晶子詩篇全集
與謝野晶子
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美濃部民子夫人に献ず
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美濃部民子様
わたくしは今年の秋の初に、少しの暇を得ましたので、明治卅三年から最近までに作りました自分の詩の草稿を整理し、其中から四百廿壱篇を撰んで此の一冊にまとめました。かうしてまとめて置けば、他日わたくしの子どもたちが何かの底から見附け出し、母の生活の記録の断片として読んでくれるかも知れないくらゐに考へてゐましたのですが、幸なことに、実業之日本社の御厚意に由り、このやうに印刷して下さることになりました。
ついては、奥様、この一冊を奥様に捧げさせて頂くことを、何とぞお許し下さいまし。
奥様は久しい以前から御自身の園にお手づからお作りになつてゐる薔薇の花を、毎年春から冬へかけて、お手づからお採りになつては屡わたくしに贈つて下さいます。お女中に持たせて来て頂くばかりで無く、郊外からのお帰りに、その花のみづみづしい間にと思召して、御自身でわざわざお立寄り下さることさへ度度であるのに、わたくしは何時も何時も感激して居ます。わたくしは奥様のお優しいお心の花であり匂ひであるその薔薇の花に、この十年の間、どれだけ励まされ、どれだけ和らげられてゐるか知れません。何時も何時もかたじけないことだと喜んで居ます。
この一冊は、決して奥様のお優しいお心に酬い得るもので無く、奥様から頂くいろいろの秀れた美くしい薔薇の花に比べ得るものでも無いのですが、唯だわたくしの一生に、折にふれて心から歌ひたくて、真面目にわたくしの感動を打出したものであること、全く純個人的な、普遍性の乏しい、勝手気儘な詩ですけれども、わたくしと云ふ素人の手作りである点だけが奥様の薔薇と似てゐることに由つて、この光も香もない一冊をお受け下さいまし。
永い年月に草稿が失はれたので是れに収め得なかつたもの、また意識して省いたものが併せて二百篇もあらうと思ひます。今日までの作を総べて整理して一冊にしたと云ふ意味で「全集」の名を附けました。制作の年代が既に自分にも分らなくなつてゐるものが多いので、ほぼ似寄つた心情のものを類聚して篇を分ちました。統一の無いのはわたくしの心の姿として御覧を願ひます。
山下新太郎先生が装幀のお筆を執つて下さいましたことは、奥様も、他の友人達も、一般の読者達も、共に喜んで下さいますことと思ひます。
装幀 山下新太郎先生
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晶子詩篇全集
雲片片
(小曲五十六章)
如何なれば草よ、
風吹けば一方に寄る。
人の身は然らず、
己が心の向き向きに寄る。
何か善き、何か悪しき、
知らず、唯だ人は向き向き。
わが家の天井に鼠栖めり、
きしきしと音するは
鑿とりて像を彫む人
夜も寝ぬが如し。
またその妻と踊りては
廻るひびき
競馬の勢あり。
わが物書く上に
屋根裏の砂ぼこり
はらはらと散るも
彼等いかで知らん。
されど我は思ふ、
我は鼠と共に栖めるなり、
彼等に食ひ物あれ、
よき温かき巣あれ、
天井に孔をも開けて
折折に我を覗けよ。
わが心、程を踰えて
高ぶり、他を凌ぐ時、
何時も何時も君を憶ふ。
わが心、消えなんばかり
はかなげに滅入れば、また
何時も何時も君を憶ふ。
つつましく、謙り、
しかも命と身を投げ出だして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川豐彦の君。
時として独を守る。
時として皆と親む。
おほかたは険しき方に
先づ行きて命傷つく。
こしかたも是れ、
行く末も是れ。
許せ、我が斯かる気儘を。
野の秋更けて、露霜に
打たるものの哀れさよ。
いよいよ赤む蓼の茎、
黒き実まじるコスモスの花、
さてはまた雑草のうら枯れて
斑を作る黄と緑。
唯だ一事の知りたさに
彼れを読み、其れを読み、
われ知らず夜を更かし、
取り散らす数数の書の
座を繞る古き巻巻。
客人よ、これを見たまへ、
秋の野の臥す猪の床の
萩の花とも。
ともに歌へば、歌へば、
よろこび身にぞ余る。
賢きも智を忘れ、
富みたるも財を忘れ、
貧しき我等も労を忘れて、
愛と美と涙の中に
和楽する一味の人。
歌は長きも好し、
悠揚として朗かなるは
天に似よ、海に似よ。
短きは更に好し、
ちらとの微笑、端的の叫び。
とにかくに楽し、
ともに歌へば、歌へば。
わが恋を人問ひ給ふ。
わが恋を如何に答へん、
譬ふれば小き塔なり、
礎に二人の命、
真柱に愛を立てつつ、
層ごとに学と芸術、
汗と血を塗りて固めぬ。
塔は是れ無極の塔、
更に積み、更に重ねて、
世の風と雨に当らん。
猶卑し、今立つ所、
猶狭し、今見る所、
天つ日も多くは射さず、
寒きこと二月の如し。
頼めるは、微なれども
唯だ一つ内なる光。
わが行く路は常日頃
三人四人とつれだちぬ、
また時として唯だ一人。
一人行く日も華やかに、
三人四人と行くときは
更にこころの楽めり。
我等は選りぬ、己が路、
一すぢなれど己が路、
けはしけれども己が路。
病みぬる人は思ふこと
身の病をば先きとして
すべてを思ふ習ひなり。
我は年頃恋をして
世の大方を後にしぬ。
かかる立場の止み難し、
人に似ざれと、偏れど。
ここで誰の車が困つたか、
泥が二尺の口を開いて
鉄の輪にひたと吸ひ付き、
三度四度、人の滑つた跡も見える。
其時、両脚を槓杆とし、
全身の力を集めて
一気に引上げた心は
鉄ならば火を噴いたであらう。
ああ、自ら励む者は
折折、これだけの事にも
その二つと無い命を賭ける。
木は皆その自らの根で
地に縛られてゐる。
鳥は朝飛んでも
日暮には巣に返される。
人の身も同じこと、
自由な魂を持ちながら
同じ区、同じ町、同じ番地、
同じ寝台に起き臥しする。
わたしは先生のお宅を出る。
先生の視線が私の背中にある、
わたしは其れを感じる、
葉巻の香りが私を追つて来る、
わたしは其れを感じる。
玄関から御門までの
赤土の坂、並木道、
太陽と松の幹が太い縞を作つてゐる。
わたしはぱつと日傘を拡げて、
左の手に持ち直す、
頂いた紫陽花の重たい花束。
どこかで蝉が一つ鳴く。
風ふく夜なかに
夜まはりの拍子木の音、
唯だ二片の木なれど、
樫の木の堅くして、
年経つつ、
手ずれ、膏じみ、
心から重たく、
二つ触れては澄み入り、
嚠喨たる拍子木の音、
如何に夜まはりの心も
みづから打ち
みづから聴きて楽しからん。
部屋ごとに点けよ、
百燭の光。
瓶ごとに生けよ、
ひなげしと薔薇と。
慰むるためならず、
懲らしむるためなり。
ここに一人の女、
讃むるを忘れ、
感謝を忘れ、
小き事一つに
つと泣かまほしくなりぬ。
三十を越えて未だ娶らぬ
詩人大學先生の前に
実在の恋人現れよ、
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
誰が家の女か放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。
城が島の
岬のはて、
笹しげり、
黄ばみて濡れ、
その下に赤き切厓、
近き汀は瑠璃、
沖はコバルト、
ここに来て暫し坐れば
春のかぜ我にあつまる。
トンネルを又一つ出でて
海の景色かはる、
心かはる。
静浦の口の津。
わが敬する龍三郎の君、
幾度か此水を描き給へり。
切りたる石は白く、
船に当る日は桃色、
磯の路は観つつ曲る、
猶しばし歩まん。
ヹルサイユ宮を過ぎしかど、
われは是れに勝る花を見ざりき。
牡丹よ、
葉は地中海の桔梗色と群青とを盛り重ね、
花は印度の太陽の赤光を懸けたり。
たとひ色相はすべて空しとも、
何か傷まん、
牡丹を見つつある間は
豊麗炎𤍠の夢に我の浸れば。
佳きかな、美くしきかな、
矢を番へて、臂張り、
引き絞りたる弓の形。
射よ、射よ、子等よ、
鳥ならずして、射よ、
唯だ彼の空を。
的を思ふことなかれ、
子等と弓との共に作る
その形こそいみじけれ、
唯だ射よ、彼の空を。
わが思ひ、この朝ぞ
秋に澄み、一つに集まる。
愛と、死と、芸術と、
玲瓏として涼し。
目を上げて見れば
かの青空も我れなり、
その木立も我れなり、
前なる狗子草も
涙しとどに溜めて
やがて泣ける我れなり。
蓼枯れて茎猶紅し、
竹さへも秋に黄ばみぬ。
園の路草に隠れて、
草の露昼も乾かず。
咲き残るダリアの花の
泣く如く花粉をこぼす。
童部よ、追ふことなかれ、
向日葵の実を食む小鳥。
翅無き身の悲しきかな、
常にありぬ、猶ありぬ、
大空高く飛ぶ心。
我れは痩馬、黙黙と
重き荷を負ふ。人知らず、
人知らず、人知らず。
外の国より胆太に
そつと降りたる飛行船、
夜の間に去れば跡も無し。
我はおろかな飛行船、
君が心を覗くとて、
見あらはされた飛行船。
六もと七もと立つ柳、
冬は見えしか、一列の
廃墟に遺る柱廊と。
春の光に立つ柳、
今日こそ見ゆれ、美くしく、
これは翡翠の殿づくり。
ものを知らざる易者かな、
我手を見んと求むるは。
そなたに告げん、我がために
占ふことは遅れたり。
かの世のことは知らねども、
わがこの諸手、この世にて、
上なき幸も、わざはひも、
取るべき限り満たされぬ。
甥なる者の歎くやう、
「二十越ゆれど、詩を書かず、
踊を知らず、琴弾かず、
これ若き日と云ふべきや、
富む家の子と云ふべきや。」
これを聞きたる若き叔母、
目の盲ひたれば、手探りに、
甥の手を執り云ひにけり、
「いと好し、今は家を出よ、
寂しき我に似るなかれ。」
花を見上げて「悲し」とは
君なにごとを云ひたまふ。
嬉しき問ひよ、さればなり、
春の盛りの短くて、
早たそがれの青病が、
敏き感じにわななける
女の白き身の上に
毒の沁むごと近づけば。
おもちやの熊を抱く時は
熊の兄とも思ふらし、
母に先だち行く時は
母より路を知りげなり。
五歳に満たぬアウギユスト、
みづから恃むその性を
母はよしやと笑みながら、
はた涙ぐむ、人知れず。
紅梅と菜の花を生けた壺。
正月の卓に
格別かはつた飾りも無い。
せめて、こんな暇にと、
絵具箱を開けて、
わたしは下手な写生をする。
紅梅と菜の花を生けた壺。
唯だ一つ、あなたに
お尋ねします。
あなたは、今、
民衆の中に在るのか、
民衆の外に在るのか、
そのお答次第で、
あなたと私とは
永劫、天と地とに
別れてしまひます。
白きレエスを透す秋の光
木立と芝生との反射、
外も内も
浅葱の色に明るし。
立ちて窓を開けば
木犀の香冷やかに流れ入る。
椅子の上に少しさし俯向き、
己が手の静脈の
ほのかに青きを見詰めながら、
静かなり、今朝の心。
歌はんとして躊躇へり、
かかる事、昨日無かりき。
善し悪しを云ふも慵し、
これもまた此日の心。
我れは今ひともとの草、
つつましく濡れて項垂る。
悲しみを喜びにして
爽かに大いなる秋。
何として青く、
青く沈み入る今宵の心ぞ。
指に挟む筆は鉄の重味、
書きさして見詰むる紙に
水の光流る。
求めたまふや、わが歌を。
かかる寂しきわが歌を。
それは昨日の一しづく、
底に残りし薔薇の水。
それは千とせの一かけら、
砂に埋れし青き玉。
憎む、
どの玉葱も冷かに
我を見詰めて緑なり。
憎む、
その皿の余りに白し、
寒し、痛し。
憎む、
如何なれば二方の壁よ、
云ひ合せて耳を立つるぞ。
堪へ難く悲しければ
我は云ひぬ「船に乗らん。」
乗りつれど猶さびしさに
また云ひぬ「月の出を待たん。」
海は閉ぢたる書物の如く
呼び掛くること無く、
しばらくして、円き月
波に跳りつれば云ひぬ、
「長き竿の欲し、
かの珊瑚の魚を釣る。」
鉢のなかの
活溌な緋目高よ、
赤く焼けた釘で
なぜ、そんなに無駄に
水に孔を開けるのか。
気の毒な先覚者よ、
革命は水の上に無い。
星が四方の桟敷に
きらきらする。
今夜の月は支那の役者、
やさしい西施に扮して、
白い絹団扇で顔を隠し、
ほがらかに秋を歌ふ。
その路をずつと行くと
死の海に落ち込むと教へられ、
中途で引返した私、
卑怯な利口者であつた私、
それ以来、私の前には
岐路と
迂路とばかりが続いてゐる。
空には七月の太陽、
白い壁と白い河岸通りには
海から上る帆柱の影。
どこかで鋼鉄の板を叩く
船大工の槌がひびく。
私の肘をつく窓には
快い南風。
窓の直ぐ下の潮は
ペパミントの酒になる。
我を値踏す、かの人ら。
げに買はるべき我ならめ、
かの太陽に値のあらば。
先づ天つ日を、次に薔薇、
それに見とれて時経しが、
疲れたる目を移さんと、
して漸くに君を見き。
そこの椿に木隠れて
何を覗くや、春の風。
忍ぶとすれど、身じろぎに
赤い椿の花が散る。
君の心を究めんと、
じつと黙してある身にも
似るか、素直な春の風、
赤い笑まひが先に立つ。
扇を取れば舞をこそ、
筆をにぎれば歌をこそ、
胸ときめきて思ふなれ。
若き心はとこしへに
春を留むるすべを知る。
花屋の温室に、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
覗くことをば怠るな、
人の心も温室なれば。
なみなみ注げる杯を
眺めて眸の湿むとは、
如何に嬉しき心ぞや。
いざ干したまへ、猶注がん、
後なる酒は淡くとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注ぐ酒なれば。
鳥羽の山より海見れば、
清き涙が頬を伝ふ。
人この故を問はであれ、
口に云ふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
臥せる美神の肌のごと
すべて微笑む入江をば。
志摩の国こそ希臘なれ。
弥生はじめの糸雨に
岡の草こそ青むなれ。
雪に跳りし若駒の
ひづめのあとの窪みをも
円く埋めて青むなれ。
あれ、琵琶のおと、俄かにも
初心な涙の琵琶のおと。
高い軒から、明方の
夢に流れる琵琶のおと。
二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキの樋に身を隠し、
それと云はずに琵琶を弾く。
夜更けた辻の薄墨の
痩せた柳よ、糸やなぎ。
七日の月が細細と
高い屋根から覗けども、
なんぼ柳は寂しかろ。
物思ふ身も独りぼち。
落葉した木はYの字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる明星は
黄金の句点を一つ打つ。
薄く削つた白金の
神経質の粉雪よ、
瘧を慄ふ電線に
ちくちく触る粉雪よ。
我もやうやく街に立ち、
物乞ふために歌ふなり。
ああ、我歌を誰れ知らん、
惜しき頸輪の緒を解きて
日毎に散らす珠ぞとは。
思は長し、尽き難し、
歌は何れも断章。
たとひ万年生きばとて
飽くこと知らぬ我なれば、
恋の初めのここちせん。
羽の斑は刺青か、
短気なやうな蝶が来る。
今日の入日の悲しさよ。
思ひなしかは知らねども、
短気なやうな蝶が来る。
彼れも取りたし、其れも欲し、
飽かぬ心の止み難し。
時は短し、身は一つ、
多く取らんは難からめ、
中に極めて優れしを
今は得んとぞ願ふなる。
されば近きをさし措きて、
及ばぬ方へ手を伸ぶる。
小鳥の巣
(押韻小曲五十九章)
小序。詩を作り終りて常に感ずることは、我国の詩に押韻の体なきために、句の独立性の確実に対する不安なり。散文の横書にあらずやと云ふ非難は、放縦なる自由詩の何れにも伴ふが如し。この欠点を救ひて押韻の新体を試みる風の起らんこと、我が年久しき願ひなり。みづから興に触れて折折に試みたる拙きものより、次に其一部を抄せんとす。押韻の法は唐以前の古詩、または欧洲の詩を参照し、主として内心の自律的発展に本づきながら、多少の推敲を加へたり。コンソナンツを避けざるは仏蘭西近代の詩に同じ。毎句に同韻を押し、または隔句に同語を繰返して韻に押すは漢土の古詩に例多し。(一九二八年春)
×
砂を掘つたら血が噴いて、
入れた泥鰌が竜になる。
ここで暫く絶句して、
序文に凝つて夜が明けて、
覚めた夢から針が降る。
×
時に先だち歌ふ人、
しひたげられて光る人、
豚に黄金をくれる人、
にがい笑を隠す人、
いつも一人で帰る人。
×
赤い桜をそそのかし、
風の癖なるしのび足、
ひとりで聞けば恋慕らし。
雨はもとより春の糸、
窓の柳も春の糸。
×
見る夢ならば大きかれ、
美くしけれど遠き夢、
険しけれども近き夢。
われは前をば選びつれ、
わかき仲間は後の夢。
×
すべてが消える、武蔵野の
砂を吹きまく風の中、
人も荷馬車も風の中。
すべてが消える、金の輪の
太陽までが風の中。
×
花を抱きつつをののきぬ、
花はこころに被さりぬ。
論じたまふな、善き、悪しき、
何か此世に分つべき。
花と我とはかがやきぬ。
×
凡骨さんの大事がる
薄い細身の鉄の鑿。
髪に触れても刄の欠ける
もろい鑿ゆゑ大事がる。
わたしも同じもろい鑿。
×
林檎が腐る、香を放つ、
冷たい香ゆゑ堪へられぬ。
林檎が腐る、人は死ぬ、
最後の文が人を打つ、
わたしは君を悲まぬ。
×
いつもわたしのむらごころ、
真紅の薔薇を摘むこころ、
雪を素足で踏むこころ、
青い沖をば行くこころ、
切れた絃をばつぐこころ。
×
韻がひびかぬ、死んでゐる、
それで頻りに書いてみる。
皆さんの愚痴、おのが無智、
誰れが覗いた垣の中、
戸は立てられぬ人の口。
×
泥の郊外、雨が降る、
濡れた竈に木がいぶる、
踏切番が旗を振る、
ぼうぼうとした草の中
屑屋も買はぬ人の故。
×
指のさはりのやはらかな
青い煙の匂やかな、
好きな細巻、名はDIANA。
命の闇に火をつけて、
光る刹那の夢の華。
×
青い空から鳥がくる、
野辺のけしきは既に春、
細い枝にも花がある。
遠い高嶺と我がこころ
すこしの雪がまだ残る。
×
槌を上げる手、鍬打つ手、
扇を持つ手、筆とる手、
炭をつかむ手、児を抱く手、
かげに隠れて唯だひとつ
見えぬは天をゆびさす手。
×
高い木末に葉が落ちて
あらはに見える、小鳥の巣。
鳥は飛び去り、冬が来て、
風が吹きまく砂つぶて。
ひろい野中の小鳥の巣。
×
人は黒黒ぬり消せど
すかして見える底の金。
時の言葉は隔つれど
冴ゆるは歌の金の韻。
ままよ、暫く隅に居ん。
×
いつか大きくなるままに
子らは寝に来ず、母の側。
母はまだまだ云ひたきに、
金のお日様、唖の驢馬、
おとぎ噺が云ひたきに。
×
ふくろふがなく、宵になく、
山の法師がつれてなく。
わたしは泣かない気でゐれど、
からりと晴れた今朝の窓
あまりに青い空に泣く。
×
おち葉した木が空を打ち、
枝も小枝も腕を張る。
ほんにどの木も冬に勝ち、
しかと大地に立つてゐる。
女ごころはいぢけがち。
×
玉葱の香を嗅がせても
青い蛙はむかんかく。
裂けた心を目にしても
廿世紀は横を向く、
太陽までがすまし行く。
×
話は春の雪の沙汰、
しろい孔雀のそだてかた、
巴里の夢をもたらした
荻野綾子の宵の唄、
我子がつくる薔薇の畑。
×
誰れも彼方へ行きたがる、
明るい道へ目を見張る、
おそらく其処に春がある。
なぜか行くほどその道が
今日のわたしに遠ざかる。
×
青い小鳥のひかる羽、
わかい小鳥の躍る胸、
遠い海をば渡りかね、
泣いてゐるとは誰れが知ろ、
まだ薄雪の消えぬ峰。
×
つうちで象をつうくつた、
大きな象が目に立つた、
象の祭がさあかえた、
象が俄かに吼えだした、
吼えたら象がこおわれた。
×
まぜ合はすのは目ぶんりやう、
その振るときのたのしさう。
かつくてえるのことでない、
わたしの知つたことでない、
若い手で振る無産党。
×
鳥を追ふとて安壽姫、
母に逢ひたや、ほおやらほ。
わたしも逢ひたや、猶ひと目、
載せて帰らぬ遠い夢、
どこにゐるやら、真赤な帆。
×
鳥屋が百舌を飼はぬこと、
そのひと声に百鳥が
おそれて唖に変ること、
それに加へて、あの人が
なぜか折折だまること。
×
逆しに植ゑた戯れに
あかい芽をふく杖がある。
指を触れたか触れぬ間に
石から虹が舞ひあがる。
寝てゐた豹の目が光る。
×
われにつれなき今日の時、
花を摘み摘み行き去りぬ。
唯だやさしきは明日の時、
われに著せんと、光る衣
千とせをかけて手に編みぬ。
×
がらすを通し雪が積む、
こころの桟に雪が積む、
透いて見えるは枯れすすき、
うすい紅梅、やぶつばき、
青いかなしい雪が積む。
×
はやりを追へば切りがない、
合言葉をばけいべつせい。
よくも揃うた赤インキ、
ろしあまがひの左書き、
先づは二三日あたらしい。
×
うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しいか。
春の寒さに音が細る、
こころ余れど身が凍る。
うぐひす、そなたも雪の中。
×
あまりに明るい、奥までも
開けはなちたるがらんだう、
つばめの出入によけれども
ないしよに逢ふになんとせう、
闇夜も風が身に沁まう。
×
摘め、摘め、誰れも春の薔薇、
今日の盛りの紅い薔薇、
今日に倦いたら明日の薔薇、
とがるつぼみの青い薔薇、
摘め、摘め、誰れも春の薔薇。
×
己が痛さを知らぬ虫、
折れた脚をも食むであろ。
人の言葉を持たぬ牛、
云はずに死ぬることであろ。
ああ虫で無し、牛でなし。
×
夢にをりをり蛇を斬る、
蛇に巻かれて我が力
為ようこと無しに蛇を斬る。
それも苦しい夢か知ら、
人が心で人を斬る。
×
身を云ふに過ぐ、外を見よ、
黙黙として我等あり、
我が痛さより痛きなり。
他を見るに過ぐ、目を閉ぢよ、
乏しきものは己れなり。
×
論ずるをんな糸採らず、
みちびく男たがやさず、
大学を出ていと賢し、
言葉は多し、手は白し、
之れを耻ぢずば何を耻づ。
×
人に哀れを乞ひて後、
涙を流す我が命。
うら耻かしと知りながら、
すべて貧しい身すぎから。
ああ我れとても人の中。
×
浪のひかりか、月の出か、
寝覚を照す、窓の中。
遠いところで鴨が啼き、
心に透る、海の秋。
宿は岬の松の岡。
×
十国峠、名を聞いて
高い所に来たと知る。
世離れたれば、人を見て
路を譲らぬ牛もある。
海に真赤な日が落ちる。
×
すべての人を思ふより、
唯だ一人には背くなり。
いと寂しきも我が心、
いと楽しきも我が心。
すべての人を思ふより。
×
雲雀は揚がる、麦生から。
わたしの歌は涙から。
空の雲雀もさびしかろ、
はてなく青いあの虚ろ、
ともに已まれぬ歌ながら。
×
鏡の間より出づるとき、
今朝の心ぞやはらかき。
鏡の間には塵も無し、
あとに静かに映れかし、
鸚哥の色の紅つばき。
×
そこにありしは唯だ二日、
十和田の水が其の秋の
呼吸を猶する、夢の中。
痩せて此頃おもざしの
青ざめゆくも水ゆゑか。
×
つと休らへば素直なり、
藤のもとなる低き椅子。
花を透して日のひかり
うす紫の陰影を着す。
物みな今日は身に与す。
×
海の颶風は遠慮無し、
船を吹くこと矢の如し。
わたしの船の上がるとき、
かなたの船は横を向き、
つひに別れて西ひがし。
×
笛にして吹く麦の茎、
よくなる時は裂ける時。
恋の脆さも麦の笛、
思ひつめたる心ゆゑ
よく鳴る時は裂ける時。
×
地獄の底の火に触れた、
薔薇に埋まる床に寝た、
金の獅子にも乗り馴れた、
天に中する日も飽いた、
己が歌にも聞き恍れた。
×
春風の把る彩の筆
すべての物の上を撫で、
光と色に尽す派手。
ことに優れてめでたきは
牡丹の花と人の袖。
×
涙に濡れて火が燃えぬ。
今日の言葉に気息がせぬ、
絵筆を把れど色が出ぬ、
わたしの窓に鳥が来ぬ、
空には白い月が死ぬ。
×
あの白鳥も近く来る、
すべての花も目を見はる、
青い柳も手を伸べる。
君を迎へて春の園
路の砂にも歌がある。
×
大空ならば指ささん、
立つ波ならば濡れてみん、
咲く花ならば手に摘まん。
心ばかりは形無し、
偽りとても如何にせん。
×
人わが門を乗りて行く、
やがて消え去る、森の奥。
今日も南の風が吹く。
馬に乗る身は厭はぬか、
野を白くする砂の中。
×
鳥の心を君知るや、
巣は雨ふりて冷ゆるとも
雛を素直に育てばや、
育てし雛を吹く風も
塵も無き日に放たばや。
×
牡丹のうへに牡丹ちり、
真赤に燃えて重なれば、
いよいよ青し、庭の芝。
ああ散ることも光なり、
かくの如くに派手なれば。
×
閨にて聞けば朝の雨
半は現実、なかば夢。
やはらかに降る、花に降る、
わが髪に降る、草に降る、
うす桃色の糸の雨。
×
赤い椿の散る軒に
埃のつもる臼と杵、
莚に干すは何の種。
少し離れて垣越しに
帆柱ばかり見える船。
×
三たび曲つて上る路、
曲り目ごとに木立より
青い入江の見える路、
椿に歌ふ山の鳥
花踏みちらす苔の路。
夢と現実
(雑詩四十章)
明日よ、明日よ、
そなたはわたしの前にあつて
まだ踏まぬ未来の
不可思議の路である。
どんなに苦しい日にも、わたしは
そなたに憬れて励み、
どんなに楽い日にも、わたしは
そなたを望んで踊りあがる。
明日よ、明日よ、
死と飢とに追はれて歩くわたしは
たびたびそなたに失望する。
そなたがやがて平凡な今日に変り、
灰色をした昨日になつてゆくのを
いつも、いつもわたしは恨んで居る。
そなたこそ人を釣る好い香の餌だ、
光に似た煙だと咀ふことさへある。
けれど、わたしはそなたを頼んで、
祭の前夜の子供のやうに
「明日よ、明日よ」と歌ふ。
わたしの前には
まだまだ新しい無限の明日がある。
よしや、そなたが涙を、悔を、愛を、
名を、歓楽を、何を持つて来ようとも、
そなたこそ今日のわたしを引く力である。
わが敬する画家よ、
願くは、我がために、
一枚の像を描きたまへ。
バツクには唯だ深夜の空、
無智と死と疑惑との色なる黒に、
深き悲痛の脂色を交ぜたまへ。
髪みだせる裸の女、
そは青ざめし肉塊とのみや見えん。
じつと身ゆるぎもせず坐りて、
尽きぬ涙を手に受けつつ傾く。
前なる目に見えぬ無底の淵を覗く姿勢。
目は疲れてあり、
泣く前に、余りに現実を見たるため。
口は堅く緊りぬ、
未だ一たびも言はず歌はざる其れの如く。
わが敬する画家よ、
若し此像の女に、
明日と云ふ日のありと知らば、
トワルの何れかに黄金の目の光る一羽の梟を添へ給へ。
されど、そは君が意に任せん、わが知らぬことなり。
さて画家よ、彩料には
わが好むパステルを用ひたまへ、
剥落と褪色とは
恐らく此像の女の運命なるべければ。
晶子、ヅアラツストラを一日一夜に読み終り、
その暁、ほつれし髪を掻上げて呟きぬ、
「辞の過ぎたるかな」と。
しかも、晶子の動悸は羅を透して慄へ、
その全身の汗は産の夜の如くなりき。
さて十日経たり。
晶子は青ざめて胃弱の人の如く、
この十日、良人と多く語らず、我子等を抱かず。
晶子の幻に見るは、ヅアラツストラの
黒き巨像の上げたる右の手なり。
茜と云ふ草の葉を搾れば
臙脂はいつでも採れるとばかり
わたしは今日まで思つてゐた。
鉱物からも、虫からも
立派な臙脂は採れるのに。
そんな事はどうでもよい、
わたしは大事の大事を忘れてた、
夢からも、
わたしのよく見る夢からも、
こんなに真赤な臙脂の採れるのを。
アウギユスト、アウギユスト、
わたしの五歳になるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは唯だ
ほれぼれと其れを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、何にならう。
私はおまへに由つて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変不思議を示し、
玲瓏円転として踊り廻る。
硝子の外のあけぼのは
青白き繭のここち……
今一すぢ仄かに
音せぬ枝珊瑚の光を引きて、
わが産室の壁を匍ふものあり。
と見れば、嬉し、
初冬のかよわなる
日の蝶の出づるなり。
ここに在るは、
八たび死より逃れて還れる女──
青ざめし女われと、
生れて五日目なる
我が藪椿の堅き蕾なす娘エレンヌと
一瓶の薔薇と、
さて初恋の如く含羞める
うす桃色の日の蝶と……
静かに清清しき曙かな。
尊くなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者の如く
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝日教徒の信の如し、
わがさしのぶる諸手を受けよ、
日よ、曙の女王よ。
日よ、君にも夜と冬の悩みあり、
千万年の昔より幾億たび、
死の苦に堪へて若返る
天つ焔の力の雄雄しきかな。
われは猶君に従はん、
わが生きて返れるは纔に八たびのみ
纔に八たび絶叫と、血と、
死の闇とを超えしのみ。
ああ颱風、
初秋の野を越えて
都を襲ふ颱風、
汝こそ逞しき大馬の群なれ。
黄銅の背、
鉄の脚、黄金の蹄、
眼に遠き太陽を掛け、
鬣に銀を散らしぬ。
火の鼻息に
水晶の雨を吹き、
暴く斜めに、
駆歩す、駆歩す。
ああ抑へがたき
天の大馬の群よ、
怒れるや、
戯れて遊ぶや。
大樹は逃れんとして、
地中の足を挙げ、
骨を挫き、手を折る。
空には飛ぶ鳥も無し。
人は怖れて戸を鎖せど、
世を裂く蹄の音に
屋根は崩れ、
家は船よりも揺れぬ。
ああ颱風、
人は汝によりて、
今こそ覚むれ、
気不精と沮喪とより。
こころよきかな、全身は
巨大なる象牙の
喇叭のここちして、
颱風と共に嘶く。
おお十一月、
冬が始まる。
冬よ、冬よ、
わたしはそなたを讃へる。
弱い者と
怠け者とには
もとより辛い季節。
しかし、四季の中に、
どうしてそなたを欠くことが出来よう。
健かな者と
勇敢な者とが
試めされる季節、
否、みづから試めす季節。
おお冬よ、
そなたの灰色の空は
人を圧しる。
けれども、常に心の曇らぬ人は
その空の陰鬱に克つて、
そなたの贈る
沍寒と、霜と、
雪と、北風とのなかに、
常に晴やかな太陽を望み、
春の香を嗅ぎ、
夏の光を感じることが出来る。
青春を引立てる季節、
ほんたうに血を流す
活動の季節、
意力を鞭打つ季節、
幻想を醗酵する季節、
冬よ、そなたの前に、
一人の厭人主義者も無ければ、
一人の卑怯者も無い、
人は皆、十二の偉勲を建てた
ヘルクレスの子孫のやうに見える。
わたしは更に冬を讃へる。
まあ何と云ふ
優しい、なつかしい他の一面を
冬よ、そなたの持つてゐることぞ。
その永い、しめやかな夜。……
榾を焚く田舎の囲炉裏……
都会のサロンの煖炉……
おお家庭の季節、夜会の季節
会話の、読書の、
音楽の、劇の、踊の、
愛の、鑑賞の、哲学の季節、
乳呑児のために
罎の牛乳の腐らぬ季節、
小さいセエヴルの杯で
夜会服の
貴女も飲むリキユルの季節。
とり分き日本では
寒念仏の、
臘八坐禅の、
夜業の、寒稽古の、
砧の、香の、
茶の湯の季節、
紫の二枚襲に
唐織の帯の落着く季節、
梅もどきの、
寒菊の、
茶の花の、
寒牡丹の季節、
寺寺の鐘の冴える季節、
おお厳粛な一面の裏面に、
心憎きまで、
物の哀れさを知りぬいた冬よ、
楽んで溺れぬ季節、
感性と理性との調和した季節。
そなたは万物の無尽蔵、
ああ、わたしは冬の不思議を直視した。
嬉しや、今、
その冬が始まる、始まる。
収穫の後の田に
落穂を拾ふ女、
日の出前に霜を踏んで
工場に急ぐ男、
兄弟よ、とにかく私達は働かう、
一層働かう、
冬の日の汗する快さは
わたし達無産者の景福である。
おお十一月、
冬が始まる。
友の額のうへに
刷毛の硬さもて逆立つ黒髪、
その先すこしく渦巻き、
中に人差指ほど
過ちて絵具の──
ブラン・ダルジヤンの附きしかと……
また見直せば
遠山の襞に
雪一筋降れるかと。
然れども
友は童顔、
いつまでも若き日の如く
物言へば頬の染み、
目は微笑みて、
いつまでも童顔、
年四十となり給へども。
年四十となり給へども、
若き人、
みづみづしき人、
初秋の陽光を全身に受けて、
人生の真紅の木の実
そのものと見ゆる人。
友は何処に行く、
猶も猶も高きへ、広きへ、
胸張りて、踏みしめて行く。
われはその足音に聞き入り、
その行方を見守る。
科学者にして詩人、
他に幾倍する友の欲の
重りかに華やげるかな。
同じ世に生れて
相知れること二十年、
友の見る世界の片端に
我も曾て触れにき。
さは云へど、今はわれ
今はわれ漸くに寂し。
譬ふれば我心は
薄墨いろの桜、
唯だ時として
雛罌粟の夢を見るのみ。
羨まし、
友は童顔、
いつまでも童顔、
今日逢へば、いみじき
気高ささへも添ひ給へる。
金糸雀の雛を飼ふよりは
我子を飼ふぞおもしろき。
雛の初毛はみすぼらし、
おぼつかなしや、足取も。
盥のなかに湯浴みする
よき肉づきの生みの児の
白き裸を見るときは、
母の心を引立たす。
手足も、胴も、面ざしも
汝を飼ふ親に似たるこそ、
かの異類なる金糸雀の
雛にまさりて親しけれ。
かくて、いつしか親の如、
物を思はれ、物云はん。
詩人、琴弾、医師、学者、
王、将軍にならずとも、
大船の火夫、いさなとり、
乃至活字を拾ふとも、
我は我子をはぐくまん、
金糸雀の雛を飼ふよりは。
いとしき、いとしき我子等よ、
世に生れしは禍か、
誰か之を「否」と云はん。
されど、また君達は知れかし、
之がために、我等──親も、子も──
一切の因襲を超えて、
自由と愛に生き得ることを、
みづからの力に由りて、
新らしき世界を始め得ることを。
いとしき、いとしき我子等よ、
世に生れしは幸ひか、
誰か之を「否」と云はん。
いとしき、いとしき我子等よ、
今、君達のために、
この母は告げん。
君達は知れかし、
我等の家に誇るべき祖先なきを、
私有する一尺の土地も無きを、
遊惰の日を送る財も無きを。
君達はまた知れかし、
我等──親も子も──
行手には悲痛の森、
寂寞の路、
その避けがたきことを。
人の身にして己が児を
愛することは天地の
成しのままなる心なり。
けものも、鳥も、物云はぬ
木さへ、草さへ、おのづから
雛と種とをはぐくみぬ。
児等に食ません欲なくば
人はおほかた怠らん。
児等の栄えを思はずば
人は其身を慎まじ。
児の美くしさ素直さに
すべての親は浄まりぬ。
さても悲しや、今の世は
働く能を持ちながら、
職に離るる親多し。
いとしき心余れども
児を養はんこと難し。
如何にすべきぞ、人に問ふ。
正月を、わたしは
元日から月末まで
大なまけになまけてゐる。
勿論遊ぶことは骨が折れぬ、
けれど、外から思ふほど
決して、決して、おもしろくはない。
わたしはあの鼠色の雲だ、
晴れた空に
重苦しく停つて、
陰鬱な心を見せて居る雲だ。
わたしは断えず動きたい、
何かをしたい、
さうでなければ、この家の
大勢が皆飢ゑねばならぬ。
わたしはいらいらする。
それでゐて何も手に附かない、
人知れず廻る
なまけぐせの毒酒に
ああ、わたしは中てられた。
今日こそは何かしようと思ふばかりで、
わたしは毎日
つくねんと原稿紙を見詰めてゐる。
もう、わたしの上に
春の日は射さないのか、
春の鳥は啼かないのか。
わたしの内の火は消えたか。
あのじつと涙を呑むやうな
鼠色の雲よ、
そなたも泣きたかろ、泣きたかろ。
正月は唯だ徒らに経つて行く。
おお、寒い風が吹く。
皆さん、
もう夜明前ですよ。
お互に大切なことは
「気を附け」の一語。
まだ見えて居ます、
われわれの上に
大きな黒い手。
唯だ片手ながら、
空に聳えて動かず、
その指は
じつと「死」を指してゐます。
石で圧されたやうに
我我の呼吸は苦しい。
けれど、皆さん、
我我は目が覚めてゐます。
今こそはつきりとした心で
見ることが出来ます、
太陽の在所を。
また知ることが出来ます、
華やかな朝の近づくことを。
大きな黒い手、
それは弥が上に黒い。
その指は猶
じつと「死」を指して居ます。
われわれの上に。
わが絵師よ、
わが像を描き給はんとならば、
願くば、ただ写したまへ、
わが瞳のみを、ただ一つ。
宇宙の中心が
太陽の火にある如く、
われを端的に語る星は、
瞳にこそあれ。
おお、愛欲の焔、
陶酔の虹、
直観の電光、
芸術本能の噴水。
わが絵師よ、
紺青をもて塗り潰ぶしたる布に、
ただ一つ、写したまへ、
わが金色の瞳を。
大錯誤の時が来た、
赤い恐怖の時が来た、
野蛮が濶い羽を伸し、
文明人が一斉に
食人族の仮面を被る。
ひとり世界を敵とする、
日耳曼人の大胆さ、
健気さ、しかし此様な
悪の力の偏重が
調節されずに已まれよか。
いまは戦ふ時である、
戦嫌ひのわたしさへ
今日此頃は気が昂る。
世界の霊と身と骨が
一度に呻く時が来た。
大陣痛の時が来た、
生みの悩みの時が来た。
荒い血汐の洗礼で、
世界は更に新しい
知らぬ命を生むであろ。
其れがすべての人類に
真の平和を持ち来す
精神でなくて何んであろ。
どんな犠牲を払うても
いまは戦ふ時である。
歌はどうして作る。
じつと観、
じつと愛し、
じつと抱きしめて作る。
何を。
「真実」を。
「真実」は何処に在る。
最も近くに在る。
いつも自分と一所に、
この目の観る下、
この心の愛する前、
わが両手の中に。
「真実」は
美くしい人魚、
跳ね且つ踊る、
ぴちぴちと踊る。
わが両手の中で、
わが感激の涙に濡れながら。
疑ふ人は来て見よ、
わが両手の中の人魚は
自然の海を出たまま、
一つ一つの鱗が
大理石の純白のうへに
薔薇の花の反射を持つてゐる。
みんな何かを持つてゐる、
みんな何かを持つてゐる。
後ろから来る女の一列、
みんな何かを持つてゐる。
一人は右の手の上に
小さな青玉の宝塔。
一人は薔薇と睡蓮の
ふくいくと香る花束。
一人は左の腋に
革表紙の金字の書物。
一人は肩の上に地球儀。
一人は両手に大きな竪琴。
わたしには何んにも無い
わたしには何んにも無い。
身一つで踊るより外に
わたしには何んにも無い。
押しやれども、
またしても膝に上る黒猫。
生きた天鵝絨よ、
憎からぬ黒猫の手ざはり。
ねむたげな黒猫の目、
その奥から射る野性の力。
どうした機会やら、をりをり、
緑金に光るわが膝の黒猫。
競馬の馬の打勝たんとする鋭さならで
曲馬の馬は我を棄てし
服従の素速き気転なり。
曲馬の馬の痩せたるは、
競馬の馬の逞しく美くしき優形と異なりぬ。
常に飢じきが為め。
競馬の馬もいと稀に鞭を受く。
されど寧ろ求めて鞭打たれ、その刺戟に跳る。
曲馬の馬の爛れて癒ゆる間なき打傷と何れぞ。
競馬の馬と、曲馬の馬と、
偶ま市の大通に行き会ひし時、
競馬の馬はその同族の堕落を見て涙ぐみぬ。
曲馬の馬は泣くべき暇も無し、
慳貪なる黒奴の曲馬師は
広告のため、楽隊の囃しに伴れて彼を歩ませぬ……
手風琴が鳴る……
そんなに、そんなに、
驢馬が啼くやうな、
鉄葉が慄へるやうな、
歯が浮くやうな、
厭な手風琴を鳴らさないで下さい。
鳴らさないで下さい、
そんなに仰山な手風琴を、
近所合壁から邪慳に。
あれ、柱の割目にも、
電灯の球の中にも、
天井にも、卓の抽出にも、
手風琴の波が流れ込む。
だれた手風琴、
しよざいなさの手風琴、
しみつたれた手風琴、
からさわぎの手風琴、
鼻風邪を引いた手風琴、
中風症の手風琴……
いろんな手風琴を鳴らさないで下さい、
わたしには此夜中に、
じつと耳を澄まして
聞かねばならぬ声がある……
聞きたい聞きたい声がある……
遠い星あかりのやうな声、
金髪の一筋のやうな声、
水晶質の細い声……
手風琴を鳴らさないで下さい。
わたしに還らうとするあの幽かな声が
乱される……紛れる……
途切れる……掻き消される……
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた……
「手風琴を鳴らすな」と
思ひ切つて怒鳴つて見たが、
わたしにはもう声が無い、
有るのは真剣な態度ばかり……
手風琴が鳴る……煩さく鳴る……
柱も、電灯も、
天井も、卓も、瓶の花も、
手風琴に合せて踊つてゐる……
さうだ、こんな処に待つて居ず
駆け出さう、あの闇の方へ。
……さて、わたしの声が彷徨つてゐるのは
森か、荒野か、海のはてか……
ああ、どなたでも教へて下さい、
わたしの大事な貴い声の在処を。
「我」とは何か、斯く問へば
物みな急に後込し、
あたりは白く静まりぬ。
いとよし、答ふる声なくば
みづから内に事問はん。
「我」とは何か、斯く問へば
愛、憎、喜、怒と名のりつつ
四人の女あらはれぬ。
また智と信と名のりつつ
二人の男あらはれぬ。
われは其等をうち眺め、
しばらくありてつぶやきぬ。
「心の中のもののけよ、
そは皆われに映りたる
世と他人との姿なり。
知らんとするは、ほだされず
模ねず、雑らず、従はぬ、
初生本来の我なるを、
消えよ」と云へば、諸声に
泣き、憤り、罵りぬ。
今こそわれは冷かに
いとよく我を見得るなれ。
「我」とは何か、答へぬも
まことあはれや、唖にして、
踊を知れる肉なれば。
たそがれどきか、明方か、
わたしの泣くは決まり無し。
蛋白石色のあの空が
ふつと渦巻く海に見え、
波間にもがく白い手の
老けたサツフオオ、死にきれぬ
若い心のサツフオオを
ありあり眺めて共に泣く。
また虻が啼く昼さがり、
金の箔おく連翹と、
銀と翡翠の象篏の
丁子の花の香のなかで、
𤍠い吐息をほつと吐く
若い吉三の前髪を
わたしの指は撫でながら、
そよ風のやうに泣いてゐる。
榛名山の一角に、
段また段を成して、
羅馬時代の
野外劇場の如く、
斜めに刻み附けられた
桟敷形の伊香保の街。
屋根の上に屋根、
部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿である。
そして、榛の若葉の光が
柔かい緑で
街全体を濡してゐる。
街を縦に貫く本道は
雑多の店に縁どられて、
長い長い石の階段を作り、
伊香保神社の前にまで、
Hの字を無数に積み上げて、
殊更に建築家と絵師とを喜ばせる。
木魂は声の霊、
如何に微かなる声をも
早く感じ、早く知る。
常に時に先だつ彼女は
また常に若し。
近き世の木魂は
市の中、大路の
並木の蔭に佇み、
常に耳を澄まして聞く。
新しき生活の
諧音の
如何に生じ、
如何に移るべきかを。
木魂は稀にも
肉身を示さず、
人の狎れて
驚かざらんことを怖る。
唯だ折折に
叫び且つ笑ふのみ。
小高い丘の上へ、
何かを叫ぼうとして、
後から、後からと
駆け登つて行く人。
丘の下には
多勢の人間が眠つてゐる。
もう、夜では無い、
太陽は中天に近づいてゐる。
登つて行く人、行く人が
丘の上に顔を出し、
胸を張り、両手を拡げて、
「兄弟よ」と呼ばはる時、
さつと血煙がその胸から立つ、
そして直ぐ其人は後ろに倒れる。
陰険な狙撃の矢に中つたのである。
次の人も、また次の人も、
みんな丘の上で同じ様に倒れる。
丘の下には
眠つてゐる人ばかりで無い、
目を覚した人人の中から
丘に登る予言者と
その予言者を殺す反逆者とが現れる。
多勢の人間は何も知らずにゐる。
もう、夜では無い、
太陽は中天に近づいて光つてゐる。
詩は実感の彫刻、
行と行、
節と節との間に陰影がある。
細部を包む
陰影は奥行、
それの深さに比例して、
自然の肉の片はしが
くつきりと
行の表に浮き上がれ。
わたしの詩は粘土細工、
実感の彫刻は
材料に由りません。
省け、省け、
一線も
余計なものを加へまい。
自然の肉の片はしが
くつきりと
行の表に浮き上がれ。
宇宙から生れて
宇宙のなかにゐる私が、
どうしてか、
その宇宙から離れてゐる。
だから、私は寂しい、
あなたと居ても寂しい。
けれど、また、折折、
私は宇宙に還つて、
私が宇宙か、
宇宙が私か、解らなくなる。
その時、私の心臓が宇宙の心臓、
その時、私の目が宇宙の目、
その時、私が泣くと、
万事を忘れて泣くと、
屹度雨が降る。
でも、今日の私は寂しい、
その宇宙から離れてゐる。
あなたと居ても寂しい。
ひともとの
冬枯の
円葉柳は
野の上に
ゴシツク風の塔を立て、
その下に
野を越えて
白く光るは
遠からぬ
都の街の屋根と壁。
ここまでは
振返り
都ぞ見ゆる。
後ろ髪
引かるる思ひ為ぬは無し。
さて一歩、
つれなくも
円葉柳を
離るれば、
誰も帰らぬ旅の人。
わが髪は
又もほつるる。
朝ゆふに
なほざりならず櫛とれど。
ああ、誰か
髪美くしく
一すぢも
乱さぬことを忘るべき。
ほつるるは
髪の性なり、
やがて又
抑へがたなき思ひなり。
わが知れる一柱の神の御名を讃へまつる。
あはれ欠けざることなき「孤独清貧」の御霊、
ぐれんどうの命よ。
ぐれんどうの命にも著け給ふ衣あり。
よれよれの皺の波、酒染の雲、
煙草の焼痕の霰模様。
もとより痩せに痩せ給へば
衣を透して乾物の如く骨だちぬ。
背丈の高きは冬の老木のむきだしなるが如し。
ぐれんどうの命の顳顬は音楽なり、
断えず不思議なる何事かを弾きぬ。
どす黒く青き筋肉の蛇の節廻し………
わが知れる芸術家の集りて、
女と酒とのある処、
ぐれんどうの命必ず暴風の如く来りて罵り給ふ。
何処より来給ふや、知り難し、
一所不住の神なり、
きちがひ茄子の夢の如く過ぎ給ふ神なり。
ぐれんどうの命の御言葉の荒さよ。
人皆その眷属の如くないがしろに呼ばれながら、
猶この神と笑ひ興ずることを喜びぬ。
あれ、あれ、あれ、
後から後からとのし掛つて、
ぐいぐいと喉元を締める
凡俗の生の圧迫………
心は気息を次ぐ間も無く、
どうすればいいかと
唯だ右へ左へうろうろ………
もう是れが癖になつた心は、
大やうな、初心な、
時には迂濶らしくも見えた
あの好いたらしい様子を丸で失ひ、
氷のやうに冴えた
細身の刄先を苛苛と
ふだんに尖らす冷たさ。
そして心は見て見ぬ振……
凡俗の生の圧迫に
思ひきりぶつ突かつて、
思ひきり撥ねとばされ、
ばつたり圧しへされた
これ、この無残な蛙を──
わたしの青白い肉を。
けれど蛙は死なない、
びくびくと顫ひつづけ、
次の刹那に
もう直ぐ前へ一歩、一歩、
裂けてはみだした膓を
両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。
そして此の人間の蛙からは血が滴れる。
でも猶心は見て見ぬ振……
泣かうにも涙が切れた、
叫ぼうにも声が立たぬ。
乾いた心の唇をじつと噛みしめ、
黙つて唯だうろうろと踠くのは
人形だ、人形だ、
苦痛の弾機の上に乗つた人形だ。
被眼布したる女にて我がありしを、
その被眼布は却りて我れに
奇しき光を導き、
よく物を透して見せつるを、
我が行く方に淡紅き、白き、
とりどりの石の柱ありて倚りしを、
花束と、没薬と、黄金の枝の果物と、
我が水鏡する青玉の泉と、
また我に接吻けて羽羽たく白鳥と、
其等みな我の傍を離れざりしを。
ああ、我が被眼布は落ちぬ。
天地は忽ちに状変り、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日の入りはてしか、
夜のまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
望なく、楽みなく、
唯だ大いなる陰影のたなびく国なるか。
否とよ、思へば、
これや我が目の俄かにも盲ひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は真赤なる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひ交し、
うま酒は盃より滴れど、
われ一人そを見ざるにやあらん。
否とよ、また思へば、幸ひは
かの肉色の被眼布にこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われは戦く身を屈めて
闇の底に冷たき手をさし伸ぶ。
あな、悲し、わが推しあての手探りに、
肉色の被眼布は触るる由も無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる此処は何処ぞ、
かき曇りたる我が目にも其れと知るは、
永き夜の土を一際黒く圧す
静かに寂しき扁柏の森の蔭なるらし。
頼む男のありながら
添はれずと云ふ君を見て、
一所に泣くは易けれど、
泣いて添はれる由も無し。
何なぐさめて云はんにも
甲斐なき明日の見通され、
それと知る身は本意なくも
うち黙すこそ苦しけれ。
片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる宝玉を
君が抱きて悶ゆるも
人の羨む幸ながら、
海をよく知る船長は
早くも暴風を避くと云ひ、
賢き人は涙もて
身を浄むるを知ると云ふ。
君は何れを択ぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うち黙すこそ苦しけれ。
君は何れを択ぶらん。
君死にたまふことなかれ
(旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。
堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
互に人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人の誉れとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何で思されん。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君に
おくれたまへる母君は、
歎きのなかに、いたましく、
我子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母の白髪は増さりゆく。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を
君忘るるや、思へるや。
十月も添はで別れたる
少女ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
うれしや、うれしや、梅蘭芳
今夜、世界は
(ほんに、まあ、華美な唐画の世界、)
真赤な、真赤な
石竹の色をして匂ひます。
おお、あなた故に、梅蘭芳、
あなたの美くしい楊貴妃ゆゑに、梅蘭芳、
愛に焦れた女ごころが
この不思議な芳しい酒となり、
世界を浸して流れます。
梅蘭芳、
あなたも酔つてゐる、
あなたの楊貴妃も酔つてゐる、
世界も酔つてゐる、
わたしも酔つてゐる、
むしやうに高いソプラノの
支那の鼓弓も酔つてゐる。
うれしや、うれしや、梅蘭芳。
京之介の絵
(少年雑誌のために)
これは不思議な家の絵だ、
家では無くて塔の絵だ。
見上げる限り、頑丈に
五階重ねた鉄づくり。
入口からは機関車が
煙を吐いて首を出し、
二階の上の露台には
大起重機が据ゑてある。
また、三階の正面は
大きな窓が向日葵の
花で一ぱい飾られて、
そこに誰やら一人ゐる。
四階の窓の横からは
長い梯子が地に届き、
五階は更に最大の
望遠鏡が天に向く。
塔の尖端には黄金の旗、
「平和」の文字が靡いてる。
そして、此絵を描いたのは
小さい、優しい京之介。
鳩と京之介
(少年雑誌のために)
秋の嵐が荒れだして、
どの街の木も横倒し。
屋根の瓦も、破風板も、
剥がれて紙のやうに飛ぶ。
おお、この荒れに、どの屋根で、
何に打たれて傷したか、
可愛いい一羽のしら鳩が
前の通りへ落ちて来た。
それと見るより八歳になる、
小さい、優しい、京之介、
嵐の中に駆け寄つて、
じつと両手で抱き上げた。
傷した鳩は背が少し
うす桃色に染んでゐる。
それを眺めた京之介、
もう一ぱいに目がうるむ。
鳩を供れよと、口口に
腕白どもが呼ばはれど、
大人のやうに沈著いて、
頭を振つた京之介。
Aの字の歌
(少年雑誌のために)
Ai (愛)の頭字、片仮名と
アルハベツトの書き初め、
わたしの好きなAの字を
いろいろに見て歌ひましよ。
飾り気の無いAの字は
掘立小屋の入り口、
奥に見えるは板敷か、
茣蓙か、囲炉裏か、飯台か。
小さくて繊弱なAの字は
遠い岬に灯台を
ほつそりとして一つ立て、
それを繞るは白い浪。
いつも優しいAの字は
象牙の琴柱、その傍に
目には見えぬが、好い節を
幻の手が弾いてゐる。
いつも明るいAの字は
白水晶の三稜鏡に
七つの羽の美くしい
光の鳥をじつと抱く。
元気に満ちたAの字は
広い沙漠の砂を踏み
さつく、さつくと大足に、
あちらを向いて急ぐ人。
つんとすましたAの字は
オリンプ山の頂に
槍に代へたる銀白の
鵞ペンの尖を立ててゐる。
時にさびしいAの字は
半身だけを窓に出し、
肱をば突いて空を見る
三角頭巾の尼すがた。
しかも威のあるAの字は
埃及の野の朝ゆふに
雲の間の日を浴びて
はるかに光る金字塔。
そして折折Aの字は
道化役者のピエロオの
赤い尖つた帽となり、
わたしの前に踊り出す。
蟻の歌
(少年雑誌のために)
蟻よ、蟻よ、
黒い沢山の蟻よ、
お前さん達の行列を見ると、
8、8、8、8、
8、8、8、8……
幾万と並んだ
8の字の生きた鎖が動く。
蟻よ、蟻よ、
そんなに並んで何処へ行く。
行軍か、
運動会か、
二千メエトル競走か、
それとも遠いブラジルへ
移住して行く一隊か。
蟻よ、蟻よ、
繊弱な体で
なんと云ふ活撥なことだ。
全身を太陽に暴露して、
疲れもせず、
怠けもせず、
さつさ、さつさと進んで行く。
蟻よ、蟻よ、
お前さん達はみんな
可愛いい、元気な8の字少年隊。
行くがよい、
行くがよい、
8、8、8、8、
8、8、8、8………
壺の花
(小曲十五章)
一本のコスモスが笑つてゐる。
その上に、どつしりと
太陽が腰を掛けてゐる。
そして、きやしやなコスモスの花が
なぜか、少しも撓まない、
その太陽の重味に。
百姓の爺さんの、汚れた、
硬い、節くれだつた手、
ちよいと見ると、褐色の、
朝鮮人蔘の燻製のやうな手、
おお、之がほんたうの労働の手、
これがほんたうの祈祷の手。
二枚ある著物なら
一枚脱ぐのは易い。
知れきつた道理を言はないで下さい。
今ここに有るのは一枚も一枚、
十人の人数に対して一枚、
結局、どうしたら好いのでせう。
小さな硯で朱を擦る時、
ふと、巴里の霧の中の
珊瑚紅の日が一点
わたしの書斎の帷に浮び、
それがまた、梅蘭芳の
楊貴妃の酔つた目附に変つて行く。
思はぬで無し、
知らぬで無し、
云はぬでも無し、
唯だ其れの仲間に入らぬのは、
余りに事の手荒なれば、
歌ふ心に遠ければ。
わたしは小さな螇蚸を
幾つも幾つも抑へることが好きですわ。
わたしの手のなかで、
なんと云ふ、いきいきした
この虫達の反抗力でせう。
まるで BASTILLE の破獄ですわ。
蚊よ、そなたの前で、
人間の臆病心は
拡大鏡となり、
また拡声器ともなる。
吸血鬼の幻影、
鬼女の歎声。
火に来ては死に、
火に来ては死ぬ。
愚鈍な虫の本能よ。
同じ火刑の試練を
幾万年くり返す積りか。
蛾と、さうして人間の女。
水浅葱の朝顔の花、
それを見る刹那に、
美くしい地中海が目に見えて、
わたしは平野丸に乗つてゐる。
それから、ボチセリイの
派手なヸイナスの誕生が前に現れる。
罷り出ましたは、夏の夜の
虫の一座の立て者で御座る。
歌ふことは致しませねど、
態度を御覧下されえ。
人間の学者批評家にも
わたしのやうな諸君がゐらせられる。
男性の専制以上に
残忍を極める女性の専制。
蟷螂の雌は
その雄を食べてしまふ。
種を殖やす外に
恋愛を知らない蟷螂。
もう、玉虫の一対を
綺麗な手箱に飼ふ娘もありません。
青磁色の流行が
廃れたよりも寂しい事ですね。
今の娘に感激の無いのは、
玉虫に毒があるよりも
いたましい事ですね。
漸くに我れ今は寂し、
独り在るは寂し、
薔薇を嗅げども寂し、
君と語れども寂し、
筆執りて書けども寂し、
高く歌へば更に寂し。
落葉して人目に附きぬ、
わが庭の高き木末に
小鳥の巣一つ懸かれり。
飛び去りて鳥の影無し、
小鳥の巣、霜の置くのみ、
小鳥の巣、日の照すのみ。
我が藤子九つながら、
小学の級長ながら、
夜更けては独り目覚めて
寝台より親を呼ぶなり。
「お蒲団がまた落ちました。」
我が藤子風引くなかれ。
薔薇の陰影
(雑詩廿五章)
暗い梯子を上るとき
女の脚は顫へてた。
四角な卓に椅子一つ、
側の小さな書棚には
手ずれた赤い布表紙
金字の本が光つてた。
こんな屋根裏に室借する
男ごころのおもしろさ。
女を椅子に掛けさせて、
「驚いたでせう」と言ひながら、
男は葉巻に火を点けた。
舞うて疲れた女なら、
男の肩に手を掛けて、
汗と香油の熱る頬を
男の胸に附けよもの。
男の注いだペパミント
男の手から飲まうもの。
わたしは舞も知りません。
わたしは男も知りません。
ひとりぼつちで片隅に。──
いえ、いえ、あなたも知りません。
寒水石のてえぶるに
薄い硝子の花の鉢。
櫂の形のしやぼてんの
真赤な花に目をやれば、
来る日で無いと知りながら
来る日のやうに待つ心。
無地の御納戸、うすい衣、
台湾竹のきやしやな椅子。
恋をする身は待つがよい、
待つて涙の落ちるほど。
わたしの孤蝶先生は、
いついつ見ても若い方、
いついつ見てもきやしやな方、
品のいい方、静かな方。
古い細身の槍のよに。
わたしの孤蝶先生は、
ものおやさしい、清んだ音の
乙の調子で話す方、
ふらんす、ろしあの小説を
わたしの為めに話す方。
わたしの孤蝶先生は、
それで何処やら暗い方、
はしやぐやうでも滅入る方、
舞妓の顔がをりをりに、
扇の蔭となるやうに。
堺の街の妙国寺、
その門前の庖丁屋の
浅葱納簾の間から
光る刄物のかなしさか。
御寺の庭の塀の内、
鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく蘇鉄をば
立つて見上げたかなしさか。
御堂の前の十の墓、
仏蘭西船に斬り入つた
重い科ゆゑ死んだ人、
その思出のかなしさか。
いいえ、それではありませぬ。
生れ故郷に来は来たが、
親の無い身は巡礼の
さびしい気持になりました。
「わたしは死ぬ気」とつい言つて、
その驚いた、青ざめた、
慄へた男を見た日から、
わたしは死ぬ気が無くなつた。
まことを云へば其日から
わたしの世界を知りました。
いつも男はおどおどと
わたしの言葉に答へかね、
いつも男は酔つた振。
あの見え透いた酔つた振。
「あなた、初めの約束の
塔から手を取つて跳びませう。」
場末の寄席のさびしさは
夏の夜ながら秋げしき。
枯れた蓬の細茎を
風の吹くよな三味線に
曲弾の音のはらはらと
螽斯の雨が降りかかる。
寄席の手前の枳殻垣、
わたしは一人、灯の暗い、
狭い湯殿で湯をつかひ、
髪を洗へば夜が更ける。
こきむらさきの杜若
採ろと水際につくばんで
濡れた袂をしぼる身は、
ふと小娘の気に返る。
男の机に倚り掛り、
男の遣ふペンを執り、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。
逗子の旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒に焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著すがたの脛白と
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。
むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
互にくどくど云ひ交す。
当世の恋のはげしさよ、
常は素知らぬ振ながら、
刹那に胸の張りつめて
しやうも、やうも無い日には、
マグネシユウムを焚くやうに、
機関の湯気の漏るやうに、
悲鳴を上げて身もだえて
あの白鳥が死ぬやうに。
いたましく、いたましく、
流行の風に三人まで
我児ぞ病める。
梅霖の雨しとどと降るに、汗流れ、
こんこんと、苦しき喉に咳するよ。
兄なるは身を焼く𤍠に父を呼び、
泣きむづかるを、その父が
抱きすかして、売薬の
安知歇林を飲ませども、
咳しつつ、半ゑづきぬ。
あはれ、此夜のむし暑さ、
氷ぶくろを取りかへて、
団扇とり児等を扇げば、
蚊帳ごしに蚊のむれぞ鳴く。
如何に若き男、
ダイヤの玉を百持てこ。
空手しながら採り得べき
物とや思ふ、あはれ愚かに。
たをやめの、たをやめの紅きくちびる。
男こそ慰めはあれ、
おほぎみの側にも在りぬ、
みいくさに出でても行きぬ、
酒ほがひ、夜通し遊び、
腹立ちて罵りかはす。
男こそ慰めはあれ、
少女らに己が名を告り、
厭きぬれば棄てて惜まず。
わが見るは人の身なれば、
死の夢を、沙漠のなかの
青ざめし月のごとくに。
また見るは、女にしあれば
消し難き世のなかの夢。
名工のきたへし刀
一尺に満たぬ短き、
するどさを我は思ひぬ。
あるときは異国人の
三角の尖あるメスを
われ得まく切に願ひぬ。
いと憎き男の胸に
利き白刄あてなん刹那、
たらたらと我袖にさへ
指にさへ散るべき、紅き
血を思ひ、我れほくそ笑み、
こころよく身さへ慄ふよ。
その時か、にくき男の
云ひがたき心宥さめ。
しかは云へ、突かんとすなる
その胸に、夜としなれば、
額よせて、いとうら安の
夢に入る人も我なり。
男はた、いとしとばかり
その胸に我れかき抱き、
眠ること未だ忘れず。
その胸を今日は仮さずと
たはぶれに云ふことあらば、
我れ如何に佗しからまし。
鴨頭草のあはれに哀しきかな、
わが袖のごとく濡れがちに、
濃き空色の上目しぬ、
文月の朝の木のもとの
板井のほとり。
はかなかる花にはあれど、
月見草、
ふるさとの野を思ひ出で、
わが母のこと思ひ出で、
初恋の日を思ひ出で、
指にはさみぬ、月見草。
われはをみな、
それゆゑに
ものを思ふ。
にしき、こがね、
女御、后、
すべて得ばや。
ひとり眠る
わびしさは
をとこ知らじ。
黒きひとみ、
ながき髪、
しじに濡れぬ。
恋し、恋し、
はらだたし、
ねたし、悲し。
ひがむ気短かな鵯鳥は
木末の雪を揺りこぼし、
枝から枝へ、甲高に
凍てつく冬の笛を吹く。
それを聞く
わたしの心も裂けるよに。
それでも木蔭の下枝には
あれ、もう、愛らしい鶯が
雪解の水の小ながれに
軽く反打つ身を映し、
ちちと啼く、ちちと啼く。
その小啼は低くても、
春ですわね、春ですわね。
わが歌の仮名文字よ、
あはれ、ほつほつ、
止所なく乱れ散る涙のしづく。
誰かまた手に結び玉とは愛でん、
みにくくも乱れ散る涙のしづく。
あはれ、この文字、我が夫な読みそ、
君ぬらさじと堰きとむる
しがらみの句切の淀に
青き愁の水渋いざよふ。
みなしごの十二のをとめ、
きのふより我家に来て、
四つになる子の守をしぬ。
筆と紙、子守は持ちて、
筋を引き、環をゑがきて、
箪笥てふ物を教へぬ。
我子らは箪笥を知らず、
不思議なる絵ぞと思へる。
あこがれまし、
いざなはれまし、
あはれ、寂しき、寂しき此日を。
だまされまし、賺されまし、
よしや、よしや、
見殺しに人のするとも。
わかき男は来るたびに
よき金口の煙草のむ。
そのよき香り、新しき
愁のごとくやはらかに、
煙と共にただよひぬ。
わかき男は知らざらん、
君が来るたび、人知れず、
我が怖るるも、喜ぶも、
唯だその手なる煙草のみ。
素焼の壺にらちもなく
投げては挿せど、百合の花、
ひとり秀でて、清らかな
雪のひかりと白さとを
貴な金紗の匂はしい
ヹエルに隠す面ざしは、
二十歳ばかりのつつましい
そして気高い、やさがたの
侯爵夫人にもたとへよう。
とり合せたる金蓮花、
麝香なでしこ、鈴蘭は
そぞろがはしく手を伸べて、
宝玉函の蓋をあけ、
黄金の腕環や紫の
斑入の玉の耳かざり、
真珠の頸環、どの花も
𤍠い吐息を投げながら、
華奢と匂ひを競ひげに、
まばゆいばかり差出せど
あはれ、其等の楽欲と、
世の常の美を軽く見て、
わが侯爵夫人、なにごとを
いと深げにも、静かにも
思ひつづけて微笑むか。
花の秘密は知り難い、
けれど、百合をば見てゐると、
わたしの心は涯もなく
拡がつて行く、伸びて行く。
我れと我身を抱くやうに
世界の人をひしと抱き、
𤍠と、涙と、まごころの
中に一所に融け合つて
生きたいやうな、清らかな
愛の心になつて行く。
月を釣る
(小曲卅五章)
人は暑い昼に釣る、
わたしは涼しい夜に釣る。
流れさうで流れぬ糸が面白い、
水だけが流れる。
わたしの釣鈎に餌は要らない、
わたしは唯だ月を釣る。
唯だ一人ある日よりも、
大勢とゐる席で、
わが姿、しよんぼりと細りやつるる。
平生は湯のやうに沸く涙も
かう云ふ日には凍るやらん。
立枠模様の水浅葱、はでな単衣を著たれども、
わが姿、人にまじればうら寂しや。
わが家の八月の日の午後、
庭の盥に子供らの飼ふ緋目高は
生湯の水に浮き上がり、
琺瑯色の日光に
焼釘の頭を並べて呼吸をする。
その上にモザイク形の影を落す
静かに大きな金網。
木の葉は皆あぶら汗に光り、
隣の肥えた白い猫は
木の根に眠つたまま死ぬやらん。
わがする幅広の帯こそ大蛇なれ、
じりじりと、じりじりと巻きしむる。
夜あけ方に降つた夕立が
庭に流した白い砂、
こなひだ見て来た岩代の
摺上川が想はれる。
砂に埋れて顔を出す
濡れた黄いろの月見草、
あれ、あの花が憎いほど
わたしの心をさし覗き、
思ひなしかは知らねども、
やつれた私を引き立たす。
過ぎこし方を思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日も弧を描かん、
踊りつつ往かん、
曳くひかり、水色の長き裳の如くならん。
芸術はわれを此処にまで導きぬ、
今こそ云はめ、
われ、芸術を彼処に伴ひ行かん、
より真実に、より光ある処へと。
われは軛となりて挽かれ、
駿足の馬となりて挽き、
車となりてわれを運ぶ。
わが名は「真実」なれども
「力」と呼ぶこそすべてなれ。
まはれ、まはれ、走馬灯。
走馬灯は幾たびまはればとて、
曲もなき同じふやけし馬の絵なれど、
猶まはれ、まはれ、
まはらぬは寂しきを。
桂氏の馬は西園寺氏の馬に
今こそまはりゆくなれ、まはれ、まはれ。
女、三越の売出しに行きて、
寄切の前にのみ一日ありき。
帰りきて、かくと云へば、
男は独り棋盤に向ひて
五目並べの稽古してありしと云ふ。
(零と零とを重ねたる今日の日の空しさよ。)
さて男は疲れて黙し、また語らず、
女も終に買物を語らざりき。
その買ひて帰れるは
纔に高浪織の帯の片側に過ぎざれど。
それは細き麦稈、
しやぼん玉を吹くによけれど、竿とはしがたし、
まして、まして柱とは。
されど、麦稈も束として火を附くれば
ゆゆしくも家を焼く。
わがをさな児は賢し、
束とはせず、しやぼん玉を吹いて行くよ。
一切を要す、
われは憧るる霊なり。
物をしみな為そ、
若し齎す物の猶ありとならば。──
初めに取れる果実は年経れど紅し、
われこそ物を損ぜずして愛づるすべを知るなれ。
「常に杖に倚りて行く者は
その杖を失ひし時、自らをも失はん。
われは我にて行かばや」と、われ語る。
友は笑ひて、さて云ひぬ、
「な偽りそ、
つとばかり涙さしぐむ君ならずや、
恋人の名を耳にするにも。」
古き物の猶権威ある世なりければ
彼は日本の女にて東の隅にありき。
また彼は精錬せられざりしかば
猶鉱のままなりき。
みづからを白金の質と知りながら……
物を書きさし、思ひさし、
広東蜜柑をむいたれば、
藍と鬱金に染まる爪。
江戸の昔の廣重の
名所づくしの絵を刷つた
版師の指は斯うもあらうか。
藍と鬱金に染まる爪。
堅苦しく、うはべの律義のみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気の国、
支那人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加の富なくて、亜米利加化する国、
疑惑と戦慄とを感ぜざる国、
男みな背を屈めて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安く、万万歳の国。
髪かき上ぐる手ざはりが
何やら温泉場にゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
この間に手紙を書きませう、
朝の書斎は凍れども、
「君を思ふ」と巴里宛に。
女は在る限り
粗けづりの明治の女ばかり。
唯だ一人あの若い詩人がゐて
今日の会は引き立つ。
永井荷風の書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また歌麿の版画の
「上の息子」の身のこなし。
わが小さい娘の髪を撫でるとき、
なにか知ら、生れ故郷が懐はれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、其れ、とりとめもない事ながら、
片時は黄金の雨が降りかかる。
三月の昼のひかり、
わが書斎に匍ふ藤むらさき。
そのなかに光の顔の白、
七瀬の帯の赤、
机に掛けた布の脂色、
みな生生と温かに……
されど唯だ壺の彼岸桜と
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物の如く我も在るらん。
障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔よりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさし覗く
雪のこころの寂しさよ。
しづくとなつて融けてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして、わたしは何んとすべきぞ。
衣桁の帯からこぼれる
艶めいた昼の光の肉色。
その下に黒猫は目覚めて、
あれ、思ふぞんぶんに伸びをする。
世界は今、黒猫の所有になる。
打つ真似をすれば、
尾を立てて後しざる黒猫、
まんまろく、かはゆく……
けれど、わたしの手は
錫箔のやうに薄く冷たく閃めいた。
おお、厭な手よ。
ちぎれちぎれの雲見れば、
風ある空もむしやくしやと
むか腹立てて泣きたいか。
さう云ふ間にも、粒なみだ、
泣いて心が直るよに、
春の日の入り、紅さした
よい目元から降りかかる。
濡らせ、濡らせ、
我髪濡らせ、通り雨。
二夜三夜こそ円寝もよろし。
君なき閨へ入ろとせず、
椅子ある居間の月あかり、
黄ざくら色の衣を著て、
つつましやかなうたた臥し。
まだ見る夢はありながら、
うらなく明くる春のみじか夜。
散りがたの赤むらさきの牡丹の花、
青磁の大鉢のなかに幽かにそよぐ。
侠なるむだづかひの終りに
早くも迫る苦しき日の怖れを
回避する心もち……
ええ、よし、それもよし。
女、女、
女は王よりもよろづ贅沢に、
世界の香料と、貴金属と、宝石と、
花と、絹布とは女こそ使用ふなれ。
女の心臓のかよわなる血の花弁の旋律は
ベエトオフエンの音楽のどの傑作にも勝り、
湯殿に隠りて素肌のまま足の爪切る時すら、
女の誇りに印度の仏も知らぬほくそゑみあり。
言ひ寄る男をつれなく過ぐす自由も
女に許されたる楽しき特権にして、
相手の男の相場に負けて破産する日も、
女は猶恋の小唄を口吟みて男ごころを和ぐ。
たとへ放火殺人の大罪にて監獄に入るとも、
男の如く二分刈とならず、黒髪は墓のあなたまで浪打ちぬ。
婦人運動を排する諸声の如何に高ければとて、
女は何時までも新しきゲエテ、カント、ニウトンを生み、
人間は永久うらわかき母の慈愛に育ちゆく。
女、女、日本の女よ、
いざ諸共に自らを知らん。
黄と、紅と、みどり、
生な色どり……
糝粉細工のやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
それを活ける白い磁の鉢、
きやしやな女の手、
た、た、た、た、と注す水のおと。
ああ、なんと生生した昼であろ。
糝粉細工のやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
皐月なかばの晴れた日に、
気早い蝉が一つ啼き、
何とて啼いたか知らねども、
森の若葉はその日から
火を吐くやうな息をする。
君の心は知らねども……
崖の上なる教会の
古びた壁の脂の色、
常に静かでよいけれど、
高い庇の陰にある
円い小窓の摺硝子、
誰やら一人うるみ目に
空を見上げて泣くやうな、
それが寂しく気にかかる。
台所の閾に腰すゑた
古洋服の酔つぱらひ、
そつとしてお置きよ、あのままに。
ものもらひとは勿体ない、
髪の乱れも、蒼い目も、
ボウドレエルに似てるわね。
つやなき髪に、焼鏝を
誰が当てよとは云はねども、
はずみ心に縮らせば、
焼けてほろほろ膝に散り、
半うしなふ前髪の
くちをし、悲し、あぢきなし。
あはれと思へ、三十路へて
猶人恋ふる女の身。
浜の日の出の空見れば、
あかね木綿の幕を張り、
静かな海に敷きつめた
廣重の絵の水あさぎ。
(それもわたしの思ひなし)
あちらを向いた黒い島。
青き夜なり。
九段の坂を上り詰めて
振返りつつ見下ろすことの嬉しや。
消え残る屋根の雪の色に
近き家家は石造の心地し、
神田、日本橋、
遠き街街の灯のかげは
緑金と、銀と、紅玉の
星の海を作れり。
電車の轢り………
飯田町駅の汽笛………
ふと、われは涙ぐみぬ、
高きモンマルトルの
段をなせる路を行きて、
君を眺めし
夕の巴里を思ひ出でつれば。
あわただしい師走、
今年の師走
一箇月三十一日は外のこと、
わたしの心の暦では、
わづか五六日で暮れて行く。
すべてを為さし、思ひさし、
なんにも云はぬ女にて、
する、する、すると幕になる。
騒音と塵の都、
乱民と賤民の都、
静思の暇なくて
多弁の世となりぬ。
舌と筆の暴力は
腕の其れに劣らず。
ここにして勝たんとせば
唯だ吠えよ、大声に吠えよ、
さて猛く続けよ。
卑しきを忘れし男、
醜きを耻ぢざる女、
げに君達の名は強者なり。
第一の陣痛
(雑詩四十一章)
わたしは今日病んでゐる、
生理的に病んでゐる。
わたしは黙つて目を開いて
産前の床に横になつてゐる。
なぜだらう、わたしは
度度死ぬ目に遭つてゐながら、
痛みと、血と、叫びに慣れて居ながら、
制しきれない不安と恐怖とに慄へてゐる。
若いお医者がわたしを慰めて、
生むことの幸福を述べて下された。
そんな事ならわたしの方が余計に知つてゐる。
それが今なんの役に立たう。
知識も現実で無い、
経験も過去のものである。
みんな黙つて居て下さい、
みんな傍観者の位置を越えずに居て下さい。
わたしは唯だ一人、
天にも地にも唯だ一人、
じつと唇を噛みしめて
わたし自身の不可抗力を待ちませう。
生むことは、現に
わたしの内から爆ぜる
唯だ一つの真実創造、
もう是非の隙も無い。
今、第一の陣痛……
太陽は俄かに青白くなり、
世界は冷やかに鎮まる。
さうして、わたしは唯だ一人………
二歳になる可愛いいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日はじめて
おまへの母の頬を打つたことを。
それはおまへの命の
自ら勝たうとする力が──
純粋な征服の力が
怒りの形と
痙攣の発作とになつて
電火のやうに閃いたのだよ。
おまへは何も意識して居なかつたであらう、
そして直ぐに忘れてしまつたであらう、
けれど母は驚いた、
またしみじみと嬉しかつた。
おまへは、他日、一人の男として、
昂然とみづから立つことが出来る、
清く雄雄しく立つことが出来る、
また思ひ切り人と自然を愛することが出来る、
(征服の中枢は愛である、)
また疑惑と、苦痛と、死と、
嫉妬と、卑劣と、嘲罵と、
圧制と、曲学と、因襲と、
暴富と、人爵とに打克つことが出来る。
それだ、その純粋な一撃だ、
それがおまへの生涯の全部だ。
わたしはおまへの掌が
獅子の児のやうに打つた
鋭い一撃の痛さの下で
かう云ふ白金の予感を覚えて嬉しかつた。
そして同時に、おまへと共通の力が
母自身にも潜んでゐるのを感じて、
わたしはおまへの打つた頬も
打たない頬までも𤍠くなつた。
おまへは何も意識して居なかつたであらう、
そして直ぐに忘れてしまつたであらう。
けれど、おまへが大人になつて、
思想する時にも、働く時にも、
恋する時にも、戦ふ時にも、
これを取り出してお読み。
二歳になる可愛いいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日はじめて
おまへの母の頬を打つたことを。
猶かはいいアウギユストよ、
おまへは母の胎に居て
欧羅巴を観てあるいたんだよ。
母と一所にしたその旅の記憶を
おまへの成人するにつれて
おまへの叡智が思ひ出すであらう。
ミケル・アンゼロやロダンのしたことも、
ナポレオンやパスツウルのしたことも、
それだ、その純粋な一撃だ、
その猛猛しい恍惚の一撃だ。
さあ、一所に、我家の日曜の朝の御飯。
(顔を洗うた親子八人、)
みんなが二つのちやぶ台を囲みませう、
みんなが洗ひ立ての白い胸布を当てませう。
独り赤さんのアウギユストだけは
おとなしく母さんの膝の横に坐るのねえ。
お早う、
お早う、
それ、アウギユストもお辞儀をしますよ、お早う、
何時もの二斤の仏蘭西麺包に
今日はバタとジヤムもある、
三合の牛乳もある、
珍しい青豌豆の御飯に、
参州味噌の蜆汁、
うづら豆、
それから新漬の蕪菁もある。
みんな好きな物を勝手におあがり、
ゆつくりとおあがり、
たくさんにおあがり。
朝の御飯は贅沢に食べる、
午の御飯は肥えるやうに食べる、
夜の御飯は楽みに食べる、
それは全く他人のこと。
我家の様な家の御飯はね、
三度が三度、
父さんや母さんは働く為に食べる、
子供のあなた達は、よく遊び、
よく大きくなり、よく歌ひ、
よく学校へ行き、本を読み、
よく物を知るやうに食べる。
ゆつくりおあがり、
たくさんにおあがり。
せめて日曜の朝だけは
父さんや母さんも人並に
ゆつくりみんなと食べませう。
お茶を飲んだら元気よく
日曜学校へお行き、
みんなでお行き。
さあ、一所に、我家の日曜の朝の御飯。
いいえ、いいえ、現代の
生活と芸術に、
どうして肉ばかりでゐられよう、
単純な、盲目な、
そしてヒステリツクな、
肉ばかりでゐられよう。
五感が七感に殖える、
いや、五十感、百感にも殖える。
理性と、本能と、
真と、夢と、徳とが手を繋ぐ。
すべてが細かに実が入つて、
すべてが千千に入りまじり、
突風と火の中に
すべてが急に角を描く。
芸も、思想も、戦争も、
国も、個人も、宗教も、
恋も、政治も、労働も、
すべてが幾何学的に合されて、
神秘な踊を断えず舞ふ
大建築に変り行く。
ほんに、じつとしてはゐられぬ、
わたしも全身を投げ出して、
踊ろ、踊ろ。
踊つて止まぬ殿堂の
白と赤との大理石の
人像柱の一本に
諸手を挙げて加はらう。
阿片が燻る……
発動機が爆ぜる……
楽が裂ける……
わが出でんとする城の鉄の門に
斯くこそ記るされたれ。
その字の色は真紅、
恐らくは先きに突破せし人の
みづから指を咬める血ならん。
「生くることの権利と、
其のための一切の必要。」
われは戦慄し且つ躊躇らひしが、
やがて微笑みて頷きぬ。
さて、すべて身に著けし物を脱ぎて
われを逐ひ来りし人人に投げ与へ、
われは玲瓏たる身一つにて逃れ出でぬ。
されど一歩して
ほつと呼吸をつきし時、
あはれ目に入るは
万里一白の雪の広野……
われは自由を得たれども、
わが所有は、この刹那、
否、永劫に、
この繊弱き身一つの外に無かりき。
われは再び戦慄したれども、
唯だ一途に雪の上を進みぬ。
三日の後
われは大いなる三つの岐路に出でたり。
ニイチエの過ぎたる路、
トルストイの過ぎたる路、
ドストイエフスキイの過ぎたる路、
われは其の何れをも択びかねて、
沈黙と逡巡の中に、
暫く此処に停まりつつあり。
わが上の太陽は青白く、
冬の風四方に吹きすさぶ……
両手にて抱かんとし、
手の先にて掴まんとする我等よ、
我等は過ちつつあり。
手を揚げて、我等の
抱けるは空の空、
我等の掴みたるは非我。
唯だ我等を疲れしめて、
すべて滑り、
すべて逃れ去る。
いでや手の代りに
全身を拡げよ、
我等の所有は此内にこそあれ。
我を以て我を抱けよ。
我を以て我を掴め、
我に勝る真実は無し。
友よ、今ここに
我世の心を言はん。
我は常に行き著かで
途の半にある如し、
また常に重きを負ひて
喘ぐ人の如し、
また寂しきことは
年長けし石婦の如し。
さて百千の段ある坂を
我はひた登りに登る。
わが世の力となるは
後ろより苛む苦痛なり。
われは愧づ、
静かなる日送りを。
そは怠惰と不純とを編める
灰色の大網にして、
黄金の時を捕へんとしながら、
獲る所は疑惑と悔のみ。
我が諸手は常に高く張り、
我が目は常に見上げ、
我が口は常に呼び、
我が足は常に急ぐ。
されど、友よ、
ああ、かの太陽は遠し。
霧の籠めた、太洋の離れ島、
此島の街はまだ寝てゐる。
どの茅屋の戸の透間からも
まだ夜の明りが日本酒色を洩してゐる。
たまたま赤んぼの啼く声はするけれど、
大人は皆たわいもない夢に耽つてゐる。
突然、入港の号砲を轟かせて
わたし達は夜中に此処へ著いた。
さうして時計を見ると、今、
陸の諸国でもう朝飯の済んだ頃だ、
わたし達はまだホテルが見附からない。
まだ兄弟の誰れにも遇はない。
年ぢゆう旅してゐるわたし達は
世界を一つの公園と見てゐる。
さうして、自由に航海しながら、
なつかしい生れ故郷の此島へ帰つて来た。
島の人間は奇怪な侵入者、
不思議な放浪者だと罵らう。
わたし達は彼等を覚さねばならない、
彼等を生の力に溢れさせねばならない。
よその街でするやうに、
飛行機と露西亜バレエの調子で
彼等と一所に踊らねばならない、
此島もわたし達の公園の一部である。
何かためらふ、内気なる
わが繊弱なるたましひよ、
幼児のごと慄きて
な言ひそ、死をば避けましと。
正しきに就け、たましひよ、
戦へ、戦へ、みづからの
しあはせのため、悔ゆるなく、
恨むことなく、勇みあれ。
飽くこと知らぬ口にこそ
世の苦しみも甘からめ。
わがたましひよ、立ち上がり、
生に勝たんと叫べかし。
わが暫く立ちて沈吟せしは
三筋ある岐れ路の中程なりき。
一つの路は崎嶇たる
石山の巓に攀ぢ登り、
一つの路は暗き大野の
扁柏の森の奥に迷ひ、
一つの路は河に沿ひて
平沙の上を滑り行けり。
われは幾度か引返さんとしぬ、
来し方の道には
人間三月の花開き、
紫の霞、
金色の太陽、
甘き花の香、
柔かきそよ風、
われは唯だ幸ひの中に酔ひしかば。
されど今は行かん、
かの高き石山の彼方、
あはれ其処にこそ
猶我を生かす路はあらめ。
わが願ふは最早安息にあらず、
夢にあらず、思出にあらず、
よしや、足に血は流るとも、
一歩一歩、真実へ近づかん。
ああ森の巨人、
千年の大樹よ、
わたしはそなたの前に
一人のつつましい自然崇拝教徒である。
そなたはダビデ王のやうに
勇ましい拳を上げて
地上の赦しがたい
何んの悪を打たうとするのか。
また、そなたはアトラス王が
世界を背中に負つてゐるやうに、
かの青空と太陽とを
両手で支へようとするのか。
そしてまた、そなたは
どうやら、心の奥で、
常に悩み、
常にじつと忍んでゐる。
それがわたしに解る、
そなたの鬱蒼たる枝葉が
休む間無しに汗を流し、
休む間無しに戦くので。
さう思つてそなたを仰ぐと、
希臘闘士の胴のやうな
そなたの逞しい幹が
全世界の苦痛の重さを
唯だひとりで背負つて、
永遠の中に立つてゐるやうに見える。
或時、風と戦つては
そなたの梢は波のやうに逆立ち、
荒海の響を立てて
勝利の歌を揚げ、
また或時、積む雪に圧されながらも
そなたの目は日光の前に赤く笑つてゐる。
千年の大樹よ、
蜉蝣の命を持つ人間のわたしが
どんなにそなたに由つて
元気づけられることぞ。
わたしはそなたの蔭を踏んで思ひ、
そなたの幹を撫でて歌つてゐる。
ああ、願はくは、死後にも、
わたしはそなたの根方に葬られて、
そなたの清らかな樹液と
隠れた𤍠い涙とを吸ひながら、
更にわたしの地下の
飽くこと知らぬ愛情を続けたい。
なつかしい大樹よ、
もう、そなたは森の中に居ない、
常にわたしの魂の上に
爽やかな広い蔭を投げてゐる。
森の木蔭は日に遠く、
早く涼しくなるままに、
繊弱く低き下草は
葉末の色の褪せ初めぬ。
われは雑草、しかれども
猶わが欲を煽らまし、
もろ手を延べて遠ざかる
夏の光を追ひなまし。
死なじ、飽くまで生きんとて、
みづから恃むたましひは
かの大樹にもゆづらじな、
われは雑草、しかれども。
踊、
踊、
桃と桜の
咲いたる庭で、
これも花かや、紫に
円く輪を描く子供の踊。
踊、
踊、
天をさし上げ、
地を踏みしめて、
みんな凛凛しい身の構へ、
物に怖れぬ男の踊。
踊、
踊、
身をば斜めに
袂をかざし、
振れば逆らふ風も無い、
派手に優しい女の踊。
踊、
踊、
鍬を執る振、
糸引く姿、
そして世の中いつまでも
円く輪を描く子供の踊。
「働く外は無いよ、」
「こんなに働いてゐるよ、僕達は、」
威勢のいい声が
頻りに聞える。
わたしは其声を目当に近寄つた。
薄暗い砂の上に寝そべつて、
煙草の煙を吹きながら、
五六人の男が
おなじやうなことを言つてゐる。
わたしもしよざいが無いので、
「まつたくですね」と声を掛けた。
すると、学生らしい一人が
「君は感心な働き者だ、
女で居ながら、」
斯うわたしに言つた。
わたしはまだ働いたことも無いが、
褒められた嬉しさに
「お仲間よ」と言ひ返した。
けれども、目を挙げると、
その人達の塊の向うに、
夜の色を一層濃くして、
まつ黒黒と
大勢の人間が坐つてゐる。
みんな黙つて俯向き、
一秒の間も休まず、
力いつぱい、せつせと、
大きな網を編んでゐる。
三十女の心は
陰影も、煙も、
音も無い火の塊、
夕焼の空に
一輪真赤な太陽、
唯だじつと徹して燃えてゐる。
わが愛欲は限り無し、
今日のためより明日のため、
香油をぞ塗る、更に塗る。
知るや、知らずや、恋人よ、
この楽しさを告げんとて
わが唇を君に寄す。
今夜の空は血を流し、
そして俄かに気の触れた
嵐が長い笛を吹き、
海になびいた藻のやうに
断えずゆらめく木の上を、
海月のやうに青ざめた
月がよろよろ泳ぎゆく。
真昼のなかに夜が来た。
空を行く日は青ざめて
氷のやうに冷えてゐる。
わたしの心を通るのは
黒黒とした蝶のむれ。
新たに活けた薔薇ながら
古い香りを立ててゐる。
初めて聞いた言葉にも
昨日の声がまじつてる。
真実心を見せたまへ。
ほんに寂しい時が来た、
驚くことが無くなつた。
薄くらがりに青ざめて、
しよんぼり独り手を重ね、
恋の歌にも身が入らぬ。
あはれ、やうやく我心、
怖るることを知り初めぬ、
たそがれ時の近づくに。
否とは云へど、我心、
あはれ、やうやくうら寒し。
山の動く日きたる、
かく云へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや、
我は寂しき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。
額にも、肩にも、
わが髪ぞほつるる。
しほたれて湯滝に打たるる心もち……
ほつとつく溜息は火の如く且つ狂ほし。
かかること知らぬ男、
我を褒め、やがてまた譏るらん。
われは愛づ、新しき薄手の白磁の鉢を。
水もこれに湛ふれば涙と流れ、
花もこれに投げ入るれば火とぞ燃ゆる。
恐るるは粗忽なる男の手に砕けんこと、
素焼の土器よりも更に脆く、かよわく……
青く、且つ白く、
剃刀の刄のこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりす啼き、
ハモニカを近所の下宿にて吹くは憂たてけれども、
我が油じみし櫛笥の底をかき探れば、
陸奥紙に包みし細身の剃刀こそ出づるなれ。
にがきか、からきか、煙草の味。
煙草の味は云ひがたし。
甘きぞと云はば、粗忽者、
蜜、砂糖の類と思はん。
我は近頃煙草を喫み習へど、
喫むことを人に秘めぬ。
蔭口に、男に似ると云はるるはよし、
唯だ恐る、かの粗忽者こそ世に多けれ。
「鞭を忘るな」と
ヅアラツストラは云ひけり。
「女こそ牛なれ、羊なれ。」
附け足して我ぞ云はまし、
「野に放てよ」
わが祖母の母は我が知らぬ人なれども、
すべてに華奢を好みしとよ。
水晶の珠数にも倦き、珊瑚の珠数にも倦き、
この青玉の珠数を爪繰りしとよ。
我はこの青玉の珠数を解きほぐして、
貧しさに与ふべき玩具なきまま、
一つ一つ我が子等の手にぞ置くなる。
わが歌の短ければ、
言葉を省くと人思へり。
わが歌に省くべきもの無し、
また何を附け足さん。
わが心は魚ならねば鰓を持たず、
唯だ一息にこそ歌ふなれ。
すいつちよよ、すいつちよよ、
初秋の小さき篳篥を吹くすいつちよよ、
その声に青き蚊帳は更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、
初秋の夜の蚊帳は錫箔の如く冷たきを……
すいつちよよ、すいつちよよ。
あぶら蝉の、じじ、じじと啼くは
アルボオス石鹸の泡なり、
慳貪なる商人の方形に開く大口なり、
手掴みの二銭銅貨なり、
いつの世もざらにある芸術の批評なり。
夏の夜のどしやぶりの雨……
わが家は泥田の底となるらん。
柱みな草の如くに撓み、
それを伝ふ雨漏りの水は蛇の如し。
寝汗の香……哀れなる弱き子の歯ぎしり……
青き蚊帳は蛙の喉の如くに膨れ、
肩なる髪は眼子菜のやうに戦ぐ。
このなかに青白き我顔こそ
芥に流れて寄れる月見草の蕊なれ。
相共にその自らの力を試さぬ人と行かじ、
彼等の心には隙あり、油断あり。
よしもなき事ども──
善悪と云ふ事どもを思へるよ。
過去はたとひ青き、酸き、充たざる、
如何にありしとも、
今は甘きか、匂はしきか、
今は舌を刺す力あるか、無きか、
君よ、今の役に立たぬ果実を摘むなかれ。
商人らの催せる饗宴に、
我の一人まじれるは奇異ならん、
我の周囲は目にて満ちぬ。
商人らよ、晩餐を振舞へるは君達なれど、
我の食らふは猶我の舌の味ふなり。
さて、商人らよ、
おのおの、その最近の仕事に就いて誇りかに語れ、
我はさる事をも聴くを喜ぶ。
かの歯車は断間なく動けり、
静かなるまでいと忙しく動けり、
彼れに空しき言葉無し、
彼れのなかに一切を刻むやらん。
すべて異性の手より受取るは、
温かく、やさしく、匂はしく、派手に、
胸の血の奇しくもときめくよ。
女のみありて、
女の手より女の手へ渡る物のうら寂しく、
冷たく、力なく、
かの茶人の間に受渡す言葉の如く
寒くいぢけて、質素なるかな。
このゆゑに我は女の味方ならず、
このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。
かの袴のみけばけばしくて
寂しげなる女のむれよ、
かの傷もたぬ紳士よ。
わが心は油よ、
より多く火をば好めど、
水に附き流るるも是非なや。
鞣さざる象皮の如く、
受精せざる蛋の如く、
胎を出でて早くも老いし顔する駱駝の子の如く、
目を過ぐるもの、凡そこの三種を出でず。
彼等は此国の一流の人人なり。
白蟻の仔虫こそいたましけれ、
職虫の勝手なる刺激に由り、
兵虫とも、生殖虫とも、職虫とも、
即ち変へらるるなり。
職虫の勝手なる、無残なる刺激は
陋劣にも食物をもてす。
さてまた、其等各種の虫の多きに過ぐれば
職虫はやがて刺し殺して食らふとよ。
幻想と風景
(雑詩八十七章)
今、暁の
太陽の会釈に、
金色の笑ひ
天の隅隅に降り注ぐ。
彼れは目覚めたり、
光る鶴嘴
幅びろき胸、
うしろに靡く
空色の髪、
わが青年は
悠揚として立ち上がる。
裸体なる彼れが
冒険の旅は
太陽のみ知りて、
空より見て羨めり。
青年の行手には、
蒼茫たる
無辺の大地、
その上に、遥かに長く
濃き紫の一線
縦に、前へ、
路の如く横たはるは、
唯だ、彼れの歩み行く
孤独の影のみ。
今、暁の
太陽のみ
光の手を伸べて
彼れを見送る。
おお大地震と猛火、
その急激な襲来にも
我我は堪へた。
一難また一難、
何んでも来よ、
それを踏み越えて行く用意が
しかと何時でもある。
大自然のあきめくら、
見くびつてくれるな、
人間には備はつてゐる、
刹那に永遠を見通す目、
それから、上下左右へ
即座に方向転移の出来る
飛躍自在の魂。
おお此の魂である、
鋼の質を持つた種子、
火の中からでも芽をふくものは。
おお此の魂である、
天の日、太洋の浪、
それと共に若やかに
燃え上がり躍り上がるのは。
我我は「無用」を破壊して進む。
見よ、大自然の暴威も
時に我我の助手を勤める。
我我は「必要」を創造して進む。
見よ、溌溂たる素朴と
未曾有の喜びの
精神と様式とが前に現れる。
誰も昨日に囚はれるな、
我我の生活のみづみづしい絵を
塗りの剥げた額縁に入れるな。
手は断えず一から図を引け、
トタンと荒木の柱との間に、
汗と破格の歌とを以て
かんかんと槌の音を響かせよ。
法外な幻想に、
愛と、真実と、労働と、
科学とを織り交ぜよ。
古臭い優美と泣虫とを捨てよ、
歴史的哲学と、資本主義と、
性別と、階級別とを超えた所に、
我我は皆自己を試さう。
新しく生きる者に
日は常に元日、
時は常に春。
百の禍も何ぞ、
千の戦で勝たう。
おお窓毎に裸の太陽、
軒毎に雪の解けるしづく。
今、一千九百十九年の
最初の太陽が昇る。
美くしいパステルの
粉絵具に似た、
浅緑と淡黄と
菫いろとの
透きとほりつつ降り注ぐ
静かなる暁の光の中、
東の空の一端に、
天をつんざく
珊瑚紅の熔岩──
新しい世界の噴火……
わたしは此時、
新しい目を逸さうとして、
思はずも見た、
おお、彼処にある、
巨大なダンテの半面像が、
巍然として、天の半に。
それはバルジエロの壁に描かれた
青い冠に赤い上衣、
細面に
凛凛しい上目づかひの
若き日の詩人と同じ姿である。
あれ、あれ、「新生」のダンテが
その優しく気高い顔を
一ぱいに紅くして微笑む。
人人よ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ仰げ、共に、
朱に染まる今朝の富士を。
石垣の上に細路、
そして、また、上に石垣、
磯の潮で
千年の「時」が磨減らした
大きな円石を
層層と積み重ねた石垣。
どの石垣の間からも
椿の木が生えてゐる。
琅玕のやうな白い幹、
青銅のやうに光る葉、
小柄な支那の貴女が
笑つた口のやうな紅い花。
石垣の崩れた処には
山の切崖が
煉瓦色の肌を出し、
下には海に沈んだ円石が
浅瀬の水を透して
亀の甲のやうに並んでゐる。
沖の初島の方から
折折に風が吹く。
その度に、近い所で
小さい浪頭がさつと立ち、
石垣の椿が身を揺つて
落ちた花がぼたりと水に浮く。
正月元日、里ずまひ、
喜びありて眺むれば、
まだ木枯はをりをりに
向ひの丘を過ぎながら
高い鼓弓を鳴らせども、
軒端の日ざし温かに、
ちらり、ほらりと梅が咲く。
上には晴れた空の色、
濃いお納戸の支那繻子に、
光、光と云ふ文字を
銀糸で置いた繍の袖、
春が著て来た上衣をば
枝に掛けたか、打香り、
ちらり、ほらりと梅が咲く。
薄暗がりの地平に
大火の祭。
空が焦げる、
海が燃える。
珊瑚紅から
黄金の光へ、
眩ゆくも変りゆく
焔の舞。
曙の雲間から
子供らしい円い頬を
真赤に染めて笑ふ
地上の山山。
今、焔は一揺れし、
世界に降らす金粉。
不死鳥の羽羽たきだ。
太陽が現れる。
春が来た。
せまい庭にも日があたり、
張物板の紅絹のきれ、
立つ陽炎も身をそそる。
春が来た。
亜鉛の屋根に、ちよちよと、
妻に焦れてまんまろな
ふくら雀もよい形。
春が来た。
遠い旅路の良人から
使に来たか、見に来たか、
わたしを泣かせに唯だ来たか。
春が来た。
朝の汁にきりきざむ
蕗の薹にも春が来た、
青いうれしい春が来た。
春よ春、
街に来てゐる春よ春、
横顔さへもなぜ見せぬ。
春よ春、
うす衣すらもはおらずに
二月の肌を惜むのか。
早く注せ、
あの大川に紫を、
其処の並木にうすべにを。
春よ春、
そなたの肌のぬくもりを
微風として軒に置け。
その手には
屹度、蜜の香、薔薇の夢、
乳のやうなる雨の糸。
想ふさへ
好しや、そなたの贈り物、
そして恋する赤い時。
春よ春、
おお、横顔をちらと見た。
緑の雪が散りかかる。
わが前に梅の花、
淡き緑を注したる白、
ルイ十四世の白、
上には瑠璃色の
支那絹の空、
目も遥に。
わが前に梅の花、
心は今、
白金の巣に
香に酔ふ小鳥、
ほれぼれと、一節、
高音に歌はまほし。
わが前に梅の花、
心は更に、
空想の中なる、
羅馬を見下す丘の上の、
大理石の柱廊に
片手を掛けたり。
おお、ひと枝の
花屋の荷のうへの
紅梅の花、
薄暗い長屋の隅で
ポウブルな母と娘が
つぎ貼りした障子の中の
冬の明りに、
うつむいて言葉すくなく、
わづかな帛片と
糊と、鋏と、木の枝と、
青ざめた指とを用ひて、
手細工に造つた花と云はうか。
いぢらしい花よ、
涙と人工との
羽二重の赤玉を綴つた花よ、
わたしは悲しい程そなたを好く。
なぜと云ふなら、
そなたの中に私がある、
私の中にそなたがある。
そなたと私とは
厳寒と北風とに曝されて、
あの三月に先だち、
怖る怖る笑つてゐる。
空は瑠璃いろ、雨のあと、
並木の柳、まんまろく
なびく新芽の浅みどり。
すこし離れて見るときは、
散歩の路の少女らが
深深とさす日傘か。
蔭に立寄り見る時は、
絵のなかに舞ふ鳳凰の
雲より垂れた錦尾か。
空は瑠璃いろ、雨のあと、
並木の柳、その枝を
引けば翡翠の露が散る。
牛込見附の青い色、
わけて柳のさばき髪、
それが映つた濠の水。
柳の蔭のしつとりと
黒く濡れたる朝じめり。
垂れた柳とすれすれに
白い護謨輪の馳せ去れば、
あとに我児の靴のおと。
黄いろな電車を遣りすごし、
見上げた高い神楽坂、
何やら軽く、人ごみに
気おくれのする快さ。
我児の手からすと離れ、
風船玉が飛んでゆく、
軒から軒へ揚りゆく。
柳の青む頃ながら、
二月の風は殺気だち、
都の街の其処ここに
砂の毒瓦斯、砂の灰、
砂の地雷を噴き上げる。
よろよろとして、濠端に
山高帽を抑へたる
洋服づれの逃げ足の
操人形に似る可笑しさを、
外目に笑ふひまも無く、
さと我顔に吹きつくる
痛き飛礫に目ふさげば、
軽き眩暈に身は傾ぎ、
思はずにじむ涙さへ
砂の音して、あぢきなし。
二月の風の憎きかな、
乱るる裾は手に取れど、
髪も袂も鍋鶴の
灰色したる心地して、
砂の煙に羽羽たきぬ。
にはかに人の胸を打つ
高い音じめの弥生かな、
支那の鼓弓の弥生かな。
かぼそい靴を爪立てて
くるりと旋る弥生かな、
露西亜バレエの弥生かな。
薔薇に並んだチユウリツプ、
黄金」と白との弥生かな、
ルイ十四世の弥生かな。
ああ、今やつと目の醒めた
はればれとせぬ、薄い黄の
メランコリツクの太陽よ、
霜、氷、雪、北風の
諒闇の日は過ぎたのに、
永く見詰めて寝通した
暗い一間を脱け出して、
柳並木の河岸通り
塗り替へられた水色の
きやしやな露椅子に腰を掛け、
白い諸手を細杖の
銀の把手に置きながら、
風を怖れて外套の
淡い焦茶の襟を立て、
病あがりの青ざめた
顔を埋めて下を向く
若い男の太陽よ。
しかし早くも、美くしい
うすくれなゐの微笑は
太陽の頬にさつと照り、
掩ひ切れざる喜びの
底ぢからある目差は
金の光をちらと射る。
あたりを見れば、桃さくら、
エリオトロオプ、チユウリツプ、
小町娘を選りぬいた
花の踊りの幾むれが
春の歌をば口口に
細い腕をさしのべて、
ああ太陽よ、新しく
そなたを祝ふ朝が来た。
もとより若い太陽に
春は途中の駅なれば、
いざ此処にして胸を張り
全身の血を香らせて
花と青葉を呼吸せよ、
いざ魂をすこやかに
はた清くして、晶液の
滴る水に身を洗へ。
やがて、そなたの行先は
すべての溝が毒に沸き、
すべての街が悪に燃え、
腐れた匂ひ、𤍠い気息、
雨と洪水、黴と汗、
蠕虫、バクテリヤ、泥と人、
其等の物の入りまじり、
濁り、泡立ち、咽せ返る
夏の都を越えながら、
汚れず、病まず、悲まず、
信と勇気の象形に
細身の剣と百合を取り、
ああ太陽よ、悠揚と
秋の野山に分け入れよ、
其処にそなたの唇は
黄金の果実に飽くであろ。
雑草こそは賢けれ、
野にも街にも人の踏む
路を残して青むなり。
雑草こそは正しけれ、
如何なる窪も平かに
円く埋めて青むなり。
雑草こそは情あれ、
獣のひづめ、鳥の脚、
すべてを載せて青むなり。
雑草こそは尊けれ、
雨の降る日も、晴れし日も、
微笑みながら青むなり。
すくすく伸びた枝毎に
円くふくらむ好い蕾。
若い健気な創造の
力に満ちた桃の花。
この世紀から改まる
女ごころの譬にも
私は引かう、華やかに
この美くしい桃の花。
ひと目見るなり、太陽も、
風も、空気も、人の頬も、
さつと真赤に酔はされる
愛と匂ひの桃の花。
女の明日の𤍠情が
世をば平和にする如く、
今日の世界を三月の
絶頂に置く桃の花。
ああ三月のそよかぜ、
蜜と、香と、日光とに
そのたをやかな身を浸して、
春の舞台に登るそよかぜ。
そなたこそ若き日の初恋の
あまき心を歌ふ序曲なれ。
たよたよとして微触かなれども、
いと長きその喜びは既に溢る。
また、そなたこそ美しきジユリエツトの
ロメオに投げし燃ゆる目なれ。
また、フランチエスカとパウロとの
額寄せて心酔ひつつ読みし書なれ。
ああ三月のそよかぜ、
今、そなたの第一の微笑みに、
人も、花も、胡蝶も、
わなわなと胸踊る、胸踊る。
花の中なる京をんな、
薄花ざくら眺むれば、
女ごころに晴れがまし。
女同士とおもへども、
女同士の気安さの
中に何やら晴れがまし。
春の遊びを愛づる君、
知り給へるや、この花の
分けていみじき一時を。
日は今西に移り行き、
知り給へるや、木がくれて、
青味を帯びしひと時を。
日は今西に移り行き、
静かに霞む春の昼、
花は泣かねど人ぞ泣く。
赤くぼかした八重ざくら、
その蔭ゆけば、ほんのりと、
歌舞伎芝居に見るやうな
江戸の明りが顔にさし、
ひと枝折れば、むすめ気の、
おもはゆながら、絃につれ、
何か一さし舞ひたけれ。
さてまた小雨ふりつづき、
目を泣き脹らす八重ざくら、
その散りがたの艶めけば、
豊國の絵にあるやうな、
繻子の黒味の落ちついた
昔の帯をきゆうと締め、
身もしなやかに眺めばや。
工場の窓で今日聞くは
慣れぬ稼ぎの涙雨、
弥生と云へど、美くしい
柳の枝に降りもせず、
煉瓦の塀や、煙突や、
トタンの屋根に濡れかかり、
煤と煙を溶きながら、
石炭殻に沁んでゆく。
雨はいぢらし、思ひ出す、
こんな雨にも思ひ出す、
母がこと、また姉がこと、
そして門田のれんげ草。
賓客よ、
いざ入りたまへ、
否、しばし待ちたまへ、
その入口の閾に。
知りたまふや、賓客よ、
ここに我心は
幸運の俄かに来れる如く、
いみじくも惑へるなり。
なつかしき人、
今、われに
これを得させたまへり、
一抱へのかずかずの薔薇。
如何にすべきぞ、
この堆き
めでたき薔薇を、
両手に余る薔薇を。
この花束のままに
太き壺にや活けん、
とりどりに
小さき瓶にや分たん。
先づ、何はあれ、
この薄黄なる大輪を
賓客よ、
君が掌に置かん。
花に足る喜びは、
美くしきアントニオを載せて
羅馬を船出せし
クレオパトラも知らじ。
まして、風流の大守、
十二の金印を佩びて、
楊州に下る楽みは
言ふべくも無し。
いざ入りたまへ、
今日こそ我が仮の家も、
賓客よ、君を迎へて、
飽かず飽かず語らまほしけれ。
×
一つの薔薇の瓶は
梅原さんの
寝たる女の絵の前に置かん。
一つの薔薇の瓶は
ロダンの写真と
並べて置かん。
一つの薔薇の瓶は
君と我との
間の卓に置かん。
さてまた二つの薔薇の瓶は
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つの瓶は
何処にか置くべき。
化粧の間にか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとほし。
若き藻風の君の
来たまはん時のために、
客間の卓の
葉巻の箱に添へて置かん。
×
今日、わが家には
どの室にも薔薇あり。
我等は生きぬ、
香味と、色と、
春と、愛と、
光との中に。
なつかしき博士夫人、
その花園の薔薇を、
朝露の中に摘みて、
かくこそ豊かに
贈りたまひつれ。
どの室にも薔薇あり。
同じ都に住みつつ、
我は未だその君を
まのあたり見ざれど、
匂はしき御心の程は知りぬ、
何時も、何時も、
花を摘みて賜へば。
×
われは宵より
暁がたまで
書斎にありき。
物書くに筆躍りて
狂ほしくはずむ心は
𤍠病の人に似たりき。
振返れば、
隅なる書架の上に、
博士夫人の賜へる
焔の色の薔薇ありき。
思はずも、我は
手を伸べて叫びぬ、
「おお、我が待ちし
七つの太陽は其処に」と。
×
今朝、わが家の
どの室の薔薇も、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
恋人の唇、
詩人の唇、
皆、微笑める唇なり、
皆、歌へる唇なり。
×
あはれ、何たる、
若やかに、
好色好色しき
微風ならん。
青磁の瓶の蔭に
宵より忍び居て、
この暁、
大輪の薔薇の
仄かに落ちし
真赤なる
一片の下に、
あへなくも圧されて、
息を香に代へぬ。
×
瓶毎に
わが侍き護る
宝玉の如き
めでたき薔薇、
天つ日の如き
盛りの薔薇、
恋知らぬ天童の如き
清らなる薔薇、
これらの花よ、
人間の身の
われ知りぬ、
及び難しと。
此処に
われに親しきは、
肉身の深き底より
已むに已まれず
燃えあがる𤍠情の
其れにひとしき紅き薔薇、
はた、逸早く
愁を知るや、
青ざめて、
月の光に似たる薔薇、
深き疑惑に沈み入る
烏羽玉の黒き薔薇。
×
薔薇がこぼれる。
ほろりと、秋の真昼、
緑の四角な瓶から
卓の上へ静かにこぼれる。
泡のやうな塊、
月の光のやうな線、
ラフワエルの花神の絵の肉色。
つつましやかな薔薇は
散る日にも悲しみを秘めて、
修道院の壁に凭る
尼達のやうには青ざめず、
清く貴やかな処女の
高い、温かい寂しさと、
みづから抑へかねた妙香の
金色をした雰囲気との中に、
わたしの書斎を浸してゐる。
×
まあ華やかな、
けだかい、燃え輝いた、
咲きの盛りの五月の薔薇。
どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
この疵だらけの卓の上へ、
薔薇よ、そなたは
どんな貴女の飾りにも、
どんな美しい恋人の贈物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去つた、
そして平凡な月並の苦労をしてゐる、
哀れな忙しい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の花季は短い、
そなたを見て、私は
今ひしひしと是れを感じる。
でも、薔薇よ、
私は窓掛を引いて、
そなたを陰影の中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせないためだ、
猶、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。
おお、真赤なる神秘の花、
天啓の花、牡丹。
ひとり地上にありて
かの太陽の心を知れる花、牡丹。
愛の花、𤍠の花、
幻想の花、焔の花、牡丹。
コンテツス・ド・ノワイユを、
ルノワアルを、梅蘭芳を、
梅原龍三郎を連想する花、牡丹。
おお、そなたは、また、
宇宙の不思議に酔へる哲人の
大歓喜を示す記号、牡丹。
また詩人が常に建つる
𤍠情の宝楼の
柱頭を飾る火焔模様、牡丹。
また、青春の秘経の奥に
愛と栄華を保証する
運命の黄金の大印、牡丹。
おお、そなたは、また、
新しき思想が我に差出す
甘き接吻の唇、牡丹。
我は狂ほしき眩暈の中に
そを受けぬ、そを吸ひぬ、
𤍠き、𤍠きヒユウマニズムの唇、牡丹。
おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、
そなたは我が愛、我が心臓、
我が真赤なる心の花、牡丹。
初夏が来た、初夏は
髪をきれいに梳き分けた
十六七の美少年。
さくら色した肉附に、
ようも似合うた詰襟の
みどりの上衣、しろづぼん。
初夏が来た、初夏は
青い焔を沸き立たす
南の海の精であろ。
きやしやな前歯に麦の茎
ちよいと噛み切り吹く笛も
つつみ難ない火の調子。
初夏が来た、初夏は
ほそいづぼんに、赤い靴、
杖を振り振り駆けて来た。
そよろと匂ふ追風に、
枳殻の若芽、けしの花、
青梅の実も身をゆする。
初夏が来た、初夏は
五行ばかりの新しい
恋の小唄をくちずさみ、
女の呼吸のする窓へ、
物を思へど、蒼白い
百合の陰翳をば投げに来た。
おお、暑い夏、今年の夏、
ほんとうに夏らしい夏、
不足の言ひやうのない夏、
太陽のむき出しな
心臓の皷動に調子を合せて、
万物が一斉に
うんと力み返り、
肺一ぱいの息を太くつき
たらたらと汗を流し、
芽と共に花を、
花と共に香りを、
愛と共に歌を、
歌と共に踊りを、
内から投げ出さずにゐられない夏、
金色に光る夏、
真紅に炎上する夏、
火の粉を振撒く夏、
機関銃で掃射する夏、
沸騰する焼酎の夏、
乱舞する獅子頭の夏、
かう云ふ夏のあるために
万物は目を覚し、
天地初生の元気を復活し、
救はれる、救はれる、
沈滞と怠慢とから、
安易と姑息とから、
小さな怨嗟から、
見苦い自己忘却から、
サンチマンタルから、
無用の論議から……
おお、密雲の近づく中の
霹靂の一音、
それが振鈴だ、
見よ、今、
赫灼たる夏の女王の登場。
ああ、五月、
そなたは、美くしい
季節の処女
太陽の花嫁。
そなたの為めに、
野は躑躅を、
水は杜若を、
森は藤を捧げる。
微風も、蜜蜂も、
はた杜鵑も、
唯だそなたを
讃めて歌ふ。
五月よ、そなたの
桃色の微笑は
木蔭の薔薇の
花の上にもある。
五月は好い月、花の月、
芽の月、香の月、色の月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬、藤、蘇枋、
リラ、チユウリツプ、罌粟の月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠に矢を背負ひ、
葵をかざす京人が
馬競べする祭月、
巴里の街の少女等が
花の祭に美くしい
貴な女王を選ぶ月、
わたしのことを云ふならば
シベリアを行き、独逸行き、
君を慕うてはるばると
その巴里まで著いた月、
菖蒲の太刀と幟とで
去年うまれた四男目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚の木が
馬来の島を想はせる
微風の月、青い月、
プラチナ色の雲の月、
蜜蜂の月、蝶の月、
蟻も蛾となり、金糸雀も
卵を抱く生の月、
何やら物に誘られる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
踊の、楽の、歌の月、
わたしを中に万物が
堅く抱きしめ、縺れ合ひ、
呻き、くちづけ、汗をかく
太陽の月、青海の、
森の、公園の、噴水の、
庭の、屋前の、離亭の月、
やれ来た、五月、麦藁で
細い薄手の硝杯から
レモン水をば吸ふやうな
あまい眩暈を投げに来た。
四月の末に街行けば、
気ちがひじみた風が吹く。
砂と、汐気と、泥の香と、
温気を混ぜた南風。
細柄の日傘わが手から
気球のやうに逃げよとし、
髪や、袂や、裾まはり
羽ばたくやうに舞ひ揚る。
人も、車も、牛、馬も
同じ路踏む都とて、
電車、自転車、監獄車、
自動車づれの狼藉さ。
鼻息荒く吼えながら、
人を侮り、脅かし、
浮足立たせ、周章てさせ、
逃げ惑はせて、あはや今、
踏みにじらんと追ひ迫り、
さて、その刹那、冷かに、
からかふやうに、勝つたよに、
見返りもせず去つて行く。
そして神田の四つ辻に、
下駄を切らして俯向いた
わたしの顔を憎らしく
覗いて遊ぶ南風。
おお、海が高まる、高まる。
若い、やさしい五月の胸、
群青色の海が高まる。
金岡の金泥の厚さ、
光悦の線の太さ、
寫樂の神経のきびきびしさ、
其等を一つに融かして
音楽のやうに海が高まる。
さうして、その先に
美しい海の乳首と見える
まんまるい一点の紅い帆。
それを中心に
今、海は一段と緊張し、
高まる、高まる、高まる。
おお、若い命が高まる。
わたしと一所に海が高まる。
今年も五月、チユウリツプ、
見る目まばゆくぱつと咲く、
猩猩緋に咲く、黄金に咲く、
紅と白とをまぜて咲く、
人に構はず派手に咲く。
今日も冷たく降る雨は
白く尽きざる涙にて、
世界を掩ふ梅雨空は
重たき繻子の喪の掛布。
空は空とて悲しきか、
かなしみ多き我胸も
墨と銀との泣き交す
ゆふべの色に変る頃。
庭に繁れる雑草も
見る人によりあはれなり、
心に上る雑念も
一一見れば捨てがたし。
あはれなり、捨てがたし、
捨てがたし、あはれなり。
うすずみ色の梅雨空に、
屋根の上から、ふわふわと
たんぽぽの穂が白く散る。
𤍠と笑ひを失つた
老いた世界の肌皮が
枯れて剥がれて落ちるのか。
たんぽぽの穂の散るままに、
ちらと滑稽けた骸骨が
前に踊つて消えて行く。
何か心の無かるべき。
ほつと気息をばつきながら
思ひあまりて散るならん、
梅雨の晴間の屋根の草。
一むら立てる屋根の草、
何んの草とも知らざりき。
梅雨の晴間に見上ぐれば、
綿より脆く、白髪より
細く、はかなく、折折に
たんぽぽの穂がふわと散る。
ああ、さみだれよ、昨日まで、
そなたを憎いと思つてた。
魔障の雲がはびこつて
地を亡ぼそと降るやうに。
もし、さみだれが世に絶えて
唯だ乾く日のつづきなば、
都も、山も、花園も、
サハラの沙となるであろ。
恋を命とする身には
涙の添ひてうらがなし。
空を恋路にたとへなば、
そのさみだれはため涙。
降れ、しとしとと、しとしとと、
赤をまじへた、温かい
黒の中から、さみだれよ、
網形に引け、銀の糸。
ああ、さみだれよ、そなたのみ、
わが名も骨も朽ちる日に、
埋れた墓を洗ひ出し、
涙の手もて拭ふのは。
隅田川、
隅田川、
いつ見ても
土の色して
かき濁り、
黙して流る。
今は我身に
引きくらべ、
土より出たる
隅田川、
隅田川、
ひとしく悲し。
行く人は
悪を離れず、
行く水は
土を離れず。
隅田川、
隅田川。
あはれ、日の出、
山山は酔へる如く、
みな喜びに身を揺りて、
黄金と朱の笑まひを交し、
海と云ふ海は皆、
虹よりも眩ゆき
黄金と五彩の橋を浮べて、
「日よ、先づ
此処より過ぎたまへ」とさし招き、
さて、日の脚に口づけんとす。
あはれ、日の出、
万象は
一瞬にして、奇蹟の如く
すべて変れり。
大寺の屋根に
鳩のむれは羽羽たき、
裏街に眠りし
運河のどす黒き水にも
銀と珊瑚のゆるき波を揚げて、
早くも動く船あり。
人、いづこにか
静かに怠りて在り得べき。
あはれ、日の出、
神神しき日の出、
われもまた
かの喬木の如く、
光明赫灼のなかに、
高く二つの手を開きて、
新しき日を抱かまし。
虞美人草の散るままに、
淫れた風も肩先を
深く斬られて血を浴びる。
虞美人草の散るままに、
畑は火焔の渠となり、
入日の海へ流れゆく。
虞美人草も、わが恋も、
ああ、散るままに散るままに、
散るままにこそまばゆけれ。
この草原に、誰であろ、
波斯の布の花模様、
真赤な刺繍を置いたのは。
いえ、いえ、これは太陽が
土を浄めて世に降らす
点、点、点、点、不思議の火。
いえ、いえ、これは「水無月」が
真夏の愛を地に送る
𤍠いくちづけ、燃ゆる星眸。
いえ、いえ、これは人同志
恋に焦れた心臓の
象形に咲く罌粟の花。
おお、罌粟の花、罌粟の花、
わたしのやうに一心に
思ひつめたる罌粟の花。
河からさつと風が吹く。
風に吹かれて、さわさわと
大きく靡く原の蘆。
蘆の間を縫ふ路の
何処かで人の話しごゑ、
そして近づく馬の跑。
小高い岡に突き当り
路は左へ一廻り。
私は岡へ駈け上がる。
下を通るは、馬の背に
男のやうな帽を被た
亜米利加婦人の二人づれ。
緑を伸べた地平には、
遠い工場の煙突が
赤い点をば一つ置く。
ああ夏が来た。この昼の
若葉を透す日の色は
ほんに酒ならペパミント、
黄金と緑を振り注ぎ、
広く障子を開けたれば、
子供のやうな微風が
衣桁に掛けた友染の
長い襦袢に戯れる。
ああ夏が来た。こんな日は
君もどんなに恋しかろ、
巴里の広場、街並木、
珈琲店の前庭、Boi の池。
私も筆の手を止めて、
晴れた Seine の濃紫
今その水が目に浮び、
じつと涙に濡れました。
ああ夏が来た、夏が来た。
二人の画家とつれだつて、
君と私が Amian の
塔を観たのも夏である。
二度と行かれる国で無し、
私に帽をさし出した
お寺の前の乞食らに
物を遣らずになぜ来たか。
庭いちめんにこころよく
すくすく繁る雑草よ、
弥生の花に飽いた目は
ほれぼれとして其れに向く。
人の気づかぬ草ながら、
十三塔を高く立て
風の吹くたび舞ふもある。
女らしくも手を伸ばし、
誰れを追ふのか、抱くのか、
上目づかひに泣くもある。
五月のすゑの外光に
汗の香のする全身を
香炉としつつ焚くもある。
名をすら知らぬ草ながら、
葉の形見れば限り無し、
さかづきの形、とんぼ形、
のこぎりの形、楯の形、
ペン尖の形、針の形。
また葉の色も限り無し、
青梅の色、鶸茶色、
緑青の色、空の色、
それに裏葉の海の色。
青玉色に透きとほり、
地にへばりつく或る葉には
緑を帯びた仏蘭西の
牡蠣の薄身を思ひ出し、
なまあたたかい曇天に
細かな砂の灰が降り、
南の風に草原が
のろい廻渦を立てる日は、
六坪ばかりの庭ながら
紅海沖が目に浮ぶ。
洗濯物を入れたまま
大きな盥が庭を流れ、
地が俄かに二三尺も低くなつたやうに
姫向日葵の鬱金の花の尖だけが見え、
ごむ手毬がついと縁の下から出て、
潜水服を著たお伽噺の怪物の顧眄をしながら
腐つた紅いダリアの花に取り縋る。
五六枚しめた雨戸の間間から覗く家族の顔は
どれも栗毛の馬の顔である。
雨はますます白い刄のやうに横に降る。
わたしは颶風にほぐれる裾を片手に抑へて、
泡立つて行く濁流を胸がすく程じつと眺める。
膝ぼしまで水に漬つた郵便配達夫を
人の木が歩いて来たのだと見ると、
濡れた足の儘廊下で跳り狂ふ子供等は
真鯉の子のやうにも思はれた。
ときどき不安と驚奇との気分の中で、
今日の雨のやうに、
物の評価の顛倒るのは面白い。
青いすいつちよよ、
青い蚊帳に来て啼く青いすいつちよよ、
青いすいつちよの心では
恋せぬ昔の私と思ふらん、
寂しい寂しい私と思ふらん。
思へば和泉の国にて聞いたその声も
今聞く声も変り無し、
きさくな、世づかぬ小娘の青いすいつちよよ。
青いすいつちよよ、
青いすいつちよは、なぜ啼きさして黙るぞ。
わたしの外に聞き慣れぬ男の気息に羞らふか、
やつれの見えるわたしの頬、
ほつれたるわたしの髪をじつと見て、
虫の心も咽んだか。
青いすいつちよよ、
何も歎くな、驚くな、
わたしはすべて幸福だ、
いざ、今日此頃を語らはん、
来てとまれ、
わたしの左の白い腕を借すほどに。
おお美くしい勝浦、
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に、
海と街とを抱いてゐる。
此処へ来ると、
人間も、船も、鳥も、
青空に掛る円い雲も、
すべてが平和な子供になる。
太洋で荒れる波も、
この浜の砂の上では、
柔かな鳴海絞りの袂を
軽く拡げて戯れる。
それは山に姿を仮りて
静かに抱く者があるからだ。
おお美くしい勝浦、
此処に私は「愛」を見た。
木の間の泉の夜となる哀しさ、
静けき若葉の身ぶるひ、夜霧の白い息。
木の間の泉の夜となる哀しさ、
微風なげけば、花の香ぬれつつ身悶えぬ。
木の間の泉の夜となる哀しさ、
黄金のさし櫛、月姫うるみて彷徨へり。
木の間の泉の夜となる哀しさ、
笛、笛、笛、笛、我等も哀しき笛を吹く。
草の上に
更に高く、
唯だ一もと、
二尺ばかり伸びて出た草。
かよわい、薄い、
細長い四五片の葉が
朝涼の中に垂れて描く
女らしい曲線。
優しい草よ、
はかなげな草よ、
全身に
青玉の質を持ちながら、
七月の初めに
もう秋を感じてゐる。
青い仄かな悲哀、
おお、草よ、
これがそなたのすべてか。
蛇よ、そなたを見る時、
わたしは二元論者になる。
美と醜と
二つの分裂が
宇宙に並存するのを見る。
蛇よ、そなたを思ふ時、
わたしの愛の一辺が解る。
わたしの愛はまだ絶対のもので無い。
蛮人と、偽善者と、
盗賊と、奸商と、
平俗な詩人とを恕すわたしも、
蛇よ、そなたばかりは
わたしの目の外に置きたい。
木の蔭になつた、青暗い
わたしの書斎のなかへ、
午後になると、
いろんな蜻蛉が止まりに来る。
天井の隅や
額のふちで、
かさこそと
銀の響の羽ざはり……
わたしは俯向いて
物を書きながら、
心のなかで
かう呟く、
其処には恋に疲れた天使達、
此処には恋に疲れた女一人。
夏、真赤な裸をした夏、
おまへは何と云ふ強い力で
わたしを圧へつけるのか。
おまへに抵抗するために、
わたしは今、
冬から春の間に貯めた
命の力を強く強く使はされる。
夏、おまへは現実の中の
𤍠し切つた意志だ。
わたしはおまへに負けない、
わたしはおまへを取入れよう、
おまへに騎つて行かう、
太陽の使、真昼の霊、
涙と影を踏みにじる力者。
夏、おまへに由つてわたしは今、
特別な昂奮が
偉大な情𤍠と怖しい直覚とを以て
わたしの脈管に流れるのを感じる。
なんと云ふ神神しい感興、
おお、𤍠した砂を踏んで行かう。
わたしは生きる、力一ぱい、
汗を拭き拭き、ペンを手にして。
今、宇宙の生気が
わたしに十分感電してゐる。
わたしは法悦に有頂天にならうとする。
雲が一片あの空から覗いてゐる。
雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。
よい夏だ、
夏がわたしと一所に燃え上がる。
海が急に膨れ上がり、
起ち上がり、
前脚を上げた
千匹の大馬になつて
まつしぐらに押寄せる。
一刹那、背を乾してゐた
岩と云ふ岩が
身構へをする隙も無く、
だ、だ、だ、だ、ど、どおん、
海は岩の上に倒れかかる。
磯は忽ち一面、
銀の溶液で掩はれる。
やがて其れが滑り落ちる時、
真珠を飾つた雪白の絹で
さつと撫でられぬ岩も無い。
一つの紫色をした岩の上には、
波の中の月桂樹──
緑の昆布が一つ捧げられる。
飛沫と爆音との彼方に、
海はまた遠退いて行く。
手紙が山田温泉から著いた。
どんなに涼しい朝、
山風に吹かれながら、
紙の端を左の手で
抑へ抑へして書かれたか。
この快闊な手紙、
涙には濡れて来ずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。
涼しい風、そよ風、
折折あまえるやうに
窓から入る風。
風の中の美くしい女怪、
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙を翻へし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の若鮎のやうに、
溌溂と跳ね反らせる風。
九月一日、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房の
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達は誰も、誰も、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の刹那に来る、
明日に、明後日に来る。
私達は油断なく其れに身構へる。
喪から喪へ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
若しも誰かが
大平楽な気分になつて、
もう一年たつた今日、
あのやうなカタストロフは無いと云ふなら、
それこそ迷信家を以て呼ばう。
さう云ふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月一日、地震の記念日。
今年も取出して掛ける、
地震の夏の古い簾。
あの時、皆が逃げ出したあとに
この簾は掛かつてゐた。
誰れがおまへを気にしよう、
置き去りにされ、
家と一所に揺れ、
風下の火事の煙を浴びながら。
もし私の家も焼けてゐたら、
簾よ、おまへが
第一の犠牲となつたであらう。
三日目に家に入つた私が
蘇生の喜びに胸を躍らせ、
さらさらと簾を巻いて、
二階から見上げた空の
大きさ、青さ、みづみづしさ。
簾は古く汚れてゐる、
その糸は切れかけてゐる。
でも、なつかしい簾よ、
共に災厄をのがれた簾よ、
おまへを手づから巻くたびに、
新しい感謝が
四年前の九月のやうに沸く。
おまへも私も生きてゐる。
虫干の日に現れたる
女の帽のかずかず、
欧羅巴の旅にて
わが被たりしもの。
おお、一千九百十二年の
巴里の流行。
リボンと、花と、
羽飾りとは褪せたれど、
思出は古酒の如く甘し。
埃と黴を透して
是等の帽の上に
セエヌの水の匂ひ、
サン・クルウの森の雫、
ハイド・パアクの霧、
ミユンヘンの霜、維納の雨、
アムステルダムの入日の色、
さては、また、
バガテルの薔薇の香、
仏蘭西座の人いきれ、
猶残れるや、残らぬや、
思出は古酒の如く甘し。
アウギユスト・ロダンは
この帽の下にて
我手に口づけ、
ラパン・アジルに集る
新しき詩人と画家の群は
この帽を被たる我を
中央に据ゑて歌ひき。
別れの握手の後、
猶一たびこの帽を擡げて、
優雅なる詩人レニエの姿を
我こそ振返りしか。
ああ、すべて十とせの前、
思出は古酒の如く甘し。
今夜、わたしの心に詩がある。
簗の上で跳ねる
銀の魚のやうに。
桃色の薄雲の中を奔る
まん円い月のやうに。
風と露とに揺れる
細い緑の若竹のやうに。
今夜、私の心に詩がある。
私はじつと其詩を抑へる。
魚はいよいよ跳ねる。
月はいよいよ奔る。
竹はいよいよ揺れる。
苦しい此時、
楽しい此時。
夕立の風
軒の簾を動かし、
部屋の内暗くなりて
片時涼しければ、
我は物を書きさし、
空を見上げて、雨を聴きぬ。
書きさせる紙の上に
何時しか来りし蜂一つ。
よき姿の蜂よ、
腰の細さ糸に似て、
身に塗れる金は
何の花粉よりか成れる。
好し、我が文字の上を
蜂の匍ふに任せん。
わが匂ひなき歌は
素枯れし花に等し、
せめて弥生の名残を求めて
蜂の匍ふに任せん。
おお咲いた、ダリヤの花が咲いた、
明るい朱に、紫に、冴えた黄金に。
破れた障子をすつかりお開け、
思ひがけない幸福が来たやうに。
黒ずんだ緑に、灰がかつた青、
陰気な常盤木ばかりが立て込んで
春と云ふ日を知らなんだ庭へ、
永い冬から一足飛びに夏が来た。
それも遅れて七月に。
まあ、うれしい、
ダリヤよ、
わたしは思はず両手をおまへに差延べる。
この開いて尖つた白い指を
何と見る、ダリヤよ。
しかし、もう、わたしの目には
ダリヤもない、指もない、
唯だ光と、𤍠と、匂ひと、楽欲とに
眩暈して慄へた
わたしの心の花の象があるばかり。
どこかの屋根へ早くから
群れて集り、かあ、かあと
啼いた鴉に目が覚めて、
透して見れば蚊帳ごしに
もう戸の外は白んでる。
細い雨戸を開けたれば、
脹れぼつたいやうな目遣ひの
鴨頭草の花咲きみだれ、
荒れた庭とも云ふばかり
しつとり青い露がおく。
日本の夏の朝らしい
このひと時の涼しさは、
人まで、身まで、骨までも
水晶質となるやうに、
しみじみ清く濡れとほる。
厨へ行つて水道の
栓をねぢれば、たた、たたと
思ひ余つた胸のよに、
バケツへ落ちて盛り上がる
心丈夫な水音も、
わたしの立つた板敷へ
裏口の戸の間から
新聞くばりがばつさりと
投げこんで行く物音も、
薄暗がりにここちよや。
蝉が啼く。
燻るよに、じじと一つ、
わたしの家の桐の木に。
その音につれて、そこ、かしこ、
蝉、蝉、蝉、蝉、
いろんな蝉が啼き出した。
わたしの家の蝉の音が
最初の口火、
いま山の手の番町の
どの庭、どの木、どの屋根も
七月の真赤な吐息の火に焦げる。
枝にも、葉にも、瓦にも、
軒にも、戸にも、簾にも、
流れるやうな朱を注した
光のなかで蝉が啼く。
無駄と知らずに、根気よく、
砂を握んでずらす蝉。
鍋の油を煮たぎらし、
呪ひごとする悪の蝉。
重い苦患に身悶えて、
鉄の鎖をゆする蝉。
悟りめかして、しゆ、しゆ、しゆ、しゆと
水晶の珠数を鳴らす蝉。
思ひ出しては一しきり
泣きじやくりする恋の蝉。
蝉、蝉、蝉、蝉、
𤍠い真夏の日もすがら、
蝉の音は
啼き止んで、また啼き次ぐ。
さて誰が知ろ、
啼かず、叫ばず、ただひとり
蔭にかくれて、微かにも
羽ばたきをする雌の蝉。
朝露のおくままに、天地は
サフイイルと、青玉と
真珠を盛つたギヤマンの室。
朝の日の昇るまま、天地は
黄金と、しろがねと
珊瑚をまぜたモザイクの壁。
その中に歌ふトレモロ──秋の初風。
初秋は来ぬ、白麻の
明るき蚊帳に臥しながら、
夜の更けゆけば水色の
麻の軽きを襟近く
打被くまで涼しかり。
上の我子は二人づれ
大人の如く遠く行き、
夏の休みを陸奥の
山辺の友の家に居て
今朝うれしくも帰りきぬ。
休みのはてに己が子と
別るる鄙の親達は
夏の尽くるや惜しからん、
都に住めるしあはせは
秋の立つにも身に知らる。
貧しけれども、わが家の
今日の夕食の楽しさよ、
黒川郡の山辺にて
我子の採れる百合の根を
我子と共にあぢはへば。
世界はいと静かに
涼しき夜の帳に睡り、
黄金の魚一つ
その差延べし手に光りぬ、
初秋の月。
紫水晶の海は
黒き大地に並び夢みて、
一つの波は彼方より
柔かき節奏に
その上を馳せ来る。
波は次第に高まる、
麦の畝の風に逆ふ如く。
さて長き磯の上に
拡がり、拡がる、
しろがねの網として。
波は幾度もくり返し
奇しき光の魚を抱かんとす。
されど網を知らで、
常に高く彼処に光りぬ、
初秋の月。
誇りかな春に比べて、
優しい、優しい秋。
目に見えない刷毛を
秋は手にして、
日蔭の土、
風に吹かれる雲、
街の並木、
茅の葉、
葛の蔓、
雑草の花にも、
一つ一つ似合はしい
好い色を択んで、
まんべんなく、細細と、
みんなを彩つて行く。
御覧よ、
その畑に並んだ、
小鳥の脚よりも繊弱な
蕎麦の茎にも、
夕焼の空のやうな
美くしい臙脂紫……
これが秋です。
優しい、優しい秋。
少し冷たく、匂はしく、
清く、はかなく、たよたよと、
コスモスの花、高く咲く。
秋の心を知る花か、
うすももいろに高く咲く。
初秋の日の砂の上に
ひろき葉一つ、はかなくも
薄黄を帯びし灰色の
影をば曳きて落ち来る。
あはれ傷つく鳥ならば
血に染みつつも叫ばまし、
秋に堪へざる落葉こそ
反古にひとしき音すなれ。
秋は薄手の杯か、
ちんからりんと杯洗に触れて沈むよな虫が啼く。
秋は妹の日傘か、
きやしやな翡翠の柄の把手、
明るい黄色の日があたる。
さて、また、秋は廿二三の今様づくり、
青みを帯びたお納戸の著丈すらりと、
白茶地に金糸の多い色紙形、唐織の帯も眩く、
園遊会の片隅のいたや楓の蔭を行き、
少し伏目に、まつ白な菊の花壇をじつと見る。
それから後ろのわたしと顔を見合せて、
「まあ、いい所で」と走り寄り、
「どうしてそんなにお痩せだ」と、
十歳の時、別れた姉のやうな口振は、
優しい、優しい秋だこと。
葡萄いろの秋の空を仰げば、
初めて斯かるみづみづしき空を見たる心地す。
われ今日まで何をしてありけん、
厨と書斎に在りしことの寂しきを知らざりしかな。
わが心今更の如く解かれたるを感ず。
葡萄色の秋の空は露にうるほふ、
斯かる日にあはれ田舎へ行かまし。
そこにて掘りたての里芋を煮る吊鍋の湯気を嗅ぎ、
そこにて尻尾ふる百舌の甲高なる叫びを聞き、
そこにて刈稲を積みて帰る牛と馬とを眺め、
そこにて鳥兜と野菊と赤き蓼とを摘まばや。
葡萄いろの秋の空はまた田舎の朝によろし。
砂川の板橋の上に片われ月しろく残り、
「川魚御料理」の家は未だ寝たれど、
百姓屋の軒毎に立つる朝食の煙は
街道の丈高き欅の並木に迷ひ、
籾する石臼の音、近所隣にごろごろとゆるぎ初むれば、
「とつちやん」と小き末娘に呼ばれて、門先の井戸の許に鎌磨ぐ老爺もあり。
かかる時、たとへば渋谷の道玄坂の如く、
突きあたりて曲る、行手の見えざる広き坂を、
今結びし藁鞋の紐の切目すがすがしく、
男も女も脚絆して足早に上りゆく旅姿こそをかしからめ。
葡萄いろの秋の空の、されど又さびしきよ。
われを父母ありし故郷の幼心に返し、
恋知らぬ素直なる処女の如くにし、
中六番町の庭の無花果の木の下、
手を組みて云ひ知らぬ淡き愁に立たしめぬ、
おそらくは此朝の無花果のしづくよ、すべて涙ならん。
けたたましく
私を喚んだ百舌は何処か。
私は筆を擱いて門を出た。
思はず五六町を歩いて、
今丘の上に来た。
見渡す野のはてに
青く晴れた山、
日を薄桃色に受けた山、
白い雲から抜け出して
更に天を望む山。
今朝の空はコバルトに
少し白を交ぜて濡れ、
その下の稲田は
黄金の総で埋まり、
何処にも広がる太陽の笑顔。
そよ風も悦びを堪へかね、
その静かな足取を
急に踊りの振に換へて、
またしても円く大きく
芒の原を滑べる。
縦横の路は
幾すぢの銀を野に引き、
或ものは森の彼方に隠れ、
或ものは近き村の口から
荷馬車と共に出て来る。
ああ野は秋の最中、
胸一ぱいに空気を吸へば、
人を清く健やかにする
黒土の香、草の香、
穀物の香、水の香。
私はじつと
其等の香の中に浸る。
またやがて浸ると云はう、
爽やかに美しい大自然の
悠久の中に。
此の小さい私の感激を
人の言葉に代へて云ふ者は、
私の側に立つて
紅い涙を著けたやうな
ひとむらの犬蓼の花。
十一月の海の上を通る
快い朝方の風がある。
それに乗つて海峡を越える
無数の桃色の帆、金色の帆、
皆、朝日を一ぱいに受けてゐる。
わたしはたつた一人
浜の草原に蹲踞んで、
翡翠色の海峡に
あとから、あとからと浮出して来る
船の帆の花片に眺め入る。
わたしの周囲には、
草が狐色の毛氈を拡げ、
中には、灌木の
銀の綿帽子を著けた杪や
牡丹色の茎が光る。
後ろの方では、
何処の街の工場か、
遠い所で一しきり、
甘えるやうな汽笛の音が
長い金属の線を空に引く。
秋の盛りの美くしや、
蘩蔞の葉さへ小さなる
黄金の印をあまた佩び、
野葡萄さへも瑠璃を掛く。
百舌も鶸も肥えまさり、
里の雀も鳥らしく
晴れたる空に群れて飛び、
蜂も巣毎に子の歌ふ。
小豆色する房垂れて
鶏頭高く咲く庭に、
一しきり射す日の入りも
涙ぐむまで身に沁みぬ。
朝顔の花うらやまし、
秋もやうやく更けゆくに、
真垣を越えて、丈高き
梢にさへも攀ぢゆくよ。
朝顔の花、人ならば
匂ふ盛りの久しきを
世や憎みなん、それゆゑに
思はぬ恥も受けつべし。
朝顔の花、めでたくも
百千の色のさかづきに
夏より秋を注ぎながら、
飽くこと知らで日にぞ酔ふ。
路は一すぢ、並木路、
赤い入日が斜に射し、
点、点、点、点、朱の斑……
桜のもみぢ、柿もみぢ、
点描派の絵が燃える。
路は一すぢ、さんらんと
彩色硝子に照された
廊を踏むよな酔ごこち、
そして心からしみじみと
涙ぐましい気にもなる。
路は一すぢ、ひとり行く
わたしのためにあの空も
心中立に毒を飲み、
臨終のきはにさし伸べる
赤い入日の唇か。
路は一すぢ、この先に
サツフオオの住む家があろ。
其処には雪が降つて居よ。
出て行ことして今一度
泣くサツフオオが目に見える。
路は一すぢ、秋の路、
物の盛りの尽きる路、
おお美くしや、急ぐまい、
点、点、点、点、しばらくは
わたしの髪も朱の斑……
狭い書斎の電灯よ、
紐で縛られ、さかさまに
吊り下げられた電灯よ、
わたしと共に十二時を
越してますます目が冴える
不眠症なる電灯よ。
わたしの夜の太陽よ、
たつた一つの電灯よ、
わたしの暗い心から
吐息と共に込み上げる
思想の水を導いて
机にてらす電灯よ。
そなたの顔も青白い、
わたしの顔も青白い。
地下室に似る沈黙に、
気は張り詰めて居ながらも、
ちらと戦く電灯よ、
わたしも稀に身をゆする。
夜は冷たく更けてゆく。
何とも知らぬ不安さよ、
近づく朝を怖れるか、
才の終りを予知するか、
女ごころと電灯と
じつと寂しく聴き入れば、
死を隠したる片隅の
陰気な蔭のくらがりに、
柱時計の意地わるが
人の仕事と命とに
差引つけて、こつ、こつと
算盤を弾く球の音。
壺には、萎みゆくままに、
取換へない白茶色の薔薇の花。
その横の廉物の仏蘭西皿に
腐りゆく林檎と華櫚の果。
其等の花と果実から
ほのかに、ほのかに立ち昇る
佳き香の音楽、
わたしは是れを聴くことが好きだ。
盛りの花のみを愛でた
青春の日と事変り、
わたしは今、
命の秋の
身も世もあらぬ寂しさに、
深刻の愛と
頽唐の美と
其等に半死の心臓を温ためながら、
常に真珠の涙を待つてゐる。
昨日も今日も曇つてゐる
銀灰色の空、冷たい空、
雲の彼方では
もう霰の用意が出来て居よう。
どの木も涙つぽく、
たより無げに、
黄なる葉を疎らに余して、
小心に静まりかへつてゐる。
みんな敗残の人のやうだ。
小鳥までが臆病に、
過敏になつて、
ちよいとした風にも、あたふたと、
うら枯れた茂みへ潜り込む。
ああ十一月、
季節の喪だ、
冬の墓地の白い門が目に浮ぶ。
公園の噴水よ、
せめてお前でも歌へばいいのに、
狐色の落葉の沈んだ池へ
さかさまに大理石の身を投げて、
お前が第一に感激を無くしてゐる。
十一月の灰色の
くもり玻璃の空のもと、
唸りを立てて、荒らかに、
ばさり、ばさりと鞭を振る
あはれ木枯、汝がままに、
緑青の蝶、紅き羽、
琥珀と銀の貝の殻、
黄なる文反古、錆びし櫛、
とばかり見えて、はらはらと
木の葉は脆く飛びかひぬ。
あはれ、今はた、木の間には
四月五月の花も無し、
若き緑の枝も無し、
香も夢も無し、微風の
囁くあまき声も無し。
かの楽しげに歌ひつる
小鳥のむれは何処ぞや。
鳥は啼けども、刺す如き
百舌と鵯鳥、しからずば
枝を踏み折る山鴉。
諸木は何を思へるや、
銀杏、木蓮、朴、楓、
かの男木も、その女木も
痩せて骨だつ全身を
冬に晒してをののきぬ。
やがて小暗き夜は来ん、
しぐるる雲はここ過ぎて
白き涙を落すべし、
月はさびしく青ざめて
森の廃墟を照さまし。
されど諸木は死なじかし。
また若返る春のため
新しき芽と蕾とを
老いざる枝に秘めながら、
されど諸木は死なじかし。
ほろほろと……また、かさこそと……
おち葉……おち葉……夜もすがら……
庇をすべり……戸に縋り……
土に頽るる音聞けば……
脆き廃物……薄き滓……
錆びし鍋銭……焼けし金箔……
渋色の反古……檀の灰……
さては女のさだ過ぎて
歎く雑歌の断章……
うら悲しくも行毎に
「死」の韻を押す断章……
空は紫
その下に真黒なる
一列の冬の並木……
かなたには青物の畑海の如く、
午前の日、霜に光れり。
われらが前を過ぎ去りし
農夫とその荷車とは
畑中の路の涯に
今、脂色の点となりぬ。
物をな云ひそ、君よ、
味ひたまへ、この刹那、
二人を浸す神妙の
黙の趣……
白がちのコバルトの
うす寒き師走の夜、
書斎の隅なる
セエヴルの鉢より
幾つかのくわりんの果は身動げり。
あはれ百合よりも甘し、
鈴蘭よりも清し、
あはれ白き羽二重の如く軽し、
黄金の針の如く痛し、
熟したるくわりんの果のかをり。
くわりんの果に迫るは
つれなき風、からき夜寒、
あざ笑ふ電灯のひかり、
いづこぞや、かの四月の太陽は、
かの七月の露は。
されど、今、くわりんの果には
苦痛と自負と入りまじり、
空しく腐らじとする
その心の堪へ力は
黄なる蛋白石の肌を汗ばませぬ。
ああ、くわりんの果は
冬と風とにも亡されず、
心と、肉と、晶液と、
内なる尊き物皆を香として
永劫の間にたなびき行く。
雪が止んだ、
太陽が笑顔を見せる。
庭に積つた雪は
硝子越しに
ほんのりと薔薇色をして、
綿のやうに温かい。
小作りな女の、
年よりは若く見える、
髷を小さく結つた、
品の好いお祖母さんは、
古風な糸車の前で
黙つて紡いでゐる。
太陽が部屋へ入つて、
お祖母さんの左の手に
そつと唇を触れる。
お祖母さんは何時の間にか
美くしい薔薇色の雪を
黙つて紡いでゐる。
ああ憎き冬よ、
わが家のために、冬は
恐怖なり、咀ひなり、
闖入者なり、
虐殺なり、喪なり。
街街の柳の葉を揺り落して、
錆びたる銅線の如く枝のみを慄はしめ、
園の菊を枝炭の如く灰白ませ、
家畜の蹄を霜の上にのめらしめて、
ああ猶飽くことを知らざるや、冬よ。
冬は更に人間を襲ひて、
先づわが家に来りぬ。
冬は風となりて戸を穿ち、
縁よりせり出し、
霜となりて畳に潜めり。
冬はインフルエンザとなり、
喘息となり、
気管支炎となり、
肺炎となりて、
親と子と八人を責め苛む。
わが家は飢ゑと死に隣し、
寒さと、𤍠と、咳と、
𤍠の香と、汗と、吸入の蒸気と、
呻吟と、叫びと、悶絶と、
啖と、薬と、涙とに満てり。
かくて十日……猶癒えず
ああ我心は狂はんとす、
短劔を執りて、
ただ一撃に刺さばや、
憎き、憎き冬よ、その背を。
冬枯の裾野に
ひともと
しら樺の木は光る。
その葉は落ち尽して、
白き生身を
女性の如く
師走の風に曝し、
何を祈るや、独り
双手を空に張る。
日は今、遥かに低き
うす紫の
遠山に沈み去り、
その余光の中に、
しら樺の木は
悲しき殉教者の血を、
その胸より、
たらたらと
落葉の上に流す。
夜が明けた。
風も、大気も、
鉛色の空も、
野も、水も
みな気息を殺してゐる。
唯だ見るのは
地上一尺の大雪……
それが畝畝の直線を
すつかり隠して、
いろんな三角の形を
大川に沿うた
歪形な畑に盛り上げ、
光を受けた部分は
板硝子のやうに反射し、
蔭になつた所は
粗悪な洋紙を撒きちらしたやうに
鈍く艶を消してゐる。
そして所所に
幾つかの
不格好な胴像が
どれも痛痛しく
手を失ひ、
脚を断たれて、
真白な胸に
黒い血をにじませながら立つてゐる。
それは枝を払はれたまま、
じつと、いきんで、
死なずに春を待つてゐる
太い櫟の幹である。
たとへば私達のやうな者である。
鴉、鴉、
雪の上の鴉、
近い処に一羽、
少し離れて十四五羽。
鴉、鴉、
雪の上の鴉、
半紙の上に黒く
大人が書いた字のやうだ。
鴉、鴉、
雪の上の鴉、
「かあ」と一羽が啼けば
寂しく「かあ」と皆が啼く。
鴉、鴉、
雪の上の鴉、
餌が無いのでじいつと
動きもせねば飛びもせぬ。
西土往来
(欧洲旅行前及び旅中の詩廿九章)
退船の銅鑼いま鳴り渡り、
見送の人人君を囲めり。
君は忙しげに人人と手を握る。
われは泣かんとはづむ心の毬を辛くも抑へ、
人人の中を脱けて小走りに、
うしろの甲板に隠るれば、
波より射返す白きひかり墓の如し。
この二三分………四五分の寂しさ、
われ一人のけ者の如し、
君と人人とのみ笑ひさざめく。
恐らく遠く行く旅の身は君ならで、
この寂しき、寂しき我ならん。
退船の銅鑼又ひびく。
残刻に、されどまた痛快に、
わが一人とり残されし冷たき心を苛むその銅鑼……
込み合へる人人に促され、押され、慰められ、
我は力なき毬の如く、ふらふらと船を下る。
乗り移りし小蒸汽より見上ぐれば、
今更に𤍠田丸の船梯子の高さよ。
ああ君と我とは早くも千里万里の差………
わが小蒸汽は堪へかねし如く終に啜り泣くに………
一声、二声………
千百の悲鳴をほつと吐息に換へ、
「ああなつかしや」と心細きわが魂の、
臨終の念の如くに打洩す𤍠き涙の白金の幾滴………
君が船は無言のままに港を出づ。
船と船、人人は叫びかはせど、
かなたに立てる君と此処に坐れる我とは、
静かに、静かに、二つの石像の如く別れゆく……
わが夫の君海に浮びて去りしより、
わが見る夜毎の夢、また、すべて海に浮ぶ。
或夜は黒きわたつみの上、
片手に乱るる裾をおさへて、素足のまま、
君が大船の舳先に立ち、
白き蝋燭の銀の光を高くさしかざせば、
滴る蝋のしづく涙と共に散りて、
黄なる睡蓮の花となり、又しろき鱗の魚となりぬ。
かかる夢見しは覚めたる後も清清し。
されど、又、かなしきは或夜の夢なりき。
君が大船の窓の火ややに消えゆき、
唯だ一つ残れる最後の薄き光に、
われ外より硝子ごしにさし覗けば、
われならぬ面やつれせしわが影既に内にありて、
あはれ君が棺の前にさめざめと泣き伏すなり。
「われをも内に入れ給へ」と叫べど、
外は波風の音おどろしく、
内はうらうへに鉛の如く静かに重く冷たし。
泣けるわが影は
氷の如く、霞の如く、透きとほる影の身なれば、
わが声を聴かぬにやあらん。
われは胸も裂くるばかり苛立ち、
扉の方より馳せ入らんと、
三たび五たび甲板の上を繞れど、
皆堅く鎖して入るべき口も無し。
もとの硝子窓に寄りて足ずりする時、
第三のわが影、艫の方の渦巻く浪にまじり、
青白く長き手に抜手きつて泳ぎつつ、
「は、は、は、は、そは皆物好きなるわが夫の君のわれを試めす戯れぞ」と笑ひき。
覚めて後、我はその第三の我を憎みて、
日ひと日腹だちぬ。
良人の留守の一人寝に、
わたしは何を著て寝よう。
日本の女のすべて著る
じみな寝間著はみすぼらし、
非人の姿「死」の下絵、
わが子の前もけすさまじ。
わたしは矢張ちりめんの
夜明の色の茜染、
長襦袢をば選びましよ。
重い狭霧がしつとりと
花に降るよな肌ざはり、
女に生れたしあはせも
これを著るたび思はれる。
斜に裾曳く長襦袢、
つい解けかかる襟もとを
軽く合せるその時は、
何のあてなくあこがれて
若さに逸るたましひを
じつと抑へる心もち。
それに、わたしの好きなのは、
白蝋の灯にてらされた
夢見ごころの長襦袢、
この匂はしい明りゆゑ、
君なき閨もみじろげば
息づむまでに艶かし。
児等が寝すがた、今一度、
見まはしながら灯をば消し、
寒い二月の床のうへ、
こぼれる脛を裾に巻き、
つつましやかに足曲げて、
夜著を被けば、可笑しくも
君を見初めたその頃の
娘ごころに帰りゆく。
旅の良人も、今ごろは
巴里の宿のまどろみに、
極楽鳥の姿する
わたしを夢に見てゐるか。
わたしはあまりに気が滅入る。
なんの自分を案じましよ、
君を恋しと思ひ過ぎ、
引き立ち過ぎて気が滅入る。
「初恋の日は帰らず」と、
わたしの恋の琴の緒に
その弾き歌は用が無い。
昔にまさる燃える気息。
昔にまさるため涙。
人目をつつむ苦しさに、
鳴りを沈めた琴の絃、
じつと哀しく張り詰める。
巴里の大路を行く君は
わたしの外に在るとても、
わたしは君の外に無い、
君の外には世さへ無い。
君よ、わたしの遣瀬なさ、
三月待つ間に身が細り、
四月の今日は狂ひ死に
するかとばかり気が滅入る。
人並ならぬ恋すれば、
人並ならぬ物おもひ。
其れもわたしの幸福と
思ひ返せど気が滅入る。
昨日の恋は朝の恋、
またのどかなる昼の恋。
今日する恋は狂ほしい
真赤な入日の一さかり。
とは思へども気が滅入る。
若しもそのまま旅に居て
君帰らずばなんとせう。
わたしは矢張気が滅入る。
久しき留守に倚りかかる
君が手なれの竹の椅子。
とる針よりも、糸よりも、
女ごころのかぼそさよ。
膝になびいた一ひらの
江戸紫に置く繍は、
ひまなく恋に燃える血の
真赤な胸の罌粟の花。
花に添ひたる海の色、
ふかみどりなる罌粟の葉は、
君が越えたる浪形に
流れて落ちるわが涙。
さは云へ、女のたのしみは、
わが繍ふ罌粟の「夢」にさへ
花をば揺する風に似て、
君が気息こそ通ふなれ。
いざ、天の日は我がために
金の車をきしらせよ。
颶風の羽は東より
いざ、こころよく我を追へ。
黄泉の底まで、泣きながら、
頼む男を尋ねたる
その昔にもえや劣る。
女の恋のせつなさよ。
晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
天がけりゆく、西へ行く、
巴里の君へ逢ひに行く。
あはれならずや、その雛を
荒巌の上の巣に遺し、
恋しき兄鷹を尋ねんと、
颶風の空に下りながら、
雛の啼く音にためらへる
若き女鷹の若しあらば。──
それは窶れて遠く行く
今日の門出の我が心。
いとしき児らよ、ゆるせかし、
しばし待てかし、若き日を
猶夢を見るこの母は
汝が父をこそ頼むなれ。
巴里に著いた三日目に
大きい真赤な芍薬を
帽の飾りに附けました。
こんな事して身の末が
どうなるやらと言ひながら。
土から俄かに
孵化して出た蛾のやうに、
わたしは突然、
地下電車から地上へ匐ひ上がる。
大きな凱旋門がまんなかに立つてゐる。
それを繞つて
マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、
そして人間と、自動車と、乗合馬車と、
乗合自動車との点と塊が
命ある物の
整然とした混乱と
自主独立の進行とを、
断間無しに
八方の街から繰出し、
此処を縦横に縫つて、
断間無しに
八方の街へ繰込んでゐる。
おお、此処は偉大なエトワアルの広場……
わたしは思はずじつと立ち竦む。
わたしは思つた、──
これで自分は此処へ二度来る。
この前来た時は
いろんな車に轢き殺され相で、
怖くて、
広場を横断する勇気が無かつた。
そして輻になつた路を一つ一つ越えて、
モンソオ公園へ行く路の
アヴニウ・ウツスの入口を見附ける為めに、
広場の円の端を
長い間ぐるぐると歩るいてゐた。
どうした気持のせいでか、
アヴニウ・ウツスの入口を見附け損つたので、
凱旋門を中心に
二度も三度も広場の円の端を
馬鹿らしく歩るき廻つてゐるのであつた。
けれど今日は用意がある。
わたしは地図を研究して来てゐる。
今日わたしの行くのは
バルザツク街の裁縫師の家だ。
バルザツク街へ出るには、
この広場を前へ
真直に横断すればいいのである。
わたしは斯う思つたが、併し、
真直に広場を横断するには
縦横に絶間無く馳せちがふ
速度の速い、いろんな車が怖くてならぬ。
広場へ出るが最期
二三歩で
轢き倒されて傷をするか、
轢き殺されてしまふかするであらう……
この時、わたしに、突然、
何とも言ひやうのない
叡智と威力とが内から湧いて、
わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。
そして日傘と嚢とを提げたわたしは
決然として、馬車、自動車、
乗合馬車、乗合自動車の渦の中を真直に横ぎり、
あわてず、走らず、
逡巡せずに進んだ。
それは仏蘭西の男女の歩るくが如くに歩るいたのであつた。
そして、わたしは、
わたしが斯うして悠悠と歩るけば、
速度の疾いいろんな怖ろしい車が
却つて、わたしの左右に
わたしを愛して停まるものであることを知つた。
わたしは新しい喜悦に胸を跳らせながら、
斜めにバルザツク街へ入つて行つた。
そして裁縫師の家では
午後二時の約束通り、
わたしの繻子のロオヴの仮縫を終つて
若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。
ルウヴル宮の正面も、
中庭にある桃色の
凱旋門もやはらかに
紫がかつて暮れてゆく。
花壇の花もほのぼのと
赤と白とが薄くなり、
並んで通る恋人も
ひと組ひと組暮れてゆく。
君とわたしも石段に
腰掛けながら暮れてゆく。
ヹルサイユの宮の
大理石の階を降り、
後庭の六月の
花と、香と、光の間を過ぎて
われ等三人の日本人は
広大なる森の中に入りぬ。
二百年を経たる橅の大樹は
明るき緑の天幕を空に張り、
その下に紫の苔生ひて、
物古りし石の卓一つ
匐ふ蔦の黄緑の若葉と
薄赤き蔓とに埋まれり。
二人の男は石の卓に肘つきて
苔の上に横たはり、
われは上衣を脱ぎて
橅の根がたに蹲踞りぬ。
快き静けさよ、かなたの梢に小鳥の高音……
近き涼風の中に立麝香草の香り……
わが心は宮の中に見たる
ルイ王とナポレオン皇帝との
華麗と豪奢とに酔ひつつあり。
后達の寝室の清清しき白と金色……
モリエエルの演じたる
宮廷劇場の静かな猩猩緋……
されど、楽しきわが夢は覚めぬ。
目まぐるしき過去の世紀は
かの王后の栄華と共に亡びぬ。
わが目に映るは今
脆き人間の外に立てる
橅の大樹と石の卓とばかり。
ああ、われは寂し、
わが追ひつつありしは
人間の短命の生なりき。
いでや、森よ、
われは千年の森の心を得て、
悠悠と人間の街に帰るよしもがな。
さあ、あなた、磯へ出ませう、
夜通し涙に濡れた
気高い、清い目を
世界が今開けました。
おお、夏の暁、
この暁の大地の美しいこと、
天使の見る夢よりも、
聖母の肌よりも。
海峡には、ほのぼのと
白い透綾の霧が降つて居ます。
そして其処の、近い、
黒い暗礁の
疎らに出た岩の上に
鷺が五六羽、
首を羽の下に入れて、
脚を浅い水に浸けて、
じつとまだ眠つてゐます。
彼等を驚かさないやうに、
水際の砂の上を、そつと、
素足で歩るいて行きませう。
まあ、神神しいほど、
涼しい風だこと……
世界の初めにエデンの園で
若いイヴの髪を吹いたのも此風でせう。
ここにも常に若い
みづみづしい愛の世界があるのに、
なぜ、わたし達は自由に
裸のままで吹かれて行かないのでせう。
けれど、また、風に吹かれて、
帆のやうに袂の揚がる快さには
日本の著物の幸福が思はれます。
御覧なさい、
わたし達の歩みに合せて、
もう海が踊り始めました。
緑玉の女衣に
水晶と黄金の笹縁……
浮き上がりつつ、沈みつつ、
沈みつつ、浮き上がりつつ……
そして、その拡がつた長い裾が
わたし達の素足と縺れ合ひ、
そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと
間を置いて海の鐃鈸が鳴らされます。
あら、鷺が皆立つて行きます、
俄かに紅鷺のやうに赤く染まつて……
日が昇るのですね、
霧の中から。
秋の歌はそよろと響く
白楊と毛欅の森の奥に。
かの歌を聞きつつ、我等は
しづかに語らめ、しづかに。
褪めたる朱か、
剥がれたる黄金か、
風無くて木の葉は散りぬ、
な払ひそ、よしや、衣にとまるとも。
それもまた木の葉の如く、
かろやかに一つ白き蝶
舞ひて降れば、尖りたる
赤むらさきの草ぞゆするる。
眠れ、眠れ、疲れたる
春夏の踊子よ、蝶よ。
かぼそき路を行きつつ、猶我等は
しづかに語らめ、しづかに。
おお、此処に、岩に隠れて
ころころと鳴る泉あり、
水の歌ふは我等が為めならん、
君よ、今は語りたまふな。
たそがれの路、
森の中に一すぢ、
呪はれた路、薄白き路、
靄の奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆく路。
うち沈みて静かな路。
ひともと何んの木であらう、
その枯れた裸の腕を挙げ、
小暗きかなしみの中に、
心疲れた路を見送る。
たそがれの路の別れに、樺の木と
榛の森は気が狂れたらし、
あれ、谺響が返す幽かな吐息……
幽かな冷たい、調子はづれの高笑ひ……
また幽かな啜り泣き……
蛋白石色の珠数珠の実の
頸飾を草の上に留め、
薄墨色の音せぬ古池を繞りて、
靄の奥へ影となりて遠ざかる、
あはれ、たそがれの森の路……
水に渇えた白緑の
ひろい麦生を、すと斜に
翔る燕のあわてもの、
何の使に急ぐのか、
よろこびあまる身のこなし。
続いて、さつと、またさつと、
生あたたかい南風
ロアルを越して吹く度に、
白楊の樹がさわさわと
待つてゐたよに身を揺る。
河底にゐた家鴨らは
岸へ上つて、アカシヤの
蔭にがやがや啼きわめき、
燕は遠く去つたのか、
もう麦畑に影も無い。
それは皆皆よい知らせ、
暫くの間に風は止み、
雨が降る、降る、ほそぼそと
金の糸やら絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
嬉しや、これが仏蘭西の
雨にわたしの濡れ初め。
軽い婦人服に、きやしやな靴、
ツウルの野辺の雛罌粟の
赤い小路を君と行き。
濡れよとままよ、濡れたらば、
わたしの帽のチウリツプ
いつそ色をば増しませう、
増さずば捨てて、代りには
野にある花を摘んで挿そ。
そして昔のカテドラル
あの下蔭で休みましよ。
雨が降る、降る、ほそぼそと
金の糸やら、絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
ほんにセエヌ川よ、いつ見ても
灰がかりたる浅みどり……
陰影に隠れたうすものか、
泣いた夜明の黒髪か。
いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。
橋から覗くわたしこそ
旅にやつれたわたしこそ……
あれ、じつと、紅玉の涙のにじむこと……
船にも岸にも灯がともる。
セエヌ川よ、
やつばりそなたも泣いてゐる、
女ごころのセエヌ川……
大輪に咲く仏蘭西の
芍薬こそは真赤なれ。
枕にひと夜置きたれば
わが乱れ髪夢にして
みづからを焼く火となりぬ。
真赤な土が照り返す
だらだら坂の二側に、
アカシヤの樹のつづく路。
あれ、あの森の右の方、
飴色をした屋根と屋根、
あの間から群青を
ちらと抹つたセエヌ川……
涼しい風が吹いて来る、
マロニエの香と水の香と。
これが日本の畑なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟と、
黄金に交ぜたる朱の赤さ。
誰が挽き捨てた荷車か、
眠い目をして、路ばたに
じつと立ちたる馬の影。
「 MAITRE RODIN の別荘は。」
問ふ二人より、側に立つ
KIMONO 姿のわたしをば
不思議と見入る田舎人。
「メエトル・ロダンの別荘は
ただ真直に行きなさい、
木の間から、その庭の
風見車が見えませう。」
巴里から来た三人の
胸は俄かにときめいた。
アカシヤの樹のつづく路。
空をかき裂く羽の音……
今日も飛行機が漕いで来る。
巴里の上を一すぢに、
モンマルトルへ漕いで来る。
ちよいと望遠鏡をわたしにも……
一人は女です……笑つてる……
アカシアの枝が邪魔になる……
何処へ行くのか知らねども、
毎日飛べば大空の
青い眺めも寂しかろ。
かき消えて行く飛行機の
夏の日中の羽の音……
あれ、あれ、通る、飛行機が、
今日も巴里をすぢかひに、
風切る音をふるはせて、
身軽なこなし、高高と
羽をひろげたよい形。
オペラ眼鏡を目にあてて、
空を踏まへた胆太の
若い乗手を見上ぐれば、
少し捻つた機体から
きらと反射の金が散る。
若い乗手のいさましさ、
後ろを見捨て、死を忘れ。
片時やまぬ新らしい
力となつて飛んで行く、
前へ、未来へ、ましぐらに。
暗殺酒鋪
(巴里モンマルトルにて)
閾を内へ跨ぐとき、
墓窟の口を踏むやうな
暗い怖えが身に迫る。
煙草のけぶり、人いきれ、
酒類の匂ひ、灯の明り、
黒と桃色、黄と青と……
あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を著た
わたしを迎へて爆ぜ裂ける。
鬼のむれかと想はれる
人の塊、そこ、かしこ。
もやもや曇る狭い室。
×
淡い眩暈のするままに
君が腕を軽く取り、
物珍らしくさし覗く
知らぬ人等に会釈して、
扇で半ば頬を隠し、
わたしは其処に掛けてゐた。
ボウドレエルに似た像が
荒い苦悶を食ひしばり、
手を後ろ手に縛られて
煤びた壁に吊された、
その足もとの横長い
粗木づくりの腰掛に。
「この酒鋪の名物は、
四百年へた古家の
きたないことと、剽軽な
また正直なあの老爺、
それにお客は漫画家と
若い詩人に限ること。」
こんな話を友はする。
×
濶い股衣の大股に
老爺は寄つて、三人の
日本の客の手を取つた。
伸びるがままに乱れたる
髪も頬髭も灰白み、
赤い上被、青い服、
それも汚れて裂けたまま。
太い目元に皺の寄る
屈托のない笑顔して、
盛高の頬と鼻先の
林檎色した美くしさ。
老爺の手から、前の卓、
わたしの小さい杯に
注がれた酒はムウドンの
丘の上から初秋の
セエヌの水を見るやうな
濃い紫を湛へてる。
×
「聴け、我が子等」と客達を
叱るやうなる叫びごゑ。
老爺はやをら中央の
麦稈椅子に掛けながら、
マンドリンをば膝にして、
「皆さん、今夜は珍しい
日本の詩人をもてなして、
ヹルレエヌをば歌ひましよ。」
老爺の声の止まぬ間に
拍手の音が降りかかる。
赤い毛をした、痩形の、
モデル女も泳ぐよに
一人の画家の膝を下り、
口笛を吹く、手を挙げる。
驟雨は過ぎ行く、
巴里を越えて、
ブロオニユの森のあたりへ。
今、かなたに、
樺色と灰色の空の
板硝子を裂く雷の音、
青玉の電の瀑。
猶見ゆ、遠山の尖の如く聳だつ
薄墨のオペラの屋根の上、
霧の奥に、
猩猩緋と黄金の
光の女服を脱ぎ放ち、
裸となりて雨を浴ぶる
夏の女皇の
仄白き八月の太陽。
猶、濡れわたる街の並木の
アカシヤとブラタアヌは
汗と塵埃と𤍠を洗はれて、
その喜びに手を振り、
頭を返し踊るもあり。
カツフエのテラスに花咲く
万寿菊と薔薇は
斜に吹く涼風の拍子に乗りて
そぞろがはしく
ワルツを舞はんとするもあり。
猶、そのいみじき
灌奠の余沫は
枝より、屋根より、
はらはらと降らせぬ、
水晶の粒を、
銀の粒を、真珠の粒を。
驟雨は過ぎ行く、
爽やかに、こころよく。
それを見送るは
祭の列の如く楽し。
わがある七階の家も、
わが住む三階の窓より見ゆる
近き四方の家家も、
窓毎に光を受けし人の顔、
顔毎に朱の笑まひ……
テアトル・フランセエズの二階目の、
紅い天鵞絨を張りつめた
看棚の中に唯だ二人
君と並べば、いそいそと
跳る心のおもしろや。
もう幕開の鈴が鳴る。
第一列のバルコンに、
肌の透き照る薄ごろも、
白い孔雀を見るやうに
銀を散らした裳を曳いて、
駝鳥の羽のしろ扇、
胸に一りん白い薔薇、
しろいづくめの三人は
マネが描くよな美人づれ、
望遠鏡の銃が四方から
みな其処へ向くめでたさよ。
また三階の右側に、
うす桃色のコルサアジユ、
金の繍ある裳を著けた
華美な姿の小女が
ほそい首筋、きやしやな腕、
指環の星の光る手で
少し伏目に物を読み、
折折あとを振返る
人待顔の美くしさ。
あら厭、前のバルコンへ、
厚いくちびる、白い目の
アラビヤらしい黒奴が
襟も腕も指さきも
きらきら光る、おなじよな
黒い女を伴れて来た。
どしん、どしんと三度程
舞台を叩く音がして、
しづかに揚る黄金の幕。
よごれた上衣、古づぼん、
血に染むやうな赤ちよつき、
コツペが書いた詩の中の
人を殺した老鍛冶が
法官達の居ならんだ
前に引かれる痛ましさ、
足の運びもよろよろと……
おお、ムネ・シユリイ、見るからに
老優の芸の偉大さよ。
九月の初め、ミユンヘンは
早くも秋の更けゆくか、
モツアルト街、日は射せど
ホテルの朝のつめたさよ。
青き出窓の欄干に
匍ひかぶされる蔦の葉は
朱と紅と黄金を染め
照れども朝のつめたさよ。
鏡の前に立ちながら
諸手に締むるコルセツト、
ちひさき銀のボタンにも
しみじみ朝のつめたさよ。
ああ重苦しく、赤黒く、
高く、濶く、奥深い穹窿の、
神秘な人工の威圧と、
沸沸と迸る銀白の蒸気と、
爆ぜる火と、哮える鉄と、
人間の動悸、汗の香、
および靴音とに、
絶えず窒息り、
絶えず戦慄する
伯林の厳かなる大停車場。
ああ此処なんだ、世界の人類が
静止の代りに活動を、
善の代りに力を、
弛緩の代りに緊張を、
平和の代りに苦闘を、
涙の代りに生血を、
信仰の代りに実行を、
自ら探し求めて出入りする、
現代の偉大な、新しい
生命を主とする本寺は。
此処に大きなプラツトフオオムが
地中海の沿岸のやうに横たはり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の隅隅までを繋ぎ合せ、
それに断えず手繰り寄せられて、
汽車は此処へ三分間毎に東西南北より著し、
また三分間毎に東西南北へ此処を出て行く。
此処に世界のあらゆる目覚めた人人は、
髪の黒いのも、赤いのも、
目の碧いのも、黄いろいのも。
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
固より発車を報せる鈴も無ければ、
みんな自分で検べて大切な自分の「時」を知つてゐる。
どんな危険も、どんな冒険も此処にある。
どんな鋭音も、どんな騒音も此処にある、
どんな期待も、どんな昂奮も、どんな痙攣も、
どんな接吻も、どんな告別も此処にある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草、香料、
麻、絹布、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も此処にある。
此処では何もかも全身の気息のつまるやうな、
全身の筋のはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、忙しい、白𤍠の肉感の歓びに満ちてゐる。
どうして少しの隙や猶予があらう、
あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、
乗り遅れたからと云つて誰が気の毒がらう。
此処では皆の人が唯だ自分の行先ばかりを考へる。
此処へ出入りする人人は
男も女も皆選ばれて来た優者の風があり、
額がしつとりと汗ばんで、
光を睨み返すやうな目附をして、
口は歌ふ前のやうにきゆつと緊り、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩るいてゐるやうである。
みんなの神経は苛苛としてゐるけれど、
みんなの意志は悠揚として、
鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。
みんながどの刹那をも空しくせずに
ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。
あれ、巨象のやうな大機関車を先きにして、
どの汽車よりも大きな地響を立てて、
ウラジホストツクからブリユツセルまでを、
十二日間で突破する、
ノオル・デキスプレスの最大急行列車が入つて来た。
怖ろしい威厳を持つた機関車は
今、世界の凡ての機関車を圧倒するやうにして駐つた。
ああ、わたしも是れに乗つて来たんだ、
ああ、またわたしも是れに乗つて行くんだ。
秋の日が──
旅人の身につまされやすい
秋の日が夕となり、
薄むらさきに煙つた街の
高い家と家との間に、
今、太陽が
万年青の果のやうに真紅に
しつとりと濡れて落ちて行く。
反対な側の屋根の上には、
港の船の帆ばしらが
どれも色硝子の棒を立て並べ、
そのなかに港の波が
幻惑の彩色を打混ぜて
ぎらぎらとモネの絵のやうに光る。
よく見ると、その波の半は
無数の帆ばしらの尖から翻へる
細長い藍色の旗である。
あなた、窓へ来て御覧なさい、
手紙を書くのは後にしませう、
まあ、この和蘭陀の海の
美くしい入日。
わたし達は、まだ幸ひに若くて、
かうして、アムステルダムのホテルの
五階の窓に顔を並べて、
この佳い入日を眺めてゐるのですね。
と云つて、
明日わたし達が此処を立つてしまつたら、
復と此の港が見られませうか。
あれ、直ぐ窓の下の通りに、
猩猩緋の上衣を黒の上に著た
一隊の男の児の行列、
何と云ふ可愛いい
小学の制服なんでせう。
ああ、東京の子供達は
どうしてゐるでせう。
黒く大いなる起重機
我が五階の前に立ち塞がり、
その下に数町離れて
沖に掛かれる汽船の灯
黄菊の花を並ぶ。
税関の彼方、
桟橋に寄る浪のたぶたぶと
折折に鳴りて白し。
いづこの酒場の窓よりぞ、
ギタルに合はする船人の唄
秋の夜風に混り、
波止場に沿ふ散歩道は
落葉したる木立の幹に
海の反射淡く残りぬ。
うら寒し、はるばる来つる
アムステルダムの一夜。
知らざりしかな、昨日まで、
わが悲みをわが物と。
あまりに君にかかはりて。
君の笑む日をまのあたり
巴里の街に見る我れの
あはれ何とて寂しきか。
君が心は躍れども、
わが𤍠かりし火は濡れて、
自らを泣く時のきぬ。
わが聞く楽はしほたれぬ、
わが見る薔薇はうす白し、
わが執る酒は酢に似たり。
ああ、わが心已む間なく、
東の空にとどめこし
我子の上に帰りゆく。
君は何かを読みながら、
マロニエの樹の染み出した
斜な径を、花の香の
濡れて呼吸つく方へ去り、
わたしは毛欅の大木の
しだれた枝に日を避けて、
五色の糸を巻いたよな
円い花壇を左にし、
少しはなれた紫の
木立と、青い水のよに
ひろがる芝を前にして、
絵具の箱を開けた時、
おお、雀、雀、
一つ寄り、
二つ寄り、
はら、はら、はらと、
十、二十、数知れず、
きやしやな黄色の椅子の前、
わたしへ向いて寄る雀。
それ、お食べ、
それ、お食べ、
今日もわたしは用意して、
麺麭とお米を持つて来た。
それ、お食べ、
雀、雀、雀たち、
聖母の前の鳩のよに、
素直なかはいい雀たち。
わたしは国に居た時に、
朝起きても筆、
夜が更けても筆、
祭も、日曜も、春秋も、
休む間無しに筆とつて、
小鳥に餌をば遣るやうな
気安い時を持たなんだ。
おお、美くしく円い背と
小い頭とくちばしが
わたしへ向いて並ぶこと。
見れば何れも子のやうな、
わたしの忘れぬ子のやうな……
わたしは小声で呼びませう、
それ光さん、
かはいい七ちやん、
秀さん、麟坊さん、八峰さん……
あれ、まあ挙げた手に怖れ、
逃げる一つのあの雀、
お前は里に居た為めに
親になじまぬ佐保ちやんか。
わたしは何か云つてゐた、
気が狂ふので無いか知ら……
どうして気安いことがあろ、
ああ、気に掛る、気に掛る、
子供の事が又しても……
せはしい日本の日送りも
心ならずに執る筆も、
身の衰へも、わが髪の
早く落ちるも皆子ゆゑ。
子供を忘れ、身を忘れ、
こんな旅寝を、はるばると
思ひ立つたは何ゆゑか。
子をば育む大切な
母のわたしの時間から、
雀に餌をばやる暇を
偸みに来たは何ゆゑか。
うつかりと君が言葉に絆されて………
いいえ、いいえ、
みんなわたしの心から………
あれ、雀が飛んでしまつた。
それはあなたのせゐでした。
みんな、みんな、雀が飛んでしまひました。
あなた、わたしは何うしても
先に日本へ帰ります。
もう、もう絵なんか描きません。
雀、雀、
モンソオ公園の雀、
そなたに餌をも遣りません。
冷たい夕飯
(雑詩卅四章)
我手の花は人染めず、
みづからの香と、おのが色。
さはれ、盛りの短かさよ、
夕を待たで萎れゆく。
我手の花は誰れ知らん、
入日の後に見る如き
うすくれなゐを頬に残し、
淡き香をもて呼吸すれど。
我手の花は萎れゆく……
いと小やかにつつましき
わが魂の花なれば
萎れゆくまますべなきか。
藤とつつじの咲きつづく
四月五月に知り初めて、
わたしは絶えず此処へ来る。
森の木蔭を細やかに
曲つて昇る赤い路。
わたしは此処で花の香に
恋の吐息の噴くを聞き、
広い青葉の翻るのに
若い男のさし伸べる
優しい腕の線を見た。
わたしは此処で鳥の音が
胸の拍子に合ふを知り、
花のしづくを美しい
蝶と一所に浴びながら、
甘い木の実を口にした。
今はあらはな冬である。
霜と、落葉と、木枯と、
爛れた傷を見るやうに
一すぢ残る赤い路……
わたしは此処へ泣きに来る。
「砂を掴んで、日もすがら
砂の塔をば建てる人
惜しくはないか、其時が、
さては無益な其労が。
しかも両手で掴めども、
指のひまから砂が洩る、
する、する、すると砂が洩る、
軽く、悲しく、砂が洩る。
寄せて、抑へて、積み上げて、
抱へた手をば放す時、
砂から出来た砂の塔
直ぐに崩れて砂になる。」
砂の塔をば建てる人
これに答へて呟くは、
「時が惜しくて砂を積む、
命が惜しくて砂を積む。」
空の嵐よ、呼ぶ勿れ、
山を傾け、野を砕き、
所定めず行くことは
地に住むわれに堪へ難し。
野の花の香よ、呼ぶ勿れ、
若し花の香となるならば
われは刹那を香らせて
やがて跡なく消えはてん。
木の間の鳥よ、呼ぶ勿れ、
汝れは固より羽ありて
枝より枝に遊びつつ、
花より花に歌ふなり。
すべての物よ、呼ぶ勿れ、
われは変らぬ囁きを
乏しき声にくり返し
初恋の巣にとどまりぬ。
善しや、悪しやを言ふ人の
稀にあるこそ嬉しけれ、
ものかずならで隅にある
わが歌のため、我れのため。
いざ知りたまへ、わが歌は
泣くに代へたるうす笑ひ、
灰に著せたる色硝子、
死に隣りたる踊なり。
また知りたまへ、この我れは
春と夏とに行き逢はで、
秋の光を早く吸ひ、
月のごとくに青ざめぬ。
闇に釣る船
(安成二郎氏の歌集「貧乏と恋と」の序詩)
真黒な夜の海で
わたしは一人釣つてゐる。
空には嵐が吼え、
四方には渦が鳴る。
細い竿の割に
可なり沢山に釣れた。
小さな船の中七分通り
光る、光る、銀白の魚が。
けれど、鉤を離すと、直ぐ、
どの魚もみんな死つてしまふ。
わたしの釣らうとするのは
こんなんぢやない、決して。
わたしは知つてゐる、わたしの船が
だんだんと沖へ流れてゆくことを、
そして海がだんだんと
深く険しくなつてゆくことを。
そして、わたしの欲しいと思ふ
不思議な命の魚は
どうやら、わたしの糸のとどかない
底の底を泳いでゐる。
わたしは夜明までに
是非とも其魚が釣りたい。
もう糸では間に合はぬ、
わたしは身を跳らして掴まう。
あれ、見知らぬ船が通る……
わたしは慄く……
もしや、あの船が先きに
底の人魚を釣つたのぢやないか。
ああ我等は貧し。
貧しきは
身に病ある人の如く、
隠れし罪ある人の如く、
また遠く流浪する人の如く、
常に怖え、
常に安からず、
常に心寒し。
また、貧しきは
常に身を卑くし、
常に力を売り、
常に他人と物の
駄獣および器械となり、
常に僻み、
常に呟く。
常に苦み、
常に疲れ、
常に死に隣りし、
常に耻と、恨みと、
常に不眠と飢と、
常にさもしき欲と、
常に劇しき労働と、
常に涙とを繰返す。
ああ我等、
是れを突破する日は何時ぞ、
恐らくは生のあなた、
死の時ならでは……
されど我等は唯だ行く、
この灰色の一路を。
こんな日がある。厭な日だ。
わたしは唯だ一つの物として
地上に置かれてあるばかり、
何んの力もない、
何んの自由もない、
何んの思想もない。
なんだか云つてみたく、
なんだか動いてみたいと感じながら、
鳥の居ない籠のやうに
わたしは全く空虚である。
あの希望はどうした、
あの思出はどうした。
手持不沙汰でゐるわたしを
人は呑気らしくも見て取らう、
また好いやうに解釈して
浮世ばなれがしたとも云ふであろ、
口の悪るい、噂の好きな人達は
衰へたとも伝へよう。
何んとでも言へ……とは思つてみるが、
それではわたしの気が済まぬ。
をりをりに気が附くと、
屋外には嵐……
戸が寒相にわななき、
垣と軒がきしめく……
どこかで幽かに鳴る二点警鐘……
子供等を寝かせたのは
もう昨日のことのやうである。
狭い書斎の灯の下で
良人は黙つて物を読み、
わたしも黙つて筆を執る。
きり……きり……きり……きり……
何かしら、冴えた低い音が、
ふと聞えて途切れた……
きり……きり……きり……きり……
あら、また途切れた……
嵐の音にも紛れず、
直ぐ私の後ろでするやうに、
今したあの音は、
臆病な、低い、そして真剣な音だ……
命のある者の立てる快い音だ……
或る直覚が私に閃く……鋼鉄質の其音……
私は小さな声で云つた、
「あなた、何か音がしますのね」
良人は黙つてうなづいた。
其時また、きり……きり……きり……きり……
「追つて遣らう、
今夜なんか這入られては、
こちらから謝らなければならない」
と云つて、良人は、
笑ひながら立ち上がつた。
私は筆を止めずにゐる。
私には今の、嵐の中で戸を切る、
臆病な、低い、そして真剣な音が
自分の仕事の伴奏のやうに、
ぴつたりと合つて快い。
もう女中も寝たらしく、
良人は次の間で、
みづから燐寸を擦つて、
そして手燭と木太刀とを提げて、
廊下へ出て行つた。
間も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、
門の潜り戸が幽かに開いた。
「逃げたのだ、泥坊が」と、
私は初めてはつきり
嵐の中の泥坊に気が附いた。
私達の財嚢には、今夜、
小さな銀貨一枚しか無い。
私は私達の貧乏の惨めさよりも、
一人の知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。
きり……きり……きり……きり……と云ふ音がまだ耳にある。
小猫、小猫、かはいい小猫、
坐れば小く、まんまろく、
歩けばほつそりと、
美くしい、真つ白な小猫、
生れて二月たたぬ間に
孤蝶様のお宅から
わたしのうちへ来た小猫。
子供達が皆寝て、夜が更けた。
一人わたしが蚊に食はれ
書斎で黙つて物を書けば、
小猫よ、おまへは寂しいか、
わたしの後ろに身を擦り寄せて
小娘のやうな声で啼く。
こんな時、
先の主人はお優しく
そつとおまへを膝に載せ
どんなにお撫でになつたことであろ。
けれど、小猫よ、
わたしはおまへを抱く間がない、
わたしは今夜
もうあと十枚書かねばならんのよ。
夜がますます更けて、
午前二時の上野の鐘が幽かに鳴る。
そして、何にじやれるのか、
小猫の首の鈴が
次の間で鳴つてゐる。
今は
(私は正しく書いて置く、)
一千九百十六年一月十日の
午前二時四十二分。
そして此時から十七分前に、
一つの不意な事件が
私を前後不覚に
くつくつと笑はせた。
宵の八時に
子供達を皆寝かせてから、
良人と私はいつもの通り、
全く黙つて書斎に居た。
一人は書物に見入つて
折折そつと辞書を引き、
一人は締切に遅れた
雑誌の原稿を書いて居た。
毎夜の習はし……
飯田町を発した大貨物列車が
崖上の中古な借家を
船のやうに揺盪つて通つた。
この器械的地震に対して
私達の反応は鈍い、
唯だぼんやり
もう午前二時になつたと感じた外は。
それから間も無くである。
庭に向いて机を据ゑた私と
雨戸を中に一尺の距離もない
直ぐ鼻の先の外で、
突然、一つの嚔が破裂した、
「泥坊の嚔だ、」
刹那にかう直感した私は
思はずくつくつと笑つた。
「何んだね」と良人が振向いた時、
其不可抗力の声に気まり悪く、
あわてて口を抑へて、
そつと垣の向うへ逃げた者がある。
「泥坊が嚔をしたんですわ、」
大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、
二人の緊張が笑ひに融けた。
こんなに滑稽な偶然と見える必然が世界にある。
川原の底の底の価なき
砂の身なれば人採らず、
風の吹く日は塵となり
雨の降る日は泥となり、
人、牛、馬の踏むままに
圧しひしがれて世にありぬ。
稀に川原のそこ、かしこ、
れんげ、たんぽぽ、月見草、
ひるがほ、野菊、白百合の
むらむらと咲く日もあれど、
流れて寄れる種なれば
やがて流れて跡も無し。
ここの家の名前人は
総領の甚六がなつてゐる。
欲ばかり勝つて
思ひやりの欠けてゐる兄だ。
不意に、隣の家へ押しかけて、
庇ひ手のない老人の
半身不随の亭主に、
「きさまの持つてゐる
目ぼしい地所や家蔵を寄越せ。
おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。
おらが居ねえもんなら、
おめえの財産なんか
遠の昔に
近所から分け取りにされて居たんだ。
その恩返しをしろ」と云つた。
なんぼよいよいでも、
隣の爺には、性根がある。
あるだけの智慧をしぼつて
甚六の言ひ掛りを拒んだ。
押問答が長引いて、
二人の声が段段と荒くなつた。
文句に詰つた甚六が
得意な最後の手を出して、
拳を振上げ相になつた時、
大勢の甚六の兄弟が
がやがやと寄つて来た。
「腰が弱ゑいなあ、兄貴、」
「脅しが足りねえなあ、兄貴、」
「もつと相手をいぢめねえ、」
「なぜ、いきなり刄物を突き附けねえんだ、」
「文句なんか要らねえ、腕づくだ、腕づくだ、」
こんなことを口口に云つて、
兄を罵る兄弟ばかりである、
兄を励ます兄弟ばかりである。
ほんとに兄を思ふ心から、
なぜ無法な言ひ掛りなんかしたんだと
兄の最初の発言を
咎める兄弟とては一人も居なかつた。
おお、怖ろしい此処の家の
名前人と家族。
ああ、此国の
怖るべく且つ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐる勿れ。
禍なるかな、
此処に入る者は悉く変性す。
たとへば悪貨の多き国に入れば
大英国の金貨も
七日にて鑢に削り取られ
其正しき目方を減ずる如く、
一たび此門を跨げば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は此処に在り難し。
見よ、此処は最も無智なる、
最も敗徳なる、
はた最も卑劣無作法なる
野人本位を以て
人の価値を
最も粗悪に平均する処なり。
此処に在る者は
民衆を代表せずして
私党を樹て、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と罵声とを交換す。
此処にして彼等の勝つは
固より正義にも、聡明にも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
唯だ彼等互に
阿附し、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と黄金とを荷ふ
多数の駄獣と
みづから変性するにあり。
彼等を選挙したるは誰か、
彼等を寛容しつつあるは誰か。
此国の憲法は
彼等を逐ふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、年毎に、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最も臭く醜き
彼等駄獣の群に
寝藁の如く踏みにじらる……
米の値の例なくも昂りければ、
わが貧しき十人の家族は麦を食らふ。
わが子らは麦を嫌ひて
「お米の御飯を」と叫べり。
麦を粟に、また小豆に改むれど、
猶わが子らは「お米の御飯を」と叫べり。
わが子らを何と叱らん、
わかき母も心には米を好めば。
「部下の遺族をして
窮する者無からしめ給はんことを。
わが念頭に掛かるもの是れのみ」と、
佐久間大尉の遺書を思ひて、
今更にこころ咽ばるる。
わたしは貧しき生れ、
小学を出て、今年十八。
田舎の局に雇はれ、
一日に五ヶ村を受持ち、
集配をして身は疲れ、
暮れて帰れば、母と子と
さびしい膳のさし向ひ、
蜆の汁で、そそくさと
済ませば、何の話も無い。
たのしみは湯へ行くこと。
湯で聞けば、百姓の兄さ、
皆読んで来て善くする、
大衆文学の噂。
わたしは唯だ知つてゐる、
その円本を配る重さ。
湯が両方の足に沁む。
垢と土とで濁された
底でしばらく其れを揉む。
ああ此足が明日もまた
桑の間の路を踏む。
この月も二十日になる。
すこしの楽も無い、
もう大きな雑誌が来る。
やりきれない、やりきれない、
休めば日給が引かれる。
小説家がうらやましい、
菊池寛も人なれ、
こんな稼業は知るまい。
わたしは人の端くれ、
一日八十銭の集配。
バビロン人の築きたる
雲間の塔は笑ふべし、
それにまさりて呪はしき
巨大の塔は此処にあり。
千億の石を積み上げて、
横は世界を巻きて展び、
劔を植ゑし頂は
空わたる日を遮りぬ。
何する壁ぞ、その内に
今日を劃りて、人のため、
ひろびろしたる明日の日の
目路に入るをば防ぎたり。
壁の下には万年の
小暗き蔭の重なれば、
病むが如くに青ざめて
人は力を失ひぬ。
曇りたる目の見難さに
行く方知らず泣くもあり、
羊の如く押し合ひて
血を流しつつ死ぬもあり。
ああ人皆よ、何ゆゑに
古代の壁を出でざるや、
永久の苦痛に泣きながら
猶その壁を頼めるや。
をりをり強き人ありて
怒りて鉄の槌を振り、
つれなき壁の一隅を
崩さんとして穿てども、
衆を協せし凡夫等は
彼れを捕へて撲ち殺し、
穿ちし壁をさかしらに
太き石もて繕ろひぬ。
さは云へ壁を築きしは
もとより世世の凡夫なり、
稀に出で来る天才の
至上の智慧に及ばんや。
時なり、今ぞ飛行機と
大重砲の世は来る。
見よ、真先に、日の方へ、
「生きよ」と叫び飛ぶ群を。
遠い遠い処へ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争をしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の入費にと
国立銀行の小切手を呉れる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても官省が無い、
大臣は畑へ出てゐる、
工場へ勤めてゐる、
牧場に働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の御者をしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒とした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気を云はない、
そして男と同じ職を執つてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論裁判所は民事も刑事も無い、
専ら賞勲の公平を司つて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
併し長長と無用な弁を振ひはしない、
大抵は黙つてゐる、
稀に口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、
同時に裁決する女が聡明だからだ。
また此街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、踊も、
勿論名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
全くへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
大ちがひの街だ。
遠い遠い処へ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。
大百貨店の売出しは
どの女の心をも誘惑る、
祭よりも祝よりも誘惑る。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
凡そ何処にあらう、
三越と白木屋の売出しと聞いて、
胸を跳らさない女が、
俄かに誇大妄想家とならない女が。……
その刹那、女は皆、
(たとへ半反のモスリンを買ふため、
躊躇して、見切場に
半日を費す身分の女とても、)
その気分は貴女である、
人の中の孔雀である。
わたしは此の華やかな気分を好く。
早く神を撥無したわたしも、
美の前には、つつましい
永久の信者である。
けれども、近頃、
わたしに大きな不安と
深い恐怖とが感ぜられる。
わたしの興奮は直ぐに覚め、
わたしの狂𤍠は直ぐに冷えて行く。
一瞬の後に、わたしは屹度、
「馬鹿な亜弗利加の僭王よ」
かう云つて、わたし自身を叱り、
さうして赤面し、
はげしく良心的に苦む。
大百貨店の閾を跨ぐ女に
掠奪者でない女があらうか。
掠奪者、この名は怖ろしい、
しかし、この名に値する生活を
実行して愧ぢぬ者は、
ああ、世界無数の女ではないか。
(その女の一人にわたしがゐる。)
女は父の、兄の、弟の、
良人の、あらゆる男子の、
知識と情𤍠と血と汗とを集めた
労働の結果である財力を奪つて
我物の如くに振舞つてゐる。
一掛の廉半襟を買ふ金とても
女自身の正当な所有では無い。
女が呉服屋へ、化粧品屋へ、
貴金属商へ支払ふ
あの莫大な額の金は
すべて男子から搾取するのである。
女よ、
(その女の一人にわたしがゐる、)
無智、無能、無反省なお前に
男子からそんなに法外な報酬を受ける
立派な理由が何処にあるか。
お前は娘として
その華麗な服装に匹敵する
どんなに気高い愛を持ち、
どんなに聡明な思想を持つて、
世界の青年男子に尊敬され得るか。
お前は妻として
どれだけ良人の職業を理解し、
どれだけ其れを助成したか。
お前は良人の伴侶として
対等に何の問題を語り得るか。
お前は一日の糧を買ふ代をさへ
自分の勤労で酬いられた事があるか。
お前は母として
自分の子供に何を教へたか。
お前からでなくては与へられない程の
立派な精神的な何物かを
少しでも自分の子供に吹き込んだか。
お前は第一母たる真の責任を知つてゐるか。
ああ、わたしは是れを考へる、
さうして戦慄する。
憎むべく、咀ふべく、憐むべく、
愧づべき女よ、わたし自身よ、
女は掠奪者、その遊惰性と
依頼性とのために、
父、兄弟、良人の力を盗み、
可愛いい我子の肉をさへ食むのである。
わたしは三越や白木屋の中の
華やかな光景を好く。
わたしは不安も恐怖も無しに
再び「美」の神を愛したいと願ふ。
しかし、それは勇気を要する。
わたしは男に依る寄生状態から脱して、
わたしの魂と両手を
わたし自身の血で浄めた後である。
わたしは先づ働かう、
わたしは一切の女に裏切る、
わたしは掠奪者の名から脱れよう。
女よ、わたし自身よ、
お前は一村、一市、一国の文化に
直接なにの貢献があるか。
大百貨店の売出しに
お前は特権ある者の如く、
その矮い、蒼白なからだを、
最上最貴の
有勲者として飾らうとする。
ああ、男の法外な寛容、
ああ、女の法外な僭越。
ああ、ああ、どうなつて行くのでせう、
智慧も工夫も尽きました。
それが僅かなおあしでありながら、
融通の附かないと云ふことが
こんなに大きく私達を苦めます。
正しく受取る物が
本屋の不景気から受取れずに、
幾月も苦しい遣繰や
恥を忘れた借りを重ねて、
ああ、たうとう行きづまりました。
人は私達の表面を見て、
くらしむきが下手だと云ふでせう。
もちろん、下手に違ひありません、
でも、これ以上に働くことが
私達に出来るでせうか。
また働きに対する報酬の齟齬を
これ以下に忍ばねばならないと云ふことが
怖ろしい禍でないでせうか。
少なくとも、私達の大勢の家族が
避け得られることでせうか。
今日は勿論家賃を払ひませなんだ、
その外の払ひには
二月まへ、三月まへからの借りが
義理わるく溜つてゐるのです。
それを延ばす言葉も
今までは当てがあつて云つたことが
已むを得ず嘘になつたのでした。
しかし、今日こそは、
嘘になると知つて嘘を云ひました。
どうして、ほんたうの事が云はれませう。
何も知らない子供達は
今日の天長節を喜んでゐました。
中にも光は
明日の自分の誕生日を
毎年のやうに、気持よく、
弟や妹達と祝ふ積りでゐます。
子供達のみづみづしい顔を
二つのちやぶ台の四方に見ながら、
ああ、私達ふたおやは
冷たい夕飯を頂きました。
もう私達は顛覆するでせう、
隠して来たぼろを出すでせう、
体裁を云つてゐられないでせう、
ほんたうに親子拾何人が餓ゑるでせう。
全くです、私達を
再び立て直す日が来ました。
耻と、自殺と、狂気とにすれすれになつて、
私達を試みる
赤裸裸の、極寒の、
氷のなかの日が来ました。
真珠の貝は常に泣く。
人こそ知らね、大海は
風吹かぬ日も浪立てば、
浪に揺られて貝の身の
処さだめず伏しまろび、
千尋の底に常に泣く。
まして、たまたま目に見えぬ
小さき砂の貝に入り
浪に揺らるる度ごとに
敏く優しき身を刺せば、
避くる由なき苦しさに
貝は悶えて常に泣く。
忍びて泣けど、折折に
涙は身よりにじみ出で、
貝に籠れる一点の
小さき砂をうるほせば、
清く切なきその涙
はかなき砂を掩ひつつ、
日ごとに玉と変れども、
貝は転びて常に泣く。
東に昇る「あけぼの」は
その温き薔薇色を、
夜行く月は水色を、
虹は不思議の輝きを、
ともに空より投げかけて、
砂は真珠となりゆけど、
それとも知らず、貝の身は
浪に揺られて常に泣く。
島の沖なる群青の
とろりとしたる海の色、
ゆるいうねりが間を置いて
大きな梭を振る度に
釣船一つ、まろまろと
盥のやうに高くなり、
また傾きて低くなり、
空と水とに浮き遊ぶ。
君と住む身も此れに似て
ひろびろとした愛なれば、
悲しきことも嬉しきも
唯だ永き日の波ぞかし。
あはれ、快きは夏なり。
万年の酒男太陽は
一時にその酒倉を開けて、
光と、𤍠と、芳香と、
七色との、
巨大なる罎の前に
人を引く。
あはれ、快きは夏なり。
人皆ギリシヤの古の如く
うすき衣を著け、
はた生れながらの
裸となりて、
飽くまでも、湯の如く、
光明歓喜の酒を浴ぶ。
あはれ、快きは夏なり。
人皆太陽に酔へる時、
忽ち前に裂くるは
夕立のシトロン。
さて夜となれば、
金属質の涼風と
水晶の月、夢を揺る。
ああ五月、我等の世界は
太陽と、花と、麦の穂と、
瑠璃の空とをもて飾られ、
空気は酒室の呼吸の如く甘く、
光は孔雀の羽の如く緑金なり。
ああ五月、万物は一新す、
竹の子も地を破り、
どくだみの花も蝶を呼び、
蜂も卵を産む。
かかる時に、母の胎を出でて
清く勇ましき初声を揚ぐる児、
抱寝して、其児に
初めて人間のマナを飲まする母、
はげしき𤍠愛の中に手を執る
婚莚の夜の若き二人、
若葉に露の置く如く額に汗して、
桑を摘み、麻を織る里人、
共に何たる景福の人人ぞ。
たとひ此日、欧洲の戦場に立ちて、
鉄と火の前に、
大悪非道の犠牲とならん勇士も、
また無料宿泊所の壁に凭りて
明日の朝飯の代を持たぬ無職者も、
ああ五月、此月に遇へることは
如何に力満ちたる実感の生ならまし。
とある一つの抽斗を開きて、
旅の記念の絵葉書をまさぐれば、
その下より巴里の新聞に包みたる
色褪せし花束は現れぬ。
おお、ロダン先生の庭の薔薇のいろいろ……
我等二人はその日を如何で忘れん、
白髪まじれる金髪の老貴女、
濶き梔花色の上衣を被りたる、
けだかくも優しきロダン夫人は、
みづから庭に下りて、
露おく中に摘みたまひ、
我をかき抱きつつ是れを取らせ給ひき。
花束よ、尊く、なつかしき花束よ、
其日の幸ひは猶我等が心に新しきを、
纔に三年の時は
無残にも、汝を
埃及のミイラに巻ける
五千年前の朽ちし布の
すさまじき茶褐色に等しからしむ。
われは良人を呼びて、
曾て其日の帰路、
夫人が我等を載せて送らせ給ひし
ロダン先生の馬車の上にて、
今一人の友と三人
感激の中に嗅ぎ合ひし如く、
額を寄せて嗅がんとすれば、
花は臨終の人の歎く如く、
つと仄かなる香を立てながら、
二人の手の上に
さながら焦げたる紙の如く、
あはれ、悲し、
ほろほろと砕け散りぬ。
おお、われは斯かる時、
必ず冷やかにあり難し、
我等が歓楽も今は
此花と共に空しくやなるらん。
許したまへ、
涙を拭ふを。
良人は云ひぬ、
「わが庭の薔薇の下に
この花の灰を撒けよ、
日本の土が
是に由りて浄まるは
印度の古き仏の牙を
教徒の齎せるに勝らん。」
暑し、暑し、
曇りたる日の温気は
油障子の中にある如し。
狭き書斎に陳べたる
十鉢の朝顔の花は
早くも我に先立ちて𤍠を感じ、
友禅の小切の
濡れて撓める如く、
また、書きさして裂きて丸めし
或時の恋の反古の如く、
はかなく、いたましく、
みすぼらしく打萎れぬ。
暑し、暑し、
机の蔭よりは
小く憎き吸血魔
藪蚊こそ現れて、
膝を、足を、刺し初む。
されど、アウギユストは元気にて
彼方の縁に水鉄砲を弄り、
健はすやすやと
枕蚊帳の中に眠れり。
この隙に、君よ、
筆を擱きて、
浴びたまはずや、水を。
たた、たたと落つる
水道の水は細けれど、
その水音に、昨日、
ふと我は偲びき、
サン・クルウの森の噴水。
わたしの庭の「かくれみの」
常緑樹ながらいたましや、
時も時とて、茱萸にさへ、
枳殻にさへ花の咲く
夏の初めにいたましや、
みどりの枝のそこかしこ、
たまたまひと葉二葉づつ
日毎に目立つ濃い鬱金、
若い白髪を見るやうに
染めて落ちるがいたましや。
わたしの庭の「かくれみの、」
見れば泣かれる「かくれみの。」
西洋蝋燭の大理石よりも白きを硝子の鉢に燃し、
夜更くるまで黒檀の卓に物書けば幸福多きかな。
あはれこの梔花色の明りこそ
咲く花の如き命を包む想像の狭霧なれ。
これを思へば昼は詩人の領ならず、
天つ日は詩人の光ならず、
蓋し阿弗利加を沙漠にしたる悪しき𤍠の気息のみ。
うれしきは夢と幻惑と暗示とに富める白蝋の明り。
この明りの中に五感と頭脳とを越え、
全身をもて嗅ぎ、触れ、知る刹那──
一切と個性とのいみじき調和、
理想の実現せらるる刹那は来り、
ニイチエの「夜の歌」の中なる「総ての泉」の如く、
わが歌は盛高になみなみと迸る。
とん、とん、とんと足拍子、
洞を踏むよな足拍子、
つい嬉しさに、秋の日の
長い廊下を走つたが、
何処をどう行き、どう探し、
何うして採つたか覚えねど、
わたしの袂に入つてた
きちがひ茄子と笑ひ茸。
わたしは夢を見てゐるか、
もう気ちがひになつたのか、
あれ、あれ、世界が火になつた。
何処かで人の笑ふ声。
九官鳥はいつの間に
誰が教へて覚えたか、
わたしの名をばはつきりと
優しい声で「花子さん。」
「何か御用」と問うたれば、
九官鳥の憎らしや、
聞かぬ振して、間を置いて、
「ちりん、ちりん」と電鈴の真似。
「もう知らない」と行きかけて
わたしが云へば、後ろから、
九官鳥のおどけ者、
「困る、困る」と高い声。
花子の庭の薔薇の花、
花子の植ゑた薔薇なれば
ほんによう似た花が咲く。
色は花子の頬の色に、
花は花子のくちびるに、
ほんによう似た薔薇の花。
花子の庭の薔薇の花、
花が可愛いと、太陽も
黄金の油を振撒けば、
花が可愛いと、そよ風も
人目に見えぬ波形の
薄い透綾を著せに来る。
側で花子の歌ふ日は
薔薇も香りの気息をして
花子のやうな声を出し、
側で花子の踊る日は
薔薇もそよろと身を揺り
花子のやうな振をする。
そして花子の留守の日は
涙をためた目を伏せて、
じつと俯向く薔薇の花。
花の心のしをらしや、
それも花子に生き写し。
花子の庭の薔薇の花。
雪がしとしと降つてきた。
玩具の熊を抱きながら、
小さい花子は縁に出た。
山に生れた熊の子は
雪の降るのが好きであろ、
雪を見せよと縁に出た。
熊は冷たい雪よりも、
抱いた花子の温かい
優しい胸を喜んだ。
そして、花子の手の中で、
玩具の熊はひと寝入り。
雪はますます降り積る。
汗の流れる七月は
蜻蛉も夏の休暇か。
街の子供と同じよに
避暑地の浜の砂に来て
群れつつ薄い袖を振る。
小さい花子が昼顔の
花を摘まうと手を出せば、
これをも白い花と見て
蜻蛉が一つ指先へ
ついと気軽に降りて来た。
思はぬ事の嬉しさに
花子の胸は轟いた。
今美くしい羽のある
小さい天使がじつとして
花子の指に止まつてる。
鴨頭草の花、手に載せて
見れば涼しい空色の
花の瞳がさし覗く、
わたしの胸の寂しさを。
鴨頭草の花、空色の
花の瞳のうるむのは、
暗い心を見透して、
わたしのために歎くのか。
鴨頭草の花、しばらくは
手にした花を捨てかねる。
土となるべき友ながら、
我も惜めば花も惜し。
鴨頭草の花、夜となれば、
ほんにそなたは星の花、
わたしの指を枝として
しづかに銀の火を点す。
われは在り、片隅に。
或時は眠げにて、
或時は病める如く、
或時は苦笑を忍びながら、
或時は鉄の枷の
わが足にある如く、
或時は飢ゑて
みづからの指を嘗めつつ、
或時は涙の壺を覗き、
或時は青玉の
古き磬を打ち、
或時は臨終の
白鳥を見守り、
或時は指を挙げて
空に歌を書きつつ………
寂し、いと寂し、
われはあり、片隅に。
上野の鐘が鳴る。
午前三時、
しんしんと更けわたる
十一月の初めの或夜に、
東京の街の矮い屋根を越えて、
上野の鐘が鳴る。
この声だ、
日本人の心の声は。
この声を聞くと
日本人の心は皆おちつく、
皆静かになる、
皆自力を麻痺して
他力の信徒に変る。
上野の鐘が鳴る。
わたしは今、ちよいと
痙攣的な反抗が込み上げる。
けれど、わたしの内にある
祖先の血の弱さよ、はかなさよ、
明方の霜の置く
木の箱の家の中で、
わたしは鐘の声を聞きながら、
じつと滅入つて
筆の手を休める。
上野の鐘が鳴る。
門に立つのは
うその苦学生、
うその廃兵、
うその主義者、志士、
馬車、自動車に乗るのは
うその紳士、大臣、
うその貴婦人、レディイ、
それから、新聞を見れば
うその裁判、
うその結婚、
さうして、うその教育。
浮世小路は繁けれど、
ついぞ真に行き遇はぬ。
今年畏くも御即位の大典を挙げさせ給ふ拾一月の一日に、此集の校正を終りぬ。読み返し行くに、愧かしきことのみ多き心の跡なれば、昭らかに和らぎたる新た代の御光の下には、ひときは出だし苦しき心地ぞする。晶子
晶子詩篇全集 終
底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社
1929(昭和4)年1月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※底本の総ルビをパララルビに変更しました。被ルビ文字の選定に当たっては、以下の方針で対処しました。
(1)「定本 與謝野晶子全集 第九、十巻」講談社(1980(昭55)年8月10日、1980(昭55)年12月10日)で採用されたものは付す。
(2)常用漢字表に記載されていない漢字、音訓等については原則として付す。
(3)読みにくいもの、読み誤りやすいものは付す。
底本では採用していない、表題へのルビ付けも避けませんでした。
※ルビ文字は原則として、底本に拠りました。底本のルビ付けに誤りが疑われる際は、以下の方針で対処しました。
(1)単純な脱字、欠字は修正して、注記しない。
(2)誤りは修正して注記する。
(3)旧仮名遣いの誤りは、修正して注記する。
(4)晶子の意図的な表記とするべきか誤りとするべきか判断の付かないものは、「ママ」と注記する。
(5)当該のルビが、総ルビのはずの底本で欠けていた場合にも、その旨は注記しない。
※疑わしい表記の一部は、「定本 與謝野晶子全集 第九、十巻」を参考にしてあらため、底本の形を、当該箇所に注記しました。
※各詩編表題の字下げは、4字分に統一しました。
※各詩編の行の折り返しは、底本では1字下げになっています。
※「暗殺酒舗」と「暗殺酒鋪」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号1-5-86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:kazuishi
ファイル作成:
2004年7月2日作成
2012年3月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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