美しき月夜
宮本百合子



 静かな晩である。

 空気は柔かく湿って、熟しかけた林檎りんごからは甘酸い、酸性のかおりが快く、重く眠たい夜気の中に放散し、薄茶色の煙のような玉蜀黍とうもろこしの穂が澄みわたった宙に、ひっそりと影を泛べている。到るところに陰翳いんえいの錯綜があった。夏と秋の混り合った穏やかなどことなく淋しい景物が、今パット咲いた銀色の大花輪のような月光の下で、微かに震えながらき合っている。どこにも動くものがなかった。どこにもものを云う声が聴えなかった。その沈黙が一層聞えない囁きの優しさと、見えない魂の団欒だんらんを想わせるような夜のうちを、彼等は確かりと腕を組合いながら、幸福に家路に向っていたのである。

 姪の結婚披露に招待されて、久振りで華やかなる雰囲気のうちに心から浸った彼等は、いつかあらゆる日常生活の煩しさから開放されていた。可愛くてうるさい子供達も、老母も、地平線の彼方より遠い彼方に姿を消して、亢奮に連れて甦った若さが三年前の恍惚こうこつに彼等を引戻して、希望に満ち、歓喜と純潔な羞恥に赤らんだ二つの笑顔は、彼等に甘美な回想を与える。単調になりがちな愛の経過に、さっと差した輝きのような新鮮さが、彼等のうちに夢をかきたてた。彼等がまだ結婚しなかった時分に、よく老人達の傍を逃げるように抜け出しては、感傷的な夜景の中を彷徨ほうこうしたその時分のような忘我と魂の鼓動が、まるで月光のように二つの心を耀かせているのである。

 W・タンナーは米国の中部に在る大都会から、三四マイル隔った小邑の会社員であった。毎朝八時になると、彼は木造の住宅から四五丁離れた、或る電気会社の事務所に出かけて行く。そして昼に一時間休暇を貰って、家へ昼食をしに戻って来るときを除いては、朝から夕方まで、古ぼけたオークの事務机デスクの前に背を屈めて、無感興な数字の整理に忙殺されているのである。

 まだ三十になるかならないの彼は、ようよう家族を支えて行くだけの俸給ほか貰っていなかった。従って、二人の子供達と老母とを抱いて、彼等の生活は、どこの隅にも余裕というべきものを見出すことはできない。白襯衣ホワイトシャーツ一枚になったWが、西日の差しこむ温室のような事務室で、よき良人らしく、忠実な父親らしく額に汗している間に、妻のマーガレットは、また彼に劣らぬ真剣さで何くれとなく家事のために奔走する。彼等にとって、贅沢ぜいたくな流行品の存在が、何ら関心の材料にもならなかった如くに、あらゆる空想というものが、生活から駆逐されていた。結局実現も出来ない空想に心を奪われてボカンとして過す五分が、何を産むだろう? 彼等に望外の野心もなかった。激しい口論を起すべき衝突もまたない。単調な田舎の圏境が、いつか人の心に与える不思議な催眠で、光沢のない水色のような生活が、彼等の結婚後三年の月日を満たして今日に至ったのである。

 Wが、安い月給取りであるということ、彼の妻は、また彼にふさわしいよき主婦であるということは、そこに何の華やかさもない代りに、彼には平和な信頼を与えた。彼は毎月定まった金額を彼女のに渡す。何の不安も、焦燥も感ぜずにその金は彼女の配慮で日常の生活を満たして行く。

 天気の晴々と輝きわたった夏などに、昼飯に戻って来た彼は、よく子供達に取繞とりまかれながら裏の草原で洗濯物を乾しているマーガレットを見出すことがあった。

 金色の日光がキラキラと金粉を撒くように降り注ぐ明るみの中で、嬉戯きぎする子供等と、陽気な高声で喋りながら、白く肥った腕を素早く動かして、張りわたした綱に濡れた布を吊る彼女の姿は、どんなに彼の心を悦ばせたことだろう。一足毎に大きなかごを傍へ傍へと引寄せながら、上下する体の運動につれて、愉快な小唄を口誦む彼女。しゃが機勢はずみに落ちかかる後れ毛を、さもうるさそうに手の甲で掻き上げながら、ちょっと頭をあげて大きく息をする彼女。そこには若い母親の豊饒な愛が、せるほど芳しく漂っている。見馴れた光景でありながら、その家庭的な情景に逢うと、彼は湧き上る感謝を圧えることができなかった。よき家である。よき妻や子等である。わざと木影に隠れて、我れともなく恍惚とした父親を真先に見つけた子供達が、弾む小毬こまりのように頸や胸元に跳びつく頃は、微風に連れて雲のように膨れたり萎んだりする白布を背景にして、眩ゆそうに額際に腕を挙げたマーガレットが、血色のよい頬に渦巻くような笑を湛えながら、〝Halloo dear〟と野放しの声を投げる。

 質素な木綿着物に包まれた彼女のほっそりとした体の周囲からは、やや田舎めいた、清潔な快い糊のにおいがプント立ちのぼるだろう、濡れて光る双手、小さい汗のために水蜜桃のような顎──あらゆるものが彼女の母性マザーフットを囲んで耀くように見えた。壊れかけた玩具も、磨かれた家具も、すべてが彼女の影を受けて始めて、活々として見えるようにさえ思われるのである。

 そういうとき若い良人のWは、涙が出るほどの悦びを感じずにはいられなかった。しかし、その悦びは、決して今のようなものではない。何と云ったら好いだろう。ちょうど、仕合わせな、可愛がられる子供が、髪の毛を透して母親の慈愛に満ちた寵撫パットを受けるときのような心持である。その膝にもたれてそのまま眠ってしまいたいような信頼である。「我等の母」に対する尊敬ともいい得る感激なのである。

 けれども!

 Wは、半ばおどろき、半ば歓喜の含羞はにかみで上気したような瞳を瞬きながら、自分の腕に倚って歩を運ぶマーガレットを眺めた。

 そこには、いつもの見馴れたマージーの、主婦ハウスワイフらしい地味な、取繕わないふうは、その影さえも止めていなかった。何か非常によきもの、美しきもの、それ等は、彼がかつて一度も彼女のうちに見出したことがないようにさえ思われるものが、今薄いラベンダーの着物に包まれて、半ば眼をつむるように閉じながら、足音も立てずに引添うて来るマーガレットの周囲に燦然さんぜんと耀いているのである。

 日常生活の単調な反復が、いつか積らせた鈍重な塵の底に埋もれていた美が、今、その遮蔽物を掻きのけて光り始めたのであろうか。

 それとも、久振りの甦った亢奮が、彼女に新しい魅力を加えたのであろうか、それはどっちだかW自身にも判断が付かなかった。

 けれども、歩むにつれて、フワフワと揺れる鍔広つばひろの帽子が、すべすべな頬を斜に掠めて優しい影を投げ、捲毛から溢れた小さい耳朶から、芳しい頸、胸と何の滞りもなく流れる円滑な線が、レースと、飾帯サッシにつけた花束の間に幻の如く消えている、その繊細な、柔かく、軽い、夢幻的な美は、身を引緊めるような謎を持っている。Wは、恰も女王に仕える騎士のような眼差しで、霧のような日光を浴びたマーガレットの横顔を偸見ぬすみみた。この美くしさ! それは全く、情慾を超えた高貴であった。異性が、互に思いも懸けなかった崇高な美を対手のうちに、さながら霊感の如く発見する、稀有な瞬間の一つであった。匍匐ほふくする現実からり放たれて、彼は飛翔する光りもののうちに、永遠の女性の再誕を感じたのである。

 しかし、この霊的な、この世の者でないようにさえ見えるマージーの美に対する讃嘆は、殆ど無意識に彼の心の底に横っている、何ものにも換え難い安らかさ、確信ともいうべきものと相呼応して、一層彼を有頂天にしていた。それは、この尊むべく、愛すべき女性は、一生を徹して、自分に保証された者であるという落付きである。この宝物を、彼の掌から奪う何ものも、この地上には存在を許されていない。ただ、自分だけが、彼女の唯一の愛の対照として生きることができる。

 彼女に達する黄金の階子はしごは、ただ彼の鍵によってのみ開かれる。いかほどの高処に彼女が在ろうとも、彼だけは、的確に到達することができるので、この誇とも自負ともいうべき心持は一方においては、全然無条件に彼女の高貴を承認し、讃美する。彼女の尊厳が加わるに連れて、彼の意識の奥に横わるこの自信も強度を増して来る。今の彼にとっては、これ等二重の心持が働きかけて、彼と彼女をかたい抱擁の光輝に包みながら、飽くことを知らぬ愉悦の彼方まで吹き送ったのである。

「俺は仕合わせだ」

 彼は恍惚として顔を撫でた。

「俺は仕合せだ。若いマージー、美しいマージー。フム……俺も若いのだ。そして子供達も──子供達も悪くはない、仕事はよくなるだろう、生活はよくなるだろう、俺は仕合わせだ。彼女も仕合わせだ。

 二人ともが健康で、愛し合い扶け合って、これから幾年か、そう幾十年か一緒に生きて行くのだ。よい! 生活は、よい!」

 彼は急に何か熱い塊りが喉元に突掛って来るのを感じた。幸福な戦慄が彼の体を貫いて走った。

「マージー……」

 彼は、しっとりと湿って柔かいマーガレットの裸形むきだしの手を取りながら、微かな香りのある腕を、じっと自分の岩畳な腕の下に締めつけた。

 長い林檎林を抜けると、道は急に開いて、二人の前には寝静まって森閑とした大通りが黒く現われた。そこを横切る踏切りを抜けて一二丁行ったところに、彼等の安眠の巣が大きな樺の樹に覆われて建っているのである。村に育って村に住む彼等は、何度この道を歩いたろう、過去幾年か通り過ぎ踏み馴れた、その道を今彼は、輝きに騎るような心持でみ越えようとしているのである。

 眠った家々の屋根や、動かない樹々の重い梢々が、高い透明な大空の穹窿きゅうりゅうの下に、見えない刻々を彫みながら、少しばかりずつ、地殻の彼方へずり落ちて行くような感じを与えた。樹蔭の闇から月光を反射する窓硝子や扁平な亜鉛屋根の斜面が不思議に悒鬱ゆううつな銀色で、あたりの闇を一層際立たせ、同じような薄ら寒い脊骨を刺すような光線は土に四本並んで這う鋼鉄の線路からも反射しているのである。線路の傍に小さく建った番小屋の傍まで来ると、今までWに体を持せかけるようにしていたマーガレットは、急にぱっちりと眼を見開きながら身を起して、

「好い月ね」

と云った。広い鍔の陰から、丸い顎を仰向けるようにして朗らかな天を仰だ眼を落すと、彼女は、ちょっと眉をしかめるようにして、彼方に光っている鈍銀の窓々を見た。

 静かな晩──W、汽車は大丈夫?

 マーガレットのこの質問は、決して無意識ではない、彼等はもうさっきから、軌道レールの上に響いて来る、重い威圧的な機関車の音を聞いていたのである。Wはちょっと頭を廻して提灯の灯ほどに見える赤い前燈ヘッドライトゆべき軌道の幅とを見較べた、が、それだけの注意さえ、このときの彼には何となく滑稽に思われたほど、動いて来る燈と軌幅との差は大であった。不安を持とうにも、持ち得ないほど大きな差である。自分達の若い、健康な四本の脚が、この悦に満ちた晩に、どうしてこのたった五尺前後の空間を横切れないことがあろう。彼は、マージーの臆病を揶揄やゆする少年のような声を挙げて、高々と笑った。

「大丈夫さもちろんマージー、さあ行こう」

 Wに腕を扶けられながら、彼女はまたちょっと頭を傾けて彼方に流眄ながしめを与えると、そのまま良人の自信に絶対の信を置いたような歩調あしどりで動き出した。そして、ファミリアな無関心の二三歩を踏んで、その次を運び出そうとした瞬間、彼女は小さい声で、

「おや」と云いながら、前へ行こうとした良人の腕を押えた。

「どうした?」

「ちょっと……」

 マージーは、彼に委せた右の腕にグッと力を入れながら、体を浮かせるようにして、不自然な形で後方に残った左足を前へ引こうとした。

「どうしたのマージー」

かかとが挾まったらしいの」

「踵が挾まった? どこへ」

 Wはちょっと小戻すると、さながら落した手巾ハンカチを拾おうとするより、もっと落付いた何でもないふうで彼女の華奢きゃしゃな、白い長靴の上に身を屈めた、この刹那、彼の脳裡では、妻の靴の踵が線路と板との間に喰われたその事実と、前後に連関した何事をも考えることができなかった。今、マージーの動けなくなった、同じ線路の上を、猛烈な勢で突進している列車の薄黒い連鎖と、このことの間には、その瞬間何の連絡をも取っていなかった。或は、列車という意識さえ、彼の心には浮んでいなかったといっても好いほどの驚くべき余白ブランクが、幸福で身慄う彼の、形の好い頭のうちに生じていたのである。

 興奮が産んだ、この無意味な意識の余白は、いつかマーガレットにも感染していた。彼女も彼と同様の放心状態に在った。まるで日向で草でも見るように、

「取れないだろうかね」

と呟きながら、跼んで良人の、月光に白く光る背中に手を置きながら、彼女は時間を忘れた平静さで、そろそろと足を動しに掛ったのである。しかし、重い荷車の車輪で圧拉げられた分厚な板と、不動の軌道との僅かな間隙に、ほんとの力の機勢はずみで喰いこんだ踵は、体を前後に揺るくらいのことでは、とうてい抜けるものではない。胴で括れて、末端が広く銀杏形に開いた女の高い踵は、恰も運命の係蹄の如く、微妙な一点で、彼女を完全に生捕ってしまったのである。二三度こびってもカタリとも動かない強固ファームネスさに、或る漠然とした、得体の知れない焦躁が二人の心に湧き上ったときである。今までただ洞穴のように真暗く見えていた番小屋の中から、一人の男が小さい手提洋燈を振りながら、恐ろしい惶しさで馳けつけて来た。

「どうしなさったかね、あなた早くせにゃあ」

 眼をしょぼしょぼさせた猫背の男は、息を呑んだような気忙しさで、せかせかと喘ぎながら、早口に囁いて跼み込んだ二人の周囲を動きまわった。

「あなた、早くせにゃあ危い、殺される、あなた、早くせにあ、あなた汽車が来る!」

 この最後の一句が、呆然としていた二人の心に慄然ゾッとする冷水を浴びせかけた。

「汽車?!」

 弾かれるように体をあげた二人の目前には、瞬間忘れられていた恐ろしい機関車が、刻々と確乎たる歩程で突進している。

「汽車!」

 俄に体を反らせて飛上ったマージーは、急に狂気したような鋭い叫びを挙げながら身をもがいた。

「W、早く! 早く! 早く!」

 とっさの激動ショックに夢中になった彼女は、当もなく拡げた両腕を振りまわしながら、叫声を挙げ、身をもがき、焦躁あせり猛る。しかし、Wは、失神したように呆然と口を開いて、この瞬間を立ちつくした。極度の緊張と衝動が、頭のうちで、一時にぶつかった彼には、何が何だか、いくら考えても訳が解らないような気がした。一切がポーッと心の前で、ぼやけきっているような気がした。が、それにも拘らず、彼には、何かひどく明白なもの、胸が悪くなるほど、図々しく白ばっくれて解りきったものが心一杯に詰っていた。何か惨酷な、血みどろな、プンと鼻を突くにおい、自暴自棄な、死ぬに極ってらあというような心持、その死をフフンと他人事ひとごとのように嘲笑してやりたいような気分、あらゆる激情が、この刹那、彼の見開いた魂の絶壁の際でこんがらかった。陰気な、気に喰わない、いやな……、Wは顔中をくしゃくしゃに顰めて、あたかも叱責するように妻の方を振向いた。瞬間、彼は甲高な、刺すようにひどく憐れっぽいマージーの叫声が、

「W、ア! W早く! 救けて」

と息も切れ切れに叫びながら、彼に向って白い丸い、可愛い二本の腕をさし延すのを見た。

「マージー!」

 Wは、俄にかっとなるほどの恐怖を感じた。その、何だか分らない、宇宙がどっさりと落ちて、体中にのしかかって来るような致命的な恐怖を反撥するように、或はそれとガッシリ組合って、彼のうちには血がドクドクと音を立てて、狂奔するような反抗を感じた。Wは、愛着、憤怒、恐怖、反抗に夢中に小突きまわされながら、いきなりマージーの足を掴むと、髪の毛を逆立てたような眼付をして、それを力委せに彼方へ捻った、と、同時に、体を半ば宙に浮かせてフラフラしていた彼女は、死ぬような悲鳴と共に、バッタリ軌道を横切って倒れてしまった。動顛どうてんした男達は、踵を一厘も動かさないで却って彼女の足の骨をくじいてしまったのだ。しかし、誰もそんなことを思うだけの意識を持ってはいなかった。皆の気が違っていた。ましてこの場合、軌道の内側に倒れたマージーを、逆に倒して、足一本の犠牲で、彼女の生命を救おうとするだけの周密な考慮をめぐらす頭脳はなかった。すべての魂が、奈落へ逆落しになっていた。すべての意志が、流星のように顛落していた。統御を失た本能の、眼のない、大きな真黒い頭ばかりが、無二無三に方向の定まらない動乱を起したのである。

 一旦右側を下にして倒れたマージーは、やがて必死デスペレートな歯軋りと一緒に上半身で飛び上った。

「駄目だ! 駄目だ! もう!」

 彼女はいきなり咆吼とも悲鳴ともつかない叫びを挙げながら、獣のような勢で夢中になった良人の胸元に跳びついた。

「W! 駄目! もうだめ、早く逃げて、よ! 子供が、アー、駄目よ! 駄目よ! W!!」

 十フィートほどの距離まで接近して来た列車は、ギラつく前燈ヘッドライトを一面に軌道の上に投げていた。その、蒼白い月光と、赤い焔のような光線の混乱し錯綜した、ぶちまだらな明りのうちで、我を失ったWは、自分の魂にピッタリ貼りついたように近々と髪を乱し、歯をギリギリと噛みながら、瀕死の鳥が羽摶く通りに身をもがくマーガレットの、恐怖と哀願と、そして極度の憤怒にかきむしられたような顔を眺めた。それを見ると、彼は、何でもかでも、マーガレットが、彼女の全生命で感じている、そのことを、きっかりと一つの間違いもなく自分の心に感じているのを感じた。今死のうとする眼と眼が、かっちりと火花を散らして結び合った。

「死ぬもんか! 馬鹿!」

 どうして、ここで死ななければならないのか? どうして死から逃れるか? そんなことが問題ではなかった。ただ反抗である。彼女の悪霊のようなもの凄い相貌から、彼の魂へと、裸形はだかで踊り込む生の、飢渇のような欲求である。彼女を馳り立てるが故に、彼女も馳り立てずには置かない本能の爆発である。死んで堪るもんか、死ぬもんか、何だ! 馬鹿、畜生! 悪魔!

 Wはいきなり拳を振って弾機ばねのように空中へ飛び上った。と同時に、叩きつけるように、地面へ落ちて、知覚を失ったマージーの体に、喰いつくように掴みかかると、決然と、あたかも宣告を下すように、

 〝No! sir〟

と叫んだ。

 この瞬間、彼の心を満したものは、決して、愛する妻を独り死なせるに堪えないという単独な情でもなければ、ともに死ぬべきであるという倫理的な判断でもない。まして、この瞬間に、生と死とを選択して、英雄的最後を選ぼうとするような心はない。ただ、彼女の全霊が、真赤な火の玉のようになって燃え上った生の執着の偉大なる共鳴である。二つの箇体が、一つの生命になっていた。一つの生命の前にあらゆる空間が絶していた。二つの体躯を貫通して反響があったばかりである。彼の心には、死という文字の存在を許す、いかほど些細な間隙もなかった。あくまでも生である。何といったって生きてやるぞ! という真っ暗な絶叫である。死んでも生きて見せるぞ! という執念である。ひたすらの執念である。あの寸刻前の恍惚は? あの幸福な夢幻は? 運命は、運命は……。そんなことがあって堪るもんか。彼は、生命全部の緊張をただ一点に集中して〝No! sir〟と叫んだのである。何に? もちろん死である。体中でふるえながら、二人の周囲を駈けまわって、叫んだり、呟いたり、つまずいたりしていた猫背の男は、Wが〝No! sir〟と叫んで、マージーの上に重るように地上に横ったのを見るや否や、殺されるような悲鳴を挙げて、走り出した。なぜとも分らずこちらへ向って確実に猛進して来る列車の、一つ目の化物のような前面を目がけて馳け出したのである。が、二三間行くか行かぬに、彼のろうした耳をつんざくようにシュワッ! と空気を截断して、機関車の丸い頭部が擦れ違った。と同時に、彼は轟々ごうごうたる車輪の響に混って何ともいえない人間の叫喚が、あたりの空気を刺しとおして空の彼方まで響きわたったような気がした。彼は急に双脚の力を失った。地面がズルッと足の下で滑った。彼は髭の疎に生えた口をパッと開くと、あらいざらいの生命を一時いちどきに吸いこむように息をめて、傍の茂みの中に転り込んだ。

 一分……二分……三分……。

 彼はそろそろと両膝を突いて、草の中から起き上った。そして怖じた兎のように眼をいて恐る恐る周囲を見まわした。

 月が照っている。窓々の硝子は光り、樹々が眠っている。しんかんとした夜の空気……。

「これが?」

 彼は肩を窄めて、

「これが? これが死? これが? これが?」

 痩せた顳顬こめかみをヒクヒクと痙攣けいれんさせながら、彼はまたのび上って、そろそろとあたりを見まわした。

底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社

   1979(昭和54)年420日初版発行

   1986(昭和61)年320日第5刷発行

底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房

   1951(昭和26)年6月発行

入力:柴田卓治

校正:原田頌子

2002年12日公開

2003年720日修正

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