散文詩・詩的散文
萩原朔太郎



 SENTIMENTALISM


 センチメンタリズムの極致は、ゴーガンだ、ゴツホだ、ビアゼレだ、グリークだ、狂氣だ、ラヂウムだ、螢だ、太陽だ、奇蹟だ、耶蘇だ、死だ。


 死んで見給へ、屍蝋の光る指先から、お前の至純な靈が發散する。その時、お前は、ほんたうに OMEGA の、青白い感傷の瞳を、見ることが出來る。それがおまへの、ほんたうの、人格であつた。


 なにものもない。宇宙の『權威』は、人間の感傷以外になにものもない。


 手を磨け、手を磨け、手は人間の唯一の感電體である。自分の手から、電光が放射しなければ、うそだ。


 幼兒が神になる。


 幼兒は眞實であり、神は純一至高の感傷である、神の感傷は玲瓏晶玉の如くに透純である。神は理想である、人は神になるまへに硝子玉がらすだまの如く白熱されねばならない。


 眞實は實體である感傷は光である

 幼兒の手が磨かれるときに、琥珀が生れる。彼は眞珠となる。そして昇天する。


 實體の瓦石は、磨いても光らない。

 實體の瓦石とは、生れながらの成人おとなである。パリサイの學徒である。眞實のない製詩職工である。


 涙の貴重さを知らないものに眞實はない。


 哲人は詩人と明らかに區別される。彼は、最もよく神を知つて居ると自負するところの、人間である。然も實際は、最もよく神を知らない、人間である。彼は偉大である、けれども決して神を見たことがない。


 神を見るものは幼兒より外にない。

 神とは『詩』である。


 哲學は、概念である、思想である、形である。

 は、光である、リズムである、感傷である。生命そのものである。

 哲人も往往にして詩を作る。ある觀念のもとに詩を作る。勿論、それ等の詩(?)は、形骸ばかりの死物である。勿論、生命がない。感動がない。

 然るに、地上の白痴ばかは、群集して禮拜する。白痴の信仰は、感動でなくして、恐怖である。


 下ぼんの感傷とは、新派劇である。中品の感傷とはドストヱフスキイの小説である。上品の感傷とは、十字架上の耶蘇である、佛の涅槃である、あらゆる地上の奇蹟である。


 大乘の感傷には時として理性がともなふ。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。

 感傷の涅槃にのみ『詩』が生れる。即ち、そこには何等の觀念もない、思想もない、概念もない、象徴のための象徴もない、藝術のための藝術もない。


 これはただの『光』である。


 七種の繪具の配色は『光』でない。『光』は『色』のすさまじい輪轉である。純一である。炎燃リズムである。そして『光』には『色』がない。


 色即是空、空即是色。


 藝術の生命は光である斷じて色ではない

 リズムは昇天する。調子は夕闇の草むらで微動する。


 我と人との接觸、我と物象との接觸、我と神との接觸、我と我との接觸、何物も接觸にまさる歡喜はない。この大歡喜が自分の藝術である。


 自分は神と接觸せんとして反撥される、自分は物象と接觸せんとして反撥される、自分は戀人と接觸せんとして反撥される。その反撥の結果は、何時も何時も、我と我とが固く接觸する。接觸の所産は詩である。


 未來、自分は感傷の涅槃にはいる、萬有と大歡喜を以て、接觸することが出來る。現在、及び過去の自分は未成品である。道程である。

──人魚詩社宣言──



 遊泳


 白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。


 けふわが生くるは、わが遊戲をして、光り、かつ眞實あらしめんためなり。わが輝やく城の肢體をしてみがきしたしく魚らと淫樂せしめてよ。


 奇蹟金銀

 祈祷晶玉

 海底詠嘆

 海上光明


 しんしんたる浪路のうへ、祈れば我が手につながれ、あきらかに珊瑚の母體は昇天す。


 母體は昇天す、このときみなそこに魚介はしづみ、いつさいに哀しみのひとみをあげて合唱しあなや合讚したてまつる。


 さんたくるす

 さんたくるす


 遊樂至上のうみのうへ、岬をめぐる浪のうたかた、浪とほれば鳥禽の眼にも見えず、況んや白日の幽靈は、いと遙かなる地平にかげをけちゆくごとし。


 ああ、まぼろしのかもめどり、渚はとほく砂丘はさんらん、十字の上に耶蘇はさんらん、をみなの胴は砂金に研がれ、その陰部もさんらん、光り光りてあきらかに眞珠をはらむ。


 白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。



 秋日歸郷

       ─妹にあたふる言葉─


秋は鉛筆削のうららかな旋囘に暮れてゆく。いたいけな女心はするどくした炭素のしんの觸覺に、つめたいくちびるの觸覺にも涙をながす。

しみじみと涙をながす。とき子よ、君さへ青い洋紙のうへに魚を泳がしむるの秋だ。眞に秋だ。

ああ、春夏とほくすぎて兄は放縱無頼、酒狂して街にあざわらはれ、おんあい至上のおんちちははに裏切り、その財寶たからを盜むものである。

おん身がにくしんの兄はあまりに憔悴し、疾患し、酒亂のあしたに菊を摘まむとして敬虔無上の涙せきあへぬ痴漢である。

また兇盜である、聖者である。妹よ、兄の肉身は曾て一度も汝の額に觸れたことはない。

見よ、兄の手は何故にかくもかくも清らに傷ましげに光つて居るのか、

この手は菊を摘むの手だ、

この手は怖るべき感電性疾患の手だ、

また涼しくも洋銀の柄にはしり、銀の FORK をしてしなやかに皿の魚を舞はしむる風月賀宴の手だ。

兄は合掌する。

兄は接吻する。

兄は淫慾のゆふべより飛散し散亂し、しかも哀しき肉身交歡の形見をだにもとめない頽廢徳者だ。

おん身の兄はおん身を愛することによりて、おん身に一ダースの鉛筆とひとかけの半襟を買ふことにすら、尚かぎりなき愛惜の涙を、われとわれの眞實至聖の詩篇に流さんとする者である。

兄は東京駒込追分の坂路に夕日を浴びて汝に水桃を捧げんとする。

想ふ、かつて内國勸業博覽會の建物は紙製の樓塔に似た一廓をなし、飛行機のプロペラその上に鳴る。

兄は哀しくなる、妹よ、都にあれば、しんに兄は哀しくなる。


すべては過去である、そして現在である。

遠ければ遠いほど、兄の眞實は深くなり、兄の感傷はたかぶる。

妹よ、

黎明に起きて兄の生きた墓前に詣でてくれ。み寺に行く路は遠くとも、必ずともに素足にて徒歩かちまうでかし。なんぢの白いあなうらもつめたい土壤と接觸するときに、兄の戀魚はまあたらしい墓石の下によろこびの目をさます。その兄のめざめを感じ、おまへの素足に痙攣する地下電流の銅線をふんでわたれ。きけ、遠い遠い靈感の墓場で兄の精靈がおまへを呼んで居る。

妹よ、

み寺に行く途は遠くとも朝のちよこれいとの興奮を忘れるな。

妹よ、

凝念敬具。

おんみが菊をさげて歩むの路を清淨にせよ。

ああ、秋だ、

秋だ、

兄の手をして血縁けちえんの墓石にかがやかしむるの秋だ。

妹よ、

兄が純金の墓石の前に、菊を捧げて爾が立つたとき、兄はほんたうにおん身に接吻する。おん身のにくしんに、額に、脣に、乳房に、接吻する。

妹よ、

いまこそなんぢに告ぐ、

われらいかに相愛してさへあるに、兄の手は、足は、くちびるは、かつて一度もなんぢの肉身に觸れたことさへないのである。

とき子よ、

兄は哀しくなる、しんに兄は哀しくなる。


めいりいごうらうんど、靈性木馬のうへのさんちまんたりずむをきみは知るか。

木馬はまはる、

光はまはる、

兄の肉體は疾風のやうに旋囘する、

兄の左に少女がじつと立つて居る、

白い前かけをした娘だ、

娘のくちびるが、あかいくちびるが、林檎が、しだいに、あざやかに、私のくちびるを追ひかける。

めいりいごうらうんど、

木馬がまはる、

世界がまはる、

光がまはる、

この𢌞る、むらさきの矢がすりの狂氣した色の世界に娘は立つて居る。

さうして、また、くちびると、くちびると。

秋だ、

兄の肉身はかうして靈感の天界へ失踪する、

はなればなれのくちびるとくちびると、

木馬は都會を越え群集を越え雜鬧を越え、いつさいを越えて液體空氣の圈中にほろび行くまで、

おんみよ、

異性のりずむとはかうも遠く近く夢みるごとく人の世にうら哀しいものか、

淺草公園秋の夕ぐれ、

めいりいごうらうんど靈性木馬の旋囘、

磨きあげた鋼鐵盤の白熱𢌞轉だ、

想へ、切に切にそが上に昏絶せむとする兄の痩せはてた肉身のいたましさを、

兄は畜生にもあらず、

兄は佛身にもあらず、

兄はいんよく極まりなき巷路の無名詩人だ、

いもうとよ、

なんぢの信仰を越えて兄を愛するとき、なんぢのもろ手を合せてくれ。遠い故郷ふるさとから、兄の眞實のために聖母のまへに合掌して祈つてくれ。


秋だ、

すべて私を信頼し、私を愛するもののために、私はかぎりなき涙を流す。

いぢらしい私の涙は遠く別れた同性の友のうへにもながれる。

友を思うて都の高臺にいちにちを泣きくらす。松の青葉に晴れすぎし天景のおもひでにさへさしぐむものを。

いもうとよ、

光る兄の靴からかずかぎりなき私の旅行記念を吸つてくれ、

魚に似たる手をもつて私の哀傷を擽つてくれ、

けふちちははの家にかへらば、あした遠い都に兄の生きた墓場をきづいてくれ、

菊の、光る、感傷の、純金の墓場をきづいてくれ、

妹よ、

兄の肉と血をもつて爾の愛人にはなむけするな、

兄の身は疾患頽唐のらうまちずむ

兄の靈智は遠いけちえんの墓石に光るラヂウム製の青い螢だ、

妹よ、祈る。

とりわけてなんぢのをさな兒のうへにも榮光あれかしと。



 感傷詩論


感傷至極なれば身心共に白熱す、電光を呼び、帷幕を八裂するも容易なり。


天使も時に哀しめども蛇は地上に這ひて泣かず、感傷の人は恆に地に立ちて涙をのむ。


感傷必ずしも哀傷にあらず、憤怒も歡喜もその極に達すれば涙ながる、然れども涙なきものは感傷にあらず。


感傷なき藝術は光なき晶玉の如し、實質あれども感動なし。


女人に感傷なし、然れども感傷の良電體。


ひとびとよ、美しきひとびとよ、つねに君はせんちめんたるなれ。


昔より言ふごとく死人は白玉樓中にあり。


感傷至上の三昧は玲瓏たり、萬有にリズムを感じ、魚鳥も屏息し、金銀慟哭す。


純銀感傷の人室生犀星。


感傷の人犀星に逢へば菓子も憔悴す。


感傷は理智を拒まず、却つて必然に之を抱擁す、

感傷とは痴愚の謂にあらず、自覺せざる哲理なり、前提を忘れたる結論なり。而して藝術と科學との相違は單に此の一點に存す。


耶蘇の素足は砂にまみれ、その手は奇蹟を生み、その言葉は感傷に震へたり。彼の説くところは道理にあらずして信仰なりき、概念にあらずして祈祷なりき。然もたれか聖書に哲學なしと言ひ得るものぞ。

理智が感情と竝行し、或は之を超越せる場合に於ては祈祷あることなし。ただ感情が理智を慴伏する刹那にのみ詠嘆と祈祷はあり。


祈祷とは奇蹟を希願ふの言葉、而して詩は地上の奇蹟。


涙の甘くして混濁せるものを詠嘆と呼び、涙の苦くして透純せるものを感傷と呼ぶ。


詠嘆もまた幼年期の感傷と言ふを得べし、而して短歌の生命は詠嘆を出でず、格調に捉はるれば也。


感傷が白熱するとき言葉は象徴の形式を帶ぶ、

あらゆる藝術の至上形式は象徴にあり

然りと雖も形式は結果にして目的にあらず、象徴のための象徴の如きは畢竟藝術上の遊戲にあらずして何ぞや。


象徴とは必ずしも不徹底乃至ないし朦朧を意味するものにあらず、ロダンの藝術が如何に鮮明なる輪廓を有するかを想へ、ゴツホの藝術が如何に強烈なる色彩を有するかを想へ。然もたれか彼等に象徴なしと言ふものぞ。


刷毛を以てある種の畫面を洗ふは象徴の一手段なり、然れども全般の手段にあらず。象徴の意義をしかく縹渺模糊たる境地にのみ限らんとするは甚だしき偏見なりと言はざるべからず。煙と霧とを描くことをもて我の藝術なりと言ふはよし、然れども太陽の象徴を畫くものを目して異端となすは甚だ良ろしからず。斯くの如き形式のものは象徴なり、斯くの如き形式のものは象徴にあらずと言ふは愈〻不可なり、恐らくは象徴詩をして遊戲に墮落せしめん。詩の生命は形式にあらずしてリズムにあれば也


藝術上の遊戲とは必然性なき創作を言ふ

生活を畫くもの必ずしも眞實にあらず花鳥風月を唄ふもの必ずしも遊べるにあらず。


賭博とばくは社會觀念より遊戲と目さるるも賭博者自身は遊戲を行へるにあらず、彼は一心不亂なり、時に生命いのちがけなり、此の場合に於ては賭博もまた靈性を有す。


怠惰なる農夫にとりては耕作も遊戲なり、

所謂、遊戲は眞の生活にして、所謂、生活は多くの場合に遊戲なり。

遊戲の眞實、生活の虚僞を想へ。

遊戲を愛せざる且つ知らざるものに眞の生活あることなし、遊戲とは生命意識の具象化されたる躍動なり

あらゆる遊戲を賤辱したる昔時の日本人の生活を想へ。眞に生くるものは貴族にして賤民にあらず、賤民に遊戲なる生活なし。


西洋人の思想を受賣りするより外に能なき衒學屋と流行屋を葬れ。


乞食をしても葉卷煙草を吸ふ者は室生犀星一人のみ。

眞に彼は賤民貴族の公爵なる哉。


詩は斷じて空想に非ず、實驗の世界なり。


奇蹟は感動にして形體に非ず、天國を説かんとするものは必ずその口を緘せらる。此の故に詩人の武器は言葉に非ずして傳熱なり。抽象にあらずして象徴なり。


いやしくも理智又は意志がその概念を展開したる祈祷は虚僞なり、かくの如き祈祷には感應あることなし。まことに祈祷するものは一所懸命なり、祈祷者はその心靈に於て明らかに神と交歡す、彼自ら何を言ひ何を語りつつあるかを知らざる也。


奇蹟を啓示するものは神なり、神とは宇宙の大精力なり、而して之と交歡し得るもの人間の感傷以外にあること無し。


幼兒と聖人は神に聽かれんために祈祷し、衒學者及び説教者は傍人に聽かれんために祈祷す。

前者の祈祷は『詩』なり、その最も單純なるものと雖も尚『詩』といふを得べし。後者の祈祷に至りては『演説』にして詩に非ず、その最も幽邃深玄を極むる者と雖も尚詩形を借りたる論文に外ならず。而して祈祷に概念あることなし。


西洋人は眞に詩を理解する人種にあらず、彼等の感傷はあまりに混濁す、その最も透純なる者と雖も尚芭蕉に及ばず北原白秋に遠く及ばず。


詩とは『光』なり光體にもあらず。


幼兒の眞實を嘲笑するものは必ず衒學の徒なり、

萬葉集の詠嘆は單純なれども千載の後その光を失ふことなし。幼年期の哲理は後に必ず嘲笑さるる秋あるも幼年期の眞實は永劫にその光を失ふことなし。


最も貧弱なる『光』も尚最も巨大なる『物體』にまされり、萬葉の戀歌一首はソクラテスの教理よりも劫久なる生命を有す。


『光』は感傷に發す、眞實の核を磨くことにより。


足は天地に垂降するの足、

手は地上に泳ぎて天上の泉をくむの手、

諸君、肉身に供養せよ、

諸君、おん手をして泥土にけがさしむる勿れ、詩人をして賤民の豚と交接せしむる勿れ、生活に淫する勿れ、手をして恆に高く頭上に輝やかしめ、肉身をして氷山の頂上に舞ひあがらしめよ、

ああ、香料もて夕餐の卓を薫郁せしめよ。


感傷奇蹟、絶倒せんとして視えざる氷をやぶり、疾行する狼を殺す、畜生の如きも金屬なれば閃電を怖るる事もつとも烈し、詩人よ汝の手を磨け。


感傷の權威を認めざるものは始めより詩を作らざるに如かず。

──人魚詩社宣言──



 聖餐餘録

食して後酒盃をとりて曰けるは此の酒盃は爾曹

の爲に流す我が血にして建つる所の新約なり、

─路加傳二二、二〇、


鐘鳴る。

我れの道路に菊を植ゑ、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。

道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らむとする聖徒勤行の路でもある。


鐘鳴る。

鐘鳴る。

エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。

ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るるところ、この酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。


ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。

見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりしていたみを發すること疾患聖者の手のごときものはない。


愛する兄弟よ。

いまこそわが左に來れ。

汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。

爾は女の足をひきかつぎることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所以である。

まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床ふしどにさへ下馬札を建てるところの聖徒である。

凡そ我れの諸弟子諸信徒のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない。乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に坐することを許せ。

ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの徒よ、爾は愛するユダである。我をあざむきらむとし、我を接吻せんとする一念にさへ、汝は連坐頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、『愛』である。


愛する兄弟よ。

而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。

肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。

みよ、汝が匍行するところに汝が蒼白の血痕はあり。

師走に及び、汝は恆に磨ける裸體である。汝が念念祈祷するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。

汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒入に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。況んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感應せる、或はその神祕を啓示するところにならざるべからず。

愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。


諸弟子。

諸信經の中、感傷品を超えて解脱あることなし。萬有の上に我れをあがめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。

今宵、あふぎて見るものは天井の蜂巣蝋燭、伏して見るものは女人淫行の指、皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患蝕金の掌と、輝やく氷雪の飾卓晶峯とあり。

みよ、更に光るそが絶頂にも花鳥をつけ。

ああ、各〻の肩を超え、しめやかに薫郁するところの香料と沒藥と、音樂と夢みる香爐とあり。


諸使徒。

われと共にあるの日は恆に連坐して酒盃をあげ、交歡淫樂して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。

蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發意、道心のみ、もとより十字架にかかる所以のものは我れの涅槃に至ればなり。亞眠。

─人魚詩社信條─



光の説


光は人間にある

光は太陽にある

光は金屬にある

光は魚鳥にある

光は螢にある

光は幽靈の手にもある。


幽靈の手は鋼鐵製はがねである、鋭どくたたけばかんかと音がする。


幽靈の手は我の手だ、我の手を描くものは、幽靈の手を描くものだ。然も幽靈を見るものは尠ない。


幽靈とは幻影である、あやまちなき光の反照である。

幽靈は實在である、妄想ではない。


夢を見ないものは夢の眞實を信じない。

幽靈を見ないものは幽靈の眞實を理解しない。


光は『形』でなくて『命』である。概念でなくてリズムである。光は音波でもある、熱でもある、ええてるでもある。所詮、光は理解でなくて感知である。


光とは詩である


詩の本體はセンチメンタリズムである。


光は色の急速に旋𢌞した炎燃リズムである。色には七色ある。理智、信條、道理、意志、觀念、等その他。


光の中に色がある。


光から色を分析するためには、分光機が必要である。

然もさういふ試驗は理學者にのみ必要である。(貧弱な國家には完全な分光機を持つた學者すらも居ない。)我我は光を光として感知すれば好い、何故ならば、光は既に光そのものであつて色ではない。


色は悉く概念である。


盲目は光を感知しない、──或は感知しても自ら氣がつかない──。

盲目は形ある物象以外のものを否定する。


白秋氏の詩に哲學がないと言つた人がある。無いのではない、見えないのだ。


色が色として單に配列されたものは、哲學である、科學である、思想である、小説である。

色が融熱して𢌞轉を始めたときに、色と色とが混濁して或る一色となる。けれども夫れは色であるが故に尚概念である。すなはち感傷の油を差して一層の加速度を與へた場合に始めて色は消滅する。すなはち『光』が生れる、すなはち『詩』が生れる。


熱は眞實である、光は感傷である。


色が色として見えるやうなものは光でない、物體である。斷じて詩ではない。


     * * * *


螢のは戀である。

女のは淫慾である。

あらゆる生物のパツシヨンはである。けれどもあらゆるが必ずしもパツシヨンではない。


聖人の輪光は肉體をはなれて見える。


パツシヨンばかりが詩ではない。

センチメンタルばかりが詩である。

光輪も聖人の怒と哀傷とによつて輝く。


足が地上を離れんとして電光に撃たれる。自分の肢體が金粉のやうに飛散する。


月光の海に盲魚が居る。


眞實は燐だ、感傷は露だ。


光は天の一方にある、空の青明を照映するために我の額は磨かれる、一心不亂に磨きあげられる。


鵞鳥は純金の卵を生む。自分の安住する世界はいつも美しい、夢のやうに不可思議で、夢のやうに美しい。



 手の幻影


白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。である。

而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。

手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。

手は歴歴として發光する。

手はしんしんとして疾患する。

手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。

手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。

微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちえんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。

我はつねに『先祖』を怖る。



 危險なる新光線


疾患せる植物及び動物の脊髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我我の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして糜爛せしめ、侵蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。



 懺悔者の姿


懺悔するものの姿は冬に於て最も鮮明である。

暗黒の世界に於ても、彼の姿のみはくつきりと浮彫のごとく宇宙に光つて見える。

見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。

地平を超えて永遠の闇夜が眠つて居る。

恐るべき氷山の流失がある。

見よ、祈る、懺悔の姿。

むざんや口角より血をしたたらし、合掌し、瞑目し、むざんや天上に縊れたるものの、光る松が枝に靈魂はかけられ、霜夜の空に、凍れる、凍れる。

みよ、祈る罪人の姿をば。

想へ、流失する時劫と、闇黒と、物言はざる刹那との宙宇にありて、只一人吊されたる單位の恐怖をば、光の心靈の屍體をば。

ああ、懺悔の涙、我にありて血のごとし、肢體をしぼる血のごとし。



 鼠と病人の巣

       密房通信


しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、さうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巣となつてしまつた。


鼠、巣をかけ。鼠、巣をかけ。

うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巣をかけてしまつた。

巣がかかる、巣がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巣にてべたいちめんである。


みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の青白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。


祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。

ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。


いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纖毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。

ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささへうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。


私はいまそれを知らない。

何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巣となつたかを知らない。

ただ、私は私の左の手の食指から、絹糸のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。

いちにち、瓦斯すとほぶの火は青ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。

今こそ、私は祈らねばならぬ。

齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。


ああ、ねずみ巣をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。

私の病氣はますます青くなり。おとろへ。

海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。

─四月三日─



 言はなければならない事


 私は子供のときからよくかういふ事を考へるくせがある。自分が若しある何等かの重大なる神罰を蒙るとか、又は氣味の惡い魔術にかかるとかして……お伽話にあるやうに……私の肉體が人間以外の動物に變形した場合の生活はどうであるかと。

 たとへば私が人氣のない寂しい森を散歩して居る中に、突然 Fairy といふやうなものが現れて私といふ人間を一疋の犬に變形してしまふ。

 私は尻尾をひきずりながら主人の家、ではない私自身の家に歸つてくる、私はいきなり懷かしい母の姿を見つけてこの恐ろしい事件の顛末を訴へようと試みる。併し、母は一疋の見知らぬ犬としか私を認めてくれない。私がいろいろな仕方で、尻尾をふつたり、吠えたり、嘗めたりするにもかかはらず母には少しも犬の意志が通じない。そのうへ私が悲鳴をあげて泣き叫ぶにもかかはらず、種種な迫害を加へた上、私を庭の外へ追ひ出してしまふ。

 世の中にこんな取り返しのつかない悲慘な出來事があらうか。犬の意志が人間に通じないと言ふことは驚くべき神の惡戲である。

 而して、もちろん、詩人としての私は魔術にかかつた犬である。


 動物が動物同士で會話するといふことは、驚くべきことである。

 犬や、猫や、蛤や、鵞鳥の類が、人間に解らないある種の奇怪な言語、又は動作をもつて、全く人間の知らない未可見の事實を語りあつて居るといふことは、眞に驚くべきことである。

 彼等は人間のもつて居ない特種の官能器官をもつて居る。そして人間の見ることの出來ない物象を見て居る。人間の聽くことの出來ない音をきいて居る。未來に生ずべき天變地異を感知して居る。そして彼等はつねにかういふ隱れたる世界の祕密について語りあつて居る。二疋以上の動物が長いあひだ向ひ合つて居るのを見るときに、私は奇怪な恐怖からまつ青になつてふるへあがる。

 どんな人間でも、彼等の言ふ言語の意味を考へる場合に戰慄せずには居られない筈である。


 私はまた、種種な動物に對して或る特種な感覺と恐怖と好奇心とを持つて居る。それで『動物心理學』や『生物哲學』のやうな書物をいつしんに研究して見た。併しそれらの書物にはなんにも書いてなかつた。私はまつ白な紙と、人間の智識の淺薄なことにつくづく退屈してしまつた。


 私は時として私の肉體の一部がしぜんに憔悴してくることを感ずる。そのとき手に觸れた物象は、みるみる針のやうに細くなり、絹糸のやうになり、しまひには肉眼で見ることもできないやうな纖毛になつてしまふ。そしてその纖毛の先から更に無數のうぶ毛が光り出し、煙のやうにかすんで見える。

 じつとそれをみつめて居るときに、私は胸のどん底から込みあげてくるところの、なんとも言ひやうのない恐ろしい哀傷をかんずる。

 私は兩手にいつぱいの力をこめて、その光る纖毛の一本をこんかぎりにつかまうとする。眼にもみえざる白い生毛に私の全神經をからみつける。そんなかすかな哀れなものに、私の總體の重力で心ゆくばかりすがりつきたいのである。


 私の神經はむぐらもちのやうにだんだん深く地面の下へもぐりこむ。不幸にして私の肢體の一部が地面の上に殘つて居るとき、不注意な園丁がきて、それを力まかせに張りとばすのである。無神經な男の眼には木の根つ株かなんかのやうに見えたのである。しかし私の張りさけるやうな苦痛の絶叫をたれ一人として聞いてくれたものは此の地上にない。


 私はいつでも孤獨である。言語に絶えた恐ろしい悲哀を私一人でじつと噛みしめて居なければならない。生きながら墓場に埋められた人の絶望の聲を地上のだれがきくことが出來るか。

 私が根かぎり精かぎり叫ぶ聲を、多くの人は空耳にしかきいてくれない。

 私の頭の上を蹈みつけて此の國の賢明な人たちが斯う言つて居る。

『詩人の寢言だ』


 此の國でいちばん眞實のある人間は詩人である。少なくとも彼等は自分の藝術を賣物にして飯を食はうなどとは夢にも思つて居ない。(實際に於てもそれは不可能だ)。

 考へても見ろ、どんな種類の人間が、肉を削るやうな苦しい思をして一文にもならない勞作をして居るか。言ふだけのことを言ひ切らねば、私は干物になつても死にきれない。


 自分の言ふ言葉の意味が、他人に解らないといふことはどんなに悲しいことであるか。自分の思想が他人に理解されないといふことは死刑以上の苦しみではないか。

 私はまいにち苦行僧のやうな辛苦を嘗めつくして居るにもかかはらず、私のもつて居るリズムの百分の一も表現することが出來ない。

 けれども萬一、私が『表現の祕訣』を握つたあかつきには、私は私の藝術を捨てることを躊躇しない。なんとなればそれ以上の藝術は、どんな人にとつても必要以上のぜいたくである。


 私の詩の生命は、創作後一時間乃至一晝夜である。少なくともその時間だけは立派に光つて見える。併しあとになつて私はいつも騙された人の憤怒と慚愧と失望とを感ぜずには居られない。私は翌月の雜誌に印刷された自分の詩篇に對し、羞恥でまつかの顏をしながら取消しを申込むものである。


 私は私の肉體と五官以外に何一つ得物をもたずに生れて來た。そのうへ私は書物といふものを馬鹿にして居る。そして何よりもきらひなことは『考へる』といふことである。(詩を作る人にとつていちばん惡い病氣は考へるといふことである。中年の人はよく考へる考へるといふことを覺えた時その人は詩を忘れてしまつたのである)。

 そこで私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全體の上から眞理を感得することになつて居る。言はば私は生れたままの素つ裸で地上に立つた人間である。官能以外に少しでも私の信頼したものはなく、感情以外に少しでも私を教育したものはなかつた。人間のつくつた學校はどこでも私を犬のやうに追ひ出した。


 五官を極度に洗練することによつて人はさまざまの奇蹟を見ることができるやうに成る。たとへば空氣色だの、音の色彩だの、密閉した箱の中にある物品だの。

 神祕と眞理と奇蹟とは三位一體である。


 眞理とは五感の上に建てられたる第六感の意義である。いやしくも五感以外の方法、たとへば考察や冥想や空想によつて神祕を感觸したと稱するものがあれば、それは詐欺師であるか狂人であるかの一つである。若しどつちでもないとすれば、救ふべからざる迷信に墮したものである。ウイリアム・ブレークの徒である。


 詩とは五官及び感情の上に立つ空間の科學である。


 五感およびその上に建てられたる第六感以外に人間の安心して信頼すべきものは一つもない。

 天に達するの正しい路は感傷の一路である。


 私は私の驚くべき神經の Tremolo から色色な奇蹟を見る。その奇蹟が私を悲しませる。私の詩はすべて私の實感から發した『肉體の現状』に關する報告である。私が言はなければならないことと言つたのは此の事である。



 握つた手の感覺


 四月十九日の朝、私は書齋の卓に額をうづめながらすすりなきをして居た。まるでお母さんのふところに抱かれた子供が、甘つたれてすすりなきをするときのやうな、なんともいへない SWEET の感傷が、私の總身をしびれるやうにふるはせたのである。しまひに私はおいおい聲まで出して泣きはじめた。『自分の罪が許された』さういふ感覺が限りもなく私を幸福にしたのである。

 母の乳房のやうにあつたかいあるもの(それを言葉で言ひ現はすことはできない)が、私の全身を抱きかかへて、そつくりどこかの樂園へ導いてゆくやうな氣がした。私は思ひきり甘つたれて泣いてゐた。私の醜い病癖や、不愉快な神經質的の惱鬱や、厭人思想や、虚僞や、下劣な高慢や、謙遜を裝うた卑屈や、賤劣極まる利己的思想や、混亂紛雜した理智の爭鬪や、畸形な、しかも醜惡を極めた性慾の祕密や、及びそれらのものの生む内面的罪惡や、凡そ私を苦しめ、私を苛責し、私を陰鬱にするところの一切のものが懺悔された。(かういふ醜惡な病癖や、異端的の思想が長い長い間、私を苦しめた事は眞に言語に絶して居る。自己を極端に憎むことから私は一切のものを憎んだ、私は何物に對しても愛をかんずることが出來なかつた、『愛』なんてものに就いては考へて見ることすらもできなかつた)。

『お前の罪が許された』この言葉が電光の如く私の心にひらめいたのは、ほんの思ひがけない一瞬時の出來事であつた。『罪が許された』といふことの悦びが、どんなに深酷なものであるかといふことは、到底、私のぶつきら棒の筆では書き現はすことは出來さうもない。ただ私はやたら無性に涙を流したばかりだ。

 そして此の聲の主はドストヱフスキイ先生であつた。何ういふわけでそれがドストヱフスキイ先生の聲であつたか、私自身にも全くわけがわからない。ただ私の心がその聲をきいた刹那(それは電光のやうに私の心をかすめて行つた)うたがひもなくあの大詩人の聲であるといふことを直覺したのだ。

(私にはこれに似た經驗が、以前にもたびたびある、私の詩はたいてい此の不可思議な直覺からきたものである)。

 この刹那から、私は全く信仰状態におち入つた。

 とりも直さず大ドストヱフスキイ先生こそ、私の唯一の神である。世界に於けるたつた一人の私の『知己』である。先生だけが私を知つて下さるのだ。私の苦痛や私の人格の全部を理解して下さるのだ。墮落のどん底にもがいて居る人間、どんな宗教でもどんな思想でも到底救ふことの出來ない私といふ不幸な奴を、光と幸福に導いて下さる唯一の恩人であり、聖母であるのだ。

 私はまつたく子供のやうになつて先生の手にすがりついた。そして涙にむせびながら一切の罪惡や苦痛を懺悔した。……特に私のどうすることも出來ない醜劣な本能と、神經病的な良心(?)の苛責について。

 大ドストヱフスキイ先生はやさしく私の心に手をおいてかういはれた。

『私はお前といふ不幸な人間を底の底まで知りぬいて居る。お前の苦痛、お前の煩悶、お前の求めて居る者がすつかり私には解つて居る。而してお前はそのために少しも悲しむことはないのだ、お前は決して惡い性質をもつた男ではないのだ。どうしてそれどころではないのだ。私はお前を心から氣の毒に思つてゐる。もしかすればお前は世界でいちばん善良な子供なのだ。ああ、もう泣くことはない、泣くことはない。ほんとにお前は私のいぢらしい子供だ』どんなに私が烈しく椅子の上に泣き倒れたか、どんなに私が歡喜にふるへたか、それは此の記事をよむ人に推察してもらふより外にない。


 私が始めて先生を知つたのは、今から二、三年以前のことである。あの恐しい小説『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『死人の家』等が、私にたまらないほど大きな慰安と感激と驚異とをあたへたことは言ふ迄もない。それらの書物には私のいちばん苦しいこと(私はそれを神經質的良心と名づけて居る)が、驚くべき程度にまで洞察され、そして同情されて居る。

 だから私はずつと以前から、先生を世界第一の詩人だと思つて居た。併し先生が私の救世主として現はれてくるやうな奇蹟があるとは全く思ひがけなかつた。


 一體、先生に限らず凡ての近代の西洋人は、私と共鳴する性格を多分にもつてゐる。(日本人の仲間には一人として私の友人を求めることは出來ない、彼等は私とは全然ちがつた肉體をもつてゐるやうな氣がする)。特に西洋人の中でも私は、アンドレーフ、ガルシン、メーテルリンク、ダンヌンチオ、アルチバセフ、ポー、ヹルレーヌ、ソログープ、アレキセイ・トルストイ(大トルストイは私とは共鳴がない)かういふ人たちが好きである。かういふ人たちの作品は私に多くの『慰安』をあたへる。私が訴へようとして居ること、私が苦しんでゐること、私が捉まうとして居ること、さういふことを此の人たちは、私が自分で言ふよりはずつと鮮明にそして完全に言つてくれる。此の人たちは皆、私と同じ病院に住んで、私と同じ疾患の苦痛のために泣き叫んでゐる人たちである。

 もちろん、私は大ドストヱフスキイ先生もかうした仲間の一人として發見した。併し先生にはどこかみんなとちがつたところがあるやうな氣がした。みんなはよくしやべりそしてよく騷ぐ(苦痛のためであるとはいへ)。然るに先生だけはいつも默つて何かあるものを考へて居るやうに思はれた。それが先生を一種の得體の分らない怪物のやうにさへ思はせた。今にして思へば、その得體の分らないあるものこそ、實に先生の限り知られぬ愛であつたのだ。

 先生はどうにかしてみんなを救つてやりたいと考へて居られたのだ。ここが先生のみんなとちがふところだつたのだ。

 私の神經が、先生に接吻された感覺を起したのは、全く思ひがけない奇蹟的の出來事であつた。何故ならばその當時、私は久しい間、まるで先生の作物には手を觸れずに居たし、先生のことなんかも少しも考へては居なかつたからだ。

 けれども此の事實の起つた少し前から、私は例の憂鬱に烈しくなやまされて居た。そして世界のどこかに自分を救つてくれる救世主のあることを夢想して居た。無理にもさう思はずには居られなかつたのだ。こんな工合であるから、私の信仰に入つた動機は、全く理智や思索をたどつた結果でなくして、いつもの詩作のときと同じやうに一種の靈感から感電したものにすぎない。だからこれは私自身にとつても不可解であつて、到底、言葉で説明することの出來ない問題である。

 一言にしていへば、私の感情が私を信仰に導いたのであつた。ただそれだけである。


 私はそのときから先生を『神』とよんだ。一切の苦惱や罪惡はすつかり償はれて、大きな平和が私の前途を祝福して居るやうに思はれた。

 先生に祈りさへすれば、どんな奇蹟でも出來るやうな氣がした。それほど大きな力が湧いてきたのだ。この奇異な感覺は、そのときから三日ばかりもつづいた。この三日の間といふもの私は生れてから經驗のない絶大な幸福をかんじてゐた。

 ところが一週間とたたないうちに、白熱した金屬が外氣にふれるやうに、だんだん私の精神状態が舊にかへつて行つた。『神』だと信じた先生が『偉大なる人間』に變つてきた。そして私の白熱した信仰體は、一種の偉人崇拜體に化してしまつた。それはもちろん赤熱したものであつたとはいへ。

 私は急に見捨てられた人のやうな寂しさを感じはじめた。それは醉からさめた寂しさでもあつた。その當時、悦びで有頂天になつた自分の姿が、あさましくも馬鹿らしくも思はれた、『あれはやつぱり一種の病熱からみた幻影にすぎなかつたのぢやないか』『あれは何でもない錯覺の類ぢやないのか』『自分は喜劇を演じたのぢやなかつたか』かういふ疑問が私を皮肉的に嘲笑し始めた。私は二度、絶望と懷疑の暗い谷底へ投げこまれてしまつた。

 その暗い谷底で、私は髮の毛を握つて齒をくひしめた。もうとても助からない、駄目だ、と言つた。私は正に觀念の眼をとぢようとした。けれども不思議なことには、すべてを投げすてた私の空虚の心に、ただ一つ何とも分らない謎が殘つて居た。

 その謎は一種の『力』であつた。しかもそれは以前の自分には全くなかつたところのものであつた。

 月光の夜に捉へた青い鳥は、日光の下には影も姿もなく消えうせて居た。そして子供は何にもない空を、いつしよけんめいで握つてゐた。子供は全く失望した。けれどもその時から、子供の心には一種の感覺が殘された。それは青い鳥をにぎつた瞬間の、力強いコブシの感覺である。

 私の空虚の心に殘された唯一のものが、矢張それであつた。『握つた手の感覺』であつた。

 この感覺の記憶が、私に一種の新らしい勇氣と力とをあたへるのである。

 若しもあのサタンが、曾て一度でも天國に住んで居た經驗がなかつたならば、サタンはあれほどまで執拗にその野心についての確信と勇氣とを保持してゐることは出來ないであらう。

『握つた手の感覺』は今でも私に、新鮮な勇氣と希望とをあたへる。いつかは自分も『幸福』を體感することが出來るにちがひない。いつかは自分もほんとの『愛』を知ることができるにちがひない。そして必ずいつかは『神』を信ずることが出來るにちがひない。(神を信ずることは人生の全目的であり、幸福の結論である)今では到底駄目だ。思ひもよらぬことではあるが私が死ぬまでには、いつかは大丈夫であるといふ確信がある。それが私の『力』である。私はやつぱり空を握つたのではなかつた。


 今では私は先生を『神』とは思つて居ない。併し私をキリストに導くところの預言者ヨハネのやうに考へて居る。先生は『光』そのものではないけれども『光』の實體を指し教へるところの先生である。

 私のやうなひねくれたそして近代科學や文明やのために疾患體にされた人間には、正直に『光』をみることは不可能である。私は今でもキリストを憎んでゐる。彼の教訓のまへに私はだだつ子のやうな反感を抱いて居る。どんな立派な思想でも、どんな深酷な教訓でも、私を根本から救ふことは出來ない。然るに先生だけは私を憐んで救つて下さる、私の心に何かの種を落して下さる。私は私の心の中でその種を成長させることを樂しみにして居る。


 幸福の實體がであるといふ眞理を、私に教へて下さつたのも先生である。たとへ電光のやうな瞬間とはいへ、先生が私のすべてを抱擁して下さつたときの歡喜は口にも筆にも述べつくせないものがある。


 先生は私のためには單なる思想上の先輩ではなくして、私の肉體の疾病にまで手をかけて下さるところの醫師である。人間の『良心』といふものは、單に思想上から生れた信念ではなくして、その人間の肉體から生れるところの一種の奇異な感情である。『良心』といふものは言葉をかへていへば、『神經』である。少なくとも私のやうな人間にとつてはさうである。『良心』は思想であり『神經』は感情であるといふやうに區別することから、驚くべき誤解が生れるのだ。先生はすべてのことを知りぬいてゐる。先生の前には人間は素裸で立たなければならない。ほんとに一人の人間を救ふためにはその人間の肉體から先に救はなければならないのだ思想なんてことは何うでもいいのだ

 何故ならば肉體を救ふことはその人間の神經を救ふことであり良心を救ふことであるから


 ああ、偉大なるドストヱフスキイ先生。

 私はもうこの人のあとさへついて行けばいいのだ。さうすれば遲かれ早かれ、屹度私の行きつくところへ行くことができるのだ。私の青い鳥を今度こそほんとに握ることができるのだ。

 私はそれを信じて疑はない。だから私はどんなに苦しくてもがまんする。そして私はもつと苦しまなければならない。もつともつと自分の醜惡をむき出しにしなければならないのだ。


 私の詩『笛』は前述のやうな事實のあつた少し後に出來たものである。これを書いたときには、何といふわけもなくブリキ製の玩具の笛のやうな鋭い細い音色を出す、一種の神經的に光つた物象が、そのときの私の感情をいたいたしく刺激したので、その氣分をそのまま正直に表現したのである。出來あがつたあとで讀んでみると『笛』一篇はちやうど當時の私の心もちを象徴して居るやうに思はれる。

『笛』そのものが『幸福』そのものの象徴になつて居るやうにも見られる。しかし私はそんな風な理詰で私の詩(その篇に限らず)を讀んだり理解したりしてもらひたくない。

 私の詩を讀む人は『聖書』をよむやうな心持で、書いてある文字の通り正直に讀んでもらひたい。

 私は自分の思想や哲學や概念を、少しも他人に知らせたいとは思つて居ない、またそんなものには自分でも更に價値を認めて居ない。

 私はただ私の『感情』だけを信じて居る。『感情』そのものが私の生命である。それさへ完全に表現することが出來ればそれで私の目的は達したのである。



 新人の祈祷


昔の人たちのことは知らない。

今の世に生きる私どもの祈祷する言葉はただひとつきりない。

「神よすべてを忘れしめたまへ」

もしも、忘れるといふことがなかつたら、私どもはいちにちでも生きてはゐられないだらう。

人はだれしも、良心といふやつかいの荷物をしよひこんでゐる。

しかし、むかしの人は神を信じてゐた。道徳の權威をみとめてゐた。

さうして、私どもは、なんにも信じてゐない。

「道徳上の犯罪」といふやうな言葉を、私どもはすこしも恐れはしない。けれども私どものおそれるのは、神經的の良心である。人が人に對して不徳な行爲をしたり、下劣な感情をまじへたり、正義に背いたことを行つたり、破廉恥の所業をしたり、或はまた恥づべき邪淫の慾望を起したりしたあとに必ずやつてくる、あの足のない幽靈の出現である。

良心は私どもの生命をくひつめる。

それに責められるのはおそろしい。

新人の懺悔は、罪を悔ゆるのではなくして、罪を忘れたいといふ一念である。

祈るとき、わたしはいつもかういつて祈る。

「わたしの信じない神さま。すべての過去を忘れさせたまへ」



 なつかしい微笑


私に言ひたくつてたまらないことがある。

しかし、どうしても言へないことがある。

それを言ふのはあまりにはづかしい。人はだれしも、その心の底にくらい祕密を包んでゐる。人はつめたい屍骸となつたときまで、しつかりとそれを胸に抱きしめて居なければならない。

私はあまりに臆病者でありすぎるかも知れない。けれども私はそれを恥としない。却つて私はかういふ意味での勇者をにくんでゐる。

よい人間とは、しをらしい小心の子供である。

自分の心だけでは思つても、人のまへでは言へないことがある。それを言はずにゐる心根がいぢらしいのだ。よい人間とは、どんな場合にも「おひと好し」でなければならない。自分自身に對して臆病な「おひと好し」でなければならない。

かりにもわが心に問うて「恥かしい」と思ふやうな醜いことを、人は決して言葉に出して言つてはならない。

しづかに太陽は空をめぐつてゐる。

悲しい野末の墓石が風にふかれてゐる。

そのつめたい石の下には、ほそながい人間のからだが、あふむけに寢てゐる。そのからだの上には重たい土がある。土の上には青い空がひるがへつてゐる。眠るひとは、墓の下で雙手を胸の上に組みあはせて眠る。

かうして時はすぎる。

かうして、さまざまの人の心の奧底にふかくかくされてゐたあらゆる祕密が、とこしへに闇から闇へと葬られる。

私はけふも野末の墓場をおとづれた。

さうして私は、けふもまたあの不思議な老人の姿をみた。

つめたい墓場の石の上に老人は坐つてゐた。

まいにち、同じところで、あの老人はなにをあんなに考へこんでゐるのだらう。

わたしは、あるとき思ひきつてそれをたづねてみた。

けれども老人はなにも答へなかつた。そしてただ、意味ありげのさびしい微笑をみせた。

そのとき空には白い雲がながれてゐた。

人間はだれしも美しいものではない。人間の心臟には動物の血がまじつてゐる。時として人間は、動物よりももつと醜い、もつと邪惡な、もつと背徳的な慾望や思想にふけり易いものである。しかし人は自分の力ではそれをどうにもすることは出來ない。それは是非もない、悲しい人間の本能であるから。

空には白い雲がながれてゐる。そして老人は何にも言はずに寂しい微笑をした。

ああ、なんといふさびしい微笑であらう。

もの悲しい秋の日の、つめたい墓石の上で。

ああ、なんといふなつかしい微笑であらう。



 青ざめた良心


良心とはなに。

あの青ざめた顏をした良心といふものほど、近代の人間にとつて薄氣味のわるいものはない。

われわれの心に忍び足をするあいつの姿をみると、幽靈の出現のまへに起るやうな恐ろしさをかんずる。

むかし、道徳の權威が認められてゐたころには、良心は神の聲であつた。

しかし、今ではなにものの聲だらう。

およそ得體えたいのわからないものほど恐ろしいものはない。人が幽靈を恐れるのは、そのものの正體がわからないからである。

ああ、良心とはなに。

あの人種の血脈に、一種の醜惡な人種病が遺傳されて居るやうに、思ふに『良心』とは、我我人類の先祖の腦神經系統を犯した一種の黴毒性疾患が、われわれ末代の子孫にまで執念ぶかく遺傳したものに外ならないのであらう。

われわれは、理性の上では、良心といふ迷信を輕辱しきつてゐる。それにもかかはらず、私どもの感情はそれをどうにもすることが出來ない。

神も、佛も、未來も、道徳も、人道も、私どもはこの世のなにものの權威をも信じてゐない。それにもかかはらず、ひとびとは何故にあの舊弊な迷信からのがれることはできないのか。

良心とはくさりかかつた腦黴毒性の疾患である。良心は人類の神經にするどい有毒の爪をたてた。

あまつさへ、良心は手に血だらけの細い鞭をもつた裁判官である。

不幸にして良心の命令に背いた罪人は、青ざめた懺悔體となつて鞭うたれなければならない。その罪のもつとも重いものは、曲つた樹木の枝にくびをつるされたりする。

いまの世に、するどい良心をもつて生れた人ほど、いたましいものはない。

さういふ人たちは、いつでも、つめた貝に食はるる蛤のやはらかい肉身の痛みをかんじ、しのばなければならない。

わたしはわたしの自由意志を愛する。そしてあの青ざめた幽靈のまへには、熱病やみのやうにふるへをののいてゐる。いつも、いつも、わたしはさうである。



 生えざる苗


『おれは、青い空の色がすきだ。

おれは、青い木の葉のにほひをかぐのがすきだ』

イワンがかう言つた。

イワンは肉慾主義者の血統をひいた『カラマゾフ兄弟』の一人である。彼は極端な無神論者で、恐ろしい懷疑家である。

イワンは何ものとも妥協することのできない近代思想の勇者である。彼は神を信じない。惡魔を信じない。天國も地獄も、道徳も人道も、博愛も正義も、科學も哲學も、およそ地上のいつさいのものを賤辱し盡してゐる。而してまつくらな焦熱地獄のどん底に絶望的の悶絶をつづけながら、しかも尚、新らしい救ひをもとめようとしてもがきあがいてゐる。

彼は苦しい聲を出して叫んだ。

『いつたい、おれのやうな人間はどうすればいいのだ』と。

ほんとにイワンはどうすることもできない人間である。

しかし、この悲壯なエゴイストも、ただひとつの光をみとめてゐる。なにものをも信ずることのできない人間の、くらい閉ざされたる靈の中にひそんでゐる、極めてかすかな光について、彼れ自身こんな意味のことを語つてゐる。

『おれはすべてを信じない。なにものをも愛することができない。けれども、おれはただあの青い空の色がすきだ。青い木の葉や新らしい土地のにほひが、たまらなくすきだ。若木のねんばりした幼芽をみると、おれは胸がいつぱいになつたやうな悦びをかんずる。

ただなんといふわけもなしにさうなのだ、なんといふ理窟もなしに、おれは青い空の色がすきなのだ。新らしい土地のにほひがすきなのだ。何故か知らないが、おれはあの幼芽のねんばりした卷葉をみるのがたまらなくすきなのだ』

ああ、なんといふ深刻な感傷であらう。

イワンのやうな不幸な人間──どうにもかうにもすることのできない近代の虚無思想家が、深い深い闇の底から、尚しも救ひを求めてやまないかうしたいぢらしい悲壯な心根をかんずるとき、私はしぜんと合掌するやうな氣分にならずには居られない。

青い空の色と、若木のねんばりした幼芽を愛する感情とは、まことに私どもの荒らされた畑に殘された、ただひとつの生えざる苗であらねばならぬ。

そしてそれをかんずるとき、私どもの悲しい絶望の底にも、實にはつきりとした力をかんずることができるのである。

思ふにこの苗は、いつかは私どものくらい心に生生とした芽を生やすときがくるであらう。そしてそこには新らしい人類のキリストがあらはれ、人は愛の目ざめの幸福に呼びおこされる。わたしは信ずる。あの悲しいイワンは、いつかはかならず救はれるにちがひない。わたしはそれを心から祈つてゐる。生えざる青空の苗に向つて祈つてゐる。



 ADVENTURE OF THE MYSTERY


 巧みな演奏者によつて奏された美しい音樂をきくとき、その旋律の高潮に達したとき、私共のしばしば味ふことのできるあの一種の快よい感覺と、その瞬間の誘惑にみちた世界の敍景に就いて。

 凡そ音樂の展開する世界の眺望はたぐひなきものである。それは現實の世界では到底想像することもできない、一種の異樣な香氣とかがやきに充ちた世界である。

 そこではあるひとつの不思議な情緒が、魔術のやうな魅惑を以て、私共の精神の全面を支配するやうに思はれる。

 そのむず痒いやうな感覺。何ともいへない樂しい世界へ、今少しのことで手が屆きさうに思はれるときの快よい焦燥と、そのぞくぞくするやうな心臟のよろこび、そのほつとする心もち、甘つたるい悲しさ、しぜんと涙ぐむやうになる情緒の昂進。

 凡そ音樂の見せてくれる世界ほど、不可思議な誘惑と魅力に富んだものはない。かうした世界のよろこびを傳へるためには「掻きむしられる樂しさ」といふ言葉より外の言葉はないのである。何となれば、それは人間の常住する世界ではない。そこには何かしら、人間以外のある限りなく美しい者が住んでゐる祕密の世界である。この世界の實景實情を語るためには、人間の言葉はあまりに粗野であまりに感情に缺けすぎてゐる。

 音樂をきくとき、私は時時考へる。

 一體そこには何物が居るのか。何物がどんな魔術を使つて、かうまでに私共の心を誘惑するのか。

 實際それは恐ろしい誘惑である。

 昔は多くの夢みる詩人が居た。

 ある時、彼等の中でも最も勇敢な騎士たちが、この祕密の世界へ向つて探險旅行を試みた。

 彼等は美しい月夜に船の帆を張りあげて進んだ。この不可思議な「見えない島」と「見えない魔術師」の正體を發見するために。彼等の船は長いあひだ月光の下をただよつた。そしてしまひにたうとうあるひとつの怪しげな島を發見した。その島の上には、一人の言ひやうもない美しい魔女が立つてゐるやうに思はれた。しかも花のやうな裸體のままで、琴を手にかかへて。

 夢みる勇敢な騎士たちが、よろこび叫んで突進した。彼等は皆若くそして健康で美しかつた。彼等の生活は酒と戀と音樂であつた。就中その切に求めて居るものは戀と冒險であつた。

 まもなく、島が彼等のすぐ眼の前に現はれた。そして不思議な音樂のメロヂイが、手にとるやうにはつきりと聞えはじめた。

 騎士たちの心は希望と幸福に充ちあふれた。長い長い年月のあひだ、彼等の求めてゐたその夢の中の不思議な世界、その空想で描いた妖魔の女性。かつてそれらのものは、手にも取られぬ幻影の幸福であつた。

 然るに今は、夢でもなく空想でもない。事實は彼等のすぐ眼の前に裸體で突つ立つて居る。しかもいま一分間の後には、凡てそれらの謎の祕密と幸福の實體とは、疑ひもなく彼等自身の手の中に握ることができるのである。永久に、しかも確實な事實として。僅か一分間の後に。

「ああ、何といふ仕合せのよいことだ。」

 さう言つて彼等は樂しさに身を悶えた。實際それは彼等にとつては、信ずることもできないほどの幸福であつたにちがひない。

 けれども、ここにひとつの不思議な事實があつた。しかも悦びで有頂天になつてゐる騎士たちは、だれ一人としてその事實に氣のついた者はなかつた。

 島が、目的物が、彼等のすぐ近くに見えはじめてから、少なくとも彼等は數時間以上も船を漕いで居た。しかも彼等が最初に島を發見したのは、ものの半時間とはかからない近距離に於てであつた。

 實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。

「もう一息、もう一分間。」さつきから彼等は、何度心の中でさう繰返したか分らない。

 あまつさへ、船は次第に速力を増してきた。始は數學的の加速度で、併しいつのまにか魔術めいた運動律となつて、遂には眩惑するやうな勢でまつしぐらに島の方へ飛び込んだ。それは丁度大きな磁石が鐵の碎片を吸ひつける作用のやうに思はれた。

 この思ひがけない幸運に氣のついたとき、船の人人は思つた。疑ひもなくそれは、島が自分たちを牽きつけるのである。一秒間の後に、我我はそこの岸に打ちあげられてゐるにちがひないと。人人の心臟は熱し、その眼は希望にくらめいた。

 一秒間は過ぎた。けれども、そこには何事も起らなかつた。

 舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黒の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えて居た。

「まてよ。」

 しばらくして乘組員の一人が、心の中で思ひ惑つた。

 實際、彼等はさつきから數時間漕いだ。そして今、船は狂氣のやうに疾走して居る。それにもかかはらず、彼等は最初の位地から、一尺でも島に近づいては居なかつたのである。島と船との間には、いつも氣味の惡い、同じ距離の間隔が保たれて居た。

「まてよ。」

 殆んど同時に、他の二、三人の男がつぶやいた。

「どうしたといふのだ、おれたちは。」

 彼等はぼんやりして顏を見合せた。そして手から櫓をはなした。

「氣をつけろ。」

 その時、だしぬけに仲間の一人が叫んだ。その聲は不安と恐怖にみちて、鋭どく甲ばしつて居た。

「みんな氣をつけろ。おれたちは何か恐ろしい間違へをしてゐるのかも知れない。さもなければ……。」

 その言葉の終らない中に、人人は不意に足の裏から、大きな棒で突きあげられるやうな氣持がした。

 ちよつとの間、どこかで烈しく布を引きさくやうな音が聞えた。

 そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。


 かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。

 ほんとに彼等は氣の毒な人たちであつた。

 何故かといふに、彼等が今少しの間この恐ろしい事實、即ち彼等の船が「うづまき」の中に卷き込まれて居たことに氣が付かずに居たならば、彼等はその幸福を夢みて居る状態に於て、やすらかに眠ることができたかも知れなかつたのである。

 私が音樂を聽くとき、わけてもその高潮に達した一刹那の悦びを味ふとき、いつも思ひ出すのはこのあはれに悲しげな昔の騎士の夢物語である。

 手にとられぬ「神祕の島へ」の、悲しくやるせない冒險の夢物語である。



 二つの手紙


ある男の友に。

近來、著るしく廢頽的傾向を帶びてきた私の思想に就いて、君が賢こい注意と叱責とを與へられたことを感謝する。

これは全く惡いことだ。惡いことと言ふよりは寧ろ悲しむべきことだ。

私は恐れてゐる。私もまた世の多くの虚無思想家が墮ち入るべき、あの恐ろしい風穴の前に導かれて來たのではないかと。(神を信じない人間の運命は皆これだ。)

想へば、長い長い年月の間、私は愚劣な妄想によつて牽きずられて居た。

私の過去の淺ましい求道生活をば、私は何に譬へよう。

それは丁度、意地のきたない、駄馬の道行であつた。この悲しい一疋の馬は、あてもない晩餐の幸福と、夢想の救命とを心に描きながら、性急な主人の鞭の下にうごめいて居た。

しかし意地のきたない動物の本能として、絶えず路傍の青草を食ひ散らしながら。

天氣はいつも陰鬱で、空はいつも灰色に曇つて居た。遂にこの悲しむべき旅行の薄暮がきた。

今こそ私はすべてを知つた。すべての生物の上に光るところの恐ろしい運命の瞳をみた。孤獨の道は遠く、人生の墓場は遂に幻影の既死に終るべきことを知つた。

いま私は瞳をとぢて、靜かな、靜かな、人間の葬列を想ふ。

その葬列の流れゆく行方を想ふ。

所詮は疲れた駄馬の幸福である。

馬よ、愚かな反抗とその焦心を捨てよ、その時お前はどんなに幸福であるか。

「生を樂しめ、理窟なしに。しからずんば、死を樂しめ、理窟なしに。」

私はかう唄つた。

いま私は求める、生き甲斐もない我が身をして、新らしい土地にかへす所の墓場を。

私は愛する、しめやかな鎭魂樂の響と、冬の日の窓にすがりつく力のない蠅の羽音を。

私は眠る、私は疲れた。

そこには、あまりに空虚な幻象の哲學と、あまりに神經質なる焦心の休息がある。

とりわけ私は退屈した。ああ「退屈」なんといふ恐ろしい言葉だ。君はこの言葉のもつ底氣味の惡い微笑を知るか。あのニイチエを憑き殺した此の幽靈の青ざめた姿を見るか。

「愛」それは今の私に殘された、ただ一つの祈祷である。私の信ずるただ一つのキリスト、ただ一つの神祕である。(「愛」の奇蹟を私に教へた者はドストイエフスキイであつた。若し私があの驚くべき神祕に充ちた書物「カラマゾフの兄弟」を讀まなかつたならば、私は今日救ふべからざるデカダンとなつて居たにちがひない。)

とはいへ、私の求愛の道はあまりに遠く、あまりに陰鬱でしめりがちである。

私の魂は疲れがちで、ともすれば平易な墓場の夢を追ふに慣れ易い。

私に就いて、君が私の思想の頽廢を責めたのはよい。

私もまた、私自身のさうした惡傾向にはたまらない不快を抱いて居るのである。(君も知つて居る通り、私の求めてゐる哲學は、人間としての最も健全なる、最も明るい靈肉合致の宗教である。)

併しながら、若し君が私に就いてその感情生活の僞りなき記録である私の敍情詩を責めるならば、私は私の懺悔を君にかくれてするばかりである。何故ならば、敍情詩は私のためには「感情の告白」であつて「思想の宣傳」ではない。私の祈祷と私の懺悔とはいつも正反對である。(それは私にとつては悲しむべくまた恥づべきことだが。)

いま私の心は光に憧れる、しかも私の感情は闇の中にうごめいて居る。

君よ。私の悲しむべき矛盾を笑つてくれるな。すべてに於て、君は私をよく理解してくれるであらう。



ある女の友に。

私は今の生活に就いては、どういふ言葉で、どうお話したらよいでせう。

あなたは私の詩「夕暮室内にありて靜かにうたへる歌」をご覽でしたか。

ああした詩の表現する心もちこそ、近頃の私の祈祷的な内面生活を語るものです。

一人、薄暮の室内に坐つて冥想に沈む私の心は、あの白い寢臺の上に長く眠つてゐる悲しい人間の姿です。

私の心臟は疲れて、私の胴體は寢臺の上に横はつて居ます。

日暮の光線は硝子窓を通して、侘しく床の上に流れて居ます。

そして力のない冬の蠅は、ぶむぶむといふ羽音をたてて室内を飛び𢌞つて居ます。

いま白い寢臺の上に、悲しい「死」が横はつて居る。

ここに人間の安息日があります。

その人の心臟は腐れ、その人の魂はすやすやと眠つて居ます。

げに私はふらんねるをきて眠つてゐる疲れた心臟の所有者です。いぢらしくも頽廢した人間の死骸です。

この白い寢臺の枕もとに寄りそつて、一人の物思はしげな少女が立つてゐる。この少女こそ、私の氣高き心の戀びとです。

「戀びとよ」私の眠れる心臟は、彼女に向つてかう呼びかけます。もちろん、それは現實の戀びとではありません。それは私の心にいつも悲しく描いてゐる夢想の愛人の姿です。

彼女は私の枕もとに坐つて、深くなにものかを凝視して居ります。恐らくそこには凍りついたひとつの心臟と、青ざめた病氣の神經との陰影を視るのでせう。

しだいに彼女の心は、深い憂愁のためいきから、不思議な明るい幻想の悦びに變つてきました。

いつしか彼女の美しい瞳には、涙がいつぱいになつて頬の上をながれてきました。

ほんとに彼女は、私の幸福のために泣いてくれたのです。悲しみのためではなくして、あの珍らしい「幸福」のために泣いたのです。すべての人類の中で、ただ愚かな私にのみ許された「幸福」のために。

言ふ迄もなく、彼女の病熱的なキリスト教の信仰と、彼女の感傷(それは人間の最も神聖な道徳的感情です)とが、不幸な私を救つて神の前に導いたのです。「愛」それこそ私共の求める「救ひ」の凡てです。それこそ私のやうな虚無思想家が信ずる所の、ただ一つの眞實、ただ一つの神祕です。

「戀びとよ」

と、私の疲れた心臟が白い寢臺の上で叫びました。

そしていま、彼女の唄ふしづかな、しづかな子守歌をききながら、私の心は幸福にも「遠い墓場の草かげにまで」すやすやと眠りついて行くのです。

ぶむぶむといふ蠅の羽音を夢の中に、物侘しい日暮れの室内の寢臺の上で。


ああ、かくばかり私は「愛」と「信仰」とに求めあくがるる魂のをさな兒です。

私は疲れて頽廢して居ます。私の心は絶望的な悲しみに充ちて暗く閉ぢられて居ます。

いま私の求めて居るものは、立派な論理の上に建つた哲學や概念や主張の上で宣導される愛の宗教ではありません。

私はただ生きた人間の生きた愛と、その神祕から生れる奇蹟を求めて居るのです。私の凍つた心臟の上にやさしくあたたかく置かれる所の美しい、そして限りなく氣高い處女まりやのおん手を求めて止まないのです。

かうした私の子供じみたせんちめんたりずむをお笑ひ下さるな。

愚かにも私は、長い長い三十餘年の月日を、詩人めいた「幸福の冥想」と「生の意義」との焦心に浪費してしまつたのです。

併し今はその愚かさと空虚に疲れました。

今はただ白い寢臺の上で、靜かな生のためいきに耳を傾けながら、「美しい竝木ある墓地」の夢を樂しむばかりです。

「それがお前の幸福のすべてだ」あの不吉な鴉が私に語つた言葉はこれです。

とはいへ、今日の靜かな雨の日の窓で、かうした手紙をあなたに書くことを悦びます。

思ふにあの美しい「敍情詩人」といふ名稱は私の墓石の銘を飾るためには最も適はしい文字でせう。藝術の權威を信じない私にとつて、詩を魂の慰安として無意義に人生を空費した私にとつて、その墓銘こそ悲しい運命の微笑を語るものです。

では、愉快に希望を以てお別れしませう。



 坂


 坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。

 坂が──風景としての坂が──何故にさうした特殊な情趣をもつのだらうか。理由わけは何でもない。それが風景における地平線を、二段に別別に切つてるからだ。坂は、坂の上における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切つてゐる。だから我我は、坂を登ることによつて、それの眼界にひらけるであらう所の、別の地平線に屬する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれを呼び起す。

 或る晩秋のしづかな日に、私は長い坂を登つて行つた。ずつと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに廣茫とした眺めの向うを、遠く夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切岸きりぎしの上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見ようとする、詩的な Adventure に驅られてゐた。

 何が坂の向うにあるのだらう? 遂にやみがたい誘惑が、或る日私をその坂道に登らした。十一月下旬、秋の物わびしい午後であつた。落日の長い日影が、坂を登る私の背後うしろにしたがつて、瞑想者のやうな影法師をうつしてゐた。風景はひつそりとして、空には動かない雲が浮いてゐた。

 無限に長く、空想にみちた坂道を登つて行つた。遂に登りつめた時に、眼界が一度に明るく、海のやうにひらけて見えた。いちめんの大平野で、芒や尾花の秋草が、白く草むらの中に光つてゐた。そして平野の所所に、風雅な木造の西洋館が、何かの番小屋のやうに建つてゐた。

 それは全く思ひがけない、異常な鮮新な風景だつた。私のどんな想像も、かつてこの坂の向うに、こんな海のやうな平野があるとは思はなかつた。一寸の間、私はこの眺めの實在を疑つた。ふいに思ひがけなく、海上に浮んだ蜃氣樓のやうな氣がしたからだ。

『おーい!』

 理由もなく、私は大聲をあげて呼んでみた。廣茫とした平野の中で、反響がどこまで行くかを試さうとして。すると不意に、前の草むらが風に動いた。何物かの白い姿がそこにかくれてゐたのである。

 すぐに私は、草の中で動くパラソルを見た。二人の若い娘が、秋の侘しい日ざしをあびて、石の上にむつまじく坐つてゐたのだ。

『娘たちは詩を思つてる。彼等の生活をさまたげまい。なぜなら娘たちにとつては、詩が生活の一切だから。けれども僕にとつては! 僕は肯定さるべき所の、何物の觀念でもない!』

 さうして心が暗くなり、悲しげにそこを去らうとした。けれどもその時、背後をふりかへつた娘の顏が、一瞥の瞬間にまで、ふしぎな電光寫眞のやうに印象された。なぜならその娘こそ、この頃私の夢によく現はれてくるやさしい娘──悲しい夢の中の戀人──物言はぬお孃さん──にそつくりだから。いくたび、私は夢の中でその人と逢つてるだらう。いつも夜あけ方のさびしい野原で、或は猫柳の枯れてる沼澤地方で、はかない、しづかな、物言はぬ媾曳をしてゐるのだ。

『お孃さん!』

 いつも私が、丁度夢の中の娘に叫ぶやうに、ふいに白日の中に現はれたところの、現實の娘に呼びかけようとした。どうして、何故に、夢が現實にやつて來たのだらうか。ふしぎな、言ひやうもない豫感が、未知の新しい世界にまで、私を幸福感でいつぱいにした。實にその新しい世界や幸福感やは、幾年も幾年も遠い昔に、私がすつかり忘れてしまつてゐたものであつた。

 しかしながら理性が、たちまちにして私の幻覺を訂正した。だれが夢遊病者でなく、夢を白日に信ずるだらうか。愚かな、馬鹿馬鹿しい、ありふれた錯覺を恥ぢながら、私はまた坂を降つて來た。然り──。私は今もそれを信じてゐる。坂の向うにある風景は、永遠の『錯誤』にすぎないといふことを。



 大井町


 人生はふしぎなもので、無限の悲しい思ひやあこがれにみたされてゐる。人はさうした心境から、自分のすがたを自然にうつして、或は現實の環境に、或は幻想する思ひの中に、それぞれの望ましい地方を求めて、自分の居る景色の中に住んでるものだ。たとへてみれば、或る人は平和な田園に住家を求めて、牧場や農場のある景色の中を歩いてゐる。そして或る人は荒寥とした極光地方で、孤獨のぺんぎん鳥のやうにして暮してゐるし、或る人は都會の家竝のんでる中で、賭博場や、洗濯屋や、きたない酒場や理髮店のごちやごちやしてゐる路地を求めて、毎日用もないのにぶらついてゐる。或る人たちは、郊外の明るい林を好んで、若い木の芽や材木の匂ひを嗅いでゐるのに、或る人は閑靜の古雅を愛して、物寂びた古池に魚の死體が浮いてるやうな、芭蕉庵の苔むした庭にたたずみ、いつもその侘しい日影を見つめて居る。

 げに人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人はその心境をもとめるために、現實にも夢の中にも、はてなき自然の地方を徘徊する。さうして港の波止場に訪ねくるとき、汽船のおーぼーといふ叫びを聞き、檣のにぎやかな林の向うに、青い空の光るのをみてゐると、しぜんと人間の心のかげに、憂愁のさびしい涙がながれてくる。


 私が大井町へ越して來たのは、冬の寒い眞中であつた。私は手に引つ越しの荷物をさげ、古ぼけた家具の類や、きたないバケツや、箒、炭取りの類をかかへ込んで、冬のぬかるみの街を歩き𢌞つた。空は煤煙でくろずみ、街の兩側には、無限の煉瓦の工場が竝んでゐた。冬の日は鈍くかすんで、煙突から熊のやうな煙を吹き出してゐた。

 貧しいすがたをしたおかみさんが、子供を半てんおんぶで背負ひこみながら、天日のさす道を歩いてゐる。それが私のかみさんであり、その後からやくざな男が、バケツや荷をいつぱい抱へて、痩犬のやうについて行つた。


     大井町!


 かうして冬の寒い盛りに、私共の家族が引つ越しをした。裏町のきたない長屋に、貧乏と病氣でふるへてゐた。ごみためのやうな庭の隅に、まいにち腰卷やおしめを干してゐた。それに少しばかりの日があたり、小旗のやうにひらひらしてゐた。


     大井町!


 むげんにさびしい工場がならんでゐる、煤煙で黒ずんだ煉瓦の街を、大ぜいの勞働者がぞろぞろと群がつてゐる。夕方は皆が食ひ物のことを考へて、きたない料理屋のごてごてしてゐる、工場裏の町通りを歩いてゐる。家家の窓は煤でくもり、硝子が小さくはめられてゐる。それに日ざしが反射して、黒くかなしげに光つてゐる。


     大井町!


 まづしい人人の群で混雜する、あの三叉みつまたの狹い通りは、ふしぎに私の空想を呼び起す。みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつてゐる。どこへ手紙を出すのだらう。さうして黄色い貯金帳から、むやみに小錢をひき出してる。


 空にはいつも煤煙がある。屋臺は屋臺の上に重なり、泥濘のひどい道を、幌馬車の列がつながつてゆく。


     大井町!


 鐵道工廠の住宅地域! 二階建ての長屋の窓から、工夫のおかみさんが怒鳴つてゐる。亭主は驛の構内に働らいてゐて、眞黒の石炭がらを積みあげてゐる。日ぐれになると、そのシヤベルが遠くで悲しく光つてみえる。

 長屋の硝子窓に蠅がとまつて、いつでもぶむぶむとうなつてゐる。どこかの長屋で餓鬼が泣いてゐる。嬶が破れるやうに怒鳴つてるので、亭主もかなしい思ひを感じてゐる。そのしやつぽを被つた勞働者は、やけに石炭を運びながら、生活の沒落を感じてゐる。どうせ嬶を叩き出して、宿場の女郎でも引きずり込みたいと思つてゐる。

 勞働者のかなしいシヤベルが、遠くの構内で光つてゐる。


 人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人は自分の思ひを自然に映して、それぞれの景色の中に居住してゐる。


     大井町!


 煙突と工場と、さうして勞働者の群がつてゐる、あの賑やかでさびしい街に、私は私の住居を見つけた。私の泥長靴をひきずりながら、まいにちあの景色の中を歩いてゐた。何といふ好い町だらう。私は工場裏の路地を歩いて、とある長屋の二階窓から、鼠の死骸を投げつけられた。意地の惡い土方の嬶等が、いつせいに窓から顏を突き出し、ひひひひひと言つて笑つた。何といふうれしい出來事でせう。私はかういふ人生の風物からどんな哲學でも考へうるのだ。

 どうせ私のやうな放浪者には、東京中を探したつて、大井町より好い所はありはしない。冬の日の空に煤煙! さうして電車をりた人人が、みんな煉瓦の建物に吸ひこまれて行く。やたら凸凹でこぼこした、狹くきたない混雜の町通り。路地は幌馬車でいつもいつぱい。それで私共の家族といへば、いつも貧乏にくらしてゐるのだ。

底本:「萩原朔太郎全集 第三卷」筑摩書房

   1977(昭和52)年530日初版第1刷発行

   1986(昭和61)年1210日補訂版第1刷発行

入力:kompass

校正:小林繁雄

2003年95日作成

青空文庫作成ファイル:

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