物質群として見た動物群
寺田寅彦
|
せんだって、駿河湾北端に近い漁場における鰺の漁獲高と伊豆付近の地震の頻度との間にある関係があるらしいということについて簡単な調査の結果を発表したことがあった。このように純粋に物質的な現象、すなわち地震のような現象と、生物的、かつ人為的要素の錯雑した漁獲といったようなものとの間の相関を取り扱うことが科学的に許容されるかどうかという問題については、往々物理学者の側でもまた生理学者の側でも疑問をさしはさむ人が存するようである。近ごろまた自分の知人の物理学者が魚群の運動に関する研究に物理学的の解析方法を応用しておもしろい研究をしているのであるが、これに対しても、生理学者の側では「生物の事が物理学でわかるはずがない」という簡単な理由から、その研究の結果に正当な注意の目を向けることなしに看過する傾向があるかと思われる。
人間のごとき最高等な動物でも、それが多数の群集を成している場合について統計的の調査をする際には、それらの人間の個体各個の意志の自由などは無視して、その集団を単なる無機的物質の団体であると見なしても、少しもさしつかえのない場合がはなはだ多い。たとえば街路を歩行する人間の「密度」や「平均速度」に関する統計などには、純粋な物質的の問題たとえばコロイド粒子の密度の場合に応用さるる公式を、そのまま使用しても立派に当てはまることが実証的に明らかになっている。平田理学士は、先年、某停車場の切符売り場の窓口に立ち寄る人の数に関する統計的調査に普通の統計理論を応用して、それが相当よく当てはまる事を確かめた。最近に東京帝国大学地震学科学生某氏は市内二か所の街上における自動車の往復数に関する統計についても、やはりかなりの程度まで同様な物理的方則が適用される事を示した。これらはむしろ当然なことと言わなければならない。いわゆる「大数」の要素の集団で個々の個性は「充分複雑に」多種多様であって、いわゆる「偶然」の条件が成立するからである。
これについて思い出すのは、東京の著名な神社の祭礼に、街上で神輿をかついで回っている光景である。おおぜいの押し合う力の合力の自然変異のために神輿が不規則な運動をなしている状態は、顕微鏡下でたとえばアルコホルに浮かぶアルミニウムの微細な薄片のブラウン運動と非常によく似た状態を示している。もちろん活動写真にでもとってほんとうに調査してみなければわからないが、おそらく両者の間にはかなり似寄った方則が存在するのではないかと想像される。神輿の運動の変異量と、その質量や舁夫の人数、各人の筋力、体量等との間に或る量的関係を見いだすことは充分可能でありそうに思われる。
今、たとえば、次のような問題があったとする。一年三百六十五日間における日々の甲某百貨店の第X売り場における売り上げ高と日々の雨量との関係いかんということが問題になったとする。これはともかくも応用気象学上の一つの問題となりうるであろう。雨は市民の外出に若干の影響を及ぼしうると考えられる。もちろん降雨の時刻と人々の外出時刻との関係でこの影響はいろいろになりうる。また百貨店閉場中の時間の降雨は問題の売り上げ高には関係しない。それにも係わらず、多数の日数を含む統計的素材を統計的に取り扱う場合には、これらの個々の場合は問題とならず、ただ平均の関係だけが結果として現われるであろう。降雨のほうでは、全雨量の平均幾割幾分が開場時間に落ちるかが定まり、また外出する市民の平均幾%がこの百貨店に入り、その平均幾%がX売り場に到着しその中の平均幾%が買い物をし、そうして一人の支払い額が平均いくばくであるということが考え得られるとすれば、この問題は一つの合理的な研究問題として成立する。そうして雨量と売り上げとの相関は一つの合理的な研究問題として採用せられ、その研究の結果から、季節による変化とか、いわゆる景気の影響とかいうものが摘出されうる可能性をも予想することができるであろう。
地震と漁獲との関係もかなりこれに類したものである。魚は必ずしもいつも地震に感じまた反応しなくともよい。また駿河湾のすべての魚を数えずとも、一漁場で一つの網にかかったものだけ数えればよい。その際、おりおり出漁の休日があっても、また魚の数え損じがあってもさしつかえはない。すべての関係量に関してただそれぞれに一定の「平均」というものが存在しさえすればよいのである。
銀座通りの両側の歩道を歩く人の細かな観察の結果からして、一つの統計的の結果をまとめ上げ、それから「平均人」の歩行経路を描き出すことも可能である。その結果から、「左側通行」の規則が、どの程度まで市民の頭にしみ込んでいるかを判断する一つの目安を定めることも可能である。
地理学のほうでは人口の分布や農耕範囲の問題などについて、興味ある物理学的統計学的研究をしている少壮学者もある。これはわれわれには非常におもしろく有益な試みであると思われるが、これも「人間のことに物理的方法に適用しない」という通有の誤解のために、あまり一般には了解されないようである。これも遺憾なことと思われる。こういう試みは、もっともっといろいろの方面に追求されるべきはずのものである。
これとは少し種類は違うが、細胞分裂の機構を説明する一つのモデルとして、表面張力の異同による液滴の分裂などを研究している学者もある。そういうおもしろい研究に対してもその研究題目それ自身に対していろいろの故障を申し立てる学者があると見えて、そういう「異端学者」の論文の中に、そういう故障への弁明の辞を述べ立てたのがおりおり見当たる。もちろんそういう簡単な無機的な現象の実験から、一足飛びに有機的現象の機構を説明しようというのならば、それは問題外であるが、研究者のほうではそれほど大胆な意図はもちろんあるはずはない。ただ遼遠な前途への第一歩を踏み出そうとする努力の現われに過ぎないのである。しかしこの意図はほとんど常に誤解されがちである。「生物の事は物理ではわからぬ」という経典的信条のために、こういう研究がいつもいつも異端視されやすいのは誠に遺憾なことである。科学の進歩を妨げるものは素人の無理解ではなくて、いつでも科学者自身の科学そのものの使命と本質とに対する認識の不足である。深くかんがみなければならない次第である。
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。