中国怪奇小説集
夷堅志
岡本綺堂
|
第八の男は語る。
「わたくしは宋で『夷堅志』をえらみました。これは有名の大物でありますから、とても全部のお話は出来ません。そのなかで自分が面白く読んだものの幾分を御紹介するにとどめて置きます。この作者は宋の洪邁であります。この家は、父の洪皓をはじめとして、せがれの洪适、洪遵、洪邁の一家兄弟、揃いも揃って名臣であり、忠臣であり、学者であること、実に一種の異彩を放っていると申してもよろしいくらいでありまして、宋朝が金に圧迫せられて南渡の悲運におちいるという国家多難の際にあって、皆それぞれに忠奮の意気をあらわしているのは、まったく尊敬に値いするのであります。
しかしここでは『夷堅志』の作者たる洪邁一人について少々申し上げますと、彼は字を景盧といい、もちろん幼にして学を好み、紹興の中年に詞科に挙げられて、左司員外郎に累進しました。彼が金に使いした時に、敵国に対するの礼を用いたので、大いに金人のために苦しめられましたが、彼は死を決して遂に屈しなかった事などは、有名の事実でありますから詳しく申すまでもありますまい。
後にゆるされて帰りまして、所々の知州などを勤めた末に、端明殿学士となって退隠しました。死して文敏と諡されて居ります。その著書や随筆は頗る多いのですが、一般的に最もよく知られているのは、この『夷堅志』であります。原本は四百二十巻の大作だそうですが、その大部分は散佚して、今伝わるものは五十巻、それでもなかなかの大著述というべきでしょう。
そうして、その敵国たる金の元遺山が更に『続夷堅志』を書いているのは、頗るおもしろい対照というべきであります。どちらも学者で忠臣でありますから、元遺山もひそかに彼を敬慕していたのかも知れません。あまりに前置きが長くなりましては御退屈でございましょうから、ここらで本文に取りかかります」
妖鬼を祭る
祁州の汪氏の息子が番陽から池州へ行って、建徳県に宿ろうとした。その途中、親しい友をたずねて酒の馳走になっているうちに、行李はすでに先発したので、汪はひとりで馬に乗って出ると、路を迷ったものとみえて、行けども行けども先発の従者に逢わないので、草深い森の奥へ踏み込んでしまった。
そのうちに日が暮れかかると、草むらから幾人の男があらわれて、有無をいわさずに彼を捕虜にして牽き去った。行くこと何百里、深山の古い廟のなかへ連れ込まれて、汪はその柱へうしろ手に縛り付けられた。何を祭ってあるのか知らないが、かれらは香を焚き、酒を酌んで、神像の前にうやうやしく礼拝して言った。
「どうぞ御自由にねがいます」
かれらは廟門をとざして立ち去った。かれらは人を供えて妖鬼を祭るのである。汪は初めてそれをさとったが、今更どうすることも出来ないので、日ごろ習いおぼえた大悲の呪を唱えて、ただ一心にその救いを祈っていると、その夜半に大風雨がおこって、森の立ち木も震動した。
廟門は忽ちにおのずから開かれて、何物かがはいって来た。その眼のひかりは松明のようで、あたりも輝くばかりに見えるので、汪は恐るおそる窺うと、それは大きい蟒蛇であった。蛇は首をもたげて生贄に進み寄って来るので、汪は眼をとじて、いよいよ一心に念誦していると、蛇は一丈ほどの前まで進んで来ながら、何物にかさえぎられるように逡巡みした。一進一退、おなじようなことを三度も繰り返した後に、蛇は遂に首を伏せて立ち去ってしまった。
汪もこれでひと息ついて、ひたすらに夜の明けるのを待っていると、表がようやく白んで来た時、太鼓をたたき、笙を吹いて、大勢の人がここへ近づいた。そのなかには昨夜の男もまじっていた。
かれらは汪が無事でいるのを見て大いにおどろいた。汪からその子細を聞かされて、かれらは更に驚嘆した。
「あなたは福のあるお人で、われわれの神にささげることは出来ないのです」
かれらは汪のいましめを解いて、昨夜来の無礼をあつく詫びた上に、官道までつつがなく送り出して、この事はかならず他言して下さるなと、堅く頼んで別れた。
床下の女
宋の紹興三十二年、劉子昂は和州の太守に任ぜられた。やがて淮上の乱も鎮定したので、独身で任地にむかい、官舎に生活しているうちに、そこに出入りする美婦人と親しくなって、女は毎夜忍んで来た。
それが五、六カ月もつづいた後、劉は天慶観へ参詣すると、そこにいる老道士が彼に訊いた。
「あなたの顔はひどく痩せ衰えて、一種の妖気を帯びている。何か心あたりがありますか」
劉も最初は隠していたが、再三問われて遂に白状した。
「実は妾を置いています」
「それで判りました」と、道士はうなずいた。「その婦人はまことの人ではありません。このままにして置くと、あなたは助からない。二枚の神符をあげるから、夜になったら戸外に貼りつけて置きなさい」
劉もおどろいて二枚の御符を貰って帰って、早速それを戸の外に貼って置くと、その夜半に女が来て、それを見て怨み罵った。
「今まで夫婦のように暮らしていながら、これは何のことです。わたしに来るなと言うならば、もう参りません。決して再びわたしのことを憶ってくださるな」
言い捨てて立ち去ろうとするらしいので、劉はまた俄かに未練が出て、急にその符を引っぱがして、いつもの通りに女を呼び入れた。
それから数日の後、かの道士は役所へたずねて来た。かれは劉をひと目見て眉をひそめた。
「あなたはいよいよ危うい。実に困ったものです。しかし、ともかくも一応はその正体をごらんに入れなければならない」
道士は人をあつめて数十荷の水を運ばせ、それを堂上にぶちまけさせると、一方の隅の五、六尺ばかりの所は、水が流れてゆくと直ぐに乾いてしまうのである。そこの床下を掘らせると、女の死骸があらわれた。よく見ると、それはかの女をそのままであるので、劉は大いに驚かされた。彼はそれから十日を過ぎずして死んだ。
餅を買う女
宣城は兵乱の後、人民は四方へ離散して、郊外の所々に蕭条たる草原が多かった。
その当時のことである。民家の妻が妊娠中に死亡したので、その亡骸を村内の古廟のうしろに葬った。その後、廟に近い民家の者が草むらのあいだに灯の影を見る夜があった。あるときは何処かで赤児の啼く声を聞くこともあった。
街に近い餅屋へ毎日餅を買いに来る女があって、彼女は赤児をかかえていた。それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ不審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、隙をみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰る時に再びそのあとを付けてゆくと、女は追って来る者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、糸は草むらの塚の上にかかっていた。
近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ、一家の者が駈け付けて、試みに塚をほり返すと、赤児は棺のなかに生きていた。女の顔色もなお生けるが如くで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。
夫の家では妻の亡骸を灰にして、その赤児を養育した。
海中の紅旗
丞相(大臣)の趙鼎が遠く流されて朱崖にあるとき、桂林の帥が使いをつかわして酒や米を贈らせた。雷州から船路をゆくこと三日、風力がすこぶる強いので、帆を十分に張って走らせると、洪濤のあいだに紅い旗のようなものが続いてみえた。
距離が遠いのでよく判らないが、あるいは海賊か、あるいは異国の兵かと、舟びとを呼んでたずねると、かれらは手をふって、なんにも言うなと制した。見れば、その顔色が甚だおだやかでない。
どうした事かと疑い惑っていると、舟びとの一人はやがて髪をふり乱して刀を持って、篷のうしろに出たかと思うと、自分の舌を傷つけてその血を海のなかへしたたらした。
「口を利いてはいけません。眼を瞑じておいでなさい」と、舟びとは注意した。
その通りにしていると、ふた時ほども過ぎた後に、舟びとらはたちまち喜びの声をあげた。
「御安心なさい。みんな助かりました」
なにが何だかちっとも判らないので、使いは舟びとにその子細をただすと、かれらは初めて説明した。
「けさから見たのは鰌魚の大きいので、紅い旗のように見えたのは、その鱗や脊鰭でございます。あの魚とこの舟とは十五里も距れているのですが、もしあの魚がからだを一度ゆすぶったら、こんな舟は木の葉のようにくつがえされてしまいます。あの魚は北へのぼり、この舟は南へくだり、たがいに行き違いになりながら、この強い風に幾時間を費したのですから、おそらくかの魚の長さは幾百里というのでございましょう。考えても怖ろしいことでございます」
荘子のいわゆる鯤鵬の説も、必ずしも寓言ではないと、使いはさとった。
厲鬼の訴訟
秦棣が宣州の知事となっている時である。某村の民家で酒を密造しているのを知って、巡検をつかわして召捕らせた。
巡検は数十人の兵を率いて、夜半にその家を取り囲むと、それは村内に知られた富豪であるので、夜なかに多勢が押し寄せて来たのを見て、賊徒の夜襲と早合点して、太鼓を鳴らして村内の者どもを呼びあつめた。その家にも大勢の奉公人があるので、かれこれ一緒に協力して、巡検その他をことごとく捕縛してしまった。おれは役人であるといっても、激昂しているかれらは承知しないのである。
それが県署にもきこえたので、県の尉が早馬で駈け付けると右の始末である。何分にも夜中といい相手は多勢であるので、尉はまずいい加減にかれらをなだめた。
「よし、よし。お前の家で強盗どもを捕えたのは結構なことだ。ともかくもわたしの方へ引き渡してくれないか。おまえ達にも褒美をやるよ」
だまされるとは知らないで、かれらは縄付きの巡検らをひき渡した。その家の主人と忰と孫との三人も、その事情を訴えるために付いて行った。さて行き着くと相手の態度は俄かに変って、知事の秦棣は巡検らの縄を解いて、あべこべにかの親子ら三人を引っくくった。
「役人を縛って、強盗呼ばわりをするとは不届きな奴らだ」
かれらはからだ全体を麻縄で厳重にくくり上げられて、いずれも一百ずつ打たれた。縄を解くと、三人はみな息が絶えていた。それはあまりに苛酷の仕置きであるという批難もあったが、秦棣の兄は宰相であるので、誰も表向きに咎める者はなかった。但し秦棣はその明くる年に突然病死した。
そのあとへ楊厚という人が赴任した。ある日、楊が役所に出ていると、数人の者が手枷や首枷をかけた一人の囚人をつれて来て、なにがし村の一件の御吟味をおねがい申すといって消え失せた。
白昼にこの不思議を見せられて、楊もおどろいた。殊に新任早々で、在来のことをなんにも知らないので、下役人を呼んで取調べると、それはかの村民らを杖殺した一件であることが判った。首枷の囚人は秦棣であるらしい。
楊は書き役の者に命じて、かの一件の記録を訂正させ、さらに紙銭十万を焚いて、かれらの冥福を祈った。
鉄塔神の霊異
蔚州の城内に寺があって、その寺内に鉄塔神というのが祭られているが、その神霊赫灼たるものとして土地の人びとにも甚だ尊崇されていた。契丹のまさに亡びんとする時、或る者はその神体が城外へ走るのを見て、おどろき怪しんで早速に参詣すると、神像の全身に汗が流れていたので、いよいよそれを怪しんだが、さてその子細はわからなかった。
その夜の夢に、神は寺の講師に告げた。
「われは天符を受取って、それに因るとこの城中の者はみな死すべきである。それは余りにいたましいので、われは毎日奔走尽力して、出来得るだけの人命を救うことにした。明日の午どきに女真の兵が突然に襲って来て、この城は落ちる。そうして、逃がるまじき命数の者一千三百余人だけは命を失わなければならない。そのうちにはこの寺の僧四十余人も数えられている。あなたもその一人であるが、われは久しくこの地にあって、ふだんから師の高徳に感じているのであるから、死者の名簿を改訂して他人の名に換えて置いた。就いては、明日早朝にここを立ち退くがよろしい」
講師は夢が醒めて奇異に感じた。それを他の僧らに話したが、誰も信じる者がないので、講師も一時はやや躊躇したが、鉄塔神の霊あることはかねて知っているので、とうとう思い切って自分だけの荷物を取りまとめて、寺のうしろの山へ逃げ登った。
行くこと五里ばかりにして、講師は白金の食器を置き忘れたことを思い出したので、ふたたび下山して寺へ引っ返すと、あたかも檀家で供養をたのみに来ている者があった。他の僧らは講師の顔をみて喜んだ。
「あなたのような偉いかたが軽々しく夢を信ずるということがありますか。こうして檀家の方々も見えているのに、和尚のあなたが、子細もなしに寺を捨てて立ち去ったなどとあっては、世間の信仰をうしなってしまいます。今は国ざかいも平穏で、女真のえびすなどが押し寄せて来るという警報もないのに、一刻を争って立ち退くには及びますまい」
かれらの言うことに道理もあるので、講師はこころならずもひき留められて、かれらと共に供養の式を営み、あわせて法談を試むることになった。法談が終って、衆僧がみな午飯を食いはじめると、たちまちに女真の兵がにわかに押し寄せて来たという警報を受取った。もちろん不意のことであるから、城はいっ時の後に攻め破られた。
僧らもあわてて逃げ惑ったが、もう遅かった。城中の人と寺中の僧と、死んだ者の数はかの神の告げに符合していた。講師も身を全うすることが出来なかった。
乞食の茶
都の石氏という家では茶肆を開いて、幼い娘に店番をさせていた。
ある時、その店へ気ちがいのような乞食が来た。垢だらけの顔をして、身には襤褸をまとっているのである。彼は茶を飲ませてくれと言うと、娘はこころよく茶をすすめた。しかもその貧しいのを憫れんで銭を取らなかった。その以来、かの乞食は毎日ここへ茶を飲みに来ると、娘は特に佳い茶をこしらえてやった。
それがひと月もつづいたので、父もそれを知って娘を叱った。
「あんな奴が毎日来ると、ほかの客の邪魔になる。今度来たら追い出してしまえ」
それでも娘はやはり今までの通りにしているので、父はいよいよ怒って彼女を打つこともあった。そのうちに、かの乞食が来て、いつものように茶を飲みながら娘に言った。
「お前はわたしの飲みかけの茶を飲むか」
これには娘もすこし困って、その茶碗の茶を土にこぼすと、たちまち一種不思議のよい匂いがしたので、彼女は怪しんでその残りを飲みほした。
「わたしは呂翁という者だ」と、乞食は言った。「おまえは縁がなくて、わたしの茶をみんな飲まなかったが、少し飲んでも福はある。富貴か、長寿か、おまえの望むところを言ってみろ」
娘は小商人の子に生まれ、しかもまだ小娘であるので、富貴などということはよく知らなかった。そこで、彼女は長寿を望むと答えると、乞食はうなずいて立ち去った。親たちもそれを聞いて今更のように驚いたが、乞食はもう再び姿をみせなかった。
娘は生長して管営指揮使の妻となり、のちに呉の燕王の孫娘の乳母となって、百二十歳の寿を保った。
小龍
宗立本は登州黄県の人で、父祖の代から行商を営んでいたが、年の長けるまで子がなかった。宋の紹興二十八年の夏、帛のたぐいを売りながら、妻と共に濰州を廻って、これから昌楽へ行こうとする途中、日が暮れて路ばたの古い廟に宿った。数人の従者は柝を撃って、夜もすがらその荷物を守っていた。
夜があけて出発すると、六、七歳の男の児が来てその前にひざまずいた。見るから利口そうな小児である。宗は立ちどまって、お前はどこの子かとたずねると、彼ははきはきと答えた。
「わたくしは武昌の公吏の子で、父は王忠彦と申しました。運悪く両親に死に別れて、他人の手に育てられていましたが、ここへ来る途中で捨てられました」
宗は憐れんで彼を養うことにして、その名を神授と呼ばせた。神授は見た通りの賢い生まれつきで、書物を読めばすぐに記憶するばかりか、大きい筆を握ってよく大字をかいた。篆書でも隷書でも草書でも、学ばずして見事に書くので、見る人みな驚嘆せざるはなかった。宗はもとより大資本の商人でもないので、しまいには自分の商売をやめて、神授を連れて諸方を遊歴し、その字を売り物にして生活するようになった。
それからのち二年の春、宗は小児を連れて済南の章丘へゆくと、路で胡服をきた一人の僧に逢った。僧は容貌魁偉ともいうべき人で、宗にむかって突然に訊いた。
「おまえはこの子をどこから拾って来た」
「これはわたしの実の子です」と、宗は答えた。「飛んでもないことをお言いなさるな」
「いや、おまえの子ではない筈だ」と、僧は笑いながら言った。「これは私の住んでいる五台山の龍だ。五百の小龍のうちで其の一つが行くえ不明になったので、三年前から探していたのだ。お前の手もとに長くとどめて置くと、きっと大いなる禍いを受けることになる。わたしが法を施したから、かれももうどうすることも出来まい」
僧は水を索めて噴きかけると、神授はたちまち小さい朱い蛇に変った。僧は瓶をとって神授の名を呼ぶと、蛇は躍ってその瓶のうちにはいった。呆れている宗の夫婦をあとに見て、僧は笠を深くして立ち去った。
蛇薬
徽州懐金郷の程彬という農民は、一種の毒薬を作って暴利をむさぼっていた。
それはたくさんの蛇を殺して土中にうずめ、それに苫をかけて、常に水をそそいでいると、毒気が蒸れてそこに怪しい蕈が生える。それを乾かして、さらに他の薬をまぜ合わせるのである。しかし最初に生えた蕈は、その毒があまりに猛烈で、食えばすぐに死んでしまうので、後日の面倒を恐れて用いず、多くは二度目に生えたのを用いて、徐々に斃れさせるのであった。
その毒をためすには、蛙に食わせてみるのである。蛙が多く躍り狂えば、その毒の効き目が多いということになっている。その薬の名は万歳丹と称していたが、万歳どころか、実は人の命をちぢめる大毒薬で、何かの復讐などを企てるものは、大金を与えてその秘薬を買った。現に或る家では来客にその薬をすすめようとして、誤まって嫁の舅に食わせたので、驚いていろいろに介抱したが、どうしても救うことが出来なかったという話も伝わっている。
程の弟に正道という者があった。その名のごとく彼は正しい人間であったので、兄の非行を見るに見かねて、数十里の遠いところへ立ち退いてしまった。程もだんだん老ゆるにしたがって、自分の非を悔むようになったので、本当の薬を作ることをやめて、その偽物を売りはじめたが、偽物では効き目がないので、自然に買う者もなくなった。彼は貧窮のうちに晩年を送って、ひとり息子は乞食になった。
彼がほん物の万歳丹を作っている時のことである。村役人が租税を催促に行って、なにか彼の感情を害すようなことを言ったので、程はあざむいてかの薬を飲ませると、役人は帰る途中から俄かに頭が痛んで血を嘔いた。さてはと気がついて引っ返して、程の門前に仆れて救いを呼ぶと、彼は水を汲んで来て飲ませてくれた。それで苦痛も薄らいで、役人は無事に助かったということであるから、彼は毒を作ると共に、その毒を消す法をも知っていたらしいが、その法は伝わっていない。
重要書類紛失
宋の紹興の初年、甫田の林迪功という人は江西の尉を勤めていたが、盗賊を捉えた功によって、満期の後は更に都の官吏にのぼせられることになっていた。
そのころ臨安府には火災が多かったので、官舎に寄寓している人びとは、外出するごとに勅諭その他の重要書類を携帯してゆくのを例としていた。林も御用大事と心得ている人物であるので、外出する時には必ず重要書類を懐中して出て、途中でも二、三度ぐらいは検めることにしていた。
それで最初は無事であったが、ある時それが紛失したので、彼は三万銭の賞を賭けてその捜査を命じると、たちまちにそれを届けて来るものがあった。それで安心すると、又もや紛失した。又もや賞をかけると、又もや直ぐに届けて来た。こういうことが三度も四度も繰り返されたので、本人も怪しみ、他の者も不審をいだくようになった。これが果てしもなしに続くときは、彼の私財が尽きてしまうか、あるいは重要書類をうしなった罪に服するか、二つに一つは免かれないであろうと危ぶまれた。
林は独身者であるが、近来その部屋のなかで頻りに人声を聞くことがあった。殊に或る夜は何か声高に論じ合っているようであったが、暫くしてひっそりと鎮まった。あくる朝になっても戸もあけないので、出入りの婆さんが不思議に思って、近所の人びとを呼びあつめ、壁をぶちこわしてはいってみると、林は腰掛けの上にたおれていた。かれは剪刀で喉を突いて自殺したのである。
さてその死因はわからなかった。伝うるところに拠れば、彼がさきに盗賊二人を捕えた時、いずれもその証拠不十分であるにも拘らず、彼は自己の功をなすに急なる余りに、鍛錬羅織して無理にかれらを罪人におとしいれた。その恨みが重要書類の紛失となり、さらに彼の死となったのであろうというのである。但しそれが死んだ人の仕業か、生きている人の仕業か、本人に聞いてみなければ判らないのである。
股を焼く
宋の宣和年中に、明州昌国の人が海あきないに出た。海上何百里、名の知れない大きい島に舟を寄せて、そのうちの数人が薪を採りに上陸すると、島びとに見つけられて早々に逃げ帰ったが、その一人は便所へ行っていたために逃げおくれて、遂にかれらの捕虜となった。
島びとは鉄の綱で彼をつないで、田を耕させた。一、二年の後には互いに馴れて、縛って置くことを免されたが、初めのうちは島びとがあつまって酒を飲むたびに、彼をその席へひき出して、焼けた鉄火箸を彼の股へあてるのである。かれらはその苦しみもがくのを見て、面白そうに大いに笑った。要するに、彼に残酷な刑を加えて、酒宴の余興とするのである。
彼ものちにはそれを覚ったので、いかに熱い火箸をあてられても、騒がず、叫ばず、歯を食いしばってじっと我慢していたので、かれらは興を失ったらしく、ついにその拷問をやめてしまった。
三年後、かれは幸いに、便船を得て逃げ帰ったが、その両股は一面に黒く焼かれていた。
三重歯
右相丞鄭雍の甥の鄭某は拱州に住んでいた。その頃、京東は大饑饉で、四方へ流浪して行く窮民が毎日つづいてその門前を通った。
そのなかに一人の女があった。泥まぶれの穢い姿をしていたが、その容貌は目立って美しいので、主人の鄭は自分の家へ引き取って妾にしようと思った。女にも異存はなく、やがては餓死するかも知れない者を、お召仕いくだされば望外の仕合わせでございますと答えた。そこで請人を立てて相当の金をわたして、女はここの家の人となって、髪を結わせ、新しい着物に着かえさせると、彼女の容貌はいよいよ揚がってみえた。
女は美しいが上に、なかなか利口な質であるので、主人にも寵愛されて、無事に五、六カ月をすごしたが、ある夜、大雷雨の最中に、寝間の外から声をかける者があった。
「先日の婦人を返してください。あの女は餓死すべき命数になっているので、生かして置くことは出来ないのです」
鄭は内からそれに応対していたが、外にいるのは何者であるか判らない。おそらく何かの妖物であろうと思われるので、堅く拒んで入れなかった。外の声もいつかやんだ。
しかし夜が明けてから考えると、こういう女をいつまでもとどめて置くのは、自分の家のためにもよろしくないらしい。いっそ思い切って暇を出そうかとも思ったが、やはり未練があるのでそのままにして置くと、次の夜にも又もや門を叩いて彼女を渡せという者があった。鄭も意地になってそれを拒んだ。
「畜生。なんとでもいえ。女を連れて行きたければ、勝手に連れて行ってみろ。おれは決して渡さないぞ」
相手は毎夜のように門を叩きに来るのを、鄭はいつも強情に罵って追い返した。たがいに根くらべを幾日もつづけているうちに、ある夜かの女は俄かに歯が痛むと言い出して、夜通し唸って苦しんでいたが、朝になってみると、その歯が三重に生えて、さながら鬼のような形相になったので、主人は勿論、一家内の者がみな怖れた。
こうなると、もう仕様がない。彼女は即日に暇を出された。
何分にもこんな形になってしまっては、誰も引き取る者もないので、彼女は遂に乞食の群れに落ちて死んだ。
鬼に追わる
宋の紹興二十四年六月、江州彭沢の丞を勤める沈持要という人が、官命で臨江へゆく途中、湖口県を去る六十里の化成寺という寺に泊まった。
その夜、住職をたずねると、僧は彼にむかって客室の怪を語った。
「昨年のことでございます。ひとりのお客人が客室にお泊まりになりました。その部屋のうちには旅櫬がござりました。申すまでもなく、旅で死んだお人の棺をお預かり申していたのでござります。すると、夜なかにお客人はその棺のうちから光りを発したのを見て、不思議に思ってじっと見つめていると、その光りのなかに人の影が動いているらしいので、お客人も驚きました。となりは仏殿であるので、さあといったらそこへ逃げ込むつもりで、寝床の帳をかかげて窺っていると、棺のなかの鬼も蓋をあげてこちらを窺っているのでござります。いよいよ堪まらなくなって、お客人は寝床からそっとひと足降りかかると、鬼もまた、棺の中からひと足踏み出す。ぎょっとして足を引っ込ませると、鬼もまた足を引っ込ませる。こっちが足をおろすと、鬼もまた足をふみ出すというわけで、同じようなことを幾たびも繰り返しているうちに、お客人ももうどうにもならないので、思い切って寝床から飛び降りて逃げ出すと、鬼も棺から飛び出して追って来る。お客人は仏殿へ逃げ込みながら、大きい声で救いを呼んでいると、鬼はもう近いところまで追い迫って来ました。
お客人は気も魂も身に添わずというわけで、ころげ廻って逃げるうちに、力が尽きて地にたおれると、鬼はここぞと飛びかかって来るとき、たちまち柱に突き当って、がちりという音がしたかと思うと、それぎりでひっそりと鎮まってしまいました。そこへ大勢の僧が駈けつけて、半死半生でたおれているお客人を介抱して、さてそこらを検めてみると、骸骨が柱にあたってばらばらに頽れていました。
その後に、その死人の家から棺をうけ取りに来ましたが、死骸が砕けているのを見て承知しません。なんでも寺ちゅうの者が棺をあばいたに相違ないといって、とうとう訴訟沙汰にまでなりましたが、当夜の事情が判明して無事に済みました」
土偶
鄭安恭が肇慶の太守となっていた時のことである。
夜番の卒が夜なかに城中を見まわると、城中の一つの亭に火のひかりの洩れているのを発見したので、怪しんでその火をたずねてゆくと、そこには十余人の男と五、六人の小児とが集まって博奕をしているのであった。卒は大胆な男であるので、進み寄って冗談半分に声をかけた。
「おい。おれにも銭をくれ」
彼が手を出すと、諸人は黙って銭をくれた。その額は三千銭ほどであった。夜が明けてからあらためると、それは本当の銅銭であったので、彼は大いに喜んだ。明くる晩もやはりその通りで、彼は又もや三千あまりの銭を貰って来た。それに味を占めて、彼は上役に巧く頼み込んで、以来は夜更けの見まわりを、自分ひとりが毎晩受持つことにした。そうして、相変らず賭博者の群れからテラ銭のようなものを受取っていたので、彼の懐中はいよいよ膨らんだ。
そのうちに、城中の軍資を入れてある庫のなかから銀数百両と銭数千緡が紛失したことが発見されて、その賊の詮議が厳重になった。かの卒は近来俄かに銭使いがあらい上に、新しい着物などを拵えたというのが目について、真っ先に捕えられて吟味を受けることになったので、彼も包み切れないで正直に白状した。太守の鄭はその賭博者の風俗や人相をくわしく取調べた後に、こう言った。
「それはまことの人ではあるまい。おそらく土偶のたぐいであろう」
そこで、かの卒を見知り人にして、他の役人らが付き添って、近所の廟をたずね廻らせると、城隍廟のうちに大小の土人形がならんでいる。その顔や形がそれらしいというので、試みに一つの人形の腹を毀してみると、果たして銀があらわれた。つづいて他の人形を打ち砕くと、皆その腹に銀をたくわえていた。さらに足の下の土をほり返すと、土の中からもたくさんの銭が出た。
卒が貰った銭と、掘り出した銀と銭とを合算すると、あたかも紛失の金高に符合しているので、もう疑うところはなかった。
土人形は片っ端から打ち毀された。その以来、怪しい賭博者は影をかくした。
野象の群れ
宋の乾道七年、縉雲の陳由義が父をたずねるために閩より広へ行った。その途中、潮州を過ぎた時に、土人からこんな話を聞かされた。
近年のことである。恵州の太守が一家を連れて、福州から任地へ赴く途中、やはりこの潮州を通りかかると、元来このあたりには野生の象が多くて、数百頭が群れをなしている。時あたかも秋の刈り入れ時であるので、土地の農民らは象の群れに食いあらされるのを恐れて、その警戒を厳重にし、田と田のあいだに陥穽を設けて、かれらの進入を防ぐことにしたので、象の群れは遠く眺めているばかりで、近寄ることが出来なかった。
かれらは腹立たしそうに唸っていたが、やがて群れをなして太守の一行を取り囲んだ。一行には二百人の兵が付き添っていたが、幾百という野象に囲まれては身動きも出来ない。なんとか賺して逐いやろうとしても、かれらはなかなか立ち去らないで、一行を包囲すること半日以上にも及んだので、一行ちゅうの女子供は途方にくれた。そのなかには恐怖のあまりに気を失う者もできた。
こうなると、土地の者も見捨てては置かれないので、大勢が稲をになって来てその四方に積んだ。最初のうちは象も知らぬ顔をしていたが、だんだんにたくさん運ばれて、自分たちの食うには十分であることを見きわめた時に、かれらは初めて囲みを解いて、その稲を盛んに食いはじめた。かれらは太守の一行を人質にして、自分たちの食料を強要したのである。
野獣の智、まことに及ぶべからずと、人びとは舌をまいた。
碧瀾堂
南康の建昌県の某家では紫姑神を祭っていたが、その神には甚だ霊異があって、何かにつけて伺いを立てると、直ちに有難いお告げをあたえられた。たとえば長江の下流地方では茶の価いが高くなっているから、早く持ち出して売れといい、どこでは米の相場が騰っているから、早く積み出してゆけというたぐいで、それが一々適中するために、その家は大いに工面がよくなった。
ある日、又もや神のお告げがあった。
「あしたは貴い客人が来る。かならず鄭重に取扱わなければならぬぞ」
そこで、家の息子たちや奉公人どもは早朝から門に立って待ち受けていたが、日の暮れる頃まで誰も来なかった。
神様のお告げにいつわりがあろうとは思われないが、是非なく門を閉じようとする時、ひとりの乞食が物を貰いに来た。
「さあ、これだ」
無理に内へ連れ込んで、湯に入れるやら、着物を着せ換えるやら、家内が総がかりで下へも置かない歓待に、乞食は面食らった。嬉しいのを通り越して、かれは怖ろしくなった。もしや自分を生贄にして何かの神を祭るのではないかとも疑った。
「どうぞお助けください。わたくしのような者でも命は惜しゅうございます」と、かれは泣いて訴えた。
主人から神のお告げを言い聞かされて、乞食も不思議そうに言った。
「それではお祷りをして、わたくしからその子細を伺ってみましょう」
香を焚いて祷ると、やがて神はくだった。
神は捧げられた紙の上に、左の文字を大きく書いた。
「あなたは碧瀾堂の昔を忘れましたか」
それを見ると、乞食はあっと気を失ってしまった。家内の人びともおどろいて介抱して、さてその子細を詮議すると、かれは泣いて答えた。
「わたくしも元は相当の金持の家のせがれで、ある娼妓と深く言いかわしましたが、両親がとても添わせてくれる筈はないので、女をつれて駈落ちをしました。そのうちに貯えの金はなくなる、女はいつまでも付きまとっている。どうにも仕様がないので、呉興へ行ったときに、碧瀾堂へ遊びに行こうといって連れ出して、酒に酔った勢いで女を水へ突き落して逃げましたが、その後にもやはりよいこともなくて、とうとう乞食の群れに落ちてしまいました。今日わたくしがここへ呼び込まれましたのは、死んだ女がむかしの恨みを言おうがためでございましたろう」
言い終って、彼はまた泣いた。
その家では数百金をあたえて彼を帰してやった。そうして、その以後は神を祭らなくなったそうである。
雨夜の怪
後に尚書に立身した呂安老という人は、若いときに蔡州の学堂にはいっていた。ある日同じ寄宿舎にいる学生七、八人と夕方から宿舎をぬけ出して、そこらを遊びまわって、夜なかに帰って来ると、にわかに驟雨がざっと降り出した。
かれらは雨具を持っていなかった。しかもこの当時は学堂の制度がはなはだ厳重で、無断外泊などは決して許されないので、かれらは引っ返して酒屋へ行って、単衣の衾を借りた。その衾の四隅を竹でささえて、大勢がその下へはいって駈けて来ると、学堂の墻に近づいた頃に、夜廻りの者が松明を持って、火の用心を呼びながら来たので、これに見付けられては大変だと思って、かれらは俄かに立ちすくんだ。双方相距ること二十余歩、夜廻りの者は俄かに引っ返して、あとをも見ずに走り去ったので、かれらはその間に墻を乗り越えてはいったが、内心びくびくしていた。おそらく無断外出を夜廻りに見付けられて、譴責を受けるか、退学を命ぜられるかと、その夜は碌々眠られなかった。
その明くる日である。夜廻りの邏卒が府庁に出て申し立てた。
「昨夜の二更、大雨の最中に、しかじかの処を廻って居りますと、忽ちに一つの怪物が北の方角から参りました。上は四角で平らで、蓆のようで、糢糊として判りません。その下にはおよそ二、三十の足のような物がありまして、人のようにぞろぞろと歩いて参りまして、学校の墻のあたりへ来て消え失せました」
その報告におどろいた郡守以下の役人らは、それがいかなる怪物であるか、ほとんど想像が付かなかった。その噂がそれからそれへと拡まって、何か巨大な怪物がここらに出現するという風説が騒がしくなった。
町々では厄払いの道場を設けて、三昼夜の祈祷をおこない、その怪物の絵姿をかいて神社の前で磔刑にした。
世の怪談にはこの類が少なくない。
術くらべ
鼎州の開元寺には寓居の客が多かった。ある夏の日に、その客の五、六人が寺の門前に出ていると、ひとりの女が水を汲みに来た。
客の一人は幻術をよくするので、たわむれに彼女を悩まそうとして、なにかの術をおこなうと、女の提げている水桶が動かなくなった。
「みなさん、御冗談をなすってはいけません」と、女は見かえった。
客は黙っていて術を解かなかった。暫くして女は言った。
「それでは術くらべだ」
彼女は荷いの棒を投げ出すと、それがたちまちに小さい蛇となった。客はふところから粉の固まりのような物を取り出して、地面に二十あまりの輪を描いて、自分はそのまん中に立った。蛇は進んで来たが、その輪にささえられて入ることが出来ない。それを見て、女は水をふくんで吹きかけると、蛇は以前よりも大きくなった。
「旦那、もう冗談はおやめなさい」と、彼女はまた言った。
客は自若として答えなかった。蛇はたちまち突入して、第十五の輪まで進んで来た。女は再び水をふくんで吹きかけると、蛇は椽のような大蛇となって、まん中の輪にはいった。ここで女は再びやめろと言ったが、客は肯かなかった。蛇はとうとう客の足から身体にまき付いて、頭の上にまで登って行った。
往来の人も大勢立ちどまって見物する。寺の者もおどろいた。ある者は役所へ訴え出ようとすると女は笑った。
「心配することはありません」
その蛇を掴んで地に投げつけると、忽ち元の棒となった。彼女はまた笑った。
「おまえの術はまだ未熟だのに、なぜそんな事をするのだ。わたしだからいいが、他人に逢えばきっと殺される」
客は後悔してあやまった。彼は女の家へ付いて行って、その弟子になったという。
渡頭の妖
邵武の渓河の北に怪しい男が棲んでいて、夜になると河ばたに出て来た。そうして徒渉りの者をみると、必ずそれを背負って南へ渡した。ある人がその子細を訊くと、彼は答えた。
「これは私の発願で、別に子細はありません」
ここに黄敦立という胆勇の男があって、彼は何かの害をなす者であろうと疑った。そこで、試みに毎晩出てゆくと、かの男はいつものように彼を背負って渡った。三日の後、黄は彼に言った。
「人間の礼儀はお互いという。わたしはいつもお前に渡してもらうから、今夜は私がおまえを渡してあげよう」
男は辞退したが、黄は肯かなかった。
無理に彼をいだいて河を渡ると、むこう岸には大きい石があった。黄はあらかじめ家僕に言い付けて、その石の上に草をたばねて置いたのである。黄は抱いている男を大石に叩きつけると、男は悲鳴をあげて助けを求めた。灯に照らして見ると、彼は青面の大きい玃猿に変じていた。打ち殺してそれを火に燔くと、その臭気が数里にきこえた。
その後、ここに怪しいことはなかった。
底本:「中国怪奇小説集」光文社文庫、光文社
1994(平成6)年4月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2003年7月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。