東洋の秋
芥川龍之介
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おれは日比谷公園を歩いてゐた。
空には薄雲が重なり合つて、地平に近い樹々の上だけ、僅にほの青い色を残してゐる。そのせゐか秋の木の間の路は、まだ夕暮が来ない内に、砂も、石も、枯草も、しつとりと濡れてゐるらしい。いや、路の右左に枝をさしかはせた篠懸にも、露に洗はれたやうな薄明りが、やはり黄色い葉の一枚毎にかすかな陰影を交へながら、懶げに漂つてゐるのである。
おれは籐の杖を小脇にして、火の消えた葉巻を啣へながら、別に何処へ行かうと云ふ当もなく、寂しい散歩を続けてゐた。
そのうそ寒い路の上には、おれ以外に誰も歩いてゐない。路をさし挾んだ篠懸も、ひつそりと黄色い葉を垂らしてゐる。仄かに霧の懸つてゐる行く手の樹々の間からは、唯、噴水のしぶく音が、百年の昔も変らないやうに、小止みないさざめきを送つて来る。その上今日はどう云ふ訳か、公園の外の町の音も、まるで風の落ちた海の如く、蕭条とした木立の向うに静まり返つてしまつたらしい。──と思ふと鋭い鶴の声が、しめやかな噴水の響を圧して、遠い林の奥の池から、一二度高く空へ挙つた。
おれは散歩を続けながらも、云ひやうのない疲労と倦怠とが、重たくおれの心の上にのしかかつてゐるのを感じてゐた。寸刻も休みない売文生活! おれはこの儘たつた一人、悩ましいおれの創作力の空に、空しく黄昏の近づくのを待つてゐなければならないのであらうか。
さう云ふ内にこの公園にも、次第に黄昏が近づいて来た。おれの行く路の右左には、苔の匀や落葉の匀が、混つた土の匀と一しよに、しつとりと冷たく動いてゐる。その中にうす甘い匀のするのは、人知れず木の間に腐つて行く花や果物の香りかも知れない。と思へば路ばたの水たまりの中にも、誰が摘んで捨てたのか、青ざめた薔薇の花が一つ、土にもまみれずに匀つてゐた。もしこの秋の匀の中に、困憊を重ねたおれ自身を名残りなく浸す事が出来たら──
おれは思はず足を止めた。
おれの行く手には二人の男が、静に竹箒を動かしながら、路上に明く散り乱れた篠懸の落葉を掃いてゐる。その鳥の巣のやうな髪と云ひ、殆ど肌も蔽はない薄墨色の破れ衣と云ひ、或は又獣にも紛ひさうな手足の爪の長さと云ひ、云ふまでもなく二人とも、この公園の掃除をする人夫の類とは思はれない。のみならず更に不思議な事には、おれが立つて見てゐる間に、何処からか飛んで来た鴉が二三羽、さつと大きな輪を描くと、黙然と箒を使つてゐる二人の肩や頭の上へ、先を争つて舞ひ下つた。が、二人は依然として、砂上に秋を撒き散らした篠懸の落葉を掃いてゐる。
おれは徐に踵を返して、火の消えた葉巻を啣へながら、寂しい篠懸の間の路を元来た方へ歩き出した。
が、おれの心の中には、今までの疲労と倦怠との代りに、何時か静な悦びがしつとりと薄明く溢れてゐた。あの二人が死んだと思つたのは、憐むべきおれの迷ひたるに過ぎない。寒山拾得は生きてゐる。永劫の流転を閲しながらも、今日猶この公園の篠懸の落葉を掻いてゐる。あの二人が生きてゐる限り、懐しい古東洋の秋の夢は、まだ全く東京の町から消え去つてゐないのに違ひない。売文生活に疲れたおれをよみ返らせてくれる秋の夢は。
おれは籐の杖を小脇にした儘、気軽く口笛を吹き鳴らして、篠懸の葉ばかりきらびやかな日比谷公園の門を出た。「寒山拾得は生きてゐる」と、口の内に独り呟きながら。
底本:「芥川龍之介作品集第二巻」昭和出版社
1965(昭和40)年12月20日発行
※平仮名の繰り返し記号に「ヾ」を用いる扱いは、底本通りとしました。
※底本の「ほの青い色を残してゐ。」「灰」かに」「殆ど」はそれぞれ、「ほの青い色を残してゐる。」「仄かに」「殆ど」にあらためました。
※疑問点の確認にあたっては、「芥川龍之介全集 第六巻」岩波書店、1996(平成8)年4月8日発行を参照しました。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月27日公開
2003年10月7日修正
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