映画雑感(2)
寺田寅彦
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制服の処女
評判の映画「制服の処女」を一見した。最初に、どこかの柱廊前に並んだ、ものはなんだかわからないが、何かしら勇ましくたくましい男性的彫像などが現われ、それから男性的なラッパの音に導かれて兵隊の行列が現われる。それだけがこの映画における男性の登場者のすべてである。この、対照のために插入されたかと思われる兵隊の行列が女学生の行列に切り換えられてからは、もうずっと最後まで男の役者は全く一人も現われない。これはたしかに珍しい映画であるに相違ない。娘たちはこの学校へいれられたが最後みんなおそろいの棒縞の制服を着せられて五か月たつまでは一回の外出も許されずに、厳重な舎監のいわゆるプロイセン的な規律のもとに教育を受けなければならないのである。プロイセン軍国的訓練のために生徒たちは「特におなかのすく日曜」をこわがらなければならないのである。
こういう環境におおぜいの若い娘たちを置いたら彼女たちはいかに反応するか。そこにいかなる現象が起こるであろうか。こういう問題を提出し、その解答を得るために一つのエキスペリメントを行なったのがすなわちこの映画であるかとも思われる。科学者がある物質を強い電場や磁場に置いてみたり、ある昆虫を真空や高圧の中にいれてみたりする。それと同じような意味での実験をした、その実験の結果の報告がこの映画であるというふうにも見られる。あるいは、もう少し厳密にいえば、かりにそういう実験をしたらこういう結果が起こるでもあろうかという、一種の思考実験の結果の発表であるともいわれるであろう。そういう見方からすれば、この映画は、女子教育家や女児の心理の研究者にとってはなはだ特殊な専門的興味のあるものであろう。
そういうものとしてこの映画がはたして成功したものであるかどうかを判断するのは、残念ながら自分などにはむずかしい、おそらくすべての男子にはむずかしいであろうと思われる。しかしまた同じ理由からしてこの映画はすべての男性にとって別な意味で特殊な興味のあるものに相違ないのである。
不自由な環境によって生み出された不自然な現象の一つとして一人の女生徒マヌエラと一人の女教師フロイライン・フォン・ベルンブルヒとの間の不思議な関係が生じ、それがこの映画の演劇的な部分のおもなる骨子となっている。この葛藤に伴なう多くの美しい感傷の場面の連続によって観客の感興をつなぎつつ最後の頂点に導いて行く監督の腕前はそんなに拙であると思われないようである。しかしそういう劇的な脚色の問題とは離れて、前記の「実験」の意味からいうと、本筋のストーリーよりもあのおおぜいの女学生の集団の中に現われる若いドイツ女性のケックハイト、デルブハイトといったようなものの描写の中に若干の真実の表現があるようで、見方によってはむしろそのほうに興味を引かれ同時にいろいろの問題を暗示されるようである。
不自然な世界の中での自然な現象としては舎監やその助手のばあさんがある。自分の目にはこの二人のばあさんがもっとも理解しやすい「定型」として現われる。この二人の憎まれ役は、おそらく見ようによってはもっとも善良なる旧時代の残存者である。これに反してもっともわかりにくい存在はこの若く美しい生徒に慕われる女教師である。ひどく骨っぽく冷たいようにも見え、またひどく情熱的魅惑的にも見える。どこかブリギッテ・ヘルムに似たところのあるこの役者のこの配役にはなんとなくダヴィンチのモナリザを思わせる不可思議なものがある。少女マヌエラのほうは、理性よりも、情緒の勝った子供らしい、そうしてなんとなく夢を見ているような目と、なんとなくしまりの悪い口元のあたりにセンシュアルな影がある。それがこの劇の心理的内容を複雑にするに有効であるように見える。
「ひとで」
この映画と同時に有名なマン・レイの「海翻車」を見た。全体としては、正直にいって決して「おもしろい」ものではない。しかし、なにかしら、ほんとうにおもしろいものへの第一歩でありおぼつかない試みであるとはたしかに思われるものである。これはロベール・デスノという人の原詩を脚色したものだそうであるから、原詩をよく味わった人にはあるいはいくらかおもしろいかもしれないが、われわれにはそんな知らない原詩のある事がかえって鑑賞の邪魔になっているわけである。これで思い出すのは、いつかウーファの教育映画で本物の生きた「ひとで」のきわめて鮮明な大写しを見た、その「科学的なひとで」のほうにかえってはるかに美しく真実な詩があった。マン・レイの「ひとで」の中にも少しばかりこれに似た実写が插入されているが、前者とは比較にならぬほど美しからぬものに見えた。この「ひとで」はあまりに細工が過ぎているように思われる。もう少し自然な真実なものの適当な理解ある編集によって、もっともっと美しい詩が構成されてもいいはずである。真実でないものをいくらどう並べてみたところで美しくなりようがないと思うのである。
「貝がらと僧侶」もはなはだ不愉快な映画であった。脚色者があさはかな人間の知恵をもてあそぶに忙しいだけで、科学的に真実な、万人を無条件に納得させるような何物をも含んでいないからである。
「パリ─ベルリン」
これに反して「パリ─ベルリン」と名づけるナンセンス映画は近ごろ見たうちで比較的おもしろい愉快なものであった。もちろん、話の筋や役者の芸などは初めから問題にはならない。おもしろいのは主として編集の技巧から来る呼吸のおもしろさであると思う。たとえば拍手している多数の手がスクリーンの上に対角線状に並んで映る。それ自身としてはくだらないものである。これが插入の呼吸で実に不思議なおもしろいものに見えるのである。それからもう一つのおもしろみの原因は登場するキャストの選定によって現わされた人間の定型の真実さにある。たとえば友だちの名をかたってパリへ出かけるいたずら者が、自分の引き立て役に純ドイツ型の椋鳥を連れて行く、その椋鳥のタイプとか、パリ遊覧自動車の運転手とか案内者とか、ベデカと首っ引きで、シャンゼリゼーをシャンセライズと発音する英国老人とかいうのがそれである。オベリスクやエッフェル塔が空中でとんぼ返りをしたりする滑稽でも、要領がよいのでくすぐりに落ちずして自然に人のあごを解くようなところがある。
「制服の処女」とこの映画とを比べても実によくドイツ人の映画とフランス人の映画との対照がわかるような気がするのである。映画人としてもドイツ人はやはり「あたまが悪く」て、その結果として物事を理屈で押して行く。フランス人は理屈を詰めて行くのをめんどうくさがって「かん」の翼で飛んで行くのである。
「パリ祭」
このような感じをいっそう深くするものはルネ・クレール最近の作品「七月十四日」(パリ祭─この訳名は悪い)である。この映画も言わばナンセンス映画で、ストーリーとしては実にたわいないものである。しかし、アメリカ人のナンセンスとは全く別の種類に属するナンセンス芸術である。「猿蓑」や「炭俵」がナンセンスであり、セザンヌやルノアルの絵がナンセンスであり、ドビュシーやラベールの音楽がナンセンスであると同じような意味において立派なナンセンス芸術であるように思われる。
場面から場面への推移の「うつり」「におい」「ひびき」には、少しもわざとらしさのない、すっきりとして気のきいた妙味がある。これは俳諧の場合と同様、ほとんど説明のできない種類の味である。たとえばアンナが窓から町をへだてた向こう側のジャンの窓をながめている。細めにあいた戸のすきから女の手が出る。アンナがそれに注目する。窓が明いてコンシェルジの伯母さんが現われる。アンナが「そうか」といったような顔をする。文字で書けばたったこれだけの事である。これだけならば米国でもドイツでも日本でもいつでもできる仕事であると思われるかもしれない。しかし実際はこの場合の巧拙を決定するものはほんのわずかな呼吸である。画面連続の時間的分配を少しでも誤れば効果は全然別のものになるであろうと思われる。要するに「かん」だけの問題である。
ナンセンスの中にのみほんとうの真実が存するという人がある。このナンセンス映画の中にもパリ人というものの真実な描写が多少の誇張の衣を着て現われているであろう。監督によって選ばれたいろいろの「タイプ」によって、それが表現されているのである。門番のおばさんでも、気の変な老紳士でも、メーゾン・レオンの亭主でも、悪漢とその手下でも、また町のオーケストラでも、やっぱり縦から見ても横から見てもパリの場末のそれらのタイプである。
レオンの店をだされたアンナが町の花屋の屋台の花をぼんやりながめる。花屋のおばさんが花束をさしだす。我れに帰って歩きだす。そういう些細な場面にもやはり些細の真実の描写がある。
気の変な老紳士は観客を笑わせる。踊り場でピストルをひねくり回し、それを取り上げられて後にまた第二のピストルをかくしに探るところなどは巧みに観客を掌上に翻弄しているが、ここにも見方によればかなりに忠実な真実の描写があり解剖がありデモンストラチオンがある。やはり一つのおもしろいエキスペリメントを行なって見せているのである。
最後の場面で、花売りの手車と自動車とが先刻衝突したままの位置で人けのない町のまん中に、降りしきる驟雨にぬれている。あの光景には実に言葉で言えない多くの内容がある。これもその前の弥次のけんかと見物の群集とがなかったら、おそらくなんの意味もないただの写真としか見えないであろう。やはりフランス人には俳諧がある。
一編の最後に光の消えたスクリーンの暗やみの中から響く、甘い美しい音楽は、なんとなく「新内の流し」とでもいったような、パリの場末の宵やみを思わせるものである。作曲者はちがうそうであるのに「パリの屋根の下」の歌のメロディーとどこか似たメロディーがところどころに編み込まれている。その両方に共通なものがおそらく「パリの巷の声」であろう。
フランス語がわからなくて残念であるが、考えようによっては、それがわからないために、それのわかる人にはわからないおもしろみもあるであろう。たとえ言葉はわかっても結局パリっ子でない日本人が見たパリっ子はどうしてもパリっ子の見たパリっ子とは同じではないからである。かえって、下手な活弁を労したり、不つりあいな日本文字のサイドタイトルなどをつけられるよりも、ただそのままにわからぬ言葉を聞くほうがはるかにパリの真実、日本人の見たパリの真実がよくわかるのではないか。それがわかるようにするところに作者の人知れぬ苦心があるのではないか。
「人生謳歌」
グラノフスキーの「人生謳歌」というのを見せてもらった。原名は「人生の歌」というのであるが、自分の見たところではどうも人生を謳歌したものとは思われない。むしろやはり一種のトーテンタンツであるような気がする。実際始めのほうの宴会の場には骸骨の踊りがあるのである。胎児の蝋細工模型でも、手術中に脈搏が絶えたりするのでも、少なくも感じの上では「死の舞踊」と同じ感じのもののように思われる。終局の場面でも、人生の航路に波が高くて、舳部に砕ける潮の飛沫の中にすべての未来がフェードアウトする。伴奏音楽も唱歌も、どうも自分には朗らかには聞こえない。むしろ「前兆的」な無気味な感じがするようである。
海岸に戯れる裸体の男女と、いろいろな動物の一対との交錯的羅列的な編集があるが、すべてが概念的の羅列であって、感じの連続はかなりちぐはぐであり、従って、自分のいわゆる俳諧的編集の場合に起こるような愉快な感じは起こらない。人間も動物も同じものに見えてくることも自分にはあまり愉快でない。
動物のように戯れ、動物のように子供を生むだけの事ならば人生は謳歌すべきものとは自分には思われない。
作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快な所もあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。
この種類の映画がこの方向に進歩したらおしまいにはドイツの古典音楽のようなものができるという可能性があるかもしれない。そういう意味ではこの映画は大いに研究に値するものかもしれない。しかしこういう行き方では決してドビュシーの音楽のようなものはできないであろう。それはやはりフランス人に待つほかはない。
「七月十四日」のすぐあとでこの「人生の歌」を見たためにこういう対照を特に強く感じたのかもしれない。映画の内容のモンタージュが問題となるように、見るべき映画のプログラムのモンタージュもやはり問題になるようである。
ともかくも「人生の歌」には理知的興味が勝っているので、そういうものを要求する観客にはおもしろいかもしれない。そういう観客には「七月十四日」はかえってはなはだ空疎なものに見えるかもしれない。それでこの二つの映画を見せて、そのいずれを選ぶかによって観客の定型を二つに分けることもできそうである。解析型と直観型あるいは構成派と印象派といったような二つに分けられはしないか。そう簡単にはゆかないまでも、少なくもこういうふうに考えてみることによってこの二つの映画の了解を助けることにはなるであろうと思われる。
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
初出:「帝国大学新聞」
1933(昭和8)年3月
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年4月9日作成
2009年9月15日修正
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