日記のうち
與謝野晶子
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十一月十三日
きゆうきゆうと云ふ音が彼方でも此方でもして、何処の寝台ももう畳まれて居るらしいので、わたしも起きないでは悪いやうな気がして蒲団の上に坐つた。けれどまだ実際窓の外は薄暗さうである。富士が見えるかも知れぬと思ふが窓掛を引く気にもならない。身繕ひをして下駄を穿きながら、ボーイに心附けを遣らないでおけば物を云ふ世話がなからうなどと考へて居た。洗面所に入つて髪を結つて来た間に上の寝台もしまはれて、大阪の商人は黄八丈の寝間着の儘で隣に腰掛けて楊枝を使つて居た。日が当つて富士が一体に赤銅色をして居る。頭が痛い。何時この汽車が新橋へ着くのかわたしは知らない。八時半頃であらうかとも思ひ、十一時迄かかるのではなからうかとも危まれる。良人の船が門司を出るであらう、光と秀は学校へ行く仕度をして居るであらうが、あの子等とは三時にならなければ逢はれないなどと思ふ。袂へ手を入れると京都の停車場で岩城さんと智さんに貰つた敷島がめいつた風をして三四本出て来た。火を附けて飲みながら、良人の船を下りる時わたしの持つて居た風呂敷には何が入つて居たのであらう、良人よりも大切な物と思つてわたしがそれを抱いて持つて行くと良人は思はなかつたであらうか、而も憎い色の退紅色のあの風呂敷包を海へ捨ててしまへばよかつたなどと思ふ。毀たれは家の後に残つた十畳と四畳の二間に、箪笥や仏壇をごたごたと並べてその中で二人の子にやんちやを云はれながら笑顔をして居た弟夫婦が哀れに思ひ出されもする。熊七が乗つて来た汽車はどの辺に居るであらうなどとも思ふ。食堂へ誰も誰も行く。通つて行く女が皆團十郎の妹娘の旭梅とか云ふ人の風つきをして居る。わたしは食べたくないことよりもものを云ひたくない心が多くて弁当も買はないのである。国府津で新聞だけは黙つて居ても売つてくれないかとさう思つて、列車の端に出て行つて懐中の紙入に手を掛けながら立つて居たがその儘汽車は動き出した。こんなのであるから家へ帰つても行かねばならない家へも行かないで、書かなければならぬ手紙も書かないで居るのであらう。やつぱり八時半頃に新橋へ来た。修さんと桃が来て居てくれた。不思議にいろいろと私がものを云ふ。
『麟坊ちやんが少し悪くてね。』
『まあさうなんですか。』
とわたしが云ふ間もなく、
『じふてりやでね、軽いのですがね。』
と修さんは云つた。わたし等三人は早足で車寄へ出た。修さんは麟の容体は注射をした後であるから少し熱があるかも知れないが案じるには及ばないと繰返し繰返しわたしに云つて、それから電車で役所へ行つた。車に乗つたわたしは末の男の子の病気を思ひ懸けずに聞いて混乱した頭の横で、何故今朝桃はいつものやうに水際立つて綺麗な顔には見えなかつたのであらうとそんなことを物足りなく思つて居た。車夫が握拳で突いたら閉つた門が左右に開いた。隣の家の玄関から七瀬と八峯が出た来た。茶の間の横の四畳半に寝た麟はコオトのままで居るわたしを物憂さうに長い間眺めて居た。清水坂で良人と二人が麟にと云つて買つた鳩と鶏を出して枕元へ置いても麟はいやいやとばかり云つて見ようともしない。体温は朝からずつと六度八分ださうである。七瀬と八峯にも人形を出してやつて、それから着物を着更へやうと帯揚げを解きながら思ひついて縁側へ出て四畳半の書斎を覗いた。悲しくなつて帯揚をまた結んで応接室へ入つてカメリヤに火を附けて吸つた。縁側には快い日が当つて居る。今迄はわたしがかうして居ると、良人はどうしたのかと云つて何時も書斎から出て来たのであつた。忙しいのでくさくさしてしまふとわたしが云ふと気の毒だと面白さうに良人は云つた。一緒に西洋へ行かないかと云ふと、そんな事はどうぞ云はないで居て頂戴と強い女らしくわたしはよく云つた。この春病気をしてからは良人が庭へ出ると背に負ぶさつたりした。それから後で子供が代る代る良人に負ぶさる頃にはわたしは又この椅子にもたれて冷い母親らしくして黙つて眺めて居るのであつた。麟を伴れて桃が小児科の原田さんへ行つた。玄関へ近くの林医師の書生が奥さんが帰つたかと聞きに来た。わたしは痛い身体をまたちくちくと針で刺されるやうに苦しく思つた。気を強く持つて書斎へ入つて、立つ朝飲みさしの葉巻を良人が机の上に置いて行つたのを思ひ出して、どうしてもそれを飲まなければならないやうな気がするので其処等を捜したが見当らなかつた。良人の机の上に今朝来たらしい相馬さんの郵便があつたのを開いて読んだ。わたしは又ふらふらと応接室へ入つて行つてカメリヤを飲んで居た。松が留守に来た郵便を一まとめにして持つて来た。一番上にあるのが一昨日の夕方大阪の心斎橋通りを歩いて一緒に戎橋を渡つて難波の停車場で別れた茅野さんの手紙である。
晶子様
難波の停車場で私は少し何うかして居ました。急いで停車場から飛出した私は、また大急ぎでプラツトホオムヘ飛込みました。そして奥様を捜して電車の中へ飛込みました。それは最う奥様の乗つて居られた電車が出て了つたその次ぎの車なのでした。
今朝は七条へ行つて今一度奥様の強い方面を見度い、確りして居る処を見たかつたのです。それからあなたの好きさうな友染か何かを驚く程沢山贈つてあげ度いやうな気がしました。お宅へお帰り迄の手すさびに。
云ひ度いと思ふやうなことは一言も云ひ得ずに了ひました。併し大概わかつて居て下さるでせう。私は私の弱い方面を奥様に見せ度くありませんでした。何かの時には尤も冷静、沈着に処理して行くことの出来る男だと思つて居て下さい。私は確かにさう云ふ方面をも持つて居ます。リヒヤルド、デエメルが斯う云つて居ます。「されども恋は Trübe なり」Trübe とは曇ると云ふ意味とうら悲しいと云ふ意味をも持つて居ます。私はそれに「永久に」と附加して置き度い。併し貴女は強い人でせう。
こんな手紙を書いても決して奥様を慰められやうとは思ひません。言葉ではないです。併し私の心でも今のあなたの心を慰められないでせう。時をたのむより仕方が無いでせう。
むつかしい事の書いてある処よりも友染と云ふ字のある処を何度もわたしは見た。良人の留守に来た郵便物は読んだ手紙も一緒に柳行李の小いのにしまつて置いて、帰つた時に見せるのが今迄の習はしであつたのであるが、今度はそんなことも出来ないと思ひながら、入用の物、返事の入る物、歌の詠草などと撰り分けて処理するのが何とも云ひやうのない重くるしい仕事に思はれてならなかつた。熊七がもう着く頃であるとふと気が附いた。十一時半である。松に門の前へ出て見て居てくれと云つた。金尾さんを老人にしたやうな、それよりも痩せて穢い背の屈んだ人だとわたしは云つた。その後で番頭の熊七は絵草紙にある孫悟空に生写しであると妹と云つて笑つた昔の日のことが思ひ出されて微笑まずに居られなかつた。遊びに来て居た女の子達に豆人形を出して分けて持たせて帰すと、わたし等も欲しいと七瀬と八峯が云ふので、三つ持つて帰つた土焼の舞子を佐藤さんの分を一つだけ残して跡を遣つてしまつた。麟が帰つて来た。もう大丈夫だと云ふことである。松が待ちあぐんで家へ入つて来た後から間もなく熊七は来た。
『小い子が悪くてね。』
顔を見るなりこんなことを云つたのを私はその後で直ぐ後悔した。旧い奉公人の誰も彼も去つた跡の駿河屋に一人残つて居る正直な番頭がたまたま店の休業中に東京を見物しようとして来たのであるから。
『嬢ちやんだすか、可愛らしいおますな。』
と熊七は二人の女の子を見て云つた。
『お賢うおますな、内ではあまりお子様方を可愛がりはりますので、ようおまへんと心配でな。』
とも云つた。江南さんの秋子さんが千代紙を持つて来て下すつた。秋子さんと一緒に昨日別家から貰つて来た焼かまぼこと吸物で昼の食事をした。熊七は風呂場の傍の三畳に入つて此処で結構だと云つて茶の間の火鉢の処へも出て来ない。佐藤さんの人形を秋子さんに見せて居たが、顔が生田さんの奥さんに似て居ることに気が附いた。二時半になつたからお帰りになる秋子さんと一緒に一番町の通まで光と秀の帰つて来るのを迎へに行つた。坂を上つてくる帽の上から見てよく似た子は七八人も違つた子で、やつと後に讓さんと三人連れでわたしの子は坂を上つて来た。
『母さんが居ますよ。』
と珍しさうにも思はない声で秀が兄に知らせて居た。秋子さんと別れた。
『お父さんはもう行つてしまつたの。』
と云ふのを初めにいろいろの質問を私の小い友達はする。船中の事ばかりで京や大阪やわたしの古郷の事などは聞いて呉れさうにもない。
『熊七。』
と大きい声で云つてやつて御覧と道を歩きながらわたしが云つた時光は受合つて居ながら、家へ入ると耻しくなつたと見えて、それで居て云はないで居るは悪いと思つたらしい柔順な子は、
『熊七。』
と傍へ立つて低い声で云つて居た。熊七はどんな顔をしたのか知らない。秀にも三畳へ行つてやれと云つたが笑つてばかり居た。書生の兒玉が帰つてから熊七は二重橋から銀座辺の見物に出掛けて行つた。土産物を持つて二人の女の子と一緒に元園町の修さんの家へ行つた。千歌子さんと話して居るうちに暗くなつたので、自身の家の外では夜に逢つたことのないわたしの子は声を揃へて泣き出した。お文さんと女中とに一人づつ負ぶさつて帰つて来た。途中お文さんと話して居ながら味気ないはかない心持をどれだけわたしはしたか分らない。鰯のすしと玉子の煮たので夕飯を食べてから湯に子供を入れた。髪を撫でて灯の点つた書斎に入つて万朝の歌の撰をしようとした。私の机の上に、
上総国周淮郡に未珠名と云ふ娘が居た。娘は生れながら悧発な上に美くしく、乳のあたりがふくやかに腰は気もちよく細かつた。それで以似蜂娘子と綽名で呼んで居る男も多かつた。娘の年はよくわからない、娘に聞いて見ると二十だとも二十一だとも云つた。しかし大底の人には十九だと答へたやうだ。けれどその後ではきつと女の十九と云ふのはいい年でございますねと付け加へて居たのを見るとそれも当にはならない。娘の評判が立つと用もないのにその門を往来したり遠まはりしたりする男は沢山あつたものだ。
娘は毎日美くしい蜂が花から密を運ぶやうに仕事のやうにまた慰みのやうに草を干したり水を汲んだりして居た。娘の家の直ぐ前を川が流れて居た。
こんな書きさしの原稿が置いてある。江南さんのお書きになりさうなものだと思ふのであるが佐藤さんのやうでもある。硯の下から大學さんのはがきと三田の文学会の切符が七八枚出たのでいよいよ佐藤さんのだと思つた。歌の撰を清書だけ明日に残して帰つて来た熊七の見て来た話を聞いた。
底本:「早稲田文学」早稲田文学社
1912(明治45)年1月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
2003年5月18日修正
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