十二支考
犬に関する伝説
南方熊楠
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南洋ニュウブリツン土人の説に、犬はもと直立して歩み甚だ速やかに走って多くの人を殺した。そこで生き残った人間が相談して、麪包果を極めて熱しその種子を犬の通路に撒いた。犬これを踏んで足を焼き、倒れて手をも焦し、それより立って歩む事叶わず。その種子今も、犬の足の裏に球となって残りあるという(一九一〇年版、ジョージ・ブラウンの『メラネシアンスおよびポリネシアンス』二四四頁)。
明治十五年、予高野登山の途次、花坂の茶屋某方で年十八歳という老犬を見た。今まで生きいたら五十八歳ちゅう高齢のはずだが、去年十一月、三十九年めでそこを過ぐると、かの茶屋の家も絶え果て、その犬の成り行きを語る者もなかった。『大英百科全書』十一版一六巻九七六頁に、犬は十六より十八歳まで生き得るが、三十四歳まで長命の例も記されたと見ゆ。一九一五年版、ガスターの『ルマニアの鳥獣譚』三三七頁に記す処に拠ると、ルマニア人は犬の定命を二十歳と見立てたらしい。その話にいわく、上帝世界を造った時、一切の生物を召集してその寿命と暮し方を定めた。一番に人を召し、汝人間は世界の王で、両足で直立し上天を眺めよ、予汝に貴き容状を賦与し、考慮と判断の力、それからもっとも深き考えを表出すべき言語の働きをも授くる。地上に活き動く物は空飛ぶ鳥から土を這う虫までも汝に支配され、樹や土に生ずる諸果ことごとく汝の所用たるべく、汝の命は三十歳と宣うた。人間これを承って懌ばず、いくら面白く威勢よく暮したってただ三十年では詰まらないやと呟いた。次に上帝驢を招き、汝は苦労せにゃならぬ、すなわち、常に重荷を負い運び、不断笞うたれ叱られ、休息は些の間で薊や荊の粗食に安んずべく、寿命は五十歳と宣う。驢これを聞いて跪いて愁い申したに、慈悲無辺の上帝よ、某そんな辛い目をして五十年も長らえるはいかにも情けない。どうか特別の御情けで二十年だけ差し引いていただきたいと、その時強慾の人間差し出て、さほど好まぬ驢の二十年を某へ融通されたいと望みの通り二十年加えて、人の命を五十歳と修正された。
次に上帝犬を呼び、汝は汝の主たる人間の家と財産を守り、ひたすらこれを失わぬよう努力せにゃならぬ、すなわち月の影を見ても必ず吠えよ、骨折り賃として硬い骨を噛り麁末な肉を啖うべく、寿命は四十歳と聞いて犬震い上り、そんなに骨折って骨ばかり食えとは難儀極まる。格外の御慈悲に寿命を二十歳で御勘弁をと言うもおわらぬに人間また進み出で、さほどに犬の気が進まぬ二十年を私に下されいと乞うたので、また二十年を加えて人命七十歳となった。最後に上帝、猴を呼び出し、汝は姿のみ人に似て実は人にあらず、馬鹿で小児めいた物たるべく、汝の背は曲り、毎に小児に嘲弄され痴人の笑い草たるべく、寿命は六十歳と宣うを聞いて猴弱り入り、これは根っからありがたからぬ、半分減じて三十歳に御改正をと聞いて人間またしゃしゃり出で、猴の三十歳を貰い受けて人寿百歳と定まった。
かくて人間は万物の長として、最初上帝が賜わった三十年の間は何一つ苦労なしに面白く暮し遊ぶが、三十過ぎてより五十まではもと驢から譲り受けた年齢故、食少なく事煩わしく、未来の備えに蓄うる事にのみ苦労する。さて五十より七十まで、常に家にありてわずかに貯えた物を護るに戦々兢々の断間なく、些の影をも怖れ人を見れば泥棒と心得吠え立つるも、もとこの二十年は犬から譲り受けたのだから当然の辛労である。さて人が七十以上生き延ぶる時は、その背傴み、その面変り、その心曇り、小児めきて児女に笑われ、痴人に嘲らる。これもと猴から受けた三十年だからだと。
猫と犬の仲悪き訳を解いたエストニアの伝説はこうだ。以前すべての動物至って仲よく暮したが、その後犬が野で兎などを殺して食ったので、諸獣の訴えにより上帝犬を糺すと、他に食うべき物がなければやむをえぬと答えた。もっともの次第とあって倒れた動物を食う事を免された。犬の望みで免状を認め賜わったのを、犬の内もっとも大きく信用もあらばとて牧羊犬に預け置いた。秋来って牧羊犬多忙となり、持ち歩む事ならず乾いた置き場所もない故、件の免状をその親友牝猫に預けようというと早速承知の印しにその背を曲げ高めて牧羊犬の足に擦り付けた。由って免状を暖炉の上に置いて猫に預けた。その後犬どもが林中で倒れた小馬を見付け襲い殺して食ってしまったので、諸獣これを訴え犬ども有罪と決したが、犬どもかの免状に倒れた動物を食うを許すとあったばかりで、死んだ活きたの明細書がなかった由を拠として控訴した。ここにおいて牧羊犬と猫が、懸命になって免状を捜したが、鼷が囓んでしまったので見当らなんだ。猫大いに怒って鼷と見れば殺して食う事となった。犬また猫の頼み甲斐なさを恨んで、猫を仇視して今に至るもやまず。牧羊犬は免状なしに他の犬どもに見ゆるを恥じて姿を隠したので、諸犬これを尋ね廻れど更に行方知れず。爾来犬が犬に逢うと必ずこれに近附くは、紛失した免状が手に入ったかと尋ねるためだ(一八九五年版、カービーの『エストニアの勇者』二巻二八二頁)。
クラウスの『南スラヴ人のサーヘンおよびマルヒェン』に載する所は次のごとし。食卓より落ちる肉は犬の常食という定めとなって、犬と猫がその旨を驢の皮に書し、猫これを預かり屋根裏へ匿し置くと、鼷がこれを噛んでしもうた。一日食卓から落ちた肉を犬が食うて甚く打たれたので、犬の王に愁訴する、王猫をして驢皮書を出さしむるに見えず。それより犬と猫、猫と鼷が不断仇視すると。上に引いたガスターの書に出たルマニアの伝説には、最初犬も猫もアダムに事えて各その職に尽し、至って仲よく暮したが、後患を生ぜざらんため協議して誓書を認め、犬は家外、猫は家内を司る事とし、猫その誓書を預かり屋根裏に納めた。その後天魔に乗ぜられて犬鬱憤を生じ、われは一切家外の難件に当り、家を衛り盗を捍ぎ、風雨に苦しんで残食と骨ばかり享け、時としては何一つ食わず、それに猫は常に飽食して竈辺に安居するは不公平ならずやと怒る。猫は約束だとて受け付けず、犬その約束を見たいというから、委細承知と屋根裏に登ると、原来かの誓書に少し脂が付きいたので、鼷が食い込んで巣を構えいた。猫大いに驚き鼷を殺し食ったが、犬は猫が誓書を示さぬを怒り、これを咬んで振り舞わした。爾来犬猫を見れば必ず誓書の紛失を咎め、猫また鼷を追究すると。
古川重房の『筑紫紀行』十に、丹後の九世渡の犬の堂、これは戒岩寺と智恩寺と両寺して犬一つ飼いけるが、両寺一度に鐘を鳴らすを聞いて、何方にか行かんと行きつ戻りつして労れ死にせしを埋めたる跡なりとて、林道春の文を雕りたる石碑立てりとある。桑門虚舟子の『新沙石集』四に、『経律異相』から『譬喩経』を引いて、「人あり、老いたる妻に聞きて白髪を残し黒きを抜き、また若き妻に聞きて白髪を抜き白粉を面に塗り青黛を眉に描く、小婦も老婦もこれを醜しとし追い出す、農して自活せんと思いしに、雨ふれば峰に登り日照れば谷に下りていたずらに暮しぬれば、畜生の報いを受けて犬となるに習因残れり、一の大河を隔てて東西に人里ある所に生まれて、朝の烟東の里に立つ時は東に廻り到る、烟は立てども食いまだ出来ざる間、また西の里に烟立つを、いずれはさりともと思うてまた河を廻りて西に着くほどに、河の中にて力竭きて空しく流れ失せぬ、心多き物は今生後生ともに叶わぬなり」と記せるを見るに、もと心の一定せぬ物は思い惑うて心身を労らし、何一つ成らぬという喩えに作られた仏説なるを、道春不案内で、実際そんな事蹟があったと信受して碑文を書いたのだ。
犬に宗教の信念あった咄諸国に多い。『隋書』に文帝の時、四月八日魏州に舎利塔を立つ。一黒狗耽耳白胸なるあり、塔前において左股を舒べ右脚を屈し、人の行道するを見ればすなわち起ちて行道し、人の持斎するを見ればまたすなわち持斎す。非時に食を与うれども食わず、ただ浄水を得飲まんと欲するのみ。後日斎を解くに至り、粥を与えて始めて喫す。かつ寺内先に数猛狗あり、ただ一の很狗を見るも競うて大いに吠え囓まざるなし。もしこの狗寺に入るを見ればことごとく住まり低頭掉尾すとある。タヴェルニエー等の紀行に、回教徒の厳峻な輩は、馬にさえ宗制通りの断食を厲行する趣が見える。習い性となる、で、件の犬も、持斎すべく育てられたのであろう。
サウシーの『コンモン・プレイス・ブック』四輯に、コングリーヴの一犬ペンクリッジ寺の修繕一年に竟り誰も詣でざるに、日曜ごとに独り欠かさず詣でたと載す。またその二輯に、メソジスト派起りてほどもなく、ブリストル辺でその教会に詣る者しばしば一犬遠くより来会するを見た。その家人は、メソジスト派に無関心だったから犬独り来った。当時安息日に、国教寺院の勤行終ると直ぐこの派の説教始まり、その都度欠かさずこの犬が来たからメソジスト犬と称えられた。来会の途で、ちょうど寺院から帰る子供に逢うごとに、罵られ石を抛げられた。一夕試みに会処を移したが、時刻を差えず犬がその家へ来た。数週後に、その飼い主がリーズの市場から酔うて還るとて小川に溺死すると、怪しむべしそれから一向犬が説教を聴きに来なんだ。その理由として諸説紛起したが、ジョン・ネルソンは、この犬かく定時に教会へ来て飼い主を不思議がらせ、それより彼をして正教に化せしめんと謀ったのだ。その心配が飼い主の変死で無になったので、さっぱり来会しなくなったのだと言ったと載す。畜生時として、人より賢いと見える。
一七三二年版チャーチルの『海陸紀行全集』一に収めたバウムガルデンの紀行に、ロデスの城にヨハネ派の大教主住み、近島多くこれに服す。トルコ境に接して聖ペテロ砦を築き、多くの犬を飼う。その犬至って智あり、夜分これを放てば敵国に入り、回徒に遭わば必ず襲うてこれを片砕すれど、キリスト教徒を嗅ぎ知りて害せず、守護し導いて砦まで送り届く。一たび鈴鳴を聞かば群犬たちまち聚まり、食事しおわりて各その受持の場に趣く事斥候間諜に異ならず。トルコ人に囚われたキリスト教徒機会を得て忍び脱れ、犬に助けられて還る者多く、予かの地にあった時も、一人かくして露国より逃げ来ったを見たと。
ベーコン卿の『シルヴァ・シルワルム』に、犬が犬殺しを識るは普通に知れ渡った事で、狂犬荒るる時微かに卑人を派して犬を殺さしむるに、かつて犬殺しを見た事もなき犬ども集り来て吠え奔ると。『程氏遺書』に曰く、犬屠人を吠ゆ、世に伝う、物ありこれに随うとは非なり、これ正に海上の鴎のごときのみと。これは宋人が屠者には殺された犬の幽霊が降き歩く、それを見て犬が吠えるといったに対して程子は、『列子』に見えた海上の人鴎に親しみ遊んだが、一旦これを捕えんと思い立つと鴎が更に近付かなんだ例に同じく、屠者に殺意あれば犬直ちにこれを感じ知ると考えたのだ。予もかつて、ある妖狐を畜って富を致す評ある人が町を通ると、生まれて数月なる犬児が吠え付き、その袖や裾に噛み付いて息まず、それを見いた飼主が気の毒がってその犬児を棄てた始終を黙って見届けた事がある。狐に富を貰うなどの事は措いて論ぜず、とにかく犬などには人に判りにくい事を速やかに識る能力があるらしい。ちょうど大人の眼に付かぬ微物を小児が疾く見分くるようなもので、大いに研究を要する事だ。それから『大清一統志』三五五、〈意太利亜の哥而西加に三十三城あり、犬の能く戦うを産す、一犬一騎に当るべし、その国陣を布くに、毎騎一犬を間う、反って騎の犬に如かざるものあり〉。その頃の西洋地理書から訳出したものらしいが、欧州の博識連へ聞き合したるも今に所拠が知れぬ。御存知の方は教示を吝むなかれ。
陶淵明の『捜神後記』上にいわく、会稽句章の民、張然、滞役して都にあり、年を経て帰り得ず、家に少婦ありついに奴と私通す、然都にありて一狗を養うに甚だ快し、烏竜と名づく、のち仮に帰る、奴、婦と然を謀殺せんと欲す、飯食を作り共に下に坐し食う。いまだ噉うを得ず、奴戸に当り倚って弓を張り箭を挟み刀を抜く、然、盤中の肉飯を以て狗に与うるに狗噉わず、ただ睛を注ぎ唇を舐り奴を視る、然、またこれを覚る、奴食を催す転た急なり、然、計を決し髀を拍ち大いに喚んで烏竜と白う、狗声に応じ奴を傷つく、奴刀を失し伏して地に倒る、狗ついに奴の頭を咋う、然、因って刀を取って奴を斬り、婦を以て官に付しこれを殺すと。これから出たらしい噺が本邦にもある。『峰相記』にいわく、粟賀の犬寺は当所本主秀府という高名の猟師なり、かの僕秀府の妻女を犯しあまつさえ秀府を殺して夫婦とならんと密契あり、郎従秀府を狩場へ誘い出して山中にて弓を引き矢を放たんとす、秀府が秘蔵の犬大黒小黒二疋、かの郎従に飛び掛かり左右の手を喰わえて引っ張る、秀府刀を抜き飛び掛かりて仔細を尋ぬるところにありのままに承伏す、郎従を殺害し妻妾を厭却して道心を発し出家入道す、臨終に及ぶ時男女子なき間、所帯を二疋の犬に譲り与えおわる、犬二疋死後領家の計らいとしてかの田畠を以て一院を建立し、秀府並びに二疋の犬の菩提を訪う。堂塔僧房繁昌し仏法を行ず、炎上の時、尊像十一面観音、秀府二疋の犬の影像、北山へ飛び移る。その所を崇めて法楽寺と号すと云々。犬に遺産を与えた例は西土にもある。
晋の大興二年呉人華降猟を好み、一快犬を養うて的尾と号し常に自ら随う。隆、後江辺に至り荻を伐る。犬暫く渚に出次す、隆大蛇に身を巻かる、犬還って蛇を咋い殺す。隆僵れて知るところなし、犬徬徨涕泣走って船に還りまた草中に反る。同伴怪しみ随い往き隆の悶絶せるを見、将いて家に帰る。二日の間犬ために食わず、隆、蘇りてすなわち始めて飯を進む、隆愛惜親戚に同じ(『淵鑑類函』四三六)。『今昔物語』二九に、陸奥の賤民数の狗を具して山に入り大木の洞中に夜を過す、夜更けて狗ども皆伏せたが、年来飼った勝れて賢い狗一つ急に起きて主に向って吠えやまず、後には踊り掛かって吠ゆ。太刀抜きて威せどいよいよ吠え掛かる、こんな狭い処で咋い付かれてはと思うて外へ飛び出る時、その狗主人がいた洞の上方に踊り上り物に咋い付く、さては我を咋むとて吠えたでないと知って見ると洞の上から重き物落ちる。長二丈余太さ六、七寸ばかりの蛇が頭を狗に咋われて落ちたのだった。さては我命を救うたこの犬は無上の財宝と知って狗を伴れて家に帰った。その時狗を殺したら狗も自分も犬死にすべきところじゃったとある。
この話が移り変って『和漢三才図会』六九には、犬頭社は参河国上和田森崎にあり、社領四十三石、犬尾社は下和田にあり、天正三年中領主宇津左門五郎忠茂猟して山に入る、家に白犬ありて従い走り行く、一樹下に到り忠茂俄に眠を催す、犬傍にありて衣の裾を咬えて引く、やや寤めてまた寐ぬれば犬しきりに枕頭に吠ゆ。忠茂熟睡を妨ぐるを怒り腰刀を抜きて犬の頭を切るに、樹梢に飛んで大蛇の頭に咋い付く、主これを見て驚き蛇を切り裂いて家に還り、犬の忠情を感じ頭尾を両和田村に埋め、祠を立てこれを祭る。家康公聞きて甚だ感嘆す。かつ往々霊験あるを以て采地を賜う。けだし宇津氏は大久保一族の先祖なりと出し居る。『今昔物語』二六に、参河国の郡司妻二人に養蚕をさせるに、本妻の蚕皆死んで儲けもなくなったので夫も寄り付かず、従者も逐電して淋しく暮す内、養いもせぬ蚕一つ桑の葉に付いて咋うを見付けて養う内、家に飼った白犬がその蚕を食うた。蚕一つすら養い得ぬ宿世を哀しみ犬に向いて泣きいると、この犬鼻ひると二つの鼻孔より白糸二筋出る。それを引いて見ると陸続として絶えず、四、五千両巻きおわると犬は死んだ。これは、仏神が犬に化し、われを助くる事と思うて、屋後の桑木の下に埋めた。夫の郡司たまたまその門前を通り、家内の寂寞たる様子を憐み、入りて見れば妻一人多くの美しい糸を巻きいる。夫問うて委細を知り、かく神仏の助けるある人を疎外せしを悔い、本妻の方に留まって他の妻を顧みず、かの犬を埋めた桑の木にも繭を作り付けあるを取りて無類の糸を仕上げた。やがて国司を経て朝廷に奏し、かの郡司の子孫今にその業を伝えて犬頭という絶好の糸を蔵人所に納めて、天皇の御服に織ると見ゆ。すこぶる怪しい話だがとにかく三河に昔犬頭という好糸を産し、こんな伝説もあったので、犬頭社は本その伝説の白犬を祀ったのを後に大蛇一件を附会して犬尾社まで設けたのでなかろうか。
犬が大蛇を殺して、主人を助けた話は、西洋にもある。ベーリング・グールドの『中世志怪』六章や、クラウストンの『俗談および稗史の移動変遷』二巻一六六頁以下に詳論あり。今大要を受け売りと出掛ける。十三世紀の初めウェールスのルエリン公、その愛犬ゲラートをして自身不在ごとにその幼児を守らしめたが、一日外出して帰って見ると揺籃に児見えず。そこら血だらけで犬の口に血が附きいた。さてはわが子はこの犬に啖われたと無明の業火直上三千丈、刀を抜いてやにわに犬を切り捨てた。ところが揺籃の後ろに児の啼き声がする。視ればわが子は念なくて、全く留守宅へ狼が推参して児を平らげんとする処をこの犬が咋い殺したと判った。公、大いに悔いて犬のために大きな碑を立て、これを埋めた地を犬の名に基づいてゲラートと号づけたそうだ。中世欧州で大いに行われた教訓書『ゲスタ・ロマノルム』にはいわく、フォリクルスてふ武士妻と婢僕を惣伴れで試合に出掛け、ただ一人の児を揺籃に容れ愛する犬と鷹を留め置く。城辺に棲む蛇来て児を嚥まんとすると、鷹、翅を鼓して犬を起し、犬、健闘して蛇を殺し地に伏して疵を舐る。所へ還った乳母は蒼皇犬が主人の児を啖ったと誤解し、逐電の途上主人に遭ってその通り告げる。主人大いに瞋って来り迎うる犬を斬り殺し覆った揺籃を視ると、児は無事で側に蛇殺されている。フォリクルス早まったと気付いても跡の祭り、槍を折り武道を捨て聖土を巡拝してまたまた還らなんだと。一三七四年筆する所、ペルシャの『シンジバッド』十七に述ぶる所もほぼ同前だが、これ犬の代りに猫としある。
熊楠いわく、馬文耕の『近世江都著聞集』四に、京町三浦の傾城薄雲厠へ往くごとに猫随い入る。その美容に見入りしならんとて打ち殺すべき談合しきりなる処に、一日かの妓用達しに之くと猫例のごとく入らんとす。亭主脇差抜きてその首を打ち落すに、たちまち飛んで厠の下へ潜り行方知れず。尋ね見るに厠の下の隅に大蛇ありしに猫の首喰い付き殺しいた。全くこの蛇常に薄雲の用達す所見込みしを気遣うて猫がかの妓に附き添ったと知れ、薄雲流涕してその骸を西方寺に納めて猫塚を築いたとある。これらの話種々異態あれどもと仏説に出たのだ。
『摩訶僧祇律』三にいわく、過去世に婆羅門あり銭財なき故、乞食して渡世す。その妻、子を産まず、家に那倶羅虫ありて一子を生む。婆羅門これを自分の子のごとく愛し那倶羅の子もまた父のごとく彼を慕う。少時して妻一子を生む。夫いわく那倶羅虫が子を生んだはわが子生まるる前兆だったと。一日夫乞食に出るとて妻に向い、汝外出するなら必ず子を伴れて出よ、長居せずと速やかに帰れと命じた。さて妻が子に食を与え隣家へ舂つきに往くとて、子を伴れ行くを忘れた。子の口が酥酪で香うを嗅ぎ付けて、毒蛇来り殺しに掛かる。那倶羅の子我父母不在なるに蛇我弟を殺さんとするは忍ぶべからずと惟い、毒蛇を断って七つに分ち、その血を口に塗り門に立ちて父母に示し喜ばさんと待ちいた。婆羅門帰ってその妻家外にあるを見、予て訓え置いたに何故子を伴れて出ぬぞと恚る。門に入らんとして那倶羅子の唇に血着いたのを見、さてはこの物我らの不在に我児を噉い殺したと合点し、やにわに杖で打ち殺し、門を入ればその児庭に坐し指を味おうて戯れおり、側に毒蛇七つに裂かれいる。この那倶羅子我児を救いしを我善く観ずに殺したと悔恨無涯で地に倒れた。時に空中に天あり偈を説いていわく、〈宜しく審諦に観察すべし、卒なる威怒を行うなかれ、善友恩愛離れ、枉害信に傷苦〉と。那倶羅(ナクラ)は先年ハブ蛇退治のため琉球へ輸入された英語でモングースてふイタチ様の獣で、蛇を見れば神速に働いて逃さずこれを殺す。その行動獣類よりも至ってトカゲに類す(ウッドの『博物図譜』一)。従って音訳に虫の字を副えて那倶羅虫としたのだ。『善信経』には黒頭虫と訳し居る。
さきに昔播磨国で主人を救うた犬のために寺を建てた話を出したが、その後外国にも同例あるを見出したから述べよう。十四世紀にロクス尊者幼くして信念厚く苦行絶倫で神異なり。十二歳の時父を喪い遺産を挙げて貧人に施し、黒死病大流行に及び、イタリアに入ってローマ等の病院で祈祷また単に手を触るるのみで数千万人を救うたが、因業は聖者も免れ得ぬものでついに自ら黒死病に罹り、ピアチェンズアの町から逐い出され林中に死に瀕す。その時貴人ゴタルズスの犬日々主家の麪包を啣え来ってこれを養い、またその患所を舐り慰めた。主人怪しんで犬の跡を付け行きこの事を見て感心し、種々力を尽してついに尊者を元の身に直した。それから尊者生まれ故郷仏国のモンペリエへ帰り国事探偵と疑われ、一三二七年八月十日牢死した。生前黒死病人この尊者の名を呼べば必ず愈ると上帝の免許あったというので、仏・伊・独・白・西・諸国にこれを奉ずる事盛んにその派の坊主多くあり、殊にヴェニスはその葬処とて大寺堂を建てて祀った。その像は巡礼の衣を著し腿に黒死病の瘢を帯び、麪包を啣えた犬を従えたものだ。またその犬の生処という事で、葡領アズルズ島に犬寺が建てられた(『大英百科全書』二三巻四二五頁。『ノーツ・エンド・キーリス』九輯十二巻一八九頁)。
『淵鑑類函』四三六には、宋の太宗の愛犬、帝朝に坐するごとに必ずまず尾を掉って吠えて人を静めた。帝病むに及びこの犬食せず、崩ずるに及び号呼涕泗して疲瘠す。真宗嗣ぎ立て即位式に先導せしむると鳴吠徘徊して意忍びざるがごとし、先帝の葬式に従えと諭せば悦んで尾を揺るがし故のごとく飲食す。詔して大鉄籠に絹の蒲団を施して載せ行列に参ぜしめ見る者皆落涙す。後先帝を慕うの余り死んだので、詔して敝蓋を以てその陵側に葬ったとあり。また、孫中舎という者青州城に囲まれ内外隔絶、挙族愁歎した時、その犬の背に布嚢と書簡を付け水門を潜らせ出すと、犬その別墅に至り吠ゆる声を聞きて留守番が書簡を取り読み米を負うて還らしむ。数月かくし続けて主人一族を餓えざらしめた。数年後斃れて別墅の南に葬られ、中舎の孫が石を刻してその墓を表わし霊犬誌といったとある。
インドのマラバル海岸のクイーロン港口の築地に石碑あり。ゴルドン大佐てふ英人この辺の湖で泳ぎいると犬吠えてやまず。気を付けて視ると、湖の底に大きな物が徐かに自分の方へ近づき来り、その水上に小波立つ。さては鱷の襲来と悟ると同時に犬水中に飛び入り食われて死んだ。いくら吠えても主人が悟らぬ故自ら身代りに立ったと知り、哀悼の余りこの碑を立てた。この大佐は一八三四年ボンベイで死んだとあるから余り古い事でない。またデルフトに、蘭王ウィルヘルム一世の碑ありてその愛犬像を碑下に置く。これは一五七二年スペインより刺客来て天幕中に臥した王を殺しに掛かった時、その蒲団を咬み裂き吠えて変を告げ、難に及ばしめなんだ大功あるものと伝えられる(『ノーツ・エンド・キーリス』十一輯四巻四九頁、同三巻四一頁)。
欧州で、死人の墓碑に犬の像を具する例甚だ多いが、必ずしも皆その人に忠誠を尽したものとは限らぬ。他の諸禽獣の例も多くそれぞれ道義上の意味を表わしたもので、例せば獅は勇猛、犬は忠誠の印しだ。またその人の家紋そのまま禽獣を墓碑に添えたのも多い(同誌十一輯三巻三一〇頁参照)。かかる表示から生じた忠犬の話も少なくあるまい。わが邦にも南部家の鶴など実際その家に奇瑞あった禽獣を紋としたものも少なからぬが、また『見聞諸家紋』に見えた諏訪氏の獅子のごとく、かつてわが邦に実在せぬものを用いたのもある。紋章の多くはトテムの信念に起る。犬をトテムとしたもの、欧州に少なからず。アイルランドの名門メクチュレーンはクレーンの犬の意味で、この一族は犬肉を喫えば死んだという(一九〇八年版ゴムの『歴史科学としての俚俗学』二八六頁)。ただし犬をトテムと奉じたは犬の忠誠に感じての例多かったはずなれば、忠犬の話は深い基礎あった事言うを俟たず。中世武士が軍陣に犬とともに臥して寇敵を予防する風盛んに、その後婦女が犬を寵愛する事普通になりしより、犬が殊に墓碑に刻まるるに至ったので、スペインブールホスの大寺にあるメンシア・デ・メンドザ女の葬所なる臥像はその裙に狆を巻き付かせある。これは何たる奇功も建てずただこの貴婦が特に狆好きだった印しばかりだ。漢の淮南王劉安、神仙八人とともに薬を服して天に上った時、その余りを舐めた雞犬もことごとく昇天し、雞は天上に鳴き、犬は雲中に吠えた(『神仙伝』四)。その他犬が仙人に従って上天した例多く、韋善俊は唐の武后の時京兆の人なり。長斎して道法を奉ず、かつて黒犬を携え烏竜と名づく、世謂いて薬王と為すという。韓忠献臆すらく、年六、七歳の時病甚だし、たちまち口を張りて服薬する状のごとくして曰く、道士あり、犬を牽き薬を以て我に飼う、俄に汗して愈ゆと、因って像を書いてこれを祀ると(『琅琊代酔編』五)。これも主人に伴れて黒犬も祀られたらしい。
英国のジョー・ミラーは、一六八四年生まれ一七三八年歿した役者で滑稽に富んだ。一七三九年ジョン・モットレイその奇言警句に古今の笑話を加え、『ジョー・ミラー滑稽集』一名『頓智家必携』を著わした。それより古臭い滑稽談を単に、ジョー・ミラーと通称する事、わが国の曾呂利咄しのごとし。ロンドンのウェストミンスター・アッベイは、熊楠知人で詩名兼ねて濫行の聞え高かったジーン・ハーフッドその坊に棲み、毎度飲ませてもらいに往った。英国に光彩を添えた文武の偉人をこの寺に葬り、その像を立てた。その間を夕方歩むと、真に欽仰畏敬の念を生じた。件の『必携』十頁に、ある卑人その家名に誇ってわが父の像彼処に立てられたというので念入れて尋ぬると、タイン侯乗車の像が立てられ、わが父は馬車の御者だったから従ってその像もあるのだと答えたので、聞いた者が呆れたと見ゆ。あまたの犬どもが主人の碑にその像を刻まるるもまずはこの格で、ことごとく格別の忠勤を尽したでもなく、若い時、桐野利秋に囲われた妾とか、乃木将軍にツリ銭を貰うた草鞋売りとか、喋々すると同様、卑劣めいた咄だ。
かの薬王が烏竜てふ黒犬を従え歩いたに付けて言うは、欧州では、古く魔は黒犬や老猫形を現ずると信じ、ウィエルスは魔が人を犯す時、黒犬の腸と血をその室の壁に塗ればたちまち去ってまた来らずと言った。これは、血蝮に咬まれた者蝮の肉を創に付くれば速やかに治すというごとく、毒を以て毒を退治るのだ。このウィエルスが師事したドイツのアグリッパは、十六世紀に名高い医者兼哲学者で著述も多かったが、所説が時世に違い容れられず、一汎に魔法家と擯斥されて陋巷に窮死した。常に一黒犬を従えたがこれが魔の化けたので、この人死に臨み呪法で禁じ置いた黒犬の頸環を解き、去れ、汝、わが一生を過たしめたと言うと、犬脱走して河に入りて再び現われなんだとも、魔が、汝、死んでも必ず蘇らせてやると誓うたので自殺すると、魔、嘲って取り合わなんだので死に切れたともいう。ヴェニス人プラガジニは有名な方士で、魔の力を借りて黄金を作り出すと誇り、一五九五年バイエルンで刑せらる。同時にその常に伴うた二黒犬は魔が化けたのだとて、犬を人同様裁判の上衆民の見る所で弩を以て射殺した(コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』)。
東洋には『淵鑑類函』四三六に、康定中侍禁李貴西辺の塞主たり、その妻賊のために擄り去らる。家中の一白犬すこぶるよく馴る。妻これに向って我聞く、犬の白きは前世人たりしと、汝能く我を送り帰さんかと、犬俯仰して命を聴くごとし、すなわち糧を包みこれに随う。警あればすなわち引きて草間に伏し、渇すればすなわち身を濡らして返り飲ましむ。およそ六、七日で賊境を出で、その夫恙なきに会う。朝廷崇信県君に封ずとあるは犬が封号を得たらしい。また唐の貞元中大理評事韓生の駿馬が、毎日櫪中で汗かき喘ぐ事遠方へ行きて疲れ極まるごとき故、圉卒が怪しんで廐舎に臥し窺うと、韓生が飼った黒犬が来って吼え躍り、俄に衣冠甚だ黒い大男に化け、その馬に乗って高い垣を躍り越えて去った。次いで還り来って廐に入り、鞍を解いてまた吼え躍るとたちまち犬になった。圉人驚異したが敢えて洩らさず、その後また事あったので、雨後のこと故圉人が馬の足跡をつけ行くと、南方十余里の一古墓の前まで足跡あり。因って茅の小屋を結び帰り、夕方にその内に入りて伺うと黒衣の人果して来り、馬を樹に繋ぎ墓内に入り、数輩と面白く笑談した。暫くして黒衣の人を褐衣の人が送り出で、汝の主家の名簿はと問うと、絹を擣く石の下に置いたから安心せよという。褐衣の人軽々しく洩らすなかれ、洩れたらわれら全からじといい、また韓氏の穉童は名ありやと問うと、いまだ名付かぬ、付いたら名簿へ編入しようという、褐衣の人、汝、明晩また来り笑語すべしといって去った。圉人帰って韓生に告ぐると、韓生肉を以てその犬を誘い寄せ縄で括り、絹を擣つ石の下を捜るに果してその家妻子以下の名簿一軸あり、生まれて一月にしかならぬ子の名はなし、韓生驚いて犬を鞭ち殺し、その肉を煮て家僮に食わせ、近所の者千余人に弓矢を帯びしめ古墓を発くと、毛色皆異なる犬数疋出たので殺し尽して帰ったとある。ハンガリー人も黒犬に斑犬を魔形とし、白犬は吉祥で発狂せぬと信ずる(グベルナチスの『動物譚原』二の三三頁注)。
『日本紀』七に、日本武尊信濃の山中で山神の化けた白鹿に苦しめられたが、蒜を以てこれを殺し、道を失うて困しむ時白犬に導かれて美濃に出づ、とあれば、同じ白でも鹿は悪く犬は善いと見える。しかるに巻十四に、播磨の賊文石小麿馬の大きさの白犬に化けて官軍に抗したのを春日の小野臣大樹が斬りおわると、もとの小麿となったとあれば、白犬も吉兆と限らなんだのだ。後世に至っては、白犬は多く仏縁ありまた吉祥のものとされて居る。例せば道長公が道満法師に詛われた時、白犬が吠えたり引いたりして公が厭物を埋めた地を踏むを止めた(『東斎随筆』鳥獣類)。関山派の長老の夢に久しく飼った白犬告げて、われ門前の者の子に生まれるから弟子にされよと、やがてそのごとく生まれ、貧女故捨てんとするを乞うて弟子としたが、長じて正直者ながら経を誦む事鈍かった(『因果物語』中)。和泉堺のある寺の白犬勤行の時堂の縁に来て平伏したが餅を咽に詰めて死し、夢に念仏の功力で門番人の子に生まると告げ果して生まる。和尚夢を告げて出家さするに一を聞いて十を知ったが生来餅を嫌う、因って白犬と呼ばるるを忌み、十三の時強いて餅に向うたがたちまち座を外して見えずと(『諸国里人談』五)。『中阿含経』に白狗が前世にわが児たりし者の家に生まれ、先身の時蔵し置いた財宝を掘り出す話あり。その他類似の談が仏典に多いから、伝えて日本にもそんな物語が輩出したのだ。ただし『今昔物語』十一や『弘法大師行化記』に、大師初めて南山に向った時、二黒犬を随えた猟人から唐で擲げた三鈷の行き先を教えられたとあり、この黒犬が大師を嚮導したらしいから、本邦では黒犬を凶物とせなんだらしい。
白犬と明記されぬが、犬が人に生まれた譚は仏経に多い。『賢愚因縁経』五に、仏が給孤独園にあった時、園中五百の乞児あり、仏に出家を乞うて許され、すなわち無漏の羅漢となる、祇陀太子、仏と衆僧を請じてこれら乞食上りの比丘を請せず、仏乞食上りの輩に向い太子汝らを請せず、汝ら鬱単越洲に往き自然成熟の粳米を取って食えと。鬱単越(梵語ウッタラクルの音訳)は天下勝の義でまた勝処また勝生と訳し、アイテルの『梵漢語彙』には高上と訳しある。須弥四洲のうち最も勝れて結構な処の意で、もと婆羅門教で諸神諸聖の住処をかく名づけたのが仏教に移ったらしい。
『仏説楼炭経』一に拠れば、須弥山の山の北方の天下鬱単越洲の人、通歯髪紺青色で身の丈八丈、面色同等長短また等し。通歯とはいわゆる一枚歯だろう。仏の三十二相の第二は螺髪右旋、その色紺青(『方広大荘厳経』三)、帝釈第一の后舎支、目清くして寛に、開いて媚あり、髪青く長く黒く一々旋る(『毘耶婆問経』下)。インドでは中国で漆黒というに異なり、碧黒を最美としたのだ。
『万葉集』に美髪を讃えてミナのワタとあるを面妖に思い、予試みにミナという溝中の小螺を割って見るとその腸が美しい碧黒色だったので、昔の日本人もインド人と同好だったと知った。それからこの北洲の人はことごとく十善を行い悪行を教え作さず。皆寿千歳で欠減する者なし。死後は忉利天に生まれ天上で終ってこの閻浮提洲の富貴人に生まれる。北洲の人大小便すれば自ずから地下に没し、その地清潔で糞臭の処なし。人死すれば好衣もて飾り、少しも哭かずに四辻に置くと鬱遮鳥が片付けて洲外に持ち去る。浄き粳米ありて耕作入らず自然に生え一切の味を出す。それを釜に盛りて焔味球という珠を下に置けば、その光で飯が熟するを四方の人来り食うに尽きず。食いやんで面色潤沢で威神あり。盗賊悪人も我妻子という事もなし。男女もし婬慾を起すも相見て語らず。女が男に随って行き園中で二、三日から七日続けて相娯しみ、事済まば随意に別れ去って相属せず。孕む事七、八日で子を生み、四辻に置けば往来する人々指先から乳を出して飲ませる。七日立つとその子自分の福力もてこの閻浮提洲の二十また二十五歳ばかりに成長する。その世界に塵起らず。樹ありて交わり曲り上で合う、その上に男女各処を異にして住むなどいう事で、「鶏の項」に書いた仏徒が熱望する弥勒世界も、『観弥勒菩薩下生経』に、時気和適、四時順節、人身百八の患なく、貪慾瞋恚愚痴大ならず、人心均平にして皆同一意、相見て歓悦し善言相向い、言辞一類にして差別なき事、かの鬱単越のごとしとあって、活きた人間の住むに鬱単越洲ほどよい天下なしと信じたのだ。八文字屋本などに吉原遊廓を北洲と号づけいるはこの訳で、最も楽しい所の意味だろう。
しかるに、『起世因本経』八には北洲が吾人の住む南洲に勝る事三つ、一には彼人我我所なし、二には寿命最も長し、三には勝上行あり、南洲が北洲に勝る事五つ、一には勇健、二には正念、三には仏出世の地たり、四にはこれ修業の地なり、五には梵行を行する地たりとあって、差し引き吾人の住む天下が、北洲に勝る事多しとした。これは出世間の宗旨から立てた見解だが、世間法に言い替えても余りに平等ばかりの社会には、奮発とか、立志とか、同情とか、高行とかいう事がなくなり、虫介同様一汎に平凡の者ばかりとなるから、人々ことごとく『楼炭経』にいわゆる自分天禀の福力ない以上は、天変地異その他疾病を始め一切自然に打ち勝ちて、社会をも人間をも持続する見込みが立つまい。さればこそ経文にも自然の米とか、光りで飯を煮る珠とか、七日続けて交歓するの、四辻に赤子を置かば往来の人が指から乳を含ませくれるの、糞小便は大地、死人は鳥が始末してくれるのと、現世界にまるでない設備を条件として、さて北洲ごとき結構極まる社会が立ち行くと説かれた。科学の進歩無窮なれば全く望まれない事でなかろうが、近頃ようやく出で来た無線電話、飛行船、ラジウム、防腐、消毒、光線分析、エッキス光線くらいを、現代の七不思議として誇る(『ネーチュール』九十巻九一頁)ほどでは前途遼遠で、それで以て平等世界を湧出せんとする者は、護摩を以て治国を受け合い、庚申像を縛って駈落者の足留めしたと心得ると五十歩百歩だ。
さて前年刑死されたある人が、真正の平等社会が出来たら、利慾がなくなるから精神を有効に使う者がなくなるでないかとの問いに対し、財物を獲べき利慾はなくなるが知識を進めて公益を謀る念はますます切になる故、一切平等で生活のため後顧せず、安心して発明発見を事とし得ると言ったと聞くが、いくら社会が平等になっても人々の好みと精力が平等にもならず、手品や落し咄なら知らぬ事、耕さずに熟する米や、光で飯を煮る珠、また食っても尽きぬ飯を、生活一切頓著なければとて、碁将棊同様慰み半分に発明し発見し得るだろうか。とにかく仏徒は鬱単越洲を羨み、殊に耕さずに生ずる自然粳米ありと聞いて、それが手に入ったらこんな辛労はせずに済むと百姓どもが吐息ついたので、今も凶年に竹の実をジネンコと称えて採り食らうは自然粳の義で、余り旨い物でないそうだからこの世界ではとかく辛労せねば碌な物が口に入らぬと知れる。竹実の事は白井博士の『植物妖異考』上に詳し。
さて仏の命に従い、五百の乞食上りの比丘が、北洲に往って、自然成熟の粳米を採り還って満腹賞翫したので、祇陀太子大いに驚き、因縁を問うと、仏答えて、過去久遠無量無数不可思議阿僧祇劫と念の入った長い大昔、波羅奈国に仙山ありて辟支仏二千余人住む。時に火星現じた。この星現ずる時旱りが十二年続いて作物出来ず、国必ず破るという。散檀寧と名づくる長者方へ辟支仏千人供養を求むるに、供養した。次に残りの千人が来るとまた、供養した。それから毎度供養するに五百人をして設備し接待せしめた。年歳を積んでいやになりて来りわれら五百人この乞食どものために苦労すると怨んだ。長者恒に供養の時至るごとに一人をして辟支仏に往き請ぜしめた。この使い一狗子を畜い日々伴れて行った。一日使いが忘れて往かず、狗子独り往きて高声に吠え知らせたので諸大士来って食を受け、さて長者に向い最早雨降るべし、早速種植えせよと教えた。長者すなわち作人どもに命じ一切穀類を植えしむると数時間の後ことごとく瓢となった。長者怪しみ問うと諸大士心配するな出精して水をやれといった。水をやり続くると瓢が皆大きくなり盛える。剖いて見ると好き麦粒が満ちいる。長者大悦して倉に納れると溢れ出す。因って親族始め誰彼に分って合国一切恩沢を蒙った。五百人の者どもこれは諸大士のおかげと知って前日の悪言を謝し、来世に聖賢に遇って解脱を得んと願うた。その因縁で五百世中常に乞食となるがその改過と誓願に由って今我に遭うて羅漢となった。その時の長者は今の我で、日々使いに立った者は今の須達長者、狗子は吠えて諸大士を請じたから世々音声美わしく今は美音長者と生まれおり、悪言したのを改過した五百人は今この乞食上りの五百羅漢だと説いたとある。いやいやながらも接待係りを勤めたので、今生に北洲の自然粳を採り来て美食に飽き得たというのだ。
『今昔物語』十三巻四十語に、陸奥の僧光勝は『最勝王経』、法蓮は『法花経』を持し優劣を争う余り、各一町の田を作り作物の多寡で勝劣を決せんと定め、郷人より一町ずつの田を借る。光勝自前の田に水入れその経に向い祷るに苗茂る事夥し。法蓮は田を作らず水も入れねば草のみ生じて荒れ果てるから、国人『最勝』をほめ『法花』を軽しむ。七月上旬になりて法蓮の田に瓢一本生じ枝八方に指してあまねく一町に満つ、二、三日経ちて花咲き実成る。皆壺ほど大きくて隙なく並び臥す、一同飛んだ物が出来たとますます『最勝』を讃む。法蓮は変な事と一瓢を破り見れば中に粒大きく雪ほど白い精米五斗あり、他を剖いて見るに毎瓢同様なり。因って諸人に示し『法花経』に供え諸僧に食せしめ更にその一瓢を光勝に送る。光勝やむをえず『法花経』を軽しめた罪を懺悔す。法蓮その米を国中に施し諸人心の任に荷い去る。されど十二月まで瓢枯れず取るに随って多くなったから、皆人『法花経』の勝れるを知って法蓮に帰依したと記す。芳賀博士の『攷証今昔物語』に、この譚を『日本法華験記』と『元亨釈書』に漢文で載ったのを本語の後に付けあるが、出処も類話も出していない。全く上に引いた『賢愚因縁経』の瓢箪から駒でなくて麦を出した話から転出されたので、瓢から出た穀物を国中に施したなども両譚相似いる。さて『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』の名に因って光勝、法蓮てふ二僧を拵えたのだ。
『諸経要集』四七に『譬喩経』を引いていわく、長者の門に一狗ありて常に人を噛み誰も入り得ず、聡明な一比丘が往くとちょうど狗が外に出で臥して知らず、比丘入るを得て食を乞うと長者が食を設けた。狗われ寝た間に比丘を入れたは残念だ。彼れ長者が供えた物を一人食ったら出て来る所を噛み殺して腹中の美膳を食おう、我に食を分ったら赦そうと思うた。比丘犬の心を知って食を分ち与うると、狗喜んで慈心を生じ、比丘に向ってその足を舐った。後また門外に臥すとかつて噛まれた人がその頭を斫って殺した。それからその長者の子に生まれたが短命で死に、また他の長者の子に生まれて出家したと。仏教は因果輪廻を説き慈愛を貴ぶ故、狗が一時の慈心を起しても得脱の因となるというのだ。
これに異なって、回教は何事も上帝の思し召しのままと諦めるべく教える。したがって狗の食事についてもこんな話が『千一夜譚』にある。ある人借金に困って逐電し餓えて一城に入り、大勢町を行くに紛れ込んで王宮らしい家に到り進むと、大広間の上に小姓や宦官に取り囲まれた貴人あり、起って諸客に会釈した。かの貧人たちまち身のほどを顧み、恥じかつ恐れ入って人の見えぬような所に坐しいると、たちまち見る一人素絹と錦襴を被せ金の頸環、銀の鎖を付けた四疋の犬を牽き来り別室に維ぎ、去って金の皿四つに好肉を盛ったのを持ち来り、毎犬一皿を供えて出で行った。ここでバートンの註に、湿熱烈しい諸邦では、朝夕犬に衣を被せぬと久しからずして痛風か腰痛で死ぬとある。貧人犬の美食を羨みいささか配分をと望んだが、吠えらるるを懼れて躊躇する内、上帝彼を愍み一犬に教えたからその犬皿より退き彼を招いた。御辞儀なしに頂戴して満腹しやめかかると前脚で皿を彼に押し進めた。その金の皿を取ってその邸を出たを誰も知らず。他の城に往って売り飛ばし商品を買って故郷へ還り、それより借金を払い営業して全盛した。数年の後、その人われかの金皿の持ち主を訪いその値を償うべしとて、その代金および相応な礼物を持って彼処に趣き、かの邸を尋ぬればこれはしたり、旧時王謝堂前の燕、飛んで尋常百姓の家に入るで、金の皿で犬に食わせた豪家は跡方もなく、ただ烏が、崩れて列を成した古壁に鳴くばかりだった。こんな所に長居は無用と立ち帰ると、たちまち路傍に窶れ果てた貧相な男を見付け、時移り運変ってこの邸の主公はどうなった、かの人の威容今何処にありや、何でかくまで宏壮だった家が壁ばかり残すに及んだかと問うと、われこそここの主人だった者なれ、かつては金屋に住んで麗姫に囲まれた身も運傾けばこんな身になった。我を見るに付けても使徒が上帝この世界のある物を倒さずに他を起さずと説ける道理を明らめ省みよと言った。そこで昔かの邸で金皿を窃みそれより身代を持ち返した仔細を告げ、代金と礼物を納められよと勧めたが取り合わず。汝は実に狂人だ。犬がどうして人に金の皿を餽るものか、犬が人に遣った物の代金を我が受けらりょうか、いかに貧すれば鈍するとて上帝に誓うて爪の端も汝よりは受けられぬ。速やかに健康安全で汝が来た方へ還れと言い張った。商人やむをえず感心の余りその足に接吻し、かの人の諦めよさを讃め、「今ぞしる恨みなしとは人も犬も世を過ししぞ神のまにまに」と詠じて別れ帰った。
南方先生件の名歌を訳するに苦しみ、かれこれ思い廻らす内、また見付かったから犬寺の話に再追加するは、インドのマーラッタ王サホは五十年という長い間在位して、一七四八年に殂した。この王奇行多く、殊に犬を好む事、我が綱吉将軍に似た。サタラに近い路傍に坐った犬を刻んだ石碑立つ。これは王が、虎に噉われ掛かる処を救うた愛犬を埋めた場所という(バルフォールの『印度事彙』三版三巻四九〇頁)。
犬寺の伝記に猟師秀府が臨終の際田畠を二犬に譲ったというが、欧州や西亜にはまた犬が人に遺産した譚ある。十五世紀に伊人ポッジオが金銀よく汚れた物を浄くする一例として書いたは、ある富有な僧、極めて犬を愛し、その死するやこれを人間同様寺の墓場に葬った。僧正これを聞いてかの僧を喚起すると、僧は僧正の富まざるを知る故金を持って走り行く、僧正その咎を責むるに答えて、僧、尊者もしかの犬生前臨終ともいかに細心なりしかを知らば、人間同様の葬式したのをもっともと頷かれるはず、就中、かの犬臨終に尊者の窮乏を忘れず、遺言してこの百金を尊者に奉ったと取り出して捧げると、その金に眼がくれて一切尤めず、犬に人間同様の墓を設くるを許したと。この話はその後ルサージュの『ジル・ブラース』などにも採用されおり、これに類した驢が人に遺産した話は十三世紀の欧州既にこれあったとアクソンの説だ(『ノーツ・エンド・キーリス』十輯十一巻五〇一頁)。
ア氏また曰く、これと同じ話が回教国にもあってアブダラ・バン・マームードの書に出づ。それには判事が犬主を喚んで、回教の信弟子に限った葬礼を不浄極まる犬に施すは不埒千万だ、七睡人の犬もオザイルの驢もかつてかかる栄遇を享けたと聞かぬと叱ると、犬主死犬の睿智を称揚して判事に犬が二百アスペルを遺産したと申す。判事気色打ち解けて書記を顧み、それ御覧世間の口は不実なものだ、被告も正直過ぎて人に悪まれると見えると言い、更に被告に向い汝はいまだ死犬のために祈祷せぬらしいからわれらと一緒に始めようじゃないかと言ったとある。このしまいの文句は欧州語に難訳で、祈祷を始めようと金を入れた嚢を開こうとの両義を兼ね表わしいると。レーンの『近世の埃及人』十八章には著者カイロにあった内、夫も子も友もない女が一犬を子のごとく愛したが、犬死んで愁歎の極、その柩前に『コラン聖典』を運ばせ唱師から泣き婆まで傭うて人間同様の葬式行列を行い、事露われて弥次り殺されかけた由を載す。して見ると犬を不浄至極と忌む回教中にも、時たまには実際これを人同様に葬する奇人があるのだ。
さて右述判事が七睡人の犬と言った訳は『コラン』十八章を見て判る。西暦二五〇年ローマ帝デキウス盛んにキリスト教徒を刑した時、帝に仕えた若者七人キリスト教を棄つるを厭い、エフェスス近傍の洞中に匿れ熟睡二百年に渉った。その間太陽日ごとに二度その進路を変えて洞中に光を直射せず。上帝また特に世話して、睡人を左へ右へ転ぜしめてその体の腐るを防ぎ、睡人の伴れた犬ラキムは前肢で洞口を塞いでこれまた沈睡したが、人も犬も睡中神智を多く得てラキムは世界無類の智犬となった。西暦四五〇年テオドシウス若帝の治世に至り、七人始めて寤めてエフェスス村に入った。たった今少し眠ったと思うたに似ず世態全く変って、キリスト教が全国に行われ、ローマ帝国は二分して東西各一君を戴く、何が何だかさっぱり分らず、王質が山を出て七世の孫に逢ったごとく、村人の答うるところ、皆七人を驚かさざるなきを見て一同更に一層驚異し、伝え伝えて帝の御聴に達し七人を召さる。七人御前に侯じて種々の奇事を奏した。就中、二百年後マホメット世に出て回教を弘め大成功する由を予言したとは、回教徒がもっとも随喜する所である。かくて七人また洞中に退き死んだがその洞は今もあり。犬ラキムは当時一切の聖賢を凌駕した智犬と崇められ、人争うてこれに飲食を供したが、死後回教の楽土に安居常住すという。けだし畜生で回教の楽土に永住するを得たるものこの犬のほかに九あり。ヨナーの鯨、ソロモンの蟻、イシュメールの羊、アブラムの犢、シェバ女王の驢、サレクの駱駝、モセスの牛、ベルキの郭公、マホメットの驢だ。キリスト教の伝うる七睡人の譚は、ギボンの『羅馬衰滅史』三十三章の末に手軽く面白く述べられているが、それにはここに述べた犬ラキムの名は一所見えるのみで、それについての譚全く出おらぬ。
白井権八の人殺しは郷里で犬の喧嘩に事起ったと、講談などで聞く。西洋にも詩聖ダンテまで捲き添えを食わせたゲルフ党とギベリン党の内乱は全く犬の喧嘩に基づいたというが、噺が長過ぎるからやめとする。東ローマ帝国が朝廷の車の競争から党争に久しく苦しみし例もあり。『醒睡笑』には、越前の朝倉家が相撲の争論から、骨肉相殺すに及んだ次第を述べある。
さきに出した『今昔物語』の瓢箪から麦米を出した譚は、もと仏徒が『最勝王経』と『法華経』の効力を争うたから起ったものだ。聖武帝の天平十三年正月天下諸国に詔して七重塔一区ずつを造り、並びに『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』各十部を写させ、天皇また別に『金光明最勝王経』を写し毎塔各一部を置かしめ、また毎国金光明四天王護国寺に二十僧、法華滅罪の寺に十尼を置き、その僧尼毎月八日必ず『最勝王経』を転読して月半に至らしむとあって、その詔の発端には風雨順序し五穀豊穣なるべきため祷った由見える(『続日本紀』十四)。しかるに当時最勝会を宮中法事の第一とし、天平九年冬十月最勝会を大極殿に啓く、その儀元日に同じというほどで(『元亨釈書』二の「釈道慈伝」)、二経の内『最勝王経』を特に朝家が尊んだので、『法華経』凝りの徒がこれに抗して瓢より米が出た話を作って、かの経が『最勝王経』に勝ると張強したのだ。
犬の笑譚は、諸国にあるが今その二、三を挙げる。元和九年安楽庵策伝筆でわが邦落語の鼻祖といわるる『醒睡笑』巻一に「人啖い犬のある処へは何とも行かれぬと語るに、さる事あり虎という字を手の内に書いて見すれば啖わぬと教ゆる後犬を見虎という字を書き済まし手を拡げ見せけるが、何の詮もなくぼかと啖いたり、悲しく思いある僧に語りければ、推したり、その犬は一円文盲にあったものよ」と。『嬉遊笑覧』八に、この呪、もと漢土の法なり。『博物類纂』十に、悪犬に遇わば左手を以て寅より起し、一口気を吹き輪って戌に至ってこれを搯めば犬すなわち退き伏すと。了意の『東海道名所記』に「大きなる赤犬かけ出てすきまなく吠えかかる云々、楽阿弥も魂を失うて俄に虎という字を書いて見すれども田舎育ちの犬なりければ読めざりけん、逃ぐる足許へ飛び付く」とある。幸田博士の『狂言全集』下なる大蔵流『犬山伏』の狂言に、茶屋の亭主が、山伏と出家の争論を仲裁して人食い犬を祈らせ、犬が懐いた方を勝ちと定めようというと、出家は愚僧劣るに必定と困却する。亭主私に、あの犬の名は虎だから虎とさえ呼ばば懐き来る、何ぞ虎という語の入った経文を唱えたまえと誨える。因ってその僧が南無きゃらたんのうとらやあ〳〵と唱えるや否や犬出家に狎れ近づく。山伏祈れば犬吠えかかり咬み付かんとする故山伏の負けと決する。犬より強い虎の字を書いて犬を制し得るという中国説が、本邦に入って、犬の名の虎に通う音の入った経文を唱えてその犬を懐柔する趣に変ったのだ。前年『郷土研究』一巻八号に出し置いた通り、田辺近き上芳養村の人に聞いたは、吠えかかる犬を制止するには、その犬に向うて亥戌酉申より丑子まで十二支を逆さに三度繰り返すべしと。また一法は、戌亥子丑寅と五支の名を唱えつつ五指を折り固むるのだと。ただしその法幾度行うても寸効なかったと自白した。上に孫引きした『博物類纂』の支那方あたりから転出したと見える。
『続古事談』二に、古え狐を神とした社辺で狐を射た者あり、その罪の有無を諸卿が議した中に、大納言経信卿は、白竜の魚、勢い預諸の密網に懸るとばかり言えりといったので、その人無罪になったとある。これは春秋の時呉王が人民と雑って飲もうとするを伍子胥が諫めて、昔白竜清冷の淵に下り化して魚となったのを予且という漁者がその日に射中てた、白竜天に上って訴えると、天帝その時汝は何の形をしていたかと問うた、白竜自分は魚の形をしていたというを聞いて、魚はもとより人の射るべきものだから予且に罪なしと判じた。魚の形をせなんだら予且に白竜は射られぬはず、今王も万乗の位を棄て布衣の士と酒を飲まば、臣その予且の患いあらんを恐るといったので王すなわちやめた(『説苑』九)という故事を引いたのだ。されば平安朝に、神通自在の天狗が鳶に化けて小児に縛り打たれた話あり(『十訓抄』一)。
『常山紀談』にいわく、摂津半国の主松山新助が勇将中村新兵衛たびたびの手柄を顕わしければ、時の人これを槍中村と号し武者の棟梁とす。羽織は猩々緋、盔は唐冠金纓なり。敵これを見て、すわや例の猩々緋よ、唐冠よとていまだ戦わざる先に敗して敢えて向い近付く者なし、ある人強いて所望して中村これを与う。その後戦場に臨み敵中村が羽織と盔とを見ず、故に競い掛かりて切り崩す、中村戈を振るって敵を殺す事あまたなれども中村を知らざれば敵恐れず、中村ついに戦歿す。依って曰く、敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を耀かし気を奪い勢を撓ますの理を暁るべしと。中村は近江国の人なり。一日に槍を合す事十七度、首四十一級を得たから世に槍中村と称えたという。それすらその人と知れぬ時は寄って懸って殺しおわる。由ってその人相応の飾りや肩書は必要と見える。この類の話し古くインドにもあった。『根本説一切有部毘奈耶破僧事』十八から十九巻に竟って、長々と出居る。なるべく短く述べるとこうだ。
過去世婆羅尼斯国の白膠香王隣国王の女を娶り、日初めて出づる時男子を生んだので日初と名づけ、成長して太子に立てた。王第一の妃を達摩と名づけたがこれも後に姙んだ。相師これを見て今度必ず男子が生まれる、それはきっと王を殺して自ら王となるはずといった。白膠香王病で快復の見込みも絶ゆるに及び、自分死なば太子は必ず第一后達摩を殺すに相違ないと思うて、多くの財宝を宰牛と名づくる大臣に与え、よく達摩后を擁護して殺されぬようと頼んで死んだ。日初太子王位に即いて、継母達摩后姙娠中の子は行く行く王を殺して代り立つと相師が言ったから、今の内に后を殺すべしといきまく。宰牛この事早まるべからず、男を生むか女を生むかを見定めた上、果して男を生んだら殺したまえと諫め、王その言に随い大臣をして后を監視せしむ。大臣后を自宅に迎えて八、九日たつと后男子を産んだ。それと同日同刻に漁師の妻が女子を生んだ。宰牛大臣すなわち銭を与えて漁師の妻を説き、その生むところの女子を后が産んだ男子と取り換えた。それから王に詣でて達摩后は女子を生んだと告げたので、王しかる上はわれ安心なりとて再び問わなかった。后が生んだ男子は漁師に養われたが、ようやく長じて読み書きを好み、殊に詩を巧みに作ったので詠詩漁児と呼ばれた。
宰牛大臣一日達摩后に后が産んだ男児今は詩人になり居ると告げると、后何卒一目逢わせてほしいと望んでやまず。宰牛謀計してその子に魚を持たせ、魚売りの風をして母を訪わしめた。相師またこれを見て、この魚売りは必ず我王を殺して王位を取るべしと言った。王これを聞いて群臣に命じ捕えしむ。漁師の子これを知って諸処逃げ廻りついに一老姉にかくまわる。老姉謀ってその身に芥子と胡麻の油を塗って死骸に似せ(シェッフネルの『西蔵諸譚』にこうある。唐訳には大黄を塗って死人の色のごとくすと出づ)、林中へ舁き往かしむ。その時林中に花果を採る人ありて、漁師の子が死人中より起き出でて走るを見、逐えども及ばず。そこへ王の使者来って箇様箇様の人相の者を見ぬかと問うに、ちょうど只今見た、この路から去ったと指し示すに随い王使は追い往く。漁師の子は走って山里に到り、染工に就いて隠れ家を求めた。染工これを衣嚢で重ね包み、驢に載せて里外の浴場に運び去った。そこで漁師の子起き上り辺を見廻し立ち去る処を、また見た者ありて王の使に語ったから王の使はまた追って往った。漁師の子は遁れて靴工の宅に入り仔細を明かし、踵を前に指を後にした靴一足を拵えもらい、穿って村を出るに高い牆で取り廻らして踰ゆる事ならぬから、やむをえず水竇中から出た。王の使追い到り、その脚跡を尋ねて靴師の家に至ったが、本人は遠く逃げ去りいた。
この靴を逆さまに履いて追う者の眼をごまかし無難に逃げ果せるという事よくあるやつで、『義経記』五の六章に、義経吉野を落る時、弁慶誰も命惜しくば靴を倒しまに履きて落ちたまえと勧め、判官その所由を問うに、西天竺しらない国の王、はらない国王に攻められ逃げる時、靴を逆さまに穿いて命を全うし、再び兵を起して勝軍した故事を、法相三論の遺教中から学びいたと答えたと記す。津村正恭の『譚海』二に、丹後の由良の湊に逆沓という故事あり、つれ王丸という冠者、三荘太夫が許を逃れて京へ登る時に、雪中に沓を跡になし穿きて逃れたる故、雪に附ける足跡奥の方へ行けるように見えしかば、追手の者奥の方を尋ね求めし故、遁れて京へ入る事を得たりという。
漁師の子は逆さま靴の謀で一旦逃げ延びたが、今更行き処がないので身を水中に投げると、竜王これをその宮中に迎え入れた。日初王聞きて諸呪師を召集し往きて竜を呪せしむ。その時一の夜叉名を賓伽羅と呼ぶ者曠野に住んで血肉を食い、その住む処樹木すら枯れ獣畜も逃れ去るほど故、人はとても活き得ず。漁師の子竜王己れの故に呪せられ苦しむを見兼ねて、この曠野に逃る。竜王呪師に向い、彼既に曠野の夜叉に食われた上は、我を呪し苦しめても益なしという故、呪師ども還って王に告げ、王も一安心しながらなお念を入れて漁師の子の成り行きを尋ねしめた。夜叉は諸の悪狗とともに一処にあって漁師の子の来るを見、これは自分を殺しに来た者と心得、狗をして追い捉えしむると、漁師の子素早く木に上り狗ども下にあって守る。夜叉来ってこの野へ来る人間は皆我に食わる、汝も下り来りて食われよというと、我命ある内は下らぬというから、夜叉も気長く守って樹下に眠る。その上から漁師の子が自分の衣を脱いで擲ち、あまねく夜叉の体を覆うと、狗ども夜叉を人と心得、寄り集まって食い尽したとある処が、白竜魚服して予且に射られた故事に似て居る。
狗どもが夜叉を食い居る間に漁師の子は脱れ走った。途上で我が叔父(母の兄弟らしい)世を捨て仙人となり居る者ありと聞くから、その人を憑もうと惟い、山を分けて尋ね往く最中、王の使いまた追い来って捕えかかる故、決心して谷へ身を投げた。その髻を王使が捉えて手中に留まったのを王に示して、この通りかの者を誅したと告げたので、王大いに悦び重く賞賜した。時に仙人の住所を護る神来って仙人に告げたは、汝の外甥児今苦悩に逼られ居るを知らずやと。仙人我れ我甥を懸念せずんば只今死すべしと答えた。この仙人男を女に、女を男に変ずる呪法を知っており、すなわちその法を外甥に伝えた。今は怖るる事なし、思う所へ往けというから、外甥その法を行うて自ら美女に化し、相貌殊好、特に常倫に異なり。すなわち婆羅尼斯に往き王の園苑中に住まる。守苑人美女を見て希有の思いをなし速やかに王に告げ、今美貌成就せる少女ありて現に苑内にありという。王宜しく速やかに連れ来るべしと命じ、すなわち大威儀を以て僕従をして王宮に迎え入れしめ、王かの美女を見て深く愛著を生じた。美女すなわち王を閑処につれ行きてこれを殺し、たちまち呪を以て自身を男に戻し、王冠を戴き、委細を宰牛大臣に告げたので、諸臣この漁師の仮子を冊立して王とした。その時諸天偈を説いて曰く、頭を断たぬ内は殺したと言えぬ、また起ちて能くかくのごとき業を作す、事宜に随って他を損ずるも害と名づけず、白膠王の子を害したもののごとしと。橘好則が、平維茂の頭を慥かに取って、此奴万一生きもや返ると鞍の鳥付きに結い付けぬ内は安心出来ぬといったに同じ(『今昔物語』二五)。
明の李卓吾の『続開巻一笑』四に、唐寅字は伯虎、三月三日において浴澡す。一客これを過て見る事を求む、浴を以て辞す、客悦ばずして去る。六月六日に及び公往きてこの客に謁す、また辞するに浴するを以てす、公戯れにその壁に題して曰く、〈君昔我を訪えば我沐浴す、我今君を訪えば君沐浴す、君昔我を訪いしは三月三、我今君を訪うは六月六〉と、けだし三月三日は仏を浴し六月六日は狗を浴する当時の風だったから、自分を仏と崇め、この客を狗と貶して嘲ったのだ。同書六に、侯白初めいまだ名を知られず本邑にあり、令宰初めて至り白すなわち謁す、知識にいいて曰く、白能く明府をして狗吠を作さしむと、知識それはとてもならぬ事と言いて飲食を賭す、それから入りて謁すると知識門外よりこれを伺う、令宰白に何の用あって来たかと問うと、令公はいまだ知らぬがこの頃当地に盗人多いから、各家に狗を飼わせ吠えしめるが宜しいという。令曰くしからば我家にも能く吠ゆる犬を欲しいが手に入れてくれぬかと、白曰く家中新たに一群の狗ありてその声他の狗に異なりと、令それはどんな声かと尋ねると、白その声はこんなぞと呦々と吠えて聞かせた。令曰く、君は好い狗の声を知らぬ。好い狗は呦々と吠えず号々と吠えるのだとて自らその真似をした。門外で伺う者聞きて口を掩うて笑わざるなし。白既に賭に勝ったと知り、そんなら号々と吠えるものを尋ねて見ましょうと言って辞し出たとある。このついでに言う、犬の鳴くを本邦では鳴くとか吠えるとか言うばかりだが、支那には色々とその区別があるらしく、英語になると、バーク、イエルプ、ナール、ハウルなどと雑多な種別があって、それぞれ一語で犬が怪しんで吠えたとか、苦しんで吠えた、悲しんで吠えたと判る。どうもこんな事にかけては日本語はまずいようだ。また犬の鳴き声は時代に由って色々に聞えたと見えて、今日普通に犬の吠えるを、英語でバウワウ、仏語でブーブーまたツーツーなどいうが、十六世紀に仏国で出たベロアルド・ド・ヴェルヴィユの『上達方』などには、犬の声を今の日本と同じくワンとしおり、古エジプトではアウと呼んだ形迹あり(ハウトンの『古博物学概覧』三〇頁)。『狂言記拾遺』六、「犬山伏」に犬ビョウビョウと吠える。寛永十年に成った、松江重頼の『犬子集』一に、「びやう〳〵と広庭にさけ犬桜」、巻十七に「びやう〳〵とせし与謝の海つら」「竜燈の影におどろく犬の声」。徳川幕府の初期には、犬の鳴き声をビョウビョウと聞いたので、英語や仏語に近い。
前項に引いた、英国の『ジョー・ミラー滑稽集』にいわく、行軍中の軍曹に犬が大口開いて飛びかかると、やにわに槍先を喉に突き通して殺した。犬の主大いに怒って、それほどの腕前で槍の尻で犬を打つ事が出来なんだかと詰ると軍曹、犬が尻を向けて飛びかかって来たならそうしたはずだと言った。またある貴婦人、下女に魚を買わしめると毎度だまされるから、一日決心して自ら買いに出かけ、魚売る女に向って魚を半値にねぎった。魚屋呆れて盗んだ物でないからそう安くは売れませぬ、しかし貴女の手のように色を白くする法を聞かせてくださったら魚を上げましょうというと、それは何でもない事犬の皮の手袋を嵌めるのだと答う。魚屋大声を揚げて啌つきの牝犬め、わが夫は十年来離さず犬の皮のパッチを穿いているが、彼処は肉荳蔲のように茶色だと詈ったそうだ。これについて憶起するは、昔大阪のどこかへ狂歌師某が宝珠の絵の額面を掲げて、「瑳いたら瑳いたゞけに光るなり、性根玉でも何の玉でも」と書くと、いつの間に誰か書き副えて、「光るかの蒟蒻玉ときん玉と、こんな歌よむ性根玉でも」とあったと『一話一言』で読んだ。北尾辰宣の筆ならんてふ異体の百人一首に、十種の男を品隲して白を第六等に寘き、リチャード・バートンはアラビア人が小唇の黒きを貴ぶ由をいった(一八九四年版『千一夜譚』注)。白人は白い物と心得た人が多いが、件の『滑稽集』の文でやはり白くないと判る。
花咲爺の咄は誰も知る通り、犬に情け厚かった老爺はその犬の灰で枯木に花を咲かせて重賞され、犬に辛かった親仁はそれを羨んで灰を君公の眼に入れて厳罰された次第を述べたのだが、近刊佐々木喜善君の『江刺郡昔話』に出でいる灰蒔き爺の話は教科書に載ったものとは異態で、田舎びたるだけこの話の原始的のものたるを示す。その概略は、川上川下に住む二人の爺が川に筬を掛けると、上の爺の筬に小犬、下の爺のに魚多く入る。上の爺怒って小犬と魚を掏り替えて還った。下の爺自分の筬に入った小犬を持ち還り成長せしむると、日々爺の道具等を負って爺に随って山へ往く。一日犬山に入って爺に教え、あっちの鹿もこっちへ来う、こっちの鹿もこっちへ来うと呼ばせると、鹿多く聚まり来るをことごとく殺して負い帰り、爺婆とともに煮て賞翫する。所へ上の家の婆来って仔細を聞きその犬を借りて行く。翌日上の爺その犬に道具を負わせて駆って山に往き、鹿と呼ぶべきを誤ってあっちの蜂もこっちへ来う、こっちの蜂もこっちへ来うと呼ぶと、諸方より蜂飛び来って爺のキン玉を螫し、爺大いに怒って犬を殺しその屍を米の木の下に埋め帰った。下の爺俟てども犬が帰らず。上の爺を訪ねて殺されたと知り、尋ね往きてその米の木を伐り、持ち帰って摺り臼を造り、婆とともに「爺々前には金下りろ、婆々前には米下りろ」と唄うて挽くごとに、金と米が二人の前に下りた。暴かに富んで美衣好食するを見て上の婆羨ましくまた摺り臼を借りて爺とともに挽くに、唄の文句を忘れ「爺々前には糞下りろ、婆々前には尿下りろ」と唄うた通り不浄が落ちたので、怒ってその臼を割って焼きしまった。下の爺臼を取り還しに往くと灰になって居る。灰でもよいからとて笊に盛って帰り、沼にある鴈に向って、「鴈の眼さ灰入れ」と連呼してその灰を蒔くと、たちまち鴈の眼に入ってこれを仆し、爺拾い帰って汁にして食う。そこへ上の婆またやって来て羨ましさにその灰を貰い帰った。向う風の強い晩に、爺屋の棟に上ってこれを撒くとて文句を誤り「爺々眼さ灰入れ」と連呼したので向う風が灰を吹き入れてその眼を潰し、爺屋根より堕つるを鴈が落ると心得、婆が大きな槌で自分の老夫を叩き殺したというのだ。
馬琴の『覉旅漫録』上に、名古屋で見た絵巻物を列した内に「『福富の草子』云々、京にありし日同じ双紙の写しを見たり、橋本氏の所蔵なり(追書に橋本経亮の所蔵を見たり、そを写させしが京伝子懇望により贈り与えたり)、今児童の夜話に花咲爺というものよくこの福富長者の事に似たり、これより出たる話にや」と記す。『福富草子』は足利氏の世に成ったもので、『新編御伽草子』の発端に出おり今は珍しからぬ物だが、京伝、馬琴の時には流布少なかったと見える。これは福富の織部なる者面白く屁をひる事に長じ、貴人面前にその芸を演じ賞賜多くて長者となる。隣人藤太これを羨み、長者より薬を貰い、今出川中将夫妻らに謁して芸を演じ損じ不浄を瀉し、随身に打たれ血に塗れて敗亡した始末を述べたものだ。この話の根本らしいのが仏経にある。
『雑宝蔵経』八にいわく、昔波羅奈国の梵誉王、常に夜半に塚間に咄王咄王と喚ぶを聞く、よく聞くと一夜に三度ずつ喚ばわる事やまず。王懼れて諸梵志・太史・相師を集めこの事を諮う。諸人これは必常妖物の所為と見えるから、胆勇ある者を遣わして看せたらよかろうと申す。王すなわち五百金銭を懸賞してその人を募るに、独身暮しで大貧乏ながら大胆力の者ありて募りに応じ、甲冑を著し刀杖を執って夜塚間に至ると、果して王を喚ぶ声す。汝は何者ぞと叱ると、我は伏蔵だと答えた。伏蔵とは「田原藤太竜宮入りの譚」に書いた通り、インド等には莫大の財宝を地下に埋めあり、今もそれを掘り当てる事を専門にする者が多く、それを言い中るを業とする術士も少なからぬ。さて伏蔵、募人に語るは、汝は剛の者でわれを怖れぬ。我れ毎夜かの王を喚ぶ。王我に答えたら我れ王の庫中に入れてやるべきに、かの王臆病者でかつて答えぬから仕方がない。我がほかに眷属が七つある。明朝伴って汝の家に行こうと、募人それはありがたいが明朝どうして汝らを迎うべきかと問うと、伏蔵答えて、汝ただ家内を掃除し糞穢を除き去り、香花を飾って極めて清浄ならしめ、葡萄、甜漿、酥乳の粥を各八器に盛って俟て、然る時八道人ありて汝が供物を食うはず、さて飲食しおわったら、汝杖を以て上座した者の頭を打ち隅に入れと言え、次の者どももことごとく駆って隅に入れよと、募人心得て家に帰り王より五百金銭を受けて馳走を用意に及ぶ。王かの夜喚ぶ者は何物ぞと問うに、募人詐ってあれは化物でござったと申す。それより理髪師を招き身じまいをした。翌朝馳走を備えた所へ果して八道人来り、飲食しおわるを俟ってまず上座の頭を打ち隅へ駆り入れると、たちまち変じて金銭一盎と成った。跡の奴原も次第に駆り入れて金銭八盎が出来た。時に理髪師門の孔からこの体たらくを覗きおり、道人の頭さえ打たば金に成ると早合点して、他日自ら馳走を用意し心当りの道人八人を招待して飲食せしめ、すでにおわって門戸を閉じ、いきなり上座の道人の頭を打つと、これはただの人間だから血出て席を汚し、余りに隅へ駆り入るるの急なるより糞を垂れた。七人までかくのごとく打ち倒されたが八番目の道人力強くて戸外に突き出で、この主人は我らを殺さんとすと大いに叫んだ。国王人を遣わし理髪師を捉えて委細を聞き、更に人を遣わして募人の家を検するに金銭夥しく持ち居る。王その銭を奪うと銭が毒蛇また火の玉と成ったので、これはわれが取るべきでないと言って募人に返したと。この話の発端におよそ一切の法、求むべき処においては方便を以て得べし、もし求むべからずんば、強いて得んと欲すといえども、すべて獲べからず、譬えば沙を圧して油を覓め、水を鑽って酥を求むるがごとく、既に得べからずいたずらに自ら労苦すとある。その言い様が『福富草子』の最初に「人は身に応ぜぬ果報を羨むまじき事になん侍る」といえるによく似て居る。のみならずこの草子に、屁を放ち損じて大便を垂れたので叱り打たれて血に塗れ、帰ったとあるは、件の経文に〈この道人、頭破れ血瀝り、床座を沾汚す、駆りて角に入らしむ、急を得て糞を失す、次第七人、皆打棒せられ、地に宛転す〉とあるから転化したのだ。
さて次に趣向の話しだが、今一つ同じ『雑宝蔵経』巻六に見ゆ。舎衛城中に大長者あり、毎度沙門を招請して供養する。ある日舎利弗と摩訶羅と、その家に至るとちょうど貿易のため渡海した者が大いに珍宝を獲て無事帰宅し、国王が長者に封邑を与え、その妻また男児を生んだ。目出た目出たが三つ重なった日だった故、長者大いに喜んで、舎利弗らに飯を供し、おわって舎利弗呪願していわく、今日良時好報を得、財利楽事一切集まる。踊躍歓喜心悦楽し、信心踊発して十力を念ず、願わくば今日の後常に然らん事をと。長者これは大出来と喜んで、上妙の毛氈二張を舎利弗に施し、摩訶羅には何にもくれなんだ。摩訶羅寺へ帰って羨ましくってならず、舎利弗に何卒件の呪願の文句を教えたまえと乞う。舎利弗この文句は常に用いてはならぬ、用いてよき時と悪い時とあるといったが、ひたすら伝授を望むから教えた。その後僧どもまた長者に招かれ順番で摩訶羅が上座となった。その時長者の手代渡海して珍宝を失い、長者の妻告訴されその児も死亡した。凶事のみ聚まった日だったのに摩訶羅は頓著せず、舎利弗通り、願わくば今後常に、然らん事をと呪願した。長者これを聴いてこんな事が毎日続けとは怪しからぬと、大いに立腹して摩訶羅を叩き出す。摩訶羅困って国王の胡麻畠に入って苗を踏み砕き畠番人に打ち懲らさる。何故我を打つかと問うに、この通り胡麻畠を踏み荒したからと言われて初めて気付き、道を教えもろうて前進し麦を刈って積んだ処へ来た。その国俗として麦藁を積んだ処を右に遶れば飲食をくれる、来年の豊作を祈るためだ。左に遶れば凶作を招くとて不吉とする。摩訶羅不注意にも左へ遶ったので麦畑の主また忿って打ち懲らす。何故我を打つかと問うと、知れた事、麦藁塚に遇わば多く入れ多く入れと豊作を祝う詞を述べながら右へ遶るのだ、それを何も言わずに左へ遶ったは違法だという。また道を示されて進み行くと葬式に出逢った。麦畑の主に教わったはここぞと念を入れて、多く入れ多く入れと唱えながら墓を遶った。喪主仰天して彼を捉え打っていわく、汝死人に遇わば愍んで今後かかる事なかれと言うべきに多く祝するは何事ぞと。心得ましたと詫びてまた行くと今度は嫁入りの行列に出逢った。只今教わった通り葬式に対して言うべき事を述べると、また怒って頭を打ち破られ、狂い走って猟師が鴈網を張ったのに触れ鴈ことごとく飛んでしまう。猟師にまた打たれて詫び入ると徐かに這って行けという。這って行く途中に洗濯屋あり、これはてっきり洗濯物を盗みに来たと思うてまた打ち懲らす。ようやく免されて祇園精舎に至り、舎利弗の呪願を羨み習うたばかりに重ね重ねの憂き目を見たと語り、仏その因縁を説くのだが余り長くなるから中止としよう。
あり来った話を作り替えるにはなるべく痕跡を滅するのを上手とするから、大体について物羨みはせぬ事というだけが同一で大分違うて居るが、佐々木君の『江刺郡昔話』に載った灰蒔き爺の話に鴈を捉うる処あるのは、件の『雑宝蔵経』から花咲爺の話を拵え上げた痕跡と惟う。
桃太郎の話は主として支那で鬼が桃を怖るるという信念、それから「神代巻」の弉尊が桃実を投げて醜女を却けた譚などに拠る由は古人も言い、また『民俗』一年一報、柴田常恵君の説に、田中善立氏は福建にあった内、支那にも非凡の男児が桃から生まれる話あるを聞いた由でその話を出し居る。それらは別件として、ここにはただ桃太郎が鬼が島を伐つに犬を伴れ行ったという類話が南洋にもある事を述べよう。タヒチ島のヒロは塩の神で、好んで硬い石に穴を掘る。かつて禁界を標示せる樹木を引き抜いて守衛二人を殺し、巨鬼に囚われた一素女を救い、また多くの犬と勇士を率いて一船に打ち乗り、虹の神の赤帯を求めて島々を尋ね、毎夜海底の妖怪鬼魅と闘う。ある時ヒロ窟中に眠れるに乗じ闇の神来って彼を滅ぼさんとす。一犬たちまち吠えて主人を寤まし、ヒロ起きて衆敵を平らぐ。ヒロの舟と柁、並びにかの犬化して山と石になり、その島に現存すというのだ(一八七二年ライプチヒ版ワイツおよびゲルラントの『未開民史』六巻二九〇頁)。
底本:「十二支考(下)〔全2冊〕」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年1月17日第1刷発行
1997(平成9)年10月6日第10刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集第二卷 〔十二支考Ⅱ〕」乾元社
1951(昭和26)年11月25日発行
初出:1「太陽 二八ノ二」博文館
1922(大正11)年2月
2「太陽 二八ノ三」博文館
1922(大正11)年3月
3「太陽 二八ノ四」博文館
1922(大正11)年4月
4「太陽 二八ノ一四」博文館
1922(大正11)年12月
※〈〉内の引用漢文の訓読は、編集部によります。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年5月4日作成
2016年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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