旦那は云わねえのかえ」

みね「当前あたりまえサ、旦那が私に改まってそんな馬鹿な事をいう奴があるものかね」

久「アレヘエそれじゃアおらが困るべいじゃアねえか、旦那どんがれにわれえしゃべるなよと云うたに、困ったなア」

みね「ナニお前の名前は出さないから心配おしでないよ」

久「それじゃアわし名前なめえを出しちゃアいかねえよ、大きに有難うござりました」

 と久藏は立帰る。おみねは込上こみあが悋気りんきを押え、夜延よなべをして伴藏の帰りを待っていますと、

伴「文助ぶんすけや明けてくれ」

文「お帰り遊ばせ」

伴「店の者も早く寝てしまいな、奥ももう寝たかえ」

 といいながら奥へ通る。

伴「おみね、まだ寝ずか、もう夜なべはよしねえ、身体の毒だ、大概にして置きな、今夜は一杯飲んで、そうして寝よう、何かさかな有合ありあいでいゝや」

みね「何もないわ」

伴「かくやでもこしらえて来てくんな」

みね「およしよ、お酒をうちで飲んだって旨くもない、肴はなし、酌をする者は私のようなお婆さんだから、どうせ気に入る気遣きづかいはない、それよりは笹屋へ行っておあがりよ」

伴「そりゃア笹屋は料理屋だからんでもあるが、寝酒ねざけを飲むんだから一寸ちょいと海苔のりでも焼いて持って来ねえな」

みね「肴はそれでもいとした所が、お酌が気に入らないだろうから、笹屋へ行ってお國さんにお酌をしてお貰いよ」

伴「気障きざなことを云うな、お國がうしたんだ」

みね「おまえは何故そう隠すんだえ、隠さなくってもいゝじゃアないかえ、私が十九つゞ廿はたちの事ならばお前の隠すも無理ではないが、こうやってお互いにとる年だから、隠しだてをされては私が誠に心持が悪いからお云いな」

伴「何をよう」

みね「お國さんの事をサ、い女だとね、年は廿七だそうだが、ちょっと見ると廿二三にしか見えない位な美いで、私も惚々ほれ〴〵するくらいだから、ありゃア惚れてもいゝよ」

伴「なんだかさっぱり分らねえ、今日昼間馬方の久藏がやアしなかったか」

みね「いゝえ来やアしないよ」

伴「おれも此の節はよんどころない用で時々うちを明けるものだから、おめえがそう疑ぐるのももっともだが、そんな事を云わないでもいゝじゃアねえか」

みね「そりゃア男の働きだから何をしたっていゝが、お前のためだから云うのだよ、の女の亭主は双刀りゃんこさんで、其の亭主の為にあゝやっているんだそうだから、亭主に知れると大変だから、私も案じられらアね、お前は四月の二日から彼の女にかゝり合っていながら、これッぱかりも私に云わないのはひどいよ、そいっておしまいなねえ」

伴「そう知っていちゃア本当に困るなア、あれは己が悪かった、面目ねえ、堪忍してくれ、おれだっておめえに何かついでがあったら云おうと思っていたが、改まってさてこういう色が出来たとも云いにくいものだから、つい黙っていた、おれも随分道楽をした人間だから、そうだまされて金をられるような心配はねえ大丈夫だ」

みね「そうサ初めての時三分やって、其の次に二両、それから三両と五両二度にやって、二十両一ぺんにやった事があったねえ」

伴「いろんな事を知っていやアがる、昼間久藏が来たんだろう」

みね「来やしないよ、それじゃアお前こうおしな、むこうの女も亭主があるのにお前に姦通くッつくくらいだから、惚れているに違いないが、亭主が有っちゃア危険けんのんだから、貰い切って妾にしてお前の側へお置きよ、そうして私は別になって、私は関口屋の出店でみせでございますと云って、別に家業をやって見たいから、お前はお國さんと二人で一緒に成ってお稼ぎよ」

伴「気障きざな事を云わねえがいゝ、別れるも何もねえじゃアねえか、あの女だって双刀りゃんこの妾、ぬしがあるものだから、そう何時いつまでも係り合っている気はねえのだが、ありゃア酔ったまぎれにツイ摘食つまみぐいをしたので、己がわるかったから堪忍してくれろ、もう二度と彼処あすこきさえしなければいだろう」

みね「行っておやりよ、あの女は亭主があってそんな事をする位だから、お前に惚れているんだからおでよ」

伴「そんな気障な事ばかり云って仕様がねえな………」

みね「いゝからわたしゃア別になりましょうよ」

 と、くど〳〵云われて伴藏はグッとしゃくにさわり、

伴「なッてえ〳〵、これ四けん間口の表店おもてだなを張っている荒物屋の旦那だア、一人二人の色が有ったってなんでえ、男の働きで当前あたりめえだ、わけえもんじゃあるめえし、嫉妬やきもちを焼くなえ」

みね「それは誠に済みません、悪い事を申しました、四間間口の表店を張った旦那様だから、妾狂いをするのは当前あたりまえだと、大層もない事をお云いでないよ、今では旦那だと云って威張っているが、去年まではお前はなんだい、萩原様の奉公人同様に追い使われ小さな孫店まごだなかりていて、萩原様から時々小遣こづかいを戴いたり、単物ひとえものの古いのを戴いたりしてうやらうやらやっていたんじゃアないか、今斯うなったからと云ってそれを忘れて済むかえ」

伴「そんな大きな声で云わなくってもいゝじゃアねえか、店の者に聞えるといけねえやナ」

みね「云ったっていゝよ、四間間口の表店を張っている荒物屋の旦那だから、妾狂いが当前だなんぞと云って、せんのことを忘れたかい」

伴「やかましいやい、出て行きやアがれ」

みね「はい、出て行きますとも、出て行きますからお金を百両私におくれ、これだけの身代になったのは誰のおかげだ、お互にこゝまでやったのじゃアないか」

伴「恵比須講の商いみたように大した事をいうな、静かにしろ」

みね「云ったっていゝよ、本当にこれまで互に跣足はだしになって一生懸命に働いて、萩原様の所にいる時も、私は煮焚にたき掃除や針仕事をし、お前は使つかいはやまをしてかけずりまわり、何うやら斯うやらやっていたが、旨い酒も飲めないというから、私が内職をして、たまには買って飲ませたりなんどして、八年以来このかたお前のためには大層苦労をしているんだア、それをなんだえ、荒物屋の旦那だとえ、御大層らしい、私ゃア今こう成ったッても、昔の事を忘れない為に、今でもこうやって木綿物を着て夜延よなべをしている位なんだ、それにまだ一昨年おとゝしの暮だっけ、お前がしゃけのせんばいでお酒を飲みてえものだというから……」

伴「しずかにしろ、外聞げえぶんがわりいや、奉公人に聞えてもいけねえ」

みね「いゝよ私ゃア云うよ、云いますよ、それから貧乏世帯を張っていた事だから、私も一生懸命に三晩みばん寝ないで夜延をして、お酒を三合買って、鮭のせんばいで飲ませてやった時お前は嬉しがって、其の時何と云ったい、持つべきものは女房だと云って喜んだ事を忘れたかい」

伴「大きな声をするな、それだから己はもう彼処あすこへ行かないというに」

みね「大きな声をしたっていゝよ、お前はお國さんのところへおでよ、行ってもいゝよ、お前の方であんまり大きな事を云うじゃアないか」

 と尚々なお〳〵大きな声を出すから、伴藏は

「オヤこの阿魔」

 といいながらこぶしを上げて頭をつ、打たれておみねはたけり立ち、泣声を振り立て、

みね「何をちやアがるんだ、さア百両の金をおくれ、私ゃア出て参りましょう、お前は此の栗橋から出た人だから身寄もあるだろうが、私は江戸生れで、んな所へ引張ひっぱられて来て、身寄親戚たよりがないと思っていゝ気に成って、私が年を取ったもんだから女狂いなんぞはじめ、今になって見放されては喰方くいかたに困るから、これだけ金をおくれ、出てきますから」

伴「出てくなら出て往くがいゝが、何も貴様に百両の金をるという因縁がねいやア」

みね「大層なことをお云いでないよ、私が考え付いた事で、幽霊から百両の金を貰ったのじゃないか」

伴「こら〳〵しずかにしねえ」

みね「云ったっていゝよ、それから其の金で取りついて斯う成ったのじゃアないかそればかりじゃアねえ、萩原様を殺して海音如来のお像を盗み取って、清水の花壇の中へ埋めて置いたじゃアないか」

伴「静にしねえ、本当に気違きちげえだなア、人の耳へでも入ったらうする」

みね「私ゃア縛られて首を切られてもいゝよ、そうするとお前も其のまゝじゃア置かないよ、百両おくれ、私ゃア別に成りましょう」

伴「仕様がえな、己が悪かった、堪忍してくれ、そんなら是迄おめえと一緒になってはいたが、おれに愛想あいそうが尽きたなら此のうちはすっかりとお前にやってしまわア、と云うと、なにか己があの女でも一緒に連れて何処どこかへ逃げでもすると思うだろうが、段々様子を聞けば、あの女は何か筋の悪い女だそうだから、もう好加減いゝかげんに切りあげる積り、それともこゝのうちを二百両にでも三百両にでもたゝき売って仕舞って、お前を一緒に連れて越後の新潟あたりへ身を隠し、もう一と花咲かせでっかくやりてえと思うんだが、お前う一度跣足はだしになって苦労をしてくれる気はねえか」

みね「私だって無理に別れたいと云う訳でもなんでもありませんが、今に成ってお前が私を邪慳じゃけんにするものだから、そうは云ったものゝ、八年以来このかた連添っていたものだから、お前が見捨てないと云う事なら、何処どこまでも一緒に行こうじゃアないか」

伴「そんなら何も腹を立てる事はねえのだ、これから中直なかなおりに一ぺい飲んで、両人ふたりで一緒に寝よう」

 と云いながらおみねの手首を取って引寄せる。

みね「およしよ、いやだよウ」

 川柳せんりゅうに「女房の角を□□□でたゝき折り」でたちまち中も直りました。それから翌日は伴藏がおみねに好きな衣類きものを買ってるからというので、幸手へまいり、呉服屋で反物たんものを買い、こゝの料理屋でも一杯やって両人ふたり連れ立ち、もう帰ろうと幸手を出て土手へさしかゝると、伴藏が土手の下へ降りに掛るから、

みね「旦那、どこへくの」

伴「実は江戸へ仕入しいれに行った時に、あの海音如来の金無垢きんむくのお守を持って来て、此処こゝへ埋めて置いたのだから、掘出ほりだそうと思って来たんだ」

みね「あらまアお前はそれまで隠して私に云わないのだよ、そんなら早く人の目つまにかゝらないうちに掘ってお仕舞いよ」

伴「これは掘出して明日あした古河こがの旦那に売るんだ、なんだか雨がポツ〳〵降って来たようだな、向うの渡し口の所からなんだか人が二人ばかり段々こっちの方へ来るような塩梅あんべいだから、見ていてくんねえ」

みね「誰もやアしないよ、どこへさ」

伴「向うの方へ気を付けろ」

 という。向うは往来おうらい三叉みつまたになっておりまして、かたえは新利根しんとね大利根おおとねながれにて、おりしも空はどんよりと雨もよう、かすかに見ゆる田舎家いなかや盆灯籠ぼんどうろうの火もはや消えなんとし、往来ゆきゝ途絶とだえて物凄ものすごく、おみねは何心なにごゝろなく向うの方へ目をつけている油断をうかゞい、伴藏は腰に差したる胴金造どうかねづくりの脇差を音のせぬようにひっこ抜き、物をも云わず背後うしろから一生懸命力を入れて、おみねの肩先目がけて切り込めば、キャッとおみねは倒れながら伴藏のすそにしがみ付き、

みね「それじゃアお前は私を殺して、お國を女房に持つ気だね」

伴「知れた事よ、惚れた女を女房に持つのだ、観念しろ」

 と云いさま、刀を逆手さかてに持直し、貝殻骨かいがらぼねのあたりから乳の下へかけ、したゝかに突込つきこんだれば、おみねは七顛八倒の苦しみをなし、おのれ其のまゝにして置こうかと、又も裾へしがみつく。伴藏は乗掛のしかゝってとゞめを刺したから、おみねは息が絶えましたが、うしてもしがみついた手を放しませんから、脇差にて一本々々指を切り落し、ようやく刀をぬぐい、さやに納め、跡をも見ず飛ぶが如くに我家わがやに立帰り、あわたゞしくこぶしをあげてかどの戸を打叩うちたゝき、

伴「文助、一寸ちょっとこゝを明けてくれ」

文「旦那でございますか、へいお帰り遊ばせ」

 と表の戸を開く。伴藏ズッとうちに入り、

伴「文助や、大変だ、今土手で五人の追剥おいはぎが出て己のむなぐらをつかまえたのを、払って漸く逃げて来たが、おみねは土手下へ降りたから、悪くすると怪我をしたかも知れない、うも案じられる、どうかみんな一緒に行って見てくれ」

 というので奉公人一同大いに驚き、手に〳〵半棒はんぼう栓張棒しんばりぼうなぞたずさえ、伴藏を先に立て土手下へ来て見れば、無慙むざんやおみねは目も当てられぬように切殺されていたから、伴藏は空涙そらなみだを流しながら、

伴「あゝ可愛相な事をした、今一ト足早かったら、んな非業な死はとらせまいものを」

 と嘘をつかい、人をせて其の筋へ届け、御検屍ごけんしもすんでうちに引取り、何事もなく村方へ野辺の送りをしてしまいましたが、伴藏が殺したと気が付くものは有りません。段々日数ひかずも立って七日目の事ゆえ、伴藏は寺参りをして帰って来ると、召使のおますという三十一歳になる女中がにわかにがた〳〵とふるえはじめて、ウンとうなって倒れ、何か譫言うわことを云って困ると番頭がいうから、伴藏が女の寝ている所へ来て、

伴「おめえどんな塩梅あんべいだ」

ます「伴藏さん貝殻骨から乳の下へ掛けてズブ〳〵とつきとおされた時の痛かったこと」

文「旦那様変な事を云いやす」

伴「おます、気をたしかにしろ、風でも引いて熱でも出たのだろうから、蒲団ふとん沢山たんとかけて寝かしてしまえ」

 と夜着よぎを掛けるとおますは重い夜着や掻巻かいまきを一度にはね退けて、蒲団の上にちょんと坐り、じいッと伴藏の顔をにらむから、

文「変な塩梅あんべいですな」

伴「おます、しっかりしろ、狐にでもかれたのじゃアないか」

ます「伴藏さん、こんな苦しい事はありません、貝殻骨のところから乳のところまで脇差の先が出るほどまで、ズブ〳〵と突かれた時の苦しさは、なんともとも云いようがありません」

 と云われて伴藏も薄気味悪くなり、

伴「何を云うのだ、気でも違いはしないか」

ます「お互にうして八年以来このかた貧乏世帯を張り、やッとの思いで今はこれ迄になったのを、お前は私を殺してお國を女房にしようとは、マアあんまひどいじゃアないか」

伴「これは変な塩梅あんべいだ」

 と云うものゝ、腹の内では大いに驚き、早く療治をして直したいと思う所へ、此の節幸手に江戸から来ている名人の医者があるというから、それを呼ぼうと、人をせて呼びにりました。


        十八


 伴藏は女房が死んで七日目に寺参りから帰った其の晩より、下女のおますがおかしな譫言うわことを云い、幽霊に頼まれて百両の金を貰い、是迄の身代に取付いたの、萩原新三郎様を殺したの、海音如来のお守を盗み出し、根津の清水の花壇の中へうずめたなどゝしゃべり立てるに、奉公人たちはなんだか様子の分らぬ事ゆえ、たゞ馬鹿な譫語うわことをいうと思っておりましたが、伴藏の腹の中では、女房のおみねが己に取り付く事の出来ない所から、此の女に取付とッついて己の悪事を喋らせて、おかみの耳に聞えさせ、おれを召捕めしとり、お仕置しおきにさせてうらみをはらす了簡に違いなし、あの下女さえいなければ斯様かような事もあるまいから、いっそ宿元やどもとへ下げて仕舞おうか、いや〳〵待てよ、宿へ下げ、あの通りに喋られては大変だ、コリャうっかりした事は出来ないと思案にくれている処へ、先程幸手へ使つかいりました下男の仲助なかすけが、医者同道で帰って来て、

男「旦那只今けえりやした、江戸からおでなすったお上手なお医者様だそうだがやっと願いやして御一緒に来てもらいやした」

伴「これは〳〵御苦労さま、手前方はう云う商売柄店も散らかっておりますから、此方こちらへお通り下さいまし」

 と奥の間へ案内をして上座かみざしょうじ、伴藏は慇懃いんぎんに両手をつかえ、

伴「初めましてお目通りを致します、わたくしは関口屋伴藏と申します者、今日こんにちは早速の御入おいりで誠に御苦労様に存じまする」

医「はい〳〵初めまして、何か急病人の御様子、ハヽアお熱で、変な譫語うわことなどを云うと」

 と言いながら不図ふと伴藏を見て、

「おや、これは誠にしばらく、これはどうも誠にどうも、どうなすって伴藏さん、ず一別以来相変らず御機嫌宜しく、どうもマアはからざるところでお目に懸りました、これは君の御新宅ごしんたくかえ、恐入ったねえ、しかし君はくあるべき事だろうと、君が萩原新三郎様の所にいる時分から、あの伴藏さんおみねさんの夫婦は、どうも機転のき方、才智の廻る所から、中々只の人ではない、今にあれはえらい人になると云っていたが、十指じっしの指さす処鑑定めがねは違わず、実に君は大した表店おもてだなを張り、立派な事におなりなすったなア」

伴「いやこれは山本志丈さん、誠に思い掛けねえ所でお目にかゝりやした」

志「実は私も人には云えねえが江戸を喰い詰め、医者もしていられねえから、猫のひたえのようなうちだが売って、其の金子を路用として日光辺の知己しるべを頼ってく途中、幸手の宿屋で相宿あいやど旅人りょじんが熱病で悩むとて療治を頼まれ、其の脉を取れば運よく全快したが、実は僕が治したんじゃアねえ、ひとりでに治ったんだが、運にかなってたちまちにあれは名人だ名医だとの評が立ち、あっちこっちから療治を頼まれ、実はいゝ加減にやってはいるが、相応に薬礼をよこすから、足をめていたものゝ実は己ア医者は出来ねえのだ、もっと傷寒論しょうかんろんの一冊位は読んだ事は有るが、一体病人はきれえだ、あの臭い寝床の側へ寄るのはいやだから、金さえあればツイ一杯呑む気になるようなものだから、江戸を喰い詰めて来たのだが、あの妻君さいくんはお達者かえ、イヤサおみねさんには久しく拝顔はいがんを得ないがお達者かえ」

伴「あれは」

 と口ごもりしが、

「八日あとの晩土手下で盗賊どろぼうに切殺されましたよ、それからようやく引取って葬式とむらいを出しました」

志「ヤレハヤこれはどうも、存外な、さぞ愁傷しゅうしょう、お馴染なじみだけに猶更なおさらお察し申します、あの方は誠に御貞節ないゝお方であったが、これが仏家ぶっかでいう因縁とでも申しますのか、嘸まア残念な事でありましたろう、それでは御病人はお家内ではないね」

伴「えゝ内の女ですが、なんだか熱にうかされて妙な事を云って困ります」

志「それじゃア一寸ちょっとて上げて、あとで又いろ〳〵昔の話をしながらゆるりと一杯やろうじゃアないか、知らない土地へ来て馴染の人に逢うと何だか懐かしいものだ、病人は熱なら造作ぞうさもないからねえ」

伴「文助や、先生は甘い物は召上がらねえが、お茶とお菓子と持って来て置け、先生此方こっちへおでなせえ、こゝが女部屋で」

志「左様か、マア暑いから羽織を脱ごうよ」

伴「おますや、お医者様がいらっしゃったからよくていたゞきな、気をしっかりしていろ、変な事をいうな」

志「どう云う御様子、どんな塩梅あんばいで」

 と云いながら側へ近寄ると、病人は重い掻巻かいまき退けて布団の上にちゃんと坐り志丈の顔をジッと見詰めている。

志「お前どう云う塩梅で、大方風がこうじて熱となったのだろう、悪寒さむけでもするかえ」

ます「山本志丈さん、誠に久しくお目にかゝりませんでした」

志「これは妙だ、僕の名を呼んだぜ」

伴「こいつは妙な譫語ばッかり云っていますよ」

志「だって僕の名を知っているのが妙だ、フウンどういう様子だえ」

ます「私はね、此の貝殻骨から乳の所までズブ〳〵と伴藏さんに突かれた時の」

伴「これ〳〵何を詰らねえ事をいうんだ」

志「宜しいよ、心配したもうな、それからうしたえ」

ます「貴方あなたの御存じの通り、私共夫婦は萩原新三郎様の奉公人同様に追い使われ、跣足はだしになってかけずり廻っていましたが、萩原様が幽霊に取付かれたものだから、幡随院の和尚から魔除の御札を裏窓へ貼付けて置いて幽霊の這入はいれない様にした所から、伴藏さんが幽霊に百両の金を貰って其の御札をはがし」

伴「何を云うんだなア」

志「宜しいよ、僕だから、これは妙だ〳〵、へい、そこで」

ます「其の金から取付いて今はこれだけの身代となり、それのみならず萩原様のお首に掛けてる金無垢の海音如来の御守を盗み出し、根津の清水の花壇に埋め、あまつさえ萩原様を蹴殺けころしてていよく跡を取繕とりつくろい」

伴「何を、とんでもない事を云うのだ」

志「よろしいよ僕だから、妙だ〳〵ヘイそれから」

ます「そうしてお前、そんなあぶくぜにで是までになったのに、お前は女狂いを始め、私を邪魔にして殺すとはあんまひどい」

伴「どうも仕様がないの、何をいうのだ」

志「よろしいよ、妙だ、心配したもうな、これは早速宿へ下げたまえ、と云うと、宿で又こんな譫語を云うと思し召そうが、下げれば屹度きっと云わない、此のうちに居るから云うのだ、僕も壮年のおりこういう病人を二度ほど先生の代脉だいみゃくで手掛けた事があるが、宿へ下げれば屹度云わないから下げべし〳〵」

 と云われて、伴藏は小気味が悪いけれども、山本の勧めに任せ早速に宿を呼寄せ引渡し、表へ出るやいなや正気にかえった様子なれば、伴藏も安心していると今度は番頭の文助がウンとうなって夜着をかむり、寝たかと思うと起上り、幽霊に貰った百両の金でこれだけの身代になり上り、といい出したれば、又宿を呼んで下げてしまうと、今度は小僧が呻り出したれば又宿へ下げてしまい、奉公人残らずを帰し、あとには伴藏と志丈と二人ぎりになりました。

志「伴藏さん、今度呻ればおいらの番だが、妙だったね、だが伴藏さん打明けて話をしてくんなせえ、萩原さんが幽霊にみいられ、骨と一緒に死んでいたとの評判もあり、又首に掛けた大事の守りが掏代すりかわっていたと云うが、其の鑑定はどうも分らなかった、もっとも白翁堂と云う人相見の老爺おやじが少しはけどって新幡随院の和尚に話すと、和尚はとうよりさとっていて、盗んだ奴が土中どちゅうへ埋め隠してあると云ったそうだが、今日きょう初めて此の病人の話によれば、僕の鑑定ではたしかにお前と見て取ったが、もううなったらば隠さず云ってお仕舞い、そうすれば僕もお前と一つになって事をはからおうじゃないか、善悪共に相談をしようから打明け給え、それから君はおかみさんが邪魔になるものだから殺して置いて、盗賊どろぼう斬殺きりころしたというのだろう、そうでしょう〳〵」

 といわれて伴藏最早隠しおおせる事にもいかず、

伴「実は幽霊に頼まれたと云うのも、萩原様のあゝ云う怪しい姿で死んだというのも、いろ〳〵訳があってみんなわっちこしらえた事、というのは私が萩原様のあばらけって殺して置いて、こっそりと新幡随院の墓場へ忍び、新塚を掘起し、骸骨しゃりこつを取出し、持帰って萩原の床の中へ並べて置き、怪しいしにざまに見せかけて白翁堂の老爺おやじをば一ぺい欺込はめこみ、又海音如来の御守もまんまと首尾く盗み出し、根津の清水の花壇の中へ埋めて置き、それから己が色々と法螺ほらを吹いて近所の者を怖がらせ、皆あちこちへ引越ひっこしたをいしおにして、己もまたおみねを連れ、百両の金をつかんで此の土地へ引込ひっこんで今の身の上、ところが己がわきの女に掛り合った所から、かゝアが悋気りんきを起し、以前の悪事をがア〳〵と呶鳴どなり立てられ仕方なく、旨くだまして土手下へ連出して、己が手に掛け殺して置いて、追剥に殺されたと空涙で人をだまかし、とむらいをもすまして仕舞った訳なんだ」

志「よく云った、誠に感服、大概の者ならそう打明けては云えぬものだに、己が殺したとすみやかに云うなどは是は悪党アヽ悪党、お前にそう打明けられて見れば、私はお喋りな人間だが、こればッかりは口外はしないよ、其の代り少しこのみがあるがうか叶えておくれ、と云うと何か君の身代でも当てにするようだが、そんな訳ではない」

伴「あゝ〳〵それはいゝとも、どんな事でも聞きやしょうから、どうか口外はして下さるな」

 と云いながら懐中より廿五両包を取出し、志丈の前に差置いて、

伴「すくねえが切餅きりもちをたった一ツ取って置いてくんねえ」

志「これは云わない賃かえ薬礼ではないね、宜しい心得た、なんだかこう金が入ると浮気になったようだから、一ぺい飲みながら、ゆるりと昔語むかしがたりがしてえのだが、こゝのうちア陰気だから、これから何処どこかへ行って一杯やろうじゃアねえか」

伴「そいつはかろう、そんならおいらの馴染の笹屋へきやしょう」

 と打連立うちつれだってうち立出たちいで、笹屋へ上り込み、差向いにて酒を酌交くみかわし、

伴「男ばかりじゃア旨くねえから、女を呼びにやろう」

 とお國を呼寄せる。

國「おや旦那、御無沙汰を、よくいらっしゃって、うかゞいますればお内儀かみさんは不慮の事がございましたと、定めて御愁傷な事で、私も旦那にちょいとお目に懸りたいと思っておりましたは、内の人の傷もようやく治り、近々きん〳〵のうち越後へ向けて今一度ひとたびきたいと云っておりますから、行った日には貴方にはお目に懸ることが出来ないと思っている所へお使つかいで、あんまり嬉しいから飛んで来たんですよ」

伴「お國おつれの方に何故御挨拶をしないのだ」

國「これはあなた御免遊ばせ」

 と云いながら志丈の顔を見て、

國「おや〳〵山本志丈さん、誠にしばらく」

志「これは妙、うも不思議、お國さんがこゝにおでとは計らざる事で、これは妙、内々ない〳〵御様子を聞けば、思うお方と一緒なら深山みやまの奥までと云うようなる意気事筋いきごとすじで、誠に不思議、これは希代きたいだ、妙々々」

 と云われてお國はギックリ驚いたは、志丈はお國の身の上をばくわしく知った者ゆえ、し伴藏に喋べられてはならぬと思い、

國「志丈さんちょっと御免あそばせ」

 と次の間へ立ち。

國「旦那ちょっと入っしゃい」

伴「あいよ、志丈さん、ちょいと待ってお呉れよ」

志「あゝ宜しい、ゆっくり話をして来たまえ、僕はさようなことには慣れて居るから苦しくない、お構いなく、緩くりと話をして入っしゃい」

國「旦那どう云うわけであの志丈さんを連れて来たの」

伴「あれは内に病人があったから呼んだのよ」

國「旦那あの医者の云う事をなんでも本当にしちゃアいけませんよ、あんな嘘つきの奴はありません、あいつの云う事を本当にするととんでもない間違いが出来ますよ、人の合中あいなかつッつくひどい奴ですから、今夜はあの医者を何処どっかへやって、貴方あなた独りこゝに泊っていて下さいな、そうすれば内の人を寝かして置いて、貴方の所へ来て、いろ〳〵お話もしたい事がありますからうございますか」

伴「よし〳〵、それじゃア内の方をいゝ塩梅あんべいにして屹度きっとねえよ」

國「屹度来ますから待っておいでよ」

 とお國は伴藏に別れ帰りく。

伴「やア志丈さん、誠にお待ちどう」

志「誠にどうも、アハヽあの女はもう四十に近いだろうが若いねえ、君もなか〳〵お腕前うでめえだね、大方君はあの婦人を喰っているのだろうが、これからはもう君と善悪を一ツにしようと約束をした以上は、君のためにならねえ事は僕は云うよ、一体君はあの女の身の上を知って世話をするのか知らないのか」

伴「おらア知らねえが、おめえさんは心安いのか」

志「あの婦人には男が附いて居る、宮野邊源次郎と云って旗下はたもとの次男だが、其奴そいつが悪人で、萩原新三郎さんを恋慕こいしたった娘の親御おやご飯島平左衞門という旗下の奥様づきで来た女中で、奥様が亡くなった所から手がついて妾と成ったが今のお國で、源次郎と不義をはたらき、恩ある主人の飯島を斬殺きりころし、有金ありがね二百六十両に、大小を三腰とか印籠を幾つとかを盗み取り逐電ちくでんした人殺しの盗賊どろぼうだ、するとあとから忠義の家来藤助とうすけとか孝助とか云う男が、主人のかたきを討ちたいとおっかけて出たそうだ、私の思うのは、あれは君に惚れたのではなく、源次郎が可愛かあいいからお前の云う事を聞いたなら、亭主のためになるだろうと心得、身を任せ、相対間男あいたいまおとこではないかと僕は鑑定するが、今聞けば急に越後へ立つと云い、僕をはいて君独り寝ている処へ源次郎が踏込んでゆすり掛け、二百両位の手切れは取る目算にちげえねえが、君は承知かえ、だから君は今夜こゝに泊っていてはいけねえから、僕と一緒に何処どっかへ女郎買に行ってしまい、あいつ二人に素股すまたを喰わせるとはうだえ」

伴「むゝ成程、そうか、それじゃアそうしよう」

 と連立つれだってこゝを立出たちいで、鶴屋という女郎屋へあがり込む。あとへお國と源次郎が笹屋へ来て様子を聞けば、先刻さっき帰ったと云うことに二人はしおれて立帰り、

源「お國もうこうなれば仕方がないから、明日あしたは己が関口屋へ掛合いにき、し向うでしらをきった其の時は」

國「私が行って喋りつけ口を明かさずたんまりとゆすってやろう」

 と其の晩は寝てしまいました。翌朝よくちょうになり伴藏は志丈を連れて我家わがやへ帰り、種々いろ〳〵昨夜ゆうべ惚気のろけなど云っている店前みせさきへ、

源「お頼ん申す〳〵」

伴「商人あきんどの店先へお頼ん申すと云うのはおかしいが、誰だろう」

志「大方ゆうべ話した源次郎が来たのかも知れねえ」

伴「そんならおめえ其方そっちへ隠れていてくれ」

志「弥々いよ〳〵難かしくなったら飛出そうか」

伴「いゝから引込ひっこんでいなよ……へい〳〵、少々うち取込とりこみが有りまして店を閉めて居りますが、何か御用ならば店を明けてから願いとうございます」

源「いや買物ではござらん、御亭主に少々御面談いたしたく参ったのだ、一寸ちょっと明けてください」

伴「左様でございますか、ずおあがり」

源「早朝よりまかでまして御迷惑、貴方あなたが御主人か」

伴「へい、関口屋伴藏はわたくしでございます、こゝは店先どうぞ奥へお通りくださいまし」

源「しからば御免をこうむる」

 と蝋色鞘ろいろざや茶柄ちゃつかの刀を右の手に下げたまゝに、亭主に構わずずっと通り上座かみざに座す。

伴「どなた様でござりますか」

源「これは始めてお目に懸りました、手前は土手下に世帯しょたいを持っている宮野邊源次郎と申す粗忽そこつの浪人、家内國こと、笹屋方にて働女はたらきおんなをなし、わずかな給金にてよう〳〵其の日を送りいる処、旦那より深く御贔屓を戴くよし、毎度國より承わりおりますれど、何分足痛そくつうにて歩行も成り兼ねますれば、存じながら御無沙汰、重々御無礼をいたした」

伴「これはお初にお目通りをいたしました、伴藏と申す不調法もの幾久しく御懇意を願います、お前様の塩梅あんばいの悪いと云う事は聞いていましたが、よくマア御全快、わっちもお國さんを贔屓にするというものゝ、贔屓の引倒しでなんの役にも立ちません、旦那の御新造ごしんぞがねえ、どうも恐れ入った、勿体もっていねえ、馬士まごや私のようなものゝ機嫌気づまを取りなさるかと思えば気の毒だ、それがために失礼も度々たび〳〵致しやした」

源「どう致しまして、伴藏さんにちと折入って願いたい事がありますが、私共わたくしども夫婦は最早旅費をつかいなくし、ことには病中の入費いりめ薬礼や何やかやで全く財布さいふの底をはたき、ようやく全快しましたれば、越後路へ出立したくも如何いかにも旅費が乏しく、うしたらかろうと思案の側から、女房が関口屋の旦那は御親切のお方ゆえ、泣附いてお話をしたらお見継みつぎくださる事もあろうとの勧めに任せ参りましたが、どうか路金ろぎんを少々拝借が出来ますれば有り難う存じます」

伴「これはどうも、そう貴方のように手を下げて頼まれては面目がありませんが」

 と中は幾許いくらかしら紙に包んで源次郎の前にさし置き、

伴「ほんの草鞋銭わらじせんでございますが、お請取うけとり下せえ」

 と云われて源次郎は取上げて見れば金千びき

源「これは二両二分、イヤサ御主人、二両二分で越後まで足弱あしよわを連れてかれると思いなさるか、御親切ついでにもそっとお恵みが願いたい」

伴「千疋では少ないと仰しゃるなら、幾許いくら上げたらいのでございます」

源「どうか百金お恵みを願いたい」

伴「一本え、冗談言っちゃアいけねえ、まきかなんぞじゃアあるめえし、一本の二本のと転がっちゃアいねえよ、旦那え、こういうこたア一たえ此方こっちで上げる心持次第しでいのもので、幾許いくらかくらと限られるものじゃアねえと思いやす、百両くれろと云われちゃア上げられねえ、又道中もしようできりのないもの、千両も持って出て足りずに内へ取りによこす者もあり、四百のぜにで伊勢参宮をする者もあり、二分の金を持って金毘羅参こんぴらまいりをしたと云う話もあるから、旅はどうとも仕様によるものだから、そんな事を云ったって出来はしません、誠に商人あきんどなぞは遊んだ金は無いもので、表店おもてだなを立派に張って居ても内々ない〳〵は一両の銭に困る事もあるものだ、百両くれろと云っても、そんなにわっちはおめえさんにお恵みをする縁がねえ」

源「國が別段御贔屓になっているから、やかく面倒云わず、餞別として百金貰おうじゃアねえか、何も云わずにサ」

伴「おめえさんはおつうおかしな事を云わっしゃる、何かお國さんとわっち姦通くッついてでもいるというのか」

源「おゝサ姦夫まおとこかど手切てぎれの百両を取りに来たんだ」

伴「ムヽわっちが不義をしたがうした」

源「黙れ、やい不義をしたとはなんだ、捨て置きがたい奴だ」

 と云いながら刀を側へ引寄せ、親指にて鯉口こいぐちをプツリと切り、

「此の間から何かと胡散うさんの事もあったれど、こらえ〳〵て是迄穏便沙汰おんびんざたに致し置き、昨晩それとなく國を責めた所、國の申すには、実は済まない事だが貧に迫ってむを得ずあの人に身を任せたと申したから、其の場において手打にしようとは思ったれども、う云う身の上だから勘弁いたし、事おだやかに話をしたに、手前てめえの口から不義したと口外されては捨置きがてえ、表向きに致さん」

 とたけり立って呶鳴ると、

伴「しずかにおしなせえ、隣はないが名主のない村じゃアないよ、おめえさんがそう哮り立って鯉口を切り、わっちびんたを打切うちきる剣幕を恐れて、ハイさようならとお金を出すような人間と思うのは間違まちげえだ、私なんぞは首が三ツあっても足りねえ身体だ、十一の時から狂い出して、めえりから江戸へ流れ、悪いという悪い事は二三の水出し、らずの最中もなか野天丁半のでんちょうはんはなり、ヤアの賭場どばまでって来たのだ、今はひゞあかぎれ白足袋しろたびで隠し、なまぞらをつかっているものゝ、悪い事はお前より上だよ、それに又姦夫々々まおとこ〳〵というが、あの女は飯島平左衞門様の妾で、それとお前がくッついて殿様を殺し、大小や有金ありがね引攫ひっさら高飛たかとびをしたのだから、云わばお前も盗みもの、それにお國も己なんぞに惚れたはれたのじゃなく、お前が可愛いばッかりで、病気の薬代やくだいにでもする積りで此方こっちに持ち掛けたのを幸いに、己もそうとは知りながら、ツイ男のいじきたな、手を出したのは此方のあやまりだから、何も云わずに千疋を出し、別段餞別はなむけにしようと思い、これ此の通り廿五両をやろうと思っている処、一本よこせと云われちゃア、どうせほそった首だから、素首そっくびが飛んでも一文もやれねえ、それにお前よく聞きねえ、江戸ぢかのこんな所にまご〳〵していると危ねえぜ、孝助とかゞ主人のかたきだと云ってお前を狙っているから、お前の首が先へ飛ぶよ、冗談じゃアねえ」

 と云われて源次郎は途胸とむねを突いて大いに驚き、

源「さような御苦労人とも知らず、只の堅気かたぎの旦那と心得、おどして金を取ろうとしたのは誠に恐縮の至り、しからば相済みませんが、これを拝借願います」

伴「早くきなせえ、危険けんのんだよ」

源「さようならおいとま申します」

伴「跡をしめて行ってくんな」

 志丈は戸棚よりもぐり出し、

志「旨かったなア、感服だ、実に感服、君の二三の水出し、やらずの最中もなかとは感服、あゝうもそこが悪党、あゝ悪党」

 これより伴藏は志丈と二人連れ立って江戸へ参り、根津の清水の花壇より海音如来の像を掘出す処から、悪事露顕の一らつはこの次までお預りに致しましょう。


        十九


 引続きまする怪談牡丹灯籠のお話は、飯島平左衞門の家来孝助は、主人のあだなる宮野邊源次郎お國の両人が、越後の村上へ逃げ去りましたとのことゆえ、跡を追って村上へまいり、諸方を詮議致しましたが、とんと両人の行方が分りませんで、又我が母おりゑと申す者は、内藤紀伊守ないとうきいのかみの家来にて、澤田右衞門さわだうゑもんいもとにて、十八年以前に別れたが、今も無事でいられる事か、一目お目に懸りたい事と、段々御城中の様子を聞合きゝあわせまする処、澤田右衞門夫婦はとくに相果て、今は養子の代に相成ってる事ゆえ母の行方さえとんと分らず、むを得ず此処こゝに十日ばかし、彼処あすこに五日逗留いたし、彼方此方あちこちと心当りのところを尋ね、深く踏込んで探って見ましたけれども更に分らず、むなしく其の年も果て、翌年に相成って孝助は越後路から信濃路へかけ、美濃路へかゝり探しましたが一向に分らず、や主人の年囘ねんかいにも当る事ゆえ、一度江戸へ立帰らんと思い立ち、日数ひかずを経て、八月三日江戸表へちゃくいたし、ず谷中の三崎村なる新幡随院へ参り、主人の墓へ香花こうげ手向たむけ水を上げ、墓原はかはらの前に両手を突きまして、

孝「旦那様わたくしは身不肖ふしょうにして、あだたるお國源次郎に𢌞めぐり逢わず、未だ本懐は遂げませんが、丁度旦那様の一周忌の御年囘に当りまする事ゆえ、此のたび江戸表へ立帰り、御法事御供養をいたした上、早速又かたきの行方を捜しに参りましょう、此の度は方角を違え、是非とも穿鑿せんさくを遂げまするの心得、何卒なにとぞ草葉の蔭からお守りくださって、一時いっときも早く仇の行方の知れまするようにお守り下されまし」

 と生きたる主人に物云う如くうや〳〵しくはいを遂げましてから、新幡随院の玄関に掛りまして、

「お頼み申します〳〵」

取次「どウれ、はア何方どちらからおでだな」

孝「手前は元牛込の飯島平左衞門の家来孝助と申す者でございますが、此の度主人の年囘を致したき心得で墓参りを致しましたが、方丈様御在寺ございじなればお目通りを願いとう存じます」

取「さようですか、しばらくお控えなさい」

 と是から奥へ取次ぎますると、此方こちらへお通し申せという事ゆえ、孝助は案内につれられ奥へ通りますると、良石和尚は年五十五歳、道心堅固の智識にて大悟だいご徹底致し、寂寞じゃくまくと坐蒲団の上に坐っておりまするが、道力どうりょく自然に表に現われ、孝助は頭がひとりでに下がるような事で、

孝「これは方丈様には初めてお目にかゝりまする、手前事は相川孝助と申す者でございますが、当年は旧主人飯島平左衞門の一周忌の年囘に当る事ゆえ、一度江戸表へ立帰りましたが、こゝに金子五両ございまするが、これにて宜しく御法事御供養を願いとう存じます」

良「はい、初めまして、まアこっちへ来なさい、これはまア感心な事で…コレ茶を進ぜい…お前さんが飯島の御家来孝助殿か、立派なお人でよい心懸け、長旅を致した身の上なれば定めて沢山の施主せしゅもあるまい、一人か二人位の事であろうから、内の坊主どもに云い付けて何か精進物をこしらえさせ、成るたけ金のいらんように、手は掛るが皆此方こちらでやって置くが、一ヶの住職を頼んで置きますが、お前ナア余り早く来ると此方で困るから、昼飯ひるはんでも喰ってからそろそろ出掛け、夕飯ゆうはんは此方で喰う気で来なさい、そしてお前は是から水道端の方へきなさろうが、お前を待っている人がたんとある、又お前は悦び事か何か目出度めでたい事があるから早う行って顔を見せてやんなさい」

孝「へい、わたくしは水道端へ参りまするが、貴僧あなたうしてそれを御存じ、不思議な事でございます」

 と云いながら、

「左様ならば明日あした昼飯を仕舞いまして又出ますから、何分宜しくお願い申しまする、御機嫌よろしゅう」

 と寺を出ましたが、心の内に思うよう、何うも不思議な和尚様だ、何うしてわたしが水道端へく事を知っているだろうか、本当に占者うらないしゃのような人だと云いながら、水道端なる相川新五兵衞方へ参りましたが、孝助は養子に成って間もなく旅へ出立し、一年ぶりにて立帰りました事ゆえ、少しは遠慮いたし、台所口から、

孝「御免下さいまし、只今帰りましたよ、これ〳〵善藏どん〳〵」

善「なんだよ、掃除屋が来たのかえ」

孝「ナニ私だよ」

善「おやこれはどうも、誠に失礼を申上げました、いつも今時分掃除屋が参りまするものですから、粗相を申しましたが、よくマア早くお帰りになりました、旦那様々々孝助様がお帰りになりました」

相「なに孝助殿が帰られたとか、何処どこにおでになる」

善「へい、お台所にいらっしゃいます」

相「どれ〳〵、これはマア、んで台所などから来るのだ、そう云えば水は汲んで廻すものを、善藏コレ善藏何をぐる〳〵廻ってるのだ、コレばゞア孝助どのがお帰りだよ」

婆「若旦那がお帰りでございますか、これはマアさぞお疲れでございますだろう、ず御機嫌宜しゅう」

孝「お父様とっさまにも御機嫌宜しゅう、わたくし都度々々つど〳〵書面を差上げたき心得ではございまするが、何分旅先の事ゆえ思うようにはお便たよりも致しがたく、お父様は何うなされたかと日々お案じ申しまするのみでございましたが、先ずはおすこやかなる御顔おんかおを拝しまして誠に大悦たいえつに存じまする」

相「誠にお前も目出たく御帰宅なされ、新五兵衞至極満足いたしました、はい実にねえからすの鳴かぬ日はあるがと云うたとえの通りで、お前のことは少しも忘れたことはない、雪の降る日は今日あたりはどんな山を越すか、風の吹く日はどんな野原を通るかと、雨につけ風につけお前の事ばかり少しも忘れた事はござらん、ところへ思いがけなくお帰りになり、誠に喜ばしく思いまする、娘もお前のことばかり案じ暮らし、お前の立った当座はだ泣いてばかりおりましたから私がそんなにくよ〳〵してわずらいでもしてはいかないから、気を取り直せよといい聞かせて置きましたが、お前もマア健かでお早くお帰りだ」

孝「わたくしは今日江戸へ着き、すぐに谷中の幡随院へ参詣さんけいをいたして来ましたが、明日あしたは丁度主人の一周忌の年囘にあたりまするゆえ、法事供養をいたしたく立帰りました」

相「そうか、如何いかにも明日あしたは飯島様の年囘に当るからと思ったが、お前がお留守だから私でも代参にこうかと話をしていたのだこれ婆ア、こゝへ来な、孝助様がお帰りになった」

婆「あら若旦那様お帰り遊ばしませ、御機嫌様よろしゅう、貴方あなたがお立ちになってからというものは、毎日お噂ばかり致しておりましたが、少しもおやつれもなく、お色は少しお黒くおなり遊ばしましたが、相変らずよくまアねえ」

相「婆ア、あれを連れて来なよ」

婆「でも只今よく寝んねしていらッしゃいますから、おめんめが覚めてから、お笑い顔を御覧に入れる方が宜しゅうございましょう」

相「ウンそうだ、初めて逢うのに無理にめんめさまさして泣顔ではいかんから、だが大概にしてこゝへ連れて抱いて来い」

 娘お徳は次の間に乳児ちのみごを抱いて居りましたが、孝助の帰るを聞き、飛立つばかり、嬉し涙を拭いながら出て来て、

徳「旦那様御機嫌様よろしゅう、よくマアお早くお帰り遊ばしました、毎日々々貴方のお噂ばかり致しておりましたが、お窶れも有りませんでお嬉しゅう存じまする」

孝「はい、お前も達者で目出たい、私が留守中はお父様の事何かと世話に成りました、旅先の事ゆえ都度々々便りも出来ず、どうなされたかと毎日案じるのみであったが、誠にみんなの達者な顔を見るというは此の様な嬉しいことはない」

徳「私は昨晩旦那様の御出立になる処を夢に見ましたが、よく人が旅立たびだちの夢を見ると其の人にお目にかゝる事が出来ると申しますから、お近いうち旦那様にお目にかゝれるかと楽しんで居りましたが、今日お帰りとは思いませんでした」

相「おれも同じような夢を見たよ、婆アや抱いておで、うおきたろう」

 婆々ばゞは奥より乳児ちのみごを抱いて参る。

相「孝助殿これを御覧、いゝだねえ」

孝「どちらのお子様で」

相「ナニサお前の子だアね」

孝「御冗談ばかり云っていらっしゃいます、わたくしは昨年の八月旅へ出ましたもので、子供なぞはございません」

相「たった一ぺんでも子供は出来ますよ、お前は娘と一つ寝をしたろう、だから只一度でも子は出来ます、只一度で子供が出来るというのは余程よっぽど縁の深い訳で、娘もはじめのうちはくよ〳〵しているから、私が懐姙をしているからそれではいかん、身体にさわるからくよ〳〵せんが宜しいと云っているうちに産み落したから、私が名付け親で、お前の孝の字を貰って孝太郎こうたろうと付けてやりましたよ、マアよく似ておる事を、御覧よ」

孝「へい誠に不思議な事で、主人平左衞門様が遺言に、其の方養子となりて、し子供が出来たなら、男女なんにょかゝわらず其の子をもって家督と致し家の再興を頼むと御遺言書にありましたが、事によると殿様の生れがわりかも知れません」

相「おゝ至極左様かも知れん、娘も子供が出来てからねえ、嬉し紛れにお父様私は旦那様の事はお案じ申しまするが、此の子が出来ましてから誠によく旦那様に似ておりますから、少しは紛れて、旦那様と一つ所におるように思われますというたから、私が又あんまひどく抱締めて、坊の腕でも折るといけないなんぞと、馬鹿を云っている位な事で、善藏や」

善「へい〳〵」

相「善藏や」

善「参っています、なんでございます」

相「何だ、お前も板橋まで若旦那を送って行ったッけな」

善「へい参りました、これは若旦那様誠に御機嫌よろしゅう、あの折は実にお別れが惜しくて、泣きながら戻って参りましたが、よくマアお健かでいらっしゃいます」

孝「あの折は大きにお世話様であったのう」

相「それは兎も角も肝腎のあだの手掛りが知れましたか」

孝「まだ仇にはめぐり逢いませんが、主人の法事をしたく一先ず江戸表へ立帰りましたが、法事を致しましてすぐに又出立致します」

相「フウ成程、明日あす法事にくのだねえ」

孝「左ようでございます、お父様とわたくしと参りまする積りでございます、それに良石和尚の智識なる事はかねて聞き及んではいましたが、応験解道おうけんげどうきわまりなく、百年先の事を見抜くという程だと承わっておりまするが、今日和尚の云う言葉に其の方は水道端へ参るだろう、参る時は必ず待っている者があり、かつよろこび事があると申しましたが、私の考えは、く子供の出来た事まで良石和尚は知っておるに違い有りません」

相「はてねえ、そんな所まで見抜きましたかえ、智識なぞという者は趺跏量見智ふかりょうけんちで、あの和尚は谷中の何とか云う智識の弟子と成り、禅学を打破ったと云う事を承わりおるが、えらいものだねえ、善藏や、大急ぎで水道町の花屋へ行って、おめでたいのだから、何かお頭付かしらつきの魚を三品ばかりに、それからよいお菓子を少し取ってくるように、道中には余り旨いお菓子はないから、それからすしも道中では良いのは食べられないから、鮓も少し取ってくるように、それから孝助殿は酒はあがらんから五合ばかりにして、味淋みりんのごく良いのを飲むのだから二合ばかり、それから蕎麦そばも道中にはあるが、醤油したじが悪いから良い蕎麦の御膳の蒸籠せいろうを取って参れ、それからお汁粉もあつらえてまいれ」

 と種々いろ〳〵な物を取寄せ、其の晩はめでたく祝しまして床にきましたが、其のは話も尽きやらず、長き夜もたちまち明ける事になり、翌日刻限を計り、孝助は新五兵衞と同道にて水道端を立出たちい切支丹坂きりしたんざかから小石川にかゝり、白山はくさんから団子坂だんござかりて谷中の新幡随院へ参り、玄関へかゝると、お寺にはうより孝助の来るのを待っていて、

良「施主が遅くって誠に困るなア、坊主はみんな本堂に詰懸つめかけているから、さア〳〵早く」

 とき立てられ、急ぎ本堂へ直りますると、かれこれ坊主の四五十人も押並おしならび、いとねんごろなる法事供養をいたし、施餓鬼せがきをいたしまする内に、もはや日は西山せいざんに傾く事になりましたゆえ、坊様達ぼうさんたちには馳走なぞして帰してしまい、あとで又孝助、新五兵衞、良石和尚の三人へは別に膳がなおり、和尚の居間で一口飲むことになりました。

相「方丈様には初めてお目にかゝります、わたくしは相川新五兵衞と申す粗忽な者でございます、今日こんにち御懇ごねんごろな法事供養を成しくだされ、仏もさぞかし草葉の蔭から満足な事でございましょう」

良「はいお前は孝助殿の舅御しゅうとごかえ、初めまして、孝助殿は器量と云い人柄と云い立派な正しい人じゃ、中々正直な人間で余程怜悧りこうじゃが、お前はそゝっかしそうな人じゃ」

相「方丈様はよく御存じ、気味のわるいようなお方だ」

良「いては、孝助殿は旅へかれる事を承わったが、だ急には立ちはせまいのう、私が少し思う事があるから、明日あす昼飯ひるめしを喰って、それからツ前後に神田の旅籠町はたごちょうきなさい、其処そこに白翁堂勇齋という人相を見る親爺おやじがいるが、今年はもう七十だが達者な老人でなア、人相は余程名人だよ、れに頼めばお前の望みの事は分ろうからって見なさい」

孝「はい、有り難う存じます、神田の旅籠町でございますか、かしこまりました」

良「お前旅へくなれば私が餞別を進ぜよう、お前が折角呉れた布施は此方こちらへ貰って置くが、又私が五両餞別に進ぜよう、それから此の線香はほかから貰ってあるから一箱進ぜよう仏壇へ線香や花の絶えんように上げて置きなさい、是れだけは私が志じゃ」

相「方丈様恐れ入りまする、うも御出家様からお線香なぞ戴いては誠にあべこべな事で」

良「そんな事を云わずに取って置きなさい」

孝「誠に有り難う存じます」

良「孝助殿気の毒だが、お前はどうも危い身の上でナア、つるぎの上を渡るようなれども、それを恐れてあと退さがるような事ではまさかの時の役には立たん、なんでも進むよりほかはない、進むに利あり退しりぞくに利あらずと云うところだから、何でもおくしてはならん、ずっと精神をこらして、仮令たとえ向うに鉄門があろうとも、それを突切つッきって通り越す心がなければなりませんぞ」

孝「有難うござりまする」

良「お舅御さん、これはねえ精進物だが、一体内でこしらえると云うたは嘘だが、仕出し屋へ頼んだのじゃ、うもうもあるまいが此の重箱へ詰めて置いたから、二重とも土産に持って帰り、内の奉公人にでも喰わしてやってください」

相「これは又お土産まで戴き、実に何ともお礼の申そうようはございません」

良「孝助殿、お前帰りがけに屹度きっと剣難が見えるが、どうものがれ難いから其の積りできなさい」

相「誰に剣難がございますと」

良「孝助殿はどうも遁れ難い剣難じゃ、なに軽くて軽傷うすで、それで済めば宜しいが、何うも深傷ふかでじゃろう、間が悪いと斬り殺されるという訳じゃ、どうもこれは遁れられん因縁じゃ」

相「わたくしは最早五十五歳になりまするから、どう成っても宜しいが、貴僧あなた孝助は大事な身の上、ことに大事を抱えて居りまする故、どうか一つあなたお助け下さいませんか」

良「お助け申すと云っても、これはどうも助けるわけにはいかんなア、因縁じゃから何うしても遁るゝ事はない」

相「左様ならば、どうか孝助だけを御当寺ごとうじへおめ置きくだされ、手前てまいだけ帰りましょうか」

良「そんな弱い事では何うもこうもならんわえ、武士の一大事なものは剣術であろう、其の剣術の極意というものには、頭の上へきらめくはがねがあっても、電光いなづまの如く斬込んで来た時は何うしてこれを受けるという事は知っているだろう、仏説ぶっせつにも利剣りけん頭面ずめんるゝ時如何いかんという事があって其の時が大切の事じゃ、其の位な心得はあるだろう、仮令たとえ火の中でも水の中でも突切つッきってきなさい、其の代りこれを突切ればあとは誠に楽になるから、さっ〳〵と行きなさい、其のような事で気怯きおくれがするような事ではいかん、ズッ〳〵と突切って行くようでなければいかん、それを恐れるような事ではなりませんぞ、火にって焼けず水に入っておぼれず、精神をきよめて進んで行きなさい」

相「さようなれば此のお重箱は置いて参りましょう」

良「いや折角だからマア持ってきなさい」

相「何方どちらへか遁路にげみちはございませんか」

良「そんな事を云わずズン〴〵ときなさい」

相「さようならば提灯ちょうちんを拝借して参りとうございます」

良「提灯を持たん方がかえって宜しい」

 と云われて相川は意地の悪い和尚だとつぶやきながら、挨拶もそわ〳〵孝助と共に幡随院の門を立出たちいでました。


        二十


 孝助は新幡随院にて主人の法事を仕舞い、其の帰り道にのがれ難き剣難あり、浅傷あさで深傷ふかでか、運がわるければ斬り殺される程の剣難ありと、新幡随院の良石和尚という名僧智識の教えに相川新五兵衞も大いに驚き、孝助はまだようやく廿二歳、ことに可愛いゝ娘の養子といい、御主おしゅうかたきを打つまでは大事な身の上と、種々いろ〳〵心配をしながら打ち連れ立ちて帰る。孝助は仮令たとえ如何いかなるわざわいがあっても、それを恐れて一歩でも退しりぞくようでは大事を仕遂げる事は出来ぬと思い、刀にそりを打ち、目釘めくぎ湿しめし、鯉口こいぐちを切り、用心堅固に身を固め、四方に心を配りて参り、相川は重箱をげて、孝助殿気を付けてけと云いながら参りますると、向うよりすゝきだゝみを押分けて、血刀ちがたなを提げ飛出して、物をも云わず孝助に斬り掛けました。此の者は栗橋無宿の伴藏にて、栗橋の世帯しょたい代物付しろものつきにて売払い、多分の金子かねをもって山本志丈と二人にて江戸へ立退たちのき、神田佐久間町かんださくまちょうの医師何某なにがしは志丈の懇意ですから、二人はこゝに身を寄せて二三日逗留し、八月三日の二人はけるを待ちまして忍びきたり、根津の清水にうずめて置いた金無垢の海音如来の尊像そんぞうを掘出し、伴藏は手早く懐中へ入れましたが、伴藏の思うには、我が悪事を知ったは志丈ばかり、此のまゝけ置かばのちの恐れと、伴藏は差したる刀抜くより早く飛びかゝって、出し抜けに力に任して志丈に斬り付けますれば、アッと倒れる所をし掛り、一刀逆手さかてに持直し、あばら突込つきこみこじり廻せば、山本志丈は其の儘にウンと云って身をふるわせて、たちまち息は絶えましたが、此の志丈も伴藏にくみし、悪事をした天罰のがれ難くかゝる非業を遂げました、死骸を見て伴藏はあとへさがり、逃げ出さんとする所、御用と声掛け、八方より取巻かれたに、伴藏もあわてふためき必死となり、捕方とりかたへ手向いなし、死物狂いに斬り廻り、ようやく一方を切抜けてすゝきだゝみへ飛込んで、往来の広い所へ飛出す出合がしら、伴藏は眼もくらみ、れも同じ捕方と思いましたゆえ、ふいに孝助に斬掛けましたが、大概の者なれば真二まっぷたつにもなるべき所なれども、流石さすがは飯島平左衞門の仕込で真影流に達した腕前、ことに用意をした事ゆえ、それと見るより孝助は一あし退しりぞきしが、抜合ぬきあわす間もなき事ゆえ、刀の鍔元つばもとにてパチリと受流し、身を引く途端に伴藏がズルリと前へのめる所を、腕を取って逆に捻倒ねじたおし。

孝「やい〳〵曲者くせものなんと致す」

曲「へい真平御免まっぴらごめん下さえまし」

相「そら出たかえ、孝助怪我は無いか」

孝「へい怪我はございません、こりゃ狼藉者ろうぜきもの何等なんらの遺恨で我に斬付けたか、次第を申せ」

曲「へい〳〵全く人違いでごぜえやす」

 と小声にて、

「今この先で友達と間違いをした所が、みんなが徒党をして、大勢でわっち打殺うちころすと云って追掛おっかけたものだから、一生懸命に此処こゝまでは逃げて来たが、目が眩んでいますから、殿様とも心付きませんで、とんだ粗相を致しました、うかお見逃しを願います、其奴そいつらに見付けられると殺されますから、早くお逃しなすって下されませ」

孝「全くそれに違いないか」

曲「へい、全くちげえごぜえやせん」

相「あゝ驚いた、これ人違いにも事によるぞ、斬ってしまってから人違いで済むか、べらぼうめ、実に驚いた、良石和尚のお告げは不思議だなアおや今の騒ぎで重箱を何処どこかへ落してしまった」

 と四辺あたりを見𢌞している所へ、依田豊前守よだぶぜんのかみの組下にて石子伴作いしこばんさく金谷藤太郎かなやとうたろうという両人の御用聞ごようきゝが駆けて来て、孝助に向い慇懃いんぎんに、

捕「へい申し殿様、誠に有難う存じます、此の者はお尋ね者にて、旧悪のある重罪な奴でござります、私共わたくしども彼処あすこに待受けていまして、つい取逃がそうとした処を、旦那様のお蔭でようやくお取押えなされ、有難うございます、どうかお引渡しを願いとう存じます」

相「そうかえ、あれは賊かい」

捕「大盗賊おおどろぼうでござります」

孝「お父様とっさま呆れた奴でございます、此の不埓者め」

相「なんだ、人違いだなぞと嘘をついて、嘘をつく者は盗賊どろぼうの始りナニうに盗賊にもう成っているのだから仕方がない、ぐに縄を掛けてお引きなさい」

捕「殿様のお蔭で漸く取押え、誠に有り難う存じます、うかお名前を承わりとう存じます」

相「不浄人を取押えたとて姓名なぞを申すには及ばん、これ〳〵〳〵重箱を落したから捜してくれ、あゝこれだ〳〵、危なかったのう」

孝「しかしお父様、何分悪人とは申しながら、主人の法事の帰るさに縄を掛けて引渡すは何うも忍びない事でございます」

相「なれども左様そう申してはいられない、渡してしまいなさい、早く引きなされ」

 捕方は伴藏を受取り、縄打って引立てき、其の筋にて吟味の末、相当の刑に行われましたことはあとにて分ります。さて相川は孝助を連れてわが屋敷に帰り、互に無事を悦び、其のは過ぎて翌日の朝、孝助は旅支度の用意のめ、小網町こあみちょう辺へ行って種々いろ〳〵買物をしようとうちを立ちで、神田旅籠町へ差懸る、向うに白きのぼりに人相墨色すみいろ白翁堂勇齋とあるを見て、孝助は

「はゝアこれが、昨日きのう良石和尚が教えたには今日の八ツ頃には必ず逢いたいものに逢う事が出来ると仰せあった占者うらないしゃだな、かたきの手掛りが分り、源次郎お國にめぐり逢う事もやあろうか、何にしろ判断して貰おう」

 と思い、勇齋の門辺かどべに立って見ると、名人のようではござりません。竹の打ち付け窓にすゝだらけの障子を建て、脇にけやきの板に人相墨色白翁堂勇齋と記して有りますが、家の前などは掃除などした事はないと見え、ごみだらけゆえ、孝助は足を爪立つまだてながらうちり、

孝「おたのみ申します〳〵」

白「なんだナ、誰だ、明けておはいり、履物はきもの其処そこへ置くと盗まれるといけないから持っておあがり」

孝「はい、御免下さいまし」

 と云いながら障子を明けてうちへ通ると、六畳ばかりの狭い所に、真黒まっくろになった今戸焼いまどやきの火鉢の上に口のかけた土瓶どびんをかけ、茶碗が転がっている。脇の方に小さい机を前に置き、其の上に易書えきしょを五六冊積上げ、かたえ筆立ふでたてには短かき筮竹ぜいちくを立て、其の前に丸い小さなすゞりを置き、勇齋はぼんやりと机の前に座しましたさまは、名人かは知らないが、少しも山も飾りもない。じゞむさくしている故、名人らしい事は更になけれども、孝助はねて良石和尚の教えもあればと思って両手を突き、

孝「白翁堂勇齋先生は貴方様あなたさまでございますか」

白「はい、始めましてお目にかゝります、勇齋は私だよ、今年はもう七十だ」

孝「それは誠に御壮健な事で」

白「まア〳〵達者でございます、お前は見て貰いにでも来たのか」

孝「へい手前は谷中新幡随院の良石和尚よりのお指図さしずで参りましたものでございますが、先生に身の上の判断をしていたゞきとうございます」

白「はゝア、お前は良石和尚と心安いか、あれは名僧だよ、智識だよ、実に生仏いきぼとけだ、茶は其処そこにあるから一人で勝手に汲んでお上り、ハヽアお前は侍さんだね、何歳いくつだえ」

孝「へい、二十二歳でございます」

白「ハア顔をお出し」

 と天眼鏡を取出し、しばらくのあいだ相を見ておりましたが、大道の易者のように高慢は云わず

白「ハヽアお前さんはマア〳〵家柄の人だ、して是まで目上に縁なくして誠にどうも一々苦労ばかり重なって来るような訳に成ったの」

孝「はい、仰せの通り、どうも目上に縁がございません」

白「其処そこでどうも是迄の身の上では、薄氷はくひょうむが如く、つるぎの上を渡るような境界きょうがいで、大いに千辛万苦しんばんくをした事があらわれているが、そうだろうの」

孝「誠に不思議、実によく当りました、わたくしの身の上にはあやうい事ばかりでございました」

白「それでお前には望みがあるであろう」

孝「へい、ございますが、其の望みは本意が遂げられましょうか如何いかゞでございましょう」

白「望事のぞみごとは近く遂げられるが、其処そこの所がちと危ない事で、これと云う場合に向いたなら、水の中でも火の中でも向うへ突切つッきる勢いがなければ、必ず大望たいもうは遂げられぬが、まず退しりぞくに利あらず進むに利あり、ういう所で、悪くすると斬殺きりころされるよ、どうも剣難が見えるが、旨く火の中水の中を突切って仕舞えば、広々とした所へ出て、何事もお前の思う様になるが、それは難かしいから気をけなけりゃいけない、もう是切り見る事はないからお帰り〳〵」

孝「へい、それにきまして、わたくしうより尋ねる者がございますが、是はうしても逢えない事とは存じて居りますが、其の者の生死しょうし如何いかゞでございましょう、御覧下さいませ」

白「ハヽア見せなさい」

 と又そうして、

白「むゝ、是は目上だね」

孝「はい、左様さようでございます」

白「これは逢っているぜ」

孝「いゝえ、逢いません」

白「いや逢っています」

孝「もっと今年こんねんより十九年以前に別れましたるゆえ、途中で逢っても顔も分らぬ位でありまするから、一緒に居りましても互いに知らずに居りましたかな」

白「いや〳〵何でも逢って居ます」

孝「ちいさい時分に別れましたから、事に寄ったら往来でれ違った事もございましょうが、逢った事はございません」

白「いや〳〵そうじゃない、たしかに逢っている」

孝「それは少さい時分の事ゆえ

白「あゝうるさい、いや逢っていると云うのに、ほかには何も云う事はない、人相に出ているから仕方がない、屹度きっと逢っている」

孝「それは間違いでございましょう」

白「間違いではない、めた所を云ったのだ、それより外に見る所はない、昼寝をするんだから帰っておくれ」

 とそっけなく云われ、孝助はあとを細かく聞きたいからもじ〳〵していると、また門口よりり来るは女連れの二人にて、

女「はい御免下さいませ」

白「あゝ又来たか、昼寝が出来ねえ、おゝ二人か何一人は供だと、そんなら其処そこに待たして此方こっちへお上り」

女「はい御免くだされませ、先生のお名を承わりまして参りました、どうか当用とうようの身の上を御覧を願います」

白「はい此方こっちへおで」

 と又此の女の相をよく〳〵見て、

「これは悪い相だなア、お前はいくつだえ」

女「はい四十四歳でございます」

白「これはいかん、もう見るがものはない、ひどい相だ、一体お前は目の下にごく縁のない相だ、それに近々きん〳〵の内屹度きっと死ぬよ、死ぬのだから外になんにも見る事はない」

 と云われて驚きしばらく思案を致しまして、

女「命数は限りのあるもので、長い短かいは致し方がございませんが、わたくしは一人尋ねるものがございますが、其の者に逢われないで死にます事でございましょうか」

白「フウム是は逢っている訳だ」

女「いえ逢いません、もっとも幼年の折に別れましたから、先でもわたくしの顔を知らず、私も忘れたくらいな事で、すれ違ったくらいでは知れません」

白「なんでも逢っています、もうそれで外に見る所もなにもない」

女「其の者は男の子で、四つの時に別れた者でございますが」

 という側から、孝助はしやそれかとの女の側に膝をすりよせ、

孝「もし、お内室様かみさんへ少々伺いますが、いずれの方かは存じませんが、只今四つの時に別れたと仰しゃいます、その人は本郷丸山あたりで別れたのではございませんか、そしてあなたは越後村上の内藤紀伊守様の御家来澤田右衞門様のお妹御ではございませんか」

女「おやまアよく知っておでゞす、誠に、はい〳〵」

孝「そして貴方あなたのお名前はおりゑ様とおっしゃって、小出信濃守様の御家来黒川孝藏様へお縁附かたづきになり、其の御離縁になったお方ではございませんか」

女「おやまア貴方はわたくしの名前までお当てなすって、大そうお上手様、これは先生のお弟子でございますか」

 と云うに、孝助は思わず側により、

孝「オヽお母様かゝさまお見忘れでございましょうが、十九年以前、手前四歳の折お別れ申したせがれの孝助めでございます」

りゑ「おやまアどうもマア、お前がアノ忰の孝助かえ」

白「それだから先刻さっきから逢っている〳〵と云うのだ」

 おりゑは嬉涙うれしなみだを拭い、

りゑ「うもマア思いかけない、誠に夢の様な事でございます、そうして大層立派にお成りだ、う云う姿になっているのだものを、表で逢ったって知れる事じゃアありません」

孝「誠に神の引合せでございます、お母様お懐かしゅうございました、わたくしは昨年越後の村上へ参り、段々御様子をうかゞいますれば、澤田右衞門様の代も替り、お母様のいらっしゃいます所も知れませんから、何うがなしてお目に懸りたいと存じていましたに、はからずこゝでお目に懸り、ずお壮健すこやかでいらッしゃいまして、んな嬉しい事はございません」

りゑ「よくマア、さぞお前は私を怨んでおいでだろう」

白「そんな話をこゝでしては困るわな、しかし十九年ぶりで親子の対面、嘸話があろうが、いらざる事だが、供に知れてもくない事もあろうから、何処どこ待合まちあいか何かへ行ってするがいゝ」

孝「はい〳〵、先生お蔭様で誠に有難うございました、良石様のお言葉といい、貴方様の人相のお名人と申し、実に驚き入りました」

白「人相が名人というわけでもあるまいが、皆こうなっている因縁だから見料けんりょうはいらねえから帰りな、ナニちっとばかり置いて行くか、それも宜かろう」

りゑ「種々いろ〳〵お世話様、有り難う存じました、孝助や種々話もしたい事があるから斯うしよう、私は今馬喰町ばくろちょう三丁目下野屋しもつけやという宿屋に泊っているから、お前よ一ト足先へ帰り、供を買物に出すから、其のあとへ供に知れないようにあがっておいで」

白「さぞ嬉しかろうのう」

孝「さようならば、これからすぐ見えがくれにお母様のお跡に付いて参りましょう、それはそうと」

 と云いつゝも懐中より何程か紙に包んで見料を置き、厚く礼を述べ白翁堂の家を立出たちいで、見え隠れに跡をつけ、馬喰町へまいり、下野屋の門辺かどべたゝずみ待ってるうちに、供の者が買ものに出てきましたから、孝助は宿屋にはいり、下女おんなに案内を頼んで奥へ通る。

りゑ「サア〳〵〳〵此処こゝへ来な、本当にマアどうもねえ」

 と云いながら孝助をつく〴〵見て、

「見忘れはしませぬ幼顔おさながお、お前の親御孝藏殿によく似ておいでだよ、そうして大層立派におなりだねえ、お前がお父様とっさまの跡を継いで、今でもお父様はお存生ぞんしょうでいらッしゃるかえ」

孝「はい、お母様此の両隣の座敷には誰も居りは致しませんか」

りゑ「いゝえ、私も来て間もないことだが、昼のうちみんな買物や見物に出かけてしまうから誰もいないよ、日暮方は大勢帰って来るが、今は留守居が昼寝でもしている位だろうよ」

孝「フウ、左様なら申上げますが、お母様はわたくしの四つの時の二月にお離縁になりましたのも、お父様があの通りの酒乱からで、それからお父様は其の年の四月十一日、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申す刀屋の前で斬殺きりころされ、無慙むざんな死をお遂げなされました」

りゑ「おやまア矢張やっぱり御酒ごしゅゆえで、それだから私アもうお前のおとっさんでは本当に苦労を仕抜いたよ、あの時もお前と云う可愛い子があることだから、別れたいのではないが、兄が物堅い気性だから、あんな者へ付けては置かれん、酒ゆえに主家しゅかをおいとまに成るような者には添わせて置かんと、無理無体に離縁を取ったが、お行方の事は此の年月としつき忘れた事はありませぬ、そうしてお父様が亡くなっては、跡で誰もお前の世話をする者がなかったろう」

孝「さアお父様の店受たなうけ彌兵衞と申しまする者が育てゝ呉れ、わたくしが十一の時に、お前のお父さんはこれ〳〵で死んだと話して呉れました故、私も仮令たとえ今は町人に成ってはいますものゝ、元は武家の子ですから、成人ののちは必ずお父様のあだを報いたいと思い詰め、屋敷奉公をして剣術を覚えたいと思っていましたに、縁有って昨年の三月五日、牛込軽子坂に住む飯島平左衞門とおっしゃる、お広敷番ひろしきばんの頭をお勤めになる旗下屋敷に奉公ずみを致した所、其の主人が私をば我子わがこのように可愛がってくれましたゆえ、私も身の上をあかし、親のかたきが討ちたいから、うか剣術を教えて下さいと頼みましたれば、殿様は御番疲れのおいといもなく、までかけて御剣術を仕込んで下されました故、思いがけなく免許を取るまでになりました」

りゑ「おやそう、フウンー」

孝「すると其のうちにお國と申す召使がありました、これは水道端の三宅のお嬢様が殿様へ御縁組になる時に、奥様に附いて来た女でございますが、其の奥様がおかくれになりましたものですから、此のお國にお手がつき、お妾となりました所、隣家となり旗下はたもとの次男宮野邊源次郎と不義を働き、内々ない〳〵主人を殺そうとたくみましたが、主人はもとより手者てしゃの事ゆえ、容易に殺すことは出来ないから、中川へ網船あみぶねに誘い出し、船の上から突落つきおとして殺そうという事をわたくしが立聞しましたゆえ、源次郎お國をひそかに殺し、自分は割腹しても何うか恩ある御主人を助けたいと思い、昨年の八月三日の晩に私が槍を持って庭先へ忍び込み、源次郎と心得突懸つッかけたは間違いで、主人平左衞門のあばらを深く突きました」

りゑ「おやまアとんだ事をおしだねえ」

孝「サアわたくしも驚いて気が狂うばかりに成りますと、主人は庭へ下りて来て、ひそ〳〵と私への懴悔話ざんげばなしに、今より十八年前の事、貴様の親父おやじを手に掛けたは此の平左衞門がだ部屋住にて、平太郎と申した昔の事、どうか其の方の親の敵と名告なのり、貴様の手に掛りて討たれたいとは思えども、主殺しゅうころしの罪に落すを不便ふびんに思い、今日までは打過ぎたが、今日こそい折からなれば、くわざと源次郎のなりをして貴様の手にかゝり、なお委細の事は此の書置にしたゝめ置いたれば、跡の始末は養父相川新五兵衞と共に相談せよ、貴様はこれにてうらみを晴してくれ、しかる上はあだは仇恩は恩、三も変らぬ主従しゅうじゅうと心得、飯島のいえを再興してくれろ、急いでけとき立てられ、養家先なる水道端の相川新五兵衞の宅へ参り、舅と共に書置を開いて見れば、主人は私を出したあとにてぐに客間きゃくのまへ忍び入り源次郎と槍試合をして、源次郎の手に掛り、最後をすると認めてありました書置の通りに、ついに主人は其の晩果敢はかなくおなりなされました、又源次郎お國は必ず越後の村上へ立越すべしとの遺書にありますから、しゅうの仇を報わんめ、養父相川とも申し合せ、跡を追いかけて出立致し、越後へ参り、諸方を尋ねましたが一向に見当らず、又あなたの事もお尋ね申しましたが、これも分りません故、余儀なく此のたび主人の年囘をせん為めに当地へ帰りました所、不図ふと今日御面会を致しますとは不思議な事でございます」

 と聞いて驚き小声に成り、

りゑ「おやマア不思議な事じゃアないか、あの源次郎とお國は私のうちにかくまってありますよ、どうもまアなんたる悪縁だろう、不思議だねえ、私が廿六の時黒川のうちを離縁になって国へ帰り、村上に居ると、兄がしきりに再縁しろとすゝめ、不思議な縁でお出入の町人で荒物の御用を樋口屋ひのくちや兵衞へえと云うものゝ所へ縁付くと、そこに十三になる五郎三郎ごろさぶろうという男の子と、八ツになるお國という女の子がありまして、其のお國は年はかぬが意地の悪いともしょうの悪い奴で、夫婦の合中あいなかつッついて仕様がないから、十一のとし江戸の屋敷奉公にやった先は、水道端の三宅という旗下でな、其の奥様づきで牛込の方へ行ったとばかりであとは手紙一本も寄越さぬくらい、実にひどい奴で、夫五兵衞が亡くなった時も訃音しらせを出したに帰りもせず、返事もよこさぬ不孝もの、兄の五郎三郎も大層に腹を立っていましたが、其の私共は仔細有って越後を引払い、宇都宮の杉原町すぎはらまちに来て、五郎三郎の名前で荒物屋の店を開いて、最早七年居ますが、つい先達せんだってお國が源次郎と云う人を連れて来ていうのには、私が牛込の或るお屋敷へ奥様附で行った所が、若気の至りに源次郎様と不義私通いたずらゆえに此のお方は御勘当となり、わたくし故に今は路頭に迷う身の上だから、誠に済まない事だがかくまってくれろと云って、そんな人を殺した事なんぞは何とも云わないから、源次郎への義理に今は宇都宮の私の内にいるよ、私は此の間五郎三郎から小遣こづかいを貰い、江戸見物に出掛けて来て、未だこちらへ着いて間も無くお前に巡り逢って、此の事が知れるとは何たら事だねえ」

孝「ではお國源次郎は宇都宮に居りますか、つい鼻の先に居ることも知らないで、越後の方から能登へかけ尋ねあぐんで帰ったとは、誠に残念な事でございますから、どうぞお母様がお手引をして下すって、仇を討ち、主人の家の立行たちゆくように致したいものでございます」

りゑ「それは手引をして上げようともサ、そんなら私はすぐにこれから宇都宮へ帰るから、お前は一緒におで、だがこゝに一つ困った事があると云うものは、あの供がいるから、れを聞き付け喋られると、お國源次郎を取逃がすような事になろうも知れぬから、こうと……」

 思案して、

「私は明日あすの朝供を連れて出立するから、今日のようにお前が見え隠れに跡を追って来て、休む所も泊る所も一つ所にして、互に口をきかず、知らない者の様にして置いて、宇都宮の杉原町へ往ったら供を先へって置いて、そうして両人で相図あいずしめあわしたらかろうね」

孝「お母様有り難う存じます、それでは何うかそういう手筈てはずに願いとう存じます、わたくしはこれよりすぐたくへ帰って、舅へ此の事を聞かせたならのように悦びましょう、左様なら明朝早く参って、此のうちの門口に立って居りましょう、それからお母様先刻つい申上げ残しましたが、私は相川新五兵衞と申す者のかたへ主人の媒妁なかだちで養子にまいり、男の子が出来ました、貴方様には初孫の事故お見せ申したいが、此のたびはお取急ぎでございますから、いずれ本懐を遂げたあとの事にいたしましょう」

りゑ「おやそうかえ、それはにしても目出度い事です、私も早く初孫の顔が見たいよ、それにいても、うか首尾よくお國と源次郎をお前に討たせたいものだのう、これから宇都宮へけば私がよき手引をして、屹度きっと両人を討たせるから」

 と互に言葉を誓い孝助はいとまを告げて急いで水道端へ立帰りました。

相「おや孝助殿、大層早くお帰りだ、いろ〳〵お買物が有ったろうね」

孝「いえ何も買いません」

相「なんの事だ、何も買わずに来た、そんなら何か用でも出来たかえ」

孝「お父様とっさまどうも不思議な事がありました」

相「ハヽ随分世間には不思議な事も有るものでねえ、何か両国の川の上に黒気こくきでも立ったのか」

孝「左ようではございませんが、昨日良石和尚が教えて下さいました人相見の所へ参りました」

相「成程行ったかえ、そうかえ、名人だとなア、お前の身の上の判断は旨く当ったかえ〳〵」

孝「へい、良石和尚が申した通り、わたくしの身の上はつるぎの上を渡る様なもので、進むに利あり退くにあらずと申しまして、良石和尚の言葉といさゝか違いはござりません」

相「違いませんか、成程智識と同じ事だ、それから、へえそれからなんの事を見て貰ったか」

孝「それからわたくしが本意を遂げられましょうかと聞くと、本意を遂げるは遠からぬうちだが、のががたい剣難が有ると申しました」

相「へえ剣難が有ると云いましたか、それはごく心配になる、又昨日のような事があると大変だからねえ、其の剣難はうかして遁れるような御祈祷でもしてやると云ったか」

孝「いえ左ような事は申しませんが、貴方あなたも御存じの通りわたくしが四歳の時別れました母に逢えましょうか、逢えますまいかと聞くと、白翁堂は逢っていると申しますから、幼年の時に別れたる故、途中で逢っても知れない位だと申しても、なんでも逢っていると申しついに争いになりました」

相「ハアそこの所は少し下手糞だ、しかし当るも八卦はッけ当らぬも八卦、そう身の上も何もかも当りはしまいが、強情を張ってごまかそうと思ったのだろうが、其所そこの所は下手糞だ、なんとか云ってやりましたか、下手糞とか何とか」

孝「するとあとから一人四十三四の女が参りまして、これも尋ねる者に逢えるか逢えないかと尋ねると、白翁堂は同じく逢っているというものだから、其の女はなに逢いませんといえば、急度きっと逢っていると又争いになりました」

相「あゝ、こりゃからッぺた誠に下手だが、そう当る訳のものではない、それには白翁堂も恥をかいたろう、お前と其の女と二人で取って押えてやったか、それから何うした」

孝「さア余り不思議な事で、わたしも心にそれと思い当る事もありますから、其の女にはおりゑ様と仰しゃいませんかと尋ねました所が、それが全くわたくしの母でございまして、先でも驚きました」

相「ハヽア其のうらないは名人だね、驚いたねえ、成程、フム」

 是より孝助はお國源次郎両人の手懸りが知れた事から、母としめし合わせた一伍一什いちぶしじゅうを物語りますると、相川も驚きもいたし、又悦び、誠に天から授かった事なれば、すみやか明日あすの朝遅れぬように出立して、目出度く本懐を遂げて参れという事になりました。翌朝よくちょう早天に仇討あだうちに出立を致し、是より仇討は次に申上げます。


        二十一


 孝助は図らずも十九年ぶりにて実母おりゑにめぐり逢いまして、馬喰町の下野屋と申す宿屋へ参り、互にすぎし身の上の物語を致して見ると、思いがけなき事にて、母方にお國源次郎がかくまわれてある事を知り、誠に不思議の思いをなしました処、母が手引をしてあだを討たせてやろうとの言葉に、孝助は飛立つばかり急ぎ立帰り、右の次第を養父相川新五兵衞に話しまして、六日の早天水道端を出立し、馬喰町なる下野屋方へ参り様子を見ておりますると、母もねて約したる事なれば、身支度を整え、下男を供に連れでましたれば、孝助は見えがくれに跡をけて参りましたが、女の足のはかどらず、幸手、栗橋、古河、真間田まゝだすゞめみやあとになし、宇都宮へ着きましたは、丁度九日の日の暮々くれ〴〵に相成りましたが、宇都宮の杉原町の手前まで参りますと、母おりゑはず下男を先へ帰し、五郎三郎に我が帰りし事を知らせてくれろと云い付けやり、孝助を近く招ぎ寄せまして小声になり、

母「孝助や、私のうちは向うに見えるこん暖簾のれん越後屋えちごやと書き、山形に五の字をしるしたのが私の家だよ、あの先に板塀があり、付いて曲ると細い新道のような横町よこちょうがあるから、それへ曲り三四軒くと左側の板塀に三尺のひらきが付いてあるが、それから這入はいれば庭伝い、右のほうの四畳半の小座敷にお國源次郎が隠れいる事ゆえ、今晩私が開きのせんをあけて置くから、九ツの鐘を合図に忍び込めば、袋のうちの鼠同様、さとられぬよう致すがよい」

孝「はい誠に有り難うぞんじまする、はからずも母様はゝさまのお蔭にて本懐を遂げ、江戸へ立帰り、主家しゅうか再興の上わたくしは相川のいえを相続致しますれば、お母様をお引取申して、必ず孝行を尽す心得、さすれば忠孝の道も全うする事が出来、誠に嬉しゅう存じます、さようなれば私は何方どちらへ参って待受けて居ましょう」

母「そうさ、池上町いけがみまち角屋すみやは堅いという評判だから、あれへ参り宿を取っておいで、九ツの鐘を忘れまいぞ」

孝「決して忘れません、さようならば」

 と孝助は母に別れて角屋へまいり、九ツの鐘の鳴るのを待受けて居ました。母は孝助に別れ、越後屋五郎三郎方へ帰りますと、五郎三郎は大きに驚き、

五「大層お早くお帰りになりました、まだめったにはお帰りにならないと思っていましたのに、存じのほかにお早うござりました、それではとても御見物は出来ませんでございましたろう」

母「はい、私は少し思う事があって、急に国へ帰る事になりましたから、奉公人共への土産物も取っている暇もない位で」

五「アレサなに左様御心配がいるものでございましょう、おっかさまは芝居でも御見物なすってお帰りになる事だろうから、中々一ト月や二タ月は故郷こきょうぼうがたしで、あっちこっちをお廻りなさるから、急にはお帰りになるまいと存じましたに」

母「さアお前に貰った旅用の残りだから、むやみにつかっては済まないが、どうかみんなっておくれよ」

 と奉公人銘々めい〳〵に包んで遣わしまして、其のほか着古しの小袖半纒はんてんなどを取分け。

五「そんなに遣らなくってもよろしゅうございます」

 と申すに、

母「ハテこれは私の少々心あっての事で、詰らん物だが着古しの半纒は、女中にも色々世話に成りますからやっておくれ、シテお國や源次郎さんは矢張奥の四畳半に居りますか」

五「誠にあれはお母様かゝさまに対しても置かれた義理ではございません、憎い奴でございますが、しいすがり付いて参り、私故にお隣屋敷の源次郎さんが勘当をされたと申しますから、義理でよんどころなく置きましたものゝ、さぞあなたはおいやでございましょう」

母「私はお國に逢ってゆっくり話がしたいから、用もあるだろうが、いつもより少々店を早くひけにして、寝かしておくれ、私は四畳半へ行って國や源さんに話があるのだが、是でお酒やお肴を」

五「およし遊ばせ」

母「いや、そうでない、何も買って来ないから是非上げておくれよ」

五「はい〳〵」

 と気の毒そうに承知して、五郎三郎は母の云付けなれば酒肴さけさかなあつらえ、四畳半の小間へ入れ、店の奉公人も早く寝かしてしまい、母は四畳半の小座敷に来たりて内にはいれば、

國「おや、お母様はゝさま、大層早くお帰り遊ばしました、わたくしだめったにお帰りにはなりますまいと思い、屹度きっと一ト月位は大丈夫お帰りにはならないとお噂ばかりして居りました、大層お早く、本当にびっくり致しました」

源「只今はお土産として御酒肴ごしゅこうを沢山に有り難うぞんじます」

母「いえ〳〵、なんぞ買って来ようと思いましたが、誠に急ぎましたゆえ何も取って居るひまもありませんでした、誰もほかに聞いている人もないようだから、打解けて話をしなければならない事があるが、お國やお前が江戸のお屋敷を出た時の始末を隠さずに云っておくんなさい」

國「誠にお恥かしい事でございますが、若気のあやまり、此の源さまと馴染なれそめた所から、源さまは御勘当になりまして、き所のないようにしたはみんわたしゆえと思い、悪いこととは知りながらお屋敷を逃出し、源さまと手を取り合い、日頃無沙汰を致した兄の所に頼り、今ではこうやって厄介になって居りまする」

母「不義淫奔いたずらは若い内には随分ありがちの事だが、お國お前は飯島様のお屋敷へ奥様付になって来たが、奥様がおかくれになってから、殿様のお召使になっているうちに、お隣の御二男源次郎さまと、隣りずからの心安さに折々おり〳〵いでになる所から、お前は此の源さまと不義密通いたずらを働いた末、お前方が申し合せ、殿様を殺し、有金大小衣類きるいを盗み取り、お屋敷を逃げておいでだろうがな」

 と云われて二人は顔色変え、

國「おやまアびっくりします、お母様かゝさま何をおっしゃいます、誰が其の様な事を云いましたか、少しも身に覚えのない事を云いかけられ、本当に恟り致しますわ」

母「いえ〳〵いくら隠してもいけないよ、私の方にはちゃんと証拠がある事だから、隠さずに云っておしまい」

國「そんな事を誰が申しましたろうねえ源さま」

 と云えば、源次郎落着おちつきながら、

源「誠にしからん事です。お母様もしほかの事とは違います、手前も宮野邊源次郎、何ゆえお隣の伯父を殺し、有金衣類いるいを盗みしなどゝ何者がさような事を申しました、毛頭覚えはございません」

母「いや〳〵そうおっしゃいますが、私は江戸へ参り、不思議と久し振りで逢いました者が有って、其の者から承わりました」

源「フウ、シテ何者でございますか」

母「はい、飯島様のお屋敷でお草履取を勤めて居りました、孝助と申す者でなア」

源「ムヽ孝助、彼奴あいつは不届至極な奴で」

國「アラ彼奴はマア憎い奴で、御主人様のお金を百両盗みました位の者ですから、どんなこしらえ事をしたか知れません、あんな者の云う事をあなた取上げてはいけません、うして草履取が奥の事を知っている訳はございません」

母「いえ〳〵お國や、その孝助は私の為には実のせがれでございます」

 と云われて両人ふたりは驚き顔して、あとへもじ〳〵とさがり、

母「さア、私が此のへ縁付いて来たのは、今年で丁度十七年前の事、元私の良人つれあいは小出様の御家来で、お馬廻り役を勤め、百五十石頂戴致した黒川孝藏と云う者でありましたが、乱酒らんしゅ故に屋敷は追放、本郷丸山の本妙寺ほんみょうじ長屋へ浪人していました処、わたくしの兄澤田右衞門が物堅い気質で、左様な酒癖さけくせあしき者に連添うているよりは、離縁を取って国へ帰れとおして迫られ、兄の云うに是非もなく、其の時四つになる忰をあとに残し、離縁を取って越後の村上へ引込ひきこみ、二年程過ぎて此の家に再縁して参りましたが、此のたび江戸で図らずも十九年ぶりにて忰の孝助に逢いましたが、実の親子でありますゆえ、段々様子を聞いて見ると、お前達は飯島様を殺した上、有金大小衣類まで盗み取り、お屋敷を逐電したと聞き、私は恟りしましたよ、それが為飯島様のお家は改易になりましたから、忰の孝助が主人のかたきのお前方を討たなければ、飯島の家名をおこす事が出来ないから、敵を捜す身の上と、涙ながらの物語に、わたしも十九年ぶりで実の子に逢いました嬉し紛れに、敵のお国源次郎は私の家にかくまってあるから、手引をして敵を打たせてやろうと、サうっかり云ったは私の過り、孝助は血を分けた実子なれども、一旦離縁を取ったれば黒川の家の子、此の家に再縁する上からは、今はお前は私の為に猶更なおさら義理ある大切だいじの娘なりや、縁の切れた忰のなさけに引かされて、手引をしてお前達を討たせては、亡くなられたお前の親御樋口屋五兵衞殿の御位牌へ対して、何うも義理が立ちませんから、悪い事を云うた、何うしたらかろうかと道々も考えて来ましたが、孝助はあとになり先になり私に附きて此の地に参り、実は今晩九時こゝのつどきの鐘を合図に庭口から此家こゝに忍んで来る約束、討たせては済まないから、お前達も隠さず実はこれ〳〵と云いさえすれば、五郎三郎から小遣こづかいに貰った三十両の内、少しつかってだ二十六七両は残ってありますから、これをお前達に路銀として餞別に上げようから、少しも早く逃げのびなさい、立退たちのく道は宇都宮の明神様の後山うしろやまを越え、慈光寺じこうじの門前から付いて曲り、八幡山わたやまを抜けてなだれに下りると日光街道、それより鹿沼道かぬまみちへ一里半けば、十ろうみねという所、それよりまた一里半あまりけば鹿沼へ出ます、それより先は田沼道たぬまみち奈良村ならむらへ出る間道かんどう、人の目つまにかゝらぬ抜道ぬけみち、少しも早く逃げのびて、何処いずこの果なりとも身を隠し、悪い事をしたと気がつきましたら、髪をって二人とも袈裟けさころもに身をやつし、殺した御主人飯島様の追善供養致したなら、命の助かる事もあろうが、只不便ふびんなのは忰の孝助、敵の行方の知れぬ時は一生旅寝の艱難困苦かんなんこんく御主おしゅうのお家も立ちません、気の毒な事と気がついたら心を入れかえ善人に成っておくれよ、さア〳〵早く」

 と路銀まで出しまして、義理を立てぬく母の真心まごゝろ流石さすがの二人も面目めんぼくなく眼と眼を見合せ、

國「はい〳〵誠にどうも、左様とは存じませんでお隠し申したのは済みません」

源「実に御信実ごしんじつなお言葉、恐れ入りました、拙者も飯島を殺す気ではござらんが、不義があらわれ平左衞門が手槍にて突いてかゝる故、止むを得ずかくの如きの仕合しあわせでございます、仰せに従い早々逃げのび、改心致して再びお礼に参りまするでございます、これお國や、お餞別として路銀まで、あだに心得ては済みませんよ」

國「お母様はゝさま、どうぞ堪忍してくださいましよ」

母「さア〳〵早くかぬか、かれこれ最早もはや九ツになります」

 と云われて二人は支度をしていると、うしろの障子を開けて這入りましたはお國の兄五郎三郎にて、突然いきなりお國の側へより、

五「お母様少しお待ちなすってください、これ國これへ出ろ〳〵、本当にマア呆れはてゝ物が云われねえ奴だ、内へ尋ねて来た時なんと云った、お隣の次男と不義をしたゆえ、源さんは御勘当になり、身の置所がないようにしたも私ゆえ、お気の毒でならねえから一緒に連れて来ましたなどと、生嘘なまぞらつかって我をだましたな、内にうやって置く奴じゃアねえぞ、お父様とっさま御死去ごしきょに成った時、幾度いくたび手紙を出しても一通の返事もよこさぬくらいな人でなし、たった一人のいもとだが死んだと思ってな諦めていたのだ、それにのめ〳〵と尋ねて来やアがって、置いてくれろというから、よもや人を殺し、泥坊をして来たとは思わねえから置いてやれば、今聞けば実に呆れて物が云われねえ奴だ、お母様はゝさま誠に有り難うございまするが、あなたが親父へ義理を立てゝ、此奴等こいつを逃がして下さいましても天命はのがれられませんから、とても助かる気遣きづかいはございません、いっそ黙っておいでなすって、孝助様に切られてしまう方が宜しゅうございますのに、やいお國、お母様かゝさまは義理堅いお方ゆえ、親父の位牌へ対して路銀まで下すって、そのうえ逃路にげみちまで教えて下さると云うはな実に有り難い事ではないか、なんとも申そうようはございません、コレお國、この罰当ばちあたりめえ、お母様かゝさまが此の家へ嫁にいらッしゃった時は、手前てめえがな十一の時だが、意地がわるくてお父様とお母様と己との合中あいなかをつゝき、何分家が揉めて困るから、己がおやじさんに勧めて他人の中を見せなければいけませんが、近い所だと駈出して帰って来ますから、いっそ江戸へ奉公に出した方が宜かろうと云って、江戸の屋敷奉公に出した所が、善事いゝことは覚えねえで、密夫いろおとこをこしらえてお屋敷をげ出すのみならず、御主人様を殺し、金を盗みしというは呆れ果てゝ物が云われぬ、お母様が並の人ならば、知らぬふりをしておいでなすッたら、今夜孝助様に斬殺きりころされるのも心がら、天罰で手前達てめえたち当然あたりまえだが、坊主が憎けりゃ袈裟までのたとえで、此奴こいつかたき片割かたわれと己までも殺される事を仕出来しでかすというは、不孝不義の犬畜生め、たった一人の兄妹きょうだいなり、ことにゃア女の事だから、此の兄の死水しにみず手前てまえが取るのが当前あたりまえだのに、何の因果で此様こんな悪婦あくとうが出来たろう、お父様やじさまも正直なお方、私も是までさのみ悪い事をした覚えはないのに、此の様な悪人が出来るとは実になさけない事でございます、此の畜生め〳〵サッサと早く出てけ」

 と云われて、二人とも這々ほう〳〵ていにて荷拵にごしらえをなし、暇乞いとまごいもそこ〳〵に越後屋方を逃出しましたが、宇都宮明神の後道うしろみちにかゝりますと、昼さえ暗き八幡山、まして真夜中の事でございますから、二人は気味わる〳〵みちの中ばまで参ると、一むら茂る杉林の蔭より出てまいる者をすかして見れば、面部を包みたる二人のおのこ、いきなり源次郎の前へ立塞たちふさがり、

○「やい、神妙しんびょうにしろ、身ぐるみ脱いて置いてけ、手前達てめえたちは大方宇都宮の女郎を連出した駈落者かけおちものだろう」

×「やい金を出さないか」

 と云われ源次郎は忍び姿の事なれば、大小を落しざしにして居りましたが、此の様子にハッと驚き、拇指おやゆびにて鯉口を切り、ふるえ声を振立ふりたって、

源「手前達てまえたちは何だ、狼藉者」

 と云いながら、すかして九日のの月影に見れば、一人は田中の中間喧嘩の龜藏、見紛みまごかたなき面部の古疵ふるきず、一人は元召使いの相助なれば、源次郎は二度びっくり、

源「これ、相助ではないか」

相「これは御次男様、誠にしばらく」

源「まア安心した、本当に恟りした」

國「私も恟りして腰が抜けた様だったが、相助どんかえ」

相「誠にヘイ面目ありません」

源「手前は斯様かような悪い事をしているか」

相「実はお屋敷をおいとまに成って、藤田の時藏と田中の龜藏と私と三人そろって出やしたが、何処どこへもく所はなし、うしたら宜かろうかと考えながら、ぶら〳〵と宇都宮へ参りやして、雲助になり、何うやらうやらやっているうち、時藏は傷寒しょうかんわずらって死んでしまい、金はなくなって来た処から、ついふら〳〵と出来心で泥坊をやったが病付やみつきとなり、此の間道かんどうはよく宇都宮の女郎を連れて、鹿沼の方へ駈落するものが時々あるので、こゝに待伏せして、サア出せと一言ひとこといえば、私は剣術を知らねえでも、怖がってきに置いて行くような弱い奴ばっかりですから、今日もうっかり源様と知らず掛かりましたが、貴方に抜かれりゃアおッ切られてしまう処、誠になんともはや」

源「これ龜藏、手前も泥坊をするのか」

龜「へい雲助をしていやしたが、ろくな酒も飲めねえから太く短くやッつけろと、今ではこんな事をしておりやす」

 と云われ、源次郎はしばし小首をかたげて居りましたが、

い所で手前達に逢うた、手前達も飯島の孝助には遺恨があろうな」

龜「えゝ、ある所じゃアありやせん、川の中へ放り込まれ、石で頭を打裂ぶっさき、相助と二人ながら大曲りではひどい目に逢い、這々ほう〳〵ていで逃げ返った処が、此方こっちはおいとま、孝助はぬくぬくと奉公しているというのだ、今でも口惜しくってたまりませんが、彼奴あいつはどうしました」

源「たれほかに聞いている者はなかろうな」

相「へいたれがいるものですか」

源「此の國の兄のたくは杉原町の越後屋五郎三郎だから、しばら彼処あすこかくまわれていたところ、母というのは義理ある後妻だが、不思議な事でそれが孝助の実母であるとよ、此の間母が江戸見物に行った時孝助にめぐり逢い、くわしい様子を孝助から残らず母が聞取り、手引をして我を打たせんと宇都宮へ連れては来たが、義理堅い女だから、亡父五兵衞の位牌へ対してお國を討たしては済まないという所で、路銀まで貰い、うやって立たせてはくれたものゝ、其処そこは血肉を分けた親子の間、事によるとあとから追掛けさせ、やってまいものでもないが、うしてか手前てめえらが加勢して孝助を殺してくれゝば、多分の礼は出来ないが、二十金やろうじゃないか」

龜「宜しゅうございやす、随分やッつけましょう」

相「龜藏安受合やすうけあいするなよ、彼奴あいつと大曲で喧嘩した時、大溝おおどぶの中へ放り込まれ、水をくらってよう〳〵逃帰ったくらい、彼奴ア途方もなく剣術が旨いから、迂濶うっかたゝき合うとかなやアしない」

龜「それは又工夫がある、鉄砲じゃア仕様があるめえ、十郎ヶ峰あたりへ待受け、源さまは清水流れの石橋の下へ隠れて居て、己達おらたちゃア林の間に身を隠している所へ、孝助がやってりゃア、橋を渡り切った所で、己が鉄砲を鼻ッ先へ突付けるのだ、孝助が驚いてあとへさがれば、源さまが飛出して斬付けりゃアはさみ打ち、わきアねえ、げるも引くも出来アしねえ」

源「じゃアどうか工夫してくれろ、何分頼む」

 と是から龜藏は何処どこからか三ちょうの鉄砲を持ってまいり、皆々連立ち十郎ヶ峰に孝助の来るを待受けました。


        二十一の下


 さて相川孝助は宇都宮池上町の角屋へ泊り、其の晩九ツの鐘の鳴るのを待ち掛けました処、もう今にも九ツだろうと思うから、刀の下緒さげおを取りましてたすきといたし、裏と表の目釘めくぎ湿しめし、養父相川新五兵衞から譲り受けた藤四郎吉光の刀をさし、主人飯島平左衞門より形見に譲られた天正助定を差添さしぞえといたしまして、橋を渡りて板塀の横へ忍んで這入りますと、三尺の開き戸が明いていますから、ハヽアこれは母が明けて置いてくれたのだなと忍んできますと、母の云う通り四畳半の小座敷がありますから、雨戸のわきへ立寄り、耳を寄せて内の様子をうかゞいますと、家内は一体に寝静まったと見え、奉公人のいびきの声のみしんといたしまして、池上町と杉原町の境に橋がありまして、其の下を流れます水の音のみいたしております。孝助はもう家内が寝たかと耳を寄せて聞きますと、内では小声で念仏を唱えている声がいたしますから、ハテだれか念仏を唱えているものがあるそうだなと思いながら、雨戸へ手を掛けて細目に明けると、母のおりゑが念珠ねんじゅを爪繰りまして念仏を唱えているから、孝助は不審に思い小声になり。

孝「おっかさま、これはお母様のお寝間でございますか、ひょっと場所を取違えましたか」

母「はい、源次郎お國は私が手引をいたしましてとくに逃がしましたよ」

 と云われて孝助はびっくりし、

孝「えゝ、お逃し遊ばしましたと」

母「はい十九年ぶりでお前に逢い、懐かしさのあまり、源次郎お國は私のうちかくまってあるから手引きをして、私が討たせると云ったのは女の浅慮あさはか、お前と道々来ながらも、お前に手引きをして両人を討たしては、私が再縁した樋口屋五兵衞どのに済まないと考えながら来ました、今こゝの家の主人五郎三郎は、十三の時お國が十一の時から世話になりましたから実の子も同じ事、お前は離縁をして黒川のいえへ置いて来た縁のない孝助だから、両人ふたりを手引をして逃がしました、それは全く私がしたに違いないから、お前はかたきの縁につながる私を殺し、お國源次郎のあとを追掛けて勝手に敵をお討ちなさい」

 と云われ孝助は呆れて、

孝「えゝお母様、それは何ゆえ縁が切れたと仰しゃいます、成程親は乱酒でございますから、あなたも愛想あいそが尽きて、私の四ツの時に置いておになった位ですから、よく〳〵の事で、お怨み申しませんが、わたくしは縁は切れても血統ちすじは切れない実のお母さま、私は物心が付きましてお母様はお達者か、御無事でおいでかと案じてばかりおりました所、此度こんどはからずお目にかゝりましたのは日頃神信心かみしんじんをしたお蔭だ、ことにあなたがお手引をなすって、お國源次郎を討たせて下さると仰しゃッたから、此の上もない有難いことと喜んでおりました、それを今晩になってお前には縁がない、越後屋に縁がある、あかの他人に手引をする縁がないと仰しゃるはお情ない、左様なお心なら、江戸表にいる内に何故なぜこれ〳〵と明かしては下さいません、私も敵の行方を知らなければ知らないなりに、又外々ほか〳〵を捜し、仮令たとえ草を分けてもお國源次郎を討たずには置きません、それをお逃がし遊ばしては、仮令今から跡を追かけてきましても、両人ふたりは姿を変えて逃げますから、私には討てませんから、主人の家を立てる事は出来ません、縁は切れても血統ちすじは切れません、縁が切れても血統が切れても宜しゅうございますが、余りの事でございます」

 と怨みつ泣きつ口説き立て、思わず母の膝の上に手をついてゆすぶりました。母は中々落着おちつきものですから、

母「成程お前は屋敷奉公をしただけに理窟をいう、縁が切れても血統ちすじは切れない、それを私が手引きをして敵を討たなければ、お前は主人飯島様の家を立てる事が出来ないから、其の言訳いいわけうしてする」

 と膝の下にある懐剣を抜くより早く、咽喉のどへガバリッと突き立てましたから、孝助はびっくりし、あわてゝすがり付き、

孝「お母様っかさま何故なにゆえ御自害なさいました、お母様ア〳〵〳〵」

 と力に任せて叫びます。気丈な母ですから、懐剣を抜いてあふおちる血をぬぐって、ホッ〳〵とつく息も絶え〴〵になり、面色めんしょく土気色に変じ、息を絶つばかり、

母「孝助々々、縁は切れても、ホッ〳〵血統ちすじは切れんという道理に迫り、もとより私は両人ふたりを逃がせば死ぬ覚悟、ホッ〳〵江戸で白翁堂にて貰った時、お前は死相が出たから死ぬと云われたが、実に人相の名人という先生の云われた事が今思い当りました、ホッ〳〵再縁した家の娘がお前の主人を殺すと云うは実になんたる悪縁か、さア死んでく身、今息を留めれば此の世にない身体、ホッ〳〵幽霊が云うと思えば五郎三郎に義理はありますまい、お國源次郎の逃げて行った道だけを教えてやるからよく聞けよ」

 と云いながら孝助の手を取って膝に引寄せる。孝助は思わずも大声を出して

「情ない」

 と云う声が聞えたから、五郎三郎は何事かと来て障子を明けて見れば此の始末、五郎三郎はもとより正直者だから母の側に縋り付き、

五「お母様っかさま〳〵、それだから私が申さない事ではありません、孝助様あとで御挨拶を致します、私はお國の兄で、十三の時から御恩になり、暖簾のれんを分けて戴いたもお母様のお蔭、悪人のお國に義理を立て、何故なぜ御自害をなさいました」

 と云う声が耳に通じたか、母は五郎三郎の顔をじっと見詰め、苦しい息をつきながら、

母「五郎三郎、お前はちいさい時から正当しょうとうな人で、お前には似合わないのお國なれども、義理に対しお位牌に対し、私が逃がしました、又孝助へ義理の立たんというは、血統ちすじのものが恩義を受けた主人の家が立たないという義理を思い、自害をいたしたので、うかお國源次郎の逃げ道を教えてやりたいが、ハッ〳〵必ずお前怨んでお呉れでないよ」

五「いゝえ、怨む所ではありません、あなたおせつないから私が申しましょう、孝助様お聞き下さい、宇都の宮の宿外しゅくはずれに慈光寺という寺がありますから、其の寺を抜けて右へくと八幡山、それから十郎ヶ峯から鹿沼へ出ますから、貴方あなたお早くおいでなさい、ナアニ女の足ですから沢山はきますまいから、早くお國と源次郎の首を二つ取って、お母様っかさまのお目の見える内に御覧にお入れなさい、早く〳〵」

 と云うから孝助は泣きながら、

孝「はい〳〵お母様、五郎三郎さんがお國と源次郎の逃げた道を教えて呉れましたから、遠く逃げんうちに跡追っかけ、両人ふたりの首を討ってお目にかけます」

 という声ようやく耳に通じ、

母「ホッ〳〵勇ましい其の言葉うか早く敵を討って御主人様のおいえをたてゝ、立派な人に成って呉れホッ〳〵、五郎三郎殿此の孝助はほかに兄弟もない身の上、また五郎三郎殿も一粒種だから、これで敵は敵として、これからは何うか実の兄弟と思い、互に力になり合って私の菩提を頼みますヨウ〳〵」

 と云いながら、孝助と五郎三郎の手を取って引き寄せますから、両人ふたりは泣く〳〵介抱するうちに次第々々に声も細り、苦しき声で、

母「ホッ〳〵早くかんか〳〵」

 と云って血のある懐剣を引き抜いて、

「さア源次郎お國は此の懐剣でとゞめを刺せ」

 と云いたいがもう云えない。孝助は懐剣を受取り、血を拭い、敵を討って立帰り、お母様に御覧に入れたいが、此の分ではれがお顔の見納めだろうと、心のうちで念仏を唱え、

孝「五郎三郎さん、どうか何分願います」

 と出掛けては見たが、今母上が最後のきわだからき切れないで、又帰って来ますと、気丈な母ですから血だらけで這出しながら、虫の息で、

母「早くかんか〳〵」

 と云うから、孝助は

「へいきます」

 とあとに心は残りますが、敵を逃がしては一大事と思い、跡を追ってきました。先刻からこれを立聞きして居た龜藏は、ソリャこそと思い、孝助よりきへ駆けぬけて、トッ〳〵と駆けてきまして、

龜「源さま、わっちが今立聞をしていたら、孝助の母親おふくろ咽喉のどを突いて、おなれさん方の逃げた道を孝助におせえたから、こゝへ追掛おっかけて来るにちげえねえから、おめえさんは此の石橋の下へ抜身ぬきみ姿なりで隠れていて、孝助が石橋を一つ渡った所で、私共が孝助に鉄砲を向けますから、そうするとあとさがる所を後から突然だしぬけに斬っておしまいなさい」

源「ウム宜しい、ぬかっちゃアいけないよ」

 と源次郎は石橋の下へ忍び、抜身を持って待ち構え、ほかの者は十郎ヶ峰のむこう雑木山ぞうきやまへ登って、鉄砲を持って待っている所へ、かくとは知らず孝助は、息をもつかず追掛おっかけて来て、石橋まで来て渡りかけると、

龜「待て孝助」

 と云うから、孝助が見ると鉄砲を持っているようだから、

孝「火縄を持って何者だ」

 と向うを見ますと喧嘩の龜藏が、

龜「やい孝助己を忘れたか、牛込にいた龜藏だ、よく己をひどい目にあわせたな、手前てめえが源様の跡を追っかけて来たら殺そうと思って待っているのだ」

相「いえー孝助手前てめえのお蔭で屋敷を追出されて盗賊どろぼうをするように成った、今此処こゝで鉄砲で打ち殺すんだからそう思え」

 と云えばお國も鉄砲を向けて、

國「孝助、サアとても逃げられねえから打たれて死んでしまやアがれ」

 孝助はあとさがって刀を引き抜きながら声張り上げて。

孝「卑怯ひきょうだ、源次郎、下人げにんや女をこゝへ出して雑木山に隠れているか、手前てめえも立派な侍じゃアないか、卑怯だ」

 という声が真夜中だからビーンと響きます。源次郎は孝助のうしろから逃げたら討とうと思っていますから、孝助は進めば鉄砲で討たれる、退しりぞけば源次郎がいて進退こゝきわまりて、一生懸命に成ったから、額と総身そうしんから油汗が出ます。此の時孝助が図らず胸に浮んだのは、かねて良石和尚も云われたが、退くに利あらず進むに利あり、仮令たとえ火の中水の中でも突切つッきっかなければ本望ほんもうを遂げる事は出来ない、おくしてあとさがる時は討たれると云うのは此の時なり、仮令一発二発の鉄砲だまに当っても何程の事あるべき、踏込んでかたきを討たずに置くべきやと、ふいに切込み、卑怯だと云いながら喧嘩龜藏の腕を切り落しました。龜藏は孝助が鉄砲に恐れてあとさがるように、わざと鼻の先へ出していた所へ、ふいに切込まれたのだから、アッと云ってあとさがったが間に合わない、手を切って落すと鉄砲もドッサリと切落して仕舞いました。昔から随分腕のいた者はかめを切り、妙珍鍛みょうちんきたえかぶとったためしもありますが、孝助はそれほど腕が利いておりませんが、鉄砲を切り落せる訳で、あの辺は芋畑が沢山あるから、其の芋茎ずいきへ火縄を巻き付けて、それを持って追剥おいはぎがよく旅人りょじんおどして金を取るという事を、かねて龜藏が聞いて知ってるから、そいつを持って孝助を威かした。芋茎だから誰にでも切れます。れなら圓朝にでも切れます。龜藏が

「アッ」

 と云って倒れたから、相助は驚いて逃出す所を、後ろから切掛きりかけるのを見て、お國は

「アレ人殺し」

 と云いながら鉄砲を放り出して雑木山へ逃げ込んだが、木の中だから帯が木の枝にからまってよろける所を一刀ひとたちあびせると、

「アッ」

 と云って倒れる。源次郎は此の有様を見て、おのれお國を斬った憎い奴と孝助を斬ろうとしたが、雑木山で木が邪魔に成って斬れない所を、孝助はうしろから来る奴があると思って、いきなり振返りながら源次郎のあばらへ掛けて斬りましたが、殺しませんでお國と源次郎のもとどりを取って栗の根株に突き付けまして、

孝「やい悪人わりゃア恩義を忘却して、昨年七月廿一日に主人飯島平左衞門の留守をうかゞい、奥庭へ忍び込んでお國と密通している所へ、此の孝助が参って手前と争った所が、手前は主人の手紙を出し、それを証拠だと云って、よくも孝助を弓のおれったな、それのみならず主人を殺し、両人ふたり乗込んで飯島の家を自儘じまゝにしようと云う人非人にんぴにん、今こそ思い知ったか」

 と云いながら栗の根株へ両人ふたりの顔を擦付すりつけますから、両人とも泣きながら、

ゆるせえ、堪忍しておくんなさいよう」

 というのを耳にも掛けず、

孝「これお國、手前はお母様っかさまが義理をもって逃がして下すったのは、樋口屋の位牌へ対して済まんと道まで教えて下すったなれども、自害をなすったも手前故だ、たった一人の母親をよくも殺しおったな、主人の敵親の敵、なぶり殺しにするから左様心得ろ」

 と、これから差添さしぞえを抜きまして、

孝「手前のような悪人に旦那様がだまされておいでなすったかと思うと」

 といいながら顔を縦横たてよこズタ〳〵に切りまして、又源次郎に向い、

孝「やい源次郎、此の口で悪口あっこうを云ったか」

 とこれも同じくズタ〳〵に切りまして、又母の懐剣でとゞめをさして、両人ふたりの首を切りたぶさを持ったが、首という物は重いもので、孝助は敵を討って、もうこれでよいと思うと心にゆるみが出て尻もちをついて、

孝「あゝ有難い、日頃信心する八幡築土明神まんつくどみょうじんのお蔭をもちまして、首尾よく敵を討ちおおせました」

 と拝みをして、どれこうと立上ると、

人殺ひとごろし々々」

 という声がするからふり向くと、龜藏と相助の二人が眼がくらんでるから、知らずに孝助の方へ逃げて来るから、此奴こいつも敵の片われと二人とも切殺して二つの首を下げて、ひょろ〳〵と宇都宮へ帰って来ますと、往来ゆきゝの者は驚きました。生首を二つもって通るのだから驚きます。中には殿様へ訴える者もありました。孝助はすぐに五郎三郎の所へ行って敵を討った次第をのべ、こと

「母がまだ目が見えますか」

 と云われ、五郎三郎はいもとの首を見て胸ふさがり、物も云えない。母上様おっかさまは先程息がきれましたというから、このまゝでは置けないというので、御領主様へ届けると、敵討かたきうちの事だからというので、孝助は人を付けて江戸表へ送り届ける。孝助は相川の所へ帰り、首尾よく敵を討った始末を述べ、それよりおかしら小林へ届ける。小林から其の筋へ申立て、孝助が主人の敵を討ったかどもって飯島平左衞門の遺言に任せ、孝助の一孝太郎を以て飯島の家を立てまして、孝助は後見となり、芽出度く本領安堵ほんりょうあんどいたしますと、其の翌日伴藏がお仕置になり、其の捨札すてふだをよんで見ますと、不思議な事で、飯島のお嬢さまと萩原新三郎と私通くッついた所から、伴藏の悪事を働いたということが解りましたから、孝助は主人のめ娘の為め、萩原新三郎の為めに、ぼとけ建立こんりついたしたという。これ新幡随院濡れ仏の縁起えんぎで、此の物語も少しは勧善懲悪かんぜんちょうあくの道を助くる事もやと、かく長々とおきゝにいれました。

(拠若林玵藏筆記)

底本:「圓朝全集 巻の二」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫

   1963(昭和38)年710日発行

底本の親本:「圓朝全集 巻の二」春陽堂

   1927(昭和2)年1225日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。

また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。

底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「の」と「あの」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。

また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2010年28日作成

青空文庫作成ファイル:

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