貴種誕生と産湯の信仰と
折口信夫



     一


貴人の御出生といふ事について述べる前に、貴人の誕生、即「みあれ」といふことばの持つ意味から、先づ考へ直して見たいと思ふ。

私は、まづ今日の宮廷の行事の、固定した以前の形を考へさせて貰はうと思ふ。有職故実の学者たちの標準は、主として、平安朝以来即、儒風・方術の影響を受けた後の様式にある様である。尤、此期に入つて、記録類が殖えて来たからではあるが、私は前期王朝のまだ其々の伝承に、信仰的根拠の記憶せられ尊奉せられてゐた時代の、固定しきらない俤が窺ひたいのである。さうして生活古典たる宮廷の行事に、何分かの神聖感と、懐しみとを加へることが、出来さうにひそかに考へてゐる次第である。

みあれは「ある」と云ふ語から来たものである。「ある」は往々「うまれる」の同義語の様に思はれてゐるが、実は「あらはれる」の原形で、「うまれる」の敬語に転義するのである。一体、神或は貴人には、誕生といふことはなく、何時も生き、又何時も若い。たゞ時々に休みがあり、又休みから起きかへつて来るのである。此意味は、天子並びに其他の貴い職分及び地位は、永久不変の存在であるから、人格として更迭はあつても、神格としては死滅といふことはない。昔の天皇或は貴人の長寿といふことに就て考へて見ても、譬へば、武内宿禰の長命、或は伊勢の倭姫命の長命なども、其考へ方が反映してゐるのである。

貴人についてみあれといふのも、うまれるといふ事ではなく、あらはれる・出現・甦生・復活に近い意味を表してゐる。永劫不滅の神格からいふと、人格の死滅は、たゞ時々中休みと言ふ事になるだけである。皇子・皇女の誕生が、それであつて、此みあれがあつたのち、更にみあれがあることが、即、帝位に即かれる意味に外ならないのである。つまり、天子になられる貴人には、二回のみあれが必要であるといふ事になる。

日本の古い時代の御産の形式をみると、水と火との二つの方式がある。其古い形式の一部は、今もなほ沖縄の伝承に残つてゐる。神代紀のこのはなさくやひめの命、垂仁紀の狭穂姫サホヒメ皇后の産事は、それ〴〵火の形式によるものであり、いま一つの水の形式になると、後世の御産の典型的になつてゐる。とよたまひめの命うがやふきあへずの尊を御産みになつた場合、或は反正天皇のみあれの際に於ける形が、水辺或は水の御産の形式として、顕著な例である。此側から考へると、垂仁紀のほむちわけの命は、火産・水産の調和したものである。出雲風土記のあぢすきたかひこの命の伝説は、皇族以外にも貴種誕生には、同様の様式が考へられたことを示してゐるのだらう。就中、奈良朝以前の宮廷の御産の形式の原形は、次に述べる反正天皇のみあれの際の伝説よりきたつてゐる。

瑞歯別天皇。去来穂別天皇同母弟也。去来穂別天皇二年。立為皇太子。天皇初生于淡路宮。生而歯如一骨。容姿美麗。於是有井。曰瑞井。則汲之洗太子。時多遅花落在于井中。因為太子名也。多遅花者今虎杖花也。故称謂多遅比瑞歯別天皇

右の日本紀の本文によると、産湯の井の中に、虎杖イタドリの花が散り込んだので、多遅比タヂヒといひ、歯がいかにも瑞々ミヅ〳〵しい若皇子であるから、瑞歯別と称へた事になつてゐる。だが、元来、多遅比の事に就ては、日本紀の伝へが、いさゝか矛盾してゐる。恐らく多遅比の名称は、若皇子を御養育した多遅比氏(丹比タヂヒ氏)の名称であつて、つまり、丹比氏が養育し奉つたから、若皇子の御名を多遅比と称へたのであらう。しかしながら、後世には事実をよそにして、産湯の井の中に多遅タヂヒの花が散り込むと云ふ、此伝説の方が有名になつて了うてゐる。三代実録の、宣化天皇の曾孫たぢひこの王のことを記したものにも、多遅タヂヒの花が散つて、湯釜の中にまひ込んだとある。

さういふやうな貴人の、若い時代をとりみる家を、にぶ(壬生)又は、みぶとも云ふ。語原にさかのぼると丹生ニフの水神の信仰と結びついてゐるのである。

近代の語で云ふとりおやとりこと云ふ関係が、皇子及び臣下の間に結ばれてゐた訣である。みぶと云ふ事は、奈良朝には既に、乳母の出た家をすことになつてゐたらしい。其証左には、壬生部を現すのに、乳部と書いてゐる。古くは、そこに職掌の分化があつて、第一に大湯坐オホユヱ、それから若湯坐ワカユヱ飯嚼イヒガミ乳母チオモ等をかぞへてゐる。恐らく此他にも、懐守ダキモリ負守オヒモリ等の職分もあつたのであらう。此だけを総括してみぶの職掌としてゐるらしいが、肝腎の為事は、大湯坐・若湯坐にあるやうだ。といふ語は、ものを据ゑると云ふ語であるから、要は湯の中に、入れすゑ取扱ふといふことにある。後世のとりあげ、即、助産する事になるのである。だから、今でも地方によると、とりあげ婆さんの為事が、どうかすれば考へられる様な職でなくて、ある女にとりあげられた子供は、幾歳になつても盆・正月には、欠かさずに其産婆の許に挨拶に出かける風習がある。即、此はとりおやとりことの関係であつたことが知れる。


     二


かうして育てあげられた貴人の為に、とりおやを中心とした一つ或は数箇の村が出来て、其貴人の私有財産となつた。即、御名代部ミナシロベの起原であり、壬生部と称せられた。此が後世に伝はつて、更に御封ミブ・荘園とも変じてゆくのである。そして、反正天皇の際に於ける壬生部の統領は、丹比タヂヒ宿禰と云ふ家であつた。だから、其家の宰領する村を、丹比壬生部と称へてゐる。瑞歯別の伝説は、全く、此丹比壬生部の伝承した叙事詩から出たものに他ならぬのである。

さて代々の多くの皇子たちの壬生及び壬生部は、皆別々の家を選んで、其皇子の私有になる村々を、宰領させられた訣であつた。みぶの本体なる産婆・乳母のみぶの──選抜された家々の直系の女子である──出た其家長は、其際水辺に立つて、寿詞を奏上すると云ふのが、きまつた形式と考へられる。此が、史書を読む読書、鳴弦の式に変つて行つたのだ。新撰姓氏録を見ると、反正天皇のみあれに与つた丹比宿禰の伝へを記してあるが、其によると、瑞歯別の誕生の時、丹比部の祖先色鳴シコメ宿禰が天神寿詞アマツカミノヨゴトを奏したとある。そして此寿詞を奏上する間に、みぶに選ばれた女子が水に潜つて、若皇子をとりあげるのである。

産湯と云つて来たが、古代は水をもつて湯とも称してゐる。誕生の際、正確に湯にとりあげたのは何時の頃よりか知られてゐない。一体、湯は斎川水ユカハミヅと云ふ語の慣用が、こんな略形に変じ来つたのであるが、古いものを繙けば、天子の沐浴を、ゆかはあみ(湯川浴)と訓じてゐるのが目にとまる。つまり斎川ユカハの水をゆみづと云ひ、更に略して「ゆ」といふ形を生んだので、今いふやうな、温湯を湯と称するやうになつたのは、遥か後代の事である。だから産湯には、冷水を用ゐた時代のあつた事を含めて考へなければ当らない事になる。

さて、即、ゆかはみづは、何の為に用ゐるのかといふに、此は申すまでもなく、みそぎの為である。今日までの神道では、禊祓は凶事祓へを本とするやうに説いてゐるが、此は反対で、吉事祓へが原形である。来るべき吉事をまちのぞむ為の潔斎であるのが、禊祓の本義であつた。

禊祓の話は、此処にはあづかる事として、貴人誕生の産湯は、誰も考へるやうに禊ぎに過ぎないが併し、その水は単なる禊ぎの為の水ではなく、或時期を限り、ある土地から、此土により来るものと看做された。即、其水の来る本の国は、常世国であり、時は初春、及び臨時の慶事の直前であつた。海岸・川・井、しかも特定された井に湧くのである。其水を用ゐて沐浴すると、人はすべて始めに戻るのである。此を古語で変若ヲツと云ふ。其水を又変若水ヲチミヅと称する。貴人誕生に壬生の汲んでとりあげる水は、即、常世の変若水ヲチミヅであつたのだ。中世以後、由来不明ながら、年中行事に若水の式が知られてゐる。此は古代には、特定の井に常世の水が湧き、其を汲んで飲み、禊ぐと若返るものと考へてゐた為の名である。

皇子御誕生にあたつては、たゞの方々と皇太子との間に、区別のありやうはなかつた。御誕生後、後代の日嗣御子がお定まりになつて、其中から次の代の主上がお定まりになつたのである。出現せられた貴種の御子の中、聖なる素質のある方が、数人日つぎのみ子と称へられた。此は正確には皇太子に当らぬ。飛鳥・藤原の宮の頃から、皇子・日つぎのみ子の外に皇子ミコミコトと言ふ皇太子の資格を示す語が出来たらしい。だが、もつと古代には日つぎのみ子の中から一柱が日のみ子として、みあれせられたのであつた。其間の物忌みが厳重であつた。此が所謂真床襲衾マドコオフスマを引きカヾフつて居られる時である。此物忌みに堪へなかつた方々に、幾柱かの廃太子がある。

万古不変の大倭根子天皇の御資格は、不死・不滅であつて、崩御は聖なる御資格から申せば、一種の中休みに過ぎないので、片方には中の一寝入りから目覚めたといふ形で、日つぎのみ子が、日のみ子としてみあれをせられる。即、長い物忌みの後に、斎川水を浴びて、こゝに次の天皇として出現せられるのである。だから、常世の変若水は、禊ぎの水であり、産湯でもあり、同時に甦生の水にも役立つたのである。其重大なる儀式の一種であるみぶを奉仕したのが、後世由来不明となつた、節折ヨヲりに奉仕する中臣女の起原である。

みあれひく賀茂の社の祭りも、此信仰から出てゐる。稚雷の神の出現の日に、毎年賀茂川を斎川として、稚雷神の用ゐ始めた後、諸人此水に浴したのがみあれまつりの本義である。だから、平安朝以後、賀茂の磧が禊ぎの瀬と定つた。御禊ゴケイは元より、御霊会ゴリヤウヱの祓除「夏越ナゴし祓へ」の本処として、陰陽師の本拠の様な姿をとつたのである。

底本:「折口信夫全集 2」中央公論社

   1995(平成7)年310日初版発行

底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店

   1929(昭和4)年410日発行

初出:「国学院雑誌 第三十三巻第十号」

   1927(昭和2)年10

※底本の題名の下に書かれている「昭和二年十月「国学院雑誌」第三十三巻第十号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。

入力:小林繁雄

校正:多羅尾伴内

2003年1227日作成

2004年125日修正

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