犯罪
横光利一
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私は寂しくなつて茫然と空でも見詰めてゐる時には、よく無意識に彼女の啼声を口笛で真似てゐた。すると下の鳥籠の中から彼女のふけり声が楽しく聞えて来る。で、私もつい面白くなつてそれに応へたり誘つたりする。其中に面倒臭くなると彼女を放つたらかしておいた。が、彼女は猶も懸命にふけり続けた。凝乎とそれを聞いてゐると可哀相になつて来るので、又知らず〳〵に相手になつてやつたりした。今も私は彼女を呼びかけた。が、もう彼女が居ないのだと気付いて堪まらなく淋しくなつた。私は裏の山を凝乎と見た。
それは好く晴れた暖かい日であつた。私は前からゐた囮の目白を入れた籠と、新しい籠と、細い女竹に黐を塗つたのを二三本とを用意して山へ行つた。山には椿の花が沢山咲いてゐた。私は鬱然と茂つたある一本の椿の枝へ囮の籠を掛けて、上へ用意の女竹を交叉した。それからずつと離れた木蔭へ隠れて口笛を吹くと囮も切に彼方で真似た。然れ共中々彼女はやつて来なかつた。私は終ひには何もかも悉皆忘れて了つて、背負つてゐる弟の由を径傍へ下して寝転び乍ら椿の花を裂いては中の蜜を啜り始めた。由も食物と思つたのかして、私の捨てた啜りさがしの花を、口のあたりへにじり付けたので、低い鼻面を真黄にさしてゐた。夕暮近くなつて全く思ひもかけなかつた時、突然目白の金切声が聞えた。私は周章て走つて行つて見ると、未だ雛上りの若々しい彼女が、両翅にベツトリ黐を引付けて、熊笹の中でバタ〳〵やつてゐた。私が彼女を拾い上げた時、彼女は切と悲しさうに啼き立てた。私は誇つてやる人がゐないので由の前へ出した。「鳥、鳥」と弟は嬉しさうに手を振つたかと思ふとギユツと彼女の首を握つた。私は急いで奪ひ返して見ると、死んでゐなかつたので、柔かく由の頭を張つた。「阿呆やなお前は」
彼女はそれから数日と云ふもの、私の心尽しの摺餌を余り口にしなかつた。それ所か傍へ寄つても激しく鳴いて、狭い籠の中を縦横に飛び廻つた。が、二月程経つた頃にはもう私に馴れて了つて、手をさし入れても静かにしてゐた。彼女はその一夏を古い囮から唄を習ふのに暮した。
二年程経つた。そして彼女も私も由も皆共に老いた。此夏になつて私が都から帰つて見ると、古い方の籠が空虚の儘物置の隅に置かれてあつた。酷く蜘蛛の巣がかかつてゐた。そして家の中には、めつきり老練さを増した彼女の謡ひ声と、私の一番末の弟となつて何処からか出て来た新しい人間の泣き声とが賑つてゐた。私は時々、末の弟が泣き出すと、彼女を棚から下して彼の眼の前へさし出した。「バーア、廣ちやんこれ何あに」すると廣は泣き止んで、額を籠の格子にピツタリ付けた。彼女は落ち付いて止木の上をアチコチに飛んだ。が、廣の眼を運ぶより早いので、彼は反対の方許りを見た。其処へ由がやつて来ると、廣の頭をポンポン叩いて云つた。「廣ちや。是れトート。トートなあ」
或日私は彼女に餌を与らうとした時、その翅の極めて小さいのに気が付いた。其時不意に私の頭の中へドストエフスキーが現れた。彼は悲痛な顔をしてゐた。頬をげつそり落して、蒼白い額を獄砦の円木の隙間へ押しあてて、若芽の燃え出た黄緑色の草原のずつとかなたから漂うて来るキルギスの娘の唄に耳を傾けてゐた。──私の眼は熱くなつて、彼女の姿がボヤケて二重に見えた。
「逃がしてやらう」私は籠の格子戸を開けた。然れ共彼女は容易に出なかつた。で、反対の方を叩くと漸つと出て、庭の上をピヨンピヨン飛んで、植木鉢の楓の下を出たり入つたりしてゐた。私は傍へ行つてシツシヨと追つてみたが、彼女は一尺も高く飛び続けることが出来なかつた。(俺は神に対する犯罪を背負つた)と私は思つた。そして今逃がすのは逃さないよりも悪いと知つたので、籠を傍へ突き付けてやると、彼女は直ぐ飛び入つて餌を啄んだ。
二三日前から彼女は夜の真暗な時になつて囀り出した。私は彼女の死を其時薄々乍らも直覚した。
今朝はいつもよりも寒かつた。
「ちよつとまあ敏来てお見。目白が面白い事をしてるえ」と母が下から云つた。私はハツとした。で、急いで下りて見ると、彼女は白い環の中の眼をパチパチやつて、間を置いては身を慄はせてゐた。と、首を縮めて動かなくなつたと思ふと、眼を開けた儘止木の上から落つこちた。
「アツ死んだ!」と母は云つた。
彼女は小さい両足を真直に尾の方へ引き延ばして、溜つた昨日の糞の上へ、白い腹を仰向きにして横になつてゐた。それが彼女の死の姿であつた。私は彼女の死骸を、初めて捕つた時のやうに掌へ乗せてみると、首がガクリと下つて延びた。私はその儘彼女と空虚の籠とを交り番こに眺めてゐた。と、軽い恐怖がサツと胸を走つた。「死によつた!」と長らくしてから私は呟いた。
底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「萬朝報」萬朝報社
1917(大正6)年10月29日
初出:「萬朝報」萬朝報社
1917(大正6)年10月29日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※底本は総ルビでしたが、ルビは削除しました。
※くの字点は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
2003年6月1日修正
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