十二支考
猪に関する民俗と伝説
南方熊楠
|
十二月(大正十一年)初め博文館から「イノシシノゲンコハヤクオクレ」と電信あり、何の事か判らず左思右考するに、上総で蕨を念じ、奥州では野猪の歌を唱えて蝮蛇の害を防ぐとか。しかる上は野猪と蕨の縁なきにあらず。蜀山人の狂歌に「さ蕨が握り拳をふり上げて山の横つら春風ぞふく」、支那にも蕨の異名を『広東新語』に拳菜、『訓蒙字会』に拳頭菜など挙げいるから、これは一番野猪と蕨を題して句でも作れという事だろうと言うと、妻が横合からちょっとその電信を読みおわり、これはそんなむつかしい事でない。来年は亥の歳だから、例に依ってイノシシの話の原稿を早く纏めて送れという訳と解いたので、初めて気が付いてこの篇に取り掛かった。
今村鞆君の『朝鮮風俗集』二〇八頁に「亥は日本ではイノシシであるが、支那でも朝鮮でも猪の字は豕の事で、イノシシは山猪と書かねば通用しない。すなわち朝鮮では今年はブタの年である。ブタの年などというと余りありがたくないが、朝鮮ではブタには日本人よりよほど敬意を表して居る。この日(正月初めの亥の日)商売初めて市を開く云々」。漢土最古の字書といわるる『爾雅』に、豕の子は猪とあり。『本草綱目』にも豕の子を猪といい、豚といい、豰というと出るから、豕和訓イ、俗名ブタの子が猪、和訓イノコだ。しかるに和漢とも後には老いたる豕も本は子であったから猪、イノコと唱えたので、家に畜う家猪に対して、野生の猪を野猪また山猪、和名クサイイキ、俗称イノシシという。外国と等しく本邦にも野猪を畜って家猪に仕上げたは、遺物上その証あり。また猪飼部の称や赤猪子てふ人名などありてこれを証す(明治三十九年版、中沢・八木二氏共著『日本考古学』三〇四頁)。されど家猪を飼う事早く絶え果てたから正にイと名づくるものがなくなり、専らイノシシすなわち野猪をイと呼び、野猪の子をイノコと心得るに至った。したがって近代普通に亥歳の獣は野猪と心得、さてこそ右様の電文も発せられたのだ。
本篇を読む方々に断わり置くは、猪の事を話すに一々家猪、野猪を別つはくだくだしいが、特に野猪と書いた場合はイノシシに限り、単に猪と書いたのは家猪野猪を並称し、もしくはいずれとも分らぬを原文のまま採ったのである。豕と書いたのは家猪の事、豚はもと豕の子だが世俗のままにこれも家猪に適用して置く。
近世豚の字を専らブタと訓む。この語何時始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔三十九巻、日本部彙考七に、明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其、猪を豕々として居る。その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。古くは野牛と書き居る。綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。『大和本草』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった証拠はないかと血眼になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。「一番に裸武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指して歩にて出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、余り肥え脹れし故豕という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、武太之助と戯れける」。これがヤギと等しく、ブタという畜生の名が明の代既に日本にあった証拠で、義光は飯田忠彦の『野史』一六五に拠れば、大正十二年より三百九年前に当る慶長十九年正月六十九歳で死んだ。明の神宗の万暦四十二年に当る。体が太った者をブタと名付けたのを見ると、肥え脹れたのを形容してブタブタという語も当時既にあったらしく思わる。橘南谿の『西遊記』五に広島の町に家猪多し、形牛の小さきがごとく、肥え膨れて色黒く、毛禿げて不束なるものなり、京などに犬のあるごとく、家々町々の軒下に多し、他国にては珍しき物なり、長崎にもあれども少なし、これはかの地食物の用にする故に多からずと覚ゆ云々と記し、『重訂本草綱目啓蒙』四六には、長崎には異邦の人多く来る故に豕を畜い置いて売るという。東都には畜う者多し。京には稀なりという。かくたまたま豚を多く飼う所もあったけれど、徳川氏の代を通じてわが邦に普遍せなんだ物で、明治四年頃和歌山市にただ一ヶ所豚飼う屋敷あったを、幼少の吾輩毎日見に往ったほどである。
猪に関する伝説を書くに当り、この篇の発端に因んで野猪と蝮蛇の話を述べよう。けだし野猪に限らず猪の類は、皆蛇を食う(アリストテレスの『動物史』九巻二章。プリニウスの『博物志』九巻一一五章)。ところが日本では家猪が久しく中絶と来たから、専ら野猪のみ蛇を制するよう心得たのだ。『集古』庚申五号に、故羽柴古番氏が越後国南蒲原郡下保内村で十歳になる少女に聞いた歌を出した。「まだらむしや、わがゆくさきへ、ゐたならば、山たち姫に、知らせ申さん」右、家を出る時鴫居をまたがぬ前に三遍唱うれば蛇に逢わぬ。もし蛇に食い付かれたる時は、ボトロ(蕨の茎葉)にて傷口を撫でながら右の歌を唱うれば、蛇毒消散して害をなさずと。まだら虫とは蛇の事、山だち姫とは、ボトロの事なりというとある。大正六年二月の『太陽』に予この事について少しく述べたが、その後識り得る事どもを併せ述べよう。『嬉遊笑覧』に『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち、我たつ道に横たへば、山なし姫にありと伝へん」というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は「この路に錦斑の虫あらば、山立ち姫に告げて取らせん」。『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に「この村に蛇除け伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには伊右衛門伊右衛門と唱えて入らば毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き所は三里も五里も守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり、さてかの歌は、その守りなるべし、あくまたちは赤斑なるべく、山なし姫は山立ち姫なるべし、野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮を好む由なり」とある。
予在米の頃、ペンシルヴァニア州の何処かに、蛇多きを平らげんため欧州から野猪を多く移し放った。右の歌を解するに、強ちにアクマタチを赤斑、山なしを山立と説くを要せず。蛇を悪魔とするは耶蘇教説その他例多し。山梨の事は「猴の民俗と伝説」に載せて置いた。野猪山梨の実を好んで山梨姫と呼ばれたものか、更に分らぬが歌の意は、山梨のなしに対してありすなわち蛇がここにありと告げて食わせるぞと蛇を脅かしたので、梨をアリノミともいうに因る。一八九〇年八月二十八日の『ユニヴァシチー・コレスポンデント』に仏人カルメットの蛇毒試験の報告出で、その中に家猪は蛇咬の毒を感ぜぬが、その血を人間に注射しても蛇毒予防の効なしとあったから見れば、家猪の根原種たる野猪は無論毒蛇に平左衛門であろう。さて、羽柴氏が越後で聞いた歌は、まずは『萩原随筆』のと『四神地名録』のとを折中したようだ。蕨の茎葉で蝮に咬まれた創口を撫でてかの歌を誦すと越後でいう由なるが、陸中の俚伝を佐々木喜善氏が筆したのには、蛇に逢いて蛇がにげぬ時「天竺の茅萱畑に昼寝して、蕨の恩を忘れたか、あぶらうんけんそわか」と三遍称うべし。かくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなりと(『人類学雑誌』第三二巻十号三一三頁)。これだけでは何の訳か知れねど、内田邦彦氏の『南総俚俗』一一〇頁に「ある時、蝮病でシの根(茅の根の事なれどここはその鋭き幼芽の事)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動く能わざりしを、地中の蕨が憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し上げて、シの根の苦痛より免かれしめたり、爾後山に入る者は、奥山の姫まむし、蕨の御恩を忘れたかと唱うればその害を免かる」と載せたるを見て、始めて筋道が分った。これには蝮を南総で女性に見立て姫まむしというので、全く越後で蕨の茎葉を山だち姫というのと違う。熊楠いう、茅の芽は鋭くて人の足に立ち傷める。『本草綱目』一三に茅芽を俗に茅針というと出るもこれに因るのだ。この蝮も倒れた時茅の幼芽が立って傷つけたから、山にあって人や畜生の身に立ち困らせる、刺が立つの意で茅を山立ち姫と呼び、人を蝮が咬まば茅に告げて蛇の身に立たしむるぞと脅した歌の心でなかろうか。神代に萱野姫など茅を神とした例もあれば、もと茅を山立姫というに、それより茅中に住んで茅同然に蛇が怖るる野猪をも山立姫といったと考える。佐藤成裕の『中陵漫録』六に、『本草綱目』に頭斑身赤文斑という、また蝮蛇錦文とあるに因って蝮蛇を錦まだらという、山たち姫といわば鹿だ。『本草』に鹿を斑竜と異名したから、山竜姫というが、鹿は九草を食して虫を食わぬ。好んで蝮蛇を食うものは野猪だから山竜姫は野猪であろうといったが、なぜそう名づけたかを解いていない。
ついでにいう。津村正恭の『譚海』一五に、蝮蛇に螫されたるには年始に門松に付けたる串柿を噛み砕いて付けてよしと出づ。田辺近村で今も蝮に咬まれた所へ柿また柿の渋汁を塗る。宮武粛門氏説に、讃岐国高松で玄猪の夜藁で円い二重の輪を作り、五色の幣を挿し込み、大人子供集りそれを以て町内を搗き廻る。その時唱う歌の一つに「猪の子神さん毎年ござれ、祝うて上げます御所柿を、面白や云々」、『華実年浪草』十に、ある説に亥子餅七種の粉を合せて作る。大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、あめなりとあって、柿も七種の粉の仲間入りをしているが、件の歌に特に柿を上げますというのは、猪は格段に柿を好むにや。果してしからば偶合かも知れないが、猪と柿と両つながら蛇毒を制すと信ぜられたは面白い。
『大和本草』附録下に、野猪の脂は、婦人をして乳多からしめ、疥癬を治す。プリニウスの『博物志』二八巻三七章にも豕脂が疥癬に効あるを述べ、また新鮮なる豕の脂を陰膣に込んで置くと、子宮中の児に滋養分を給し流産を禦ぐと載す。乳を多くしたり流産を防ぐなど婦女に大効あるらしい。グベルナチスの『動物譚原』にいわく、豕はもっとも好婬な動物の一だからピタゴラスは多婬家は豕に生まれ換わるといい、婬蕩人を豕と呼ぶ。ヴァロ説に、昔エトルリアの王や貴人は新婚に豕を牲した。それから精力強い女を豕と呼ぶと。これを読んで、さほど精力強い豕を食ったら定めて精力強くなる理窟で、豕をシシと呼んだ事は上に述べた通り、それからむやみに子を孕んで困るをシシ食うた報いというたに相違ないと、独りよがりをやらしていたところ、『嬉遊笑覧』を読んで自説の大間違いたるを悟った。その巻の十上にいわく、犬は鷹にも飼い人も食いしなり、『徒然草』に雅房大納言鷹に飼わんとて犬の足を切りたりと讒言したる物語あり、『文談抄』に鷹の餌に鳥のなき時は犬を飼うなり。少し飼いて余肉を損ぜさせじとて生きながら犬の肉をそぐなり、後世も専らこれを聞きたりと見えて、『似我蜂物語』に江戸の近所の在郷へ公より鷹の餌に入るとて、犬を郷中へささ(課)れけるという物語あり。『続山井』、
鷹の峯のつち餌になるな犬桜 宗房
しゝ食うたむく犬は鷹の餌食かな 勝興
と。これでしし食うた報いの意が解けた。これに似た事、『中陵漫録』五に、唐人猪の尻の肉を切って食し、また本のごとく肉生ずれどもその肉硬くなりて宜しからずとある。
いずれも無残な仕方だが、まだ酷いのはアビシニア人が牛を生きながら食う法で、ブルースはかの国の屠者を暗殺者と呼んだ。モーセの制法を守る言い訳に、五、六滴を地に落した後屠者二人または三人は上牛の脊の上の上脊髓の両傍の皮を深く切り、肉と皮の間に指を入れて肋骨へ掛けて尻まで剥ぐ。さて骨に掛けず流血も少なく尻の肉を四角な片に刻み去る。牛大いに鳴く時客人一同座に就く。牛は戸辺にあって流血少なし。屠者骨より肉を切り離すは腿や大動脈のある処を避く。ついに腿の肉を切り取るに及び牛夥しく血を出して死す。死んだ後の肉は硬くて旨からずとするとあって、つまりアビシニア人は生きた牛から切り取ってその肉を賞翫するのだ(一八五三年版、パーキンスの『アビシニア住記』一巻三七二頁以下)。ただしアビシニア人を残酷極まると記した英国人も、舌を満足させるために今も随分酷い屠殺割烹法を行う者で、その総覧ともいうべき目録を三十年ほど前『ネーチュール』へ出した人があったが、予ことごとく忘れてしまい、鰕を鍋の中で泳がせながら煮る一項だけ覚え居る。というと日本でも生きた泥鰌を豆腐と一所に煮てその豆腐に穿ち入りて死したのを賞味する人もあるから、物に大小の差こそあれ無残な点に甲乙はない。故に君子は庖厨を遠ざくで、下女が何を触れた手で調えたか知らぬ物を旨がるところが知らぬが仏じゃ。
一七一五年版、ガスターの『ルマニア鳥獣譚』にいわく、古いヘブリウ口碑を集めた『ミドラシュ・アブクヒル』に次の譚あり。人祖ノアが葡萄を植えた処へ天魔来り手伝おうといい、ノア承諾した。天魔まず山羊を殺してその血を葡萄の根に澆ぎ、次に獅子、最後に豕の血を澆いだ。それから人チョビッと酒を飲むと面白くなって跳ね舞わる事山羊児に異ならず。追々に飲むに従って熱くなって吼ゆる事獅子に同じ。飲んで飲みまくった揚句は、ついに泥中に転げ廻ってその穢を知らず、宛然猪の所作をする。葡萄の根に血を澆いだ順序通りにかく振れ舞うのだと。一説に、ジオニシオス尊者ギリシアに長旅し疲れて石上に坐り、見ればその足の辺に美しい草が一本芽を出しいた。採って持ち行くに日熱くて枯れそうだから、鳥の小骨を拾いその中に入れ持ち行くと、尊者の手の徳に依ってその草速やかに長じて骨の両傍からさし出でた。これを枯らしてはならぬと獅子の厚い骨を拾い、草を入れた鳥の小骨をその中に入れ、草なおも生長して獅子の骨に余るから、一層厚い驢の骨を見付け他の二骨を重ねてその草を入れ、志したナキシアの地に至って見ると、草の根が三つの骨に巻き付いて離れず、これを離せば草を損ずる故そのまま植えた。その草ますます長じて葡萄となり、その実より尊者が初めて酒を造り諸人に与えた。ところが不思議な事は、飲む者初めは小鳥のごとく面白く唄い、次に獅子のように猛くなり、その上飲むと驢の体たらくに馬鹿となったという。驢も豕同様、獣中最も愚とせられた物だ。
『王子法益壊目因縁経』に、高声愧ずるなく愛念するところ多く、是非を分たぬ人は驢の生まれ変りで、身短く毛長く多く食い睡眠し、浄処を喜ばざるは猪中より生まれ変るといい、『根本説一切有部毘奈耶』三四に、仏諸比丘に勅して、寺門の屋下に生死論を画かしむるに、猪形を作って、愚痴多きを表すとある。『仏教大辞彙』巻一の一三三八頁にその図二ある。猪が浄処を喜ばぬとは、好んで汚泥濁水中に居るからで、陶穀の『清異録』に小便する器を夜瀦という、『唐人文集』に見ゆと記す。溜り水を瀦というも豕が汚水を好むからだろう。蘇東坡仏印と飲んで一令を行うを要す。一庭に四物あり、あるいは潔くあるいはきたなく韻を差うを得ず。東坡曰く、美妓房、象牙床、玻瓈盞、百合香と。仏印曰く、推瀦水、㾾瘡腿、婦人陰、鬍子嘴と(『続開巻一笑』一)。ブラントームの『レー・ダム・ガラント』第二に、ある紳士が美人睡中露身を見て一生忘れず、居常讃嘆してわれ毎にこれを観想するのほかに望みなしといったとあるは、仏印の所想とすこぶる違う。さてその紳士その美人を娶れば娶り得るはずだったが、利に走る世の習い、その美人よりも富んでさほどの標緻を持たぬ女を妻ったとは、歎息のほかなし。
荘子は亀と同じく尾を泥中に曳かんといったが、猪が多く食って泥中に眠るも気楽千万で、バウルスは豕を愛する甚だしく、上帝が造った物の中最も幸福なものは豕だといった。殊に太った豕ありと聞かば二十マイルを遠しとせず見に往った。生きた豕の愛が醃豕肉にまで及んで、宴会に趣くごとに自製の醃豕肉をポケットに入れ往き、クックに頼んで特に調味せしめた(サウゼイの『随得手録』四輯)。自分が愛する物を食うは愛の意に戻るようだが、愛極まる余りその物を不断身を離さずに伴うには、食うて自分の体内に入れその精分を我身に吸収し置くに越した事がない。猫が人に子を取らるるを患いてその子を啖い(ロメーンズの『動物の智慧』一四章)、諸方の土蕃が親の尸を食い、メキシコ人等が神に像った餅を拝んだ後食うたなども同義である。わが邦の亥の子餅ももと猪を農の神として崇めた余風で、猪の形した餅を拝んだ後食ったらしい。この事は後に論じよう。
ロメーンズの『動物の智慧』十一章に挙げた諸例を見ると、豕を阿房の象徴とするなどは以てのほかと見える。その略にいわく、豕の智慧は啖肉獣(犬猫等)のもっとも賢いものに比べると少し劣るのみなるは、学んだ豕とて種々の巧技を演ずるを見ても首肯し得る。豕がなかなか旨く門戸の鎖を開くは、ただ猫のみこれに比肩し得る。ツーマー兄弟なる者豕を教えて二週間の後禽の在所を報ぜしめ、それより数週後に獲物を拾い来らしめた。その豕の鼻よく利き、雉、熟兎等をよく見付けたが野兎には利かなんだと。またいわく、野猪は群を成して共同に防禦する。ある人ヴェルモントの曠野で野猪の大群至って不安の様子なるを見るに、毎猪頭を外に向けて円を形成し、円の中心に猪子を置く。その時一つの狼種々に謀って、一猪を捉んと力めいた。その人その場を去って還り、往って見れば、猪群既に散じて狼は腹割かれて死しいた。シュマルダが覩た家猪の一群は、二狼に遇いてたちまち橛状の陣を作り鬣を立て呻いて静かに狼に近づく。一狼は遁れたが、今一つの狼は樹の幹に飛び上った。猪群来って中を取り囲むと、狼、群を飛び越ゆる。その時遅くかの時速く、たちまち猪に落され仕留められたと、これは欧州の家猪の高名だが、猪の類多くは一致共同して敵に勝つと見える。
南米にベッカリーという獣二種ありて、後足に三趾を具うるので前後足とも四趾ある東半球の猪属と異なり、また猪と違うて尾が外へ見われず、鹿や羊に近くその胃が複雑し居る(一九二〇年版『剣橋動物学』十巻二七九頁)。腰上に臍に似た特異の腺ある故ジコチレス(二凹の義)の学名が附けられ、須川賢久氏の『具氏博物学』などには臍猪の訳名を用いた。その上牙は直ぐに下に向い出で、猪属の上牙が外や上に曲り出るに異なるなり(『大英百科全書』十一板二十一巻三二頁)。南米の土人これを飼いて豕とし温和なること羊のごとくなる。身長三フィートばかりの小獣でその牙短小といえども至って尖り、かつ両刃あり怖ろしい傷を付ける。五十乃至数百匹群を成して夜行し、昼は木洞中に退いて押し合いおり、最後に入ったものが番兵の役を勤む。行く時は堅陣を作り、牡まず行き牝は子を伴れて随う。敵に遇わば共同して突き当る。その猛勢に猟士また虎(ジャグアル)も辟易して木に上りこれを避くる由(フンボルトの『旅行自談』ボーンス文庫本二巻二六九頁、ウッドの『動物画譜』巻一)。
『淵鑑類函』四三六に服虔曰く、猪性触れ突く、人、故に猪突豨勇というと。いわゆるイノシシ武者で、豨は南楚地方で猪を呼ぶ名だ。『簠簋内伝』二にいわく、亥は猪なり云々。この日城攻め合戦剛猛の事に吉し、惣じて万事大吉なりとあるは、その猪突の勇に因んだものだ。しかるに『暦林問答』には亥日柱を立てず(書にいう、災火起るなり)、嫁娶せず、移徒せず、遠行せず、凶事を成すとあるは何故と解き得ぬ。日本でも野猪の勇者あるをいうが、共同の力強きを言わぬは、日本の野猪にはその稟賦を欠くか、または狩り取る事夥しくて共同しょうほど数が多からぬか、予は弁じ得ぬ。インドの野猪は日本や欧州のと別種だが、やはり共同して勇戦すると見え、カウル英訳『仏本生譚』巻二と四に、大工が拾い育てた野猪の子が成長して野に還り、野猪どもに共同勇戦の強力なるを説いて教練し、猛虎を殺し、またその虎をして毎に野猪を取り来らしめて、分ち食うた仙人をも害した物語を出して居る。
慶長頃本邦に家猪があった事は既述した通りだが、更に寺石正路君の『南国遺事』九一頁を見ると、慶長元年九月二十八日土佐国浦戸港にマニラよりメキシコに通う商船漂着し、修理おわって帰国に際し米五百石、豚百頭、鶏千疋を望みしに対し、豊太閤、増田長盛をして米千石、豚二百頭、鶏二千疋等を賜わらしめ、船人大悦びで帰国したとある。この豚二百頭は無論日本で飼いいたものに相違ない。それから『長崎虫眼鏡』下に、元禄五年の春より唐人オランダのほかは豕鶏等食する事を停めらるとあれば、それ以前開港地では邦人も外客に倣うて豕を食ったのだ。また足利氏の世に成った『簾中抄』に孕女の忌むべき物を列ねた中に、鯉と野猪あり。この二物乳多からしむと『本草』に見ゆるにこれを忌んだは、宗教上の制禁でもあろうか。
また、既に書いた通り猪類皆好んで蛇を食う。それについて珍譚がある。定家卿の『明月記』建仁二年五月四日の条に「〈近日しきりに神泉苑に幸す、その中彘猟致さるるの間、生ける猪を取るなり、仍りて池苑を掘り多くの蛇を食す、年々池辺の蛇の棲を荒らすなり、今かくのごとし、神竜の心如何、もっとも恐るべきものか、俗に呼びていわく、この事に依り炎旱云々〉」。天長元年旱災の際、弘法大師天竺無熱池の善如竜王をこの池に勧請して、三日間あまねく天下に雨ふる。その時大師、もしこの竜王他界に移らば、池浅く水減じて恒に旱し常に疫せんといった由(『大師御行状集記』六九─七一)。しかるに、当時後鳥羽上皇講武のためしばしば神泉苑に幸し、猪狩りを行うとて野猪を野飼いにされたので、年々池辺の蛇を食いその棲処を荒らす故、蛇の大親分たる善如竜王が憤って雨を降らさぬと風評したのだ。西暦千七百年頃オランダ人ボスマン筆『ギニヤ記』に、フィダーの住民は蛇を神とす。一六九七年豕一疋神の肉を食いたいと謀反を起し、蛇に咬まれた後讎がてら蛇を食いおわるを、側に在合せた黒人が制し得なんだ。祠官蜂起して王に訴え、国中の豕を全滅せよと請うたのでその通りの勅令が出た。そこで黒人数千、刀を抜き棒を振って豕を鏖しにせんといきまき、豕の飼い主また武装して豕の無罪を主張した。黒人遮二無二豕無数を殺した後、神の怒り最早安まっただろとて豕を赦免の令が出た。その後予フィダーに著いた時豕の値格外高かったので、よほどの多数が殺されたと知ったと(ピンカートンの『海陸紀行全集』一八一四年版、十六巻、四九九頁)。
琉球人の伝説に、毒蛇ハブと蜈蚣は敵でハブ到底蜈蚣にかなわない。因って次の呪言を唱えるとハブ必ず逃げ去る。その呪にいわく、ヨーアヤマダラマダラ(以下訳語)汝は(普通の)父母の子か、俺は蜈蚣の子ぞ、我行く先に這い居るならば、青笞で打ち懲らすぞ、出ろ出ろ(佐喜真興英氏の『南島説話』二八頁)。前に記した「この路に錦斑の虫あらば云々」という歌によく似おり、茅や野猪の代りにンカジ(ムカデ)があるだけ異って居る。蛇はあっちでもマダラというらしい。
それからアリストテレスの『動物史』、八巻二八章に、カリア等に産する蠍はよく牝豕を殺す。牝豕は他の毒虫に螫さるるも平気だ。殊に黒い牝豕は蠍に殺されやすい。また蠍害を受けた豕は、水辺へ近づくほど速やかに死ぬとある。一昨年(大正十年)九月大連市の大賀一郎氏から、北満州産の蠍を四疋贈られ愛養中二疋は死んだが、二疋は現に生きおり、果して豕を螫し殺すか試さんと心懸くるも、狭い田舎の哀しさ豕が一疋もないから志を遂げ得ぬ。予がかかる危険な物を愛養し続くる訳は、蠍の腹に脚の変態で櫛と名づくる物一対あり。その作用について欧人の説が臆測に過ぎずと察せられたからで、種々生品を観察して果して臆断と判った。それと同時に先人未発の珍事を発見したというは、皆人の知る通り、猫の四足を持って仰向けに釣り下げて高い庭から落すと、たちまち宙返りをして必ず四足を地上に立つる。一八九四年刊行『ネーチュール』五一巻八〇頁に出たマレー氏の写真でもよく判る。しかるに予蠍を小さい壺に入れ細かい金網を口に張って蓋とし置くと、蠍先生追い追い壺の内壁を這い上って件の網の表を這い、予をして遺憾なくかの櫛の作用を視察せしむ。かくする内、予ふと指で網面を弾いて蠍を落すごとに、蠍はたちまち宙返りして腹を下にして落ち着く。この蠍、頭の端尖から尾の先まで四五─五七ミリメートルで、金網の裏面より落ち著く砂上まで四〇─五〇ミリメートル。されば自分の身長よりも短い間でかく宙返りをやらかすは、奇絶だとだけ述べ置く。むつかしい研究故詳しくは言えない。
『淵鑑類函』四三六に、『孔帳』に曰く扶南人喜んで猪を闘わすとある。『甲子夜話』一七に家豕の闘戦を記して、畜中の沈勇なるものというべきかと評す。『想山著聞奇集』五に、野猪熾り出す時は牝一疋に牡三、四十疋も付き纏うて噛み合い、互いに血を流し朱になっても平気で群れ歩く。この時は色情に目暮れて人をも一向恐れず、甚だ不敵になり居ると載す。『中阿含経』一六にいわく、大猪、五百猪の王となって嶮難道を行く、道中で虎に逢い考えたは、虎と闘わば必ず殺さるべし。もし畏れ走らば諸の猪が我を侮らん。何とかこの難を脱したいと念うて虎に語る。汝我と闘わんと欲せば共に闘うべし。しからずんば我に道を借して過ぎしめよと。虎曰く共に闘うべし、汝に道を借さずと。猪また語るらく、虎汝暫く待て、我れ我が祖父伝来の鎧を著け来って戦うべしという。虎心中に、猪は我敵にあらず、祖父の鎧を著たって何ほどの事かあらんと惟い、勝手にしろというと、猪還って便所に至り身を糞中に転がし、眼まで塗り付け、虎に向って汝闘わんとならば闘うべし。しからずば我に道を借せという。虎これを見て我常に牙を惜しんで雑小虫をすら食わず。いわんやこの臭猪に近付くべけんやと、すなわち猪に語って、我汝に道を借す、汝と闘わじという。猪過ぐるを得て虎を顧みて曰く、虎汝四足あり、我また四足あり、汝来って共に闘え、何を以て怖れて走ると。虎答えていわく、汝毛竪ちて森々たり、諸畜中下極たり、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪ゆべからずと。猪自ら誇って曰く、摩竭と鴦の二国、我汝とともに闘うを聞かん、汝来って我と戦え、何を以て怖れて走る。虎答う、身を挙げて毛皆汚し、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えんと。これは、鳩摩羅迦葉尊者が無分別な者にかなわぬという譬喩に引いたのだが、とにかく虎も猪の汚臭には閉口すると見える。
ところが、ロメーンズは、豕の汚臭は本その好むところにあらず、ただこの物乾熱よりも湿泥を好み、炎天に皮膚の焼かるるを嫌うて泥に転がる。さればその汚く臭くなるは、豕自身よりは飼い主の過失だと論じある(『動物の智慧』五版、三四〇頁)。これは酒を好む者を咎めずに盃を勧めた人を譴めるような論で、ラクーンが食物を獲るごとに洗わずんば喫わず、猫が大便を必ず埋めるなどと異なり、豕が湿泥を好むはもっともとしても、本来汚臭を厭わず糞穢を食うというが、既にその大欠点といわざるを得ぬ。南洋タヒチ島原産で今日絶え果てた豕ばかりは、脚と鼻長く、毛羊毛ごとく曲り、耳短く立ちて一汎の豕より体小さく、清潔で汚泥を好まなんだという(エリスの『多島洲探究記』一八二九年版、三四九頁)。豕が泥中に転がる事人に飼われた後始まったのでなく、野猪既に泥中に転がるを好みこれをヌタを打つという。虻蚊を禦ぐため身に泥を塗るのだそうな。ヌタは泥濘の義だ。食物に今日ヌタというも泥に似たからで、本ヌタナマスといったらしい。『醒睡笑』三に「天に目なしと思い、ヌタナマスを食いぬる処へ旦那来り見付けたれば、ちと物読みたる僧にやありけん、よきみぎりの入堂なるかな、ここに歴劫不思議の法味あり、まず天地の間に七十二候とて時の移るに応じ、物の変り行く奇特を申さん。田鼠化して鶉となり、雀海中に入って蛤となり、鳩変じて鷲となるという事あるが、愚僧が菜にすわりたるあえもの変じてヌタナマスと眼前になりたる、この奇特を御覧ぜよ」てふ笑譚を出す。『本草啓蒙』四七に「野猪年を経るものは甚だ大にして牛のごとくなるものあり、甚だしきは背上木を生ずるものあり」。『甲子夜話』五一に、吉宗将軍小金原に狩りして、自ら十文目の鉄砲で五月白と名づけた古猪の頭を搏ち、猪一廻りした処を衆人折り重なって仕留めた。年歴た物で鼻尖に白毛生じ、背には小木生じて花の白く咲けるよりこの名を負いしという。猪の類はすべて澗泥を以てその背を冷やす。これをニタという。この泥自ずから身毛に留まってこれに木生ぜしなりと。戦士の傷口に詰め込んだ土から麦が生えた話や、繃帯の上に帽菌が生えた譚もあれば、全く無根でもなかろう。『曾我物語』に、仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪がふしくさかく十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えていたとあったのかと思う。
周密の『癸辛雑識』続上に、北方の野猪大なるもの数百斤、最も獷猂にして猟りがたし、毎に身を以て松樹を摺り脂を取って自ら潤し、しかる後に沙中に臥し沙を膏に附く。これを久しゅうして、その膚堅く厚くて重甲のごとし、帯甲猪と名づく、勁弩といえども入る能わず。これを聞きはつっての話か、または事実か、わが邦にも『本草啓蒙』四七に、毎夜野猪往来の道が幽谷に人の通行すべきほど長く続く、これをシシミチという。その路に処々大木の皮摩損するものあり。土地の掘れたる処あり。これ土あるいは木脂を身に摩り傅けて堅くするなり。『本草集解』に、松脂を掠め沙泥に曳き、身に塗りて以て矢を禦ぐというこれなり。一条兼良公の『秋の寝覚』下にも「猪と申す獣は猛なる上に、松の脂もて身を堅め候故矢も立つ事候はぬ由なれば、その心は武士の眼として猪の目すかす事になん」とある。猪の目という事は後に述べよう。支那人は松脂を長寿不死の妙剤とするところから、こんな説も出たであろう(永尾竜造氏の『支那民族誌』上巻一一四頁参照)。
欧州でも、一七二四年ダブリン版、アーロン・クロッスリーの『紋章用諸物の意義』ちゅう、予未見の書に、野猪は角を具えぬが、獣中最強のものだ。強く鋭くて、能く敵を傷つくべき牙と、自ら身を衛るべき楯を持つ。しばしば肩と脇を樹に摺り堅めて楯とすると載せ、一五七六年ロンドン版、ジェラード・レーの『武装事記』には、野猪闘わんと決心したら、左の脇を、半日間檞樹に摺り付け堅めて、敵の牙の立たぬようにするとある由(一九二〇年、『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯六巻二三八頁、クレメンツ氏説)。故に、彼方の紋章を画くに、多くは材木を添えある。
ついでにいう。享保三年板西沢一風作『乱脛三本鑓』六に、小鼓打ち水島小八郎、恩人に頼まれた留守中その妻を犯さんとして遂げず、丹波の猪野日村に旧知鷹安鷲太郎を尋ねる。鷲太郎山より帰り小八郎を見て、京へ登りしよりこの方文一本くれぬ不届者、面談せば存分いいて面の皮を剥ぐべしと思いしが、向うししには矢も立たず、門脇の姥にも用というを知らぬ人でもなし、のふずも大方直る年、まず何として来るぞと問う。アラビヤ人の常諺に、信を守る義士は雄鶏の勇、牝鶏の察、獅子の心、狐の狡、猬の慎、狼の捷、犬の諦め、ナグイルの貌と、野猪の奮迅を兼ね持たねばならぬといったごとく、断じて行えば鬼神もこれを避くで、突き到る野猪の面には矢も立たぬという意かと思うたが、それでは通じない例が多いようだ。最近に、享保十八年板『商人軍配団』四を見ると、向う猪に矢が立たぬとて、直ちに歎かば、鬼のような物も、心の角を折るものなりとありて、原意は、ともかく、当時専ら謬り入って来る者を、強いて苦しめる事はならぬという喩えに用いたと見える。昔の諺を解するは随分むつかしい。
エストニヤの譚に、王子豕肉を食うて鳥類の語を解く力を獲、シシリアの譚は、ザファラナ女、豕の髭三本を火に投じてその老夫たる王子を若返らせ、露国の談に、狼が豕の子を啖わんと望むとその父われまず子を洗い伴れ来るべしとて、狼を橋の下の水なき河中に俟たしめ、水を流してほとんど狼を殺す事あり。さればアリストテレスは、豕を狼の敵手と評し、ギリシャの小説にこの類の話数あり(グベルナチス『動物譚原』二巻一一頁)。猪の美質を挙げた例このほか乏しからず。貝原益軒は、猫は至って不仁の獣なるも他の猫の孤児を乳養するは天性の一長と称讃したが(『大和本草』一六)、『後周書』に、陸逞京兆尹たりし時都界の豕数子を生み、旬を経て死す。その家また豕ありてこれを乳養して活かしたといい、『球陽』一三に、尚敬王の時田名村の一母猪子を生み八日後死んだが、その同胞の牝猪孕めるがその小豚を乳育す。いくばくならず自分も子を生んだが一斉に哺養したと記す。気を付けたらしばしば例あるかも知れぬ。
古スパルタ人は万事軍隊式で、豕までも教練厳しく行われその動作乱れず、鈴音に由って整然進退したとマハッフィの一著書で読んだが今その名を記憶せぬ。ジョンソン博士は見せ物に出た犬や馬の所作をことごとく似せたいわゆる学んだ豕を評して、豕の普通に愚鈍らしきは豕が人に反けるにあらず、人が豕に反けるなり。人は豕を教育する時日を費やさず、齢一歳に及べば屠殺するから、智能の熟するはずがないと言った(ボスエルの『ジョンソン伝』七十五歳の条)。かつて野猪を幼時から育てた人の直話に、この物稠人中によく主人を見出し、突然鼻もて腰を突きに来るに閉口した。絆を解いて山へ帰るかと見るに、直ちに家へ還った事毎々だったと。予が現に畜う雄鶏は毎朝予を見れば啄きに来る。いずれも怪しからぬ挨拶のようだが、人間でさえ満目中に口を吸ったり、舌を吐いたり、甚だしきは唾を掛くるを行儀と心得た民族もあり、予などは少時人の頭を打つを礼法のごとく呑み込んでいた事もあるから、禽獣の所為を咎むべきでない。唐五行志に、乾符六年越州山陰家に豕あり、室内に入って器用を壌り、椀缶を銜んで水次に置くと至極の怪奇らしく書き居るが、豕が毎に人の所為を見てその真似をしたのであろう。
仏人が、トルーフル菌を地下から見出すに使うた犬の代りに豕を習わして用うるは皆人の知るところで、嗅覚がなかなか優等と見える。ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』一八六四年版一二六頁に、豕能く風を見るてふ俚言を載す。豕の眼は細いが風の方向を仔細に見分くるのであろう。人間にも一つの感覚で識るべき事相を他の感覚で識り得るのがあって、ある人妻の体内にある故障ある時、何となく自分の口中にアルカリ味を覚えるあり。
三十三年前、予米国ミシガン州アンナボアに佐藤寅次郎氏と野原の一つ家に住み、自炊とは世を忍ぶ仮の名、毎度佐藤氏が拵え置いた物を食って出歩く。厳冬の一夜佐藤氏は演説に出で、予一人二階の火も焚かざる寒室に臥せ居ると、吹雪しきりに窓を撲って限りなくすさまじ。一方の窓より異様の感じが起るので、少しく首を転じて寝ながら睹ると、黒紋付の綿入れを着た男が抜刀を提げて老爺を追うに、二人ながら手も足も動かさず、眉間尺の画のごとく舞い上り舞い下りる。廻り燈籠の人物の影が、横に廻らず上下に旋ったらあたかも予が見た所に同じ。しかし影でなくて朦朧ながら二人の身も衣装もそれぞれ色彩を具えた。地体この宅従前住人絶え家賃すこぶる低廉なるは、日本で見た事もない化物屋敷だったのを世話した奴も不届だが、佐藤は俺より早く宿ったから知っていそうなものと、誰彼を八ツ当りに恨みながら見れば見るほど舞って居るのは、本国の田舎芝居の与一と定九に相違ないので、雪降りの山崎街道も聞き及ばねば、竹田出雲が戯作の両人がふるアメリカへ乗り込む理窟もなしと追々勘付き出し、急に頭を擡ぐるとたちまち幻像は消え失せたが跡に依然何か舞うて居る。いよいよ起きてその窓に歩み寄ると、室内たちまち真闇で咫尺を弁ぜず。色々捜して燈を点しよく視ると、昼間鶏が二階のこの室に走り込んで突き破って逃げ飛んだ硝子窓の破処から、吹き込む雪雑りの寒風がカーテンに当って上り下りしおりその風の運動が件の両人の立ち廻りと現われ、消え失せた後もなお無形の何かが楕円軌道を循環すると見えた。
錯覚といえば、それなりに済ましてしまうべきも、われら四十五、六歳までは或る一定の程度において嚢子菌の胞嚢を顕微鏡なしに正しく見得た。こんな異常の精眼力には風中の雪の微分子ぐらいの運動の態が映ったかも知れず、豕が風を見るというのもまるで笑うべからず。予の眼力の驚くべく良かった事は、一九一四年『英国菌学会事報』七〇頁と、一九一八年『エセックス野学倶楽部特別紀要』一八頁に、故リスター卿の娘でリンネ学会員たるグリエルマ嬢が書き立て居る。
前項に享保三年に出た『乱脛三本鑓』に見る「向うししには矢も立たず」てふ諺を説いたが、野猪の事としてはどうも解し得ない。その後それより三十二年前、貞享三年板『諸国心中女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ、夢を見て大いに悔悟し夫に向って始終を語り歎くと「向う鹿に矢の立たぬと男易く赦してけり」とある。英国等の鹿は窮すれば頭を下げ角を敵に向ける。日本のもそうするのであろう。それを低頭して哀れを乞うものと見て件の諺を作ったものか。鹿はカノシシ、野猪はイノシシ、紀州の鹿瀬、井鹿、いずれもシシガセ、イジシ。どちらもシシと古く呼んだのでこの諺にいうシシは、野猪でなくて鹿であろう。
ついでにいう。『甲子夜話』続篇八〇に、松浦天祥侯程ヶ谷の途の茶店にて野猪の小なるを屠るを見る。毛白くして淡赤なり。奇しく思いその名を聞くにカモシシと答う。問うカモシシは角あるにあらずや。曰く、それはカモシカ、これはカモシシにて違い候と。珍しき事と聞き過ぎぬと記す。普通に深山に住むニクといいて山羊に似た獣をカモシカともカモシシとも呼ぶ(『重訂本草啓蒙』四七)が、丹峯和尚の『新撰類聚往来』上に𤞵猪カモシシと出す。𤞵字音豹と『康煕字典』にあるのみ、説明がない。しかし完と獾と同音故、獾の字を𤞵と書いたと見える。郭璞の『爾雅』註に猯と獾を一物とす。李時珍は、猯は後世の猪獾、獾は後世の狗獾で、二種相似て異なりと説いた。モレンドルフ説に、猪獾はメレス・レプトリンキュス、狗獾はメレス・レウコレムス。小野蘭山は、猪獾すなわち猯は、日本でマミまたミダヌキまたキソノカワクマと称え体肥えて走る事遅し、狗獾は、駿河でアナホリと呼び体痩せて飛鳥のごとしと述べた。貝原益軒は、猯マミ、ミタヌキともいい、野猪に似て小なり、味善くして野猪のごとしといった。和歌山旧藩主徳川頼倫侯が住まるる麻布のマミ穴の名、これに基づく事は『八犬伝』にも見える。このマミは今日教科書などに専らアナクマ、学名メレス・アナクマで通り居るもので、形も味も野猪にほぼ似て居るが啖肉獣で野猪の類じゃない。日本に専ら産し支那の猪獾と別らしいが、大要は似て居るから本草学者がこれを猯一名猪獾に当てたのだ。しかしよく考えると、本草家ならでも丹峯和尚もこの獣を知りて猪獾に当て𤞵猪と書いたので、その頃これをカモシシと呼んだその名がわずかに程ヶ谷辺に延宝年間まで残り在たのだ。氈和名カモ、褥呉音ニク、氈にも褥にもなったので、羚羊をニクともカモシシまたカモシカというといえば、マミの毛皮も氈の用に立てたのでカモシシといったものか。とにかく松浦侯が程ヶ谷で見たカモシシは野猪でなくて、外形ややそれに似たマミすなわちアナクマだ。而して蘭山のいわゆるアナホリは、マミの一異態か只今判じがたい。(『本草綱目』五一。『重訂本草啓蒙』四七。『大和本草』一六。『円珠菴雑記』鹿の条。『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』二輯十一巻五二─五三頁。)
また前項にちょっと述べ置いたトルーフル菌は欧州に食道楽の旅をした人のあまねく知るもので、予は余りゾッとせぬが彼方では非常に珍重し、予の知人にトルーフルを馳走するとの前置きで、いかがわしい女を抱き捨て御免にして智謀無双と自ら誇っていた者があった。真正のトルーフルは一八九七年までに三十五乃至五十五種ほど発見されいた。松村博士の『帝国植物名鑑』上に、チュンベルグの『日本植物編』に拠って本邦にも一種あるよう出しおれど、白井博士の『訂正増補日本菌類目録』にはこれを載せず。予はこの二十三年間鋭意して捜したれど、わずかにトルーフルに遠からぬエラフォミケス属の菌に寄生するコルジケプス一種を獲たばかりで、真のトルーフルを見出さない。真のトルーフル中最も重要なはチュベール・メラノスポルム。これは円くて麁い疣を密生し、茶色または黒くその香オランダ苺に似る。上等の食品として仏国より輸出し大儲けする。秋冬ブナやカシの下の地中に生ず。イタリアでもっとも貴ばるるチュベール・マグナツムは疣なく、形ザッと蜜柑の皮を剥いだ跡で嚢の潰れぬ程度に扁めたようだ。色黄褐で香気は葱と乾酪を雑えたごとし。だから屁にもちょっと似て居る。秋末、柳や白楊や樫の林下の地中また時として耕地にも産す。前年御大典に臨み、外賓に供するに現なまのトルーフルと緑色の海亀肉を用いたらそっちも歓びこちらも儲けると、今更気付いた人あって、足下は当世の陶朱子房だから何分播種しくれと、処女を提供せぬばかりに頼まれたが、所詮盗人を見て縄をなう急な相談で、紀州などには二物ともに恰好の地があるがそう即速には事行かなんだ。
何故トルーフルがかく尊ばるるかというに、相も変らず古今を通じて浮世は色と酒で、この品殊に精力を増すから、旧く嬌女神アフロジテの好物と崇められ諸国王者の珍羞たり。化学分析をやって見るに著しく燐を含めりとか。壮陽の説も丸啌でないらしい。したがって尾閭禁ぜず滄海竭きた齶蠅連は更なり、いまだ二葉の若衆より圊に杖つくじいさんまでも、名を一戦の門に留めんと志す輩、皆争うてこれを求めたので、トルーフルを崇重する余りこれを神の子と称えた碩学すらある。これその強補の神効を讃えたに出づるはもちろんなれど、また一つはこの物土中に生ずるを不思議がる余り雷の産む所としたにもよる。支那でも地下にある多孔菌一種の未熟品を霹靂物を撃って精気の化する所と信じ雷丸雷矢すなわち雷の糞と名づけ、小児の百病を除き熱をさます名薬とした。ただし久しく服すれば人を陰痿せしむとあるからトルーフルの正反対で、現今の様子ではこっちを奨励せにゃならぬかも知れぬ。(一八九二年パリ版、シャタン著『ラ・トルフ』。エングレルおよびプラントンの『植物自然分科』一輯一巻二八六─七頁。『大英百科全書』十一版二七巻三二二頁。『本草綱目』三七。ブラントームの『レー・ダム・ガラント』一には、トルーフル女人にもよく廻るとある。)
さてトルーフルを採る法をシャタンの書に種々述べたが、就中最も有効なは豕で、犬これに次ぎ、稀には人間の子供が犬豕よりもトルーフルの所在を嗅ぎ付けるのがあるそうだ。豕はよく四、五十メートルを隔ててもこれを嗅ぎ知り、直ちに走って鼻で掘り出す。中にはトルーフルをくわえて主人の手に授くるのもあるというがどうも法螺らしいと。豕はトルーフルを掘り出しおわると直ちに主人に向って賃を求める。その都度樫の実などを少々賞与せぬと、労働は神聖なりと知らぬかちゅう顔してたちまちそのトルーフルを食いおわり、甚だしきは怠業してまた働かぬそうだ。豕も随分ずるいもので、相当に樫の実を貰いまた樫の棒でどやされるにかかわらず、ややもすれば隙を伺うてトルーフルをちょろまかす。二歳頃より就業して二十また二十五歳まで続くものあり。その技能もとより巧拙あって、よい豕は二時間にトルーフル三十五キログラムを掘り出したという。日本の九貫三百三十五匁余で、拙妻など顔は豕に化けてもよいから、せめてそれだけの炭団でも掘り出してくれたら、冬中大分助かるはずだとしみったれた言で結び置く。
かように豕の性質について善い点を探れば種々多かるべきも、豕が多食・好婬・懶惰で穢い事を平気というは世に定論あり。『西遊記』の猪八戒は最もよくこれを表わしたものだ。猪八戒前生天蓬元帥たり。王母瑶池の会、酔いに任せて嫦娥に戯れし罰に下界へ追われ、錯って猪の腹より生まれたという。猪を邦訳の絵本にイノシシと訓ませ居るが、それでは烏斯蔵国の高太公の女婿となって三十人前の食物を平らげたり、三年間妻を密室に閉じ籠めて行ない続けたり、渡天の途中しばしば女事で失敗したり、殊にはこの書の末段に、仏勅して汝懶惰にして色情いまだ泯びざれども浄壇使者と為すべし、汝原食腸寛大にして大食を求む。諸農の仏事供養の時汝壇を浄めるの職にあれば供養の品々を受用して好からずやと宣うなどその事もっぱら家猪に係り、猪八戒は豕で野猪でないと証明する。
仏教の生死輪の図は、無常の大鬼輪を抱き輪の真中の円の内に仏あり。その前に三動物を画き、鴿は多貪染、蛇は多嗔恚、豕は多愚痴を表わす。この中心の円より外の輪に五、六の半径線を引いてその間に天・人・餓鬼・畜生・地獄の五趣、チベットでは、非天を加えて六趣を画く(『仏教大辞彙』一巻一三三八頁に対する図版参照。一八八二年ベルリン版、バスチアンの『仏教心理学』三六五頁および附図版)。これより転出したようなは、ブリタニーの天主教寺の縁日に壁に掛けて僧が杖もて絵解する画幅で、罪業深き人の心臓の真中にある大鬼を七動物が囲繞の体だ。その蛙は貪慾、蛇は嫉妬、山羊は不貞、獅は瞋恚、孔雀は虚傲、亀は懶惰、豕は大食を表わす(『ノーツ・エンド・キーリス』九輯六巻一三六頁)。かく豕を表わすところ、仏教の愚痴、耶蘇教に大食と異なれど両つながら碌な事でない。
天主教の尊者アントニウスは教内最初の隠蟄者で専修僧の王と称せらる。西暦二五一年エジプトに生まれ、父母に死なれてその大遺産を隣人と貧民に頒け尽し、二十歳からその生村で苦行する事十五年の後、移りてピスピル山の旧寨に洞居し全く世と絶つ事二十年。四世紀の初め穴から這い出て多く僧衆を聚め、更に紅海際の山中に隠れ四世紀の中頃遷化した。その苦行を始めた当座はあたかも、悉達太子出家して苦行六年に近く畢鉢羅樹下に坐して正覚を期した時、波旬の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を観ざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に擲たんと脅かしたごとく、サタン魔王何卒アントニウスの出家を留めんと雑多の誘惑と威嚇を加えた。すなわちまず海棠を羞殺して牡丹を遯世せしむる的の美婦と現じて、しみじみと親たちは木の胯から君を産みたりやと質問したり、「女は嫌いと口にはいうて、こうもやつれるものかいな」などと繰りたり、私だってイじゃありませんかと、手で捜りに来たり、誘惑の限りを尽すも少しも動ぜぬから、今度はいよいよ化け物類の出勤時間、草木も眠る真夜中に、彼ら総出で何とも知れぬ大声で噪ぎ立て、獅・豹・熊・牛・蝮蛇・蠍・狼の諸形を現じて尊者の身が切れ切れになるまでさいなんだが、本人はロハで動物園を拝見したつもりで笑うて居るから埒が明かず。時に洞窟の上開いて霊光射下り諸鬼皆瘖となり、尊者の創ことごとく愈えて洞天また閉じ合うたという。この時サタンが尊者を誘惑擾乱に力めたところが欧州名工の画題の最も高名な一つで、サルワトル・ロザ以下その考案に脳力を腎虚させた。
それからまた奇談といわば、アントニウス尊者荒寥地に独棲苦行神を驚かすばかりなる間、一日天に声ありてアントニウスよ汝の行いはアレキサンドリヤの一履繕い師に及ばずと言う。尊者聞いてすなわち起ち、杖に縋って彼所に往きその履工を訪うと、履工かかる聖人の光臨に逢うて誠に痛み入った。爾時尊者面を和らげ近く寄って、われに汝の暮し様を語れという。履工これは畏れ入ります、もとより手と足ばかりの貧乏人故何たる善根も施し得ませぬ。ただし朝起きるごとに自分の住み居る市内一同のため、分けては、遠きに及ぼすは近きよりすで、自宅近隣の人々と自分同然の貧しい友達の安全を祈ります。それが済んで仕事に懸り活計のために終日働きます。人を欺く事が大嫌いだから、一切の偽りを避け約束した言は一々履行します。かくして私は妻子とともに貧しくその日を送りながら、拙い智慧の及ぶ限り妻子に上帝を畏敬すべく教えまする。このほかに、私の暮し様というものはありませんと語った。ラチマー曰く、この譚を聞いてまさに知るべし、上帝はそれぞれの職を勉め佯らず正しく暮す者を愛すと、アントニウスまことに大聖だったが、この貧乏至極な履工は、上帝の眼に、アントニウスと何の甲乙なかったと。以上は予往年大英博物館で読んだ一七一三年ロンドン板ホイストンの『三位一体と化身に関する古文集覧』および一八四五年版コルリーの『ラチマー法談集』より抄し置いたものに、得意の法螺を雑えたので、すべてベイコン卿の言の通り法螺の入らぬ文面は面白からぬ。しかしこれから法螺抜きでやる。
件のアントニウス尊者は紀州の徳本上人同様、不文の農家の出身で苦行専念でやり当てた異常の人物だ。その値遇の縁で出家専修した者極めて多ければ、当時エジプトの人数が僧俗等しといわれた。そのコンスタンチン大帝の厚聘を却けてローマに拝趨せなんだり、素食手工で修業して百五歳まで長生したり、臨終に遺言してその屍の埋地を秘して参詣の由なからしめ、以てガヤガヤ連の迷信の勃興を予防したなど、その用意なかなか徳本輩の及ばないところだ。されば今に迨んで欧州諸国にその名を冠した寺院も男女も多い(ギッボンの『羅馬衰亡史』三七章。スミスの『希羅人伝神誌辞彙』一八四四年版一巻二一七頁。チャムバースの『日次書』一巻一二六頁。『大英百科全書』十一版二巻六九頁参照)。
さてアントニウス尊者の伝を究めて吾輩のもっとも希有に感じた一事は、この尊者壮歳父母に死に別れた時、人間栄華一睡の夢と悟って、遺産をことごとく知友貧人に頒与し、百千の媚惑脅迫と難闘して洞穴や深山に苦行を累ねたが、修むるところ人為を出ずで、妻を持ち家を成し偽り言わず神を敬し、朝から晩まで兀々と履の破れを繕うて、いと平凡に世を過したアレキサンドリヤの貧しい一靴工に比べて、天の照覧その功徳に径庭少しもなしと判ぜられた。して見ると、この靴工が毎朝隣人や貧者のために真心籠めた祈念の効は、尊者が多大の財産を慈善事業に撒き散らしたのと対等で、一生女に寄り付かず素食して穴居苦行しただけ尊者の損分じゃてや。
そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼を晒し、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『維摩経』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸酒肆に入りては能くその志を立つとある。貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した。初め予ロンドンに著いた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ人が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度馴々しく物言い懸ける。予は植物の方に潜心して返事せぬ事多きに屈せず、阿漕が浦の度重なりてそんな眼に逢う。処へその姉と称える二十四、五の女が来て、俗用の仏語で若い女を叱るを聴くと、その男はかつて女に会った事のない奴だ、かれこれと言うだけ無駄と知らぬか、商売柄目が利かないにもほどがあるといった。翌日から若い女はさっぱり近寄り来らず、それでようやくこのいわゆる姉妹は仇し仇浪浅妻船の浅ましい世を乗せ渡る曲物とも分れば、かかる商売の女は男子を一瞥して、たやすくその童身か否かを判ずる力ぐらいは持つものとも知った。しかるに今人天の師とも仰がるる土宜師にそれほどの鑑識もなく、みだりに予の童身を疑うは高僧果して娼婦にしかず。畢竟、後白河上皇が仰せられた通り、隠すは上人、せぬは仏で(『沙石集』四の二)、日本に清僧は一疋もなく従って鑑識もその用を要せぬからだ。誰も頼まぬ禁戒など守ってそんな僧たちに讃められてからが縁の下の舞いと気が付いたところへ、折よく右のアントニウスの伝を読んで、無妻で通した聖人も人間並みに暮した靴屋も功徳に異りがないと知って、なるほど穴に居るより、これは一番穴──が迥かましとの断定、その頃来英中の現在文部大臣鎌田栄吉君に、何とも俺のようなむつかしい男にも妻に来る女があるだろうかと問うと、そこは破れ鍋にとじ蓋、ありそうなものと、三語の掾にも比すべき短答。帰朝して六年めに四十歳で始めて娶ったが二十八歳の素女で、破れ鍋どころか完璧だった。他十二分の標緻なしといえども持操貞確、案を挙げて眉に斉しくした孟氏の女、髪を売って夫を資けた明智の室、筆を携えて渡しに走った大雅堂の妻もこのようであったかと思わるる。殊に予の菌学を助けて発見すこぶる多ければ、今日始めて亭主たるの貴きを知ると満足し居る。前年木下(友三郎)博士予の宅に来りこの琴瑟和調の体を羨み鎌田に語ると、大分参って居ると見えるといったと『伏虎会雑誌』に出た由。昔上杉憲実遯世して遠竄せしを、主人持氏を非業に死なせた報いと噂するを聞いて、われまた以て然りとなすと言った。熊楠も破れ鍋、ドッコイ、完璧に逃げられては換えがないから、実際よっぽど参って居ると自白して置く。これを要するにアントニウス伝を読んで廓然大悟し、人の人たる道を踏み切ったは、鎌田文相の独断で教科書に書き入れしめて然るべしだ。
随分日も永いがこんな脱線を続くるとこの狭い町内の紙価を傾ける道理故一心に猪の話を書き続けよう。天主教は唯一上帝を尊むとは口先ばかりで、実は無類の多神教たり。あたかも仏教に梵教の諸天を入れたごとく、キリスト教に欧州在来の諸神を尊者化して入れたので、ついに年中尊者の忌日を絶やさず、万の事物に守護の尊者を欠くなきに至った。ヨセフ尊者は大工を護り、グレゴリ尊者は左官を司り、リエナール尊者は監獄、ミケル尊者は麪包屋、アフル女尊者は女郎屋、ジュスト尊者は料理屋、ジャングール尊者は悪縁の夫婦を冥加し、ガウダンス尊者は蠍を除き、ラボニ尊者は妻を虐ぐる夫を殺し、ロマリク尊者は水なき処に水を出しまた癩病を治し、アンヌ女尊者は紛失物を露わし、オワン尊者は聾を療し、レジュール尊者は肥満を減じ、ボニファス尊者は、痩せ男を肥えしむるなど、諸般の便利備わらぬはなし(サウゼイの『随得手録』三輯三六六頁。コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』各条)。されば事業うまく行かぬ人を、どの尊者に頼んでよいか知らぬ人と呼ぶに及んだ。
就中、豕の守尊者はエンデリウス尊者でドイツのエンデル町にその堂あり。スコットランド王の子で宮中の栄華に飽き大陸に渡って僧寮を主ったという。中世僧侶欧州に充満し怠惰して大食ばかりしたから僧ほど肥えたちゅう諺あり。豕も遊佚大食する故豕ほど肥えたという。それから何となく僧を豕の棒組と見做すに及んだ。前条に長々と伝記を述べたアントニウス尊者は諸畜を司り別して豕の守護尊たり。フラーいわく、この尊者は豕同然に土に穴掘って住み根を掘って食うからだろうと。グベルナチスは北欧のトール神は婚姻を司り豕を使物とし、この尊者また婚姻を護れば豕を愛すとされたものかと説いた。アンリ・エチアンヌは、この尊者出家前農を務め豕を飼い、死後無数の愚僧その余慶で飽食放逸したという意味らしき古詩、アントニウス世にありては豕を飼い、身死しては僧を飼う、斉しくこれ肥えて馬鹿で麁悪な物と詠んだのを引いた。つまり僧と豕を一視するの盛んなるより尊者を豕の守護尊としたらしい(『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯第十一巻三一六頁。グベルナチス『動物譚原』二巻六頁。エチアンヌの『エロドト解嘲』二二章)。『小夜嵐』三に、ぶたのもしき坊主とあるは頼みにならぬ坊主で豕に関係なし。僧と豕について次の珍談あり。
十六世紀にナヴァル女王マーゲリットが書いた『エプタメロン』三四譚に述べたは、一夜灰色衣の托鉢僧二人グリップ村の屠家に宿り、その室と宿主夫婦の寝堂の間透き間多き故、臥ながら耳を欷だて聞きいると、嬶よ、明朝早く起しくれ、灰色坊主のうち一疋はよほど肥えているから殺して塩すると大儲けのはずと言う。この家に飼った豕を灰色坊主と名づけたと夢にも知らぬ二僧これを聞いて終夜眠らず、その一人甚だ肥満しいたのでてっきり自分は殺さるる、戸は鎖ざされたから夫婦の室を通らにゃ遁れず、何としたものと痩せた僧に囁くと、それよりこれが近道と、窓を開いて地に飛び下り友をも俟たずに逃げ去った。肥満僧続いて飛び出すはずみに体が重くて誤って落ち、片脚を損じて走り得ず。近くに豕箱あるを見付けて這い往き、戸を開くと大豕二頭突き出て去った。跡へ入って身を潜め誰か通らば救いを乞わんと思いいる内、暁方近く屠者はでっかい庖丁を磨ぎ、北の方同道でやって来て箱の戸を明け、「灰色の坊様出てきやれ、今日こそお前の腸を舌鼓打って賞翫しょう」と大いに呼ばわる。坊主は身も世もあらぬ思いに腰全く抜け、どうぞ命をと叫びながら四つ這いで出るを見て夫婦も尻餅、平素畜生を灰色坊主と呼んだ故、灰衣托鉢僧団の祖師フランシス大士が立腹と早合点で、地にひれふし、大士と弟子たちの宥免を願い奉ると夫婦叩頭、坊主も頓首し続けて互いに赦しを乞う事十五分間とは前代未聞の椿事なり。ようやく夕べ宿った坊様と知れてやや安堵すれば、僧また豕箱隠れの事由を語り、双方大笑いで機嫌は直れど損じた脚は愈えず。亭主気の毒さの余りかの僧を家に請じて鄭重にもてなす。痩せた坊主は終夜休まず走って朝方荘官方へ著き、怪しからぬ屠家へ宿った、同伴は続いて来ぬから殺されたは必定と訴え出たので、荘主フォルス卿、急ぎ人を馳せて検察せしむると右の始末と、聞いた者一人も泣かずに済んだと、後日フォルス卿がフランシス一世王の母アグレームン女公の臍に茶を沸かしめて語った由。
『通俗三国志』に曹操董卓を刺さんとして成らず。故郷に逃げ帰る途中関吏に捕われしを、陳宮これを釈し、ともに走って、三日の暮方に成皐に到る。操曰く、そこの林中にわが父と兄弟のごとく交わった呂伯奢の家あり、今夜一宿しようと。すなわちその宅に入り仔細を話すに伯奢喜んで二人をもてなし、自ら驢に乗りて西村へ酒買いに往く。夜やや更けて屋後に刀を磨ぐ音す。曹操陳宮にこの宿主はわが真の親類でもなく、夜分出て往ったも覚束なし。われらを生け取って恩賞を貪るのでなかろうかと囁き、立ち聴きすると磨ぐ音やまず。さて二、三人の声して縛り殺せというた。さてこそ疑いなし、此方より斬って掛かれと抜剣して進み入り、男女八人を鏖殺して台所の傍を見れば生きた豕を繋ぎいた。陳宮悔いて全く豕を殺してわれらを饗する拵えだったに曹操急に疑うて無辜を殺したと言う。曹操は過ぎた事は仕方がない、早く遁りょうと馬に乗って二里ほど逃げ伸びると、呂伯奢驢に騎し酒果携えて来り、二人の忙ぎ走るを怪しみ何故早く去るぞ我家に豕一匹を用意した、是非一宿せよというを曹操たちまち刺し殺した。陳宮先に錯って殺したは是非もないが、今また何で呂伯奢を殺したかと問うと、操人家に還って妻子の殺されたを見てそのままに置くべきかと答う。これより陳曹操の不仁を悪み、次の宿でその熟睡に乗じ刺し殺さんとしたが思い直してこれを捨て去り、後日呂布の参謀となって曹操に殺されたとある。この話の方が『エプタメロン』の托鉢僧の譚より古いようだが、陣寿の『三国志』その他古書に見ゆるか、後代の小説に係るか只今調べ得ぬは遺憾だ。ただし『淵鑑類函』三〇九に〈初め太祖故人呂伯奢を過るや云々〉とあれば呂伯奢という人があったに論なし。
さてこの曹操呂伯奢を殺した譚に似たものが本邦にもある。いわく、大日という僧入宋して仏照徳光に参す。この大日は悪七兵衛景清が伯父なり。景清戦い負けて大日が所へ来る。大日窃かに侍者を呼んで言いけるは景清見参疲れたり、酒を買い来り飲ませよという。侍者走りて出で行くを景清見て、我を源氏の方へ訴えて捕えんとするにやと心得、大刀抜き大日を切り殺しける(『梅村載筆』八巻)。
『摂陽群談』四、島下郡吹田村、涙池、土俗伝えていう。昔この所に悪七兵衛景清の伯父入道蟄居せり、寿永三年八島の軍敗走して景清ここに来る。伯父入道眠蔵に置いて軍労を助く。ある日温麦の打ち手というを聞き誤って、伯父の心替りと思い取って、忍んで入道を害し、寺を去り、この池に血刀を注ぐ。後またその訛りを知って池水を手向け霊魂を弔う。因って景清涙池と称すると伝うる所なりとありて、この池はもと西行の「よし去らば、涙の池に身をなして、心のまゝに月宿るらん」などいう歌の名所なるに添えてかかる話を作り加えただろうといい居る。『塩尻』五四にも『載筆』と同話を出し、この事出処なお尋ぬべしとあるが、どうも曹操が刀を磨ぐ音と縛り殺せという声を誤解して呂氏の一家を殺した話から出たものでただ日本に畜類を縛して家内で殺す風と源平の頃豕がなかったから、単に酒を買いに出たのを密告に往ったと疑うての殺害と作ったり、麦条を打てといったのを己れを討つ企てと誤解して伯父を殺したと作り替えたと知らる。
予、大学予備門で習うた誰か英米人の読本にも類話があったが忘れしまった。その時講師たりし松下文吉という先生がこの話は日本の馬琴の逸話と同類だといわれただけ記憶する。それは何に拠ったか知らぬが、当時大いに売れた菊池三渓の『本朝虞初新誌』中巻に出でいた。馬琴が壮時一室に籠って小説を考案中、下女が茶を運び来る。馬琴は側に人ありとも知らず、今夜きっと下女を絞殺して、衣類を取り、屍体を井に投じて罪跡を隠そう、旨い旨いと独語して筆を措いて微笑した。下女心配で堪らず、その昏に跣で逃げ帰り、その父兄愕いて暇を乞いに来たので馬琴不思議に思い、色々聞き糺すと右次第、全く小説の妙趣向が浮かんだ欣喜の余りに出た独り言にほかならずと分り、大笑いで済んだとある。
英国でボグス・ノルトンの豕はオルガンを奏すという俚語あり。以前その地の住民怪しからず粗暴野鄙だったに付けて、似合わぬ事の喩えの諺とカムデンは言った。レイの説にはその地の教区寺のオルガン手にピクス(豕)なる人が昔在たからと解き、ケイヴはかの地古くオクスフォード伯の領所で、教区寺のオルガンの楽鍵ごとにその端に伯家の紋章豕を鐫りあるからと釈いた(今年一月十三日の『ノーツ・エンド・キーリス』三四頁)。俚諺の根源を説くに、かく種々ありて一定せず、いずれを正説と定めがたい。寛文二年板『為愚痴物語』六に秀吉公の時、千石少弐なる人、「万の道にさし出で、人も許さぬ公儀才覚立てして差してもなき事をも事あり顔にもてなし、親しき朋友と寄り合い打ち頷き呟きなどする事を好めり、さればその頃世人のさようの振る舞いする人をば千石少弐を略して千少もの、千少事などいいて上下笑い草となせり、それを今の代までも言い伝えたり、昔より言い伝えたる詞に、文字にも当らず義理にもあらず、何とも知れざる詞多し、皆この類にてやあらまし、また僭上は古き字なり」と記す。僭上は身分不相応な上わぞりをする義で古来この語あり。ここに見えた千石少弐の行いと多少違うから、千少と僭上ともと別で後混一されたものか、ただしは僭上なる字を知らぬ人がたまたま千石少弐の行いを見聞して僭上を千少と曲解したのか、『為愚痴物語』を読んだばかりでは判じがたい。
往年広島在の高橋てふ男、大井馬城に随ってシンガポールに渡り放浪中、その頃日本領事だった藤田敏郎氏よりロンドン在留大倉喜三郎氏宛て「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達って御地へ参り候に付き、しかるべく御世話頼み入り候なり」という古今無類の紹介状を貰い渡英したが、全く英国風に化せず、本国にある壮士同然の振る舞いに、大倉氏も愛憎をつかしほり出した。それから当時ロンドンで総領事だった荒川巳次君宅へ寄食したが、子供の守りをするがうるさいとかで逃げ出し、前途何たる目的もなしに一日大英博物館をうろつく内、余り異風な故守衛が何国の産かと問うと日本と答う。日本人なら館内に南方という人があると聞いてたちまち予に面会を求めた。既に多年海外にあって同国人にはひどい目にたびたび逢った予は余り好まなかったが、とにかく腹がへってかなわぬというから館外の食堂へ伴れ行き一食させ、事情を聞いて色々世話し、その頃高名の詩人サー・エドウィン・アーノルド夫人が日本生まれだったのでその厄介にならせたところ、『史記』に見えた馮驩同様少しも足るを知らぬ不平家で小言絶えず。殊に頭を丸剃りにして明治十三年頃新吉原を売り歩いた豊年糖売りがぶらさげた火の用心と大書した烟草入れを洋服の腰のポケットに挿して歩く。またアーノルド男宅の地下室で食事するに大食限りなきを面白がり、下女ども種々の物を供えくれるをことごとく平らげ、ついには手真似で酒を求め、追い追い酔いの廻るに随い遠慮もなくオクビを発し、頬杖突いて余肉を喫うなど、彼方の人のしない事ばかりする。
その頃英語で『ヒューマン・ゴリラ』てふ図入りの書を作った者あり。強姦に関する研究を述べたので、医学法学上大いに参考となり別に驚くに足りないものだったが、題号が突飛なので英国で出版むつかしくパリで出版して英国へ輸入した。ゴリラはわが国でヒヒというと斉しく大なる猴で、ややもすれば婦女を犯す由、古来アフリカ旅行記にしばしば見える。それからこの書に人間のゴリラと題号を附けたのだ。この事をどこかで高橋が聞き噛り、例のごとくアーノルド男邸の地下室へ食いに往って悪戯をするうち猴の真似をした。下女どもはそれは何の所作事かと尋ぬると、われは人間のゴリラであると飛んでもない言を吐いたから、下女ども大いに驚き用心して爾来碌に近寄らず。高橋は何の気も付かず、二、三日は下女輩多忙で自分に構ってくれぬ事と思いいたが、幾日立っても至極の無挨拶なるに業をにやし、烈火のごとく憤って男爵夫人に痰呵を切り、汝はわれと同国人なるに色を以て外人の妻となりたるを鼻に掛け、万里の孤客たるわれを軽んずるより下女までも悪態を尽すと悪態極まる言を吐いたので大騒ぎとなり、男爵大いに怒ってその朝限り高橋をお払い箱にした。それから全くの浪人となって旦に暮を料らずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見る見る会話が巧くなり、古道具屋の賽取りしてどうやらこうやら糊口し得たところが生来の疳癪持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月掛かって儲けた金を討ち死にと称して飲んでしまう。一度ならよいが幾度も幾度も討ち死にをするのでどうしても頭が昂らず、全く落城し切って大阪の山中氏がロンドンに出している骨董舗に奉公と極った時予は帰朝の途に上った故その後どうなったか知らぬ。この人については無類の奇談夥しくなかなか一朝夕に尽されない。就中、その討ち死にのしようがまた格別の手際で見聞く呆れざるはなかった。
さて、予帰朝後この田辺の地に僑居し、毎度高橋入道討ち死にの話を面白く語った。その頃大阪堀江に写真を営業する田辺人方へ紀州の人が上るごとに集まり、件の話に拠ってこれから討ち死にに出掛けようじゃないかなどいう。それより弘まって紀州人の知った芸妓はもとより、紀の庄店などでも、討ち死にといえば底叩きの大散財と分らぬ者なしと聞いたは早二十年ばかりの昔で、今はどうなったか知らぬ。しかるにその後『改定史籍集覧』二五所収、慶長十八年頃書かれたところといわるる『寒川入道筆記』を見るに、「とにかくに、右のようなる事どもをきけば気の毒じゃ、聞かぬがよい、かように治まりたる御代には太刀を鞘に納め弓をば袋に入れて置いても、その身その身の数寄数寄に随い日を暮し夜を明かし慰むべき事じゃ、千も万も入らず、当時無敵は若衆様と腎を働かし討ち死にしょう事じゃ、しからざれば若衆の御袋様と(以下欠文)」とあり。思うさま楽しむを討ち死にといったので高橋入道の言と同義だ。しかし入道はこの『記』を読んで後に言い出したのでは決してない。要は期せずして偶合したので、久しい歳月の間に、こんな事は多くあろう(宝永五年板『風流門出加増蔵』(『西鶴置土産』の剽窃物)三ノ二、伊勢町の大盃といえる大尽云々、六十を過ぎて鬢付嗜み女郎と討ち死にと極めて銀使いける云々)。
安永五年板、永井堂亀友の『世間仲人気質』一に「僕もと京師の産、先年他国へ参り夜とともに身の上咄しを致せしが、物語りの続きに、その時は私も、ちゃっちゃむちゃくでござりました、といいたれば、他国人が大いに笑いちゃっちゃむちゃくとは何の事じゃ、そのような詞が京にもあるか、ただしは亀友の一作か、これは可笑しい、これは珍しやと申して一同一座の興を催しましたが、その国でそれからこの俗言が流行りますと年始状の尚々書きに申して上せましたくらい、さて当年で四十九年以前、三月上旬の頃兵庫浦で目の内五尺八寸という鯛がとれて大阪のざこ場へ出した時、問屋の若い者きおい仲間人これを求め、六人掛かりで料理せしが、中に一人この大鯛のあらの料理を受け取り、頭を切りこなす時、魚のえらを離しさまに手の小指を少し怪我しけるが痛みは苦にせねど何がな口合がいいたさに南無三、手を鯛のえらでいわしたア痛い、これはえらいたい、さてもえらい鯛じゃといったが、この鯛の大きな評判に連れてこの口合がざこ場中になり、それから大きな物さえ見るとこれはえらい、さてもえらい物じゃといい出して大阪中の噂になり、後日本国で今はえらいという俗言が一つ出来せし由、しかれば古き喩えはいずれも故実のある事、今様の俗言も何なりと拠のある事ならん云々」と見える。この本を出版と同年に書いたと見て繰り合すと安永五年より四十九年前は享保十二年に当る。その年より前に果してえらいてふ語がなかったか知らぬが、魚のえらからエライという形容詞を転成するような事も世間にないと限らず。殊に京の人をまねて田舎にチャッチャムチャクなる語がはやり出したとはありそうな事で、高橋入道の討ち死にがこの辺で大抵の人に通用すると同例だから、俗語の根源と伝播は当身確かな記録があるにあらざれば正しく説き中る事すこぶる難い。これを強いて解きに掛かるより豕がオルガンを奏すてふ俚語におけるごとく、諸説紛々たるも今に迨んでいずれが正解と判断し能わぬ。
『日本紀』七に日本武尊東征の帰途、毎に水死した弟橘媛を忍びたもう。故に碓氷嶺に登りて東南を望み三たび歎じて吾妻はやといった。爾来東国を吾妻の国というと見える。故浜田健次郎氏か宮崎道三郎博士かの説に、韓語で日出をアチムというから推して本邦上古日出をアツマといったと知れる。したがって日出処の意で東国をアツマノクニといった本義は早く忘却され、強いてこれを解かんとて日本武尊の事をこじつけたとあった。『太平記』などに関所として著名な樟葉という地あり。『日本紀』五に彦国葺が武埴安彦を射殺した時、賊軍怖れ走って屎を褌より漏らし甲を脱いで逃げたから、甲を脱いだ処を伽和羅といい、屎一件の処を屎褌という。今樟葉というは屎褌の誑りだとあり。『播磨風土記』に神功皇后韓国より還り上りたもう時、舂米女等のくぼを陪従婚ぎ断ちき、故に陰(くぼ)絶ち田と地名を生じたと出るなども同様の故事附けで多くはあてにならぬが、今日の南洋諸島人と斉しくこれらの解説が生じた頃寄ると触ると屎とかくぼとか言うて面白がりいた証拠になる。同書に手苅の丘は近国の神ここに到り、手で草を刈って食薦と為す故に名づく、一にいわく、韓人ら始めて来りし時鎌を用ゆるを識らず、ただ手を以て稲を刈る故に手刈村というと。ノルトンの豕と等しく早く既に解説が一定せなんだのだ。
内典を閲するに、仏や諸大弟子滅後久しからぬにこんな故事附けが持ち上ったと見え、迦多演那尊者空に騰って去る時、紺顔童子師の衣角を執って身を懸けて去る。時に人々遥かに見て皆ことごとく濫波底と言う。懸けるという事だ。それより北インドに、濫波という国名が出来たと見ゆ(『根本説一切有部毘奈耶』四六)。今一つ豕に因んだ例を挙げんに、ホーンの『テーブル・ブック』一八六四年版一九〇頁にいわく、数年前エールス人ダヴッド・ロイドが、ヒャーフォードで、六脚ある牝豕をその一膳飯店に飼ったからたまらない。見物かたがた飲食に出掛ける人引も切らずと来た。ところが、ダヴッドの妻、怪しかる飲んだくれでしばしばなぐっても悛まる気遣いなし。一日例のごとく聞し召し過ぎ、例の打擲がうるさいから檻の戸を開けて六脚の豕を出してその跡に治まり返る。折節一群の顧客噂に高い奇畜を見に来り、ダヴッド大恐悦の余り何の気も付かず欄辺に案内し、皆さんこれまでこんな活き物を御覧にならないでしょうというと、かみさんが大の字になってグウグウと高鼾の体、観者の内の一百姓「ホンに貴公のこの牝豕ほど酔うたのは生来一度も見ない」といった。それからダヴッドの牝豕ほどずぶ酔いてふ俚言が起ったと。これも何だか跡から牽強のよう想わる。
馬琴の『蓑笠両談』二に、丸山応挙に臥猪の画を乞う者あり。応挙いまだ野猪の臥したるを見ず心にこれを想う。矢背に老婆あり薪を負いて毎に応挙が家に来る。応挙婆に野猪の臥したるを見た事ありやと問うに時折は見るという。重ねて見付けたら速やかに知らせよと頼む。一月ばかりして走り来りわが家の後の竹篁中に野猪臥すと告げた。応挙由って矢背に至り臥猪を写生し、家に帰りて清画しおわった処へ鞍馬より老人来る。汝野猪の臥したるを見たるかと問うに毎に見ると答う。すなわち画を示すを翁熟視してこの画よく出来たが臥猪でなくて病猪だという。応挙驚いてその故を問うに翁曰く、野猪の叢中に眠るや毛髪憤起、四足屈蟠、自ずから勢いあり。かつて山中で病猪を見たるに実にこの画のごとしと。応挙初めて暁り翁に臥猪の形容を詳しく聞き、専らその口伝に拠って更に臥猪を画く。四、五日して矢背の老婆来り、怪しむべしかの野猪その翌朝篁中に死んだと告げた。これを聞いていよいよ翁が卓見を感じ、再びその音信を俟つに十日ばかりして翁また来る。応挙後に出来た図を示すと翁驚歎してこれ真の臥猪なりという。その画もっとも奇絶、今なお京都某家にあり。挙が画に心を用いし事かくのごとし(『嘯風亭話』)。また西定雅の話に、応挙若かりし時野馬、草を食む所を画いた。一翁これは盲馬だと難ず。その訳は馬は草で眼を害せぬように眼を閉じて草を食いに掛かる。この馬は眼を開きながら草を食うから盲目と断じたと。応挙深くその説を感ず。そもそもこの二翁何人ぞ野夫にも功の者ありとはこれらをやいうべきと出づ。千河岸貫一氏の『日本立志編』には、応挙鶏を額に画いて祇園神社に掲げ、毎に窃かに詣でて衆評を聞くと、画は巧いがまだ足りぬ処ありと呟いて去る者あり。走り付いてその説を敲けば多年鶏を畜う人で、われは鶏の羽色が四季に応じて変るを熟知す。この鶏の羽色と側に描いた草花と時節が合わぬと言ったので応挙厚く謝したとあったと覚える。
寛文二年板『為愚痴物語』四に能の太夫鼻金剛という名人、毎に人を観客中に混在せしめ、衆評を聞いた上己れに報ぜしめて難癖を直す。ある時その人々に今日の評はと聞くと今日は誰一人誉めない者はなかったと答う。その内一人いわく、ただ一人能に難なけれど男が少し小さいばかりの難があるといったと。太夫聞いてさては我が能まだ上手に達せずと。人々男の小さきは生まれ付きなり、能の上手下手に係らずやと問うと、太夫、善知鳥の曲舞に鹿を追う猟師は山を見ずという古語を引き居る。鹿に全く心取らるれば山の有無も知れぬものだ。我が芸まことに上手なら見物はそれに心取られてわが男の大小などに気付かぬはずだ。我が芸未熟なればこそ男の小さきが目に立ったのだと語るを聞いて、皆人誠に物の上手は別な物と感心したそうだ。
舜は邇言を察したとか。今日書物で読んでさも自分が煉り出したように、科学の学識のと誇る事どもも皆過去無数劫の間不文の衆人が徐々に観察し来った功績の積もった結果だから、読書しない人の言を軽んずべきでなく、未開半開人も驚くべき経験上の知識を持ち居る例多い。お江戸日本橋七つ立ち、初上りの途に著いてから都入りまで五十三駅の名を作り入れた唄を、われら学生の時唄いながら箱根山を下駄穿きで越えて夏休みに帰国したものだ。その内に「上る箱根の御関所でちょいとまくり、若衆の物では受け取れぬ、こちゃあ新造でないかとちょと三島」てふ名句があった。箱根の関を婦女が通るは厳禁で、例せば文政十一年本多近江守長崎奉行勤務中、その足軽島田惣之助は舞袖事たき十九歳、同じく西村新三郎は歌扇事かね二十歳という娼妓を買いなじみ、たきは夫婦約束、かねは身請けされて親元に在たところ、十二年十月男二人とも出立に付き、たき惣之助を慕い駈落してかねに落ち合い、たきは若衆姿に化けて関所を通り、両人とも江戸へ著いた咎で奴にされ、惣之助は二十七歳で死刑と天保二年筒井伊賀守役宅で宣告された(『宝暦現来集』二一)。かかる犯罪予防のため関所で少年姿の秘部を検したから「ちょいと捲り云々」と唄うたものだ。『明月記』に天福元年十一月御法事の夜僧房の童が女の姿で堂上に昇り、大番武士に搦めらるとあり。『書紀』に小碓命少女の装いで川上梟師を誅したと出で、婦女男装して復仇したり、役者が女装して密通したりなど往々聞くが(『拾遺御伽婢子』三の三、『甲子夜話』続二一)、多くはその場だけで事済み、外国のような大騒ぎ社会を害毒するの甚だしきに至らぬ。エジプト等の回教国には婦女閉居して男子を見ず。女客の往来すこぶる自在で、妻妾の室の入口に女客の靴あらば、夫も遠慮して引き還す。故に女装の男子容易に奸を行う(一八四六年パリ版、コンブ『埃及行記』二三頁)。これら諸国に常習の女装男子、男装女子あり。また半男女また閹人あり。各男装女装して事を行えばその犯罪夥しく社会動揺少なからず。仏国のデオンごとき男子女装して常に外交や国事探偵に預かり、死尸を検するまで男女いずれと別らず、大いに諸邦を手古摺らせた。
支那の明の成化間石州の民桑翀、幼より邪術を学び纏足女装し、女工を習い寡婦を粧い、四十五州県に広く遊行し人家好女子あらば女工を教うるとて密処に誘い通ず。女従わざれば迷薬呪語もて動くも得ざらしめ辱しむ。女名を敗るを畏れついに口外せず。かくのごとく数夕してすなわち他処に移る故久しくても敗れず。男子の声を聞かば奔り避けた。かくのごとき事十余年、河南北、直隷、山東、山西に徧遊して大家の室女百八十二人を汚す。後晋州に至り高秀才の家に宿る。その婿趙文挙酷く寡婦を好み、自分の妻を妹と詐り、延き入れて同宿せしめ中夜にこれに就くに翀大いに呼んで従わず。趙無理やりその衣を剥げば男子なり。官に送り糾明するに実を吐き、その師大同の谷才この術を行うたが既に死んだ。その党任茂、張端等十余人各途を分ち非行すと。急ぎ捕えて罪定まり皆磔殺された。翀の門人王大喜その術をその弟王二喜に伝え、二喜十八、九歳の艶女に化け裁縫絶巧兼ねて婦女を按摩す。かくて行う事久しからず、やっと十六人に施した後東昌に至り、馬万宝の隣家に宿る。一度嫁したが舅姑に虐げられて脱れ出たという。馬これを垣間見、瓢金なその妻と謀り自分は飲みに出たと称し妻をして疾に托して王を招かしめた。さて妻が厨舎の門を閉づるとて燭を隠し出で往いた跡へ素早く馬が入れ替り居るとは白歯の似せ娘、馬をその妻と心得按腹する指先で男と判り、逃げかかる処を馬が止め検すればこれも立派な男子の証拠儼然たり。妻を呼び燈を執り詰ってその実を知り、告発せんにも余り可愛らしい。ついに取って押えてこれを宮し、創を療じた後、これ我が表姪王二姐とて、生まれ付いた無性人で夫に逐われたとこの頃知ったから妻の伴とし置くと称し、昼は下女同然に賄わせ使い、夜はすなわち狎処した。間もなく桑翀伏誅しその徒皆棄市された時二喜のみ免れた。探索厳しいから村人多く疑う。由って老婆連を集め見せるに全く無性人と判った。王二喜ここに至って馬生を徳とし、その為すままに身を任せて一生を終り、死して馬氏の墓側に葬られた。支那では余り希有な事でないらしく、おどけ半分に異史氏が評して馬万宝善く人を用ゆる者というべし。児童蟹を面白がるが鉗が畏ろしい。因って鉗を断ちて飼う。万宝もこんな美人をそのまま置いては留守に家を乱さるるからこれを宮して謀反の道を断って思うままに翫んだのだ。ああいやしくもこの意を得ば以て天下を治むるも可なりといった(「鳥を食うて王に成った話」参照)。桑翀が事は『明史』にも具載され大騒動だったのだ。
それよりも古く宋の時男色を営業する者多く、政和中法を立て、男子を捕え娼と為すを告げれば賞銭五十貫、罪人は杖一百と定めた。南渡の後呉俗もっとも盛んで、皆脂粉を傅け盛んに粧飾し、針縫を善くし、呼んでいう皆婦人のごとし。その首たる者を、師巫行頭と号す。およそ官府に不男の訟あらばすなわち呼んでこれを験せしむ。風俗を敗壊するこれより甚だしきはなし(『陔余叢考』四二)。また古く『漢武故事』に、初め武帝太子たりし時、伯母大長公主その女陳阿嬌を指し好否を問う。帝曰く、もし阿嬌を得ばまさに金屋を以てこれを貯うべしと。公主大いに喜びすなわち帝に配す。これを陳皇后という。後皇后寵ついに衰え驕恣ますます甚だし、女巫楚服なる者自ら言う、術あり能く上の意を回らしむと。昼夜祭祀し薬を合せて服せしむ。巫男子の衣を著け冠幘帯素し皇后と寝居し相愛夫婦のごとし、上聞いて侍御を究治す。巫后と妖蠱呪詛し女にして男淫するを以て皆辜に伏す、皇后を廃して長安宮に置くと。『漢書』にこの連坐で三百余人誅せらるという。この后の曾祖父陳嬰は無類に謹厚な長者で秦の世乱れた時推して王とされたが、その母我汝が家に嫁し来ってより、いまだかつて汝が先祖に貴き者ありと聞かず、今大名を得ば不祥だ。宜しく他人に属すべし。事成らば封侯を得、事敗れたら逃るるにやすからんと言う。由って衆に勧めて代々名将だからとて項梁に属し、後漢に帰して堂邑侯たり。かかる有徳の人の後にこんな奇態な皇后が出来、あろう事か妖巫といわゆるお姿夫婦(『傾城難波土産』四の二)の語らいから帝室の威厳を損ずる大騒ぎを起したは何たる事ぞ。『史記』外戚世家一九に、この后子なき故、その母が武帝を立てた偉功あるにかかわらず廃せられ、子を求めて九千万銭を医に与えたが、ついに子なしとあれば、楚服はもとよりこの后も多少半男女がかった変り物だったらしい。
インド、エジプト等の諸国に至っては、バートンの『千一夜譚』や仏教の律蔵、ラメーレス訳『愛天経』等を見て一斑を覗わるるごとく、外貌天性とも男女いずれと別らぬ者充満し、対角線を引いたごとく入り乱れて行なうから奇々怪々の異事最も多い。したがって艱難は発明の母ともいうが、男装女子や女装男子を見別つ法も随分あったといわせるほど備え居る。たとえば男女いずれとも別らぬ者を見れば、何気なき体で遊戯に誘い入れ、普通本邦婦人が洗濯する体に蹲まらしめ、急に球を抛げると両手で受け留むる刹那、股を開けば女子、股を狭むれば男子とは恐れ入ったろう。また予は実験しないが、一八六七年パリ版、ゴダールの『エジプトおよびパレスチナ』一四一頁に記したは、エジプトで女奴を買う前、身体検査にその女の身内熱きか否かを識る法あり、大盥に水の冷たいのを入れてその中に坐せしむると吸い込む故、それだけ水面が降る。降る度の高いほど精力強しと知ると。惟うに近頃諸国で結婚問題やかましく、優生学者等同音に男女身体検査を厳重に行うた後、相応しい同士を婚せしむべきを主張するが、体健かにして子なきも多ければ、要は第一に男女精力の強弱を検すべきで、東洋に古く行われた指印から近時大奏効し居る指紋法が発達したごとく(この事に関して『ネーチュール』に出した拙文はガルトン始め諸国の学者に毎度引かれ居る)、この吸水力が果して精力を表わすか否を試験した上、いよいよエジプト人のいう通りならば、それより敷衍して婦女精力計という精細な器械を作り出さん事を国家の大事として述べて置く。まだまだ多年の薀蓄、こんな創思はあり余って居るが、愚者道を聞いて大いにこれを笑う世の中、遺憾ながら筆を無駄使いせぬようこれ位でやめる。とにかく今日半開と呼ばるる回教諸国などなかなかえらい発明も多かり、能くその法を採用したら、上る箱根のお関所でちょと捲るに及ばず、毬一つ投げ受けしただけで、男女を識別し得たはずだ。
支那の検屍法などにも西人の想いも付かなんだ事多く、予在欧の昔すら『洗冤録』などを訳させて験し居る者があった。わが邦でも笑うて過さずにその当否を試験せば、近日聒ましい父子血合せの法くらいは西人に先鞭を付けられずに済むだろう。たとえば万治二年中川喜雲著『私可多咄』五に『棠陰比事』を引いて、呉の張挙訟えを聞くに、夫を殺し家を焼き、妾夫火事で焼け死んだという妻の言を夫の親類受け付けず。挙豕を二疋取り寄せ、一を殺し他は生きながら薪を積んで焼いて見れば、殺して焼いたは口中に灰なく、生きながら焼いたのは、灰、口を埋めいた。さて、かの夫の口中を見れば少しも灰なかったから、夫を殺して後火を掛けたと、豕と比較して見せたので女争わず服罪したとあるごときも、支那人の気の付けようは格別と思われる。応挙が画くごとにその物に経験厚い人の説を聞いたはもっともだ。
橋本経亮の『橘窓自語』に「長常という彫物師は類なき上手なり、円山主水応挙も絵の上手なりしが、智恩院宮諸太夫樫田阿波守という人長常に小柄を彫りてよ、応挙の下絵を書かせんと誂えければ長常諾いたり。因って阿波守応挙に云々といいければ速やかに下絵を画いて送りしかば、阿波守長常の方に持ち至りて下絵を与えければ、長常この下絵にては得彫らじといいたり。いかなればと阿波守問いければ、これはわれに彫らさんと告げて応挙に下絵を画かせたまいしとみえて、応挙は画の上手なればわが彫るたがね癖を書きたり、常に悪きたがね癖なれば直さんとのみ思う。その癖を彫らんとするはもっとも難き事なり、癖を正さんとして自ずから癖の彫られたるはあるべしといいければ、阿波守物の上手その妙なるを感じて小柄を彫らすを止めたり」と記す。この阿波守は只今東京で医を開業しいる重次郎君の先祖であろう。予君の父君に久しく止宿して後渡米の時その家から出で立った。父君は京生まれで、笙を吹き、碁を囲んで悠々公卿風の人であった。同宿に伊予人井林というありて至極の無法者たり。かつて共立学校で賄い征伐のみぎり、予は飯二十六椀、井林も二十一、二平らげ、両人とも胃病で久しく悩んだが、大食の東西関としてロンドンで山座円次郎氏に遇った時もその話が出た。ある夜中井林急に金盥を敲き火事と呼んで走り廻ったので樫田氏の家内大騒ぎし、まず重次郎氏当時幼少なるを表神保町通りへ立ち退かせたが、一向火の気がないので安心したものの、重次郎氏の母以てのほか立腹して翌朝井林を追い却した。去年予寄附金集めに三十六年ぶりで上京した時、井林義兵を挙げて馳け付けたが一文もくれなんだ。
さて、応挙まことに画の妙手で、矢背まで出掛ける熱心熾んなれど写した所が病猪と気付かず。またよく長常の彫り癖を暗記したがその悪い癖たるを識らず。人智誠に限りありだ。さてこそマケドニアの画聖パムフィロスは、画師は画のほかの一切の智識をも具えにゃならぬと力説した(プリニウス『博物志』三五巻三六章)。ついでにいわく、支那で野猪を画いた古い例は、『晋書』に、鄧氏の妻病篤く、医巫手をこまぬき尽しても及ばず、韓支筮して野猪を画かせ、臥室の屏風に貼らしめて瘥えたそうだ。
右のパムフィロスは一タレント以下の謝金では画は教えず。わが二千円ほどだ。かく高値を払うて教えを受けた中にアペルレースはギリシア空前の画聖、その妙技について一、二談を挙げんに、かつて諸画師と競うて馬を画くに、審査員他の輩に依怙す。ア画馬は馬に審査せしめよとて、馬数匹を牽き来らしめ諸画を示すに、アの画馬を見て始めて鳴いたからアを一等とした。一説にアレキサンダー王の像をアが画いたが気に入らず、不出来という。ア、王の愛馬を牽き来るとたちまち王の肖像を見て王と心得嘶いた。ア曰く王よりは馬がよく審査すると。成光が画いた鶏を真の鶏が蹴り、黄筌が画いた雉を鷹が打たんとし、曹不与誤って筆を屏風に落し点じたのを蠅に作り直せしを、呉帝孫権真の蠅と思い指で弾きにかかった類話もある(『古今著聞集』一六。『淵鑑類函』三二七)。拙い女絵を見てさえ叛反する人間はもとより、動物を画の審査官にするも当らない事多かろう。蛙など蠅の影を見てしきりに飛び付く。蝶蜂は形を問わず、己が好む花の色したよい加減な作り物に付き纏う事あり。南米産の猴に蠅の絵を示すと巧拙構わず抓みに来るを親しく見た。画が巧みなるにあらず、猴の察しがよいのだ。
また、アペルレースアレキサンダー王に事えた時プトレマヨスと快からず。プがエジプトに王たるに及びア航海中暴風に吹かれエジプトに漂到した。アの仇人王の幸臣に頼み王使と詐りアを王の宴に召かしめた。王予て悪みいた奴が招かざるに推参と聞いて大いに怒り、宮宰をして内官一同を召集せしめ、アをしてアを呼んだ者を指摘せしめんとした。アそれには及ばずとて竈辺の木炭片を採り、その人の肖顔を壁に画く。その画成らざるに早王はその誰たるを認めたという。似た例は東洋にもあり。百済河成宮中である人に従者を呼んでくれと頼んだに顔を見知らずと辞す。すなわち一紙を取り従者の顔を画き示すとその人これを尋ね当てた。支那の戴文進金陵に至るに、荷持ち男、その行李を負い去りて見えず。すなわち酒屋で紙筆を借り、その貌を図し、立ちん坊連に示すと誰某と判り、その者の家に尋ねて行李を得たそうだ(『郷土研究』一巻九号、拙文「今昔物語の研究」)。
アペルレースの諸画中もっとも讃えられたは嬌女神アフロジテーが海より現じた処で、その髪より搾り落す水滴が銀色の軽羅様にその体に掛かる。実に何とも言われぬ妙作だった。コスのアスクレーピオス医聖の廟に掲ぐるための作で、百タレンツ今の約二十万円を値した。アペルレースの人となり至って温良故、アレキサンダー王の殊寵を得た。王かつて勅して自分の画像をアのほかの者が作るを禁じた。王毎度その画場へ来た。一日来りて知りもしないで画の事を種々しゃべくるをアが徐かに制して、今そこに色料を砕き居る小僧に笑わるるから知らぬ事を言いたもうなと言った。王は聞えた怒り性だったが、かく言われても肝癪を起さず。それほどまでも厚くアを重んじた。王若い時高名の女嫌いだったが後翻然として改宗し、大好きとなったは初めてパンカステの麗容に目が眩んでからだ。パ、それより王の最愛の妾となり、三千寵幸一身に集まり、明けても暮れても王の涎を受け続けた。それもそのはず、この女天の成せる玉質柔肌、態媚容冶常倫を絶し観る者ほとんど神かと乱れ惑うた。かかる曠世の尤物を無窮に残し拝ますはアの筆のほかにその術なしとあって、その装束を脱いだ体を画かしめた。アその痩せて増すべからず、肥えて減ずべからざる肉付きの妙なるに、心悸臂揺し、茫然自失して筆を落し続け、写生はお流れ、それからちゅうものは日々憂鬱して神定まらず「浅茅ふの小野の笹原忍ぶれど、余りてなどか人の恋しき」てふ態となる。アレキサンダー大王、平生四種の絵具だけで城を傾くるほど高価の画を成すアペルレースも、ただこの一の色をかほど扱いあぐむ心根を不便がり、さしもわが身よりも惜しんだ寵姫を思い切ってアに賜いし、それ自ら制して名工を励ました力の偉なる、ペルシャ、インドの大敵を蹂躪した武功に勝る事万々とプリニウスが頌讃した。上述の嬌女神海中より出現の霊画は実にアがこのパンカステをモデルとして全力を竭し仕上げた物という。
アテナイオスの『学者燕談』一三には、当時アテーネ遊君の大親玉フリーネがエレウシスの大祭に髪を捌いて被うたばかりの露身の肌を日光に照らし、群衆瞠若として開いた道を通って海に入り神を礼し、返って千々に物思う人ほど数の知れざる浜の真砂の上に立ち、その長髪より水を滴らすを観る者各々アフロジテ神再び誕生したと耦語した。これを親り目撃したアペルレースがそれをモデルにしてかの図を作ったと記す。このフリーネは前に往者なく後に来者なしといわれた美妓で素性は極めて卑しくあたかも三浦屋の高尾が越後の山中、狼と侶を為さんばかりの小舎に生まれたごとく(『北越雪譜』)、ペオチアの田舎で菜摘みを事としたが、転じてアテーネの遊君となってより高名の士その歓を求むる者引きも切らず、一たび肢を張れば千金到り一たび要を揺かせば万宝納る。かほど金になる女身を受けて空しく石となった松浦佐夜姫を愍笑せんばかり。さればアレキサンダー王テーベスを壊った時「アレキサンダー王はこの城壁を砕けり、妓王フリーネはこれを再興せり」と銘するだに許されたる、これを修めて旧観に復せしめんと出願したほどの大金持となった。かつて、弁士エウチアスに重罪犯として訴えられた時、その情夫の一人で大雄弁家なるフペリデースに弁護されしもややもすれば負けそうだった。その時フ一計を案出し、フリーネを唆かしてその乳房を露わさしめた。これ昔天孫降下ましましし時、衢神猿田彦大神長さ七咫の高鼻をひこつかせて天の八達之衢に立ち、八十万の神皆目勝って相問を得ず。天の鈿女すなわちその胸乳を露わし裳帯を臍の下に抑えて向い立つと、さしもの高鼻たちまち参ったと『日本紀』二の巻に出づ。
玄宗皇帝が楊貴妃浴を出て鏡に対し一乳を露わすを捫弄して軟温新剥鶏頭肉というと、傍に在た安禄山が潤滑なお塞上の酥のごとしと答えた。プリニウス説にロネス島のリンドスなるミネルヴァ神廟にエレクトルム(金と銀と合した物)の小觴あり。神女ヘレナの寄附した品でその美しい乳房をモデルに作ったそうだ。プラントームの『レダムガラント』にスペイン女の三十相を挙げて、膚と歯と手は白きを要し、目と眉と睫毛は黒きを要し、唇と頬と爪は紅きを要し、胴と髪と手は長きを要しとは、手の長い者は盗みすると日本でいうと違う。それから歯と耳と足は短きを欲し、胸と額と眉間は広きを欲し、上の口と腰と足首は狭きを欲し、臀と腿と腓は大なるを欲し、指と髪と唇は細きを欲し、乳と鼻と頭は小さきを欲す。一つ欠いてもスペインで真の美人とせぬとある。故ハックスレーが説いた通り、ギリシア人スペイン人とも髪も眼瞳も黒くメラノクロイと称する白人中の一類に属するから、その美女の標準も大抵同一なるべく、したがってヘレナの乳は小さかったから小觴のモデルにしたらしい。ヘレナ、大神ゼウス天鵝に化けて、スパルタ王の妻レーダに通じ生ませた娘で、神を妬ますばかりの美貌から、一生に二度拐帯され、四人の妻となった。トロヤ大合戦もここに起った。人物画の大名人ゼウクシス、クロトンのヘーラ女神廟に掲ぐべきヘレナの肖像画を頼まれた時、クロトン最美の処女五人を撰み、一々その最好の相好を取り合せて作ったのが絶世の物だった。もちろん夥しい報酬を獲たがなお慾張って、廟に掲ぐる前に、見料先払いでその画を観せ、大儲け、因ってこの画のヘレナを遊君と綽名したという。これらでヘレナは滅法界な美女と判り、その乳もよほど愛らしかったと知れる。
底本:「十二支考(下)〔全2冊〕」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年1月17日第1刷発行
1997(平成9)年10月6日第10刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集第二卷 〔十二支考Ⅱ〕」乾元社
1951(昭和26)年11月25日発行
初出:1「太陽 二九ノ一」博文館
1923(大正12)年1月
2「太陽 二九ノ四」博文館
1923(大正12)年4月
3「太陽 二九ノ七」博文館
1923(大正12)年6月
4「太陽 二九ノ一一」博文館
1923(大正12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〈〉内の引用漢文の訓読は、編集部によります。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年8月23日作成
2016年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。