御門主
與謝野晶子
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先刻まで改札の柵の傍に置いてあつた写真器は裏側の出札口の前に移されて、フロツクコートの男が相変らず黒い切を被いだり、レンズを覗いたりして居る。その傍に中年老年の僧侶が法衣の上から種々の美しい袈裟を掛けて三十五六人立つて居る。羽織袴の服装の紳士もそれと同じ数程居て、フロツクコートを着た人も混つて、口々に汽車が後れたから、汽車が定刻より遅く着くさうだからと云つて居る。この様を場内の旅客が珍らしさうに立つて見て居る中に、桃割に結つて花車ななよ〳〵とした身体を伴れの二十四五の質素な風をした束髪の女の身体にもたれるやうにして、右の手ではもう一人の伴れの二十一二の束髪の女の袂の先を持つて、
『沢山な坊さんだわね。二十人坊主、三十人坊主。ほ、ほ、ほ。』
と笑つて居る女がある。
『えヽ、さうですね。』
後に居た年上の女はかう云つて点頭いた。目鼻立は十人並勝れて整ふて居るが寂しい顔であるから、水晶の中から出て来たやうな顔をして明るい色の着物を着た伴の女に比べると、花の傍に丸太の柱が立て居る程に見られるのであつた。近い処に居る人の目は屡桃割の女に注がれる。絵はがきになつて居る赤坂の某だらうなどヽ云つて居る者もあつた。
『山崎さん、二三日前の新聞に出て居た本願寺の田鶴子姫とか云ふ方がいらつしやるのぢやないのでせうか。』
青味のある顔に幾つも黒子のある前の方の女が後の束髪の女にかう云つた。
『さうよ、さうよ、あの人よきつと。』
と云つて、桃割の女は前の女が倒れさうになる程二三度もその持つた袖を引つ張つた。
『さうですかしら、今日いらつしやると書いてあつて。』
山崎と云ふ女は前の女に斯尋て居る。
『書いてありませんでしたけれど、さうぢやないかと思つたのですよ。』
『それぢや当になりませんわ。』
と云つて山崎は笑ふ。
『山崎さん、田鶴子姫なんですよ、だから写真なんかとるんだわね。』
かう桃割の女は云つて、袖を持つた手を放して少し前の方へ出た。
『よく見ませうよ、平生に見ようと思つたつて見られやしないのですから。』
黒子の女は山崎の傍へ寄つてかう云つた。
『なんて間が好いんでせう。』
と云つて桃割れの女は後を向いた。
『ほ、ほ、ほ。』
『まあお嬢さん。』
二人の女は笑ひながら赤い顔をして下を向いた。その傍に十四五と十二三の下髪にした二人の娘を伴れて立つて居た老紳士はふいと待合室の方へ歩み去つた。横浜から汽車が着いて改札口から入つて来る人々は皆足早に燕のやうに筋違に歩いて出口の方へ行く。
『勝間さんが来てよ。』
と桃割の女は二人に云つた。
『さうで御座いますか。』
と云つて山崎が向うを見る。丁度其時大島の重ねに同じ羽織を着て薄鼠の縮緬の絞りの兵児帯をした、口許の締つた地蔵眉の色の白い男が駅夫に青い切符を渡して居た。
『真実に勝間さんよ。』
背の高い山崎は少し身を屈めるやうにして黒子の女に云つた。
『まあ真実ね。』
その男は三人の立つて居る近くへ歩いて来た。
『お呼びよ、山崎さん。』
と桃割れの女は云つた。
『勝間さん、勝間さん。』
笑ひながら山崎が云つた。
『僕。』
と云つて横を向いた男の目に桃割れの女の姿が映つたらしい。続いて二人の女にも気が附いたらしい。
『何処へいらつしやるの。』
傍へ来た男はかう云つて桃割の女を上から下までじつと眺めた。
『山崎さんの家へ遊びに伴れて行つて貰うのよ。』
と桃割の女は云つた。
『お嬢さんを拝借して参りましたのですよ。一晩泊りで行つて参りますの。』
と山崎が云ふ。
『箱根ですね、塔の沢ですね。』
男が点頭きながら云ふと、
『湯元よ。』
と桃割の女は云つた。
『さうですか、もう汽車が出るのですか。』
『出やあしないわ。乗り遅れちやつたのよ、まだ一時間もあつてよ。』
『もう三十分になりましたよ。』
と黒子の女が云つた。
『御一緒にいらつしたらどうですか。勝間さん、小つぽけな宿屋ですよ。』
先刻から何か考へて居るやうだつた山崎が云つた。
『僕かい。』
男は目を見張つてかう云つた。
『それが好いわねえ。平井さん。』
桃割の女ははしやいだ声でかう云ふ。
『さうですね。』
黒子の女は沈んだ調子で云つた。
『いらつしやいよ、勝間さん、行つたつて好いでせう。』
桃割の女は青磁色の薄い絹の襟巻の端に出た糸を指でむしりながら云ふ。先刻から心持程頬の赤味が殖たやうである。
『先生のお目玉が恐いんですよ。ねえ山崎君。』
かう云つて男は敷島を一本袂から出して口に銜へた。そして手を両方の袂へ入れて燐寸を捜して居る。
『辻さんがいらつしやるからもう一日位よう御座んせう。』
と山崎が云つた。
『一寸法師が居るから好い。』
かう云つて桃割の女は千代田草履をはたはたと音させた。
『汽車に乗つて今帰つたばかしなんですから。』
と男の云ふのはほんの口先だけであるらしい。
『あなたが行かなけりやつまらないから私は帰るわ。一緒に帰りませう。山崎さんと平井さんとで行つて来ると好い。』
『まああんなことを云つていらつしやる。勝間さんお決めなさいましよ。』
と山崎が云つた。
『ぢや行きませうか。僕は横浜に居ることにして置いて貰はないと都合が悪いよ。』
男はかう云つて、山崎と平井の顔を等分に見た。平井はおとなしく点頭いた。
『先生に判りはしませんよ。ねえお嬢様。お父様に仰しやらしないでせう。』
山崎が云ふとお嬢様は蓮葉らしく点頭いた。
『切符はもう買つたのですか。』
『買つたのよ。』
『それぢや僕も買つて来ませう。』
男が其方へ行かうとすると、
『およしなさいよ、勝間さん。山崎さん先刻ので買つて上げて頂載。』
とお嬢様は口早に云つた。山崎は目で点頭いて駆けて行つた。平井は其跡を追つて行かうとした拍子に、手に持たお納戸のとクリイム色のと二本の傘を下に落した。顔を赤めてそれを拾はうとする時に、後から来た人は屈んだ平井の身体を押したのでひよろひよろとした。
『ひどいこと。』
と云つて、平井は立つて髪に手をやつた。
『僕は一寸失敬します。二階で珈琲を飲んで来ますから。』
と男が云ふと、
『私も行くわ。』
と云つて、お嬢様は彼方向いて男と一緒に行つた。緋の細工羽二重の根掛の菊が、今迄この人の顔の美しいのを眺めて酔つたやうに立つて居た辺りの人の目に映つた。平井は切符を買つて来た山崎を手招きして一緒に写真器の傍へ行つた。多くの僧俗に出迎はれて出て来た人は田鶴子姫ではなくて、金縁の目鏡を掛けて法衣の下に紫の緞子の袴を穿た三十二三の痩て脊の高い僧であつた。御門主、御門主と云ふ声が其処此処から起つた。
底本:「東京朝日新聞」朝日新聞東京本社
1912(明治45)年1月1日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
※脱落が疑われる、『汽車に乗つて今帰つたばかしなんですから。』の後の改行を補いました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年2月16日作成
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