火のついた踵
宮本百合子
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人 物
奥平振一郎 統計学者(三十歳)
みさ子 振一郎の妻(十八歳)
橋詰 英一 みさ子の従兄(二十四歳)
谷 三郎 英一、みさ子の友人(同)
吉沢 朝子(登場せず)みさ子の友達(十九歳)
女中 きよ
場 所
東京。
時
現代。或る五月。
第一 奥平の客間
上部の壁や天井は白く、下部を、暗緑色の壁紙で覆うた洋室。
正面は、浅く広いヌック。大きい三つの窓に、極く薄い肉桂色の窓帷が、黒い鮮やかな飾紐で片よせられ、簡素な形のマホガニーの円卓子、布張の椅子、たっぷり薔薇を盛った花壺等が置かれている。
上手の壁際には、大きな金縁の額。書棚。長椅子。重い暗色の垂帳で、隣室と境している。
下手は、一間半ばかり、透硝子のフォルディング・ドーアになっている。前後三尺ずつの壁間は、ヌックよりに彫像、繁った灌木の鉢。下手には、背の高いヴィクター、二人掛の腕椅子等。硝子の折畳扉から差す日が、如何にも晴々と、床に流れ、家具を照し、扉の金色の把手や、鉢植の新緑を爽やかに耀かせる。
幕開く。舞台は空虚。
光りや色彩の快感が、徐ろに漠然とした健康や活力の感を看る者に味わさせた頃、上手の垂帳から、みさ子が出て来る。(藤色のネルの着物、全体、さっぱりした服装)
みさ子 (部屋に入りながら、振返り)一寸こっちへ来て御覧にならないこと? 綺麗よ。今日は、私がすっかり大掃除をしたんですもの。
振一郎 (黙って入って来る。黒っぽいセルの着付。四辺を見廻し)ほう。綺麗だね。
みさ子 この部屋は、日がよく射すから、猶気持が好いわ。(ヌックの方へ行く)御覧なさいませ。一寸この薔薇! 素敵でしょう? 私こんなのが咲くとは思わなかったわ。
振一郎 (気がなさそうに)よく咲いたね。
みさ子 匂いをかいで御覧遊ばせよ。いいじゃあないの? ほら!(花壺を持ち、顔を埋めるようにして匂をすい、良人の鼻先に出す)
振一郎 うむ。いいね。花を持った枝は切る方が、来年のために好いんだよ。
みさ子 そうお。私が好きだから、どうせお部屋の花に切ることになってしまうわ。(ヌックの卓子の上に花壺を置き、そこの椅子に坐る)貴方もおかけにならないこと?
振一郎 (ぶらぶら行って、向い合わせに掛ける)英一さん達は幾時頃来るの?
みさ子 わからないの。ただ、お昼っからって云ってよこしただけなんですもの。──でも、きっともうじきに来るんでしょう、どうせ日曜ですもの一日、あの人達は暇なんだわ……(調子をかえ)貴方も今日はいいでしょう?
振一郎 さあ……
みさ子 駄目?
振一郎 しなければならないことがあるからね。
みさ子 (失望を押え)たまだからいいじゃあないの? 一寸でいいから一緒にお茶でも召上れよ。
振一郎 しなければならないことを控えて、表面ばかりおつきあいをしなければならないことはないだろう?
みさ子 それはそうだわ。──だけれども──あの人達だって、随分久しぶりで来るんですもの……
振一郎 あなたが、ゆっくり遊んであげれば結構じゃあないか。
みさ子 だって……(深く顔を曇らせる、遠慮しながら)貴方、あの人達の来るのがお厭なの?
振一郎 どうして? 僕がそんなことを云ったかい?
みさ子 おっしゃりゃしないわ。けれども──若し、悦んで下さるなら、暫くの間位、皆で、気持よく楽しんで下さるのじゃあないかと思うの。貴方は、私独りで遊んであげれば好いだろうっておっしゃるけれど──そうじゃないのよ。
振一郎 僕は僕で、仕事の責任があるんだから、仕方がない。ね? そうでしょう? あなたや、英一さん達みたいに、遊んでいて好い人間ではないんだから。
みさ子 (淋しそうに)何だか、きめっこのようね。私一度でも好いから、貴方にも一緒に面白く遊んで戴きたいわ。いつも、いつも──お仕事!
振一郎 そんな子供のようなことを云うものじゃあない。
みさ子 (涙ぐみ)子供のようなことじゃあないわ。どこに、自分の好きな人も一緒に楽しまないでいるのに、平気で嬉しがっていられる人があって?(強いて確かりし)ね、貴方、これからこうしようじゃないの? 貴方が来て貰っては困るとお思いになったら、はっきりそう云って頂くの。そして、私、断ってしまうわ。その方が……どんなに心持が好いか判らない……
振一郎 何もあなたの処へ来ようという人を、僕が厭だって断る訳はないじゃあないか、そんなエゴイストじゃあない。
みさ子 それが間違いだとはお思いにならない? 来る人は、私共二人の処へ来るのよ。それだのに(涙が危くこぼれそうになる)いつも、私一人ぼっちでお相手をして、奥平さんはどうなさいましたって訊かれるの……おまけに貴方はちっとも楽しそうではないんですもの──私、どうしていいか判らなくなってしまうわ。
振一郎 判らないことはない。あなたは僕のことなんか忘れて、愉快にすればいいんだ。その方が、僕にとったって、どの位呑気だか判らない。
みさ子 (疑わしそうに、良人を見)そう? ほんとに?
振一郎 (力を入れ)ほんとにそうだとも! 若し僕が暇で気が向いたら、いつでも出て来て仲間に入ればいいでしょう?
みさ子 そうならほんとにいいわ。(嬉しそうに)じゃあ、後で出て下さること?
振一郎 いつ? 今日?
みさ子 (勿論と云うように)そうだわ。
振一郎 判らない。まああなただけで接待していてくれ。
みさ子 ──それじゃあ同じだわ……ああほんとに(椅子を立ち、歩き出しながら嘆息する)
振一郎 (気にし)どうしたの?
みさ子 (凝っと、憂わしげに良人を見る)私共の処でさえこうなんだから、よその奥さんが、自分のお友達さえ呼ばなくなるのは無理もないと思ったの。
振一郎 物事を、何でもそう悪意にとるものじゃあない。僕の云う真意を諒解しなければ、いつでも、詰らない衝突を起すばかりじゃあないか。
みさ子 (熱心に)ほんとに、私も私の心の奥の奥が判って頂きたいわ。理屈じゃあなく、私の感じることを、貴方の胸で感じて頂きたいわ。
振一郎 ──お互のことだ。……要求は限りないものだからね。人間は、五のものを与えられると、必ず七のものまで得ようとする。──
みさ子 ──
振一郎 とにかく、僕は失礼させて貰うから、皆さんによろしく。──勿論用があったら、いつでも来ていいんだからね。
来た垂帳の方から去ろうとする。みさ子、思わず後を追い、何か云おうとする。が、やめ、元気を失い、詰らなそうに、ぐったりと傍の長椅子にかける。
みさ子 (ひそやかに、独白)ああ、どうして、ああなんだろう……?
長椅子の端に肱をつき、凝っと前を見つめ考えに耽る。やがて、寂しさに堪えられないらしく、急に立上り、書棚の傍のベルを押す。きよ登場。
きよ お呼びでございますか?
みさ子 ああ、あのね、私の部屋へ行って、やりかけのスティッチを持って来て頂戴な。
きよ はい。(去る)
みさ子所在なさそうにヌックの方に行き、腰を下して、花壺の花をいじる。寧ろ、心は内へ内へと沈み、指先だけが無意識に微かな運動をするという風。
きよ、愛らしい紅色の繻子張小籠を持って来る。
きよ これでよろしゅうございますか?
みさ子 有難う──鋏があったかしら(籠の中を一寸検べる)ああ、これでいいわ。それからね、お客様がいらしったら、直ぐこちらへお通しして頂戴。私ここにいるから──
きよ はい──。先ほどのお菓子は、いつものお皿でよろしゅうございますか?
みさ子 ああいいわ、あの花のついた方ね。
きよ、軽く会釈して行きかける。
みさ子 あ、きよや、旦那様は何をしていらっしゃるの?
きよ (立止り)さあ……先ほど、御書斎の方においで遊しましたが……
みさ子 それならいいのよ。有難う。
きよ、去る。
みさ子、卓子の上の小籠から、白い、センター・ピースを出し、ぽつぽつ縫取を始める。けれども、心は落付かず、折々凝っと、細い指に嵌った結婚指環を眺めたり、我と我心をなだめるように、髪を撫であげたりする。感じは内に満ち、満ち、而も、表すに途のない素振り。ほどなく、垂帳の裏から、
きよの声 奥様?
みさ子 (頭を押えていた手を落し)なに?
きよ (部屋に姿を現し)橋詰様がいらっしゃいました。
みさ子 おひとり?
きよ いいえ、あの……
云い切らないうちに、足音。若い男の声。
谷 僕も一緒ですよ。
谷三郎、橋詰英一、連立って快活に現れる。
谷 やあ! 今日は。
みさ子 (ひとりでに、活々とし)まあ、よくいらしったわね。今日は。
英一 今日は。
みさ子 先ほどは、お電話をありがとう。
英一 どう致しまして。
谷 実はね。あの電話は、僕がせっついて掛けさせたんですよ。たまに上るのに留守をくわされては堪りませんからね。
谷、英一、各々ほどよい処に自分で席を定める。
みさ子 (縫取を片づけながら)そうだったの? 大丈夫よ。私共が二人で留守をすることなんか、一年に、ほんの数えるほかありはしないわ。
英一 然し、何にしろ、素晴らしい天気だからな──戸外は、なかなか暑いですよ。──一寸そこをあけてようござんすか?
みさ子 ああ、どうぞ。ほんとにね、ずくんでいるもんだから……
英一、フォールディング・ドーアの一方を開く。
みさ子 (其方に顔を向け)ああ好いこと。まるで夏のようね。
英一、席に戻る。
みさ子 この頃はいかが(笑顔で二人に)相変らず?
谷 別に目醒ましいほどのこともありませんね。教師は教師で、生活難で萎縮し切った講義をやるし、学生は学生で、浮腰だし……(それとなく室内を見廻す)
英一 おまけに君は、中で一等の遊動体だろう(笑う)──それにしても、随分会いませんでしたね。あの音楽会は、何でも正月頃だったでしょう?
みさ子 もうそうなること? ミス・ペブロスカの時だったわね、あれは──
英一 ざっともう半年だ。あなたの方にこそ、興味津々たる話があるでしょう?
みさ子 (笑わず)そう見えて?
英一 (稍てれ)詰問されても困るけれど……(苦笑)相変らずですね。
きよ、茶菓を運んで来る。皆黙っている間に、配り終り、静に退場。沈黙を破り、
谷 (みさ子に)奥平さんは? お変りなしですか?
みさ子 ええ有難う。相変らずよ、表ばかり拵えているわ。
谷 はは、表ばかり! か。──(さりげなく)ほかにお客様はなしですか?
みさ子 なし。ある筈だったんだけれども──
英一 (急に大笑いをする)ははははは。三郎、到頭兜を脱いだな?
谷 ──(知らぬ振り)
みさ子 いやね、いきなり。どうなさったの?
英一 何ね。(谷を顧み)いいだろう? 云っても──。
谷、わざと煙草の環をふく。
英一 昨日、或る友人の処へ行ったらね、吉沢のお嬢さんの噂が出てね、わあわあ云っていると、その男の妹が、あの方なら、あなたの親友だ。きっと今日あたり、奥平さんの処へいらしってよ、なんかと云ったものだから……
みさ子 まあ! それで来て下さったの? (谷の方を向き、わざとおどけ)どうも有難う。
谷 (笑いもせず)いや、どう致しまして!
皆、笑い出す。
谷 で、どうなったんです? 来ないんですか!
みさ子 ええ、おやめになったの、いつか静かに二人きりで話したいからって。──(真面目に)あの方も近頃は、結婚問題や何かで、随分苦しんでいらっしゃるのよ。余り美しい方だもんで、却って、種々いやなこともおありになるのね。
谷 それで、結婚生活では、少くとも半年の先輩であるあなたに、指導を仰ぎたいという訳ですか?
みさ子 (谷の一種の調子には頓着せず)黙って独りで考えているよりは、私にでも話して相談して見たいとお思いになるらしいの。無理もないわ。──お父様だって、お母様だって、お金こそ沢山おありなさるけれど、随分変な方なんですもの……
英一 両親がそんなで、娘が評判の美人では、悲劇だね。
谷 我々が来るんじゃあ、しんみりしないからということになったんですね。
みさ子 まあ、そういうことね。──でも、(間)私、どうせ、御相談は受けても、それほど頼りになる決定なんか与えてあげられる処ではないと思っているわ。
英一 どうしてです?
谷 珍らしい弱音ですね。
みさ子 (二人を見)ほんとよ。却って、結婚しないうちの方が、頭でだけ考えて、明快に、善、悪でも云ったと思うわ。事実に入って見ると──難しいんですもの。まるで、概論じゃあ、行かないのよ。例えば、相手の人の人格とか教養とかいうことだってもね、それは勿論、何かの標準にはなるに違いないけれど、友達と良人とでは、何だか、まるで違うものが現れて来るのよ。──ね、そうお思いにならなくって?
英一 さあ──
谷 そこまで行くと、我々は未丁年ですね。
みさ子 (考えつつ)結婚生活では、普通、正しい人間とか、善い人とか云っている、もう一重底の蕊が現れるのじゃあないかしら。うまく云えないけれども。つまり、こういうことになるのね。或る人が、誰にきかせても、正しいとほか云われないような考えを持っているとするのよ。考えよ。友達の間は、或る程度まで、その考えだけで、つき合い調和して行けると思うわ。けれども、結婚した生活では、その考えと、実際の物事に触れて起って来る、その人のしんからの心持とが、どの位ぴったりしているか。それが直接の問題になって来るのね。だから、いくら、その考えが、思想なり、理論なりとして間違ったものではなくても、自分が、事実、胸ではこだわっていながら、正直にそれを見ないで、自分も相手も、ただ理攻めにしようとするなんか、ほんとに堪らないわ。
谷 (真面目になり)あなたの話しようが、ひどく抽象的だが、人間が純粋か不純粋かということが、第一の問題だということでしょう?
みさ子 そうね、そういうことになるでしょう。
谷 昔から、殴られても、実意のある亭主が好いというのは、そこでしょう。
みさ子 ──とにかく、厭なら厭、好いなら好いで、蕊に一点の曇もないような人があったら、どんなにいいでしょうね。言葉の奥を考えずに、そうと云っただけで安心していられるようだったら……
谷 (しげしげとみさ子を見る)あなたもだんだん大人になりますね。
みさ子 (片頬笑む)──だから、朝子さん、吉沢さんね。あの方のことだって、私が、何も権威あるらしい口は利けないのよ。お互に、学校の成績とか、手腕じゃあないわ。内の内の、内のものを、見極めなければならないんですもの。──各々の直覚、心の力と、運。ね?
谷 ところが、どれほど鋭い天稟の直覚を持っていたって、多くの場合、日本の現在の状態では、その触角を動す余地さえ、ないじゃありませんか。いやしくも、わが心のエッセンスを凝して、その底までしみ入ろうとするような価値のあるサークルは、皆、煉瓦の塀で囲まれている。少し云い過ぎかもしれないが、僕から見れば、あなただって、自由が最も必要な時期がすんでから、その必要を高唱し得るのだ。びっくり箱の蓋を開ける前に、中から大凡どんな形のものが出るか、予め教えて下さっただけ、他人の親より、あなたの御両親は優種だった。
みさ子 奥平と交際させてくれたこと? 比較すれば、有難く思わなければいけない訳ですわね。だけれど──(苦笑)奥平もその時は、未婚者で、私の家に遊びに来て、まさか──数字ばかり書いてもいられなかったでしょう。
谷 はははは。然し、何ですね──(躊躇する)
みさ子 (無邪気に)なに?
谷 いや──
みさ子 ──(次第に亢奮が鎮る。先刻から自分と谷とばかり喋っていたのに心付き)まあ、随分ひどい御主人役ね、一人で喋り込んで。
(先ほどから、硝子扉の傍の椅子にかけ、独りでレコードを見ている英一に)
みさ子 どう? 何かお気に入りそうなのがあって?
英一 大分殖えましたね。
みさ子 シャリアピンやなにかのが来たからでしょう?
(立って、英一の処へ来る。英一椅子から立ち、みさ子を掛けさせる。余り浮かぬ顔。ヌックの方で、こちらに背を向け庭を見ている谷の方を一寸見、低声に)
英一 あれに、矢鱈なことを云ってはいけませんよ。
みさ子 (かがんでレコードを調べていた手を止め、仰向き、訝しげに)何故?
英一 (尚低声に)あいつは危険だ。ドン・ジュアンだもの……
みさ子 (笑う)平気よ。(改まり)私、誰にきかれたって、悪いことなんか云いはしません。
英一 あなたはその気でなくたって──
みさ子 いいのよ。(気を悪くし)じゃあ、貴方は、二年も前から、そんな人を、私のお友達にさせた訳?
英一 (言葉なし。みさ子が取ろうとするレコードを手早く抜取ってやる)──遣りますか?
みさ子 どう?
英一 いいでしょう。
英一、把手を廻し、針をつけなどしてレコードをのせ、蓋をする。
みさ子は、椅子の上手よりにゆっくりと靠れ、英一は反対の腕に軽く腰を休ませて聴く。谷、煙草を持ち、時々歩き、立ちどまり、凝っと、みさ子の集注した横顔を見守る。暫くの間、ピアノ、ヴァイオリンの前奏。
谷 何です?
みさ子 (その方は見ず、低い声で)アディオ。
静かな、明るい部屋の裡に、伊太利の小曲が、感じを以て満ちる。
戸外では、雲が湧いたと見え、微かな陰翳が、輝やいたフォールディング・ドーアの面を過ぎる。歌、終る、沈黙。やがて、聴とれていたみさ子が、感動の溜息とともに頭を擡げる。
みさ子 いいじゃあないの?
英一 何にしろ伊太利語は響がいいな。
みさ子 ほんとにいいわ。(詩句を暗誦する)
Caden stanche le foglie al suol, Bianche strisce serpon sul l'onda, ……
歌えたら、どんなにいいでしょう!
谷 稽古なさい。
みさ子 駄目よ、私の声は。──ね、だけれども、誰でも、時々、種々のことを感じて、感じて、もう歌でも歌わずにいられないようになることがあるでしょう?
そんな時、はあっと、すっかり自分の心持を歌いつくせたら、どんなにか嬉しいだろうと思うわ。私なんか、自分の感動を、まるで現わせないんですもの(だまろうとし、また、我知らず云いつづける)もとなんか、一寸悲しいことでも考えて、涙を一粒こぼせば、すっかり気分が変ってしまったけれども、この頃は──(独白的になる)だんだん、だんだん胸が一杯になって来るばかりですもの。歌いたいわ。ほんとに歌ったら好いと思うわ。歌って、すっかり私の悲しさや、寂しさや種々なものを、みんな空へ溶かしてしまうの……
谷 みさ子さん。歌えないでも、あなたの寂しさや悲しさが飛んで行ってしまう法を教えてあげましょうか。
(英一、きっとして谷の方を見返る。谷、関せず。)
みさ子 (自分の考えに沈んだまま、漠然と)何なの?
谷 奥平さんを、もっとあなたへ引つけて置くんです。心持の上でね。
英一 (嫉妬を感じるように)おい、詰らないことを干渉するなよ。みさ子さんだって──
谷 一人前の淑女だ、というのだろう? 決して失礼なことを云いやしないよ。僕だって一箇の人間だからね。(声を大きくし)ね、みさ子さん、あなたは自分の歓びも悲しみも、ただ奥平さんにだけ的を置いていらっしゃるでしょう?
みさ子 (単純に)そうよ。
谷 だから、奥平さんは、平気であなたを打っちゃって、青だの、赤だの1.2.3.ばかり書いていらっしゃるんです。
みさ子 だって──私は、奥平ほか──奥平だからこそ、一緒に楽しんでくれればほんとに嬉しいんだし、そうでなければ淋しいんだわ。ほかの人なんか──いくら私を放って置いたって平気よ。
谷 実にはっきりしたもんですね。(笑う)然しね、これは、青二才の僕が云うのじゃあなくて、ちゃんとした大学者も云うことですがね、異性間の感情というものは、決してそれほど簡単明瞭に片の付かないものなのです。だから御覧なさい、あなたの方こそ、そう、はっきりしているけれども、それが果して奥平さんの胸にどれだけ響いているか、疑問でしょう?
みさ子 ──それは解らないわね。安心しているのか、もうどうせ他に向きようもないときめて、放って置くのか、……。
英一 (突然、口を挾む)こういう問題は、議論すべきものじゃあないと、僕は思うね。時間が自ら証明する。まして、みさ子さんなんか、失礼だけれども、結婚してから、半年ほかほど経たないんだもの。傍から攪乱するようなことは……。
谷 ──攪乱は穏やかでないね。──君は、みさ子さんが、僕の一寸云うこと位で支配される人だと思うのか?
英一 (曖昧に)そうじゃあなかろうさ。然し──
谷 それに、夫妻というものだって、どれほど、鶴と亀とでお伽噺にしようとしたって、結局生きている人間の、男性と女性との生活だろう?
英一 そんなことは定っている!
谷 それなら、一般論として、男性女性の相対的関係を話したって、どこに悪い処もない筈だ。
英一 (焦々し)一般論に止っていればよいさ。然し僕は……
谷の、耀いた、冷静な眼で見つめられ、英一、むしゃくしゃとなる。
谷 仕舞まで話させてくれ。──それでね(みさ子に向い)人間は通性として、反動的なものです。自分が、何なく手に入れられ所有されると定ったものには、何といっても興味が薄れ、無感興になってしまうが、どうも難しい、余程の忍耐や手段を講じなければ、到底指も触れられないとなると、たとい、実際そのものの価値は低くても、人間は熱中し夢中になる。だからまあ、選挙などというものが、飽きもせず亢奮的な訳でしょうがね。──同じ心理が、矢張り、異性間の感情にもあるのです。
みさ子 (率直に)思わせぶりがいいの?
谷 まさか!(苦笑)そればかりということじゃあありますまい。──然し、夫婦の感情が鈍重になるのは、確に一つは、互がもうすっかり互の所有になりきって、動きの取れない処にあるんだろうと思いますね。一方からいえば、もう死ぬまで、厭でも応でも、この男、この女、と定ってしまった処に──現在の社会では、定めるべく余儀なくされる処に、第一の苦源があるんです。だから、双方の感興、新鮮さを溌溂とさせて置くためには、どうしても感情的変化に富んでいなければならない──或る不安、緊張、亢奮が薬になるんです。
みさ子 (真面目にきき、考えつつ、疑わしそうに)そうお? そうかしら──そういう胸のわくわくするような心持は、恋人同志の時代のものじゃあなくって? 若しかしたら(笑う)恋人前期よ。恋人だって、お互のほんとの愛がわかり、信じられたら、そんなに気は揉まないんじゃあないかしら。勿論、相手の人が、どれだけ自分を愛してくれるか、まして、好きか嫌いかさえ解らないうちなら、不安にもなり、緊張もするだろうけれど。
谷 結婚してしまうと、男も女も、皆そういう楽天家──凡庸主義に堕してしまうから、生活が重荷になるんですよ。大抵の女の人が会って面白いのも、結婚する迄じゃあありませんか。一旦、奥さんになったとなると、誰某アンネックスで、まるで気抜けになってしまう。
みさ子 だけれども、生活が気持よく行くというのは、ただ相手の技巧や「面白い人」許りではなくってよ。面白い人間という人なら、ざらにあるわ。ちっとも面白くない人だっていいから、気持の満干が、ぴったり両方で合うということが大切だと思うわ。
谷 気持の満干そのものが、既に感情の弾力じゃあないかな。活々した流動を起すには、いささかの冒険、心もとなさが、入用だというのです。
みさ子 貴方は──こうなのね。この人が厭で詰らなければ、また別な人、という人の方が変化があるとおっしゃるんでしょう?
谷 たとい、実際行ってしまわないでも、それだけ張のあるということですね。
みさ子 まあ一寸風をする、というの? いやあね。私そんなのは嫌いだわ。行くんならほんとにさようならをするほかない、いるんなら、どんなにでもしている。──
谷 それで──あなたは後の方だ、とおっしゃるんでしょう?
みさ子 (殆ど痛ましいほどの顔をし)あの人ほか私に大切な人はいないんですもの。
谷 その大切さを奥平さんにも感じさせるためには、あなたが、もう少し彼の方を、はっ、とさせなければ駄目です。自分の心には、今二つの愛がある。そのどちらを取るかというようなことで、彼の方を、もうちっと反省させ苦しませて上げるのです。しんから、ほんとの愛が輝き出すか、詰らない石ころが転り出るかを、知るためにね。
みさ子 (絶望的な烈しさで)私二つの愛なんかありはしないわ。たった一つよ。(思い切って)奥平が可愛いだけだわ。あの人に可愛がって貰いたいだけだわ。
谷 だから、それほどの愛に報いられるためには。
二人の会話をきき、歩き廻っていた英一、殆ど、顔色を変え、
英一 谷! やめろ。まるでみさ子さんを苦しめているじゃあないか!
谷 (微かな亢奮を持ち)苦しめるのじゃあない。終局に於て、持っていられる感情を、一層純粋に生かすためだ。
英一 傍で聞いては、まるで誘惑しているとほか思えやしない!
谷 ──橋詰。君の態度は、失敬ながら、崇高じゃあないよ。他人を非難することは、何も自己の優越を表しはしない。──(英一を見守り)男一人の心、で当ったらいいじゃあないか。(独白的に)君のみさ子さんに対する友情はよく判っているよ。
英一、みさ子の方をちらりと見、あわてて何か云おうとする。みさ子、二人の会話はきかず、掌に顎をのせて考えている。この時、さっと立上り、考えを変えようと、頭を振り。
みさ子 さあ……もう議論はやめ。──紅茶でも入れさせて来ましょうね。(去る)
沈黙、穏やかでない雰囲気の裡に、谷、英一、顔を見合せず、動かず、幕。
第二 庭
常緑樹の深い植込み。間を縫って、奥の方に小径があり、上手、屏風のように刈込んだ檜葉の下には、白い石の腰架が一つある。
傾いた午後の日が、穏やかに明るく、緑樹の梢、腰架の縁などを燦めかせる。
幕開く。
みさ子、谷、上手の方から悠くり連立って出て来る。
みさ子 あの薔薇だって、爺やが丹精してくれるから綺麗に咲いたのよ。私も、奥平もいっこう構わないんですもの。
谷 ここはいつも気持がようござんすね。(四辺を見廻し、腰架に掛ける)
みさ子 (離れて立ったまま)英一さんはどうしたんでしょう、直ぐ来るって云いながら──
谷 奥平さんに用があるんでしょう。(皮肉な調子)
みさ子 奥平に? そう? ちっとも知らなかったわ。それならそうおっしゃればいいのに──。妙な人!
谷 そう、くささずに置いてお遣りなさい。あの男は、あなたのことといえば、真剣なんだから。
みさ子 ──(意味を解しかねて谷の顔を見る)
谷 僕が、あなたに勝手な熱を吹くと思って、お冠を曲げたのですよ。然し……あの男の思うほど、僕は「不良」じゃあありませんよ。これでも──(調子を変え)実際、今日のような話が、あなたと出来るとは思いませんでしたね。
みさ子 (谷の心持が解らず)どうして?──別に、何にも、人間のしない話をしたのじゃあないわ。
谷 ──一年昔のあなたは、幸福過て、思いのままでありすぎて、僕なんかには眩しいようでした。却って、薄すり雲の湧上った今の方が、遙に人間的で、あなたの情熱も純粋さも美しく見える。(みさ子の顔を見る)
みさ子 (漠然と不安を感じる)何を云っていらっしゃるの。美しければ美しいほど猶結構じゃあないの。──さあ、裏へ行きましょうよ、あんなに薔薇、薔薇って云ってらっしゃった癖に……(谷を促す)
谷 じき行きます。然しね、実際、僕は、いつかきっと今日のような時が来ると思っていたんですよ。まるで、軽風に頬を吹かれて、花束を振るようなあなたが、いつか、自分の愛や、人間の愛ということに就て、深い疑や苦しみを味うようになるだろう。そうしたら、始めて、私の、あなたに対して持っている心持も理解して貰えるだろうとね。
みさ子 (疑わしそうに、凝っと谷の顔を見守る)私、自分の苦しみや寂しさを、たとい、誰にでも、利用されてはいられなくってよ。
谷 まるで異う。一つの道から、もう一つ先の、明るい、輝やいた路へ出る手助けを、僕ならさせて頂けると信じていたのです。僕の、あなたに対する愛は──云うことを許されれば──恐らく、あなたの御良人のように、所有慾から生れたものでもなければ、英一君のように、自分の無力を偽善で被うたものでもありません。あなたという人を心にも体にも、美しさ、愛らしさの絶頂に置いて見たい。何からも自由にし、私が陰から照らす光りで、あなたを、漂う金色雲のようにしてあげたいのです。
みさ子 (不快と畏れとを示し)貴方はいやね。そういうことをおっしゃるために、わざわざ薔薇をだしにお使いになったの? 私、こそこそ話は大嫌いよ。それに(力を入れ)──私は、ちっとも、貴方になんか助けて頂こうとは思っていなくってよ。また貴方こそ、私をほんとに愛して下さる方だとも思えやしないわ。芝居はやめ! お友達か? そうでないか? それっきりよ。
谷 奥平さんの存在を、直ぐ頭に持って来るから、あなたはそうむきになるんだ。そうでなく、深く、冷静に、人間の感情生活ということを考えて──抑制と爆発は、決して別々なものじゃあない。いつか……
みさ子 貴方──貴方は、私のしんの心持が解った積りでいらっしゃるの?(静かに、寂しそうに)若しそうだったら、大違いよ。奥平さえ解ってくれないんですもの。私位の年の女が、一旦可愛いと思ったらその人のためにどれほど全心を集注させるか、そのために歓び悲しむか、大抵の男の人になんか、わからないんだと思うわ。選択以上なのよ。たった一人っきりなの。見限って棄てられる愛なんか、まるで、まるで遊びだわ。よかろうが、悪かろうが、その人の可愛い自分の心を、どうしようもないから、苦しむのじゃあないの?
谷 そういう心持も、僕は時間と程度の問題だと思うな。人間が愛されずに生きて行かれますか? まして、あなたのように暖い、愛されたい人が。
みさ子 谷さん! それだけで、もう貴方が、どんなに私から遠い人だかがわかってよ。どうして、私が求めても得られないで苦しんでいる愛を、そう惨酷に摘発なさるの?
──もうおやめなさい。──お友達にしたって、変な、いやな気持になってしまうじゃないの。
みさ子、歩きかける。
谷 まるで子供扱いでは、僕も云いようがなくなります。然し──みさ子さん、これだけは云わせて下さい。愛には、勿論、種々様々な形と内容とがありましょう。けれども、結局、鳴らぬ笛は、鳴らぬ笛なのです。──(腰架から立つ。)それでは、裏へ行って見ますか?
みさ子、黙って先に立って行く。
殆ど、入れ違いに、下手から、英一、奥平、低声に話しながら出て来る。
英一 (圧えた声調で)──実際、僕としてこういうことを云うのは苦痛です。一方では、谷との友情を裏切ることになるし、また、貴方に対しては、そんな責任のない交際を始めさせたという点で。けれども、貴方が、僕にかけていて下さる信頼を思うと、つい黙っていられなくなったのです。
奥平 (陰鬱に)いや、有難う。御厚意は感謝します。
英一 (奥平を偸見)けれども、くれぐれ、僕の申上た点を誤解なさらないで下さい。これだけは、僕一生の願いです。僕はただ、みさ子さんが、まるで無邪気で、子供のように思ったことを云うのに、それを間違っても、あの男になんか悪用させたくないから、御注意したのですから。
奥平 (神経的に)実に人間の心などは頼みがたいものです。自分は、自分のよしとするところを実行するほかない。(考えに沈み、両手を兵児帯の後に挾み、彼方此方歩く)彼女が、心に確かな根柢の出来ていないことは、私も前から知っていました。よく云いもしたのだ。いつかこんなことでも起らねば好いがと思っていたが……
英一 (絶えず不安そう、奥平に近より)ね、奥平さん貴方はほんとに誤解していらっしゃるんじゃあないんでしょうね。何も、不名誉な事実なんか決してあるんじゃあないんです。ただ、
奥平 誤解はしていない積りです。──然し、事実というものの範囲を、どこまでに限ったら好いか。
英一 貴方の立場として、どれほど不愉快に感じられるか、僕は御同情します。けれども(俄に)みさ子さんに、不当な監督なんかなさりはしないでしょうね。
奥平 (投げたように)彼女は、彼女のしたいようにすれば好いのです。私は、それをとやかく云う権利はない。
英一 (呟く)何だか不安だな。恐ろしいことになりそうだ。奥平さん、どうか、僕にだけ、貴方の取ろうとなさる方法を話して下さいませんか。ひどく不安心です。
奥平 私が、自分の心持なり考えなりを、小説家のように巧く云い表せれば、何も面倒はないのです。私は、喋れない。思ったこと、考えたことを実行するだけだ。また、それでよいと思っています。黙っていて解ってくれないような者に、何も自分から説明する必要はない。──君は、とにかく私の信頼する一人の友人として、自分の責任と思うところを果されたのだから──どうぞ安心して下さい。なるようにほかならない。
英一 (猶圧迫を感じ)けれども……
奥平 人生は、快楽のために出来ているものではないのです。生きている間じゅう、苦しまなければならないのが、人間だ。与えられた杯なら、飲まなければならない。
英一 どうぞ、貴方もみさ子さんも傷つけるようなことはなさらないで下さい。──実際、僕は、何もみさ子さんまで……
奥平 ──(陰気に光った眼で、じろりと、臆病な英一の顔を見る)
突然、背後の植込みの蔭から、甲高く、はっきり、
みさ子の声 いやよ!
奥平、英一、思わずぎょっとするところへ、みさ子、足早に出て来る。二人を見、
みさ子 まあ、貴方もいらしったの?(嬉しそうに、奥平の方によって行く。)
直ぐ後から、谷、両手をポケットに入れ、眉を顰めて来る。
英一 (意を迎えるように)どうだね。いい花があったかい?
谷 (英一を見、奥平を見、鋭く)花なんかないよ。昔話だ!(さっさと一人で通り過ぎようとする)
英一、不決断について行こうとする。その時、ただならない奥平の声が、彼を振返らせる。
奥平 (近づくみさ子を避けるように、二三歩動きながら)──私に構わず置いてくれ!
みさ子、驚き、良人、英一、谷と、順に顔を見る。英一、頭を動してその視線を避け、見向きもせずに彼方に行く谷の後から、救いを得めるように、蹤いて行ってしまう。みさ子、再び、良人を眺める。
みさ子 貴方──どうなすったの?
奥平 …………
みさ子 ね、どうなすったの?
奥平 (傍を向き)悲しいことに、私も人間だから、自分と直接、関係のある者の行為には、心を支配されるのだ。
みさ子 ……(苦しそうな表情となる)……。
奥平 私は、就くものはつき、離れる者は時が来れば離れずにいないと思ったから、別に云いもしなかったのだが……。今でも、私は何の制限も、あなたに加えてはいないよ。断って置くが……
みさ子 (実に驚き)まあ、貴方! 何を思ってらっしゃるの? 何を感違いしてらっしゃるの?
奥平 何も、感違いなんかしていない。事実は、事実だ。
みさ子 (一層、良人の傍により)私が何をして? 貴方。──(思いつき)ああ、今私があんな大きな声をしたのを変に思っていらっしゃるんじゃあないこと? 何でもないのよ、あれは。谷さんが、今日は妙に感情的だから、もう散歩なんか一緒にするのは、いやよ、と云っただけなのよ。
奥平 (険しい眼付きをし)感情的には誰がしたのだ。
みさ子 (良人を仰ぎ)貴方!
奥平 独身の、あんな生若い男に、若い、結婚したばかりの女が、自分の生活の不満や苦痛を訴えるのは、何を意味するか。考えて見たら、誰にでも解るじゃあないか。
みさ子 (思いがけず。却って落付き)聞いていらしったの?──却ってよかったわ。でも──立ち聞きをなさるなんて──(消え入るように)何て方でしょうね。
奥平 英一君に聞いたのだ。
みさ子 (はっきりと侮蔑を感じ)あの人が? 何て云ったの?
奥平 そんなことを、今ここで再び繰返す必要はない。ただ──私は──僅かの間でも、あなたの良人であったことを気の毒に思うよ。適当な人間ではなかったのだ。少くとも、あなたの悦ぶ男ではなかったのだ。然し(刺すように)誰一人私にそのことを知らせてくれる者はなかった!
みさ子 (蒼くなり、良人の手を掴み)貴方! 後生だから、その変な、貴方の頭にあるものを棄てて頂戴! ひどい思い違いをしていらっしゃるわ。何ていうことだろう。私は、これっぽっちだって、谷さんなんか愛していやしなくってよ。
奥平 (疑い深く)どうしてそれが断言出来る? 自分が侮蔑し、価値を感じないものに、あなたは自分の苦痛を訴えるか? 下男に泣言が云えるか? 自分が、より好意を感じている者に対してでなければ、人間は、決して自分の弱点は示さないものなのだ。
みさ子 ──私は、ちっともそんな風には考えなかったわ。私の苦しみは、私の弱点? 私は、ただ、もとから種々なことを話して来た友達に、自分の心持ちを云っただけだのに。──
奥平 つまりそれほど、心の親しみが深いということになるのだ。離れ難く思うからこそ、どんなに境遇が変っても、その友情だけは、保って行こうとする。──(堪え難いように、ばしばしと)私は、はっきり云って置くがね、決してあなたの重荷となる積りはないのだ。私はいつでも、悦んで、あなたに自由を与える。よく考えて、遠慮はいらないから、自分の行きたい道を進めばよい。ああいうこともあった、と私は万事を、過去に埋めてしまおう。それが一番いい。私には──私の書斎がある。……
みさ子 (涙をこぼし)そうよ! 貴方には貴方の書斎がある。だから、そんなことをおっしゃれる。自分が、どんな大間違いをしているか、考えようともなさらないで、よく貴方は、そんなことがおっしゃれるわね。……私には……私には貴方っきりほか、ありはしないわ。何も、ありはしないわ。だからこそ、貴方になんか、相手にもされない苦しみをもするのじゃあないの。
奥平 (冷やかに)愛は、苦しい筈のものではないよ。愛し難い者を愛そうとするからだ。
みさ子 (首を振り)いいえ。いいえ。どれだけ、私が可愛いか、貴方が判って下さらないからよ。
奥平 ──私は、若し強いられたのなら、たとい、事実上過ちがあったとしても、許す。けれども自分から、自分の心も相手の心も翻弄する人間との関係は堪えられない。──苦しめられたくないのだ。──いくら、価値のない人間でも自分の魂の平安を守る位の権利は与えられているだろう。
みさ子 (涙と一緒に奥平の手を揺すり)ああ。貴方は恐ろしい方ね。言葉の裡にある真実を、ちっとも聞こうとはなさらない。ね、どうしたら、私の心がわかるの? どうしたら嘘を云ってはいないのがわかって?
奥平 事実が言葉と合致すれば。
みさ子 だから、さっきから云うじゃあないの? 私は──ああ(激しく泣く)云うのさえいやだわ!
奥平 人間には、言葉以上に微妙な世界があるものだ。まして、異性間の感情には。──あなたは、谷を愛していないと云う。或は、事実だろう。然し、一方に、私は、また、愛している事実も認めずにはいられない。(憤りをはくように)愛します、と誓った愛が嘘になる時もあるように、愛さない、という愛が、却って真実なこともあるのだ!
みさ子 ああ。ああ。こんなに愛しているのに。貴方には! こんなに、可愛いのに!
みさ子、泣きつつ、子供のように自分の額を、良人の手に擦りつける。
奥平 (苦々しげに)亢奮が、何の解決になるのだ。……
みさ子、頭を擡げる。良人を見、絶望でくい入るように、
みさ子 ああ、貴方は開かない扉よ。叩いても、叩いても開かない扉よ。──私はどうすればいいの?──人間は、言葉でほか、自分の心が表わせない。(烈しい歔欷。)その言葉を信じられない時。──(蒼白な顔となり)昔の女の人は死にました。私が死ねなかったら──。貴方は、それ見ろ! とおっしゃること?(良人に、じりじりと迫る)それ見ろ! 谷を愛していたのだとおっしゃること?
奥平の手を掴み、そのまま凝固したように立ち竦む。恐ろしき寂寞。一秒……二秒……さっと 幕。
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
2003年6月29日修正
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