物理学と感覚
寺田寅彦
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人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通じて供給されるものである。生まれつき盲目で視神経の能力を欠いた人間には色という言葉はなんらの意味を持たない、物体の性質から色という観念をぬき出して考える事がどうしてもできない。トルストイのおとぎ話に牛乳の白色という観念を盲者に理解させようとしてむだ骨折りをする話がある。雪のようだと言えばそんなに冷たいかとこたえ白うさぎのようだと言えばそんなに毛深い柔らかいのかと聞きかえした。
それでもし生まれつき盲目でその上に聾な人間があったら、その人の世界はただ触覚、嗅覚、味覚ならびに自分の筋肉の運動に連関して生ずる感覚のみの世界であって、われわれ普通な人間の時間や空間や物質に対する観念とはよほど違った観念を持っているに相違ない。もし世界じゅうの人間が残らず盲目で聾唖であったらどうであろうか。このような触覚ばかりの世界でもこのような人間には一種の知識経験が成立しそれがだんだんに発達し系統が立ってそして一種の物理的科学が成立しうる事は疑いない事であろう。しかしその物理学の内容はちょっと吾人の想像し難いようなものに相違ない。たとえば吾人の時間に対する観念の源でも実は吾人の視覚に負うところがはなはだ多い。日月星辰の運行昼夜の区別とかいうものが視覚の欠けた人間には到底時間の経過を感じさせる材料にはなるまい。それでも寒暑の往来によって昼夜季節の変化を知る事はある程度までできる。振り子のごとき週期的の運動に対する触感と自分の脈搏とを比較して振動の等時性というような事を考え時計を組み立てる事は可能であるかもしれぬ。しかし自分の手足の届くだけの狭い空間以外の世界に起こっている現象を自分の時計にたよって観測する事はよほど困難である。このような人には時や空間はただ自分の周囲、たとえば方六尺の内に限られた、そして自分といっしょに付随して歩いて行くもののようにしか考えられぬのかもしれぬ。この人にとっては自分の触覚と肉感があらゆる実在で、自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事はわれわれほど容易でないかもしれない。象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。
これはただ極端な一例をあげたに過ぎないが、この仮想的の人間の世界と吾人の世界とを比較してもわかるように、吾人のいわゆる世界の事物は、われわれと同様な人間の見た事物であって、それがその事物の全体であるかどうか少しもわからぬ。
哲学者の中にはわれわれが普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、われわれ科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚な実在派である。科学者でも外界の実在を疑おうと思えば疑われぬ事はないが多くの物理学者の立場は、これを疑うよりは、一種の公理として仮定し承認してしまうほうがいわゆる科学を成立させる筋道が簡単になる。元来何物かの仮定なしに学が成立し難いものとすればここに第一の仮定を置くのが便宜であるというまでである。絶対とか窮極の真理とかというものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。科学者はなんらの弁証なしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう。ただし必ずしもこれを信じる必要はない、科学者が個人としてこれ以上の点に立ち入って考える事は少しもさしつかえはないが、ただその人の科学者としての仕事はこれを仮定した上で始まるのである。もっともマッハのごときは感覚以外に実在はないと論じているが、彼のいわゆる感覚の世界は普通吾人のいう外界の別名と考えればここに述べる所とはあえて矛盾しない。
外界の事物の存在を吾人が感ずるのは前述べたとおり直接間接に吾人の五感の助けによるものである。これらの官能が刺激されたために生ずる個々の知覚が記憶によって連絡されるとこれが一つの経験になる。このような経験が幾回も幾回も繰り返されている間にそこに漠然とした知識が生じて来る。この原始的な知識がさらに経験によってだんだんに吟味され取捨されて個人的一時的からだんだんに普遍的なものに進化して来るとこれが科学の基礎となる事実というものになるのである。
しかるにあらゆる経験の第一の源となる人間の五感がどれほど鋭敏でまた確実であるかという事はぜひとも考えてみなければならぬ。
人間の肉眼が細かいものを判別しうる範囲はおおよそどれくらいかというとまず一ミリの数十分の一以上のものである、最強度な顕微鏡の力を借りてもその数千分の一以下に下げる事はできぬ(もっとも細かいものの見える見えぬはその物の光度と周囲の光度との差によりまた大きさよりはむしろ視角によるが)。そしてその物から来る光の波長が一ミリの二千分の一ないし三千分の一ぐらいの範囲内にあるのでなければもはや網膜に光の感じを起こさせる事ができない。波長がこの範囲にあってもその運ぶエネルギーが一定の限度以上でなければ感じる事ができない。なおやっかいな事にはいわゆる光学的錯覚というものがある。周囲の状況で直線が曲がって見えたり、色が違って見えたりする。もう一つ立ち入って考えれば甲の感じる赤色と乙の感じる赤色とはどれだけ一致しているものか不確かである。
音についても同様な限界がある、振動数二三十以下あるいは一二万以上の音波はもはや音として聞く事はできぬ。振幅が一定の限度以下でも同様である。また振動数の少しぐらい違った音の高低の区別は到底わからぬものである。
触感によって温度や重量の判断をする場合にもいっそう不確かなものである。冷熱の感覚はその当人の状態にもよりまた温度以外にその物体の伝導度によるのである。寒暖計の示度によらないで冷温を言う場合にはその人によってまるでちがった判定を下す事になる。これでは普遍的の事実というものは成り立たぬ。また甲乙二物体の温度の差でも触覚で区別できる差は寒暖計で区別できる差よりははるかに大きい。次に物体の重量の感覚でも同様で、十匁のものと十一匁のものとの差はなかなかわかるものではない。
このように外界の存在を認めその現象を直接に感ずるのは吾人の感官によるほかはないのにその感官がすこぶる粗雑なものであってしかも人々個々に一致せぬものである。それで各人が自分の感覚のみをたよって互いに矛盾した事を主張し合っている間は普遍的すなわちだれにも通用のできる事実は成り立たぬ、すなわち科学は成り立ち得ぬのである。
それで物質界に関する普遍的な知識を成立させるには第一に吾人の直接の感覚すなわち主観的の標準をいったん放棄して自分以外の物質界自身に標準を移す必要がある。これが現代物理的科学にみなぎりわたっている非人間的自然観の根元である。
このように外界を標準として外界を判断する事は何も物理学者をまたない、だれでも日常知らず知らずに行なっている事である。ある生まれつき盲目の人が生長後手術を受けて眼瞼を切開し、始めて浮き世の光を見た時に、眼界にある物象はすべて自分の目の表面に糊着したものとしか思えなかったそうである。こういう無経験な純粋な感覚のみにたよれば一間前にある一尺の棒と十間の距離にある同様な棒とは全く別物としか見えないに相違ない。仰向けた茶わんとうつ向けた同じ茶わんとが同一物である事を自得するまでにはかなりな経験を重ねなければならぬ。吾人普通の感官を備えた人間がこのような相違に気のつかぬのは遺伝や長い間の経験によって、外界の標準を外界に置いて非常に複雑な修練と無意識的の推理を経て来た結果にほかならぬのであろう。
吾人の理性に訴えて描き出す幾何的の空間、至るところ均等で等向的な性質を備えた空間は吾人の視感に直接訴える空間とは恐ろしくかけ離れたものである。視感的空間では仰向きの茶わんとうつ向きの茶わん、一里を隔てた山と脚下の山とはあまりに相違したものである。紙面に描いた四角でもその傾き方で全く別な感覚を起こしてもよいはずである。しかるにこのような相違を怪しまず当然としているのは、吾人が主観を離れた幾何学的の空間という標準を無意識あるいは有意識的に持っているためである。
同様な事は聴官についてもある。雷鳴の音の波の振幅は多くの場合に耳の近くで雨戸を繰る音に比べて大きなものではないのに雷の音は著しく大きいと考えるのはやはり直接の感官を無視して音響の強度の距離と共に感ずる物理的方則を標準としているのである。
このような事は別に取り立てて言うほどでないかもしれぬがしかしこの主観を無視する程度は人間の文明の程度によってだんだんに変化して来るものである。絵画に陰影を施しあるいは透視画法を用いる事はある国民には普通であるのに他の国民には容易に了解ができないのもその根元は直接感覚によるのと、感覚を離れた観念によるとの差と考える事もできるので、少なくもこの点だけにおいては未開人種や子供の描く観念的な絵は泰西名匠の絵画よりもある意味で科学的であると言わねばならない。ただしその概念が人々随意に異なり普遍的でない事は争われぬ。
以上の程度までは物理学者も素人もあまり変わりはないようであるが、物理学者と素人と異なる所は普通人間にも存するこのような感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行く点にある。物理学発達の初期には物理学者の見方はまだそれほど世人と離れていなかった。たとえば音響というような現象でも昔は全く人間の聴官に訴える感覚的の音を考えていたのが、だんだんに物体の振動ならびにそのために起こる気波という客観的なものを考えるようになり「聞こえぬ音」というような珍奇な言葉が生じて来た。今日純粋物理学の立場から言えば感覚に関した音という概念はもはや消滅したわけであるが因習の惰性で今日でも音響学という名前が物理学の中に存している。今日ではむしろ弾性体振動学とでもいうべきであろう(生理的音響学は別として)。光の感覚でも同様である。光覚に関する問題は生理学の領分に譲って物理学では非人間的な電磁波を考えるのみである。熱の輻射も無線電信の電波も一つの連続系の部分になってしまって光という言葉の無意味なために今では輻射線という言葉に蹴落とされてしまったのである。
今日のように非人間的に徹底したように見える物理学でもまだ徹底しない分子を捜せばいくらでも残っている。たとえば力という観念でも非人間的傾向を徹底させる立場から言えばなんらの具体的のものではなく、ただ「物質に加速度が生じた」という事を、これに「力が働いた」という言葉で象徴的に言いかえるに過ぎないが、普通この言葉が用いられる場合には何かそこに具体的な「力」というものがあるように了解されている。これは人間としてやみ難い傾向でまたそう考えるのが便宜である。また他の例を取れば物理学でも右左という言葉を用いる、しかしこれも人間というものから割り出した区別で空間自身には右もなければ左もあるはずはない。もしどこまでも非人間的な態度で行けば物理学の書籍からこのような言葉を除去しなければならぬはずであるが、実際は平気でこれを使用している、この一事でも非人間主義の物理学が人間の便宜のために膝を屈している事はわかるだろう。
ある人は著者に物理学の教科書を幾何学教科書のような画一的なものにしたいものであると言ったが、自分はそれはむつかしかろうと考える。数学のように最初全く任意に(もっとも経験から暗示されるものではあるが)一つの概念を与えあとは解析ばかりでその内容を展開するのと、物理学で自己以外の実在として与えられた外界の現象を系統立てるのとはよほど趣がちがわなければなるまい。たとえば一つの自動車を作ってその機械の自己の作用で向かう所にどこまでも向かわせる場合には便宜とか選択の問題は起こらぬ、車は行く所にしか行かぬのであるが、これが解析的な数学の行き方とすれば物理学のはそうでない。このような自動車のハンドルを握って四通八達の街頭に立っているようなものである。同じ目的地に達するのでも道筋の取り方は必ずしも一定していない。そこで径路の選択という問題が起こり、この選択の標準とするものはつまり人間の便宜である、思想の節約である。この際もし車掌がある一つの主義を偏執してたとえば大通りばかりを選ぶとするとそれを徹底させるためには時にはたいへんな迂路を取らねばならぬような事があるだろう。ただ一筋の系統によって一糸乱れぬ物理学の系統を立てようという希望は決して悪くはないが、人間の便宜という点から考えるとそれはむしろ不便である。大通りが縦横に交差してその間にはまた多数の「抜け裏」のあるような、そういう複雑な系統として保存し発達さるべきものではないかと考える。
近年プランクなどは従来勢力のあったマッハ一派の感覚即実在論に反対して、科学上の実在は人間の作った便宜的相対的のものでなくもっと絶対的な「方則」の系統から成立した実在であると考え、いわゆる世界像の統一という事を論じている。しかし退いて考えるとあるいはこれはあまり早まりすぎた考えではなかろうかと疑わざるを得ない。プランクは物理学を人間の感覚から解放するという勇ましい喊声の主唱者であるが、一方から考えると人間の感覚を無視すると称しながら、畢竟は感覚から出発して設立した科学の方則にあまり信用を置きすぎるのではあるまいか。もし現在の科学の所得は、すでに科学の究極的に獲得しうるすべての大部分であると考え、吾人の残務はただそこかしこの小さい穴を繕うに過ぎぬと考えればプランクの説はもっともと思われる。しかしそう考えるだけの確かな根拠があるかどうか自分には疑わしい。物理学の範囲内だけでも近ごろ勢力を得て来た量子説が古典的な物理学と矛盾していて、まだどうしてもその間の融和がとれないところを見てもプランクの望むような統一はまだ急に達せられそうもない。
今のところでは生物界の現象に関しては物理学はたいてい無能である。レーブのごとき一派の学者が熱心に努力しているにもかかわらず今のところ到底目鼻もつかぬようである。生物現象がすべて現在の物理学で説明できようとは思われぬが、しかしプランクが無生物質界の方則の統一を理想とするならば、もう一歩を進めて物理生理あるいは心理学までも包括して渾然たる一つの「理学」という系統がいつかは設立されるという理想をいだく事もできない事ではない。それがもしも可能であるとすればそうなるまでには今の物理学はまだまだよほど根本的な改革を受けなければなるまいと思う。
このような考えからも自分はマッハの説により多く共鳴する者である。すなわち吾人に直接に与えられる実在はすなわち吾人の感覚である、いわゆる外界と自身の身体と精神との間に起こる現象である。このような単純な感覚が記憶や連想によって結合されて経験になる。これらの経験を総合して知識とし知識を総合して方則を作るまでには種々な抽象的概念を構成しそれを道具立てとして科学を組み立てて行くものである。この道具になる概念は必ずしも先験的な必然的なものでなくてもよい。以上のごとく科学を組み立て、知識の整理をするに最も便利なものを選べばよいのである。その便不便は人間の便不便である、すなわち思考の節約という事が選択の標準になるのである。
選択という言語は多くは眼前に種々の可能が排列されている時に用いられるものである。実際科学上の概念にそのような選択の余地があるであろうか、これは大切な問題である。自分は現在の物理学の概念をことごとく改造して従来よりもいっそう思考の経済上有利な体系ができうるかどうか到底想像する事はできないが、しかし少なくも物理学の従来の歴史から見て、斯学の発展と共に種々の概念が改造されあるいは新たに構成されまた改造されて来た事は事実である。光や音の観念の変化は前にも述べたとおりである。温度の観念でも昔の触感によった時代から特殊物質の膨脹によった時代を経て今日の熱力学的の絶対温度に到着するまでの径路を通覧すれば、ある時代に夢想だもできぬような考えが将来に起こりうる事は明らかである。もっと新しい例を取れば質量に関する観念がある。質量は物体に含まるる実体の量だというように考えたは昔の事で、後にむしろ力の概念が先になって、物体に力が働いた時に受ける加速度を定める係数というふうに解釈した実証論者もある。電子説が勢いを得てからは運動せる電気がすなわち質量と考えてすべての質量を電気的に解釈しようとした。さらに相対性原理の結果としてすべてのエネルギーは質量を有すると同等な作用を示すところから、逆にすべての物質はすなわちエネルギーであると考えようという試みもあるくらいである。
原子内部に関する研究に古典的力学を応用しようとして失敗を重ねた結果は大胆な素量説の提出を促した。今日のところなかなか両者の調停はできそうもない。しかしあらゆる方則は元来経験的なもので前世の約束事でもなんでもない事を思い出せば素量仮説が確立した方則となりえぬという道理もない。もし素量説が勝利を占めて旧物理学との間の橋渡しができればどうであろうか。おそらくそのために従来の物理学がことごとくだめになるような事はあるまいが、従来用いられた諸概念に少なからぬ変動が来るであろうと予想するのは至当であるまいか。
少なくもわれらは従来経験的事実の要求に応じて、物理学的概念の内容にたびたび改革あるいは修繕を施して来た。これらの経験的事実の集まり方はそれまでの歴史に無関係ではない。甲の事実は、乙丙の事実の発見を促す。しこうして乙が先に発見されるか丙が先に発見されるかによってその次に来る丙丁の事実の解釈を異にする場合は可能ではあるまいか。それはどうでもよいとして、一つ極端な想像をして見れば自分の今言わんとしている事を説明する事ができよう。すなわちかりにここに微小な人間があって物質分子の間に立ち交じり原子内のエレクトロンの運動を目睹しているがその視力は分子距離以外に及ばぬと想像する。このような人間の力学が吾人のと同様であれば吾人の原子的現象の説明は比較的容易であろうが、実際素量説などの今日勢いを得て来たことから考えても原子距離における引斥力の方則をニュートンやクーロンの方則と同じものとは考えがたい。そうすればこの原子的人間の物理の方則は吾人の方則とよほど違った発展をするに相違ない。
前に選択といったのは必ずしも吾人にとって選択の多様なという意味ではない。ただ人間という特別なものの便宜を標準として選択するという意味である。それでこういう意味で現在の物理学はたしかに人工的な造営物であってその発展の順序にも常に人間の要求や歴史が影響する事は争われぬ事実である。
物理学を感覚に無関係にするという事はおそらく単に一つの見方を現わす見かけの意味であろう。この簡単な言葉に迷わされて感覚というものの基礎的の意義効用を忘れるのはむしろ極端な人間中心主義でかえって自然を蔑視したものとも言われるのである。
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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