茶わんの湯
寺田寅彦



 ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物みものです。

 第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。この茶わんを、縁側の日向ひなたへ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。場合により、粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、湯げの中に、にじのような、赤や青の色がついています。これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです。この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか別のときにしましょう。

 すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴のしんになるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういうしんがなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。そのしんになるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かいちりのようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、ちょうど煙が広がっているように見えるそうです。

 茶わんから上がる湯げをよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。締め切ったへやで、人の動き回らないときだとことによくわかります。熱い湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ちのぼります。反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。

 次に湯げが上がるときにはいろいろのうずができます。これがまたよく見ているとなかなかおもしろいものです。線香の煙でもなんでも、煙の出るところからいくらかの高さまではまっすぐに上りますが、それ以上は煙がゆらゆらして、いくつものうずになり、それがだんだんに広がり入り乱れて、しまいに見えなくなってしまいます。茶わんの湯げなどの場合だと、もう茶わんのすぐ上から大きく渦ができて、それがかなり早く回りながら上って行きます。

 これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でもふって土のしめっているところへ日光が当たって、そこから白い湯げが立つことがよくあります。そういうときによく気をつけて見ていてごらんなさい。湯げは、縁の下や垣根かきねのすきまから冷たい風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻たつまきのようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう。

 茶わんの上や、庭先で起こる渦のようなもので、もっと大仕掛けなものがあります。それは雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別にあたためられると、そこだけは地面から蒸発する水蒸気が特に多くなります。そういう地方のそばに、割合に冷たい空気におおわれた地方がありますと、前に言った地方の、暖かい空気が上がって行くあとへ、入り代わりにまわりの冷たい空気が下から吹き込んで来て、大きな渦ができます。そしてひょうがふったり雷が鳴ったりします。

 これは茶わんの場合に比べると仕掛けがずっと大きくて、渦の高さも一里とか二里とかいうのですからそういう、いろいろな変わったことが起こるのですが、しかしまた見方によっては、茶わんの湯とこうした雷雨とはよほどよく似たものと思ってもさしつかえありません。もっとも雷雨のでき方は、今言ったような場合ばかりでなく、だいぶ模様のちがったのもありますから、どれもこれもみんな茶わんの湯に比べるのは無理ですがただ、ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。

 湯げのお話はこのくらいにして、今度は湯のほうを見ることにしましょう。

 白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向ひなたへ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆるやかに動いているのに気がつくでしょう。これは夜電燈の光をあてて見ると、もっとよくあざやかに見えます。夕食のおぜんの上でもやれますからよく見てごらんなさい。それもお湯がなるべく熱いほど模様がはっきりします。

 次に、茶わんのお湯がだんだんに冷えるのは、湯の表面の茶わんの周囲から熱が逃げるためだと思っていいのです。もし表面にちゃんとふたでもしておけば、冷やされるのはおもにまわりの茶わんにふれた部分だけになります。そうなると、茶わんに接したところでは湯は冷えて重くなり、下のほうへ流れて底のほうへ向かって動きます。その反対に、茶わんのまん中のほうでは逆に上のほうへのぼって、表面からは外側に向かって流れる、だいたいそういうふうな循環が起こります。よく理科の書物なぞにある、ビーカーの底をアルコール・ランプで熱したときの水の流れと同じようなものになるわけです。これは湯の中に浮かんでいる、小さな糸くずなどの動くのを見ていても、いくらかわかるはずです。

 しかし茶わんの湯をふたもしないで置いた場合には、湯は表面からも冷えます。そしてその冷え方がどこも同じではないので、ところどころ特別に冷たいむらができます。そういう部分からは、冷えた水が下へ降りる、そのまわりの割合に熱い表面の水がそのあとへ向かって流れる、それが降りた水のあとへ届く時分には冷えてそこからおりる。こんなふうにして湯の表面には水の降りているところとのぼっているところとが方々にできます。従って湯の中までも、熱いところと割合にぬるいところとがいろいろに入り乱れてできて来ます。これに日光を当てると熱いところと冷たいところとの境で光が曲がるために、その光が一様にならず、むらになって茶わんの底を照らします。そのためにさきに言ったような模様が見えるのです。

 日の当たった壁や屋根をすかして見ると、ちらちらしたものが見えることがあります。あの「かげろう」というものも、この茶わんの底の模様と同じようなものです。「かげろう」が立つのは、壁や屋根が熱せられると、それに接した空気が熱くなって膨脹してのぼる、そのときにできる気流のむらが光を折り曲げるためなのです。

 このような水や空気のむらを非常に鮮明に見えるようにくふうすることができます。その方法を使って鉄砲のたまが空中を飛んでいるときに、前面の空気を押しつけているありさまや、たまの後ろに渦巻うずまきを起こして進んでいる様子を写真にとることもできるし、また飛行機のプロペラーが空気を切っている模様を調べたり、そのほかいろいろのおもしろい研究をすることができます。

 近ごろはまたそういう方法で、望遠鏡を使って空中の高いところの空気のむらを調べようとしている学者もいたようです。

 次には熱い茶わんの湯の表面を日光にすかして見ると、湯の面ににじの色のついた霧のようなものが一皮かぶさっており、それがちょうど亀裂きれつのように縦横に破れて、そこだけが透明に見えます。この不思議な模様が何であるかということは、私の調べたところではまだあまりよくわかっていないらしい。しかしそれも前の温度のむらと何か関係のあることだけは確かでしょう。

 湯が冷えるときにできる熱い冷たいむらがどうなるかということは、ただ茶わんのときだけの問題ではなく、たとえば湖水や海の水が冬になって表面から冷えて行くときにはどんな流れが起こるかというようなことにも関係して来ます。そうなるといろいろの実用上の問題と縁がつながって来ます。

 地面の空気が日光のために暖められてできるときのむらは、飛行家にとっては非常に危険なものです。いわゆる突風なるものがそれです。たとえば森と畑地との境のようなところですと、畑のほうが森よりも日光のためによけいにあたためられるので、畑では空気が上り森ではくだっています。それで畑の上から飛んで来て森の上へかかると、飛行機は自然と下のほうへ押しおろされる傾きがあります。これがあまりにはげしくなると危険になるのです。これと同じような気流の循環が、もっと大仕掛けに陸地と海との間に行なわれております。それはいわゆる海陸風と呼ばれているもので、昼間は海から陸へ、夜は反対に陸から海へ吹きます。少し高いところでは反対の風が吹いています。

 これと同じようなことが、山の頂きと谷との間にあって山谷風さんこくふうと名づけられています。これがもういっそう大仕掛けになって、たとえばアジア大陸と太平洋との間に起こるとそれがいわゆる季節風モンスーンで、われわれが冬期に受ける北西の風と、夏期の南がかった風になるのです。

 茶わんの湯のお話は、すればまだいくらでもありますが、今度はこれくらいにしておきましょう。

底本:「日本の名随筆33 水」井上靖編、作品社

   1985(昭和60)年725日第1刷発行

※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。

入力:砂場清隆

校正:田中敬三

2000年103日公開

2003年1030日修正

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