梅津只圓翁伝
夢野久作



   梅津只圓翁の生涯



 故梅津只圓うめづしえん翁の名前を記憶している人が現在、全国に何人居るであろうか。翁の名はその姻戚故旧の死亡と共に遠からずこの地上から平々凡々と消え失せて行きはしまいか。

 只圓翁から能楽の指導を受けた福岡地方の人々の中で、私の記憶に残っている現存者は僅々きんきん左の十数氏に過ぎない。(順序不同)

牟田口利彦(旧姓梅津)、野中到、隈本有尚、中江三次、宇佐元緒、松本健次郎、加野宗三郎、佐藤文次郎、堺仙吉、一田彦次、藤原宏樹、古賀得四郎、柴藤精蔵、小田部正二郎、筆者(以上仕手して方)

安川敬一郎、古賀幸吉、今石作次郎、金内吉平(以上囃子はやし方)

小嶺武雄、宮野儀助(以上狂言方)

 その他故人となった人々では(順序不同)、

間辺──、梅津正保、山本毎、梅津朔造、同昌吉、桐山孫次郎、川端久五郎、上原貢、戸川槌太郎、小山筧、中江正義、粟生弘、沢木重武、斎田惟成、中尾庸吉、石橋勇三郎、上村又次郎、斉村霞栖、大賀小次郎、吉本董三、白木半次郎、大野仁平、同徳太郎、河村武友、林直規、尾崎臻、鬼木栄二郎、上野太四郎、船津権平、岩佐専太郎、杉山灌園(以上仕手、脇方。その他囃子方、狂言方等略)

 まだこの他に遺漏忘失が多数ある事と思う。氏名なども間違っている人があるかも知れないが筆者の記憶の粗漏として諒恕御訂正を仰ぎたい。

 その生存している僅かな人々と相会して翁の旧事を語ると誠に感慨無量なものがある。

 翁の一生涯は極めて、つつしまやかな単純なものであった。

 維新後、西洋崇拝の弊風が天下を吹きめぐって我国固有の美風良俗が地を払って行く中に毅然として能楽の師家たる職分を守り、生涯を貫いて倦まず。悔いず。死期の数刻前までも本分の指導啓発を念としつつ息を引取った……というだけの生涯であった。翁はその九十幾年の長生涯を一貫して、全然、実社会と無関係な仕事に捧げ終った。名聞みょうもんを求めず。栄達を願わず。米塩をかえりみずして、ただ自分自身の芸道の切瑳琢磨と、子弟の鞭撻べんたつに精進した……という、ただそれだけの人物であった。

 もしも、それがいささかでも実社会に関係のある仕事であったならば……又は同じ芸術でも、絵画とか、文章とか、劇とか、音曲とか多少世俗に受け入れられ易い仕事に関係していられたならば……そうしてあれだけの精彩努力を傾注されたならば、翁は優に一代の偉人、豪傑もしくは末世の聖賢として名を青史に垂れていたであろう。

 いわんや翁程の芸力と風格を持った人で、いささかでも名聞を好み、俗衆の心を執る考えがあったならば、恐らく世界の文化史上に名を残す位の事は易々たるものがあったであろう。

 これは決して筆者の一存の誇張した文辞ではない。その当時の翁の崇拝者は、不言不語の中に皆しかく信じていたものである。そういう筆者も翁の事を追懐する毎に、そうした感を深めて行くものである。


 翁の偉大なる人格と、その卓絶したる芸風は、維新後より現在に亘る西洋崇拝の風潮、もしくは滔々とうとうたる尖端芸術の渦の底に蔽われて、今や世人から忘れられかけている。翁もまた、不言不語の間にこの事を覚悟し満足していたらしい事が、その生涯を通じた志業の裡に認められる。そうして今は何等の伝うるところもなく博多下祇園町順正寺の墓地に灰頭土面している。墓を祭る者もあるか無しの状態である。その由緒深い昔の私宅や舞台も、見窄みすぼらしい借家に改造されて、軒傾き、瓦辷り、壁が破れて、のぞいて見ただけでも胸が一パイになる有様である。

 しかし翁の真面目はそこに在る。翁の偉大さ崇高さは、そうした灰頭土面の消息裡に在る。生涯の光輝と精彩とを塵芥、衆穢の中に埋去して惜しまなかったところに在る。

 画に於ける仙崖、東圃、学に於ける南冥、益軒、業に於ける加藤司書、平野次郎、野村望東尼は尚赫々かっかくたる光輝を今日に残している。しかも我が梅津只圓翁の至純至誠の謙徳は、それ等の人々よりも勝れていたであろうに、何等世に輝き残るところなく黙々として忘れられて行きつつ在る。

 繰返して云う。

 現在の日本は維新後の西洋崇拝熱から眼ざめつつ在る。国粋万能を叫ぶ声が津々浦々に満ち満ちて、今まで棄ててかえり見られなかった郷土の産物、芸術が、国粋の至宝として再認識され、珍重され初めつつ在る。能楽の如きも老人の閑技、骨董芸術として、忘却されていたものが、明治の末年頃から西洋人の注意をいて以来、日本の識者間に再認識され、騒がれ初めた。そうして現在の民族芸術尊重熱の炎波に乗って唯一無上の国粋芸術として一般の知識階級、学生層に洪水の如く普及しつつある。

 梅津只圓翁はこの時代を見ずして世を去った。しかも維新後、能楽没落のただ中に黙々として斯道しどう研鑽けんさんを怠らなかった。東都の能楽師等が時勢の非なるをさとって、装束を売り、能面を売って手内職や薄給取りに転向している際にも翁は頑として能楽の守護神の如く子弟を鞭撻し続けていた。

 明治の後年になって東都の能楽師がボツボツ喰えるようになって互いに門戸を張り合って来た時、翁の如き一代の巨匠が中央に乗出していたならば、当時の能界の巨星と相並んで声威を天下に張る事が容易であったかも知れぬ。しかも翁はそのような栄達、名聞みょうもんを求めず。一意、旧藩主の恩顧と、永年奉仕して来た福岡市内各社の祭事能に関する責務を忘れず、一身を奉じつくして世を終った。

 風雲に際会して一時の功名を遂げるのは比較的容易であると聞く。権を負い、才力をたのんで天下に呼号するのは英雄豪傑の会心事でなければならぬ。

 しかし純忠の志を地下につくし、純誠の情涙を塵芥裡に埋めて、軽棄されたる国粋の芸道に精進し、無用の努力として世人に忘却されつつ、満足して世を去るという事は普通の日本人……世間並の国粋流者のくするところでない。

 旧藩以来福岡市内薬院やくいんに居住し、医業を以て聞こえている前医師会理事故権藤寿三郎氏(現病院長健児氏令兄)は梅津只圓翁の係医として翁の臨終まで診察した人であるが、かつて筆者にかく語った。

「私は謡曲とか能楽とかいうものはすこしも解からず、又面白いとも思わない。しかし医師として梅津只圓翁の高齢と元気とには全く敬服していた。私は翁を健康な高齢者の標本として研究していたので、爾後じご幾多の老人の診察に際して非常な参考となった事を感謝している。晩年といっても翁が九十二歳、明治四十一年から三年間病臥して居られたが、それといっても決して病気ではない。ただ樹木の枯れるように手足が不叶いになられただけで、健康には申分なく、そのまま枯れ果てて三年後の夏の何日であったかに、眠るが如く世を去られたまでの事であった。

 その亡くなられた当日の朝の事であった。

 門下の中でも一番の故老らしい品のいい二人の老人が、無論お名前なぞ忘れてしまったが、わざわざ私に面会に来られて翁の容態を色々尋ねられた後、実は老先生が亡くなられる前に聞いておきたい謡曲の秘事が唯一つ在る。それをお尋ねせずに老先生に亡くなられては甚だ残念であるが、その事を老先生にお尋ねする事を主治医の貴下にお許しを受けに伺った次第ですが……というナカナカ叮重ていちょうなお話であった。

 これには私も当惑した。むろん梅津先生は御重態どころではない。その前日の急変以来眼も、耳も、意識も全く混濁しているとしか思えないので、単に呼吸して居られる。脈がかすかに手に触れるというだけの御容態である。御家族の方や私が御気分をお尋ねしても御返事をなさらない事が数日に及んでいる折柄で、面会などは主治医として当然、お断り申上げなければならない場合であったが、しかし又一方から考えてみると、その時は、その面会謝絶すらも無用と思わるる絶望状態で、何を申上げてもお耳に入る筈はない。御臨終の妨げになる心配はないと考えたから、折角せっかくの御希望をお止めするのはかえって心ない業ではあるまいかと気が付いて……それならば折角のお話ですから私が立会いの上でお尋ね下さい……と御返辞した。

 二人の老人は非常に喜ばれた。即刻、私と同伴して、程近い中庄なかしょうの老先生の枕頭に来られて、出来るだけ大きな声で、私にはチンプンカンプンわからない謡曲の秘伝らしい事を繰返し繰返し質問されたが、私の推察通り意識不明の御容態の事とて、老先生が御返事をなさる筈がない。短い息の下にスヤスヤと眠って居られるばかりである。

 二人の老人は暗然として顔を見合わせた。仕方なしに今度は御臨終に近い老先生の枕元で本を開いて、二人の御老人が同吟に謡い出した。

 それが何の曲であったか、もとより私の記憶に残っていよう筈もないが、たしか開かれた一枚の真中あたりまで謡って来られたと思ううちに老先生の呼吸が少し静かになって来た。そうして間もなく私が執っていた触れるか触れないか程度の脈搏が見る見るハッキリとなり、突然に喘鳴ぜんめいが聞こえ初めたと思うと、老先生は如何にも立腹されたらしく、仰臥して眼を閉じたまま眉根を寄せて不快そうにあかだらけの頭を左右に動かされた。

 二人の老人は真青になって汗を拭き拭き顔を見交わした。そうして二人で二三度同じ処を謡い直されたと思ったが、間もなく左右に振り続けて居られた老先生の頭が安定し、喘鳴がピッタリと止んで『その通りその通り』という風に老先生の頭が枕の上で二三度縦に緩やかに動いたと思うと、又もとの通りの短い呼吸の裡にスヤスヤと眠って行かれた。家内の御方が慌てて何か云うて居られたがモウ何の御返事もなかった。

 二人の老人はそのお枕元の畳に両手を突いて暫く涙に暮れていたが、私が『モウ宜しいですか』と念を押すと、『お蔭で』と非常に感謝されたので、そのまま御内の方に御注意を申上げて退出した。

 老先生はそのままその夜の中に御他界になったが、その時の医師としての私の驚きは非常なものがあった。

 あのような深い昏睡に陥って居られる、申さば断末魔の老先生が御門弟の謡の間違いを聞きわけられる。これを是正されるという事は如何に芸術の力とはいえ医学上あり得べき事でない。一つの途方もない奇蹟、もしくは驚異的な出来事である。してみると人間の精神の力は肉体が死んでも生き残るものかも知れない……とつくづく思わせられた事であった」

 この話を筆者と一緒に聞いて居られた権藤夫人は現存して居られる。又前医師会理事権藤寿三郎氏が言葉を飾る人でなかった事は周知の事実である。

 筆者は、まだ、これ程の偉大崇高な臨終を見た事も聞いた事もない。翁は九州の土が生んだ最も高徳な人ではなかったろうか。

 その銅像の銘には古賀得四郎氏揮毫の隷書で左の意味の文句が刻んで在る。


       梅津只圓翁


翁ハ旧黒田藩喜多流ノ能楽師ナリ。明治四十三年九十四歳ヲ以テ歿ス。弱冠ニシテ至芸、切磋一家ヲ成ス。喜多流宗家六平太ろっぺいた氏未ダ壮ナラズ、嘱セラレテ之ヲ輔導ス。しばしば雲上高貴ニ咫尺しせきシ、身ヲ持スルコト謹厳恬淡てんたんニシテ、芸道ニ精進シテ米塩ヲカヘリミズ。ソノ人ニ接スルヤ温乎玉ノ如ク、子弟ヲ薫陶スルヤ極メテ厳正ニ、老ニ到ツテおこたラズ。福岡地方神社ノ祭能ヲ主宰シ恪勤かっきん衆ニ過グ。一藩人士翁ノ名ヲ聞キテ襟ヲ正サザルナシ。歿後二十五年、旧門下追慕カズ、大方ノ喜捨ヲ請フテ之ヲ建ツ。

 隠れたる偉人、梅津只圓翁の略歴は下記の通りである。勿論僅かに残っている翁の手記等によって、微力な筆者が調査、推測想像したものだから遺漏敗欠が少くない事と思うが、そのような点は引続き大方の御指摘是正を蒙って、老師の真伝記を完成する事が出来たならば、筆者の幸福これに過ぐるものはない。ただ粗漏蕪雑ぶざつのまま大体を取纏めて公表を急がなければならなくなった筆者の苦衷を御諒恕の程幾重にも伏願する次第である。


 梅津家は代々非常な遠祖から歌舞音曲の家柄であったという。山城国葛野郡に現在梅津という地名が在って、梅津家は代々ここに定住し、そうした家業を司っていたらしい。但し如何なる種類の歌舞音曲であったかは的確に判明しないが、後に同家の家系の中から梅若九郎右衛門なぞいう名家を分派したところを見ると、相当の繁栄を遂げていた事が推測される。梅若というのは梅津の一字を残し、若の一字を附け加えて芸名とし、旧来の梅津家の伝統と区別して華やかに披露をしたところから起った家名らしく、今の梅若家の祖先であるという。なお詳細は不明であるけれども、平安朝時代にその梅津家の一人が九州筑後高良山玉垂神社所属の田楽法師でんがくほうしとして下向し、久留米市の南方一里ばかりの所に現存する朝日村を所領として家業を伝えた。(坂元雪鳥、山崎楽堂両氏談)今でもその朝日村に梅津家の墓石が現存しているという。

 もちろんその当初には、まだ能楽なるものが発生していなかったのだから、いずれ田楽、もしくは里神楽さとかぐら類似の神事舞曲の司となっていたもので、後に能楽が流行して来るにつれて、自から転向して家業とし、祭事能を司って来たものであろうと考えられる。その喜多流をんだ由来も、もとよりつまびらかでないが、元亀天正の乱世に、肥前に似我という忠勇無双の士が居た。太鼓に堪能で喜多流の大家であったというような話を筆者が幼少の時代に祖父から聞き伝えているところから考えると、喜多流なる流派の存在は現在伝うるところよりもズット古く戦国時代から既に存在していて、九州地方にも流行していた。従って梅津家も、その流を酌んでいたものではないかとも考えられるようであるが、しかし、これは単なる臆測類似の聞き伝えで、あるいは筆者の聞き誤りか記憶違いかも知れない。いわんや宗家の記録と甚しい時代の相違があり、引例考証らしいものすら絶無であるから、ただ何かの参考としてここに記載しておくに止める。

 それから物変り星移って徳川時代に入り、筑前福岡が黒田の城下となった時、その梅津の本家の方は博多に在住してその頃の所謂いわゆる町役者となり、山笠に名高い博多の氏神、櫛田くしだ神社の神事能を受持っていた。現梅津正利師範は故梅津正保師範と共にこの家系の末に当っているのであるが、同時にその分家である今一軒の梅津氏は観世流の藤林家と相並んで藩公黒田家のお抱えとなり、邸宅と舞台を薬院中庄なかしょうに賜わり士分に列せられていた。

 その後裔こうえいに当る黒田藩士梅津源蔵正武氏(正利氏令息で隠居して一朗といった)と、その妻判女(児玉氏)との間に一女二男が生まれた。

 兄は文化十四年丁丑四月十七日出生、梅津源蔵利春という。初め政之進、又は栄と名のっていたが、藩主長溥公の御沙汰によって改名したものである。それが後に隠居して只圓と号した。すなわち我が只圓翁であった。

 利春(只圓翁)の妻は黒田家播磨殿家士、梅津羽左衛門の娘で弘化三年に縁組したが、元治元年十一月に三十五歳で死別したので、明治三年七月、後妻として野中勝良氏の姉イト子と縁組した。尚、参考のため翁の姻戚関係を左に掲げておく。(翁生前の手記に拠る)

◇姉セキ 弘化四年未六月一日生る。明治五年佐々木啓次郎に嫁す。

◇嫡子 梅津栄重利、嘉永三年戌二月十六日生る。明治四年未十月家督。明治十二年一月十八日卒す。無涯と号す。

◇二女マサ 嘉永五年子十一月六日生る。明治二年牟田口重蔵に嫁す。同二十五年八月十日卒す。

(以上先夫人の所生)

◇三女千代 明治四年未九月晦日生る。明治二十四年野中到に嫁す。

◇養子 梅津利彦。牟田口重蔵三男。明治十五年十月二十五日生る。明治二十四年六月に養子す。明治三十年四月改名。明治三十七年十二月事故有て離別す。

◇養子 梅津健介。佐々木啓次郎次男。明治十一年六月十六日生る。同三十八年養子す。同年十月家督譲る。

◇弟 梅津九郎助。荒巻軍平養子となり伊右衛門という。後軍治と改めその後行度と改む。明治九年三月二十日卒す。行栄という。行年五十四歳。


 元来梅津家は前記の通り、黒田藩お抱えの能楽師の家柄として喜多流を相伝していたので、利春は幼少の頃から部屋住のまま藩主斉清公の前に出て御囃子や仕舞しまいを度々相勤めて御感に入り、いつも御褒美を頂戴していた。

 続いて天保三年の春、師家へ入門の手続をして直ぐに秘曲「おきな」の相伝を受けた。時に利春十六歳と伝えられているが、これはその時代の事であるから直接上京して入門した訳ではないようである。大藩黒田侯の御取済によって、地方の神社祭事に是非とも奉納しなければならぬ神曲「翁」の允可いんかを受けたものであろう。ただ弱冠十六歳で、能楽師家担当の重大責務ともいうべき神曲「翁」の相伝を受けたという一事によって、その当時の黒田藩内の能楽界に於ける利春の声望と実力の如何に隆々たるものであったかが想像される次第である。

 それから利春は十二年後の弘化元年の春(二十八歳)と嘉永元年春(三十二歳)と両度上京した。喜多十三世能静のうせい氏に就いて能楽を修業し、重習能おもならいのう小習こならい等を相伝したという。

 次の話は翁のその頃の苦心をあらわすもので、或は逸話の部類に入れるべき事柄かも知れぬ。又出所等もつまびらかでないが、筆者が何かの大衆雑誌で読んだ事である。

 翁が能静氏の門下で修業中、名曲「とおる」の中入なかいり後、老人の汐汲しおくみの一段で「東からげの潮衣──オ」という引節ひきふしの中で汐を汲み上げる呼吸がどうしても出来なかった。そこで能静氏から小言を云われっ放しのまま残念に思って帰郷の途中、須磨の海岸で一休みしながら同地の名物の汐汲みを眺めていたが、打ち寄せる波が長く尾を引いて、又引き返して逆巻こうとするその一刹那をガブリと担い桶に汲み込んで、そのまま波に追われながら後退あとしざりして来る海士あまの呼吸を見てやっと能静氏の教うる「汐汲み」の呼吸がわかった。同時に「潮衣──オ──」という引節に含まれた波打際の妙趣がわかったので、感激しながら帰途に就いたという。

 前記の通り事の真偽は知らないが、斯様かような話が世に伝えられているところを見ると、この当時の翁の苦心が多少に拘らず世に伝えられていた証左としてここに附記しておく。

 これより前、弘化三年三月、父正武氏の退隠により利春氏が家督を相続した。時に利春三十歳。翌弘化四年、三十一歳の時に父をうしなった。

 父を喪った後の利春は藩内の能楽に関する重責を一身に負い、その晩年に窺われた非凡の気魄、必死の丹精と同様……もしくはそれ以上の精彩を凝らして斯道の研鑽に努力した事が察しられる。その手記には「その後、御能、囃子等度々相勤むる」と極めて謙遜した簡短な文辞が挟んで在るだけであるが……。


 嘉永五年の三月に利春は、中庄の私宅舞台(福岡市薬院)に於て相伝の神曲「翁」の披露能を催した。相伝後正に二十年目に初めて披露をした訳である。翁一流の慎重な謙遜振りがこの時にも現われている。

 これは晩年の翁の気象から推察して、相伝後、自分が満足するまで練りに練り、稽古に稽古を重ねた結果と思われるが、更に今一歩深く翁の性格から推し考えてみると、翁は決して自分一人を鞭撻べんたつしていたのではあるまいと思われる。

 能楽は元来綜合的な舞台芸術である。だから仕手方シテかたを本位とする地謡じうたい囃子方はやしかた、狂言等に到るまで、同曲の荘厳と緊張味とを遺憾なく発揮し得なければ、如何に達者な仕手方(翁自身)といえども十分の舞台効果を挙げる事が出来ない筈である。

 しかも地方僻遠へきえんの地で「翁」ほどの秘曲を理解し、これを演出し得る程に真剣な囃子方、狂言方等は容易に得られない関係から、当地方の能楽界の技倆が、その程度にまで向上する時機を待っていたものか、もしくはその程度に達するまで、翁が挺身して一同を鞭撻し続けて来たものではあるまいかという事実が、前述の理由から想像される。

 そうして万一そうとすれば、只圓翁のこの披露は、当節の披露の如き手軽い意味のものでない。正に福岡地方の能楽界に一紀元を画した重大事件であったろうと思われる。同時に翁のそこまでの苦心とこれに対する一般人士の翹望ぎょうぼうは非常なものがあったに違いない事が想像されるので、その能が両日に亘り、黒田藩のお次(第二種)装束の拝借を差許される程の大がかりのものであった事実を見ても、さもこそと首肯される次第である。

 いずれにしてもこの「翁」披露能は一躍只圓翁をして福岡地方の能楽界の重鎮たらしめる程の大成功を収めたらしい。能後、翁は藩公より藩の御装束預かりを仰付おおせつけられた。これは藩の能楽家柄として最高無上の名誉であると同時に、藩内の各流各種の催能はすべて翁の支配下に属しなければならぬという大責任が、それから後翁の双肩に落下した訳である。

 かくしてこの神曲「翁」披露能後に認められた翁の人格と芸能の卓抜さがその後引続いて如何に名誉ある活躍を示したか……そうしてその間に於ける翁の精進が如何に不退転なもので在ったかは、後掲の記録を一見しただけでも一目瞭然であろう。

 不幸にしてその頃は封建時代で、その時代特有の窮屈な規範に縛られ易い能楽の事とて、翁の声価も極めて小範囲に限って認められていたうらみがある。前にも述べた通り万一これが、ほかの大衆的な芸術で、封建の障壁が取払われている現代であったならば、芸術界に於ける翁の威望はどの範囲にまで及んでいたであろうか。

 嘉永七年(安政元年利春三十八歳)三月。福岡市天神町水鏡天満宮二百五十年御神祭につき、表舞台(今の城内練兵場、旧射的場附近御下屋敷所在)で三日とも翁附の大能を拝命した。殊に藩公の御所望で、物習能ものならいのう(普通の能ではない、達人でなければ舞えない秘伝の曲目)を仰付られた。右つとめ終って後、御目録を頂戴し荒巻軍治氏(翁の令弟)に祝言を仰付られた。

 又文久元年九月(利春四十五歳)、宰相公(長知ながとも)御昇進御祝につき、表舞台で同二十八日より三日共翁附の御能を仰付られた。

 同じく文久元年十月十五日に藩公から翁に御用召があったので、何事かと思って御館へ罷出まかりでたところ御月番家老黒田大和殿から御褒美があった。すなわち「利春事、家業の心掛よろしく、別して芸道丈夫である。のみならず平日の心得方よろしく暮し向万事質素で、門弟の引立方等が深切に行届いている段が藩公の御耳に達し、奇特に思召おぼしめされ、御目録の通り下し賜わり、弥々いよいよ出精せよという有難きお言葉である」という御沙汰であった。且つ、「格別の御詮議を以て御納戸組おなんどぐみ馬廻うままわり格に加入仰付られ候事」というので無上の面目を施して退出した。

 右の御褒美の中に「平日の心掛宜敷よろしく」「暮し向万事質素」「門弟引立方深切」云々という事実は筆者等が翁の晩年に於ても親しく実見したところで、後に掲ぐる翁の逸話を一読されたならば思いなかばに過ぐるであろう。

 もしそれ翁の「芸道の丈夫」云々の一事に至っては、吾々門下の云為うんいすべき事柄でないかも知れないが、しかし、そうした芸風は翁の晩年に於ても吾々が日常に感銘させられ過ぎる位感銘させられていた事実であった。

 翁が頽齢たいれいに及んで起居自由ならず所謂ヨボヨボ状態に陥って居られても、一度舞台に立たれると、豪壮鬼神の如く、軽快鳥の如しとでも形容しようか。その丈夫な事血気の壮者をしのぐどころでない。さながらに地面から生えた大木か、曠野に躍り出た獅子のように、人々を驚嘆渇仰せしめていた事を想起する。

 以上を要するに翁の生涯は「恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし」の御勅語を国粋中の国粋たる能楽道に於て丈夫に一貫したものである事実が、この記録によっても明らかに立証されているであろう。

 文久三年(利春四十七歳)一月元旦、御謡初御囃子の節、藩主長知ながとも公御手ずから御袴を拝領仰付られた。これは能楽師として格外の名誉で、武功者が主君の御乗馬を拝領したのと同格である。

 明治元年(翁五十二歳)、藩主長知公京都へ御上洛の節、同地紫野むらさきの大徳寺内、龍光院に御宿陣が定められた。その節御供した御納戸組九人の中、翁は長知公の御招待客席で、御囃子、仕舞等度々仰付られた。そのほか所々に召連れられて御囃子、仕舞等を仰付られたとあるが、察するところ長知公も翁の至芸が余程の御自慢であったらしい。

 明治元年といえば鳥羽伏見のいくさを初め、江戸城の明渡、会津征伐等、猫の眼の如く変転する世相、物情騒然たる時節であったが、その中に、かほどの名誉ある優遊を藩公と共にしていた翁の感懐はどんなものであったろうか。

 晩年の翁が栄達名聞を棄て、一意旧藩主の知遇に奉酬する態度を示した心境はあるいはこの間に培われたものではあるまいか。


 明治二年四月四日、長知公は新都東京へ上られた。翁も例によって御供をして荒戸の埠頭から新造の黒田藩軍艦環瀛かんえい丸に乗り、十三日東京着。隔日の御番(当番)出仕で、夜半二時迄の不寝番をつとめた。毎月お扶持方として金十五円二歩を賜わった。

 この時翁の師匠、喜多能静氏(喜多流十三世家元。現家元六平太氏は十四世)は根岸に住んでいたが、その寓居を訪うた翁は「到って静かで師を尋ねて来る人もなかった」と手記している。

 しかしこれは矢張り翁独特のつつしまやかな形容に過ぎなかったらしく察しられる。

 その能静氏の根岸の寓居は現在もソックリそのままの姿で石川子爵が住んで居られる。まことに堂々たる構えであるが、しかもこの明治二年前後は、能楽師が極度の窮迫に沈淪していた時代であった。現家元六平太氏が家元として引継がれた品物は僅かに張扇はりおうぎ一対というのが事実であったから、能静氏も表面は立派な邸宅に住みながら、内実は余程微禄した佗しい生活に陥って居られたものであろう。

 そうして、他の能楽師のように別の商売に転向する芸もなく、権門に媚びる才もなく、売れない能楽を守って空しく月日を送って居られたものであろう。

「到って静かで、師を訪うて来る人もない」

 という只圓翁の簡素な手記の中には、その時に翁の胸を打った或るものが籠められていたことがわかる。歌道をたしなみ礼儀にあつい翁が、一切をつくした名文ではなかったろうかと思われる。

 こうした純芸術家肌の能静氏の処へ今を時めく宰相公のお納戸組馬廻りの格式を持った翁がうやうやしく訪問した情景は正に劇的……小説的なものであったろう。能静氏の喜び、翁の感激は、どんなであったろうか。

 能静氏の芸風は、極めてガッチリした、不器用な、そうして大きな感じのするものであったという。現家元六平太氏が常に先代先代といって例に引くのはこの人の事である。

 翁は非番の日には必ず能静氏を訪うて稽古を受けた。遠からず滅亡の運命に瀕しつつある能楽喜多流の命脈を僅かに残る一人の老師から受け継ぐべく精進した。

 又藩公へお客様の時には、翁は囃子、仕舞、一調いっちょう等を毎々つとめた。他家へお供して勤めた事もあったが、同時に師匠の能静師の事が藩公へ聞こえたのであろう。師匠と共に藩公の御前へ召出されて共々に勤めた事が度々であった。

 翁が能静氏から「道成寺」「卒都婆そとば小町」を相伝したのはこの時であった。それから後、翁の出精しゅっせいがよかったのであろうか。それとも能静氏が、自分の死期の近い事を予覚したものであろうか。最も重き習物「望月」「石橋しゃっきょう」までも相伝したのであったが、ここに困った事が一つ出来た。

 これ程に師匠から見込まれて、大層な奥儀まで譲られたのに対しては、弟子として相当の謝礼をしなければならないものである。勿論能静氏は、そんなつもりで教えたのではなかったであろう。すたれて行く能楽の真髄、別して自分の窮めた喜多流の奥儀を、せめて九州の一角にでも残しておきたいという一念から翁を見込んで相伝したものに違いなかったであろうが、それでも徳義に篤い只圓翁としては、そのままに過ごす事が出来なかったのであろう。しかも僅か十五円五十銭ぐらいの薄給では到底師恩相当の礼をつくす事が出来ないので非常に苦悩したらしい。

 しかし、さりとて他所から借金して融通するような器用な真似の出来る翁ではないので、とうとう思案に詰まった上、黒田家奥頭取おくとうどりの処へ翁自身に出頭して実情をありのままに申述べ、金子きんす借用方をお願いしたところ、何をいうにもお気に入りの翁が、一生に一度の切なる御願いというので殿様も、その篤実な志に御感心なすったのであろう。御内々で金十円也を謝礼用として賜わり、ほかに別段の思召として金子その他を頂戴したので翁は感泣して退出した。大喜びで本懐の礼を尽したという。翁が如何に師匠能静氏から見込まれていたか。同時に又藩公から如何に知遇されておったかがこの事によっても十分窺われる。

 然るに同年五月二十四日、かねてから不快であった能静氏が、重態となったので、態々わざわざ翁を呼寄せて書置を与えたという。

 その書置の内容が何であったかは知る由もないが、「師恩の広大なることを忘却仕間敷」と翁の手記に在る。尚引続いた翁の手記に、

「明治四年辛未十月下拙げせつ(翁)退隠。栄家督。其後栄病死す。只圓のみ相続す」

 と在る。この前後数年の間に翁は二つの大きな悲痛事に遭遇したわけである。

 明治十一年春(翁六十二歳)、長知公御下県になり、福岡市内薬院、林毛りんもう、黒田一美殿下屋敷(今の原町林毛橋附近南側)というのに滞在された。御滞在中幾度となく翁を召されて囃子、半能等を仰付られた。

 その後、長知公が市内浜町別邸(現在)に住まわれるようになってからも、御装束能、御囃子等度々の御催しがあり御反物、金子等を頂戴した。

 明治十三年三月三十日、翁六十四歳の時に又も上京したが、この時翁は在福の門下から鈴木六郎、河原田平助両人を同行した。多分藩公、御機嫌伺いのためと師匠の墓参りのためであったろう。

 この時の在京中藩公の御前は勿論、喜多流の能楽堪能(皆伝)と聞こえた藤堂伯邸へも度々召出されて御能、お囃子等を仰付られた。

 その時長知公の御所望で「石橋」をつとめた事があるという。舞台は判然しないが、その「石橋」で翁の相手をした人々は宝生新朔、清水然知、清水半次郎、長知公、一噌要三郎と記録されている。いずれもが、その時の脇師、囃子方中の名誉の人々であったことは説明する迄もない。

 かくて無上の面目を施した翁は四月六日東京出立、同二十七日無事帰県したが、この時の上京を前後として翁の芸風が漸く円熟期に入ったものではないかと思われる理由がある。勿論翁の斯道に対する研鑽けんさんと、不退転の猛練習とは晩年に到ってもおこたる事がなかった筈であるが、しかしこの以後の修養は所謂いわゆる悟り後の聖胎長養時代で、この前の六十余年は翁の修業時代と思うのが適当のようである。

 すなわち翁はこの前後に重き習物の能を陸続りくぞくと披露している。

 明治六年(五十七歳)望月

 同 七年(五十八歳)正尊、景清

 同十一年(六十二歳)卒都婆小町

 同十三年(六十四歳)石橋(前記)

 同十四年(六十五歳)赤頭道成寺、定家

 この明治十四年の「定家」披露後は明治二十五年まで(翁六十五歳より七十六歳に到る)格別の事もなかったらしい。何等の記録も残っていないが、しかもこの十年ばかりの間こそ、翁が芸道保存のために最惨澹たる苦楚くそめた時代で、同時に翁の真面目が最もよく発揮された時代であった。

 明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後滔天とうてんの勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。

 人々は吾国わがくに固有の美風である神仏の崇拝、父母師友の恩義を忘れて個人主義、唯物主義的な権利義務の思想に走ること行燈あんどんとラムプを取換えるが如く、琴、三味線、長唄、浄瑠璃を蹴飛ばしてピアノ、バイオリン、風琴、オルガンを珍重すること傘を洋傘に見換える如くであった。朝野の顕官は鹿鳴館に集まって屈辱ダンスの稽古に夢中になり、洋行帰りの尊敬される事神様の如く、怪しげな洋服、ステッキ、金時計が紳士の資格として紋付袴以上の尊敬と信用を払われた事は無論であった。

 こうした浅ましい時代の勢いを真実に回顧し得る人々は、国粋中の国粋芸術たる能楽がその当時如何に衰微の極に達していたかを容易に首肯されるであろう。その当時の能楽は全く長押なげしやり長刀なぎなた以上に無用化してしまって、誰一人として顧みる者がなかったと云っても決して誇張ではないであろう。

 事実、維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀のつばと一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。

 能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思いなかばに過ぐるものがある。

 専門の技芸の外には、世間に役立つ程の学才智能があるのではなし、銭勘定さえ知らない程に世事にうとかった能役者は幕府の禄こそ多くなかったが、諸大名からの夥しい扶持を得て前記の如き贅沢な安逸に耽っているのであるから、すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。中には蓄財のあった家もあるが、静にそれを守り遂げる事が出来ないで、馴れない商売で損亡を招く者が多く、又蓄える事を知らなかった人々は、急転直下して極端な貧窮状態に陥る外なかったのである。

 その頃の事を目の当り見聞した人も漸く少くなったが、その窮状を語る話は数々あった。何とも転向の出来ない者は手内職をするとか、小商売を開くというのであったが、内職といっても団扇うちわを貼るとか楊枝ようじを削るとかいう程度で、それで一家を支えるなどは思いも寄らない事であった。商売といっても家財を店先に並べて古道具屋を出す位で、それも一般家庭に役立つ物は少く、むを得ず二束三文に売り飛ばすと、あとは商品を仕入れる余裕がないから、屑屋同様になって店を仕舞うという有様であった。明治時代の大家と呼ばれた人の中に夜廻りをやって見たり、植木屋の手伝いをして見たりした人もある。芝居役者と共同の興行をやって見て、遂にその方へ這入った人もある。

 という実に今から考えても夢のような惨澹たる時代であった。

 こうした傾向の中心たる東京の真只中で窮乏に安んじながら能楽を捨てなかった翁の恩師能静氏の如きは実に鶏群中の一鶴と称すべきであったろう。

 もとより生一本の能楽気質の翁が、こうした能静氏の風格をけ継いだ事は云う迄もない。

 翁は九州に帰って後、そうした惨澹たる世相の中に毅然として能楽の研鑽と子弟の薫育を廃しなかった。野中到氏(翁の愛娘千代子さんの夫君で、後に富士山頂に測候所を建て有名になった人)と、翁の縁家荒巻家からの扶助によって衣食していたとはいえ全く米塩をかえりみず。謝礼の多寡たかを問わず献身的に斯道の宣揚のために精進した。

 七八つの子供から六十歳以上の老人に到るまでいやしくも翁の門を潜るものは一日も休む事なく心血を傾けて指導した。その教授法の厳格にして周到な事、格を守って寸毫もゆるがせにしなかった事、今思っても襟を正さざるを得ないものがある。(後出逸話参照)


 さもしい話ではあるが、そうした熱心な教育を受けた弟子が、謝礼として翁に捧ぐるものは盆と節季に砂糖一斤、干鰒ほしふく一把程度の品物であったが、それでも翁は一々額に高く押戴いて、「はああ……これはこれは……御念の入りまして……」

 と眼をしばたたきつつ頭を下げたものであった。無慾篤実の人でなければ出来る事でない。

 そればかりでない。

 翁は市内櫛田くしだ神社(素戔男尊すさのおのみこと奇稲田姫くしなだひめを祭る)、光雲てるも神社(藩祖両公を祀る)、その他の神事能を、衷心から吾事として主宰し、囃子方、狂言方、その他の稽古に到るまで一切を指導準備し、病を押し、老衰を意とせず斎戒沐浴し、衣服を改めて、真に武士の戦場に出づる意気組を以て当日に臨んだ。これは普通人ならば正に酔狂の沙汰と見られるところであったろうが、これを本分と覚悟している翁の態度は誰一人として怪しむ者もなく、当然の事として見慣れていたくらい真剣に恪勤かっきんしたものであった。

 これも逸話に属する話かも知れぬが、当時の出演者はシテ方、ワキ方は勿論、囃子方といわず狂言方といわず、見物人の批評を恐るる者は一人も居なかった。ただ楽屋に控えている翁の耳と眼ばかりを恐れて戦々兢々せんせんきょうきょうとして一番一曲をつとめ終り、翁の前に礼拝してタッタ一言「おお御苦労……」の挨拶を聞くまでは、殆んど生きた心地もなかったと云っても甚だしい誇張ではなかった。その当時十二三か四五程度の子供であった筆者でさえも大人の真似をして翁の顔色ばかり心配していたものであった。


 かようにして毅然たる翁の精進によってこの九州の一角福岡地方だけは昔に変らぬ厳正な能楽神祭が継続された。囃子方、狂言方は勿論の事、他流……主として観世流の人々までも翁の風格に感化されて、真剣の努力を以て能楽にいそしんだ形跡がある。甚だしきに到っては元来上懸かみがかりの発声と仮名扱いを以て謡うべき観世流の人々までが、滔々とうとうとして翁一流の下懸しもがかり呂張りょはりを根柢とした豪壮一本調子な喜多流まがいの節調を学び初め、観世流の美点を没却したうらみがあった。

 かような翁の無敵の感化力が如何に徹底したものであったかは、後年観世流を学んでいた吉村稱氏が翁の歿後一度上京して帰来するや、

「福岡の観世流は間違っている。皆只圓先生の真似をして喜多流のふしを謡っている。観世流は上懸で声の出所が違うのだから節も違わなければならぬ」

 と大声疾呼して大いに上懸式の謡い方を鼓吹した一事を以てしても十分に察せられるであろう。

 日本の辺鄙へんぴ福岡地方の能楽を率いて洋風滔々の激流に対抗し、毅然としてこの国粋芸術を恪守かくしゅし、敬神敦厚とんこうの美風を支持したのは翁一人の功績であった。翁は福岡の誇りとするに足る隠れたる偉人高士であったと断言しても、決して過当でない事が、ここに於て首肯されるであろう。

 同時にその間に於て翁が如何に酬いられぬ努力をつくし、人知れぬ精魂を空費して来たか。国粋中の国粋たる能楽の神髄を体得してこれを人格化し凜々りんりんたる余徳を今日に伝えて来たか。その渾然たる高風の如何に凡を超え聖を越えていたかを察する事が出来るであろう。

 明治二十五年(翁七十六歳)九月、先師喜多能静氏の年回(二十五回忌)として追善能が東都に於て催さるる事となった。

 当時東京では喜多流皆伝の藤堂伯その他の斡旋により、現十四世喜多流家元六平太氏、当時幼名千代造氏が能静氏の血縁に当る故を以て弱冠ながら家元の地位に据わり、異常の天分をぬきんで、藤堂伯その他の故老に就てお稽古に励んでいた。しかも前記の通り家元として伝えられた能楽の用具は僅かに張扇一対という、全然、空無廃絶に等しい状態から喜多流今日の基礎を築くべく精進し初めている時代であった。

 ところで、その能静氏の追善能に就いては只圓翁にも上京してくれるように喜多宗家から度々掛合って来たので、翁は無上の名誉として上京したが、早速藩公長知公の御機嫌を伺い、喜多家へも伺ったところ、その後、千代造氏(六平太氏幼名)と、翁と同行にて霞が関へ出頭せよという藩公からの御沙汰があった。

 ところが出仕してみると華族池田茂政、前田利鬯としか、皇太后宮亮林直康氏等が来て居られて、色々とお話の末、池田、前田両氏が親しく翁を召されて、「新家元、千代造の輔導の大役を引受けてくれぬか」というねんごろな御言葉であった。

 その当時の前後の状況は筆者は詳しく知らないが、いずれにしてもこの依頼が翁にとって非常な重責であったことは云う迄もない。

 しかしこの時の翁の立場から見ると、いたずらな俗情的な挨拶や謙遜を以て己を飾るべき場合でなかったようである。翁も亦、能静氏の恩命を思い、流儀の大事を思い、翁の本分を省み、且つ、依頼者の知遇を思えば、引くに引かれぬ場合と思ったのであろう。

「重々難有ありがたき御言葉。何分老年と申し覚束おぼつかなき事に存候ぞんじそうろう。しかし御方様よりの仰せに付、かしこまり奉る。まことに身に余る面目。老体を顧ず滞京、千代造稽古の儀御請おうけ申上もうしあげ候」

 と翁の手記に在る。

 同年一月十九日、芝能楽堂で亡能静師の追善能があった。翁も能一番(当麻たえま?)をつとめた筈であるが、その当時の記録は今、喜多宗家に伝わっている事と思う。

 その後、毎日もしくは隔日に翁は飯田町家元稽古場に出て千代造氏に師伝を伝え、又所々の能、囃子に出席する事一年余、明治二十六年十一月に帰県したが、何をいうにも、流儀の一大事、翁の一生の名誉あるお稽古とてこの間の丹精は非常なものがあったらしい。もっとも現六平太氏が、千代造時代に師事した人々は只圓翁一人ではなかった。又熊本の友枝三郎翁も、千代造氏輔導役の相談を受けたのを、平に謝絶して只圓翁に譲ったという佳話も残っている。又只圓翁以外の千代造氏の輔導役は幼少の千代造氏を遇する事普通の弟子の如く、かさにかかった手厳しい薫育を加えたものであるが、これに反して只圓翁は極めて叮嚀懇切なものがあった。何事を相伝するにも平たく、物静かに包み惜しむところがなかったので、かえって得るところがすくないのを怨んだという佳話が残っているそうであるが、その辺にも礼節格式を重んずる翁一流の謙虚な用意が窺われて云い知れぬ床しさがしのばれるようである。ちなみにこの時の只圓翁の上京問題に就ては当時在京の内田寛氏(信也氏父君)、米田與七郎氏(米田主猟頭令兄)が蔭ながら非常な尽力をされたそうである。

 尚この時に翁は能楽装束附しょうぞくづけの大家斎藤五郎蔵氏に就いて装束附方つけかたを伝習した。もっとも斎藤氏は初め翁を田舎の貧弱な老骨能楽師と思ったらしく中々伝習を承知しなかったそうであるが、現家元その他の熱心な尽力によってやっと承知した。現家元厳君、故宇都鶴五郎氏(能静氏愛婿)は屡々しばしば只圓翁の装束附お稽古のために呼出されてお人形に使われたという。

 その時代の事に就いて六平太氏は筆者にもこんな追懐談をした。前記の只圓翁の心用意を裏書きするに足るであろう。

「只圓は私を教えてくれた他の故老たちと違って、おごった意地の悪いところがすこしもなく、極めて叮嚀懇切に稽古をしてくれましたよ。不審な点なぞも勿体ぶらずにスラスラと滞りなく説明してくれました」

 なお六平太氏は只圓翁について語る。

「色々思い出す事も多いですが、只圓は字が上手でしたからね。私から頼んで家元に在る装束の畳紙たたみがみに装束の名前を書いてもらいました。只圓は装束の僅少な田舎にいたものですから大した骨折ではないとタカをくくって引受けたらしいのです。ところが、口広いお話ですが家元の装束と申しましても中々大層なものでね。先ず唐織から書き初めてもらいましたのを、只圓は何の五六枚と思って墨を磨っていたのがアトからアトから際限もなく出て来る。何十枚となく抱え出されるので余程驚いたらしいですね。閉口しながらウンウン云って書いておりましたっけ」

「酒は好きだったらしいですね。私は七五三に飲みますと云っておりました。多分朝が三杯で昼が五杯で晩が七杯だったのでしょう。小さな猪口ちょこでチビチビやるのですからタカは知れておりますが、それでも飲まないと工合が悪かったのでしょう。『今日は朝が早う御座いましたので三杯をやらずに家を出まして、途中で一杯引っかけて参りました。申訳ありませぬ』と真赤な顔をしてあやまりあやまり稽古をしてくれる事もありました」

「面白いのは梅干の種子たねを大切にする事で(註曰。翁は菅公崇拝者)、一々紙に包んでたもとに入れておりました。或る時私が只圓の着物を畳んでいる時に偶然にそれが出て来ましたのでね。開いてみると梅干の種子たねなので何気なく庭先へポイと棄てたら只圓が恐ろしく立腹しましたよ。『勿体ない事をする』というのでね。恐ろしい顔をして見せました。後にも先にも私が只圓から叱られたのはこの時だけでしたよ」

 云々……と。師弟の順逆。老幼の間の情愛礼譲の美しさ。聞くだに涙ぐましいものがある。

 かくて新家元へ相伝の大任を終った翁が、藩公長知侯にお暇乞いとまごいに伺ったところ、御垢付あかつきの御召物を頂戴したという。

 因に翁のこの時の帰郷の際には、藤堂伯、前田子、林皇后太夫、その他数氏の懇篤なる引留め運動があったらしいが、翁は国許の門弟を見棄てるに忍びないからという理由でいささか無理をして帰ったらしい。しかもその以前から内々で引続いていた野中、荒巻両家からの只圓翁に対する扶助はこの以後も継続されたので、国許の門弟諸氏はその意味に於て荒巻、野中両家に対し感謝すべき理由がある事をここに書添えておく。


 明治三十三年の春頃であったか、福岡名産、平助筆の本舗として有名な富豪、故河原田平助翁の還暦の祝賀能が二日間博多の氏神櫛田神社で催された。番組は記憶しないが、京都から金剛謹之介氏が下って来て、その門下の「土蜘つちぐも」、謹之介氏の「松風」「望月」なぞが出た。筆者はその時十二歳で「土蜘」のツレ胡蝶をつとめた。

 その謹之介氏の「松風」の時、翁は自身に地頭じがしらをつとめたが中の舞後の大ノリ地で「須磨の浦半の松のゆき平」の「松」の一句を翁は小乗このりに謡った。これは申合わせの時にもなかったので皆驚いたらしかったが、何事もなく済んでから、シテの謹之介氏は床几を下って、「松の行平ゆきひらはまことに有難う御座いました」と翁に会釈したという。


 明治三十七年十月八日九日両日、門弟中からの発起で翁の八十八歳の祝賀があった。能は両日催されたが、翁の真筆の賀祝の短冊、土器かわらけ斗掻とかき、餅を合せて二百組ほど諸方に送った。

 二日の能が済んだ後、稽古所で祝宴があった。能の祝宴も皆弟子中の持寄りで、極めて質素な平民的なものであった。


 明治二十五年四月一日二日の両日、太宰府天満宮で菅公一千年遠忌大祭の神事能が催された。

 この大祭は催能前の二箇月間に亘って執行されたもので、祭能当時は日本全国、朝野の貴顕紳士が参向したほかに、古市公威、前田利鬯子爵等が下県して能を舞われた。

 同社に保管されている番組を見ると、その能組の豪華盛大さと、これを主宰した翁の苦心が首肯されるばかりでなく、その当時の翁の門下、当地方の能楽界一流どころの名前が歴然として残っている。現在生存して居られる知人故旧の人々の、思い出の種として、略するに忍びないから左に掲げておく。

      御能組(第一日)

◇翁 (シテ)梅津利彦 (三番叟)高原神留 (千歳)生熊生 (大鼓)高畠元永 (小鼓頭取)栗原伊平 (脇鼓)本松卯七郎、石橋英七 (笛)中上正栄

◇老松 (シテ)梅津朔造 (シテツレ)大賀小次郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)梅津昌吉 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)岩倉仁郎

◇粟田口 (狂言)野田一造、野村祐利、高原神留

◇八島 (シテ)山崎友樹 (シテツレ)戸畑宗吉 (ワキ)高木儀七 (大鼓)竹尾吉三郎 (小鼓)石橋英七 (笛)辻儀七 (間、那須語)高原神留

◇抜売 (狂言)岸本作太、在郷三五郎

◇羽衣 和合舞(シテ)古市公威 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄

◇花盗人 (狂言)岩倉仁郎、高原神留、野田一造、城戸甚次郎、秋吉見次、野村久、生熊生

◇鞍馬天狗 白頭(シテ)前田利鬯 (シテツレ)石蔵利吉、石蔵利三郎、加野宗三郎 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)栗原伊平 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)野村祐利、在郷三五郎、生熊生

      御能組(第二日)

巻絹まきぎぬ (シテ)梅津利彦 (シテツレ)梅津昌吉 (ワキ)西島一平 (大鼓)清水嘉平 (小鼓)藤田正慶 (太鼓)国吉静衛 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎

棒縛ぼうしばり (狂言)在郷三五郎、岩倉仁郎、高原神留

◇夜討曾我 (シテ)大野徳太郎 (シテツレ)梅津利彦、小田部正次郎、藤田平三郎、楢崎徳助、梅津昌吉、井上善作、諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)栗原伊平 (笛)杉野助三郎 (間)在郷三五郎、生熊生

禰宜山伏ねぎやまぶし (狂言)野村祐利、岸本作太、野田一造、秋吉見次

花筐はながたみ (シテ)前田利鬯 (シテツレ)山崎友樹、安永要助 (ワキ)西島一平 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (笛)中上正栄

◇鷺 (仕舞)梅津只圓

◇山姥 (囃子)(シテ)南郷茂光 (大鼓)吉村稱 (小鼓)河原田平助 (太鼓)国吉静衛 (笛)中上正栄

鉢木はちのき (シテ)古市公威 (シテツレ)山田清太郎 (ワキ)小畑久太郎 (ワキツレ)吉浦彌平 (大鼓)高畠元永 (小鼓)斉村霞栖 (笛)中上正栄 (間)生熊生

鬮罪人くじざいにん (狂言)高原神留、岩倉仁郎、生熊生、野村久、城戸甚次郎、秋吉見次

烏帽子折えぼしおり (シテ)梅津朔造 (シテツレ)白木半蔵、上村又次郎、梅津昌吉、吉浦彌平、大野徳太郎、小田部正次郎、藤田平三郎、井上善作 (ワキ)小出久太郎 (ワキツレ)諸岡勝兵衛 (大鼓)宮崎逸朔 (小鼓)上田勇太郎 (太鼓)国吉静衛 (笛)辻儀七 (間)野村久、城戸甚次郎、野村祐利、岸本作太、高原神留

◇附祝言


 この能の両日、楽屋を指導監督していた翁の姿を見られた古市公威氏が帰途、車中で嘆息しながら独語賛嘆された。

「梅津只圓という者は聞きしに勝る立派な人物である。あのような品位ある能楽師を余はまだかつて見た事がない」

 という話柄が今日に伝わっている。

 明治四十一年頃から翁の身体の不自由が甚だしくなって、座っていられない位であったが、それでも稽古は休まなかった。

 その明治四十一年か二年かの春であったと思う。梅津朔造氏が「隅田川」の能のお稽古を受けた。それは翁の最後のお能のお稽古であったが、翁は地謡じうたい座の前の椅子に腰をかけ、前に小机を置いてその上に置いた張盤はりばんを打って朔造氏の型を見ていた。地頭は例によって山本毎氏であったが、身体は弱っても翁の気象は衰えぬらしく、平生と変らぬ烈しい稽古ぶりであった。

 ところがその途中で翁が突然にウームと云って椅子の上にり返ったので、近まわりの人々が馳け寄って抱き止めた。それから大騒ぎになって、附近の今泉に住んでいる権藤国手こくしゅを呼んで来る。親類に急報する。注射よ。薬よという混雑を呈したが、間もなく翁が寝床の上で正気付き、気息が常態に復して皆に挨拶し、権藤国手も安心して帰ったので皆ホッと愁眉を開いた。

 ところが梅津朔造氏がその枕頭に手を突いて、

「それでは、これでおいとまを……」

 と御挨拶をすると翁がムックリ頭をもたげて左右に振った。

「おお。朔造か、いかんいかん。まだ帰ることはならん。今一度舞台へ来なさい。あげなザマではいかん」

 と云い出して頑としてかない。

 皆舌を捲いて驚き且つ惑うた。この非凡な翁の介抱に顔を見合わせて困り合ったが、結局、翁の頑張りに負けて今一度、稽古を続ける事になった。

 門弟連中が又も舞台に招集された。その中で、翁は元の通り椅子にもたれて稽古を続けたが、今度は疲れないように翁の胴体を帯で椅子に縛り付け、弟子の一人が背後からシッカリと抱えて「隅田川」一番の稽古を終った。

 翁は、それ以来全く床に就き切りになったが、それでも仰臥したまま、夜具の襟元の処に脚の無い将棋盤のような板を置き張扇でバタバタとたたいて弟子の謡を聞いた。

 明治四十三年の四月、桜の真盛りに、福岡市の洲崎お台場の空地(今の女専所在地)で九州沖縄八県聯合の共進会があった。すこぶる大規模の博覧会同様のものであった上に、日露戦争直後であったため非常な人気で、福岡名物、全市無礼講の松囃子が盛大に催されて賑った。

 翁の門下の人々は高齢で臥床中の翁に赤い頭巾と赤い胴衣を着せ、くるまで東中洲「菊廼屋きくのや」(今の足袋の広告塔下ビール園、支那料理屋附近)という料亭に運び、そこで食事を進めて後、その頃はまだ珍らしかったとうの寝椅子に布団をべて翁を横たえ、二本の棒を通し、人夫に担架させ、門弟諸氏が周囲を取巻いて、翁に共進会場を見物させた。

 これは翁の門下岩佐専太郎氏の思い付であったらしいが、全福岡市の称讃を博し、新聞にも翁の担架姿が写真入りで大きく芽出度く書き立てられた。


 翁の病臥後、門下の人々はさながらに基督キリスト門下の十二使徒のような勢で流勢の拡張に努力した。梅津朔造氏は南大牟田市を中心として三池地方に勢力を張り、山本毎氏は東田川郡を中心として伊田、後藤寺に根を下し、炭坑地方を開拓した。

 その他の門下諸氏も福岡市外に門戸を張って子弟を誘導し、各神社の催能を盛大にしたが、一方に在福の連中の中でも既に三年間翁に師事していた故梅津正保氏等を含む一団の高弟連中は毎月一回ずつ、村上彦四郎氏邸や、その他の寺院等で謡会を開いた。

 その中心となって指導していたのは斎田惟成氏(当時福岡地方裁判所勤務)で、その会を開く前日は必ず翁の枕頭に集まって役割の通りに謡って翁の叱正を受けた。万一翁のお稽古が出来ない場合には会の方を延期するという真剣さであった。

 その素謡すうたい会の席上で梅津正保君の調子が余りに大きいので、調子の小さい河村武友氏が嫌って前列にい遣ったという挿話などがあった。

 翁の臨終の前年頃になると、翁の老衰の程度が、時々段落を附けて深くなったものであろう。出張教授をしている梅津朔造氏や山本毎氏等の処へ度々至急電報が飛んだ。

 最初のうちは両氏等も倉皇として翁の枕頭に駈け付けたが、その後同じような至急電報が頻々として打たれたので、両氏も自然と狼狽しなくなった。そう急に死ぬ老先生ではないというような一種の信念が出来たものらしかった。

 そのうち明治何年であったか、京都で何かの大能が催さるるとかで、翁の状態を知らぬ旧知、金剛謹之介氏から翁に出演の勧誘状が来た。

 その手紙を見た翁は直ぐにかたわらをかえりみて云った。

「折角の案内じゃけに行こう。まだ舞えると思うけに京都迄行って、一生の思い出に直面ひためんの『遊行柳ゆぎょうやなぎ』を舞うてみよう」

 かたわらの人々は驚いた。急遽門弟を招集して評議した結果、翁の健康状態が許さぬ理由の下に翁を諫止かんししてしまった。万事に柔順な翁は、この諫止に従ったらしいがさぞかし残念であったろうと思う。こうした出来事には人道問題、常識問題等が加味して来るから一概には是非を云えないが、まことに翁のために、又は能楽のために残り惜しい気がして仕様がない。舞台で倒れるのは翁の本懐であったに違いなかったのだから……。後年、熊本の友枝三郎翁が、「雨月」を舞い終ると同時に楽屋で急逝したことは心ある人々の讃嘆するところであった位だから。


 明治四十三年(翁九十四歳)、日韓合併の年の七月二日、風雨の烈しい日であった。

 柴藤しばとう精蔵氏(当時二十三歳)は朝から翁の所へ行って謡のお稽古を受けていたが、その途中で翁が突然に「オーン」と唸り声を上げた。同時に容態が急変したらしいので、枕頭にいた老夫人と女中も狼狽して柴藤氏をして医師を呼びに遣った。

 柴藤氏は狼狽の余り跣足はだしで戸外に飛出したが、風雨の中の非常な泥濘をズブ濡れの大汗で、権藤病院に馳け付けて巻頭に掲げた翁の主治医寿三郎先生を引っぱって来た。

 寿三郎先生の手当で翁の容態の急変は一時落付く事になったが、寿三郎氏はその時既に「最早もはや絶望」と思ってしまったという。だから冒頭に掲げた翁の臨終の逸話は、その翌日の事である。

 翁の容態の急変が三度が三度とも能楽のお稽古の最中であった事は、翁の能楽師としての生涯の崇高さを一層悲痛に高潮させる所以ではあるまいか。



   梅津只圓翁の逸話



 翁の逸話として何よりも先に挙げなければならないのは、翁自身の勉強の抜群さと、子弟の教育の厳格さであった。

 翁は毎朝未明(夏冬によって時刻は違うが)に必ず起上ってタッタ一人ではかまを着け、扇を持って舞台に出て、自分で謡って仕舞の稽古をする。翁の養子になっていた梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)などは遠方の中学校へ行くために早く起きようとすると、早くも翁の足踏の音が舞台の方向に聞こえるので、又夜具の中へ潜り込んだという利彦氏の直話である。こうした刻苦精励が翁の終生を通じて変らなかった事は側近者が皆実見したところであった。

 前記の通り晩年、足腰が不叶ふかないになって臥床するようになっても、稽古人が来ると喜んで、仰臥したまま夜具の襟元でアシライつつ稽古を附けてやった。かたわらの人が、余りつとめられると身体に障るからといって心配しても、「何を云う。家業ではないか」と云って頑として稽古を続けた。


          ◇


 弟子に対する稽古の厳重、慎重であった事は、事柄が事柄だけに最も多く云い伝えられている。殆んど数限りがない位である。

 翁の弟子には素人玄人の区別がなかった。又弟子の器用無器用、年齢の高下、謝礼の多少なぞは一切問題にせずに、殆んど弟子をタタキ殺しかねまじき勢いで稽古を鍛い込んだ。一人も稽古人が来なくなっても構わない勢いで残忍、酷忍、酷烈なタタキ込み方をした。むろん御機嫌を取って弟子をやそうなぞいう気は毛頭なかったので、現今のような幇間ほうかん式お稽古の流行時代だったら瞬く間に翁の門下は絶滅していたであろう。

 翁のこうした稽古振の裡面には、よしや日本中の能楽が滅亡するとも、自分の信ずる能楽の格だけは断じて崩すまい。その精神で上は神明に仕え下は自己の修養に資しようという無敵、潔白の自負と、いい加減な弟子を後世に残して流風を堕落させては師匠の相伝に対して相済まぬ。それよりも自分の門下を絶った方が正しいという非常時的な大決心が一貫していた事が、明らかに認められる。

 能楽は平時の武士道の精華である。舞台はその戦場である。だから稽古は生命を棄てて芸道に生きる方便である。すなわち「捨身成仏しゃしんじょうぶつ」が芸道の根本精神でなければならぬ……というのが翁自身のモットーであり、数々の訓戒に含まれている不言不語の点睛であったらしい。次のような逸話の数々が残っている。


          ◇


 翁は初心者が復習する事を禁じた。新しい小謡を習った青少年達が帰りがけに翁の表門を出ると、直ぐに大きな声で嬉しそうに連吟して行くのを聞き付けた翁は、その次の稽古日に必ず訓戒した。

「お前達はあのような自分勝手な謡を自分勝手に謡うことはならぬ。必ず私の前に来て謡いなさい。そうせねば謡が崩れて悪い癖が付く。一度悪い癖が付くとなかなか直らぬものだ」

 弟子達は皆恥じて小さくなった。しかし、それでも謡いたいので、門を出ると翁に聞こえぬ位の小声で謡って、だんだん遠くなると大声で怒鳴りながら家へ帰ると、いよいよ大得意になって習い立ての小謡を謡った。家人も梅津先生から習い立ての謡というと謹んで聞いたものだという。

 ところがその次の翁の稽古日に翁の前で復習させられると、直ぐに我儘謡を謡った事を看破されて驚き且つ赤面した。

「そげな節をば誰から習うたか。又、自分で勝手に復習しつろう」

 と云うのであった。そのたんびに、子供心に「どこが違うのだろう。習った通りに稽古したつもりだが」……と不思議に思い思いしたという。(佐藤文次郎氏談)


          ◇


 高弟梅津朔造氏はもう五十を越していた。斑白頭はんぱくあたまの瘠せこけた病身の人で、喘息ぜんそくが持病であったが、頑健な翁によく舞台の上で突飛ばされた。当時二十歳前後の屈強の青年であった梅津利彦氏なども、やはり突飛ばされた組で、当時九歳か十歳であった筆者ですらもその例に洩れなかった。

 但し筆者は幼少であったゆえか、こうした体刑を受けた事は極めて稀であった代りに、「ソラソラ……又……又ッ」という大喝の下に遣り直させられた事が、大人よりも多かったように思う。

 中の舞の初段の左右の型のところで気が掛からないと云って十遍ばかり遣り直させられてスッカリ涙ぐんだあとで、利彦氏が同じ稽古(男舞)で又やり直し十数回の後、とうとう突飛ばされてしまったのを見て、「出来ないのは自分ばかりじゃないな」とひそかに得意になった事もある。

 翁の晩年の弟子の中で最も嘱望しょくぼうされていたのは斎田惟成氏であった。この人の稽古振りや能の舞いぶりを筆者は在京中であったために、あまり見ていなかったが、よほど烈しいものがあったと伝え聞いている。

 やはり五十近かった氏に、口の開き方が悪いと云って張扇を突込んだり、「首が縮む、シャンとせよ」と云って張扇で鼻の下からハネ上げて鼻血を出させたりしたという話である。しかもそれが冬の極寒の時であったというから随分辛かったであろう。むろんその鼻血ぐらいの事で稽古中止にはならない。斎田氏は襟元を血だらけにしたまま舞い続けたという。


          ◇


 梅津朔造氏の「安宅」の披露能の時であった。勧進帳が済んで関所を越え、下曲くせ前のサシ謡のところへ来るとシテの朔造氏がホッとしたものか、急に持病の喘息が差込んで来て、「たださながらに十余人」の謡を謡いさしたまま息を呑んでシテ座に平伏してしまった。

 そこで謡を誰が代りに謡ったか記憶しないが下曲を終り、ワキとの懸合かけあいに入ると、やっと朔造氏が気息をつくろって顔色蒼然たるまま謡い出し、山伏舞を勤め終ったが、その焦瘁しょうすい疲労の状は見るも気の毒な位であった。

 朔造氏は幕に這入ると、装束のまま楽屋の畳の上に平伏して息も絶え絶えにせ入ったが、その背後から翁が、

「ええい……このヒョロヒョロ弁慶……ヒョロヒョロ弁慶……」

 と罵倒する大声が、舞台、見所けんしょは勿論、近隣までも響き渡ったので、観衆は皆眼を丸くして顔を見合わせていた。

 その時の筆者は十四五歳であったろうか。何事かと思って見所から楽屋を覗きに行ったものであったが、その時の翁の声と顔付の恐ろしかった事を想起すると、今でも肌に粟を生ずる思いがある。


          ◇


 梅津利彦氏が十七八歳頃の事であったろうか。右手に赤塗のお盆を持って翁の後から舞台に行くので、子供心に何事かと思っていて行った。

 元来利彦氏のお稽古は、翁が自分の芸の後継者と思っていたのであろう。極度の酷烈を極めたものであったので、私は見るに忍びないために滅多にお稽古を拝見せず、外で遊ぶ事にきめていたのであった。

 ところが舞台に入ってみると、「野守のもり」の「きり」のお稽古で、その稽古振りの猛烈なこと、とても形容の及ぶところでない。武道、その他の勝負等の場合には、相手の調子によって気合いが抜ける場合がないとも限らないが、能の仕舞の如きは、体力、芸力の気合いが寸分の隙間もなく続いて行かねばならぬ。……その気合いを抜いて上手に舞おうと心掛けるのは負けて逃げるのと同じこと。喜多流では許さぬ。「それじゃけに喜多流はむずかしい」……と翁が人に話していた言葉を記憶しているが、正にその通りで、殊に「野守」の仕舞の如きは、その前後に見た翁の稽古の中でも最も峻厳、酷烈を極めたものであったように思う。舞台面のモノスゴサに惹きつけられて、身動きも出来ず見ているうちに、体を緩めたり、気を抜く余裕なんか只の一刹那もないところを翁が教育している事が、子供心にもハッキリとわかった。

 血気盛んな利彦氏が渾身の気合いをかけて前進し、非常な勢いで身をかわして踏み止まろうとするが、止まれない。腰が浮き上ってノメリそうになる。そこを全力を上げて踏み止まると、鏡代用の赤いお盆を持つ左手の気が抜けている。

 翁は「ホラホラッ。それで鏡に見えるかッ」とか、「鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼ぞ。鬼神ぞ鬼神ぞ。ヒョロヒョロ腰の人間ではないぞないぞ」と皮肉を怒号しながら滅多無性に張扇をタタキまくる。

 利彦氏の顔は見る見る汗と涙にまみれて、肩は大浪を打ち、息は嵐のように息吹いぶき初める。精も根も尽き果てながら舞い終って片膝を突くと、「さあ、今一度舞え。最後の気合いが途中で抜けちゃ詰まらん。鬼ぞ鬼ぞ。地獄の鬼神ぞ。ええか……おそろしや打火かがやく鏡の面に……」とアシライはじめる。さながらの地獄の光景である。

 そのうちに利彦氏の腰付が心気の疲労のためいよいよ危くなって来ると、とうとう翁が癇癪かんしゃくを起して、張扇を二本右手に持ってヒョロヒョロと立上って来た。この頃から翁は軽い中風の気味で、左足を引擦ひきずっていたのであるが、利彦氏が突飛ばされた拍子に投出した赤いお盆を拾い取ると、翁は自身で朗々と謡いながら舞い初めたが驚いた。

 その身体からだの軽い事。まるで木の葉のようにヒラヒラと身をひるがえす。赤いお盆がそれこそサーチライトのようにギラリギラリと輝きまわり屈折しまわる。おしまいに三尺ばかり飛上って座った翁の膝の下から起った音響の猛烈だったこと、板張が砕けたかと思った。

「この通り……ようと(充分の意)稽古しておきなさい」

 とたしなめておいて、翁は筆者を振返った。

「さあ。今度はアンタじゃ。『敦盛』じゃったのう」

「ハイ」

 と答えたまま筆者は後見座に釘付になって立上れなかった事を記憶している。あんまり固くなって足がシビレていたのだ。


          ◇


 翁の皮肉もまた、尋常でなかった。何やらの地謡の申合わせの時に、翁の居間の机の前に六七人並んでうたい合わせながら翁に聴いてもらっていた。

 その中の某氏(名前は預かる)が謡の文句をつないでいなかったらしく、小さな声で地頭の謡にくっ付いて行った。

 それを聞きとがめた翁はアシライの手をピタリと止めて、皆の顔を覗き込むように見まわした。

「誰かいな。誰か一人小さい声で謡い居るが、聞き苦しゅうてたまらん。誰かいな」

 とギョロギョロ見まわした。ナアニ……翁はその小さい声の主をちゃんと知っていたのであるが、特にたしなめるために故意とこうした意地の悪い態度をったものである。

 そうして幾度も幾度も根気強く「誰かいな誰かいな」を繰返して、トウトウ「私で御座います」と白状させた。

「怪しからん。充分謡が出来もせぬ癖に大切なお能の舞台に出ようとするけに、他人ひとに迷惑をかけて、要らざる恥を掻きなさる。その心掛がいかん。私は出来ませんと云うて、何故最初から遠慮しなさらんかいな。鍛練に鍛練を重ねても十分につとまるかどうか判らぬとがお能の常習つねじゃ。そげな卑屈な心掛で舞台に出てもえものと思うてんなさるとな。私の眼の黒いうちは其様そげな事は許さん。今度の地謡にはアンタ一人出席を断る。この次から了簡を入れ換えて来なさい」

 とうとうその場で某氏はつまみのけられてしまった。

 そのお能の当日の地謡の真剣さというものは恐ろしい位の出来であったという。(故林直規氏談)


          ◇


 或る時、やはり五六人の門下が並んで同吟していた。相当出来た人ばかりであったが、その中の一人が正座した足趾あしゆびの先で拍子を取っているのを敏感な翁が発見した。

「コラコラ。お前は足の先で拍子をとり居ろうが」

 その人は愕然がくぜんとして色を失った。翁は怫然として言葉を続けた。

「拍子謡はならぬと云うのに何故コソコソと拍子を取んなさるか。其様そげに拍子を取って謡いたいならほかの遊芸をば稽古しなさい。まっと面白かもんのイクラでもある」(桐山孫二郎氏談)


          ◇


 度々筆者自身の事を書くので如何にも名聞がましくて気が差すが平にお許しを願いたい。

 筆者の祖父は旧名三郎平、黒田藩の応接方で後、灌園と号し漢学を教えて生活していた。私は生れると間もなくからその祖父母の手一つで極度に甘やかして育てられたものであった。

 祖父は旧藩時代から翁のお相手のワキ役を仰付られ、春藤流(今は絶えた)脇方の伝書聞書を持っていた。

 そのせいか祖父灌園は非常というよりも、むしろ狂に近い只圓翁の崇拝者であった。筆者の父や叔父、親類連中は勿論のこと、同郷出身の相当の名士や豪傑が来ても頭ごなしに遣り付ける、漢学者一流の頑固な見識屋であったにも拘らず、翁の前に出ると、筆者が五遍ぐらいお辞儀をする間、額を畳にスリ付けてクドクドと何か挨拶をしていた。まるで何か御祈祷をしているようであった。

 翁から何か云われると、犬ならば尻尾を振切るくらい嬉しそうに、

「ハイ。ハイ。ハイハイハイハイ……」

 と云ってウロタエまわった。

 その祖父灌園は方々の田舎で漢学を教えてまわった挙句あげく、やっと福岡で落ち付いて、筆者が大名小学校の四年生に入学すると直ぐに翁の許に追い遣った。

「武士の子たる者が乱舞を習わぬというのは一生の恥じゃ」

 といった論法で、面喰っている筆者の手を引いて中庄の翁の処を訪うて、翁の膝下しっかに引据えて、サッサと入門させてしまった。その怖い怖い祖父が、翁の前に出ると、さながら二十日鼠はつかねずみのようにと縮みになるのを見て筆者も文句なしに一縮みになった。封建時代の師弟の差は主従の差よりも甚だしくはなかったかと今でも思わせられている位であった。

 まだ十歳未満の筆者が、座ったまま翁と応待していると、祖父が背後からイキナリ筆者の頸筋を掴まえて鼻の頭と額をギュウと畳にコスリ付けた事があった。礼儀が足りないという意味であったらしい。


          ◇


 筆者の祖父は馬鹿正直者で、見栄坊で、負けん気で、誰にも頭を下げなかったが、しかし只圓翁にだけはそれこそ生命いのちがけで心服していた。

 神事能や翁の門下の月並能の番組が決定すると、祖父の灌園は総髪に臘虎らっこ帽、黄八丈に藤色の拝領羽織、鉄色献上の帯、インデン銀煙管ぎせるの煙草入、白足袋に表付下駄、銀柄の舶来洋傘(筆者の父茂丸が香港から買って来たもので当時として稀有のハイカラの贅沢品)という扮装いでたちで、喰う米も無い(当時一升十銭時代)貧窮のただ中に大枚二円五十銭の小遣(催能の都度に祖父が費消する定額)をさらって弟子の駈り出しに出かけたので、祖母や母はかなり泣かされたものだという。

 祖父はこうして翁門下の家々をまわって番組を触れまわる。舞台の世話、装束のまわりまで「その分心得候え」を繰返して奔走しては、出会う人毎に自分が行かないと能が出来ないような事を云っていたらしい。二三十銭の会費を出し渋ったり、役不足を云ったり、稽古を厭がったりする者があると、帰って来てからプンプンおこって、「老先生に済まん済まん」と涙を流していたという。


          ◇


 その頃博多に梅津朔造氏等の先輩で××という人が居たが、非常に器用な人で師伝を受けずに自分の工夫で舞って素人の喝采を博していた。その人が翁の稽古をがえんぜず、色々と難癖を附けて翁を誹謗ひぼうしたので、祖父は出会う度に喧嘩をした。

「彼奴は流儀の御恩を知らぬ奴じゃ。お能で飯を喰うて行きよるけに老先生も大目に見て御座るが、今に見よれ。罰というものはあのような奴に当るものじゃ」

 と口を極めて悪態をいていたが、あんまり度々云うので筆者はその科白せりふを暗記してしまった。どうやら××氏には祖父の方が云い負けていたらしい悪口ぶりであった。


          ◇


 筆者の祖父は装束扱いがお得意で、楽屋の取まわしが好きだったらしい。舞台から引込んで来ると、自分の装束を脱がないまま他人の装束を着けている姿をよく見かけた。

 月並能の後、一人頭二三十銭宛切り立てて舞台で御馳走を喰うのが習慣になっていたが、御馳走といっても、味飯かやくめし清汁すまし、煮〆程度の極めて質素なものであった。ところで、その席上で気に入らぬ事があると、祖父は只圓翁を促してサッサと席を立った。

 そのまま筆者の手を引いて帰る事もあった。

「老先生に対して済まぬという考えがない。あいつは下司げす下郎じゃ」

 という事をアトでよく云ったが、何の事やら誰の事やらむろんわからなかった。とにかく祖父は何もかも只圓翁を中心にして考えていたらしい。


          ◇


 そんな訳で筆者は九歳から十七歳まで十年足らずの間翁のお稽古を受けた。

 翁も亦そんな因縁からであったろう。筆者を引立てて可愛がってくれて、僅かの間にシテ、ツレ、ワキ役を通じて記憶おぼえ切れぬ位数多く舞台を踏ましてくれたものであったが、正直のところを云うと筆者は最初から終いまでお能というものに興味を持っていなかった。ただ子供心に他人から賞められたり、感心されたり、祖父母から、

「お能の稽古をせねば逐い出す」

 と云われるのが怖ろしさに、遊びたい一パイの放課後を不承不承に翁の処へ通っていたものであった。実に相済まぬ面目ない話であるが、実際だったから仕方がない。

 翁もこの点では気付いていたと見えて、筆者が翁の門口を這入ると、

「おお。よう来なさったよう来なさった」

 と云って喜んでくれた。別に褒美を呉れるという事もなかったが、ほかの子供達とは違った慈愛の籠った叮嚀な口調で、

「あんたは『俊成忠度』じゃったのう。よしよし。おぼえておんなさるかの……」

 といった調子で筆者の先に立って舞台に出る。

「イヨー。ホオーホオー。イヨオー」

 と一声いっせいの囃子をあしらい初めるのであるが、それがだんだん調子に乗って熱を持って来ると、翁の本来の地金をあらわしてトテモ猛烈な稽古になって来る。私もツイ子供ながら翁の熱心さに釣込まれて一生懸命になって来る。

「そらそら。左手左手。左手がブラブラじゃ。ちゃんと前へ出いて。肱を張って。そうそう。イヨオー。ホオーホオー。ホオ。ホオウ」

「前途程遠し。思いを雁山の夕の雲に馳す」

「そうそう。まっと長う引いて……イヨー。ホオホオ」

「いかに俊成の卿……」

「ソラソラ。ワキは其様そげな処には居らん。何度云うてもわからん。コッチコッチ」

 といった塩梅で双方とも知らず知らず喧嘩腰になって来るから妙であった。


          ◇


 翁は筆者のような鼻垂小僧でも何でも、真正面から喧嘩腰になって稽古を附けるのが特徴であった。

 張扇をバタバタと叩いて「ソラソラ」と云う時は軽い時で、笛のしょう歌を「オヒャラリヒウヤ」とタタキ附けるように云う時は筆者の気が抜けているのを呼び醒ますためであった。もっとも最初は、それほどこの「ヒウヤ」が怖くなかったが、そのうちに翁が笙歌を云いながら立上って来て、「ヒウヤ」と耳の傍で憎々しく云うと筆者を突飛ばしたので、それ以来この「ヒウヤ」を聞くたんびにドキンとして緊張した。


          ◇


 翁は甚だしくおこると、

「ホラホラホラホラッ」

 と怒鳴って立上りがけに上の総義歯そういればを舞台に吹き落すことがあった。それを慌てて又、口の中へ拾い込んで立って来るので、門弟連中の笑話になっていたが、その場になるとその見幕が恐ろしいので笑いごとどころではなかった。


          ◇


 幾度も同じ舞いの順序を間違えると翁はやはり立上って来て、筆者の襟首を捉まえて舞台を引きずりまわしながら、

「ソラソラ。廻り返し、仕かけ開き……今度が左右じゃ」

 といった風に一々号令して教え込んだ。翁に亀の子のように吊り提げられながら、その通りに手足を動かして行く筆者の姿は随分珍な図であったろうと思う。翁はそのついでに遺恨骨髄に徹している筆者の頭を張扇でポンとたたいて、

「……片端から忘れるなあ、アンタは……ここには何の這入っておるとな」

 と皮肉った事もあった。

 遺憾ながらその頃の筆者は頭の中に脳味噌が詰まっている事を知らなかったが、翁は知っていたと見える。


          ◇


 一番情なかったのは「小鍛冶こかじ」の稽古であった。

 筆者が十二歳になった春と思う。光雲てるも神社の神事能の初番に出るというので、祖父母、筆者と共に翁も非常な意気込であったらしいが、それだけに稽古も烈しかった。

 当日まで一箇月ばかりは毎日のように中庄の翁の舞台へ逐い遣られたものであった。途中で溝の中の蛙をイジメたり、白蓮華れんげを探したりして、道草を喰い喰い、それこそ屠所の羊の思いで翁の門を潜ると、待ち構えている翁は虎が兎をかすめるように筆者を舞台へ連れて行く。「壁に耳。岩のもの云う」と子供心にも面白くない初同が済んで、「そオれ漢王三尺のげいの剣」という序になると、翁はそれから先の上羽あげは前の下曲くせの文句の半枚余りを「ムニャムニャムニャ」と一気に飛ばして、「思い続けて行く程に──イヨー。ホオ」とハッキリ仕手の謡を誘い出すのが通例であった。

 ところが生憎あいにくな事に舞台の背後が、一面の竹藪になっている。春先ではあるがダンダラじまのモノスゴイ藪蚊やぶかがツーンツーンと幾匹も飛んで来て、筆者の鼻の先を遊弋ゆうよくする。動きの取れない筆者の手の甲や向うずねに武者振付いて遠慮なく血を吸う。かゆくてたまらないのでソーッと手を遣って掻こうとすると、直ぐに翁の眼がギラリと光る。

「ソラソラッ」

 と張扇が鳴り響いて謡は又も、

「そオれ漢王三尺の……」

 と逆戻りする。今度は念入りに退屈な下曲くせの文句が一々伸び伸びと繰返される。藪蚊がますますワンワンと殖えて顔から首すじ、手の甲、向う脛、一面にブラ下る。痒いの何のって丸で地獄だ。たまらなくなって又掻こうとすると筆者の手が動くか動かないかに又、

「ソラソラッ」

 と来る。「そオれ漢王三尺の」と文句が逆戻りする。筆者の頬になみだが伝い落ちはじめる。

 何故この時に限って翁がコンナに残忍な拷問を筆者に試みたか筆者には今以てわからないが、何にしてもあんまり非道ひどすぎたように思う。当日の光栄ある舞台の上で、つまらない粗忽をしないように、シテの品位と気位を崩させないように特に翁が細心の注意を払ったものではないかとも思える。或はその頃筆者の背丈が急に伸びたために、急に大人並に扱い初めたのだという祖母の解釈も相当の理由があるように思えるが、それにしてもまだ甘え切っていた筆者にとっては正直のところ何等の有難味もない地獄教育であった。ただ情なくて悲しくて涙がポロポロと流れるばかりであった。


          ◇


 とにかくそんなに酷い目にあわされていながら、翁を恨む気には毛頭なれなかったから不思議であった。ただ縛られているのと同様の不自由な身体からだに附け込んで、ワンワン寄って来る藪蚊の群が金輪際怨めしかった。

 だから或時筆者は稽古が済んでから藪の中へ走り込んで、思う存分タタキ散らしていたら翁が見てホホホと笑った。

「蚊という奴は憎い奴じゃのう。人間の血を吸いよるけに……」


          ◇


 そんな目に毎日毎日、会わせられるので筆者は、

「もう今日限り稽古には来ぬ」

 と思い込んで走って家に帰っても、又あくる日になると祖父母に叱られ叱られ稽古に行った。そんな次第で、やっと「小鍛冶」の上羽の謡になると型の動きが初まるので、蚊責めの難から逃れてホッとした。

 それから下曲が済んで中入前の引込みの難しかったこと。

「……静かに……静かにッ……」

 という翁の怒鳴り声が暗い舞台の中に雷のように反響して私を縮み上らした。又もワンワンと寄って来る蚊の群を怖れ怖れシテ柱をまわる時の息苦しかったこと。


          ◇


 それからやっと「小鍛冶」の後シテになって、翁と二人で台を正面へ抱え出す。その上に翁が張盤を据えて、翁は自分の膝で早笛をあしらい初める。それがトテも猛烈なものでよく膝が痛まないものだと思ううちにシテの出になる。

 その時の運びのむずかしかったこと。一度出来てもその次にはダレてしまって出来ない。むろん今は出来ないどころか記憶にさえ残っていないが、しまいには翁が自分で足袋たび穿いて来てってみせた。その白足袋の眼まぐるしく板にすべってゆく緊張した交錯の線が今でも眼にはハッキリ残っているようであるが、やはり説明も出来ず真似も出来ない。

 その序に翁は台の上からビックリする程高く宙に飛んで、板張りの上に片膝をストンと突いて見せたが、これは筆者も真似て大いに成功したらしい。

「よしよし」

 と賞められた。註をしておくが翁は滅多に芸を賞めた事がない。「まあソレ位でよかろう」とか、「それでは外のものを稽古しよう」と云われたら一生一パイの上出来と思っていなければならないので、「よしよし」と云われた人は余りいない筈である。

 さて光雲神社神事能当日の私の「小鍛冶」の成績はどうであったか。翁は黙っていたのでわからなかった。ただ祖父母は勿論、知りもしない人から色々な喰物を沢山に貰った。饅頭、煎餅、豆平糖まめへいとう、おはぎ、生菓子、黒砂糖飴、白紙に包んだおすし、強飯こわめしなぞを中位の風呂敷一パイぐらい。

 もっとも二番目の「七騎落」の遠平になった半ちゃん(故白木半次郎君)も大抵同じ位貰っていたからあんまり自慢にはならないが。


          ◇


 ちなみにこの頃聞いたところによると、その頃の筆者は恐ろしく小器用な謡で、只圓門下に似合わないコマシャクレた舞を舞っていたそうである。門弟たちが苦々しく思って、或る時翁にこの事を訴えたら、

「うむ。あれは灌園(祖父)が教えるけに、ああなるのじゃ」

 と不興げに答えたという。(宇佐元緒氏談)


          ◇


 誰であったか名前は忘れたが、「松風」の能のお稽古が願いたいと申出た事があった。翁は知らん顔をして、

「おお。稽古してやらん事もないが。先ず謡を謡うてみなさい」

 という訳で初同を謡わせられた。本人ここぞと神妙に謡ったが翁は聞き終ると、

「それ見なさい。謡さえマンゾクに謡いきらんで舞おうなぞとは以ての外……」

 とキメ付けられたので、本人はどこが悪いのかわからないまま一縮みになって引退った。(柴藤精蔵氏談)


          ◇


 梅津朔造氏の歿後は斎田惟成氏が門下を牛耳っていたが、或る時門弟を代表して翁の前に出て、

「皆今度のお能に『松風』を出して頂きたいと申しておりますが……」

 と恐る恐る伺いを立てたところ、翁は言下に頭を振った。

「まあだ『松風』はいかん。『花筐はながたみ』にしておきなさい」(宇佐元緒氏談)


          ◇


 当時四国で一番と呼ばれた喜多流の謡曲家池内信嘉氏が或る時、わざわざ只圓翁を尋ねて来て、何かしら一曲聞いてもらった。聞いたアトで翁はただ、

「結構なお謡い──御器用なことで──」

 とか何とか云ったきり何も云わない。それでも是非遠慮のないところを……と請益せいえきしたら只圓翁のいわく、

「貴方のお謡いはアンマリ拍子に合い過ぎる。それでは謡いとは云われぬ。謡いは言葉の心持ちを謡うもので拍子を謡うものでない。拍子がちゃんとわかっておって、それを通り越した自由自在な謡でなければ能の役には立たぬ」(林直規氏談)


          ◇


 翁は単に稽古のみならず、楽屋内の礼儀にまでも到れり尽せりの厳重さを恪守かくしゅしていた。楽屋内で冗談でも云う者があると即刻に破門しかねまじき勢いであった。神事能の時など楽屋内で神社からの振舞酒を飲んで大きな声を出す者なぞがあると、誰にも断らずにサッサと杖を突張って帰宅した。「不埒ふらちな奴だ。楽屋の行儀が悪うして舞台が立派に出来ると思うか。お能の精神のわからぬ奴どもの催すお能は受持てん」と云って憤慨したり、

「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能よりほかにない道理がわからんか。下司下郎のお能は下司下郎だけで芝居小舎ででもんなさい。神様の前に持って来る事はならぬ」と頑張って何と云っても聞かない。仲に立った人や宮世話人を手古摺てこずらせた事が毎度であった。(野中到氏その他数氏談)


          ◇


 次のような例もある。

 筆者が十二三歳の折、中庄の翁の舞台で先代松本健三翁の追善能が催された。

 筆者はその時、「小袖曾我」のシテを承っていたが、筆者の装束を着けていた高弟の某氏(秘名)が筆者の小さなチンポコを指の先でチョイと弾じいた。筆者は直ぐに両手でそこを押えて、「痛い痛い」と金切声を揚げたので近まりに居た高弟諸氏がドッと笑い崩れた。

 隣の居間から見ていた翁の顔色が見る見る変った。某氏を呼付けて非常な見幕で叱責した。

「楽屋を何と心得ているか。子供とはいえシテはシテである。シテは舞台の神様で能のまもり本尊である。そのシテを戯弄するような不心得の者は許さぬ。直ぐに帰れ。一刻も楽屋に居る事はならぬ。装束は俺が付ける。帰れ帰れ」

 といったような文句であったと思う。

 某氏は平あやまりに詫まった。ほかの一緒に笑った人々も代る代る翁に取做とりなしたので結局、翁の命令でその笑った四五人の中老人ばかりが、床几に腰をかけている筆者の前にズラリと両手を支えてあやまった。

「ただ今は存じがけもない御無礼を仕りまして……今後、決して致しませぬけに、何卒御勘弁を……」

 筆者は弱った。どうしていいかわからないまま固くなって翁の顔を見た。翁はまだ眉を逆立てたまま向うから睨み付けていた。


          ◇


 こんな風だったから翁が恐れられていた事は非常なものであった。実に秋霜烈日の如き威光であった。

 能の進行中、すこし気に入らぬ事があると楽屋に端座している翁は眼を据えて、唇を一文字に閉じた怖い顔になりながらムクムクと立上って、鏡の間に来る。幕の間から顔を出して舞台を睨むと、不思議なもので誰が気付くともなく舞台が見る見る緊張して来る。

 翁が物見窓から舞台を覗いている時は、機嫌のいい時である事がその顔色で推量されたが、それでも何となく舞台が引緊まって来た。囃子方の声や拍子が真剣になり、地謡に張りが附き、シテが固くなってヒョロヒョロしたから妙であった。実に霊験アラタカといおうか現金と形容しようか。子供心にも馬鹿馬鹿しい位であった。

 出演者自身の述懐によると……翁が覗いて御座るナ……と思ったトタンに囃子方は手を忘れ、地謡は文句を飛ばし、シテは膝頭がふるえ出したという。自分の未熟を翁に塗り付ける云い草であったかも知れないが……。


          ◇


 能管の金内吉平氏は翁の生存当時の能管の中でも一番の年少者で、体格も弱少であったが、或る時、「敦盛」の男舞を吹いている最中に翁が覗いているのに気が付いたので固くなったらしく、笛がパッタリ鳴らなくなった。それでも翁が恐ろしさに、なおも一生懸命に位を取りながら吹くとイヨイヨ調子が消え消えとなる。そこで死物狂いになってスースーフウフウと音無しの笛を吹き立てたが、とうとう鳴らないまま一曲を終えて、どんなに叱られるかと思い思い楽屋へ這入ると、翁は非常な御機嫌であった。

「結構結構。きょうの意気と位取りはよかったよかった」

 と賞められた時の嬉しかったこと……初めて能管としての自信が出来たという。(金内吉平氏談)


          ◇


 前述のような数々の逸話は、翁一流の天邪鬼あまのじゃくの発露と解する人が在るかも知れぬが、そうばかりではないように思う。

 翁は意気組さえよければ型の出来栄えは第二第三と考えていたらしい実例がイクラでも在る。

 現在の型では肩がったり、手首が曲ったり、爪先が動いたりする事を嫌うようであるが、翁の稽古の時には全身に凝っていても、又は手首なんか甚だしく曲っていても、力が這入っておりさえすれば端々の事はあまり八釜やかましく云わなかったようである。

 只圓翁門下の高足、斎田惟成氏なんかの仕舞姿の写真を見ても、その凝りようはかなり甚だしいものがある。記憶に残っている地謡連中の、マチマチに凝った姿勢を見てもそうであった。凝って凝って凝り抜いて、突っ張るだけ突っ張り抜いて柔かになったのでなければ真の芸でないというのが翁の指導の根本精神である事が、大きくなるにつれてわかって来た。

 だから小器用なニヤケた型は翁の最も嫌うところで、極力罵倒しタタキ付けたものであった。そんな先輩連の真似をツイうっかりでも学ぶと、非道い眼に会わされた。


          ◇


 翁が稽古中に先輩や筆者を叱った言葉の中で記憶に残っているものを、云われた人名と一緒に左に列記してみる。アトから他人に聞いた話もある。

「お前が、そげな事をばするけにほかの者が真似する。喜多流にはそげな左右はない。どこを見て来たか……云え……云いなさい……馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)

「扇はお前の心ぞ。武士の刀とおなじもんぞ。チャント両手で取んなさい」(筆者へ)

「イカンイカン。扇の先ばっかりチョコチョコさせるのは踊りじゃ踊りじゃ──。心が生きねば扇も生きん。お能ぞお能ぞ……踊りじゃないぞ」(筆者へ)

「俺が足の悪い真似をお前がする事は要らん。お前はお前。俺は俺じゃ。馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)

「人に真似されるような芸は本物じゃないぞ」(梅津利彦氏へ)

 =シンミリした穏かな口調で=「謡は芸当じゃない。心持ちとか口伝とかいうて加減するのが一番の禁物じゃ。私が教えた通りに真直まっすぐに謡いなさい。心持ちとか口伝とかいうものはないものと思いなさい。そうせぬと謡が下劣になる」(山本毎氏ほか地謡一同へ)

 =或る天狗能楽師の悪口を云った後=「能は芝居や踊りのように上手な人間が作ったものではない。代々の名人聖人の心から生まれたものじゃ。その人達の真似をさせてもらいよるのじゃ。出来ても自慢にはならぬ。自分のたしなみだけのものじゃ。それを自慢にする奴は先祖なしに生まれた人間のような外道げどうじゃ。勿体ない奴じゃ」(梅津朔造氏。山本毎氏等々へ)

 =或る囃子方の悪口を云って=「彼奴のような高慢な奴が鼓を打つと向うへ進まれぬ。後退あとしざりしとうなる」

 =光雲神社の鏡の間で囃子方へ=「馬鹿どもが。仕手がまだ来んとに調べを打って何になるか。貴様達だけで能をするならせい。この馬鹿どもが」


          ◇


 筆者が「夜討曾我」のお稽古を受けている時であった。

 後シテの御所の五郎丸組討くみうちの場になるとキット翁が立上って来て、背後から組付いて肩のはずし工合を実地にらせる。それから五郎丸の投げ方の稽古であるが、投げ方が悪いと翁が途方もない力でシッカと獅噛しがみ付いて離れないので困った。

 これは最初筆者が、子供ながら翁のような老人を本気に投げていいかどうか迷って躊躇したのが翁に悪印象を残したのに原因していたらしい。実に意地の悪い不愉快な爺さんだと思った。

 そればかりでない。

 遠慮のないところを告白すると翁は総義歯そういればをしていたのであるが、その呼吸いきが堪らなく臭い事を発見したので最初からウンザリした。背後から筆者の肩を抱締めたまま筆者の耳の処に顔を持って来て、

「本気で、本気で投げんと不可いかん。投げんと殺されるぞ。力一パイ。肩をはずいて。そうそう」

 というソノ息吹きの臭いこと。とても息苦しくてムカムカして来てしようがなかった。


          ◇


 高弟梅津朔造氏の令息で、梅津昌吉という人が居た。今四谷の喜多宗家に居られる梅津兼邦君の父君であるが、翁の歿後は脇方専門のようになっていた。

 元来無器用な人であったらしく、狂言から仕手方に転向した上村又次郎氏と共にいつも翁から叱られるので有名であったが、それでも屈せずたゆまぬ勉強によって福岡地方で押しも押されもせぬ師家になられた事実が、同時に有名であった。

 氏は、正直一途な性格で、あんまり翁から叱られて、真剣になり過ぎたらしく「虚眼」というのになってしまった。虚眼というのは、お能一番初まってから終るまで一時間か二時間の間、瞬きを一つもしないことで、昌吉氏が真白くクワッと眼を見開いて舞台の空間を凝視したままでいるのが、矢張り只圓翁門下一統の名物のようになっていた。

「昌吉は、あんまり一生懸命になり過ぎたんですね。あんなにしていると肝腎の眼が死んでしまいます。あんなのを虚眼と云ってね。時々ありますよ」

 と現六平太先生が評された。

 只圓翁は一生懸命になり過ぎる分ならイクラなり過ぎようとも、出来損ってもとがめなかったので、昌吉氏の虚眼もお咎めを免れたものと思う。


          ◇


 これに引続いた話であるが、前記河原田平助氏の櫛田神社に於ける還暦祝賀能に「大仏供養」が出た。シテの景清が梅津利彦氏で、ワキの畠山重忠が前記梅津昌吉氏であった。

 その頃互いに二十代であった両氏の意気組は非常なもので稽古もずいぶん猛烈であったが、サテ能の当日になると文字通り焦げ附くような暑さであった。それに装束を着けて舞うのだから大変で、

「名乗れ名乗れと責めかけられ」

 と畠山が景清を橋がかりへ追込む時の如き、二人とも満面夕立のような汗が烏帽子えぼし際から滴り落ちるのであった。

 揚幕を背にした景清の利彦氏は真赤に上気して、血走った眼を互い違いにシカメつつ流れ込む汗にくらまされまいとしている真剣な努力が見物人によくわかった。これに対して畠山に扮した梅津昌吉氏は真青になったまま、イクラ汗が眼に流れ込んでも瞬き一つしない。爛々と剥き出した眼光でハッタと景清を睨み据えたまま引返して舞台に入り、

「言語道断」

 と云った。その勢いのモノスゴかったこと。

「今日のような『大仏供養』を見た事がない」

 と楽屋で老人連が口を極めて賞讃したのに対し翁はタッタ一言、

「ウフフ。面白かったのう」

 と微笑した。昌吉氏はズット離れた処で装束を脱ぎながら、

「汗が眼に這入って困りましたが、橋がかりに這入ると向うの幕の間から先生の片眼がチラリと見えました。それなりけり気が遠うなって、何もかもわからんようになりました」

 と云って皆を笑わせていた。


          ◇


 或る時中庄の只圓翁の舞台で催された月並能で、大賀小次郎という人が何かしら大癋おおべしものを舞った。

 その後シテの時にどこからか舞台に舞い込んで来た一匹の足長蜂が大癋の面の鼻の穴からい込んで、出口を失った苦し紛れに大賀氏の顔面をメチャメチャに刺しまわった。

 大賀氏は気が遠くなった。しかし例によって幕の間から翁が見ているのが恐ろしさに後見を呼ぶ事さえ忘れて舞い続けた。「舞台は戦場舞台は戦場」と思い直し思い直し一曲を終った。

 幕へ這入って仮面を脱ぐと大賀氏の顔が一面に腫れ上って、似ても似つかぬ顔になっているので皆驚いた。(柴藤精蔵氏談)


          ◇


 翁の門下の催能にワキをつとめた人は筆者の祖父灌園以外に船津権平氏兄弟及その令息の権平氏が居た。観世の関屋庄太郎氏も出ていた。

 そのほか他流の人で翁の門下同様の指導を受けていた人々には観世の不破国雄、山崎友来氏等がある。

 しかし翁は他流の人や囃子方、狂言方には、あまり八釜やかましい指導をしなかった。翁が八釜しく云うのは何といっても喜多流の仕手方で、その中でも梅津朔造氏が一番激しくイジメられたりコキ使われたりした。

 翁は事ある毎に、

「朔造朔造」

 と呼んだ。その声がトテモ大きくて烈しいので舞台から見所まで筒抜けに聞こえた。

 その声が聞こえると朔造氏はどこへ居ても直ぐに飛んで来て、持病の喘息を咳入り咳入り翁の用を足した。翁の「朔造朔造」は催能の際の名物であり風景であった。


          ◇


 粟生弘氏は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「えびら」のきりの謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しをくらっている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。

 そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直やりなおさせられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本うたいほんの前に両手を突いて、

「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」

 と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、

「そげな事じゃ不可いかん。良く稽古しておきなさい」

 といましめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。

「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)


          ◇


 芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣いでいたのは斎田惟成氏であった。

 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍しゅつらんほまれがあったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。

 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、

「そんなにお叱りになっては……」

 といさめにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。

「女風情が稽古場に出入りするかッ」

 といった見幕で一気に撃退してしまった。

「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」

 などと門弟に云い訳をする事もあった。

 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。

 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢いはついでいた。(佐藤文次郎氏談)


          ◇


 翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造氏、山本毎氏等の先輩に当り、筆者なぞは全然顔も知らない。謡が実に立派で、蔭で聞いていると只圓翁と間違う位であった。いつも翁の能の地頭を拝命していた高足であったが、同じ翁門下の地頭格山本毎氏と争い、非常に憤激して自宅に帰り謡曲の本を全部焼棄して二度と翁に見えなかった。(宇佐元緒氏談)

 詳しい事情は判明しないが、間辺氏の斯様かような態度は栗山大膳以来の片意地な黒田武士の本色であったと同時に、只圓翁門下の頑固な気風を端的に露出したものであったという。(林直規氏談)


          ◇


 今一人は現教授佐藤文次郎氏の姻戚に当る吉本董三氏で、美髭を生やした眉の太く長い、眼と口の大きい、いかにも豪傑らしい風貌の巨漢であった。

 氏は金貸を業としていたにも似合わず、翁のために献身的に働く純情家であった。何か費用の要る事があるとお能の際に、楽屋から観衆席を巡回して目星い人間を片端から引捕えて、自身の山高帽を突付けながらめき立てた。

「貴公は金持じゃけに五円出しなさい」

「あんたも三円ぐらい奮発しなさい」

「お前は一円に負けるけに出せ。ナニ無い。横着な事を云う。蟇口がまぐちをば開けて見い」

 といった調子で有無を言わさず捻じ上げて行くので能率の上る事非常であったという。

 しかし能の方は滅法好きな癖に天下無敵の下手であった。翁がイクラ教えてもその通りには決して出来なかったし、自分でも諦めていたと見えて思い切った蛮声を張上げて思う存分、勝手気儘な舞い方をした。長刀なぎなたを持たせると大喜びでノサバリまわって危険この上もないので地謡が皆中腰で謡ったという。流石さすがの只圓翁もこの人物にはかぶとを脱いでいたらしく稽古の時にも決して叱らなかった。

 のみならず同氏が地謡に座って謡いながら翁の前で行燈袴あんどんばかまをまくって、毛ムクジャラな尻から太股まで丸出しにしてかゆい処をバリバリと掻きまわるような事があっても翁は見ないふりをしていた。

 こんな人物は多分翁の苦手であったろう。いつも翁の事を「爺が爺が」と呼棄てにしていたので、皆「吉本のキチガイ」と云っていた。実に愛すべき豪傑であった。(柴藤、宇佐両氏談)


          ◇


 モウ一人只圓翁の苦手が居た。これは本人が現存しているから特に姓名を遠慮するが、この人もかなりの無器用で、同時に相当の天狗様であったらしい。或る時はじめて翁に謡のお稽古を願ったら、翁は一応稽古を附けて後でブッスリと云った。

「モウお前は稽古に来るには及ばぬ。私はお前の先生にはアンマリ上等過ぎる」

 これは二三人から聞いた話だから事実としてここに書いておく。腹が立つと、それ位の事は云いかねない翁であったから。

 ところが感心な事に、その劣等生氏は、それでも断然屁古垂へこたれなかった。それ以来降っても照っても頑強に押しかけて来たので、翁もその熱心にでたものであろう、叱り叱り稽古を付けてやったが、翁が歿前かなりの重態に陥って、稽古を休んでいる時までも毎日毎日執拗に押かけて来て、枕元で遠慮なく本を開いて謡い出したので、とうとう翁が腹を立てた。

「そう毎日来ては堪らん。大概にしなさい」

 稽古腰のあれ程強い翁に白旗を上げさせたのは古往今来この人一人であろう。同氏は現在梅津正利師範の手で有伝者に取立てられて、大勢の弟子を持っていてなかなか忙しいという。


          ◇


 翁は痩せた背丈の高い人であった。五尺七八寸位あったように思う。日に焼けた頑健な肉附と、どこから見ても達人らしい風格を備えたシャンとした姿勢であった。肩が張って、肋骨が出て、しわだらけの長大な両足の甲に真白い大きな坐胝すわりだこがカジリ附いていた。

 冬は地味な、粗末な綿入の上に渋茶色のチャンチャンコ、茶色の小倉帯、紺飛白こんがすりの手縫足袋。客が来るとその上からコオリ山(灰白色のつむぎの一種)の羽織を羽織った。

 麻製渋色の胸当て(金太郎式の)は夏冬共に離さなかった。


          ◇


 後頭部に心持ち黄色い白毛が半月型に残っているのを綺麗に櫛目を入れていた。顔は長大で、鼻が西洋人みたように鷲型で、白い眉が房々として、高い小鼻の左右に眼窩が深く落凹おちくぼんで、心持ち内斜視の老眼が鋭く光っていた。口は大きく一文字に閉じて、凹んだ両眼と、巨大な顎と共に一歩も退かぬ一徹の気象をあらわしていた。

 横頬から特に前頭部へかけて黒いまだら長生癥ちょうせいちょうが群着していた。又首筋へ労働者でなければ見受けられない深い皺が重なり合っていたが、これは翁自身の過激な肉体的習練の結果か、又は好物の畠イジリと網打ちの結果ではなかったろうかと思われる。

 要するに健康そのもののようにガッチリと逞しい、声の太い、大きな爺さんであった。


          ◇


 稽古は二五八、三六九の日に分けて、四の日七の日十の日が翁の休日であったらしい。何かの都合で、その休みの日に行くと翁はセッセと野菜畑で働いていたりしたが、直ぐに足を洗って来て稽古をしてくれた。休み日だからといって決して悪い顔をしたり稽古を断ったりしなかった。

 初めて小謡を習いに行くと、翁は半紙を一帖出して自分で紙縒こよりをひねって綴じる。それから墨を磨って表紙に「小謡」と書いて、その右下に弟子の姓名を書く。その一枚をめくって、

「サア、何がよかろうのう」

 なぞとニコニコ独言ひとりごとを云いながら、二句ぐらいの簡単な和吟に胡麻節ごまふしを附けたのを書いて投与える。それを畳の上に置いて待っていると、翁が机の横から這い出して来て真正面に座る。

「そうそう。チャンと両手を膝に置いて」

 とお行儀を教えながら二度程繰り返して附けてくれる。それでも出来ないと、蠅打の柄や、張扇で頭をピシャリとたたく事もあった。

 その次に来ると今一度謡わせられて、つつがなく記憶おぼえていると又一つ新しいのを書いてもらえる。すこし上達して来ると、

「節の附かんとも時々は良かろう」

 と云って文句ばかりを書いてくれることもあった。最初は面喰ったが後には慣れて来た。

 翁が書いてくれた小謡本には略字や変体仮名が多いので、習って帰ると直ぐに朱で仮名を附けたものであったが、翁は別に咎めなかった。


          ◇


 毎年一月の四日にはお鏡開きといって、お稽古に来る子供ばかりを座敷に集めて、翁が小豆雑煮(ぜんざいのようなもの)を振舞った。それがトテモ美味しくて熱いので、喰っている子供連は一人残らず鼻汁を垂らしたのをススリ上げススリ上げしていた。

 翁はニコニコと眺めていた。(佐藤文次郎氏談)


          ◇


 だんだん上達して来ると本番(全曲)を習う。

 筆者は三歳ぐらいから祖父に仕込まれていて、翁の処へ入門した時は数番の謡を丸暗記していたのでイキナリ本番を習ったものであったが、むろんこちらから曲目を撰む事は出来なかった。翁が本人の器量に応じて次の月並能の番組を斟酌しんしゃくしながら撰んでくれるのであった。

 翁の処へ稽古に行くと、玄関の上りがまちの処(机に向っている翁の背後)に在る本箱から一冊引出して開いてくれる。時には、

「その本箱を開けてみなさい。その何冊目の本の何という標題の処を開けてみなさい」

 と指図する事もあった。

 それを最初から一枚ぐらいずつ、念を入れて直されながら附けてもらうので、やはり二度ほど繰り返しても記憶おぼえ切れないと叱られるのであった。

 その本はたしか安政二年版行の青い表紙で、「ウキ」「ヲサヘ」や「ヤヲ」「ヤヲハ」又は廻し節、呑み節を叮嚀に直した墨の痕跡と胡粉ごふんの痕跡が処々残っている極めて読みづらい本であった。

 この翁の遺愛の本は現在神奈川県茅ヶ崎の野中家に保存して在る筈である。


          ◇


 翁は一番の謡を教えると必ずその能を舞わせる方針らしかった。

 筆者は九歳の時に「鍾馗しょうき」の一番を上げると直ぐにワキに出された。シテはたしか故大野徳太郎君であったと思うが、お互に受持の言葉を暗記するかしないかに二人向き合って申合わせをさせられたので、間違うたんびに笑っては叱られた。

 そんな風であったから筆者は小謡とか仕舞とか囃子とかいうものが存在している事をかなり後まで知らずに過ごした。


          ◇


 こうして習っては舞い習っては舞いした稽古順は大略左の通りである。これ以て誠に名聞みょうもんがましいが、何かの参考になるかも知れないと思って記憶している通りを書き止めておく次第である。

(一)鍾馗ワキ(二)同シテ(三)鞍馬天狗ツレ(四)経政(五)嵐山半能(六)俊成忠度(七)花月(八)敦盛(九)土蜘ツレ(十)巻絹ツレ(十一)小袖曾我(十二)夜討曾我──これ以後の順序明瞭に記憶せず、(十三)猩々(十四)小鍛冶(十五)岩船半能(十六)烏帽子折子方(十七)田村(十八)殺生石直面(十九)羽衣ワキ(二十)是界(二十一)蘆苅(二十二)えびら(二十三)湯谷ゆやツレ(二十四)景清ツレ──但これは稽古だけで能は中止(二十五)船弁慶ツレ、及、海人子方同時(二十六)田村(二十七)土蜘──但し稽古だけにて能は舞わず(以上)

 その他「清経」シテ、「三井寺みいでら」ツレ等が四五番あったと思うが、ハッキリ記憶しない。

 そのうちに十六七歳になったので、翁は舞台に立った筆者を見上げ見下してニコニコした。

「ほう。これは大きゅうなった。もうおもてをかけんとおかしいのう。面をかけると序の舞やらがくやら舞うけに面白いがのう。ハテ。何にしようか。今度一度だけ『小督こごう』にしようか。うむ、『小督』にしよう『小督』にしよう。『土蜘』もええが糸の投げようがチット六かしかろう」

 筆者は「土蜘」が舞いたくて舞いたくてたまらなかった。ずっと以前に河原田翁の追善能で見た金剛某氏の仏倒れや一の松への宙返りをやって見たくて仕様がなかったが、翁が勝手に「小督」にきめてしまったのですこぶる悲観した。

 そのうちに中学を落第しそうになって稽古を休んだのをキッカケにとうとう翁の処へ行かなくなった。唯「湯谷ゆや」のツレと「景清」のツレで面をかけて稽古した切り、シテとしては面を掛けずに終った。

 その永い間翁が筆者に傾注してくれた精魂がドレ位であったろうか。その広大な師恩をアトカタもなく返上してしまった不孝の程は悔いても及ばない今日である。


          ◇


 いよいよ謡の稽古が済むと、まだ文句のつながらないうちにサッサと舞台にかかる。

 翁は筆者が謡い終って本を閉じると(誰に対しても同様であった)張扇を二本右手に持って、

「サア」

 と筆者を一睨ひとにらみしながら立上る。心持ち不叶ふかないな左足を引ずり引ずり舞台に出る。この頃から既に、お能の神様、兼、カンシャクの神様が翁に乗り移っていたように思う。


          ◇


 舞台は京間ではなかったように思う。普通の六尺三間、橋がかり三間で、平生は橋掛り共に雨戸がピッタリと閉まって真暗い。

 鏡板の松は墨絵で、シテ座後方の鴨居に「安和堂」と達筆に墨書した木額が上げて在った。たしか侯爵黒田長成公の筆であったと聞いている。

 その雨戸を翁に手伝って北と東と橋がかりを各一枚宛開いて、あとを平均五六寸宛かす。それから翁はワキ座と地謡座のちょうど中間の位置に在る張盤の前に敷いた薄い茶木綿の古座布団上に座る。

 初めのうちは誰でもワキのことばを云う翁に向ってアシラッたのでよく叱られた。翁の詞がいつでも真剣だったので、ツイその方向に釣り込まれる傾向もあった。


          ◇


 ところでこちらは幕の前に引返して立っていると翁はこっちをジロリと見て、今一度「サア」と云う。同時に一声とか次第とかをアシライ初める。

「イヨオオ──。ハオオーハオオー」

 と云ううちに坦々蕩々たるお能らしい緊張味が薄暗い舞台一面にみなぎり渡る。そのうちに大小のかしらが来ると翁がソッと横目でこっちを見る。見ない事もあるが、大抵見る場合が多いのだからその時に要領よく受けて出るので、おくれたり早過ぎたりすると翁がパチパチと張扇を叩いて今一度、一声なり次第なりを繰返しながら遣直やりなおさせる。しかもそのタタキ加減がその日の低気圧のバロメーターになるので、これは老幼を問わず同様の感想であったらしい。

 翁はアシライが中々達者で、役者が橋がかりへ這入る時に打つ次第のヨセ工合がなかなかよかったので囃子方が皆感心して耳を傾けたという。


          ◇


 翁は普通の稽古を附ける場合にははかま穿かなかった。これは謹厳な翁に似合わぬ事であったが事実であった。荒い型をして見せる時には着流しの裾の間から白い短い腰巻と黒い骨だらけの向脛むこうずねが露出した。


          ◇


 翁は張盤の前に正座した時、必ず足の拇指おやゆびを重ね合わせていた。その重なり合った拇指がいつ動くかと思って、大野君と二人で翁の背後の脇桟敷から長い事凝視していた事があったが、決して動かないので根負けした事があった。

 張扇は大抵眼の高さの処まで上げた。肱は両脇から柔かく離し、向うへ伸ばして軽くバタバタとたたいた。肱から手首と張扇の尖端が柔かい一直線を描いて、上っても下っても狂わなかった。

 張扇が張盤を離れるのと掛声が起るのが同時だったので、どうかすると張扇が声を出しているような錯覚を感じた。遠くから見ていると一層そんな感じがした。

 張扇は必ず自分で貼った。筆者も一度貼り方を習ったが忘れてしまった。

「この角の処をこうして……」

 と云う翁の声だけが耳に残っている。

 掛声をかけたり、地謡を謡ったりしているうちに、翁の上顎の義歯いればが外れ落ちてガチャリと下歯にぶつかる事が度々であった。

「衣笠山……ガチャリ。モグモグ……ムニャムニャ……面白の夜遊やゆうや……ガチャリ……モグモグ……ヨオチポポオポッポヨオイチョン……ホラホラしおりしおり……ガチャリ……モグモグ……ホオホオ」

 といった調子であった。吾々子供連は、よくその真似をしていたものであるが、その中でも一番上手なのは故大野徳太郎君であった。


          ◇


 毎朝翁は、暗いうちに起きて自分の稽古をする。それから利彦氏を起して稽古をつける。冬でも朝食前に一汗かかぬと気持ちが悪かったらしい。これは翁の長寿に余程影響した事と思う。


          ◇


 食事は三度三度粥食かゆしょくであった。

「年をると身体からだを枯らさぬといかん」

 とよく門弟の老人たちに云い聞かせたそうである。


          ◇


 筆者が十四五歳の頃であったか。

 ある春のうららかな日曜日の朝お稽古に行ったら、稽古が済んでから翁は筆者を机の前に招き寄せて云った。

「まことに御苦労じゃが、あんた筥崎はこざきまでお使いに行ってやんなさらんか」

 門下生は翁の御用をつとめるのを無上の名誉と心得ていたので、筆者は何の用事やらわからないままに喜んで、

「行って来まっしょう」

 と請合った。むろん翁も喜んだらしい。ニコニコしてもっとこっちに寄れと云う。その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒こよりで縛ったものを筆者の襟元から襦袢じゅばんと着物の間へ押し込んだ。

「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居のそばに在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭はげあたまの瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。オオダイ……わかるかの」

「オオダイ」

「そうそう。オオダイ。それを貰うたなら落さんように持って帰って来なさい」

「オーダイ」

「そうそう。オオダイじゃ。雷除けになるものじゃ。わかったかの」

 筆者は何となくアラビアン・ナイトの中の人間になったような気持で田圃通りに筥崎へ向った。オオダイとは、どんな品物だろうと色々に想像しながら……。

 中庄から筥崎までタップリ一里ぐらいはあったろう。途中の田圃には菜種の花が一面に咲いていた。涯てしもなく見晴らされる平野の家々に桃や桜がチラホラして、雲雀ひばりがあとからあとから上った。

 瓦町の入口で七輪を造る土捏つちこねを長い事見ていた。櫛田神社の境内では大道だいどう手品に人だかりがしていた。

 筥崎松原にはまだ大学校が無かった。小鳥が松の梢一パイに群れていたり、いたちが道を横切ったりした。少々淋しくて気味が悪かった。

 こうしてずいぶん道草を喰いながら筥崎に着くと、中の鳥居の横の茶屋は一軒しかなかったので直ぐにわかった。

 中に這入はいると三十四五の女房と、がまみたような顔をした歯の無い婆さんが出て来た。いやに眼のギョロリした婆さんであったが、先に出て来て筆者を見上げ見下すと、

「あんたは何しに来なさったな」

 と詰問した。なるほど頭がテカテカに禿はげている。着物のお蔭でやっと爺さんに見えないような婆さんである。

 筆者は長い道中の間に用向きをハタと忘れているのに気が付いた。背中に短冊が這入っている事なんか恐らく翁の門を出た時から忘れていたろう。どうして何のために来たかイクラ考えてもわからないので泣出したくなった。

 頭の禿げた婆さんは口をモグモグさせながら、怖い眼付で筆者を今一度見上げ見下した。

「どこから来なさったな」

「梅津の先生のお使いで来ました。あの……あの……」

 今度は貰いに来た品物の名前を忘れている事に気が付いた。

 婆さんは歯の無い口を一パイに開いて笑った。

「アッハッハッハッ。オオダイじゃろう」

「はい。オオダイ」

「ふうん。そんならそこへ手を突いてみなさい」

 筆者は上り框へ両手をいた。

「頭を下げなさい。そうそう」

 婆さんは痩せ枯れた冷たい手で筆者の背中を探りまわして短冊を引っぱり出した。押頂いて、眼鏡もかけずにスラスラと読んでから又押頂いた。

 それから奥へ這入って神棚の上から一本の薪の半分ばかりの燃えさしを大切そうに持って来て、勿体らしく白紙で包んで、紙縒で結わえながら筆者の懐中に押込んでくれた。

「よう来なさった。これを上げます」

 と云って女房の持って来た駄菓子の紙包みを筆者の手に持たした。筆者は懐中から薪の燃えさしを今一度引っぱり出して見まわした。恐らく妙な顔をしていた事と思う。

「これがオオダイだすな」

 婆さんがうなずいた。

「うんうん。それはなあ。この筥崎様で毎年旧の節分の晩になあ。大松明たいまつを燃やさっしゃる。その燃え残りを頂くとたい。……これから夏になると雷神かみなりが鳴ります。その時にこれを火鉢にくすべると雷神かみなり様が落ちさっしゃれんちうてなあ……梅津の爺さんは身体からだばっかり大きいヘコヒキ(褌引き……臆病者の意)じゃけに雷神かみなり様が嫌いでなあ。毎年頼まれて短冊とカエキ(交易)しますとたい」

 やっと理窟がわかった筆者はホッとしながら、小学校の帽子を脱いでお辞儀しいしい帰途に就いた。何だか梅津の先生が非常に損な交易をして御座るような気がして、この婆さんが横着な怪しからぬばばあに見えて仕様がなかった。後から聞くとこの婆さんは只圓翁よりも高齢であったという。上には上が在ると思ったが、しかし、どうした因縁で翁と識合いになったかは今以てわからない。

 その時の事を思い出すと百年も昔のような気がする。


          ◇


 翁は滅多に外へ出かけない癖に天気の事を始終気にする人であった。それは能を催したり、網打ちに行ったり、歌をんだりするために自然と、そんな習慣が出来たのかも知れないが、そればかりでもなかったように思う。

 舞台上の翁を見た人は翁を全面的に、傲岸ごうがん不屈な一本槍の頑固親爺と思ったかも知れぬが、それは大変な誤解であった。勿論能楽の事に関しては一流の定見を持っていて一切を断定的にドシドシ事を運んだが、しかし日常の事に関しては非常に気が弱くて、夫人は勿論、門人や女中にでも遣り込められると、

「成る程のう。よしよし……」

 と眼をつむって云う事を聞いていた。


          ◇


 恩に感ずる事なぞも非常に強く深かった。愛婿野中到氏の言葉なぞは無条件で受容れていたらしい話が残っている。所謂いわゆる虫も殺さぬという風で、何か不本意な場合に立ったり、他人の不幸を聞いたりしてオロオロ声になって落涙している事も二三度見受けた位である。

 これは翁の家人以外の人々には意外と思われる話かも知れぬ。しかし、こうした性格があの舞台上の獅子王の如き翁の半面に在る事を思う時、筆者は翁の人格がいよいよ高く、いよいよ深く仰げども及ばぬ心地がして来るのである。

 翁はそうした気の優しさを、いつも単純率直にあらわしていた。老人や子供には非常に細かく気を遣った。天気が悪いと弟子の行き帰りに、

「おお。シロ(辛労)しかろうなあ」

 と眼をしばたたいた。その云い方は普通人の所謂挨拶らしい感じが爪の垢ほどもなかった。心持ちカスレた真情の籠もった声であった。


          ◇


 老夫人と差向いの時に「お日和ひよりがこう続いては麦の肥料こえが利くまいのう」とか、「悪い時に風が出たなあ。非道ひどうならにゃえが」

 とか云って田の事を心配している事もあった。

 翁は自身で畠イジリをするせいか百姓の労苦をよく知っていた。その点は筆者の祖父灌園なぞも屡々しばしば他人に賞めていた。

「老先生の話を聞くと太平楽は云われんのう」

「ほんなこと。お能ども舞いよると罰が当るのう。ハハハハ」

 なぞと親友の桐山氏と話合っていた。

 只圓翁が暴風あらし模様の庭に出て、うしろ手を組んで雲の往来を眺めている。その云い知れぬ淋しい、悲しげな表情を見た人は皆、そうした優しい、平和を愛する翁の真情を端的に首肯したであろう。


          ◇


 翁の逸話はまだまだ後に出て来るのであるが、それ等の逸話を、ただ漫然と読むよりも、その逸話を一貫する翁の真面目を、この辺で一応考察しておいた方が、有意義ではないかと思う。すなわち、こうした翁の強気と弱気の裏表のどちらが翁の真骨頂か。どちらが先天的で、どちらが後天的のものか、ちょっと看別出来ないようである。

 しかし只圓翁の性格の表裏が徹底的に矛盾しているところに、世を棄てて世を捨て得ない翁の真情が一貫して流露していた事が今にして思い当られて、自ら頭が下るのである。聖人でもなければ俗人でもない。「恭倹持己おのれをじし、博愛及衆しゅうにおよぶ」の聖訓、「上求菩提。下化衆生」の仏願が、渾然たる自然人、ありのままの梅津只圓翁の風格となって、いつまでもいつまでも尊く、ありがたく、涙ぐましく仰がれるように思う。

 現代の能楽師の如く流祖代々の鴻恩こうおんを忘れて、浅墓な自分の芸に慢心し、日常の修養を放漫にする。又は功利、卑屈な世間の風潮にカブレ、良い加減な幇間的な稽古と取持で弟子の機嫌を取って謝礼を貪る。生活が楽になると本業の研究向上は忘れてセイラパンツを穿いてダンスホールに行く。茶屋小屋を飲みまわる。女性を引っかけまわるといったような下司っぽい増長者は、こうした翁の謙徳と精進に対して愧死きししても足りないであろう。

 真の能楽師は僅少の例外を除き翁の後に絶えたと云ってもいい。憤慨する人があったら幸である。


          ◇


 翁の芸風を当時の一子方に過ぎない筆者が批評する事は、礼、非礼の問題は例としても不可能事である。

 しかし筆者としては及ばずながらこの機会に出来る限り偽わらざる感想を述べておきたい。門外漢の田夫野人の言葉でも古名人の境界を伝えている事が屡々あるのだから。同時に翁の芸風を知り過ぎる位知って居られる現家元喜多六平太氏や、熊本の友枝御兄弟の批評などは容易に得られないと思うから……。


          ◇


 前記明治二十五年喜多能静氏追善能のため只圓翁は上京し、野中到氏宅に滞在していたが、翁は毎夜のように侯爵黒田長知侯のお召を受けて霞ヶ関に伺候した。

 その節のこと。或る時翁は藤堂伯(先代)から召されて「蝉丸」の道行の一調謡の御所望を受けたが、相手の小鼓は名にし負う故大倉利三郎氏で、予々かねがね翁の技倆を御存じの藤堂伯も非常な興味をもって傾聴された。利三郎氏も内心翁を一介の田舎能楽師と思っていたらしいが、無事に一調が済んでお次の間に退くと利三郎氏は余程驚いたものと見えて、直ぐさま翁の前に両手をいて、

「実にどうも……」

 と云って他は云わず低頭挨拶したという。翁の実力を直接に評価する参考材料としてはこの逸話がたった一つ残っているきりである。但、野中到氏の手簡に、

「右藤堂様より伯父(只圓翁)帰宅後、小生今晩は何の御所望なりしやと問いしに右様の次第を話して、あの謙遜家にもいささか得意の色見え申候」

 とあるところを見ると、この逸話は翁の生涯中の秀逸ではないかと思われる。


          ◇


 筆者は不幸にして装束を着けた翁の舞台姿を一度も見た事がない。

 ただ一度翁の八十八賀能の前日の申合わせの夜であったと思う。門弟中の地謡で翁が「海人」の仕舞を舞ったのを見た。そのほか日々の稽古や他人の稽古を直して御座るのを横から見た姿を思い合わせると、翁の舞台姿がどうやら眼前に彷彿されるようである。

 甚だ要領を得難い評かも知れないが、翁の型を見た最初に感ずる事は、その動きが太い一直線という感じである。同時に少々穿うがち過ぎた感想ではあるが、翁の芸風は元来器用な、柔かい、細かいものであったのをことごとく殺しつくして、喜多流の直線で一貫した修養の痕跡が、どこかにふっくりと見えるような含蓄のある太い、逞しい直線であったように思う。曲るにしても太い鋼鉄の棒を何の苦もなく折り曲げるようなドエライ力を、その軽い動きと姿の中に感ずる事が出来た。

 後年九段能楽堂で名人に準ぜられている某氏の「野守」の仕舞を見た事があるが、失礼ながらあのような天才的な冴えから来た擬古的な折れ曲りとは違う。もっと大きく深い、燃え上るような迫力を持った……何となく只圓一流と云いたい動きであった。

 同じ「野守」でも只圓翁のは時間的には非常に急迫した、急転直下式の感じに圧倒されながら、あとから考えると誠にユッタリした神韻縹渺たる感じが今に残っている。

「海人」の仕舞でも地謡(梅津朔造氏、山本毎氏)が切々と歌っているのに、翁は白い大きな足袋を静かに静かに運んでいた身体からだ附が一種独特の柔か味を持っていた。且つ、その左足が悪いために右手で差す時に限って身体がユラユラと左に傾いた。その姿が著しくよかったので大野徳太郎君、筆者等の子方連は勿論、門弟連中が皆真似た。それを劈頭へきとう第一に叱られたのが前記の通り梅津朔造氏であった。


          ◇


 シオリは今のように高くなかった。シオリの高さは能によって違う……といったような翁の訓戒が記憶に残っているようにも思う。

 そんな事が在るかどうか知らぬ。筆者の聞き違いかも知れないが書添ておく。


          ◇


 梅津朔造氏の「安宅」の稽古の時に翁は自分で剛力の棒を取って、「散々にちょうちゃくす」の型の後でグッと落ち着いて、大盤石のように腰を据えながら、「通れとこそ」と太々しくゆったりと云った型が記憶に残っている。梅津朔造氏が後で斎田氏と一緒に筆者の祖父を見舞いに来た時に、祖父の前で同じ型を演って見せたが、

「ここが一番六かしい。私のような身体からだの弱いものには息が続かぬ。……芝居ではない……と何遍叱られたかわからぬ」

 と云ううちに最早もう汗を掻いていた。

 それからずっと後、先年の六平太先生の在職五十年のお祝で「安宅」を拝見した時に、同じ処で行き方は違うが、同じような大きな気品の深い落付きを拝見して、成る程と思い出した事であった。大変失礼な比喩ではあるが、とにかく恐ろしく古風な感じのするコックリとした型であったように思う。


          ◇


 只圓翁の「山姥」と「景清」が絶品であった事は今でも故老の語艸かたりぐさに残っている。これに反して晩年上京の際、家元の舞台で、翁自身に進み望んで直面ひためんの「景清」を舞ったが、この時の「景清」はいささ可笑おかしかったという噂が残っているが、どうであったろうか。

烏頭うとう」(シテ桐山氏)の仕舞のお稽古の時に、翁は自身に桐山氏のバラバラの扇を奪って「紅葉の橋」の型をやって見せているのを舞台の外から覗いていたが、その遠くをジイッと見ている翁の眼の光りの美しく澄んでいたこと。平生の翁には一度も見た事のない処女のような眼の光りであった。


          ◇


 扇でも張扇でも殆んど力を入れないで持っていたらしく、よく取落した。

 その癖弟子がそんな事をすると非道く叱った。弟子連中はことごとく不満であったらしい。

 夏なぞは弟子に型を演って見せる時素足のままであったが、それでも弟子連中よりもズットスラスラと動いた。足拍子でも徹底した音がした。

 平生は悪い方の左足を内蟇うちがまにしてヨタヨタと歩いていたが、舞台に立つとチャンと外蟇になって運んだ。

 型の方は上述の通り誠に印象が薄いが、これに反して謡の方はハッキリと記憶に残っている。謡本を前にして眼を閉じると、翁のその曲の謡声うたいごえが耳に聞こえるように思う。ところが自分が謡出してみると、思いもかけぬキイキイ声が出るので悲観する次第である。

 何よりも先に翁の謡は舞いぶりとソックリの直線的な大きな声であった。むろん割鐘われがね式ではない。錆の深い、丸い、朗かな、何の苦もない調子であった。

 梅津朔造氏の調子は凜々りんりんと冴える、仮名扱いの綺麗な、派手なものであった。

 山本毎氏のは咽喉を開放した、九州地方一流の発音のハッキリし過ぎた、間拍子のキチンとしたもので、いつも地頭を承っていた。

 桐山孫次郎氏のは底張りの柔かな含み声であった。一番穏当な謡と翁門下で云われていた。

 又斎田氏のは凝った、響の強いイキミ声で、謡っている顔付きが能面のように恐ろしかった。

 梅津利彦氏のは声が全く潰れた張りばっかりの一本調子で、どうかすると翁の声と聞き誤られた。

 いずれも翁の謡振りの或る一部分を伝えたものであったらしいが、それ等の謡い盛りの一同の地謡の中に高齢の只圓翁が一人座り込むと、ほかの声は何の苦もなく翁の楽々とした調子の中に消え込んで行った。

 吉本董三氏か大野仁平氏であったと思う。

「先生の傍に座ると、イクラ気張っても紡績会社の横で木綿車を引いているような気持ちになる」

 と云って皆を笑わせていたが、全く子供ながらも、そんな感じを受けた。ツクヅク翁の紡績会社振りに驚嘆させられていた。

 喜多六平太氏は右に就いて筆者にく語った。

「ナアニ。声量の問題じゃない。只圓の張りが素晴らしく立派だったからですよ。全く鍛練の結果ああなったのですね。ですから只圓が死ぬと、皆が皆彼の張りの真似をして、間拍子も何も構わないで、ただ死物狂いに張上げるのです。これが只圓先生の遺風だ。ほんとうの喜多流だってんで、二人集まると怒鳴りくらが初まる。お能の時など吾も吾もと張上げて、地頭の謡を我流でマゼ返すので百姓一揆みたいな地謡になっちまう。その無鉄砲な我武者羅がむしゃらなところが喜多流だと思って喜んでいるのだから困りものですよ」

 又、梅津利彦氏(現牟田口利彦氏)は翁の型についてこう語った。

「二十歳ぐらいまではただ鍛われるばっかりで、何が何やら盲目めくら滅法でしたがそのうちにダンダン出来のよし悪しがわかって来て、腹の中で批評的に他人の能を見るようになりました。只圓の力量もだんだんわかって来るように思いましたが、同じ力と申しましても、只圓は何の苦もなく遣っているようですから、そのつもりで真似をしてみるとすぐに叱られる。なかなかその通りに出来ないし、第一お能らしくない事を自分でも感ずる。只圓の通りに遣るのにはそれこそ死物狂いの気合を入れてまだ遠く及ばない事がわかって、その底知れぬ謹厳な芸力にヘトヘトになるまで降参させられ襟を正させられたものでした」


          ◇


 牟田口利彦氏の話によると、翁は平生極めて気の弱い、涙もろい性分で、家庭百般の事について角立った口の利き方なんか滅多にしなかったが、それでも能の二三月前になると何となく眼の光りが冴えて来て、口の利き方が厳重になった。大抵の事は大まかに見逃していたものが、能前の昂奮期に入ると、「それはいかん」と云う口の下から自身で立上って始末したという。

 こうして月並能であれ祭事能であれ、催能が近付いて来ると翁の態度が、何となく目に立って昂奮して来るのであった。能の当日になると、夏ならば生帷子かたびらの漆紋(加賀梅鉢)に茶と黄色の細かい縦縞、もしくは鉄色無地のつむぎの仕舞袴。冬は郡山(灰色の絹紬)に同じ袴を穿いていた。皺だらけの咽喉のどの下の白襟が得も云われず神々しかった。

 光雲てるも神社の祭能の時は拝領の藤巴の紋の付いた、鉄色の紋付に、これも拝領物らしい、茶筋の派手な袴を穿いている事もあった。その時の襟は茶か水色であったように思う。老夫人が能の前日、広袖の襦袢に火のしをかけて襟を附け換えて御座った。


          ◇


 稽古を離れると翁は実になつかしい好々爺であった。地獄の鬼から急に極楽の仏様に変化するのが子供心に不思議で仕様がなかった。たとえば八十八賀の時、能のアトで、

「元気は元気じゃが、倅の方が先にお浄土参りしてしもうた。クニャクニャになって詰まらん」

 と云って門弟連中を絶倒させた。それから赤い頭巾に赤い緞子どんす(であったと思う)のチャンチャンコを引っかけて、鳩の杖を突いて、舞台の宴会場から帰りしなに、

「乳の呑みたい。乳のもう乳のもう」

 と七十歳近い老夫人に戯れたりした。


          ◇


「さあ飴を食うぞ」

 と翁が云うと老夫人が、大きな茶碗に水を入れたのを翁の前に捧げる。翁はそれに上下の義歯いればを入れてから水飴やブッキリ飴を口につまみ込んでモグモグやる。長い翁の顔が小田原提灯を畳んだようになるのを小謡組の少年連が不思議そうに見上げていると、

「フムフム。可笑おかしいのう」

 と云って翁自身も笑った。

 しかしその飴を分けてくれた事は一度もなかった。喰い余りをもとの通り叮嚀に竹の皮に包んで老夫人に渡すと、茶碗の中の義歯いればを静かに頬張って、以前の厳格な顔に還った。弟子の方を向いて張扇を構えた。

「モグモグ。さあ謡いなさい」


          ◇


 夕方になると翁は一合入の透明な硝子ガラス燗瓶に酒を四分目ばかり入れて、猫板の附いた火鉢の上に載せるのをよく見受けた。前記喜多六平太氏の談によると翁は七五三に酒を飲んだというが、これは晩の七の分量に相当する分であったろう。

 翁の嗜好は昔から淡白で、油濃いものが嫌いと老夫人がよく他人に吹聴して居られた。

 筆者も稽古が遅くなった時、二三度夕食のお相伴をしたことがあるが、遠慮のないところ無類の肉類好きの祖父の影響を受けた自宅うちの夕食よりも遥かに粗末な、子供心に有難迷惑なものであった。

 そのうちに翁は真赤になった顔を巨大な皺だらけの平手で撫でまわして、「モウ飯」と云った。燗瓶には必ず盃一杯分ばかり残していた。


          ◇


 翁から直筆の短冊を貰った人は随分多いであろうと思う。筆者も七八枚持っていたが、人々に所望されて現在巻頭の二枚しか残っていない。

 筆跡は巻頭に掲ぐる通り、二川様に、お家様、定家様、唐様等を加味したらしい雅順なものである。舞台上の翁の雄渾豪壮な風格はミジンも認められないが、恐らく翁の本性をあらわしたものであろう。歌意は歌詞と共に、能楽の気品情操を一歩も出でない古風なもので月並と云えば、それまでであるが、翁はそれを短冊に自筆して人に与えるのがなかなかの楽みであったらしい。気が向くと弟子の帰りを待たしておいて悠々と墨を磨りながら一二枚宛書いて与えた。

 ちなみに翁の和歌は誰かに師事したものには相違なかったが、その師が誰であったかは遺憾ながらつまびらかでない。宇佐元緒、大熊浅次郎両氏の談によると有名な大隈言道氏は、翁の存命中、翁の住家に近い薬院今泉に住んでいたから、翁も師事していたかも知れない。その後、言道氏の旧宅に小金丸金生氏が住んでいて、この人に師事していたことはたしかであったという。なおこの他に末永茂世氏が春吉に住んでいたというが、この人に学んだかどうかは詳でない。

 福岡の人林大寿氏は奇特の人で、只圓翁の自筆の短冊数十葉を蒐集し、同翁の門下生に分与しようとされたものが現在故あって一纏めにして古賀得四郎氏の手許に預けられている。古賀氏の尽力で、表装されて只圓翁肉筆の歌集として世に残る筈である。翁の歌風を知るには誠に便宜と思うからその和歌を左に掲げておく。

    行路荻               (八十七歳時代)

夕附日荻のはこしにかたむきて

      ふく風さむしのべのかよひ路

    帰雁

桜さくおぼろ月夜にかりがねの

      かへるとこよやいかにのとけき

    河暮春               (八十八歳時代)

ちる花もはるもながれてゆく河に

      なにをかへるのひとりなくらん

    河暮春

大井河花のわかれをしとふまに

      はるは流れて暮にけるかな

    雉

春雨のふりてはれぬるやま畑の

      すゝしろかくれ雉子なくなり

    寒松風

枯はてしこすへはしらぬ夜あらしを

      あつめてさむき松の声かな

    船中月

心なきあま人さへもをのつから

      あはれと見えん船のうへの月

    夏草

秋になく虫の音きかんたよりにと

      はらひのこしゝ庭の夏草

    葵

神祭るけふのみあれのあふひ草

      とる袖にこそ露はかけゝれ

    夕春雨

椿ちる音もしすけき夕くれの

      こけちの庭に春雨のふる

    葵

加茂山にをふる二葉のあふひ草

      とりかさしつゝ神まつるなり

    夏草

はたちかふ牛のすかたも見えぬまで

      しけりあひたる野への夏草

    夕春雨

春雨のふるともわかで夕ぐれの

      のきのしのふにつとふ玉水

    庭菊

折とりてかさゝぬ袖もさく菊の

      はなの香うつす庭の秋風

    群雁

いくつらの落きてこゝにあそふらん

      堅田のうちにむるゝかりかね

    庭菊

くる人もなき菊そのゝ花さけば

      はゝき手にとる庭の面かな

    蚊遣火

蚊遣火はとまやのうちにたき捨て

      しほのひかたにすむ海人の子

    新年山

こそのはる花みし峰に年たちて

      かすみもにほふよしのゝ山

    群雁

治れる御代のしるしと大君の

      みいけの雁の数もしられず

    船中月

棹さしてうたふ声さへすみにけり

      つきになるとの浦の舟人

    更衣                (八十九歳時代)

人並にぬきかへぬれと老の身の

      またはたさむき夏衣かな

    夜蛙

せとちかき苗代小田にかけやとす

      月のうへにもなく蛙かな

    埋火

桜炭さしそへにけりをもふとち

      はなのまとひに春こゝちして

    池鴛鴦               (九十二歳時代)

山かけの池の水さえ浅かれと

      ことしも来鳴をしの声かな

    寒雁啼

露霜のふかき汀の蘆のはに

      こゑもしをれて雁そ啼なる

    春木                (九十三歳時代)

しはしこそ梅をくれけれ春来ても

      いつかさくらと人にまたれつ

    夏獣

重荷おひてゆきゝ隙なき牛車

      なつのあつさに舌もこかれつ

    友獣

をく山の青葉をつたふ木のは猿

      つはさなき身も枝うつりして

    名所恋               (九十四歳時代)

しのひねの泪の波のかゝるか那

      つかしき妙の袖のみなとに


          ◇


 茶の湯とか俳諧とかいう趣味は翁にはなかったように思う。ところが最近知人武田信次郎氏から、高川邦子女史の茶室で茶杓ちゃしゃくを取った翁の態度に寸分の隙もなかったので、座中皆感じ入ったという通信があった。筆者はいささか意外に思って、事の詳細を今一度同氏に問合わせたところ折返して左の通返事が来たから、無躾ぶしつけながらここに抜き書さしてもらう事にした。(原文のまま)

「高川邦子女史は高川勝太夫と申す士分の息女にて令妹藤子女史と共に幼稚園小学校等の教師を勤め姉妹ながら孝行の由聞之候。東瀛とうえい禅師に参禅し南坊流の茶道を究め南坊録を全写し大乗寺山内の居に茶室を営まれ候。(中略)同庵の茶室の炉縁ろぶちは奥州征討の際若松城下よりの分捕として有名なりしが、今は其の茶室の跡もなく炉縁も何処へ伝はり候や不明、姉妹共故人となられ其後の事存じ申さず候。只圓翁の茶事にうとかりし事は御説の通りに候。そこに只圓翁の尊さが出て来るのに候。只圓翁の茶の手前は決してうまいものにては無かりし筈に候。それに唯翁が茶杓の一枝を手に取りて構へられたる形のみが厳然として寸毫の隙を見せざる其の不思議さは何の姿に候ぞと人々はこの点を驚嘆せしものに候。南坊流の始祖南坊禅師は茶道の堕落を慨して茶事を捨て去つて再び世に出でず。その終る処を知らず候。茶道は能楽以上の技巧の末に走り富裕人のもてあそびものにちつくし全く其精神を亡し候。かかる世に芸術の神とも仰ぐ可き能楽家只圓翁が茶道に接すれば自然に紛々たる技巧の堕気を破つて卓然その神をこの茶杓の形に示現せしめしものと存候。(下略)」

 又翁が博多北船の梅津朔造氏宅に出向いた際、折節山笠の稚児流れの太鼓を大勢の子供が寄ってたたいているのを、翁が立寄って指の先でばちを作って打ち方を指導していた姿が、何ともいえず神々しかったという逸話もある。(前同氏談)一道に達した人だから大抵の事はわかったのであろう。

 書画骨董の趣味も鑑識は在ったに相違ないが、生活が質素なせいか格別、玩弄した事実を見聞しなかった。勝負事なんか無論であった。


          ◇


 一面に翁はナカナカ器用だったという話もある。翁の門下で木原杢之丞という人が福岡市内荒戸町に住んでいた。余程古い門下であったらしく、翁が舞った「安宅」のお能を見たそうで、「方々は何故に」と富樫に立ちかかって行く翁の顔がトテモ恐ろしかった……とよく人に話していたという。

 その木原氏の処へ翁が或る時屏風の張り方を習いに来た。平面の処や角々は翁自身の工夫でどうにか出来たが、蝶番ちょうつがいの処がわからないので習いに来たのであったという。

 その時に翁は盃二三杯這入る小さな瓢箪ひょうたんを腰に結び付けて来ていたが、屏風張の稽古が一通りわかるとその瓢箪を取出して縁側で傾けた。如何にも嬉しそうであったという。(栗野達三郎氏談)


          ◇


 明治二十八年頃知人(門下?)に大山忠平という人が居た。なかなかの親孝行な人で、老母が病臥しているのを慰めるため真宗の『二世安楽和讃』を読んで聞かせる事が毎度であった。

 老母は大の真宗信者で且、只圓翁崇拝家であったが、或る時忠平氏に、

「お前の読み方では退屈する。只圓先生にふしを附けてもろうたらなあ」

 と云った。忠平氏は難しい註文とは思ったが、ともかくも翁にこの事を願い出ると、元来涙もろい翁は一も二もなく承諾して、自分で和吟の節を附けて忠平氏に教えてやった。(栗野達三郎氏談)


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 翁の愛婿、前記野中到氏が富士山頂に日本最初の測候所を立てて越冬した明治二十六年の事、翁は半紙十帖ばかりに自筆の謡曲を書いて与えた。「富士山の絶頂で退屈した時に謡いなさい」というので暗に氏の壮挙を援けたい意味であったろう。その曲目は左の通りであった。

 柏崎、三井寺、桜川、弱法師よろぼうし葵上あおいのうえ、景清、忠度(囃子)、鵜飼うかい、遊行柳(囃子)

 野中氏は感激して岳父の希望通りこの一冊を友としつつ富士山頂に一冬を籠居したが、その時に「景清」の「松門謡」に擬した次のようなうたいが出来たといって、古い日記中から筆者に指摘して見せた。

「氷雪堅く閉じて。光陰を送り。天上音信を得ざれば。世の風声をわきまえず。闇々たる石窟に蠢々しゅんしゅんとして動き、食満々と与えざれば、身心髐骨きょうこつと衰えたり。国のため捨つるこの身は富士の根の富士の根の雪にかばねを埋むとも何か恨みむ今はただ。我父母に背くとが。思えば憂しや我ながら。いずれの時かなだむべきいずれの時かなだむべき」

 この戯謡の文句を見ると野中到氏は両親の諫止をも聴かず、富士山頂測候所設立の壮挙を企てたものらしい。そうして只圓翁の凜烈りんれつの気象は暗にこれに賛助した事になるので、翁の愛嬢で絶世の美人といわれた到氏夫人千代子女史が、夫君の後をうて雪中を富士山頂に到り夫君と共に越冬し、満天下の男女を後に撞着せしめた事実も、さもこそとうなずかれる節があるやに察せられる。


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 翁は家のまわりをよく掃除した。畑を作って野菜を仕立てた。

 畑は舞台の橋がかり裏の茶の畝と梅と柿とハタンきょうの間に挟まった数十坪であった。手拭の折ったのを茶人みたように禿頭に載せたり浅い姉さん冠り式にしたりして、草をむしったり落葉を掻いたりした。熊手を振りまわして、そんなものを掻き集めて畑の片隅で焼肥を焼いている事もあった。大抵素跣足すはだしで尻をからげていた。

 毛虫と蛙はさほどでもなかったが、蛇を見付けると、

「おおおお。喰付くぞ喰付くぞ。打ち殺せ打ち殺せ」

 と指をさして逃げまわった。


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 翁の家の門はまきの生垣の間に在る、小さな土壁の屋形門であった。只圓翁の筆跡で書いた古い表札が一枚打って在った。敬神家の翁の仕業であろう、かたわらに大きい、小さい、色々の御守護札が貼り付けてあった。

 或る日の事、その門の敷居を跨ぐと、翁が南天の根の草を挘っていたので、

「先生。きょうは朔造(梅津)さんは病気で稽古を休みますと言伝ことづてがありました」

 と云ったら、翁は「ウフウフ」と微苦笑して、

「今の若い者は弱いけに詰まらん」

 と云った。その時の朔造氏は六十近かったと思う。

 この話を帰ってから中風にかかっていた祖父灌園に話したら、泣き中風の祖父は叶わぬ口で、

「先生はイツモ御元気じゃのう。ありがたい事じゃ」

 と云ってメソメソ泣き出した。


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 翁はよく網打ちに行った。それも目堰めせき網といって一番網目の小さい網をセッセと自分でつくろって、那珂なか川の砂洲を渡り歩いたものであった。

 その扮装いでたちは古手拭で禿頭に頬冠りをした上から古い小さい竹の子笠を冠り、紺のツギハギ着の尻をからげて古足袋を穿いた跣足で、腰に魚籠びくくくり付けていた。

 その頃の那珂川の水は透明清冽で博多織糸の漂白場さらしばであったが、ずっと上流まで博多湾から汐がさして、葦原と白砂の洲が到る処に帯のように続いていた。その水深約一尺以内の処にはハラジロ(沙魚はぜの子ともいい別種ともいう)が一面に敷いたように居るのを翁が目堰網で引っ被せてまわる。

 ハラジロは形が小さいので、獲ったアト始末が面倒なために普通の網打人あみうちは相手にしなかったから、いつも沢山に獲れた。その獲れる事と、獲ったアトの面倒さと、喰べる時の風味のよさが翁の楽みとし得意とするところらしかった。

 霜の真白い浅瀬に足を踏張ふんばって網を投げている翁の壮者をしのぐ腰付を筆者が橋の上から見下して、こちらを向かれたら、お辞儀をしようと思っていると、背後を通りかかった見知らぬ人がよく、

「ああ。まだ只圓先生はお元気そうな」

 と云い云い立佇たちどまって眺めたり、そのまま通り過ぎて行ったりした。翁の存在を誇りとして仰いでいた福岡人士の気持ちがよくわかる。

 翁は網打ちに行くといつもまだ日足の高いうちに自宅に帰って、獲れた魚の料理にかかる。

 大きいのは三寸位の本物の沙魚やドンク(ダボハゼの方言)の二三十位から、一寸にも足らぬハラジロの無数を、一々切出小刀で腹を割いて一列に竹串に刺し、行燈型の枠を取付けた白角い七輪のトロ火であぶり乾かして、麦稈むぎわらを枕大に束ねて筒切りにしたホテというもの一面に刺して天日に乾かす。乾くと水飴と砂糖と醤油でカラカラに煮上げて、十匹ぐらいずつ食膳に供する。何ともいえない雅味のある小皿ものであった。

 また俎板に残った臓腑は白子、真子を一々串の尖端さきで選り分けて塩辛に漬ける。これが又非常に贅沢な風味のあるものらしかった。

 翁自身は勿論、老夫人や女中も総がかりでこの仕末をする。筆者も翁の姪に当る荒巻トシ子嬢と二人で手伝った事があったが、ナカナカ面倒なのでじきに飽きてしまった。

 いよいよ獲物が片付く頃は日が暮てしまって、日に焼けた翁の顔が五分芯のラムプに赤々と光る。

 そこで例の一合足らずの硝子燗瓶が傾いて翁の顔がイヨイヨ海老色に染まる。ニコニコと限りなく嬉しそうにしている翁の前に筆者は頭を下げておいとまをする。

「おお。御苦労じゃった。又来なさい」


          ◇


 只圓翁は重い曲を容易に弟子に教えなかったばかりでなく、謡の中の秘伝、口伝はもとより、稽古の時に叱って直した理由なぞは滅多に説明しなかったらしい。後で質問しても、

「インマわかる。稽古が足らん稽古が足らん」

 とか何とか追払われたものらしい。高足の人達が、

「私も老年になりましたから一つ何々のお稽古を……」

 とか何とか云って甘たれかかっても、

「稽古に年齢としはない。年齢は六十でも稽古は孩児あかごじゃ」

 なぞと手厳しく弾付はねつけられたという話が時折耳に這入った。又、

「ここのところはどういう心持ちで……」

 なぞと大切な事を尋ねても、

「尋ねて解るものなら教える。尋ねずとも解る位にならねば教えてもわからぬ」

 と面皮をいで追っ払ったり、

「心持ちなぞはない。教えた通りに真直まっすぐに謡いなさい。いらざる心配しなさんな」

 なぞと叱っているのを見受けた。


          ◇


 ところで翁の弟子で一番熱心な前記斎田惟成氏はよく翁の網打ちのお供をした。魚籠びくを担いで川までお供して行く途中の長い長い田圃道の徒然つれづれなままに翁と雑談をしながら何気なく質問をすると、翁は上機嫌なままに大事な口伝や秘伝を不用意に洩らすことがあった。どうかした時には師匠能静氏から指導された時の有益な苦心談などを述懐まじりで話して行く事もあったらしい。

 これは斎田氏の稽古の秘伝で、後にその心持ちで謡ったり舞ったりして翁から賞められた事が度々あったので、とうとうこの斎田氏の秘伝のお稽古法が露見してしまった。そうして、それから後斎田氏は高弟連中から色々な質問を委託されて翁の網打ちのお伴をしなければならなくなったが、時に依ると翁が意地悪く口を緘して一言も洩らさない事があった。

「昨日は不漁しけじゃった」

 と斎田氏が翌る日、他の弟子連中に云う。知らない者は翁のホテの魚の串を見て……あんなに沢山獲れているのに……と思ったらしいが、何ぞ計らん。斎田氏の不漁しけは秘伝口伝の不漁であった。(林直規氏談)


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 翁の謡には「三ツ地」も「ツヅケ」もないと誰かが云っていた事を記憶している。むろんその当時の筆者には「三ツ地」が何やら「ツヅケ」が何やら解らなかったが、翁の後までも生きていた囃子方の古賀幸吉氏や栗原伊平氏は、

「実に打ちよくて、大きくて気乗りがした」

 と云っていた。

「拍子の当りなぞを気にかけるような謡は謡ではないぞ。能の本体はシテの面と装束じゃ。それを着けて舞うているシテの位取りを勘取って地謡が謡う。それを囃子方が囃すのじゃ。それじゃけに地謡は、いつも囃子方にこう打てと押え付けて行くだけの力がなくては勤まらぬものじゃ。力のある囃子方は時々自分の思う通りに位を取直そうとするものじゃが、そげな事をされるような地謡は舞台の上で腹を切らねばならぬ。間違うても囃子方の尻に付いてはならぬ」

 と翁は度々山本氏等に云っていた。


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 翁の歿後、右の言葉は直訳的に福岡の同流を風靡ふうびした傾向がある。同時に翁は間拍子のメチャメチャな所謂、我武者羅謡を推奨していたかのように誤解している間拍子嫌いの人も多かったらしいが、決してそんな事ではなかった。

 もちろん幼少未熟の筆者には、そんな事はわからなかったが、しかし翁の門下でも梅津朔造、山本毎、斎田惟成氏などは間拍子の研究がよほど出来ていたものと信ずべき理由がある。

 その中でも梅津朔造氏は囃子方、シテ方を通じての教頭格らしかった。能の前になるとよく囃子方諸氏が朔造氏の前に集まって申合せを行い、位取りや何かの叱正を受けている光景を見た。朔造氏が山本氏の中音の地謡を自身に張扇であしらって見せて、「ここの掛声をこういう風に一段と引っ立てて」なぞと指導している前で、囃子方諸老が低頭平身している情景なぞが記憶に残っている。とにかく朔造氏はよほど万事心得た人であったらしい。


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 山本毎氏は別に間拍子の研究をしなかったそうである。「一生懸命謡い居れば間拍子は自然とわかる」という翁の言葉を真正面から信じて、糞馬力くそばりきと糞勉強を一貫して大成したものだそうである。

 福岡県庁の低い吏員をつとめながら毎朝、蝋燭ろうそくを一挺持って中庄の翁の舞台に来て、夜の明ける迄謡う。それから出勤するという熱心振りで、間拍子なぞも出来るどころか、あんまりキチンとして囃子方に附合い過ぎるので翁から叱られる位であったという。


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 又斎田惟成氏は比較的後進だったので特にこの方面の研究を急いだらしく、出勤の途中でも、銭湯の中でも妙な放神状態で両手を動かして地拍子の取り通しであった。氏の居住地薬院附近では、これが名物だったので、道で遊んでいる子供等までも氏が来ると、

「斎田さん斎田さん」

 と云って両手をひれのように動かしながら反り身になって氏の背後からいて行って、氏が振返ると逃げて来た。現教授佐藤文次郎君などもその真似上手の一人であったという。


 そんな次第であったから翁の門下の高足の人は、決して翁の歿後に福岡地方で流行したような我武者羅謡ではなかった。むしろ拍子の当りが確か過ぎるのを只圓翁が嫌って、今一層向上させるべく鞭撻べんたつしていたのを後人が、自分の力の足りなさから、自己流に解釈して、芸道を堕落させたものに相違ないのである。

 以上は拍子嫌いの我儘流諸氏、もしくば地拍子天狗の諸氏にとっては共に不愉快な記事かも知れぬが、翁の歿後、翁の訓言が如何に強く響き残っていたかという例証としてここに掲げておく。


          ◇


 故男爵安川敬一郎氏は先年筆者にかく語った。

「私が能に志したのは六十歳の時であった。当時福岡は只圓翁のお蔭で喜多流全盛の時代であった。喜多流に非ざれば能楽に非ずという勢いであった。そこでそれならば自分は一つ宝生流を福岡に広めてやろう。喜多流ばかりが能でないという事を事実に証明してやろう……という程のことでもなかったが、それ位の意気組でわざと宝生流のために尽力した。そのような訳合いで健次郎(松本氏)などと違うて私は翁の直門という訳ではない。しかし鼓を担いで翁の門下の人々の能をつとめたのは六十歳の時以来度々であった。あのような立派な先生が又現われるかどうかわかったものでない。私は今でも鼓と、宝生流の研究では若い者に負けないつもりである。年齢こそ八十の坂を越しているが、能に入ったのが六十歳だから能楽の弟子としてはまだ二十歳の血気盛りのつもりでいる。なまけてはいられぬと思うが、何しろ年で、鼓が肩の上でコロコロと運動するのでなあ。ハッハッハッ」


          ◇


 只圓翁は前記の通り稽古の上で素人と玄人の区別をしなかった。大勢の弟子を取っている人でも、自分一人の楽みにしている人間でも老若を問わず一列一体の厳格さでタタキ付けた。生半なまなかな喜多流を残すよりはタタキ潰した方が天意に叶うと思っていたらしい精進ぶりであった。

 そのために翁の歿後、翁の遺風を継ぎ、翁の衣鉢いはつを伝えるに足る中心人物が、今の福岡には一人も居ない。

 これは筆者の俗情には相違ないが、只圓翁が今少しく理想を低くして俗情になずみ、その指導振りをモット素人向きに、わかり易く門下の芸能と調和させていてくれたならば、こんな事にはならなかったであろう……なぞと時折り思う事がある。筆者も翁の門下から途中で逃げ出した一人だから斯様な事をいう資格はないが。

 しかし又、一方から考えると只圓翁のような大達人は歴史上の英雄と同様、百年に一人出るか出ないかわからないのが通例である。いわんや福岡のような僻地に於てをやである。それだからといって言句を絶し、情理を超越した真の能楽の精神を強いて言句、情理の末に残そうとするのは、後に非常な弊害を残すことになる。それよりも「絶後の悲哀を覚悟していい加減な相伝者を残さぬ」という翁の行き方の方が、真の能楽の精神を後世に伝うる所以であったかも知れぬ。「命は天に在り。人間の工夫何の用か成さむ。たおれて後止む」というのが翁の末期の一念であった事が今にして思い当られるようである。

 翁百世の後、翁の像を仰いで襟を正す人在りや無しや。

 思うて此に到る時、自から胸が一パイになる。



   只圓翁歿後の事



 これは蛇足かも知れないが、只圓翁歿後の福岡の喜多流界の状況をついでに簡単に書き添えておく。

 翁の歿後は前記梅津朔造氏、同昌吉氏及び斎田惟成氏が立方たちかたを指導し、山本毎氏が謡曲方面を宣揚していた。この諸氏が相前後して歿した後は河村、林、上原、水上(泰生氏父君)、持山、藤原の諸氏が謡曲を指導し、又能の方は大野徳太郎、柴藤精蔵両氏が熊本の大家故友枝三郎翁に師事し、次で現師範友枝為城氏、敏樹氏の両大家に参じ、観世流の諸氏と協力して各神社の祭事能を継続し、その他大小の能、囃子等を受持って東都家元六平太師を招いて、只圓翁の追善能記念事業を計画するなぞ福岡の斯界しかいを風靡していた。

 而して今から二十余年前大野徳太郎氏の歿後、福岡喜多会が成立するや、博多喜多流関係の能装束等の保管方を依頼されていた柴藤精蔵教授これが会長となり、或は梅津正保師範の来福指導に、又は家元六平太先生を中心とする演能の開催に努力し、その他数次の演能を開催して流風の宣揚につとめたものであるが、大正の大震災後に至り現師範梅津正利氏が来福するや更に一段の緊張を来し、両者相提携して同地方の能楽に於ける研究法の是正と、流勢の拡張に努力した。

 かくの如く福岡の喜多流の今日在るは全く故只圓翁の遺徳を基礎としたもので、翁の遺訓は今以て他流の人士の間にも伝わり、翁の清廉無慾と翁の堂々たる芸風とは今も尚流内の人口に膾炙かいしゃしている。

 然るに博多順正寺に在る只圓翁の墓は、後嗣梅津謙助氏が遠隔の地に居らるる故か久しく忘れられていた。ただ旧門下で小謡組であった佐藤文次郎氏が毎年忌日忌日に参詣するほか、藤原宏樹氏、柴藤精蔵氏が時折参詣するばかりで、正月の元旦に梅を持って参詣に行く事にきめていた筆者もその後怠り勝ちになって、勝手な時や序の時に立寄って拝む位の不孝さに陥っていた。


 然るに昨昭和八年の七月初旬に例年の如く只圓翁の墓を訪うた佐藤文次郎氏は、「梅津只圓翁墓」と刻んだ墓石がいつの間にか「梅津家累代墓」一基に合葬されてアトカタもなくなっているのに驚き、急に主となって奔走して旧門下古賀得四郎氏、同柴藤精蔵氏、同筆者等にはかった結果、銅像建設の議が起った。しかし前述の通り旧門下といっても指を屈する程度にしか残存していないので、大きな計画は無論出来ない。そのために前記諸氏の間で色々評議を重ねているところへ古賀得四郎氏の友人、春吉の医師松田盛氏の紹介で糸島出身の彫塑ちょうそ家津上昌平氏がこの評議に参加した。

 津上氏は帝展に数回特選され、数多の名士の銅像を作った人であるが、席上梅津只圓翁の人格を聞き、次いでその写真数葉を見るに及んで非常に感激し、吶々とつとつたる口調で、

「実に立派な人ですなあ。私はこんなお爺さんの顔を見るのは初めてです。失礼ですが私は私費を投じてもこのお爺さんの銅像を製作したいです。是非一つ思う存分に作らせて下さい」

 と云うので間もなく、昭和九年春の大寒中、古賀氏住宅附近の空屋に泊り込み、寝食を忘れて製作に熱中し出した。

 そうして筆者等の予算計画の約二倍大に当る等身大の座像をグングンね上げ初め、十数日後には、筆者等が見ても故人に生写しと思われる程の手法鮮かな、生けるが如き原型を作り上げた。それから毎晩半徹夜の努力を払って自ら石膏の型を取り、自身に荷造りして即刻東京に持帰る途中、岡山で土台石まで自身に選択し、東都で自身監督の下に鋳造させるという感激振りを示した。

 翁の塑像製作中、津上氏は古賀氏、佐藤氏、筆者等がかたわらで語る只圓翁の逸事を聞きながら、

「愉快ですなあ。立派な人ですなあ。製作するのに気持ちがいいですなあ」

 と打喜び、東京へ出発の際翁の石膏像を動かしながら、

「私は大きな拾い物をしました」

 と眼をしばたたいた程の感激振りであった。そうしてまだ発起人連中の予算の相談も纏まらぬうちに、前掲の如き見事な銅像と土台石が津上氏から古賀得四郎氏の許へ到着したので、筆者等は少なからず狼狽させられながらも津上氏の感激振りに心から感激した。同時に今更のように只圓翁の遺徳の高大さを仰いだ次第であった。

 しかしここに困った事は津上氏の感激のために、ほかの場合では一番最後におくれて出来上り勝ちの銅像が、まだ何事も決定しない一番先に出来上ってしまった事である。敷地は既に翁の後嗣梅津謙助氏の好意で薬院中庄の翁の旧宅跡に決定されたが、右につき津上氏の誠意は別の事としても、そのためには最初の計画の約二倍、すなわち約二千円の寄附金を集めなければならぬ。そのために発起人会を後から催して運動を初めねばならぬという滑稽且つ、悲惨な順序に陥ってしまったのみならず、その寄附金を集むべく種々奔走の結果、予定の二千円のやっと半額程度しか集まらず、製作者津上氏が自弁していた銅像建設の実費を弁償し得た以上には、ほとんど謝礼らしい謝礼すら出来ないという窮況に陥ってしまった事であった。

 これは一に筆者等数名の不調法で赤面の外ない。製作者津上氏の素志如何に拘らず、誠に慚愧ざんきお気の毒に堪えない次第であるが、これも翁の歿後を飾る一つの大きな、美しい話柄……翁の遺徳のために吾々の微力が圧倒された事蹟として大方の憫笑に価すれば幸である。

 事は故翁から習ったに過ぎない一教授佐藤文次郎氏の謝恩の一念から起り、全くの赤の他人である彫塑家津上昌平氏の感激から来た犠牲的熱意によって完成された事業である。その他関係者諸氏の目に見えない犠牲を加算したならば、翁の遺徳の世道人心に入る事の如何に深く且つ大きいかは到底想像も及ばない位であろう。

 もしこの不況険悪の時勢に於て無用不廉ふれんの事を起し一時の名聞みょうもんを求むるものとして一笑に附する人士が在ったならば、それは余りにも心なき人々として吾々はうらまざるを得ない。

 世道日々に暗く、功利の争塵刻々に深き今日、その反動として地方郷土の名士、有志の清廉高潔なる人士が陸続として苔下に喚起され、天日下に表彰されつつ有るは誠に吾国人固有の美徳、純情の泥土化していない事を証するものとして意を強うするに足るものがある。這般しゃはんの事業の国民精神に影響する事の如何に深遠なるものがあるかを疑い得ない次第である。

 いわんや、師恩の高大さを伝うるのは吾々門下の責務である。吾々が親しく翁より相伝した斯道の純志であり真面目である。その力及ばず。その能到らず。ここに翁の霊前に叩頭して罪を謝し、大方の高助を得て翁の像を作り、蕪文を列ねて翁の伝を物し、翁の聖徳をけがす。ただこの高齢、高徳の士、不世出の国粋芸術家梅津只圓翁の真骨頂を世に伝えたい微衷に他ならない事を御諒恕賜わらば幸甚である。

 尚、この『梅津只圓翁伝』を物するに当って各方面から有力な材料、話柄、指導等を賜わった諸氏は一々列挙にいとまがない位である。更めて紙上を以て謝意を表する。


     梅津只圓翁銅像除幕式 (福岡日日新聞抜萃)


 福岡黒田藩喜多流の先覚者梅津只圓翁の銅像除幕式は十四日(昭和九年十月)午前十一時より福岡市中庄只圓翁旧宅庭前に於て、翁の直孫牟田口利彦氏を始め武谷軍医官、梅津正利師範、旧門弟宇佐元緒、古賀得四郎氏以下多数参列の下に盛大に挙行せられた。

 修祓、降神行事に次で一同起立裡に直孫牟田口利彦氏の除幕あり、斎主後藤警固神社宮司の祝詞奏上、発起者代表古賀得四郎氏、縁故者牟田口利彦氏、常任理事佐藤文次郎氏、来賓総代武谷軍医監の玉串奉奠ほうてんありて、古賀発起人総代の挨拶、佐藤理事の工事報告、武谷軍医監の祝辞ありて正午閉式、引続いて祝宴に移り翁の逸話懐旧談に歓を尽し一時過ぎ散会した。因に同銅像は昨秋十月旧門弟一同発起となり一月着工、胸像は福岡県糸島郡出身彫塑家津上昌平氏の献身的努力により作製されたものである。


     只圓翁銅像工事報告

佐藤文次郎


 工事報告を申上ます。

 昨昭和八年の十月、先生の銅像建設を思い立ちまして、初めは先生の菩提所である博多祇園町順正寺に建設するつもりでありましたが、都合に依り先生の有縁の地であるここに建設することになりました。ところが、彫刻家の方が非常に進んで、銅像はすでに出来る。当局の許可を受けねばならず。寄附金は仰がねばならんという不調法をふむ始末でありました。ところが各方面諸賢方の多大なる御助力に依りまして、ここに完成を見るに至りました事を厚く御礼申上ます。御通告申上ましたように、詳細は後日決算報告を御手元へ伝記と共に、差上る事になっておりますので、ここでは荒方工事の報告を致します。一、銅像一千一百円、玉垣外庭石代九十二円、庭造り四十八円九十銭、維持費積立金一百円、除幕式費用約百五十円、外に印刷費、通信費、及諸雑費でありますが、この工事の始終におきまして、先生御在世中の御素行にかんがみ、飲食費等の冗費としては半銭も支出致しておりません事をひそかに喜んでおります。甚だ簡単ではありますが、これを以て工事報告と致します。

底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房

   1992(平成4)年123日第1刷発行

底本の親本:「梅津只圓翁伝」春秋社

  1935(昭和10)年310

初出:「福岡日日新聞」

  1934(昭和9)年414日~531

※底本の解題によれば、初出時の署名は「杉山萠圓すぎやまほうえん」です。

入力:柴田卓治

校正:土屋隆

2006年53日作成

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