夏目漱石先生の追憶
寺田寅彦
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熊本第五高等学校在学中第二学年の学年試験の終わったころの事である。同県学生のうちで試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪していわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第するとそれきりその支給を断たれる恐れがあったのである。
初めて尋ねた先生の家は白川の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町であった。「点をもらいに」来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の陳述を黙って聞いてくれたが、もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたからである。その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳い句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、その夏休みに国へ帰ってから手当たり次第の材料をつかまえて二三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。東向きの、屋根のない門をはいって突き当たりの玄関の靴脱ぎ石は、横降りの雨にぬれるような状態であったような気がする。雨の日など泥まみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二室が共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣の向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書斎であったらしい。「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側にかかっていた。
先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅のようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規の所へ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分のほかに先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江、平川草江、蒲生紫川(後の原医学博士)等の諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。
先生のお宅へ書生に置いてもらえないかという相談を持ち出したことがある。裏の物置きなら明いているから来てみろと言って案内されたその室は、第一、畳がはいであってごみだらけでほんとうの物置きになっていたので、すっかりしょげてしまって退却した。しかし、あの時、いいからはいりますと言ったら、畳も敷いてきれいにしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのであった。
そのころの先生の親しかった同僚教授がたの中には狩野亨吉、奥太一郎、山川信次郎らの諸氏がいたようである。「二百十日」に出て来る一人が奥氏であるというのが定評になっているようである。
学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教わった。松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたそうであるが、自分らの場合には、それとは反対にむしろ達意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読して行って、そうして「どうだ、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと、文中の一節に関して、いろいろのクォーテーションを黒板へ書くこともあった。試験の時に、かつて先生の引用したホーマーの詩句の数節を暗唱していたのをそっくり答案に書いて、大いに得意になったこともあった。
教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった。当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。
科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような格好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采であった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに昼寝している人の姿を簡単な墨絵にかいて、それに俳句が一句書いてあった。なんとかで「たぬきの昼寝かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった。このころからやはり昼寝の習慣があったと見える。
高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町に病床の正岡子規子をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬し合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった。
先生が洋行するので横浜へ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき同行の芳賀さんと藤代さんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶を送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側にもたれて身動きもしないでじっと波止場を見おろしていた。船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンケチを当てたのを見た。「秋風の一人を吹くや海の上」という句をはがきに書いて神戸からよこされた。
先生の留学中に自分は病気になって一年休学し、郷里の海岸で遊んでいたので、退屈まかせに長たらしい手紙をかいてはロンドンの先生に送った。そうして先生からのたよりの来るのを楽しみにしていた。病気がよくなって再び上京し、まもなく妻をなくして本郷五丁目に下宿していたときに先生が帰朝された。新橋駅(今の汐留)へ迎いに行ったら、汽車からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見つめていたが、やがて手をはなして不思議な微笑をされたことを思い出す。
帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓していた。自分のたずねた時は大きな木箱に書物のいっぱいつまった荷が着いて、土屋君という人がそれをあけて本を取り出していた。そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと言われたので、レイノルズの女の子の絵やムリリョのマグダレナのマリアなどをもらった。先生の手かばんの中から白ばらの造花が一束出て来た。それはなんですかと聞いたら、人からもらったんだと言われた。たしかその時にすしのごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかったが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻にはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。先生が海老を残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きのしてあったのは、この時のことらしい。
千駄木へ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った。そのころはやはりまだ英文学の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほどにぎやかでなかったが、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。きょうは忙しいから帰れと言われても、なんとか、かとか勝手な事を言っては横着にも居すわって、先生の仕事をしているそばでスチュディオの絵を見たりしていた。当時先生はターナーの絵が好きで、よくこの画家についていろいろの話をされた。いつだったか、先生がどこかから少しばかりの原稿料をもらった時に、さっそくそれで水彩絵の具一組とスケッチ帳と象牙のブックナイフを買って来たのを見せられてたいそううれしそうに見えた。その絵の具で絵はがきをかいて親しい人たちに送ったりしていた。「猫」以後には橋口五葉氏や大塚楠緒子女史などとも絵はがきの交換があったようである。象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった。時代をつけると言ってしょっちゅう頬や鼻へこすりつけるので脂が滲透して鼈甲色になっていた。書斎の壁にはなんとかいう黄檗の坊さんの書の半折が掛けてあり、天狗の羽団扇のようなものが座右に置いてあった事もあった。セピアのインキで細かく書いたノートがいつも机上にあった。鈴木三重吉君自画の横顔の影法師が壁にはってあったこともある。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛しながら、これは杉の葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹が好きであり、レストーランへいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。
「吾輩は猫である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章会が時々先生の宅で開かれるようになった。先生の「猫」のつづきを朗読するのはいつも高浜さんであったが、先生は時々はなはだきまりの悪そうな顔をして、かたくなって朗読を聞いていたこともあったようである。
自分が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見ていたらレヴェレンド・ハウトンという人の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「猫」の寒月君の講演になって現われている。高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。
高浜、坂本、寒川諸氏と先生と自分とで神田連雀町の鶏肉屋へ昼飯を食いに行った時、須田町へんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「猫」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われているのである。
上野の音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた。ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウ〳〵〳〵というかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書生っぽいところが多分にあったような気がする。
自分の白いネルの襟巻がよごれてねずみ色になっているのを、きたないからと言って女中にせんたくさせられたこともあったが、とにかく先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで、服装にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたものである。「君、服を新調したから一つ見てくれ」と言われるようなこともあった。服装については自分は先生からは落第点をもらっていた。綿ネルの下着が袖口から二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった。それから、自分が生来のわがまま者でたとえば引っ越しの時などでもちっとも手伝わなかったりするので、この点でもすっかり罰点をつけられていた。それからTは国のみやげに鰹節をたった一本持って来たと言って笑われたこともある。しかし子供のような心で門下に集まる若い者には、あらゆる弱点や罪過に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなりに敏感であったことは先生の作品を見てもわかるのである。
「虞美人草」を書いていたころに、自分の研究をしている実験室を見せろと言われるので、一日学校へ案内して地下室の実験装置を見せて詳しい説明をした。そのころはちょうど弾丸の飛行している前後の気波をシュリーレン写真にとることをやっていた。「これを小説の中へ書くがいいか」と言われるので、それは少し困りますと言ったら、それなら何か他の実験の話をしろというので、偶然そのころ読んでいたニコルスという学者の「光圧の測定」に関する実験の話をした。それをたった一ぺん聞いただけで、すっかり要領をのみ込んで書いたのが「野々宮さん」の実験室の光景である。聞いただけで見たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである。これも日本の文学者には珍しいと思う。
これに限らず一般科学に対しては深い興味をもっていて、特に科学の方法論的方面の話をするのを喜ばれた。文学の科学的研究方法といったような大きなテーマが先生の頭の中に絶えず動いていたことは、先生の論文や、ノートの中からも想像されるであろうと思う。しかし晩年には創作のほうが忙しくて、こうした研究の暇がなかったように見える。
西片町にしばらくいて、それから早稲田南町へ移られても自分は相変わらず頻繁に先生を訪問した。木曜日が面会日ときまってからも、何かと理屈をつけては他の週日にもおしかけて行ってお邪魔をした。
自分の洋行の留守中に先生は修善寺であの大患にかかられ、死生の間を彷徨されたのであったが、そのときに小宮君からよこしてくれた先生の宿の絵はがきをゲッチンゲンの下宿で受け取ったのであった。帰朝して後に久々で会った先生はなんだか昔の先生とは少しちがった先生のように自分には思われた。つまりなんとなく年を取られたというのでもあろう。かえるの声のまねをするような先生はもういなかった。昔かいた水彩画の延長と思われる一流の南画のようなものをかいて楽しんでおられた。無遠慮な批評を試みると口を四角にあいて非常に苦い顔をされたが、それでも、その批評を受けいれてさらに手を入れられることもあった。先生は一面非常に強情なようでもあったが、また一面には実に素直に人の言う事を受けいれる好々爺らしいところもあった。それをいいことにして思い上がった失礼な批評などをしたのは済まなかったような気がする。いつかおおぜいで先生を引っぱって浅草へ行ってルナパークのメリーゴーラウンドに乗せたこともあったが、いかにも迷惑そうではあったが若い者の言うなりになって木馬にのっかってぐるぐる回っていた。そのころよく赤城下の骨董店をひやかして、「三円の柳里恭」などを物色して来ては自分を誘ってもう一ぺん見に行かれたりした。京橋ぎわの読売新聞社で第一回のヒューザン会展覧会が開かれたとき、自分が一つかなり気に入った絵があって、それを奮発して買おうかと思うという話をしたら、「よし、おれが見てやる」と言って同行され、「なるほど。これはいいから買いたまえ」といわれたこともあった。
晩年には書のほうも熱心であった。滝田樗陰君が木曜面会日の朝からおしかけて、居催促で何枚でも書かせるのを、負けずにいくらでも書いたそうである。自分はいつでも書いてもらえるような気がしてついつい絵も書も一枚ももらわないでいたら、いつか先生からわざわざ手紙を添えて絹本に漢詩を書いたのを贈られた。千駄木時代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見になったのであったが、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴した。
謡曲を宝生新氏に教わっていた。いつか謡って聞かされたときに、先生の謡は巻き舌だと言ったら、ひどいことを言うやつだと言っていつまでもその事を覚えておられた。
いつか早稲田の応接間で先生と話をしていたら廊下のほうから粗末な服装をした変な男が酔っぱらったふうでうそうそはいって来て先生の前へすわりこんだと思うと、いきなり大声で何かしら失礼な口調でののしり始めた。あとで聞くとそれはM君が連れて来た有名な過去の文士のOというのであった。連れて来たM君はこの意外の光景にすっかり面食らって立ち往生をしたそうであるが、その時先生のこの酔漢に対する応答の態度がおもしろかった。相手の酔っぱらいの巻き舌に対して、どっちも負けずに同じような態度と口調で、小気味よくやりとりをしていた。負けぬ気の生粋の江戸ッ子としての先生を、この時目前に見ることができたような気がするのであった。
先生最後の大患のときは、自分もちょうど同じような病気にかかって弱っていた。江戸川畔の花屋でベコニアの鉢を求めてお見舞いに行ったときは、もう面会を許されなかった。奥さんがその花を持って病室へ行ったら一言「きれいだな」と言われたそうである。勝手のほうの炉のそばでM医師と話をしていたら急に病室のほうで苦しそうなうなり声が聞こえて、その時にまた多量の出血があったようであった。
臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。
しかし自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がするのである。
いろいろな不幸のために心が重くなったときに、先生に会って話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。不平や煩悶のために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧となり医薬となるのであった。こういう不思議な影響は先生の中のどういうところから流れ出すのであったか、それを分析しうるほどに先生を客観する事は問題であり、またしようとは思わない。
花下の細道をたどって先生の門下に集まった多くの若い人々の心はおそらく皆自分と同じようなものであったろうと思われる。それで自分のここに書いたこの取り止めもない追憶が、さもさも自分だけで先生を独占していたかのように読者に見えるとすれば、それはおそらく他の多くの門下生の各自の偽らぬ心持ちを代表するものとして了解しゆるしてもらわれるべきだと思う。そういう同門下の人たちと先生没後の今日、時おり何かの機会で顔を合わせるごとに感じる名状し難いなつかしさの奥には、千駄木や早稲田の先生の家における、昔の愉快な集会の記憶が背景となって隠れているであろう。
記憶の悪い自分のこの追憶の記録には、おそらく時代の錯誤や、事実の思い違いがいろいろあるであろうと思う。ただ自分の主観の世界における先生のおもかげを、自分としてはできるだけ忠実に書いてみたつもりであるが、学者として、作家として、また人間としての先生の面影を紹介するものとしては、あまりにも零細な枝葉の断片に過ぎないものである。これについてはひたすらに読者ならびに同門下諸賢の寛容を祈る次第である。
底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
1993(平成5)年2月5日第59刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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