探偵小説の正体
夢野久作
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探偵小説はジフテリヤの血清に似ている。ジフテリヤの血清をジフテリヤ患者に注射するとステキに利く。百発百中と云ってもいい位おそろしい効果を以て、ジフテリヤの病源体をヤッツケてしまうらしい。
それでいてジフテリヤの病源体はまだ発見されていない。近代医学の威力を以てしても正体が掴めないでいる。つまり薬の方が先に発見されているのに、病気の正体の方が判明しないので、裁判が確定しているのに、犯人が捕まらないみたいな恰好になっている。一種のナンセンスと云えば云える状態である。
探偵小説の正体も同様である。
探偵小説を欲求する心理の正体を掴むことその事が既に一つのこの上もないナンセンスであり、ユーモアであり、冒険であり、怪奇であり、神秘であり……何かみたいである。
探偵小説の正体を探偵するとはこれ如何にである。
事実……探偵小説の興味の本体がどこに在るかを探り出すことは中々容易でないらしい。
探偵小説と貼紙をした古屑籠の蓋を取ってみると、怪奇、冒険、ユーモア、ナンセンス、変態心理といったような読物の妖怪変化が、ウジャウジャと押し合いへし合いながら巣喰っている。その中から探偵小説らしい奴を一匹引っぱり出そうとすると、ちょっと見たところ全然別物に見えるほかの化物連中が、その探偵小説の胴体に、背中や尻ペタ同志で、シャム兄弟のように繋がり合って、ギャギャ悲鳴を揚げながら絡み合って出て来るから、ビックリさせられてしまう。
探偵小説の横腹から足だけを二本ニューと出してバタバタやっている冒険小説。探偵小説のお尻の穴から片手を突出してオイデオイデをしている変態心理。肩の横っちょに頭を並べている怪奇小説。お尻だけ共通し合っているユーモア小説。瘤になって額にカジリ付いているナンセンス小説。探偵小説の身体の隅々に、毛のように叢生しているエロ、グロ小説といったようなアンバイで、結局、探偵小説と名付くる動物は、メスで解剖出来ない、超科学的なものになってしまう。
或る人は探偵小説の魅力を、謎々の魅力と同一のものだという。
それはそうかも知れない。
探偵小説は十八世紀の末葉、仏蘭西は巴里に居住する有閑婦人が、当時の社交界に横行するスパイ連中の秘密戦術に興味を駆られて、閑潰しに創作し初めたものに萌芽しているという。だから出来るだけ筋を入組ませて、出来るだけ読者の閑暇を潰せるように競争して書いたのが初まりだという説明を聞くと、成る程、そんなものかと思えない事もない。
しかし、それから後、探偵小説が代を重ねて発達して来たのであろう。筋の極めて簡単明瞭なものでもゾッとさせられたり、アッと云わせられたりするものが出て来た。トリックらしいトリックが一つもなくとも、探偵小説は成立するようになって来たから、必ずしも探偵小説、即謎々とは云い切れなくなって来た訳である。すくなくとも吾々が所謂探偵小説なるものの中に感じ得る魅力の中には謎々以外の沢山のものがある事は否定出来ない。
何度読んでも面白い探偵小説だの、最初から犯人を明示して在る探偵小説を、探偵小説でないと断言するのは少々乱暴ではあるまいか……。
或る人は探偵小説を一つの精神的な瀉血だと説明している。
吾々がこの血も涙も無い資本万能の、唯物科学的社会組織の中で、芋を洗うように……もしくは洗われるように押し合いへし合い、小突き合い、ぶつかり合って生活して行く間に感じた、あらゆる非良心的な闘争──生存競争そのものが生む、悽愴たる罪悪感……残忍な勝利感や、骨に喰い入る劣敗感なぞ……そんな毒悪な昂奮に鬱血硬化させられ続けている吾々の精神の循環系統の或る一個所を、探偵小説というメスで切り破って黒血を瀉出し、毒気を放散しようとしているのだ。血圧を下げて安眠しようとしているのだ。書く方も、そんな気で書き、読む方もそんな気で読んでいるのだ。
そこから迸出る血が、黒ければ黒いほど気持がよくて、毒々しければ毒々しいほど愉快なのだ。だから探偵小説の読者は皆善人なのだ。……だから普通の小説が愛情の小説なら、探偵小説は良心の小説なのだ。良心の戦慄を書くのが探偵小説の使命なのだ……という説もある。
これも一応尤もな気がする。多分に共鳴も出来るようであるが、しかし、探偵小説の定義が、そうときまれば、ストーリーと謎々だけで成立している所謂、本格の探偵小説は飯が喰えないみたいなものになる筈である。
ところが本格の探偵小説は決して乾上りなんかする気色はない。新聞の三面記事が読める人なら必ず本格の探偵小説を理解し得ると考えてもいい位の大衆的な支持を受けつつ堂々と門を張って行きつつ在る。本格以外の探偵小説は探偵小説に非ず。エロ小説、グロ小説、ナンセンス小説と名乗って、この魅力ある「探偵」の二字を僭称する事を遠慮すべきもの也……とか何とか大見得を切られても、大きな声で返事する者が居ない位すばらしい勢である。だからこの定義は所謂、変格の探偵小説には当てはまるが、本格の謎々専門のソレには当てはまらないらしい。
……ナアニ……探偵小説ってものは大人のお伽話に過ぎないんだよ。大人は探偵小説を読んでオカカの感心、オビビのビックリ世界に逃避したがっているんだよ。良心とか、義理とか、人情とか、生活の苦しみとか、いうものには毎日毎日飽き飽きするくらい触れているんだから、そんなものにモウ一度シミジミと触れさせる普通の小説なんか、御免蒙りたいのだ。そんなものを超越した痛快な、ものすごいすばらしい世界へ連れて行ってもらいたがっているんだ。
但、子供はビックリ太郎でもノラクロ伍長でも容易に釣込まれるんだが、大人はそうは行かない。だから科学とか、実社会の機構とか、専門の智識とかの中でも、最新、最鋭の驚異的な奴を背景、もしくは材料として「感心世界」や「ビックリ世界」を組立てなければならない。そこから探偵小説のすべてが生まれて来るのだ。そうしてソレ以外にも以上にも探偵小説の使命はないのだ。
ルパンでもホルムズでも要するに大人のミッキーマウスであり凸凹黒兵衛に外ならないんだよ。そいつが人の欲しがる巨万の富、人の惜しがる生命、もしくは最も人の昂奮する国際問題なぞに対して行われた奸悪を向うにまわして超人的な活躍をするんだから、大人が喜ぶ筈だよ。怪奇、変態、冒険、ユーモア、なんていう色々な要素が、探偵小説の中に取入れられているのは、単に大人を、小供のお伽話と同等にビックリさせる色どりに外ならないんだよ……云々……と……。
成る程そう云われてみると、そんな気にもなって来る。大人はお伽話を持ち得ない、憐れな動物だから、子供がお伽話を聞いて眠りたがるように、大人は一日の残りの時間を、探偵小説と共に、寝床の中で惜しみたがるのであろう。
しかし、それだけでは、やはり何だかまだ説明が足りないような気がする。
以上掲げたような色々な定義を一つに引きくるめてモットモット深刻に掘下げたようなものが、探偵小説の魅力の正体でなければ、ならないような気がするようである。
今までに色々な形式の探偵小説が、書かれては飽きられ、工夫し出されては行詰まって来た。書いて行く小説家の方ではモウいけない。行き詰まった行き詰まったと悲鳴をあげている向きがあるようであるが、しかし、それは書く方の側だけの話ではあるまいか。
読者側の方では、まだ飽きても行き詰まっていないようである。モットモット強い、深い、新しい刺戟を求めている自分自身の恐ろしい心理の慾求を、その日その日の生活の間隙にハッキリと感じつつ、飢え渇いたような気持で本屋の店先をウロウロしているのではあるまいか。
その恐ろしい心理の慾求とは何であろうか。
……さあ……わからない。
現に、そういう筆者自身が、いつも、そんな気持で本屋の店先をウロウロキョロキョロする組であるが、さて自分自身に、お前は何を探しているのだと反省してみると、どうしてもわからない。たまたま面白そうな本を引っぱり出して中を二三行読むと、直ぐにチェッと舌打ちしてモトの本棚に押込んでしまうのであるが、何が、お前をそうさせるのかと、自分の頭に反問しても、返事は一つも浮かみ上がらない。その癖、おそろしく焦燥ってジリジリしている事はたしかだ。これぞと思う本があればポケットを空にしても構わないぐらい棄身の決心をしている事だけはたしかである。……だが……何を求めているんだと云われても返事が出来ないから困る。
……自烈度いと云って、これ位自烈度い話はなかろう。……これがわかれば一躍、世界一の流行作家になれるかも知れないんだが……。
人文の発達に伴う、読物の種類の分派を探求し、綜合したところから帰納して、探偵小説が如何なる社会心理の反映を象徴しているものであるかをハッキリときめてくれる人は居ないか知らん。現代人が探偵小説の将来、如何なるものを要求しているかを、鮮やかに指示してくれる大批評家は居ないか知らん。
本屋の店頭に立って色々と本を漁っている人の頭を見破って帰って、直ぐにその慾求通りのものを書くという訳には行かないものか知らん。
否々。一流の流行作家は、皆、それが出来るのに違いない。そうして、わざと黙っているのに違いない。大人が子供に真実を教えないように……。
……ああ……自烈度い……。
底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:渥美浩子
2001年6月6日公開
2006年3月1日修正
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