映画雑感(3)
寺田寅彦
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一 にんじん
「にんじん」は忙しい時にちょっと一ぺん見ただけで印象の記憶も散漫であるが、とにかく近ごろ見たうちではやはり相当おもしろい映画の一つであると思われた。
登場人物の中でいちばんじょうずな役者は主人公のにんじんである。少しも芝居くさいところがなくて実に自然に見える。幼い女の子も同様である。もっともこれは何もこの映画に限ったことではない。昔のジャッキー・クーガン以来小さい子供はみんなたいてい映画俳優として成効している。日本でも同様である。先日見た「エノケンの酔虎伝」でもお客様に出してある菓子を略奪に出て来る男の子がどの俳優よりもいちばん自然で成効しているように思われた。このことは映画俳優の演芸が舞台俳優のそれと全くちがった基礎の上に立つべきものだということをわれわれに教えるものではないかと思われる。ロシア映画で教養も何もない農夫が最も光ったスターとして現われ、アメリカ映画でも土人のほうが白人の映画俳優の下っぱなどより比較にならぬほどいい芝居をして見せるのも同様な現象である。自然を背景とした芝居では人間もやはり自然な芝居をしなければつりあわないであろう。
こういう意味からすれば、にんじんの父も母も女中もおじさんも皆少し芝居をし過ぎるような気もするが、しかし元来西洋人は日本人に比べると平生でも挙動がだいぶ芝居じみているから、あれぐらいはちょうどいいのかもしれない。
この映画に現われるフランスの田舎の自然は実に美しい。二十世紀のフランスにもまだこんな昔の田舎が保存されているかと思うと実にうらやましい気がした。コローやドービニーなどの風景画がそっくり抜け出して来たように思われてうれしかった。日本ではおそらくこんな所はめったに見られないであろう。そういう田舎の名づけ親のおじさんの所へ遊びに行ったにんじんが、そこの幼いマチルドと婚礼ごっこをして牧場を練り歩く場面で、あひるや豚や牛などがフラッシで断続交互して現われ、おじさんの紙腔琴に合わせて伴奏をするところも呼吸がよく合って愉快である。そうした趣向がうまいのではなくて、ただその編集の呼吸がうまいのである。同じことをやるのでもドイツ映画だとどうしても重くるしくなりがちのように思われる。同じようにこの呼吸のうまい他の一例は、停車場の駅長かなんかの顔の大写しがちょっと現われる場面である。実になんでもないことだが、あすこの前後の時間関係に説明し難い妙味がある。
女中が迎えに来て荷馬車で帰る途中で、よその家庭の幸福そうな人々を見ているうちににんじんの心がだんだんにいら立って来て、無茶苦茶に馬を引っぱたいて狂奔させる、あすこの場面の伴奏音楽がよくできているように思う。ほんとうにやるせのない子供心の突きつめた心持ちを思わせるものがある。
池へ投身しようとして駆けて行くところで、スクリーンの左端へ今にも衝突しそうに見えるように撮っているのも一種の技巧である。これが反対に画面の右端を左へ向いて駆けって行くのでは迫った感じが出ないであろう。
妖精の舞踊や、夢中の幻影は自分にはむしろないほうがよいと思われた。
この映画も見る人々でみんなちがった見方をするようである。自分のようなものにはこの劇中でいちばんかわいそうなは干物になった心臓の持ち主すなわちにんじんのおかあさんであり、いちばん幸福なのは動物にまでも同情されるにんじんである。そうして一等いい子になってもうけているのは世間の「父」の代表者であるところのおとうさんの村長殿である。
二 居酒屋
ゾラの「居酒屋」を映画化したものだそうである。原著を読んでいないからそれとの交渉はわからない。しかし普通のアメリカの小説映画とは著しくちがった特徴のあることだけはよくわかる。話の筋も場面も実に尋常普通の市井の出来事で、もっとも瘋癲病院の中で酒精中毒の患者の狂乱する陰惨なはずの場面もありはするがいったいに目先の変わりの少ないある意味では退屈な映画である。それだけに、そうしたものをこれだけにまとめ上げてそうしてあまり退屈させないで興味をつないで行くには相当な監督の手腕と俳優の芸が必要であると思われた。酒で堕落して行くおやじの顔の人相の変化はほんとうらしい。
いちばんおしまいの場面で、淪落のどん底に落ちた女が昔の友に救われてその下宿に落ち着き、そこで一皿の粥をむさぼり食った後に椅子に凭ってこんこんとして眠る、その顔が長い間の辛酸でこちこちに固まった顔である。それが忽然として別の顔に変わる。十年も若返ったような顔で目にはいっぱい涙がたまっている。堅く閉じた心の氷がとけて一陽来復の春が来たのである。そうして静かにこの一編の終末がフェードアウトするのである。この終末の取り扱い方にどこかフランス芸術に共通な気のきいた呼吸を見ることができるような気がする。
三 世界の屋根
この映画で自分のもっとも美しいと思った場面はおおぜいの白衣の回教徒がラマダンの断食月に寺院の広場に集まって礼拝する光景である。だがせっかくのこのおもしろい場面をつまらぬこしらえものの活劇で打ちこわしてしまっているのは惜しいことである。ラマ僧の舞踊の場面でも同様によけいな芝居が現実の深刻味を破壊してしまっている。
回教徒が三十日もの間毎日十二時間の断食をして、そうして自分の用事などは放擲して礼拝三昧の陶酔的生活をする。こういう生活は少なくとも大多数の日本の都人士には到底了解のできない不思議な生活である。
ベナレスの聖地で難行苦行を生涯の唯一の仕事としている信徒を、映画館から映画館、歌舞伎から百貨店と、享楽のみをあさり歩く現代文明国の士女と対照してみるのもおもしろいことである。人生とは何かなどという問題は、世界をすっかり見た上でなければうっかり持ち出せない問題だということは、こんな映画を見ても気がつくであろう。
四 忠臣蔵
日活の今度の大仕掛けの忠臣蔵は前半「刃傷編」を見ただけである。なるほど数年前の時代活劇から比べるとだいぶ進歩したものだと思われる点はいろいろある。たとえば、勅使接待の能楽を舞台背景と番組書だけで見せたり、切腹の場を辞世の歌をかいた色紙に落ちる一片の桜の花弁で代表させたりするのは多少月並みではあるがともかくも日本人らしい象徴的な取り扱い方で、あくどい芝居を救うために有効であると思われた。しかしいちばん困るのは人間の芝居である。特にその対話である。吉良上野のほうはだれがやるとしても比較的やさしいと思われるが浅野内匠のほうは実際むつかしい。片岡千恵蔵氏もよほど苦心はしたようであるが、どうも成効とは思われない。あの前編前半のクライマックスを成す刃傷の心理的経過をもう少し研究してほしいという気がする。自分の見る点では、内匠頭はいよいよ最後の瞬間まではもっとずっと焦躁と憤懣とを抑制してもらいたい。そうして最後の刹那の衝動的な変化をもっと分析して段階的加速的に映写したい。それから上野が斬られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽とを示す簡潔で有力な幾コマかをフラッシュで見せたい。そうしないとせっかくのクライマックスが少し弱すぎるような気がする。
第二のクライマックスは赤穂城内で血盟の後復讐の真意を明かすところである。内蔵助が「目的はたった一つ」という言葉を繰り返す場面で、何かもう少しアクセントをつけるような編集法はないものかと思われた。たとえば城代の顔と二三の同志の顔のクローズアップ、それに第一のクライマックスに使われた「柱に突きささった刀」でもフラッシュバックさせるとか、なんとかもう一くふうあってもよさそうに思われた。
滅びた主家の家臣らが思い思いに離散して行く感傷的な終末に「荒城の月」の伴奏を入れたのは大衆向きで結構であるが、城郭や帆船のカットバックが少しくど過ぎてかえって効果をそぐ恐れがありはしないか。自分がいつも繰り返して言うようにもし映画製作者に多少でも俳諧連句の素養があらば、こういうところでいくらでも効果的な材料の使い方があるであろうと思われるのである。
早打ちの使者の道中を見せる一連の編集でも連句的手法を借りて来ればどんなにでも暗示的なおもしろみを出すことができたであろうと想像される。そういうことにかけてはおそらく日本人がいちばん長じているはずだと思われるのに、その長所を利用しないのが返す返すも残念なことである。
五 イワン
ドブジェンコのこの映画にも前の「大地」と同様な静的な画面をつないで行く手法が目につく。堰堤工事の起重機や汽車の運動は、見ているとめまいを起こすほどであるが、しかしその編集法はやはり静的で動的でない。
冒頭のドニエプル河畔の茫漠たる風景も静的である。こういう自然の中に生まれた国民のまねを日本人がしようとするのはほんとうに無意義なことである。
この映画は文部省あたりの思想善導映画として使われうる可能性をもっている。これは皮肉ではない。
六 バンジャ
映画「バンジャ」を見た。従来の猛獣映画に比べて多少の特色はあるようである。見えすいた芝居が比較的少ないので、見ていて気持ちがよく、退屈しなくてすむ。
象が人間に使われて実によく命令を聞き、見かけに似合わず小まめに仕事をする。あれほど利口なこの動物がどうして人間の無力を見抜いてあばれださないか不思議に思われて来る。人間は知恵でこの動物を気ままにしていると思ってうぬぼれている。しかしこれらの象が本気であばれだしたら大概の人間の知恵では到底どうにもならなくなるのではないか。象が人間に負けているのは知恵のせいではない。協力ということができないだけが彼らの弱みではないかと思われる。協同した暴力の前には知恵などはなんの役にも立たないことは人間の歴史が眼前に証明している。
犀というものがどうにも不格好なものである。しかしどうしてこれが他の多くの動物よりもより多く「不格好」という形容詞に対する特権を享有することになるのか。
人間の使ういろいろな器具器械でも一目見てなんとなくいい格好をしたものはたいてい使ってぐあいがよい。物理学実験に使われる精密器械でさえも設計のまずい使ってぐあいの悪いようなのはどことなく見た格好が悪いというのが自分の年来の経験である。
動物でも、なんとなしに不格好に見えるのはやはり現在の地球上に支配する環境の中で生活するのに不便なようにできているのではないかと思われてくる。犀などがだんだんに人間に狩り尽くされて絶滅しかけているという事実はたしかに彼らが現世界に生存するに不利益な条件を備えているためであろう。
過去のある時代には犀のようなものが時を得顔に横行したこともあったのである。その時代の環境のいかなる要素が彼らの生存に有利であったかがおもしろい問題である。
今から何万年の後に地球上の物理的条件が一変して再び犀かあるいは犀の後裔かが幅をきかすようになったとしたら、その時代の人間──もし人間がいるとしたら──の目にはこの犀がおそらく優美典雅の象徴のように見えるであろう。そういう時代が来ないという証明は今の科学ではできそうもない。
犀について言われることは人間の思想についてもほとんど同じように言われはしないか。
この映画でいちばん笑わされるのは「めがね猿」を捕えるトリックである。揶子の実の殻に穴をあけその中に少しの米粒を入れたのを繩で縛って、その繩の端を地中に打ち込んだ杭につないでおく。猿がやって来て片手を穴に突っ込んで米を握ると拳が穴につかえて抜けなくなる。逃げれば逃げられる係蹄に自分で一生懸命につかまって捕われるのを待つのである。
ごちそうに出した金米糖のつぼにお客様が手をさし込んだらどうしても抜けなくなったのでしかたなく壺をこわして見たら拳いっぱいに欲張って握り込んでいたという笑話がある。こんな人間はまず少ないであろうが、これとよく似た係蹄に我れとわが手にかかって人の虜になり生き恥をさらす人は実に数え切れないほど多数である。「めがね猿」ばかりを笑うわけにはゆかないのである。
大蛇が豚を一匹丸のみにして寝ている。「満腹」という言語では不十分である。三百パーセントか四百パーセントの満腹である。からだの直径がどう見ても三四倍になっている。他の動物の組織でこんなに伸長されてそれで破裂しないものがあろうとはちょっと思われないようである。もっとも胎生動物の母胎の伸縮も同様な例としてあげられるかもしれないが、しかしこの蛇のように僅少な時間にこんなに自由に伸びるのは全く珍しいと言わなければなるまい。これにはきっと特別な細胞や繊維の特異性があるに相違ないが、ちょっとした動物学の書物などには、こうしたいちばんわれらの知りたいようなおもしろいことが書いてないようである。
主人公のバック氏が傘蛇に襲われ上着を脱いでかぶせて取り押える場面がある。この場合は柔よく柔を制すとでもいうべきである。さすがの蛇もぐにゃぐにゃした上着ではちょっとどうしていいか見当がつかないであろう。この映画ではまた金網で豹や大蛇をつかまえる場面もある。網というものは上着以上にどうにもしようのない動物の強敵であるらしい。全く運命の網である。天網という言葉は実にうまい言葉を考えついたものである。押し破ろうとして一方を押せば、押したほうは引っ込んで反対側が自分をしめつける。
大蛇が箱から逃げ出す場面で猿や熊の恐怖した顔のクローズアップを見せる。あの顔がよくできている。これに反して傘蛇に襲われた人間の芝居がかりの表情はわざとらしくておかしく、この映画の中でいちばんまずい場面である。わが国の映画界のえらいスター諸君もちとあの猿や熊の顔を見学し研究するといい。
七 漫画の犬
このごろ見た漫画映画の内でおもしろかったのはミッキーマウスのシリーズで「ワン公大あばれ」(プレイフル・プルートー)と称するものである。その中で覚えず笑い出してしまった最も愉快な場面は、犬が蠅取り紙に悩まされる動作の写真的描写である。鼻の頭にくっついたのを吹き飛ばそうとするところは少し人間臭いが、尻に膠着したのを取ろうとしてきりきり舞いをするあたりなど実におもしろい。それがおもしろくおかしいのは「真実」がおもしろくおかしいからである。犬が結局窓の日蔽幕に巻き込まれてくるくる回る、そうなると奇抜ではあるがいっこうにおかしくない。それはもう真実でないからである。
漫画の主人公のねずみやうさぎやかえるなどは顔だけはそういう動物らしく描いてあるが、する事は人間のすることを少しばかり誇張しただけである。結局仮面をかぶった人間に過ぎない。しかしこの犬だけはいつでも正真正銘の犬である。犬を愛し犬の習性を深く究め尽くした作者でなければ到底表現することのできない真実さを表現している。
この犬を描くのと同じ行き方で正真正銘の人間を描くことがどうしてできないのか。それができたらそれこそほんとうの芸術としての漫画映画の新天地が開けるであろうと思われる。現在の怪奇を基調とした漫画は少しねらいがはずれているのではないか。実在の人間に不可能で、しかも人間の可能性の延長であり人間の欲望の夢の中に揺曳するような影像を如実に写し出すというのも一つの芸術ではあるが、そうした漫画は精神的にはわれわれに何物をも与えず、ただ生理的にむしろ廃頽的な効果を与えるのみではないかという疑いがある。
ドン・キホーテはここでいう人間の真実を描いた漫画映画の好題目である。しかし、せんだって上映されたシャリアピンの「ドン・キホーテ」はそういう意味ではむしろ不純なものであったかと思う。自分は今度見たミッキーマウスの中の犬を描いた筆法でドン・キホーテを描いた漫画映画の出現を希望したいと思うものである。
八 一本刀土俵入り
日本の時代ものの映画でおもしろいと思うものにはめったに出会わない。たいていは退屈でなければ冷や汗の出るようなものである。しかし近ごろ見た「一本刀土俵入り」だけはたしかに退屈せず気持よく見られた。
第一にはカットからカット、場面から場面への転換の呼吸がいい。たとえばおつたと茂兵衛とが二階と下でかけ合いの対話をするところでも、ほんのわずかな呼吸の相違でたまらなく退屈になるはずのがいっこう退屈しないで見ていられるのはこの編集の呼吸のよさによるのである。おつたがなんべんとなく茂兵衛を呼び止めるのがいったいならくどくしつこく感ぜられるはずであるが、ここでは呼び止める一度一度に心理的の展開があって情緒の段階的な上昇があるから繰り返しがかえって生きてくるのである。これはもちろん原作のいいためもあろうが、この映画のこの点のうまさはほとんど全く監督の頭の良さによるものと判断される。
けんかや立ち回りの場面も普通の映画では実に退屈に堪えないのが多いが、この映画のそうした場面は簡潔で要領がよくてかえってほんとうらしい。
林長二郎、岡田嘉子の二人も近ごろ見た他の映画における同じ二人とは見ちがえるように魂がはいっている。映画には、俳優が第二義で監督次第でどうにでもなるという言明の真実さが証明されている。端役までがみんな生きてはたらいているから妙である。
最後の場面でおつたが取り落とした錦絵の相撲取りを見て急に昔の茂兵衛のアイデンティティーを思い出すところは、あれでちょうど大衆向きではあろうが、どうも少しわざとらしい、もう一つ突っ込んだ心理的な分析をしてほしい。甦生した新しい茂兵衛が出現して対面してから、この思い出す瞬間までのカットの数が少しばかり多すぎるから思い出しがわざとらしくなるのではないか。あの間隔をもっとつめるか、それとも、もっと「あわただしさ」を表象するような他のカットの揷入で置換したらあの大切なクライマックスがぐっと引き立って来はしないかと思われる。
両国の花火のモンタージュがある。前にヤニングス主演の「激情のあらし」でやはり花火をあしらったのがあった。あの時は嫉妬に燃える奮闘の場面に交錯して花火が狂奔したのでずいぶんうまく調和していたが、今度のではそういう効果はなかったようである。しかし気持ちの転換には相当役に立っていた。
衣笠氏の映画を今まで一度も見たことがなかったが、今度初めて見てこの監督がうわさにたがわずけた違いにすぐれた頭と技倆の持ち主だということがわかったような気がする。将来の進展に期待したい。ただし、このトーキー器械の科学的機構は未完成である。言語が聞き取れないために簡潔な筋のはこびが不明瞭になる場所のあるのは惜しい。
九 カルネラ対ベーア
拳闘というものはまだ一度も実見したことがない。ただ、時々映画で予期以外の付録として見せられることはあるが、今までこの競争に対して特別の興味をよびさまされることはついぞなかったようである。しかし、近ごろ見たカルネラ対ベーアの試合だけは実におもしろいと思った。自分は拳闘については全くの素人で試合の規則もテクニックもいっさい知らないのであるが、自分が最初からこの映画でおもしろいと思ったのはこの二人の選手の著しくちがった個性と個性の対照であった。
カルネラは昔の力士の大砲を思い出させるような偉大な体躯となんとなく鈍重な表情の持ち主であり、ベーアはこれに比べると小さいが、鋼鉄のような弾性と剛性を備えた肉体全体に精悍で隼のような気魄のひらめきが見える。どこか昔日の力士逆鉾を思い出させるものがある。
最初の出合いで電光のごときベーアの一撃にカルネラの巨躯がよろめいた。しかし第三回あたりからは、自分の予想に反して、ベーアはだいたいにおいて常に守勢を維持してばかりいるように見えた。カルネラはこれに対して不断に攻勢を取って、単調な攻撃をほぼ一様なテンポで繰り返しているように思われた。なんとなく少しあせりぎみで、早く片を付けようとして結末を急いでいるらしく自分には思われた。ちょっと見たところでは、ベーアのほうは負けかかって逃げ回っているようにも見られた。
絶えずあとしざりをしているものを追いかけて突くのでは、相対速度の減少のために衝撃が弱められる、これに反して向かって来るのを突くのではそれだけの得がある、という事は力学者を待たずとも見やすい道理であるが、ベーアは明らかにこれを利用して敵の攻撃を緩和し、また敵の運動量を借りて自分の衝撃を助長しているように見えた。カルネラはそんなことなどは問題にしないと見えて絶えず攻勢を持続するのはよいが、やみなしに中庸な突きを繰り返しているのは、仕事の経済から見ても非常に能率の悪いしかたで、無益の動作に勢力をなしくずしに浪費しているように見えるのであった。ベーアはできるだけエネルギーを節約し貯蓄しておいて、稀有な有利の瞬間をねらいすまして一ぺんに有りったけの力を集注するという作戦計画と見られた。十回目あたりからベーアのつけていた注文の時機が到来したと見えて猛烈をきわめた連発的打撃に今までたくわえた全勢力を集注するように見え、ようやく疲れかかったカルネラの頽勢は素人目にもはっきり見られるようになった。
第十一回目のラウンドで、審判者はTKOの判定を下してベーアの勝利となったが、素人がこの映画を見ただけでは、どちらもまだ何度でも戦えそうに見え、最後に気絶して起きられなくなるようなところはこの映画では見られなかった。
とにかく体力と知力との戦いとして見るときに、自分のような素人にもこの勝負の特別な興味が感ぜられるのであった。
カルネラは体重一一九キロ身長二・〇五メートル、ベーアは九五キロと一・八八メートルだそうで、からだでは到底相手になれないのである。
しかし闘技中にカルネラは前後十二回床に投げられた。そのうちの一回では踝をくじかれ、また鼻をも傷つけられ、その上に顔じゅう一面「パルプのように」ふくれ上がり、腹や脇腹にはまっかな衝撃の痕を印していたそうである。
マクス・ベーアはサンフランシスコ居住のユダヤ系の肉屋だそうである。この「ユダヤ種」であることと「肉屋」であることに深い意味があるような気がする。
六万の観客中には、シネマ俳優としてのベーアの才能と彼のいろいろなセンチメンタル・アドヴェンチュアとを賛美する一万の婦人がいてはなやかな喝采を送ったそうである。
友人たちとこの映画のうわさをしていたとき、居合わせたK君は、坊間所伝の宮本武蔵対佐々木巌流の試合を引き合いに出した。武蔵は約束の時間を何時間も遅刻してさんざんに相手をじらしたというのである。武蔵もまたどこかユダヤ人のような頭の持ち主であったのかもしれない。
十 「只野凡児」第二編
凡児の勤めている会社がつぶれて社長が失踪したという記事の載った新聞を、電車の乗客があちらこちらで読んでいる。それが凡児の鼻の先に広げられているのに気がつかず、いつものようにのんきに出勤して見ると、事務室はがら明きで、ただ一人やま子がいる。そこへ人夫が机や椅子を運び出しに来る。
ここらの呼吸はたいそういい。しかし、おかしいことには、これと同日同所で見せられたアメリカ映画「流行の王様」に、やはり同様に破産した事務所の家具が運び出される滑稽な光景がある。人夫がヒーローの帽子を失敬しようとする点まで全く同工異曲である。これは偶然なのか、それともプログラム編成者の皮肉なのか不明である。
凡児が父の「のんきなトーさん」と「隣の大将」とを上野駅で迎える場面は、どうも少し灰汁が強すぎてあまり愉快でない。しかし、マダムもろ子の家の応接間で堅くなっていると前面の食堂の扉がすうと両方に開いて美しく飾られたテーブルが見える、あの部分の「呼吸」が非常によくできている。これは、映画に特有な「呼吸のおもしろみ」であって、分析的には説明のしにくいものである。
食卓での四人それぞれの表情もわりに自然で気持ちがいい。この映画でいちばん成効しているのはおそらくこの前後の少しのところである。しかし、凡児一行が大島へ行ってからはどうも失敗である。全体が冗長すぎるばかりでなく、画面の推移の呼吸がちっとも生きていない。
もろ子がかんしゃくを起こして猿を引っぱたくところだけが不思議に生きている。前編でも同じ人が弟の横顔をぴしゃりとたたくところも同様に、ちゃんと生きた魂がはいっている。
隣の大将が食卓でオール・ドゥーヴルを取ってから上目で給仕の女中の顔をじろりと見る、あの挙動もやはり「生きてはたらきかける」ものをもっている。
生きているというのはつまり自然の真の一相の示揚された表情があるということであろう。こういう箇所に出くわすと自分はほっとして救われた気がするのであるが、多くの日本映画には、こうした気のする場面がはじめからおしまいまで一つもないのは決して珍しくないのである。
十一 荒馬スモーキー
この映画も監督は馬に芝居をさせているつもりでいるが、馬のほうでは、あたりまえのことながら、ちっとも芝居気はなくて始終真剣だから、そう思ってこの馬のヒーローを見ていると実に愉快である。子馬が生まれて三日ぐらいだという場面で、母馬の乳をしゃぶりながらかんしゃくを起して親の足をぽんぽんける、そのやんちゃぶりや、また、けられても平気ですましている母の態度や、実に涙が出るほどかわいくおもしろい真実味があふれている。
悍馬を慣らす顛末は、もちろん編集の細工が多分にはいってはいるであろうが、あばれるときのあばれ方はやはりほんとうのあばれ方で寸毫の芝居はないから実におもしろい。
この映画を見て、自分ははじめて悍馬の美しさというものを発見したような気がする。馬を稽古する人が上達するに従ってだんだん荒い馬を選ぶようになる心理もいくらかわかったような気がする。何よりも荒馬のいきり立って躍り上がる姿にはたとえるもののない「意気」の美しさが見られるのである。
この映画の「筋」はわりにあっさりしているので「馬」を見るのに邪魔にならなくていい。それで、この映画は、まだ馬というものを知らない観客に、この不思議な動物の美しさとかわいさをいくらかでも知らせる手引き草として見たときには立派に成効したものと言ってもいいかと思われるのである。
十二 忠犬と猛獣
これも動物の芝居を見せる映画であるが、シェパードの芝居は象や馬の芝居に比べて、あまりにうま過ぎ、あまりに人間の芝居に接近し過ぎるので、感心するほうが先に立って純粋な客観的の興味はいくぶんそのために減ぜられるような気もする。
この映画の編集ぶりは少ししまりがないようである。同じような場面の繰り返しが多すぎて倦怠を招く箇所が少なくない。
この映画のストーリーの原作では、たしか、最後に忠犬が猛獣を倒して自分もその場で命をおとすようなことになっているかと思う。それが映画ではハッピー・エンドになっている。たぶんこうしなければ一般観客のうけが悪いからであろう。しかしこのことは映画と小説との区別に関して一つの根本的な問題を暗示する。
小説では忠犬を「殺す」ほうが得策であるのに映画では殺さないほうが得策だとすれば、それはいったいどこからそういう差別が生じるかということである。そこに小説と映画との本質的な差別の目標の一つを探り出す糸口がありはしないか。
一つには、小説と映画では相手にする大衆の素質、顧客の層序において若干の異同のあることも事実であろう。しかしそれよりも大切なことは、映画の写し出す視覚的影像の喚起する実感の強度が、文字の描き出す心像のそれに比較して著しく強いという事実がこの差別を決定する重要な因子になるのではないかと思われる。
忠犬の死を「読む」だけならば、美しい感傷を味わうだけのゆとりがある。しかしそれを「見せられる」のでは、刺激があまりに強すぎて、もはや享楽の領域を飛び出してしまう恐れがあるのではないかと思われる。
十三 血煙天明陣
この映画は途中から見た。ずいぶん退屈な映画であった。人間が人間を追っ駆け回す場面、人と人とが切り合う場面が全映画の長さの少なくも五割以上を占めているような気持ちがした。
こういう映画の剣劇的立ち回りではいつでも実に不思議な一種特別の剣舞の型を見せられるような気がする。それは、できるだけ活発に縦横無尽に刀刃を振り回して、しかもだれにもけがをさせないという巧妙な舞踊を見せてくれる。それからまたたいていの人間なら疲れ果てて、へたばってしまうであろうと思われるような超人的活動を、望み次第にいくらでも続けて見せてくれるのである。映画でなければできないことである。
子供の時分に老人から聞いた話によると、ほんとうの真剣勝負というものはこれとはまるでちがうものだそうである。にらみ合う時間ばかり長くて、刀の先がちょっとさわったと思うと両方一度にぱっと後ろへ飛びしざってまたにらみ合う。にらみ合うだけでだんだん呼吸がせわしくなって肩息になるのだという。聞いただけでもすごくなる。
この種の映画でよくある場面は一群の人間と他の一群の人間とが草原や川原で追いつ追われつする光景をいろいろの角度からとったものである。人間が蟻か何かのように妙にちょこちょこと動くのが滑稽でおもしろい。
千篇一律で退屈をきわめる切り合いや追っ駆けのこんなに多く編入されているわけが自分には了解できない。あるいは、これがいちばん費用がかからないためかとも思う。
こういう時代物の映画で俳優たちのいちばんスチューピッドに見えるのは、彼らが何かひとかどの分別ありげな思い入れをする瞬間である。深謀遠慮のある事を顔に出そうとすればするほどスチューピッドになるのは当然のことである。
日本の時代物映画も、もうそろそろなんとか頭脳の入れ換えをしたらどうかと思う。
十四 食うか食われるか
亀と亀とが角力をとって負けたほうが仰向けに引っくり返される。引っくり返されたが最後もう永久に起き上がる事ができないので乾干しになるそうである。猛獣の争闘のように血を流し肉を破らないから一見残酷でないようでありむしろ滑稽のようにも見えるが、実は最も残忍な決闘である。精神的にこれとよく似た果たし合いは人間の世界にもしばしばあるが、不思議なことにはこういう種類の決闘は法律で禁じられていない。
亀と王蛇とが行き会ってもお互いに知らん顔をしている。蛇にとっては亀は石ころと同様であり、亀にとっては蛇は動く棒切れとえらぶところがないらしい。二つの動物の利害の世界は互いに切り合わない二つの層を形成している。従って敵対もなければ友愛もない。
王蛇とガラガラ蛇との二つの世界は重なり合っている。そこで食うか食われるかの二つのうちの一つしか道がない。
この二つの蛇の決闘は指相撲を思い出させる。王蛇のほうの神経の働く速度がガラガラ蛇のそれよりもほんの若干だけ早いために、前者の口嘴が後者のそれを確実に押えつけるものと見える。人間の撃剣や拳闘でも勝負を決する因子は同じであろうが、人間には修練というものでこの因子を支配する能力があるのに動物はただ本能の差があるだけであろう。
王蛇がいたちのような小獣と格闘するときの身構えが実におもしろい見ものである。前半身を三重四重に折り曲げ強直させて立ち上がった姿は、肩をそびやかし肱を張ったボクサーの身構えそっくりである。そうして絶えずその立ち上がった半身を左右にねじ曲げて敵のすきをねらう身ぶりまでが人間そのままである。これはもちろん人間のまねをしているのではない、人間も蛇のまねをしているのではない。ただ普遍な適用性をもつ力学が無意識に合目的に応用されているだけであろうと思われる。「自然の設計」に機械的原理の応用されている一例としておもしろい見ものである。
ガラガラ蛇が横ばいをするのも奇妙である。普通の蛇ではこんな芸当はできないのではないかと思う。これができるとできないとで決闘の際に大きなハンディキャップの開きがありそうである。運動の「自由度」が一つ増すからである。
ペリカンのひながよちよち歩いては転倒する光景は滑稽でもあり可憐でもある。鳥でも獣でも人間でも子供にはやはり子供らしい共通の動作のあることが、いつもこの種類の映画で観察される。たよりない幼いものに対する愛憐の情の源泉がやはり本能的なものだということが、よくのみ込めるような気がする。
こういう映画はいくらあっても決して有り過ぎる心配のないものであろう。編集の巧拙などはほとんど問題にしなくてもよいかと思われる。
十五 吼えろヴォルガ
「燃え上がるヴォルガ」(俗名、吼えろヴォルガ)を見た。映画はそれほどおもしろいとは思わなかったが、その中でトロイカの御者の歌う民謡と、営舎の中の群集の男声合唱とを実に美しいと思った。もっと聞きたいと思うところで容赦なく歌は終わってしまう。
「ハイデルベルヒの学生歌」(俗名、若きハイデルベルヒ)でも窓下の学生のセレネードは別として、露台のビア・ガルテンでおおぜいの大学生の合唱があって、おなじみのエルゴ・ヴィヴァームスの歌とザラマンダ・ライベンの騒音がラインの谷を越えて向こうの丘にこだまする。
ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということは実にうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショがあると言えば、それはある。しかし上記のトーキーに出て来る二つの合唱だけに比べても実になんという貧しさであろう。
これはトーキー作者の問題であると同時に、国民全体の音楽的生活に関する問題でもある。
十六 ある夜の出来事
ゲーブルとコルベールの「ある夜の出来事」は、いかにもアメリカ映画らしい一種特別なおもしろみをもっている。この映画の中で、自分の座席の付近の観客、ことに婦人の観客がさもおもしろそうにおかしそうにまたうれしそうに笑い出した場面が二つある。一つは雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面、もう一つは結婚式の祭壇に近づきながら肝心の花嫁の父親が花嫁に眼前の結婚解消をすすめる場面である。
婦人の観客は実にうれしそうに笑っていたようである。こういうアメリカ映画が日本の婦人の思想に及ぼす蓄積的な影響は存外ばかにならないであろうという気がした。
「映画と道徳」という一つの大きなテーマが暗示される。この映画や、それからたとえばせんだっての「人生の設計」なども、この大きな問題を考究するときの資料になるべきものであろう。
映画の世界の道徳は人間の世界の道徳とは必ずしも一致しなくてもよい。それは世界がちがうからである。しかし、一般の観客にはこの二つの世界の相違が明白に意識されていない。それで、映画の世界で可能なすべての事が人間の世界でも同程度に可能だというような錯覚を起こすのは自然の傾向である。
しかしまた、現在映画の世界にのみ存する事象が将来現世界に可能とならないという証拠もないとすると、現在の映画の夢は将来の現実の実相を導き出す先駆となり前兆とならないとも限らない。ここに重大な問題の骨子があるような気がするのである。これはぜひともしかるべき人々の慎重な考究にまつべきではないかと思う。
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※「フラッシ」と「フラッシュ」の混在は、底本の通りとしました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年4月28日作成
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