月蝕
夢野久作



   


はがねのように澄みわたる大空のまん中で

月がすすり泣いている。

………けがらわしい地球の陰影かげ

自分の顔にうつるとて…………

それを大勢の人間から見られるとて…………

…………身ぶるいして嫌がっている。


   


………しかし………

逃れられぬ暗い運命は…………

刻々に彼女に迫って来る。

大空のただ中に…………


   


……はじまった……

月蝕が…………


   


彼女はいつとなく死相をあらわして来た。

水々しい生白い頬…………

……目に見えぬ髪毛を、長々と地平線まで引きはえた………

それが冷たく……美しく……透きとおる……

 コメカミのあたりから水気すいきが…………ヒッソリとしたたる。


   


彼女はもう…………

仕方がないとあきらめて

暗い…………醜い運命の手に…………

自分の美をまかせてしまうつもりらしい。


   


あごのあたりが

すこしばかり切り欠かれる。

…………黒い血がムルムルと湧く。

…………暗いなまぐさいにおいが大空に流れ出す。

…………それが一面に地平線まで拡がってゆく。

彼女を取巻く星の光がギラギラと冴えかえった。


   


彼女のまぶたが一しきりふるえて

やがて力なくくろずんで来る。

鼻の横に黒い血のかたまりが盛り上る。

…………深く斬込まれたやいばの蔭に

赤茶気た肉がヒクメク。


   


世界は暗くなった。

すべての生物は鉛のように重たく

針のように痛々しい心を

ジッと抱いて動かなくなった。


   


けれども暗い……鋼鉄よりもよく切れる円形のやいば

彼女の青ざめた横頬を

なおもズンズンと斬り込んでゆく。

そこから溢れ出る暗い…………腥いにおいにすべては溺れ込んでゆく。

…………山も…………海も…………森も…………家も…………道路も…………

…………そこいらから見上げている人間たちも…………


   


その中にただ一つ残る白い光…………

彼女の額と鼻すじが

もうすこしで…………

黒いやいばの蔭に蔽われそうになった。


   


空一面のおびただしい星が

小さな声でささやき合って

又ヒッソリと静まった。


   


陰惨な最後の時…………

顔を蔽いつくす血の下に

観念して閉じていた白い瞼を

パッチリと彼女は見開いた。


   


案外に平気な顔で

下界の人々を流し眼に見まわした

ニッコリと笑った。


   


…………ホホホホホホホ……

これはお芝居なのよ。

……大空の影と光りの……。

だからわたしは痛くも苦しくも………

……何ともないのよ…………

そうしてもうじきおしまいになるのよ。


   


…………でも皆さんホントになすったでしょう。

……あたし名優でしょう……

オホホホホホ……………


   


ではサヨウナラ…………

みなさんおやすみなさい。

……ホホホホホ……………………

ホホホホホ……………………………

底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年824日第1刷発行

底本の親本:「日本探偵小説全集 第十一篇 夢野久作集」改造社

   1929(昭和4)年123日発行

入力:柴田卓治

校正:しず

2000年519日公開

2003年1024日修正

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