帰つてから
與謝野晶子
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浜松とか静岡とか、此方へ来ては山北とか、国府津とか、停車する度に呼ばれるのを聞いても、疲労し切つた身体を持つた鏡子の鈍い神経には格別の感じも与へなかつたのであつたが、平沼と聞いた時にはほのかに心のときめくのを覚えた。それは丁度ポウトサイド、コロンボと過ぎて新嘉坡に船の着く前に、恋しい子供達の音信が来て居るかも知れぬと云ふ望に心を引かれたのと一緒で自身のために此処迄来て居る身内のあるのを予期して居たからである。鏡子の伴は文榮堂書肆の主人の畑尾と、鏡子の良人の靜の甥で、鏡子よりは五つ六つ年下の荒木英也と云ふ文学士とである。畑尾は何かを聞いた英也に、
『ああさうです、さうです。此処に来てゐる筈です。』
と点頭きながら云つて、つと立つて戸口を開けて外へ出た、英也も続いて出て行つたらしい、白つぽい長外套の裾が今目を過つたのは其人だらうと鏡子は身を横へた儘で思つて居た。目の半は氷を包んで額へ置いたタオルで塞がれて居るのである。
『あつ、坊ちやんが来やはつた。』
遠い所でかう云つた畑尾の声が鏡子の耳に響いた。迸るやうな勢で涙の出て来たのはこれと同時であつた。暫くしてから氷に手を添へた心程身を起して気恥しさうに鏡子が辺を見廻した時、まだ新しい出迎人も旧の伴の二人も影は見えなかつた。国府津で一緒になつた新聞記者が二人向側に腰を掛けて居るので、この人等には病のために談が出来ないと断つてあるのであるから、急に元気附いたら厭な気持を起させるに違ひないと思つて、起き上りたい身体を其儘にしてじつとして居ると、開いた戸口から寒い風が入つて来た。
『これで安心致しました。真実にどうなつてはるのやろと心配したことでありませんでしたけれど。』
『直ぐ行つて下すつたので、船が一日早かつたにも係らず間に合つて結構でした。あなたもお疲れでせう。』
『どう致しまして、荒木さんも神戸迄来て下さいまして、それから又随いて来てくれはつたのです。』
『さうですか、英也が。』
列車の外で清と畑尾とはこんな談話をして居たのである。
『やあ。』
『御機嫌よう。』
と声を掛けたのを初めに、英也と季の叔父の清とは四五年振に身体をひたひたと寄せてなつかしげに語るのであつた。
『坊ちやん。何時に起きて来やはつたのです。』
二人の立つた傍を一廻りして、それから畑尾は滿に話しかけた。
『五時。』
滿は元気よく云つた。
『五時、早いのだすなあ、外の坊ちやんやお嬢さんは新橋に来てはりますか。』
『晨と榮子は家に居る。』
『外の方は来てはるのだすやろ。』
『どうだか。』
と滿は小首を傾げて云ふ。
『それは来てはりますとも。』
『さう、畑尾さん。』
滿は女の様な地の声で云つた。
『嬉しいでせう、坊ちやん。』
『ふん、母さんは何処に居るの、畑尾さん。』
と滿は心配さうに云つた。
『彼処においでです。』
と云つて、畑尾は二つ向ふの車を指差した。
『嬉しいなあ、畑さん。』
と滿は云つたが、其処へ飛び込んで行かうともしないのである。
もう待草臥れたと云ふやうに鏡子が目を閉て居る所へ其人等が入つて来て、汽車は直ぐ動き出した。
『お早くから難有う御座いました。留守の子供達もいろいろお世話になりまして難有う御座いました。御親切は胆に銘じて居ります。』
鏡子は何時の間にか床に足が附いて居て、額にあつた氷は膝の上の掌に載つて居た。
『まあ御病気も太した事でありませんで結構でした。もつとお弱りかと思ひましてね、案じて居りましたのですが。』
それから清は前に立つて微笑みながら母を眺めて居る滿に、
『滿さん、御挨拶をしないの。』
と優しく云つた。
『母様、おかへり。』
かう云つて滿は顔をぱつと赤くした。
『滿さん。』
と云つた母の顔にも美くしい血が上つた。滿は其儘向側の畑尾の傍へ行つてしまつた。鏡子はまた横になつてしまつた。
『家でもお照さんが心配して居るらしいですわね、畑尾さんの所へ巴里から来た手紙が余り大層に書いてあつたらしいですわね、さうだもんだから。』
鏡子はあへぎあへぎ云つた。
『お静かにしていらしつたらどうです、お話はゆつくり伺ひますから。』
見兼ねて清がさう云つた。
『ええ。』
と黙頭いて二三分も経つか経たぬに鏡子はまた、
『私ね、あなたも恨んだ事があつたのですよ。彼方で帰りたくなつた時ね。あの!巴里から来いと云つて来ました一番初めの手紙ね、あれが来た時丁度あなたが来ていらつしつて、其事を賛成遊ばしたから、私の心が間違ひ初めたのだなんか思つてね。』
と前と同じ調子で話しだした。
『はあ、さうですか、ふふ、さうですか。』
清は病院の見舞客のやうな労り半分の返辞を続けて居た。
『滿を呼んで下さいな。』
突然鏡子が云つた。
『滿さん、母さんの所へ来なくちやあ。』
『なあに。』
叔父さんは少し坐を空けて滿を座らせた。
『皆新橋へ来るの。』
鏡子は滿の手を取つた。
『晨と榮子は来ないけれど。』
『あの人等は来なくつても好い。小いのだから。』
と云つて、鏡子はお前は自分の子の中で一番大きな大切な子であると確かめて知らせるやうな目附きで滿を見た。
『瑞木や花木は此頃泣かなくつて。』
『どうだか、僕は学校へ行つてるからよく知らない。叔母さん僕は三番よ。』
『滿。なあに。』
『僕は三番なのよ。叔母さん、健は四番です。』
滿が続けざまに云ひ誤ひをして、そしてそれに少しも気が附かないで居るのが鏡子には悲しかつた。この時のは冷い涙であつた。
『英さん、北野丸を見て。』
滿は向側の従兄に話しかけた。
『ああ、見たよ。』
『アリヨルと何方が大きい。』
『それは北野丸の方が大きいさ。』
鏡子は我子の言葉から、春の末の薄寒い日の夕暮に日本の北の港を露西亜船に乗つて離れた影の寂しい女を幻に見て居た。その出立の時に自分はもう此辺からしみじみ帰りたかつたのだとも哀れに思ひ出される。新橋へ着く前に顔を洗ひたいと思つて居ることも実行がむづかしいやうでもあり、昨日北野丸で上げた儘で、そして夜通しもがき続けたのであるから髪も結ひ替へたいが出来さうにもない。こんなに何事にも力の尽きたやうな今の様がみじめでならなくも思はれるのであつた。二人の記者は何時の間にか席に居なくなつた。畑尾と英也は手荷物の数を読んだり、これこれは配達させようなどと相談をしたりして居た。
鏡子はもう幾分かの後に逼つた瑞木や花木や健などとの会見が目に描かれて、泣きたいやうな気分になつたのを、紛すやうに。
『私は苦しいのでね、まだ顔を洗はないのですよ。』
清に話しかけた。
『なあに、宜しう御座いますよ。』
『あなたの処の薫さんや千枝子さんはどうしていらつしつて。』
鏡子は弟の子の事を今迄念頭に置かなかつたやうに思はれはしないかと、かう云つた後で少し顔を染めた。
『皆壮健で居ります。』
『大きくおなりでしたらうね。』
鏡子自身がかう云つた言葉の態とらしいのに満足が出来なかつた。
『私は千枝子さんが真実に好きなんですよ。』
と云つて見たがこれも木に竹を継いだやうで厭に思はれた。良人の外に言葉の通じぬ世界の生活に続いて、船の中で部屋附のボオイや給仕女に物を云ふ以外に会話らしい会話もせず三十八日居た自分は当分普通の話にも間の抜けた事を云ふのであらうとこれなども味気なく鏡子には思はれるのであつた。先刻から銀の針で目の横を一寸刺されたなら、出ても好いと言はれた涙は流れに流れて、あの恐しいものだつた海と同じ程にもなるだらうとそんな感じが鏡子にするのであつたが、その押へて居ると云ふのは喜びに伴ふ悲哀でも何んでもない、良人と二人で子の傍へ帰つて来る事の出来なかつたのが明らままに悲しいのである。得難いものの様に思つて居た子を見る喜びと云ふものと楽々目前に近づいて居るのを思ふと、それはもう何程の価ある事とも鏡子には思へないのであらう。
『叔母さん。母さん、もう新橋よ。』
と云つて、滿が母の傍へ来た。
『もう参りました。』
と清が云つた。
鏡子は滿が想像してた程大きくなつて居なかつた事が実は嬉しくてならなかつたのであつたが、瑞木と花木は其割合よりも大きかつた。さうであるから悲しい涙が零れた。そして紫の銘仙の袷の下に緋の紋羽二重の綿入の下着を着て、被布は着けずにマントを着た姿を異様な情ない姿に思はれた。
『健は。』
鏡子は前後を見廻してから云つた。
『健さん、何処に行つてるのでしよう。』
お照は人に隔てられて一二間先に立つて居た健の手を引いて来た。
『健。』
『うう、おかへり。』
顔も声もこれは最も変つて居なかつた。鏡子は意識もなしに先刻から時々其人に物を云つて居た黒目鏡が南の夏子であることに漸く気が附いて来た。
『お変りなくつて、南さんもね。』
『南も参るので御座いますがね、どうしても出なければならない講義がありましてね、私ばかり参りましたの、皆様が大よろこびで大変で御座いましたの、奥様まあおめでたう御座います。』
静かにではあるがかう続けざまに夏子は云つた。
『一寸お写真を取らして戴きます。』
先刻同車して来た記者は写真師を伴れて来た。
『困るわ、私まだ顔も洗はないのだから。』
鏡子はお照に云ふともなく記者に云ふともなく云つて、夏子の肩に手を掛けて顔を蔭へ隠すやうにした。
『ねえ、かうしてね。』
小声で云つた。
『困つてしまひますね。』
夏子は写真師に聞えるやうな声で云つた。お照は鏡子の窶れた横顔を身も慄ふ程寒く思つて見て居た。
改札口の所には平井夫婦、外山文学士などと云ふ鏡子の知合が来て居た、靜の弟子で株式取引所の書記をして居る大塚も来て居た。十年余り前に靜と鏡子が渋谷で新世帯を持つた頃に逢つた限り逢はない昔馴染の小原も来て居た。鏡子の帰朝の不意だつたこと、ともかくも衰弱の少く見えるので嬉しいと云ふことなどが皆の口から出た。鏡子は自身でも歯痒く思ふやうなぐずぐずした挨拶をして居たが、急に晴やかな声を出して、
『平井さんの小説が大層評判が好いさうですね。』
と云つた。
『此頃は無暗に書きたいのですよ。』
平井は微笑みながら云つた。その人の妻は口を覆ふて笑ふて居た。
『車を持つて来させて御座います。』
清は鏡子を車寄せの方へ導いて行つた。旅客は怪しむ様に目をこの三十女に寄せた。
『滿がね、私の事を叔母さん叔母さんと間違へて云ふのですよ。』
車に乗らうとして横に居た外山にかう云つた鏡子の言葉尻はおろおろと曇つて居た。
『ああ、さうですか。』
外山は満面に笑を湛へて云つて居た。瑞木が鏡子の前へ乗つた。花木も乗りたさうな顔をして居たのであつたが後の叔母の車に居た。瑞木を膝に乗せた車が麹町へ上つて行く。こんな空想を西洋に居た時に何度鏡子はした事か知れない。滿、瑞木、健、花木、晨、榮子と云ふ順に気にかゝるとは何時も鏡子が良人に云つて居た事で、瑞木は双子の妹になつて居るのであるが、身体も大きいし、脳の発達も早くから勝れて居たから両親には長女として思はれて居るのである。容貌も好い。赤ん坊の時から二人の女中が瑞木の方を抱きたいと云つて喧嘩をしたりなどもした。鏡子はまた子供の中で自身の通りの目をしたのは瑞木だけであると思ふから、永久と云ふ相続さるゝ生命は明らさまに瑞木に宿つて居るやうにも思ふのである。どうしても今日母に抱かれる初めの人は瑞木でなければならないのであつた。
『お悧口にして居た。』
女の顔を上から覗き込んで鏡子が云つた。
『ええ。』
瑞木は不安らしくかう云つたのである。大きい目には涙が溜つて居る。それを見ると鏡子も悲しくなつて来た。汽車から持つて出た氷を包んだタオルはこの時まだ大事さうに鏡子の手に持たれて居たので、指ににじむその雫を冷く思つたのは十月の末の日比谷の寂しい木立の中を車の進む時であつた。
『兄さん、お父様の帰る時は僕も神戸へ行くよ。』
『伴れて行つて上げるよ。』
『兄さんに伴れて行つて貰はないでも母さんと行くのだよ。』
『ぢやあ行きなさいよ。僕なんかもうこれから君と一緒に学校へ行かない。何時でも先行つちまふから好い。』
『いやあ、兄さん。』
『およしなさいよ。ぎやあの大将。』
二番目の車に居る二人は三宅阪を曲る時にこんな争ひをして居た。麹町の通から市ケ谷へ附いた新開の道を通る時、鏡子は立つ前の一月程この道を通つて湯屋へ子供達を伴れて行く度に、やがて来る日の悲しさが思はれて胸がいつぱいになつた事などの思ひ出が氷の雫と同じやうに心からしみ出すのを覚えた。其事を云つて巴里でかこつた相手の事も思ひ出される。車屋の角を曲るともう美阪家の勝手の門が見えた。
『ををばあさあん。』
と大きい声で云つて居るのが塀越しに聞えた。同じ節で同じ事を云ふ低い声も聞える。大きいのが女の子の声で低いのが男の子の声である。この刹那に鏡子はお照から来た何時の手紙にも榮が可愛くなつたとばかり書いてあつて、ついぞ晨の事の無かつたのと、自身が抱かうとすると反りかへつて、
『いやだあい。』
と幾度も繰り返した榮子の気の強さを思つて、其子が叔母の愛の前に幅を拡げて晨は陰の者になつて居るのではないかと胸が轟いた。早く晨を抱いて遣らねばならないと思はず鏡子の身体は前へ出た。
『おかへりい。』
門の戸は重い音を立てゝ開けられた。瑞木を車夫が下へ降すのと一緒に鏡子は転ぶやうにして門をくゞつた。
玄関の板間に晨は伏目に首を振りながら微笑んで立つて居た。榮子は青味の多い白眼勝の眼で母をじろと見て、口を曲めた儘障子に身を隠した。格別大きくなつて居るやうではなかつた。晨は三寸程は確かに大きくなつたと思はれるのであつた。円顔の十七八の女中も出て来て居た。
『晨坊さん。』
母のかう云ふのを聞いて、晨は筒袖の手を鉄砲のやうに前へ出して、そして口を小くすぼめて奥へ走つて入つた。
『抱つこしませう。晨坊さん。』
鏡子は晨を追つて家へ上つたのであつた。座敷から其次をかう走り廻るのが鏡子に面白かつた。
白い菊と黄な菊と桃色のダリヤの間に葉鶏頭は黒味のある紅色をして七八本も立つて居る。やもめのやうな白いコスモスも一本ある。それを覆ふて居る大きい木は月桂樹の葉見たやうな、葉の大きい樹で珊瑚のやうな、赤い実が葉の根に総て附いて居る。新嘉坡、香港などで夏花の盛りに逢つて来た鏡子は、この草や木を見て、東の極のつゝましい国に帰つて来たと云ふ寂しみを感じぬでもなかつた。
『よく花がついたのね。』
『ええ。』
お照は嬉しさうに云つた。
『清さんや英さんは車ぢやなかつたの。』
『さうなんでせうね。姉さん、お召替を遊ばせ。』
『はあ。私ね、けどね、此儘であなたに一度お礼をよく云つてしまはなければ。』
『云つて頂かないでも結構ですわ。』
お照が次の六畳へ行つた。鏡子は書斎の障子を懐しげに見入つて居た。
六畳へ入つて着物を替へやうとしながら鏡子は辺りを見廻して、
『お照さん、真実に難有うよ。何もかもよくこんなにきちんとして置いて下すつたのね。』
畳も新しくて清々しいのである。
『姉さんは真実にお窶れになりましたのね。』
お照は先刻から云ひたくてならなかつたと云ふやうに云つた。
『真実ね。あらこんな襟買つとつて下すつたの、いいわね、けれどをかしいでせう。印度洋で焼けて来た顔だもの。』
鏡子は平常着の銘仙に重ねられた紫地の水色の大きい菊のある襟を合せながら云つた。
『早くもとの通りにおなりなさいね。』
『何だかもう硼酸で洗つたりする勇気もないわ。』
『そんなこと。』
『私まだ顔を洗はないのよ。』
『さうでしたね。直ぐ湯を沸かさせませう。』
鏡子はこんなに睦まじく話す人が家の中にある事を涙の零れる程嬉しく思ふのであつた。小紋の羽織の紐を結ぶと直ぐ鏡子は鏡のある四畳半へ行かうとした。茶の間を通つた時、やつぱり我家と云ふものは嬉しい処であるとこんな気分に鏡子はなつた。もう余程影の薄いものになつて居たやうなあるものが、実はさうでもない事が分つて来たのである。鏡の前へ一寸嘘坐りして中を覗くと、今の紫の襟が黒くなつた顔の傍に、見得を切つた役者のやうに光つて居た。良人が居ないのだからと鏡子は不快な投やり心を起して立つた。巴里の家の大きな三つの姿見に毎日半襟と着物のつりあひを気にして写し抜いた事などが醜い女の妬みのやうに胸を刺すのであつた。
書斎の靜の机の上も鏡子のも綺麗に片附いて居て、書棚の硝子戸にも曇り一つ残つて居なかつた。小菊が床に挿してある。掛けたあの人の銀短冊の箔の黒くなつたのが自身の上に来た凋落と同じ悲しいものと思つて鏡子は眺めて居た。門の開く音がして、それから清と英也が庭口から廻つて来、畑尾と夏子が玄関から上つて来た。
新聞記者の二三人が来て帰つた後で清とお照は相談をひそひそとして居たが、それから清はお照の持つて来た硯で、紙にお逢ひ致さず候と書いた。それをお照が御飯粒で玄関の外へ張つた。これで大安心が出来たと云ふ風にお照は書斎へ行つた。
『姉さん、兄さんがさう云ひましてね、お逢ひ致さず候と書いて玄関へ張つたのですよ。もう安心ですわ。あんなに詰めかけて来ると外の者がひやひやするのですもの、巴里の兄さんもそれが案じられると云つて居られるのですからね。』
『お照さん、巴里から私に手紙が来て居ないこと。』
『いいえ。』
『さうですか。』
『もう家へも参る頃なんですよ。』
『私は来て居るだらうとばかり思つてたわ。』
鏡子は情なささうに云つて、腭をべたりと襟に附けて、口笛を吹くやうな口をして吐息をした。お照が何と云つて慰めたものかと思つて居ると、俄に鏡子が、
『お照さん、そんなこと書いてあると憎まれるわ。』
と云つた。併も少し高調子であつたからお照は一寸どきまぎした。
『さうでせうか。』
『はがして頂戴よ。畑尾さん、一寸。』
鏡子は縁側で滿と戯れて居た畑尾にも声をかけた。
『はい。』
畑尾は直ぐ鏡子の傍へ来た。
『あのう、清さんが心配してお逢ひ致さずとか書いて下すつたのですつて、けれど気の毒ですから私逢ひますわ。はがして来て頂戴よ。』
『さうですか。よろしうおます。』
畑尾は立つて行つた。
『母さん。僕達のおみやげは未だ来ないの。』
と云つて健が来た。
『さあ、母さんには分らないわ。どの荷物が先に来たのでせう。ねえ、お照さん。』
『三つ程だけですよ。お座敷に御座います。』
『後にしませう。皆来たら母さんが出して上げます、直ぐ。』
『つまんないの。』
と云つて健が出て行つた。
『兄さん、未だお土産が出されないんだつて。』
と健が兄に云つて居る声が耳に入ると、思ひ出したやうに鏡子は立つて行つて、畑尾が持つて来た座敷の床の間に置いた影を見た絵具箱の二つからげたのを取つて来た。
『滿さん、来てごらん。』
『なあに、母さん。』
『この大きい方があなたの絵具箱ですよ。あなたに上るのよ。』
紐を解きながらさう云つた。
『さう、母さん。』
『うれしいこと、滿さん。』
『ふん、嬉しいなあ。』
『好いのよ、大きくなる迄使へるのよ。』
『早く中を見せて頂戴よ、叔母さん。』
『叔母さんは彼方へいらしつたぢやないの。』
『ふん、母さんだ。間違つちまふ。厭だなあ。』
と滿が云つた。母の手から貰つて横に糸で結へ附けてある鍵で箱の中を開やうとするのであつたが、金具は通つて来た海路の風の塩分で腐蝕して鍵が何方へも廻らない。
『なあに、兄さん。』
『私にも見せて頂戴。』
と云つて双子が出て来た。晨もそつと後から随いて来た。
『花木を一度母さんが抱きませうね。』
さう云ふと、おつとりとした子は限りもない喜びを顔に見せて母の膝に腰を掛けた。瑞木も傍へ来て母にもたれかかるのであつた。
晨は襖子にもたれて立つて居る。滿は縁側へ箱を持ち出して夏子に開けて貰つて居る。
『母さん、恐い夢を見たの、巴里で。』
花木は下を向いて我足を見詰めながら云つた。これは何時やら鏡子が子の上で見た凶夢を悲しがつて書いて遣したのを、叔母から語られて子供達は知つたのである。
『厭な夢を見てね。』
『花ちやんがいくらでもいくらでも泣くのですつてね、母さん。』
瑞木がをかしさうに云つた。
『厭な夢ね、真実に真実に厭な夢。』
と花木が云ふ。鏡子は其夢の中でかうして抱いたら泣き止んだことを思ひ出して、じつとまた抱きしめた。清の子の千枝子が庭口から入つて来た。
『あら、千枝子さん。』
と鏡子は我を忘れて云つた。従妹の影を見て双子は一緒に出て行つた。晨も行つてしまつた。お照が榮子を抱いて来た。泣いた跡らしく榮子の頬がぴりぴりと動いて居る。家の中で一番美人と云ふ評判をする人があるとか、自分も確かにさう思ふのと榮子の事をお照が巴里へ書いて遣すのを、巴里で夫婦はそんな事がと云つて苦笑したのであつたが、或はさう云ふ風に顔が変つて来たのかも知れないと思はないでも鏡子はなかつたのであつたが、先刻一目見た時からその一番の美人と云ふ事をどんなに滑稽に鏡子は思つて居るか知れないのである。子供として並外れた高い鼻と其横に附いて居る立湧のやうな深い線、未来派の描きさうな目を榮子は持つて居るのである。髪の毛も叔母によく似た癖毛である。
『母さんの所へ行つていらつしやい。』
と云つて、お照が榮子を畳の上へ置くと、口唇も頬も一層の慄へを見せて横歩きに母の傍へ末の子は近寄つた。
『抱つこして上げませう。』
鏡子は手を出したが目は今入つて来た千枝子にそそがれて居た。千枝子は黒地に牡丹の模様のあるメリンスの袖の長い被布を着て居る。
『おかへり。』
手を突いて静かに千枝子は頭を下げた。
『大きくなりましたね、髪が長くなりましたねえ。』
嬉しさうに鏡子は云つた。元禄袖の双子は一つ齢下の従妹を左右から囲んで坐つた。暫く直つて居た榮子の頬の慄へが母の膝に抱かれるのと一緒にまた烈しくなつてきた。鏡子は榮子が預けてあつた里の家から帰つて来て半月程で旅立つたのであるから、この子に就いての近い過去としては、里から附いて来た娘のことを、とうとの姉やと呼んで、いくら抱かうとしても、
『とうとの姉やだあい。』
と叫泣をされた記憶しかない。遠い昔にはその丸十一ケ月前に生れて牛乳で育てられて居た晨がひよわな子で、どうしても今度生れたのは乳母を雇ふか里へ預けるかして育てねばならない事になつて、乳母と云ふ鏡子の望む方の事は月に小二十円の費りが入ると云ふので靜の恩家への遠慮で実行する事が出来ずに、里へ預ける事になつた時、未だ産後十七日位の身体で神田の小川町へ、榮子に持たせてやる涎掛だの帽子だのの買物に行つた其日の悲しい寂しい思ひ出がある。里親夫婦が自身達よりも美服した裕福な品のある人達であるのを嬉しく思ひながら、榮子が明日から居る処をみじめな田舎家とばかり想像されて、ねんねこの掛襟を掛けながら泣いて居たのも鏡子だつたのである。
『榮子に乳を飲ませて上げようか。』
鏡子は白い胸を開けた。六年程子の口の触れない乳は処女の乳のやうに少く盛り上つたに過ぎないのである。
『厭、厭。』
榮子は首を振つた。
『ぢやあまた欲しい時に上げませうね。』
と云つて鏡子は襟を合せた。何時の間にか千枝子も伯母の膝にもたれて居た。お照が千枝子に二言三言物を云つて行かうとすると榮子がわつと泣き出した。鏡子は手を放して子を立たせた。お照は走つて寄つた榮子を、
『いけません。』
と突き飛ばして行つてしまつた。榮子は直ぐ起き上つて走つて行つた。
『千枝子さんはお悧口ね。』
かう云つて鏡子は姪に頬擦りをしたが心は寂しかつた。千枝子は口を少し開いて小鳥のやうな愛らしい表情をして居た。鏡子は弟の様に思つて居る京都の信田と云ふ高等学校の先生が、自分は一人子の女よりも他人の子の方を遥に遥に可愛く思ふ事、思ふ事の常である事を経験して居ると云つた事を思ひ出したりなどして居た。
『姉さん、お湯が沸きましたからお顔を洗つて頂きませう。』
とお照が云つて来た。鏡子が髪もさつぱりと結ひ替へて書斎へ帰るとまた二三人の記者が待つて居た。顔も知らない人もあつたが鏡子は心と反対な調子づいた話をして居た。
鏡子が茶の間で昼の膳に着いたのはかれこれ二時前であつた。向ふの六畳では清と英也と秋子と千枝子が並んで食べて居た。英也は何時の間にか銘仙に鶉縮緬の袖の襦伴を重ねて大島の羽織を着て居た。それは皆靜のものであつた。着る人も扱ふ人も自分達でなくなつたと、深くはないが鏡子の胸に哀れは感じさせた。末と云ふ女中はお照の事を奥様と云つて居る。畑尾は先刻頼まれて帰つた事の挨拶に二三軒の家へ出掛けて行つたのである。
荷物が皆配達されて鏡子はおもちや類を子供に分けた。双子と千枝子は揃ひの人形、滿と健と薫はバロンの毬、晨は熊のおもちや、榮子は姉達のより少し小いだけの同じ人形を貰つた。
『まだあるの、けれど鞄の中で他の物に包んだりしてあるのだから後で出して上げます。千枝ちやんや、瑞木さんや、花木さんの洋服もあるのよ。』
と鏡子は云つた。
『僕には何があるの、外に。』
と健が云つた。
『さあ何だつたかねえ。』
『母さん、兄さんはもう要らないのね、絵具箱があるのだもの。』
『そんな事ありませんね、母さん。』
『いいんだ。いいんだ。』
『やかましい、健。』
と滿が云ふと、
『いやあ。』
と健が泣き出した。
『瑞木ちやんの人形の方がいいのよ、とり替へて頂戴よ。』
と花木が云ふ。
『いやよ、いやよ。』
と瑞木が泣声で云つて居る。鏡子は周章しい世界へ帰つて来たと夢から醒めた時のやうな息をして子供達を見て居た。
『後程また伺ひます。』
清は薫のバロンを持つて、千枝子だけを残して帰つた。鏡子はふとトランクや鞄の鍵をどうしたかと云ふ疑ひを抱いて書斎へ行つた。そして赤地錦の紙入を違棚から出した中を調べて見たが見えない。
『あら。』
と独言を云つて首を傾けて見たが外に何の心覚えもない。
『お照さん、鞄の鍵を私落して来てよ。』
恥しい事を思ひ切つて云ふやうに鏡子は隣の間の妹に声を掛けた。
『何処かにあるのぢやありませんか。』
入つて来たお照の顔は目の尻、結んだ口の左右に上向いた線がある。
『着物を脱いだ所になかつたこと。』
『いいえ、ありません。』
『ぢやあ汽車の中なんだわ。』
『大変ですね。』
『さうだわ。』
『困りますね。』
『いいわ。どうかなるわ。けれどあなた一寸新橋の停車場へ電話で聞いて見て下すつても好いわ。あのう、食堂車の前の箱ですつて。』
『さういたしませう。』
お照は立ちしなに襟先を一寸引いて、上褄を直して出て行つた。
鏡子が茫として居る処へ南が出て来た。
『おや、南さん。』
鏡子の頬に涙がほろほろと零れた。
『おめでたう。』
其儘じつと南は俯向いて居て、細い指だけは火鉢の上へかざされた。この無言の中へ夏子の入つて来たのを鏡子は嬉しくなく思つた。英也も来て南に初対面の挨拶をして居た。
出入の料理屋の菊屋から奥様にと云つて寿司の重詰が来たと云つてお照が見せに来た。片手は背に廻して先刻から泣いて居る榮子を負ぶつて居るのである。
『何故そんなに榮子は泣くのでせう。』
『先刻ね、今晩から母さんとおねんねなさいと云つたら、それから泣き初めたのですよ。』
お照は口を曲げてかう云つた。
『そんなことを云はないでもいいに。』
と云つて鏡子は榮子の顔を見て一寸眉を寄せた。
『榮ちやん、いけませんねえ。』
と云つて榮子を夏子が抱き取つて二人の女は一緒に立つて行つた。
『焼けましたねえ。』
南は気の毒さうにまじまじと師の奥様の顔を眺めて居る。
『情ないのねえ。けれど荒木さんは私を若くなつたと神戸では云つたのね。』
鏡子は英也の顔を見て笑ひながら云つた。
『少くも二つ三つはね。』
英也は胡散らしく云つた。
『さうぢやありませんよ、確に。』
『南さんの方が真実ですね。ねえ南さん、良人がね、巴里でね、此処へ着いた十日程は若かつたねと云ふのでせう。私を先に帰して下すつたら、あなたが帰つていらつしやる時にはまた五日位は若いでせうと云つたの、僕の思ひなしにしてしまつて居るのだ馬鹿だと怒つてましたわ。』
英也は火鉢の灰を掻きならしながら下を向いて笑つて居た。
南夫婦と鏡子は菊屋の寿司を書斎へ運ばれて、子供達は六畳でそれを食べて、夕飯はそれで済んだ。飯酒家の英也はお照の見繕つた二三品の肴で茶の間で徳利を当てがはれて居た。清の妻の都賀子が来たので鏡子は暫く座敷で語つて居た。都賀子は鏡子よりは二つ三つの年上で洒脱な江戸女である。
『唯今迄のお照さんのお役目が大変で御座いました。』
と出て来た妹に花を持たせる事も忘れなかつた。
鏡子は書斎へ帰つてゆきなり、
『私ときどき喧嘩もして来てよ、帰りたいばかしに。』
と云つて南夫婦をじつと見た。
『ほ、ほ、ほ。』
と夏子は笑つた。やつとして南は、
『さうですか。』
と云つて居た。南の気の毒なものを見るやうな目附が鏡子には寂しく思はれるのであつた。巴里への手紙は今日書けないかも知れぬと悲しい気持になつたり、書棚の引出しに確かにある筈の良人と一緒に去年の夏頃とつた写真が見たいものだと云ふ気になつたりして居た。榮子がまたぐずぐず云つて居るのを聞いて夏子が立つて行つた。
榮子は英也の向側に坐つたお照の横に、綿入を何枚も重ねて脹れた袖を奴凧のやうに広げて立つて、
『叔母さんとねんの、叔母さんとねんの。』
と連呼して居た。
『どうなすつたの、榮ちやん。夏子さんとおねんねいたしませう。』
と云つて夏子は坐つた。お照は榮子を膝に掛けさせて、
『母さんと寝れば好いので御座いますがね。』
と云つた。
『今晩からは御無理で御座いますよ。榮ちやんいらつしやい。』
榮子は夏子の伸した手の中へ来た。
『さあお寝召を着かへませう。お末さん何方。』
『はあい。』
お末は白い前掛で手を拭き拭き出て来て、暗い六畳の半間の戸棚から子供達の寝間着の皆入つた中位な行李を引き出した。
『榮子さまは好いので御座いますねえ、夏子さんとおねんねで御座いますか。』
『いいのですとも。』
榮子を抱いて来た夏子はくるくると着替へをさせてしまつた。そして末の敷いた蒲団へ小い身体を横に置いて、自身も肱枕をして、
『ねんねえ、ねん、ねん。』
と云つて居た。
『もう皆もお休みなさいよ。』
書斎の母親は座敷に遊んで居る子供達にかう声を掛けた。
『いつもまだまだ寝ないのよ、母さん。』
滿は不平らしい声で云つた。
『でも、今朝は早く起きたのでせう。だから。』
『はあい。』
と滿は答へた。
『もう眠いのよ。母さん。』
母の傍へ来た花木がかう云つた。
『末や、お床とつて。』
云ひながら茶の間へ滿が出て行くと、
『まだ早いぢやありませんか。』
とお照が云つた。
『母さんが寝なさいつて云ふたんだあ。』
羽織の白い毛糸の紐の先を歯で噛みながら云つて居る此声を、もう起き過ぎたねぞろ声だと母親は此方で思つて居た。泣くやうな目附を見るやうにも思つて居た。
『さうですか、末や床をとつておやり。』
お照はまた、
『岸勇と云ふのが好いのでせう。』
と英也に話を向けた。
『うん、うん、うん、あれなんか好いのだ。』
点頭きながら叔母にかう答へて英也は杯を取つた。畑尾がまた来たのと入り違へに南は榮子を寝かし附けた夏子を伴れて帰つて行つた。
『私ね、鞄なんかの鍵を無くしてしまつたのよ。神戸の宿屋でせうか。』
『さうですか、大変ですね。』
『ええ。』
と云つたが、鏡子は先刻お照から大変だと云はれた時程ひしひし悪い事をしたと云ふ気も起らないのであつた。
『三越へ電話で頼んで頂戴よ。彼処にはあるに決つて居るのだから。』
『ああさうですね。宜しうおます。』
それから昨日神戸でしかけた旅の話の続きのやうな話が長く続いた。鏡子は気に掛る良人の金策の話を此人にするのに、今日は未だ余り早すぎると下臆病な心が思はせるので、それは心にしまつて居た。
お照が出て来て、
『英さんがお先に失礼すると申して二階へ上りました。』
と云つた。
『さう。あなたも今日はくたびれたでせうね。』
『いいえ。そんな事があるものですか。』
とお照は云つた。京女のその人は行届いた言葉で今度の礼を畑尾に云つて居た。
『また伺ひます。さやうなら。』
何時もの風で畑尾はだしぬけにかう云つて帰つた。
『姉さん、私はね、初め四月程の不経済な暮しをして居ました事を思ひますと姉さんに済まなくつて済まなくつて、仕方がないのですよ。』
お照は右の手首を左の手の掌でぐりぐりと返しながら姉の顔を見て云つた。
『済んだことだわ。何とも思つて居やしませんよ。』
余り聞きたく無い事であつたから鏡子は口早に云つてしまつた。
『榮子の薬代も随分かかりますしね。』
『さうでせう。さうでせう。』
鏡子は少し自棄気味で云つた。
『榮子一人にどれだけお金の掛つたか知れませんよ。』
『あのう、巴里から一番おしまひに来た手紙は何時でしたの。』
と鏡子が云つた。
『十日程前でしたかしら。』
『見せて頂戴な。』
『はい。』
お照は本箱の上に載せた蝋色の箱の中から青い切手のはつた封筒の手紙を出した。手に取つて宛名を見ると、鏡子は思ひも及ばなかつた徴かな妬みの胸に湧くのを覚えたのであつた。
子供達皆無事のよし、何事も皆お前様の深き心入よりと嬉しく候。
と書き出して、優しい言葉が多く書いてある。鏡子が巴里に居た頃、自身達の本国に居た頃より遥かに多く月々の費りが入るのを知らせて来る妹の家計を、下手であると怒つては出すのも出すのも妹を叱る一方の手紙だつたのを、傍からもう少し優しくとか、もう少しどうかならないかと頼み抜いた自分が、傍に居ない日になると、他人の自分が居なくなると兄は妹にこんな手紙も書けるのであるとかう思ふと、鏡子は何とも知れぬ不快な心持になつた。鏡子も無事に日本へ帰るかどうかと心配がされると云ふやうな事もあるのであるが、良人の愛に馴れた妻はこの位の事は嬉しいとも思はないのである。
『畑尾さんの処へ来たと云ふ方が近いたよりなんですね。』
鏡子は何気ない振でかう云つて居た。
『私もう寝ませうかねえ。』
とまた云つた鏡子の声は情なさうであつた。
『さうなさいまし。』
『おやすみなさい。』
鏡子は寝室へ行つた。八畳の真中に都鳥の模様のメリンスの鏡子の蒲団が敷かれてある、その右の横に三人の男の子の床が並んで居て、左には瑞木と花木が寝て居る。若草の中の微風のやうな子等の寝息、鏡子のこがれ抜いたその春風に寝る事も鏡子にはやつぱり寂しく思はれた。良人を置いて一人この人等の傍へ寝に帰らうとは、立つ前の夜の悲しい思ひの中でも決して決して鏡子は思はなかつたのであつた。ふとお照がもう五つ六つ年若な女であつたなら、そしてあのやうな恐い顔でなかつたならせめて嬉しいであらうなどとこんな事も思ふのであつた。
五時頃から滿と健はもう目を覚して、互いの床の中から出す手や足を引張り合つたり、爆ぜるやうな呼び声を立てたりして居た。鏡子は昨夜二三十分位は眠れたが、それも思ひなしかも分らない程で朝になつたのである。六ケ月の寝台の寝ごこちから、畳の上に帰つた初めての夜の苦痛もあつたからであらう。
『母さん、母さん。』
滿が呼んで見た。
『なあに。』
『母さん、仏蘭西の話をして頂戴よ。』
『して、して。』
と健も云ふ。
『母さん、話してい。』
花木も云ふ。
『母さん。』
云はねば済まないやうに瑞木も云つた。
『狐の母さん、お乳を飲ましてくえないか。』
目を覚して晨も声を出した。
『何を云つてるの。』
『学校子供云ふの。』
これは健の友達の弟がさう云つたと云ふ話を晨の聞き覚えた事なのである。
『母さん、話してよう。』
滿が云ふのに続いて皆が母さん、母さんと云ふ。
『母さんは昨夜よく眠ないのでね、頭が痛いのよ。』
『さう。ぢやあいいや。』
と滿は云つた。
『つまらないなあ。』
と健は云ふ。好きでない気質の交つた子だと、鏡子は昔からの感情の改り難い事も健に思つたのであつた。隣の間で榮子の泣声がする。
『お湯が沸きましたよ。滿。』
お照が甥を起しに来た。
『あら、叔母さんがもう起きていらしやる。』
鏡子が枕から頭を上げようとするのを、お照は押へるやうな手附をして、
『まあ、お休みなさいよ。』
と云つた。滿と健はばたばたと床を抜けて行つた。
『どうせ寝られないのだから。』
都鳥の居る紺青の浪が大きく動いて鏡子は床の上に起き上つた。
『昨晩はよくお休みなさいましたか。』
『ちつとも。』
寝くたれ髪が長く垂れて少女のやうな後姿であつた。
『兄さんが余計お湯を使つちやつた。』
健の泣き出したのを聞いてお照は洗面場の方へ行つた。榮子はまた声を張り上げて泣いた。
鏡子は鏡の室から出て来て、
『お照さん、こんな結ひ様もあるのよ。』
と云つて、頭を其方へ傾けて見せた。髪の根を下の方で束ねて、そしてその根も末の方も皆裏へ折り返して畳んでしまつてあるのである。
『さつぱりとして軽さうですね。』
『けれど尼様のやうに見える寂しい頭だつて良人は嫌ひなのよ。』
『さう云へばさうですね。昨日のになさいまし。』
『でもいいわ。今は尼様だわ。』
頬を少し赤めて彼方へ行つた姉をお照は面白くなく思つて見送つた。
男の子二人が、
『行つて参ります。』
と云つて庭口から出た後で外の家族は朝飯の膳に着いた。
『英さんのおみおつけが別にしてあつた。』
『さうですね。』
お照が立つと、わあつと榮子が泣き出した。直ぐ叔母は戻つて来て榮子を膝の上に上げて、
『どうしました。どうしました。お乳を上げようね。』
と云つて襟をくつろげた。榮子は小い手を腹立たしげに入れて叔母の乳を引き出して口に入れた。
『まあ乳を飲むのですか。』
と鏡子は云つたが、心は老いたる処女の心持の方が不可思議でならないのであつた。
『ええ。』
お照はまた其子に、
『母さんのお乳は真実のお乳よ、お貰ひなさいよ。』
と云つた。
『いやだわ。』
と鏡子は反撥的に云つた。そして、
『何故さうなのでせう。玉川の方でも乳は一年限りで廃して居たのだつたのにね。』
かう云ひながら末の出す赤い盆にてつせんの花の描いた茶碗を載せた。
『さあ御飯を食べませう。』
お照は乳房をもぎ放して榮子を下に置いた。また泣いて居たのを、
『ばつたりおだまり。』
と叔母に云はれるのと一緒に声を飲んだ子がをかしくて鏡子は笑ひ出したく思つた。後れて来た花木が、
『あら、叔母さん嘘、お芋のおみおつけだと云つたのに。』
と云つて汁椀の中を箸で掻き廻して居る。
『八つ頭と云つてこれもお芋ですよ。』
と母親が云つた。
『叔母さんは嘘つきですとも。』
と云つたお照は目に涙を溜めて居た。鏡子は京都者の軽い意味で云ふ横着と云ふ言葉が、東京者に悪い感じを与へるのと、東京の人が軽い意でちよくちよく嘘と云ふ言葉を遣ふのが京の人に不快を覚えさすのとは、一寸説明した位で分らない事だから、こんな時には黙つて居るより仕方がないと思つて居る。そしてこれからの困りやうが思ひ遣られるのであつたが、留守のうち、過去と云ふ事は思つて見たくなかつた。それでなくとも自分は彼方に居た六ケ月の間、心の中で毎日子に跪いて罪を詫びない日はなかつたのであるからと思つて居た。榮子は御飯が熱いから厭、冷いからいけないと三度程も替へさせてやつと食べにかゝつて居るのである。それは母を見ぬやうに目を閉いで口を動して居るのである。
『私を見るのが厭で目を閉いで居るのね。』
『ふ、ふ。』
とお照は笑つて、
『榮ちやん、好い顔をなさいよ。あなたは真実に可愛い表情をする人ぢやありませんか。』
と云つて居た。
書斎へ来て新聞を見ようとして、自身の事の出て居るのに気が附いた鏡子は、三四種の新聞を後の靜の机の上へそのまゝ載せた。
『お早う。』
瑞木が挨拶に来た。花木も晨も来た。
『何故御挨拶に行けないのです。よくおしやべりをする口で。』
お照の声が不意に書斎の隣で起つて、続いてぴしやり、ぴしやりと子の頭を打つ音が鏡子に聞えた。
『いやだあ、しない、しない。』
『これでもか、これでもですか。』
『しないのだ。いやだあ。』
八頭の芋を洗ふやうにお照は榮子の頭を畳に擦りつけ擦りつけして、そして茶の間へ出て襖子を閉めてしまつた。
『をばあさん。をばあさん。』
榮子は有らん限りの泣声を立てゝ居る。鏡子は涙を零して居た。
『瑞木さんと花木さんの幼稚園へ行くのを、母さんは通まで送つて上げよう。』
鏡子は身を起してかう云つた。
『二人で行けるのよ。』
端木が云つた。
『ぢやあ裏門まで。』
末が赤いめりんすで包んだ双子の弁当を持つて来た。
『瑞木さん、花木さん、おはんけちの好いのを上げませう。』
お照は二人のクリイム色の帯に白いはんけちを下げて遣つた。
『ありがたう。叔母さん。』
瑞木が云ふと叔母は満足らしい笑を見せて、
『いつていらつしやい。』
と云つた。
『叔母さん、行つてまゐります。』
二人は一緒にかう云つて庭口から出て行つた。鏡子は二間程後から歩いて行くのであつた。車屋の角迄行くと、忘れて居るのであらうと思つて居た母親を見返つて、
『さよなら。』
と二人は一緒に云つた。
『もう少し母さんは行きませう。』
二人はまた手を取つて歩き出したが、二三間先の曲角でまた、
『さよなら。』
と云つた。
『阪の処まで行きますよ。』
かう云つて随いて来る母親から次第に遠く離れて双子は急足で女子学院に添つた道を歩くのであつた。鏡子はお照を新橋から迎へて来て此処を歩いて居た時の自分の其人に対する感情は純なものであつたなどゝ思ふ。けれど今だとてあの人を悪くは少しも思つて居ない。子供が俄かに母の手に帰つたので云ひ様もない寂寞を昨日からあの人は味つて居るのであるから、あゝした尖つた声で物を云つたり、可愛い榮子を打つたりするのである。さう同情して思ふから、一層この後があの人のためにも自分のためにも心配でならないと、こんな事を思つて居る鏡子は俯向き勝ちに歩を運んで居た。何時の間にか回生病院の前へ出た。
『さよなら。』
今度は母の方から大きく云つた。
『さようなら。』
双子は振返つて一寸お辞儀をしたが、直ぐ阪を駆けて降りやうとした。十間程先で二人はぱつと左右に分れた。そしてわつと泣き出した。鏡子がまだ阪の上に立つて居た事は云ふ迄もない。鏡子は転ぶやうに子の傍へ行つた。二人を両手で同じ処に引き寄せた。鏡子はべつたり土に坐つて、親子三人は半年前の新橋の悲しい別れを今の事に思つて道端で声を放つて泣いたのであつた。小学生が四五人怪しさうにこれを見て通つた。
『母さん、母さん。』
と絶えず云ふ瑞木の言葉の奥には行つちやあ厭と云ふ声が確かにあるのをもとより母は知つて居た。
『ぢやあ幼稚園まで送つて上げようね。』
二人は泣きながら黙頭くのであつた。歩み出しても泣じやくりが止まりさうにない。
『泣いては人が笑ひますよ。ねえ、母さんはもう何処へも行かずに家にばかり居るのだからいいでせう。』
云ふと二人は何でも黙頭くのであるが泣声はますます高くなる。幼稚園の門で別れやうとすると、
『母さう、母さん。』
とまた云ふ鏡子はお照の居ない家なら伴れて帰るものをと思ふのであつた。爺やに慰められても聞かず二人は母を廊下に上げて教場まで伴れて行つた。
『さあ、運動場へ行きませう、花木さんはお姉さんぢやありませんか。お姉さんが泣いてはをかしいですね。瑞木さんももう泣かないでせう。』
保姆に云はれて二人は泣きながらまた黙頭いて居た。
悔恨の銀の色の錘を胸に置かれた鏡子が庭口から入つて行つた時、書斎の敷居の上に坐つて英也は新聞を見て居た。座敷の縁ではお照がまだ榮子に乳を含ませて居た。
『おかへり遊ばせ。』
『お早う御座います。寝坊をしてしまひました。』
と云ふ英也にも口が利かれなくて、唯お辞儀をしただけで鏡子は花壇の傍へ走つて行つて、二人には後向になつて葉鶏頭の先を指で叩いて居た。鏡子はふと晨坊はどうしたであらうと思つて胸を轟がせた。今縁側の傍迄行つた時に、晨が書棚の横の五寸と一尺程のひこんだ隅に立つて居た事に気が附いたのである。
『晨坊、いらつしやい。』
鏡子は縁側の処へ寄つて行つた。
『なあに。』
と晨の云つて居るのはやはり其の狭い処からである。
『晨は何時もあんな処に入つて居るのですか。』
『そんなこともないんですがねえ。』
とお照は云ふ。
『いらつしやい。』
晨は赤い口唇を細く窄めながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
『いいお花ね。』
子に見せながら、この子をもう一人かうして出れば後には心残りがない。家へ帰りたい帰りたいと思つた家と云ふものは実はこんなものなのかと思つた。
『英さん、今日はお出かけ。』
かう快活な声で云つて暫くして鏡子は上へ上つて来た。
『さあ。』
『行つていらつしやい。展覧会へでもね。』
『さあ。』
『そんなに東京を見くびるものぢやないわ。私は昨日東京を見て感心しちやつたのよ。麹町は好い所ぢやありませんか、ねえお照さん。』
『さうですね。京都より好い処もありますね。』
今度はお照が極く滅入つた調子である。
『歌舞伎座の案内を頼むのに好い人があるのですがね、勤めの身ですからね、今日はだめだらうと思ふのですよ。』
かう微笑みながら云ふ英也が、自分のよく知らない良人の若盛りと云ふものの影ではないかなどと鏡子は一寸思ふ。
『私、あなたが飲んでいらつしやるのを見るとまた煙草が飲みたくてならなくなるのよ。』
鏡子は英也の横顔を眺めながら云つた。
『お飲みになればいいぢやありませんか。』
さう云つて英也はアイリスを一本火鉢にかざした叔母の指に持たせた。
『折角よしたのですからね。』
と鏡子は云つて居た。此人は甥であつても年下であつても、もう思想がちやんと出来上つて居る人で、自身などを叔母、叔母と云ふだけが最善の事をして居ると思つて居るに違ひないのであると、こんな事を鏡子が思つて居るうちに煙草は皆粉になつて灰の上に散つて居た。煙草に気が附いた時鏡子は好い事をしたと思つた。廃めた事をあんなに良人から善ばれた煙草だからと、さう思ふのであるが水色の煙が鼻の前に靡くのを見ると堪へ難くなつて座を立つた。
昼飯の時も榮子は目を閉いで食べた。お照が叱ると、
『末とあべる。』
と云ふ。
『母さんが厭なの、他所へ行つちまつたら好いと思ふの。』
鏡子が笑声で云つた時、榮子は初めて目を開いて母を見て点頭いた。
『榮子は厭な人ね。母さんは今日鞄を開けたらもう一つ人形があるのだけれど、榮子はいらないこと。』
『欲しくないや。いらないや。』
榮子は叔母の方を向いて低い声で云つた。
一時頃に英也は出て行つた。鏡子はコロンボ以来の消息を良人に書かうとして居た。畑尾が来た。畑尾は昨日彼方此方で聞いた鏡子の噂などを語るのであつたが、鏡子は此人が今に大阪訛を忘れ得ないで居るのが、一層この人をなつかし味のある人にするのであるやうに、お照は京言葉を使へば好いではないか、女中困らしの彼方の固有名詞は最も多く使つて居るのになどと思つて居た。お照が榮子を抱いて来た。
『甘うますわねえ。』
『ええ。』
と云つて、お照はまた、
『此人は一番姉さんのお気質によく似て居るのでせうよ。何力も強い者同志でびんと撥ねてるのですよ。』
と云つた。
『あら、あんな事、私がそんなに強い人なものですか。ねえ畑尾さん。一人行つて一人帰るのがさう云つた人に見えるか知らないけれど、違ひますねえ、畑尾さん。まるでねえ、畑尾さん。』
訴へるやうに畑尾を見て云つた。畑尾は口を半開けて、頬をむごむごさせて限りもなく気の毒に思ふと云ふ表情を見せた。
『それでもねえ。』
と未だお照は云つて居た。榮子の眉と目の間、高い鼻、口元がお照に似て居ると云ふ事も鏡子は云ひ出すのに遠慮をして居る自分とは違つた気強い人を恨めしく思つた、畑尾はそこそこに帰つて行つた。瑞木と花木が朝の涙などは跡方もない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙を零しながら書いて居る母の傍へ来て、
『母さん、何時迄も生きて居て頂戴よ。え、母さん。』
と云つた。
『母さん所へ行つていらつしやいよう。いらつしやいてばよう。』
癇走つた声が打叩きする音に交つて頻に聞える。鏡子は立つて行かうとしてまた思ひ返して筆をとつた。
『榮子なんか駄目だ。馬鹿。威張つたつて駄目だよ。兄さんを撲つたりしてももう聞かないよ。』
滿の罵る声がしたかはたれ時に、鏡子は茶の間へ出て行くと、お照は四畳半で榮子をじつとじつと抱いて居た。
底本:「新小説」春陽堂
1913(大正2)年2月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
2011年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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